◎関根門下の双璧、木村義雄と根岸勇
本年1月21日、当ブログに、「そう言えば一度、怖い目に会った(山本茂男)」という記事を寄せ、その中で、山本茂男さんのうエッセイ「茅ケ崎だより――最近の木村十四世名人」の一部を紹介した。
そのエッセイの中で、山本茂男さんは、木村義雄名人について、次のように語っている。
そう言えば一度、怖い目に会った。昭和五二年〔1977〕の初夏『木村名人実戦集』を全三巻として出版する計画をたずさえてうかがったときのことである。棋書研究家の越智信義氏に同道を願って、茅ケ崎のご自宅へ伺候した。
当初の考えは、既に発表された新聞や雑誌の解説によって木村将棋を集成してみようというものであった。菅谷北斗星〈スガヤ・ホクトセイ〉氏、金子金五郎〈キンゴロウ〉氏の観戦記、それに名人御自身の筆になる自戦記もある。あれこれ集めれば、一五〇局にはなるだろう。脳血栓という病の予後のことであり、書き下ろしの解説など思いもよらないことであった。
文中に、「名人御自身の筆になる自戦記」という言葉がある(下線)。本年1月に引用したときは、注釈できる基礎知識がなかったが、これは、1930年(昭和5)に誠文堂から発行された木村義雄著『木村義雄実戦集』のことである。
実は先日、世田谷区内の古書店で、その『木村義雄実戦集』を入手した。本文658ページ、古書価300円。奥付を見ると、「昭和五年八月五日発行」、「将棋大全集/木村義雄実戦集」、「非売品」、「発行者 小川菊松」などの文字がある。
「将棋大全集」というのは、1930年以降、誠文堂から発行された全集で、全12巻とされる(インターネット情報)。国立国会図書館のデータによると、「木村義雄実戦集」は、その第一巻にあたる。なお、国立国会図書館に収蔵されているのは、全12巻のうち、第一巻から第六巻までの6巻のみである。
さて、『木村義雄実戦集』は、「序」、本文(自戦記)、「自叙伝略」から成っている。本文(自戦記)はさらに、「平手篇」「香落篇」「角落篇」「飛落篇」に分かれる。
それぞれ、非常に興味深いが、本日は、「平手篇」の冒頭にある「二段 根岸勇氏との対局」から、【註】のところを紹介してみたい。〔 〕内は、原ルビを示す。
大正八年三月九日/東京朝日新聞掲載/於 麹町平河町 関根八段宅
平 手
二段 木村義雄/先 二段 根岸 勇
〔前略〕
【註】根岸氏は私〔わたし〕と同僚で同じく現名人〔関根金次郎〕の薫陶を受けた。二段当時は、実を云ふと、根岸氏の方が私より強かつた。然し、私は家が貧困であつて、早くから手助けをしなければならない為に、当時やつと初段位〔ぐらゐ〕であつたと思ふ力だつたが、二段から新聞将棋が指せるといふので、前途進歩の見込があるからと云ふ意味で特に二段を授けられてゐたのである。それでも大駒落〔おほごまおち〕となると力の懸隔が甚だしいから存外好成績を収めてゐた。年が同じ十六歳で、根岸氏にかゝると何時〔いつ〕でも負かされた。悔しいが「実際問題として力が不足なのだから、この上はうんと勉強して根岸氏に勝つより外〔ほか〕はなく、根岸氏を破らなければ、如何〔いか〕に好成績を収めても昇段する資格はない。」と決心して、その後非常な努力をした結果、数局後は稍々〔やゝ〕勝味〔かちみ〕が現はれた。根岸氏があつて、この時に発憤した気持がそれからずつと後〔のち〕まで教訓となつて、この当時の事を思ひ出すと、云ひ知れぬ心強さを覚えて勉強する気持になる。根岸氏は病〔やまひ〕を得られて、四段にして帰郷されたが、全くの好敵手を失つた当時は寂しかつた。現在の様〔やう〕に棋道が長足の進歩をして、空前の隆盛を来した時根岸氏の姿が棋界に見えないのは返すがへすも残念である。兎に角私が現在の栄誉を荷ひ得たのも当時に根岸氏と云ふ好敵手がなかつたら、かく早くはなかつたであらうと思ふ。〈13~14ページ〉
インターネット情報によれば、根岸勇四段は群馬県出身で、年齢は木村義雄と同じ。木村とともに関根門下の双璧と称されていたが、脳をわずらって早世したという。