goo blog サービス終了のお知らせ 

礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

木戸幸一、天皇側近に対するテロを恐れる

2021-06-12 04:44:53 | コラムと名言

◎木戸幸一、天皇側近に対するテロを恐れる

 ついでに、大谷敬二郎著『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)も、引っぱりだしてみた。やはり、「杉森政之助」の名前が出てくる。
「Ⅶ 排英運動の高潮と治安の危機」の「一 排英の高鳴り」の「1 枢軸強化と国内の不安動揺」のところである。
 以下、「1 枢軸強化と国内の不安動揺」の全文(三三二ページ上段~三三四ページ下段)を引いてみたい。かなり長いので、二回に分けて紹介する。

 1 枢軸強化と国内の不安動揺
 近衛〔文麿〕がその政権の担当にあっさり見切りをつけ、内閣を投げ出したのは十四年〔一九三九〕一月四日の政治始めの日であるが、その翌日には平沼〔騏一郎〕内閣ができた。陸軍大臣板垣〔征四郎〕中将も米内〔光政〕海相と共に留任した。支那事変処理に没頭した近衛は、〝軍をこのままにのさばらしていては、内閣としても自信はない、むしろ一度引きさがって、しずかに陸軍をおさえる手を考えて出直そう〟というのが真意だったといわれている。だから、この政権交代による平沼内閣は近衛内閣の延長ともみられるものであった。そして平沼が近衛から引きついだ難問に日独伊軍事同盟締結があった。いわゆる世に枢軸強化問題という三国軍事同盟案は、前年〔一九三八〕八月以来近衛内閣の五相会議によって討議されていたが、平沼はこれを受けつぎ、会議に会議を重ねていたが、同盟協力として対英米戦争参加を回避する日本案ではドイツがうんといわない。陸軍特に参謀本部は駐独大島〔浩〕大使の意見を容れて、完全な軍事同盟の締結を要望し、この軍の先頭に立って活躍していたの が、板垣陸相であった。
 これらのいきさつを叙述することは、ここでの目的でないので割愛するが、とにかく、六月五日一応のまとまりをつけた平沼首相は内奏し、この線に沿うて大島大使、白鳥〔敏夫〕駐伊大使をして独伊と交渉せしめたが、イタリアは同意したが、ドイツのリッペンドロップ外相は依然難色を示した。板垣陸相は六月五日の決定には不満だったので、ドイツの不承諾をきっかけに、また問題はむしかえしてきた。米内海相は板垣陸相と懇談し陸海の一致をはかろうとしたが成功しなかった。だが、陸軍の空気は一段と硬化し、省部の緊急会雄が開かれたり、三長官会議まで開いて対策を凝議し軍の態度を固めた。丁度、有末精三駐伊武官が帰朝して現地情勢を報告したので、これに力を得た陸軍は、その態度を硬化した。
 板垣は八月六日平沼首相を私邸に訪ね四時間半に及ぶ膝詰談判に及んだ。その結果政府は急いで五相会議を開いて、問題の結論を急ぐこととなった。板垣はさきの閣議決定をくつがえし無留保の軍事同盟締結を主張し、平沼首相は逐条約に板垣に反駁し、有田〔八郎〕外相は国際情勢から説き、石渡〔荘太郎〕蔵相は財政上の見地から、それぞれ、さきの閣議決定案を固執し会議は緊張した。そこで平沼は六月五日の廟議決定はくずさないが、条件については、根本方針を改めない程度で、多少の変更の余地があるかもしれない、外相のところで若干の手直しをしてはどうかと態度を緩めた。板垣は会議が陸軍案に難色を示しているのに憤慨し、五相会議は三国軍事同盟に反対と了解してよいかと席を蹴って立つ気配を示した。米内は仲に入って、〝根本方針はかえるわけにはいかないが、その条件なるものを研究しようとしているのではないか〟となだめたが、結局、この日の五相会議も結論は得られず、条件の研究を後日にのこすことになった。
 さて、これら協議の内容は厳秘に付せられていたが、新聞はこれが報道を大々的に取扱い、陸軍と政府の激突を伝えていた。右翼は猛り出した。陸軍に同調する右翼は自らを枢軸派と称し、これに反対するものを親英派として攻撃を加えてきた。すでに十四年〔一九三九〕七月には、清水清ほか七名による湯浅〔倉平〕内府暗殺予備事件、杉森政之助 (東亜同志会)の松平〔恒雄〕宮相暗殺未遂事件の発生など、けわしい情勢を示してきた。国内治安の責任者内務大臣木戸幸一はその頃平沼首相に、〝なんとか早くかたづけてもらわねば帝都の治安は責任がもてない〟と極言したと伝えられていたが、すでに四月十四日の「木戸日記」をみると、いかに木戸内相が治安に心を砕いていたかがうかがわれる。
 「万一、本件の処理を誤らんか内政問題として往年のロンドン条約問題以上の禍根を残し、おそらく所謂重臣層は徹底的に排除せらるるの余儀なきに至るべく、若しかくのごとき事情となりたる場合、陛下の側近は如何になるべきか、想像するだに恐懼〈キョウク〉に堪えず。さらでだに事変処理につき日夜御宸念〈ゴシンネン〉あらせらるる上、一段とお淋しき加え奉れる場合、如何なり行くべきか、想像することすら堪え得ざることなり。彼是〈カレコレ〉考え及べば臣子の分として万難を排しても、かくのごとき事態の現出を阻止せざるべからざる旨を力説す。この点は首相、陸相にも説きたるところなり」 
 いかにも、下手をすれば天皇の側近が、すぐにもテロにやられたしまう〔ママ〕ことを予想しての感慨がにじみ出ているが、彼は内相として各界の人々ことに右翼の巨頭連にも会っていたので、身にひしびしと迫る実感をかきつけたものと思われる。だが、これは誇張ではない。当時憲兵、警察共に、たしかにテロの突出を予想し、情報収集と要人の警護に苦心していたのであった。【以下、次回】

 基本的には、『憲兵』(新人物往来社、一九七三)の記述と変わらないが、それ以上に詳細である。「清水清ほか七名による湯浅〔倉平〕内府暗殺予備事件、杉森政之助 (東亜同志会)の松平〔恒雄〕宮相暗殺未遂事件」とあるところは、『憲兵』の相当部分と同じ。
 本日、引用した部分で、特に注目されるのは、木戸幸一内務大臣が、すでに一九三九年(昭和一四)四月の段階で、重臣層が「徹底的に排除せらるる」事態を予想していることである。木戸は、「天皇の側近」が、テロの標的になることを予想し、かつ、恐れている。
 なお、「木戸日記」の中に、「かくのごとき事態の現出を阻止せざるべからざる旨を力説す」とある。文脈からして、木戸が「力説」した相手は、昭和天皇と見てよかろう。

*このブログの人気記事 2021・6・12(9・10位に、なぜか古事記真福寺本)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする