礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

序盤は、研究の深い金子氏の術中に陥ったが……

2024-05-30 03:00:37 | コラムと名言

◎序盤は、研究の深い金子氏の術中に陥ったが……

 木村義雄著『木村義雄実戦集』(誠文堂、1930)を紹介している。本日はその二回目。
 本日は、「平手篇」の二番目にある「四段 金子金五郎氏との対局」(大正九年九月)から、【総評】のところを紹介してみたい。【 】は原ルビ、〔 〕内は引用者の注を示す。

 大正九年九月/優勝争ひ棋戦/於 国民新聞社楼上
 平 手
 四段 金子金五郎/先 四段 木村義雄

〔前略〕

【総 評】この将棋は、私の過去の歴史に、慥【たし】かに光輝を放つ一局であると信ずる。当時は、関根〔金次郎〕名人を主催とする東京将棋倶楽部と、土居〔市太郎〕八段を中心とする将棋同盟社、尚、それに、大崎〔熊雄〕氏、溝呂木〔光治〕氏一派の将棋研究会の三派に別れてゐて、各自【おのおの】、受け持の新聞以外、他の棋士とは、殆んど手合【てあひ】がなかつた。(研究会と、同盟社とは、この当時既に新聞将棋で戦つてゐた。)稀に、大会とか、特別の手合以外は指す機会がないのであつた。当時の昇段は、現在の様【やう】に、合議的な方法ではなく、昇級の場合は、何でも他の派の者に勝たなければ、許されなかつたし、棋士自身も、此の気持が多分にあつたと思ふ。関根派の新進としては、私と、小泉〔謙吉〕四段があり、同盟社には金子〔金五郎〕四段、研究会としては、飯塚〔勘一郎〕四段があつて、比較的当時の棋界を賑はしてゐた。国民新聞社に関係のあつた故佐藤功【いさを】氏の奔走に依つて、新進棋士の争覇戦【さうはせん】と云ふ意味の下【もと】に、私と金子氏と飯塚氏の三人が各派から選ばれたのである。この対局は金子氏と飯塚氏が戦つて、金子氏が勝つた後に、第二回戦として対局したものである。さう云ふ状態であつた為と、四段当時の潑溂とした元気に敵愾心を煽つて非常に熱心に戦つた。当時の新聞社が写真を掲載する等【など】は、棋界が不振であつた事にも依るが、多くは、阪田〔三吉〕が上京した折の特別手合とか、関根名人と、井上〔義雄〕八段との手合など以外にはなかつた。それを堂々と然も大きく写真を掲げてくれたのは、対局者が熱心であつた気持に動かされたのと、対局其物が当時の人気を煽つたからである。土居八段も溝呂木七段も来場して、その特別な扱ひを羨望した位【くらゐ】である。対局に先立つて、私は先輩に「金子氏は、平手【ひらて】将棋の相懸【あひがゝり】戦には特に深い研究があつて、この順を選ぶ事は作戦上考へ物である。」と云はれたのである。然し、勉強中、困難を避ける事は、却つて自己の進歩と技倆の錬磨を阻【はば】むものであると考へて、先手後手に拘らず相懸の戦法に依るつもりであつた。もう一つの原因は、貧困当時祖母に死なれたので、父から非常に発奮をする様、訓戒された事もあるのである。序盤の形勢は、研究の深い金子氏の術中に陥り、やゝ難色があつたが、金子氏の三三歩成【なる】の手順前後から、僅かに、挽回した形で、以下、努力した結果、中盤戦の八五歩と打つたあたりでは幾分得意でゐたが、五三歩と打たれてからは、更に混戦模様となつて、自信は持てなかつた。然し、五七歩と追求した時、金子氏が同飛と取つたので、五五香打【きやううち】以下手順に有利な局面となつて、幸ひしたが、今、棋譜を調べて当時を想ひ起すと、指した手の善悪は別として、熱心な、真実な、本当に、一局に精神を打ち込んだ後が現はれてゐて気持がいゝものである。この対局の時は、時間制度もなかつたから、金子氏も私も、随分長案してゐる。三日目は、徹夜で行【や】つて、勝敗を決したのは、確か、三時半頃【ごろ】であつたと記憶してゐる。〈24~26ページ〉

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