goo blog サービス終了のお知らせ 

礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

6月18日、ついに浜松市壊滅の夜を迎えた

2023-11-27 01:18:55 | コラムと名言

◎6月18日、ついに浜松市壊滅の夜を迎えた

 浜松空襲・戦災を記録する会編『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、稲留藤次郎の「救護部長として」という文章を紹介している。本日は、その三回目。

 そうこうしているうちに昭和二十年〔1945〕五月二十四日の夜が来た。夜半近くなっていつもの警戒警報に次ぐ空襲警報で、駈けつけて来た救護部員たちと壕に待避すると間もなく敵の一機らしい爆音が頭上に近づき、続いてカチッ、カチッという只ならぬ物音に、壕から飛び出て見まわしたところ、私の家の二階の数か所で火焔があがり、庭の植木にもあちこち火がついている。火は西隣りの家からも東隣りの家からも、南隣りの家からも燃えあがっている。北側はわが家の高い建物の蔭になって見えないが、やはり燃えているに違いない。到頭やられたか! 私は咄嗟に、これではバケツリレーの注水位では、何の役にも立たない。又いくら勇ましい浜松の消防車と雖もこの火は消しとめ得まい。もはや焼けるにまかせるだけだ。マゴマゴするとからだが危いと判断し、救護部の諸君には直ちに安全圏に立ち退くよう叫んだ。しかし部員たちはすぐには逃げ出そうともせず、それにいつの間にか火の間を潜って駈けこんで来た数名の消防団員と共に、かねて重要な薬品類を蔵【しま】ってあった裏庭の物置き目がけて注水をしたり、又特に貴重な薬品をいっぱい詰めてあった重いドラム罐を引きずり出して、庭のまん中ほどに置いたり、ひとしきり慌しい〈アワタダシイ〉働きをしてから再三の私の勧めでようやく去って行った。そのわずかな間にも火はどんどん燃えひろがるばかりなので、消防の諸君にも私の家はあきらめて貰う外なかった。しかし消防団の本隊はこの夜も被災区域の辺縁〈ヘンエン〉の火のついている家々にアタックして消火に努め、延焼をくいとめた功は大きかったと後で聞いた。
 気が気でなかった私は、妻と家族をせきたてて鴨江遊廓の方に逃げるよう、しかと言い含めて裏門から送り出し、自分は救護部員たちも全員残らず立ち退いたのを見届けてから、もはや火勢の熱気に耐えられなくなった庭を飛び出し、燃えに燃えさかるわが家と周りの家々をふり返りながら家族たちの後を追った。
 鴨江遊廓の中通りで家族たちに追いつき、さしあたり遊廓裏の鈴木喜三太氏宅を訪ね身を寄せて頂くことにした。
 数刻後、ようやく鎮火したとの報を聞いて屋敷まで引き返して見たところ、家は勿論、物置きも車庫も悉く灰と化し、自動車も焼けて哀れな残骸になっていた。後で何人かの人が私や妻に語ったところによると、周囲の家並みより一段と高く大きかった私の家が、ドーッと焼け崩れる様は、中山町あたりの高処(たかみ)から眺めて、なかなか壮観だったとのこと。
 この夜の敵の一機? による、浜松市では、夜間攻撃として最初の襲撃によって全焼したのは、鴨江東町の約半分と栄町の一部で、計一三〇軒ばかりだったと記憶している。
 庭の防空壕はさすがに何ともなかった。
 それで妻の母と私の姪とは彼女らの希望もあって、当分この防空壤で寝起きすることにした。家が焼けてから二、三日後、妻が焼け跡で、防空壕住まいの母たちと話していると、そこへ憲兵が二人の兵隊さん? とやって来て、私の屋敷内に散在する焼夷弾の敷を拾い集めたが、その結果は、私の当時一、三〇〇平方メートル(約四〇〇坪)足らずの敷地内から実に四七本の焼夷弾の殼と七本の不発弾? と計五四本が堆く積まれたとのこと、これは妻のたしかな記憶である。因に〈チナミニ〉その後六月十八日の浜松大空襲の夜、もう建物はひとつも残っていなかった私の同じ屋敷内に、焼夷爆弾による穴が四か所あいていたが、油脂焼夷弾はあまり見かけなかったように思う。
 さて防空壕だけは無事でも肝腎の診療所の建物が焼けてしまったのでは、もはや救護部の拠点とするわけにもいかず、さりとて外〈ホカ〉に分団区域内に適当な救護部向きの建物を物色しようにも、誰一人その心当たりはなかった。
 私と妻と子供二人はしばらく前記の鈴木喜三太氏宅にご厄介になることになったので、救護部員たちは、そこへ代わるがわる訪ねてくれた。
 その後暫くは十六分団の区域内には大きな事故は起こらなかったが、遂に六月十八日浜松市壊滅の夜を迎えるに至った。
 私の父(当時八十歳)は、その夜、前述の鴨江西南町の自宅(同夜遂に焼失)から西部中学校裏の下り坂を隣保〈リンポ〉の人たちと避難する途中、焼夷弾によって右の肋骨四本が肺の中に折れこむ重傷を負い、鴨江小学校に収容され、三日後の六月二十二日に、遂にその生涯を終えた。鴨江小学校は戦災を免かれたので、その後も暫く警防団救護本部の救護所として、多くの負傷者の収容、治療がここでなされた。【以下、次回】

 文中、「鈴木喜三太氏宅」とあるが、インターネット情報によれば、鈴木喜三太は、当時、株式会社鈴木組の社長。「喜三太」の読みは不詳。
 鈴木組は、1890年(明治23)、鈴木国作によって設立され、1944年(昭和19)7月、改組されて、株式会社鈴木組となる(社長・鈴木喜三太)。今日も、浜松市中区神田町〈カミダマチ〉で盛業中である。

*このブログの人気記事 2023・11・27(8位の古畑種基は久しぶり、9・10位に極めて珍しいものが)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする