◎「タミル語は僕の母語だ」ガナパチ課長
大野晋『日本語の教室』(岩波新書、2002)から、(質問4)のところを紹介している。本日は、その二回目。
帰りの電車の中でオクスフォード刊のその辞書を、ちょっとあけて見て行くうちに、私は緊張しはじめました。アイヌ語、朝鮮語、満州語、蒙古語、レプチャ語など、辞書だけなら何種類も読んだことがあります。すでに朝鮮語からは一五〇ほどの例が指摘されていますが、他のどれからも日本語の古語に類似する単語を含むものを見つけることは、ほとんど不可能だった。この『ドラヴィダ語語源辞典』は、ドラヴィダ語族に属するタミル語とかマラヤラム語とかカンナダ語、テルグ語など南インドを中心にして二十余りの言語を扱っている。まず一つの基本となる単語を項目に立て、その基本語と同じ仲間と見られる単語をその項目のもとにまとめ、それぞれの単語の語形と意味が一覧できるように並べてある本でした。項目は五〇〇〇あまり。それを見て行くと、今までに無かったことが起きた。どう見ても日本語と似た形と意味をもつ単語が点々とある。
電車の中でも家に着いてからも、私は吸いつけられるようにべージを繰った。ドラヴィダ語族の中で、テルグ語よりもその南隣りにあるタミル語の方に、日本語と意味も形も似たものが多い。タミル語は使用人口が五〇〇〇万人を超す大言語です。
類似が一目で分る単語の例を掲げます。一つ一つ見較べてみて下さい。
【対応の表は割愛】
ここには二〇語挙げましたが、日本語とほとんどそっくりの単語があることが分るでしょう。こんなことは私の見たどの言語についてもついぞ経験がない。『ドラヴィダ語語源辞典』は世界の研究者がみんな使っている、基本的な、確かな本です。挙げたこれらの単語は、その辞典にあるままの形です。手を加えていません。
しかし辞書だけでは単語の意味の理解に限度がある。そこで私は一語一語をもっと詳しく吟味する必要を感じました。私は『岩波古語辞典』の奈良・平安の部を受け持ち、一九五五年から七四年まで二〇年をかけたことがあります。つまり古典語二万語については一語一語調べたことがあった。それと同じ厳密さでタミル語を扱いたかった。
私はインド大使館に電話をかけました。「大使館にタミル語を話す人はいますか」。返事はイエスでした。それはガナパチさんという課長さんで、わけを話すと、「タミル語は僕の mother tongue(母語)だ。教えてあげる。すぐ来なさい」とのこと。私は例の辞書を小脇にかかえて、すぐ九段のインド大使館に行きました。ガナパチさんにお会いするや、辞書を開けて「ここにこういう単語があるが、もっと詳しくこれのニュアンスを教えて下さい」と質問を始めました。二つ三つしたのですが、彼はどれも説明できません。「いや僕はこの十八年間タミル語を話したことがないんだ」。つまり英語だけで暮しているのですね。「今度の日曜日にタミル語に詳しい友人を集めておくから、僕の家においでなさい」と彼は地図を書いてくれました。【以下、次回】
ここで大野は、レプチャ語の辞書を読んだことがあると言っている。この辞書は、たぶん、マナーリングの『レプチャ語辞典』(1898)のことだろう。昨日も触れたが、この辞書は、安田徳太郎の「日本語・レプチャ語」説の出発点となった辞書である。
大野が、安田徳太郎の「日本語・レプチャ語」説を意識していたことがわかる。ちなみに、安田徳太郎がカッパブックス『万葉集の謎』を発表したのは1955年(昭和30)11月、大野晋が岩波新書『日本語の起源』を発表したのは1957年(昭和32)9月であった。