◎名古屋城のシャチホコから金をはがした金助
岡本綺堂『明治の演劇』(大東出版社、1942)の紹介を続ける。本日は、「自作初演の思ひ出」の章を紹介してみたい。かなり長いので、三回に分けて紹介する。
入力にあたって、岩波文庫版『ランプの下にて』を参照した。
自作初演の思ひ出
読者には興味の薄いことであらうが、松居君と山崎君に次いで、少しく自分のことを語らせて貰ひたい。
わたしが書いた物が初めて舞台に上せ〈ノボセ〉られたのは、明治三十五年の春、歌舞伎座の正月興行であつた。その当時の歌舞伎座株式会社の専務取締役は井上竹二郎氏で、春興行には〔尾上〕菊五郎(先代)が毎年出勤するのであるが、病気で出勤もむづかしいことになつたから、若手ばかりで開場しなければならない。就いては何か新作物がほしい、勿論お正月の藪入り連を相手にするのであるから、さういふ向きのものでなければ困るといふ話があつたので、条野採菊〈ジョウノ・サイギク〉翁と岡鬼太郎〈オカ・オニタロウ〉君とわたしの三人が俄に〈ニワカニ〉それを引受けることになつた。芝居道多年の習慣たる合作といふことに就いては、我々固より〈モトヨリ〉反対であつたが、正直のところ、誰か一人が全部の執筆を引受けるといふのでは、何うも〈ドウモ〉信用がないらしい。なにしろ素人の書いたものは芝居にならないと決められてゐた時代であるから、比較的新しい興行方針を取らうとしてゐる井上氏でも、全部の執筆を一人に委托するのは、少しく不安に思つてゐるらしい様子もみえるので、やはり三人が分担して書くことにしたのである。
ところで、今日とは違つて、その時代には盆と正月との藪入り、その習慣が一般に残つてゐたので、正月狂言と盆狂言とはどうしても藪入りの観客を眼中に置かなければならない。藪入りの小僧達や、それと連れ立つて来る阿母さん〈オッカサン〉や姉さん〈ネエサン〉たちを相手にして新しい狂言を書くといふことは、ずいぶん難儀な仕事ではあるが、その当時のわたし達は何事かの機会をみつけて局外者の脚本を劇場内に送り込んで「入らずの間」の扉をこぢ明けようと苦心している最中であつたから、なんでも構はない、かういう機会を逃さずに書いてみせて、素人の作つた芝居でも金が儲かるといふことを芝居道の人たちに悟らせるがいゝと云ふので、藪入り連中ということを承知の上で引受けたが、扨〈サテ〉さうなると、題材がなかなかむづかしい。そこで、先づ正月らしいものといふので、凧〈タコ〉をかんがへた。凧は先年この座で菊五郎の上演した『奴凧』の浄瑠璃がある。何かそれとは離れたもので、凧の芝居はないかといふことになると、条野採菊翁は柿の木金助のことを云ひ出した。
柿の木金助は大凧に乗つて名古屋城の天主閣に登つて、金の鯱〈シャチホコ〉の鱗〈ウロコ〉をはがしたと伝へられてゐる。かれは享保年間に尾州領内をあらし廻った大賊で、その事蹟は諸種の記録にも散見してゐる。併し天主閣の鱗をぬすんだと云ふのはほんたうか。一体どうしてその鱗を剥ぎ取つたかといふ疑問も出たのであるが、やまと新聞社の田中霜柳〈ソウリュウ〉君は長く名古屋にゐた人で、それは事実である、現に尾州藩の家老の成瀬隼人正〈ハヤトノショウ〉が書いた金鱗紛失記といふものがあると教へてくれたので、私たちも大に力を得て、いよいよその柿の木金助を四幕に脚色することにした。しかし普通の盗賊では面白くないといふので、全然その事実を作りかへて、金助という忠僕が桶屋の権次〈ゴンジ〉という悪党に教唆されて、権次のこしらえた凧に乗つて首尾よく鯱の鱗をはぎ取つたが、権次がそれを着服して金助に渡さないので、金助が怒つて権次を殺し、自分もまた召捕られるといふ筋に作りあげた。さうして、それを三人で分担して書くことになると、生憎〈アイニク〉に採菊翁が病気になつたので、岡君が第一幕と第三幕、わたしが第二幕と第四幕を書くことに決めて、兎もかくも大急ぎで全部を纏めてしまつた。それは前年の歳末のことで、その本読み〔脚本の読み聞かせ〕の時にわたしたちは立会わなかつたが、脚本を歌舞伎座へ渡してから一週間ほど後に、いよいよ上演に決定したといふ通知をうけ取つた。
そのときの狂言は、一番目が〔中村〕芝翫(後の歌右衛門)の『朝比奈』中幕が〔尾上〕栄三郎(後の梅幸)『八重垣姫』二番目が彼の〈カノ〉柿の木金助。その名題は岡君と相談の上で『金鯱噂高浪〈コガネノシャチホコウワサノタカナミ〉』と据えたのである。役割は〔市村〕家橘(後の羽左衛門)の金助、〔市川〕八百蔵〈ヤオゾウ〉(後の中車)の権次で、ほかに芝翫、〔尾上〕松助〈マツスケ〉、〔市川〕高麗蔵〈コマゾウ〉(後の幸四郎)〔市川〕女寅〈メトラ〉(後の門之助〈モンノスケ〉)〔片岡〕市蔵などもそれぞれの役割を勤めていた。【以下、次回】
文中、「金の鯱の鱗」などとあるが、鯱の読みは、シャチホコであろう。岩波文庫版『ランプの下にて』は、外題に「こがねのしやちうわさのたかなみ」とルビを振っているが(288ページ)、これは正しくない(後述)。
「八百蔵」とあるのは、七代目市川八百蔵、のちの七代目市川中車(1860~1936)。小芝居の出身だったが、その実力と努力によって、歌舞伎界に確固たる地位を築いた。市川中車『中車芸話』(築地書店、1943)は、中車が口述した回顧談や芸譚を、川尻清潭(かわじり・せいたん)が筆録・編集した名著。