◎三文字正平はA級戦犯の遺骨を回収しえたのか
一昨日六月七日は、当ブログへのアクセスが急伸した。おそらく、A級戦犯七人の遺骨が太平洋にまかれたことを報じた、同日の新聞記事の影響であろう。
私は、東京新聞で、その記事を見たが、一面の見出し・リードは、次の通りだった。
「A級戦犯 太平洋に散骨」
米公文書に記述 初確認
第二次大戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けた東条英機元首相らA級戦犯七人の遺骨について、米軍将校が「太平洋の上空から私がまいた」と記した公文書が見つかった。米軍による具体的なA級戦犯の遺骨処理の方法が公文書で判明するのは初。遺骨は遺族に返還されず、太平洋や東京湾にまかれたとの臆測はあったが、行方は昭和史の謎とされていた。
東京新聞は、三面にも関連記事があり、そこでは、遺骨処理にあたったルーサー・フライアーソン少佐による報告書の内容が、かなり詳しく紹介されていた。また、東條英機元首相の遺族、広田弘毅の元首相の遺族に対する取材の結果も報じられていた。
三面の記事の一部を引用してみよう。
遺骨を巡っては、米軍が火葬場の一角に捨てた残骨や遺灰を、日本の弁護士らが回収したという「秘話」が伝わる。外交官出身で文官として唯一処刑された広田氏の遺骨について、弘太郎さん〔孫の広田弘太郎さん・八二歳〕は、「他の人の骨と一緒に火葬場に捨てられたと思っていた」という。
記事は、A級戦犯七人の遺骨を、日本の弁護士らが回収したという「秘話」があると述べている。この「秘話」というのは、東京裁判で小磯国昭の弁護人を務めた三文字正平(さんもんじ・しょうへい)が語っていた話を指すものであろう。花見達二著『大戦秘録』の巻末、三文字に対する著者のインタビューの中で、この「秘話」が披露されている。おそらく、広田弘太郎さんは、何らかの形で、それを聞いていたのであろう。
もしも、ルーサー・フライアーソン少佐の報告書の通り、A級戦犯の遺骨が太平洋にまかれたのであれば、三文字正平が火葬場から七人の遺骨を回収したという話は、その信憑性が問われることになろう。
しかし、何はともあれ、三文字正平の証言を聞いてみよう。なお、当ブログでは、この三文字の証言を、一度、紹介したことがある(2018・9・7~9・9)。
遺骨盗み出しを計画
【前略】
花見 世間の一部で絞首刑の東条以下がどこかに生きている、という憶測というか、想像というのか、疑問をもっている者もずいぶんありますね。だれも立会ってみていないからね。それに昔はよくあったことだそうだ。
三文字 こんどにかぎってそんなことは絶対にない。
花見 遺骨も遺体もないのだから。
三文字 サア、それがだ。じつは判決のあったあとで、東条の弁護人のブルウエットがマッカーサーのところへ出かけていって「日本人は遺骨を欲しがる。これは当然のことだから、遺骨をやるようにして下さい」と直接たのんだ。するとマッカーサーはソッポむいて何も答えんというのだ。われわれは大いに怒った。清瀬〔一郎〕君なぞも大憤慨だった。ニュールンベルグのときは遺骨を飛行機からまいたという話だ。なにしろ死んでしまえば神さまだ。遺骨もなにもないなどというのは、浮ばれない話だ。
花見 遺族もたまらぬでしょう。
三文字 わたしは検事団に遣体はどこでどうするのか、ときいた。すると「それはアメリカ人を火葬にする場所で火葬にする」という。アメリカ人を火葬にするところといえば、横浜の久保山の火葬場ときまっていた。そこでわたしは考えたのだ。決心したのです。
花見 それは?
三文字 だんだんお話しする。ふしぎなもので、久保山火葬場のすぐ上に興禅寺というお寺があります、ここの方丈さんが市川伊雄〈イユウ〉という男で、実はわたしが非常に懇意にしていました。面白い坊さんで東京裁判の傍聴にもよくきて熱心にきいていた。わたしは市川住職のところへいった。「いよいよ死刑になるのだが、なんとかして遺骨を欲しい」というと市川住職はすっかり感激してしまって「先生やりましょう」というのだ。この市川はむかし海軍士官の訓練をたのまれて「若い士官はダラシがない」と寒中に冷水をアタマからぶっかけたという荒法師だ。なにしろ三年間も顔を合わせていた人たちが、たとえ罪はどうあろうとも神ほとけになった遺骨も還らぬというのは東洋人の道徳じゃない、というので、わたしに共鳴してくれた。
ところで、市川がいうには「火葬場の所長をやっている飛田〔美善〕という男は自分の部下みたいなやつだからあれを呼びましょう」ということになった。そこで死刑執行の前に飛田を興禅寺へ呼んだ。飛田という男はわたしは知らんから、ほんとうに生命がけみたいな気持だったが「遺骨を手にいれることはできんか」と相談した。みつかればむこうの法律でこっちが死刑だから容易じゃない。すると飛田は「ぼくも元は兵隊だ、ひとつなんとかやってみましょう。火葬場を管理しているアメリカの司令官にも懇意なのがおるから――」という。すると十二月廿三日の朝五時半ごろ、飛田がたたきおこされたというのだ。みるとカンの好い新聞記者たちがカメラマンをつれて何人もきている。かれらは火葬の模様もうつしにどこでどうきいたか探知してやってきたものらしい。するとまたこれを知ってアメリカの兵隊がジープでおしかけてきて、新聞記者をきれいに火葬場からみな追っぱらってしまった。
わたしは火葬場の上の興禅寺にいてみていると、七時半ごろ、アメリカ兵がいっぱいカービン銃で火葬場をとりまいている。ホロをかけた車にのせて七ツの棺〈ヒツギ〉がはこばれてきた。
ハダシで墓場を掘る
三文字 ホロをかぶせた車に乗せた七ツの棺がきましたが、これは久保山へはもっと早い時間にくるはずだった。それがおくれたのは、日本の新聞記者たちがアトをつけていたのですね。はじめはアメリカも気がつかなかったが、どうもくっついてくるので仕方がない。いったん川崎市の進駐軍基地へ車をいれて、新聞記者をうまくまいてしまった。それで火葬場へくるのがおくれた。
棺はカマにいれられて火が入った。火をいれたのは所長の飛田〔美善〕と磯崎〔吉尾〕という火夫長です。あくる日のある新聞をみると棺にいれた順序がチャンと書いてあるんです。飛田所長にきいたのでしょう。火葬のとき血だらけになった棺がひとつあった。それは広田の棺で、どうも鼻血がいっぱい流れてそれがこぼれていたらしい。それを火にいれて焼いた。ところが東条と松井はやせているせいか、すぐに焼けたが、広田と武藤のは中々焼けなかった。やはり体が頑丈で大きかったのです。結局、一時間半かかって焼きおわった。はじめに東条の棺をいれるとき係のアメリカ軍曹が「ワン・トウジョー」といった。すると司令官からこっぴどく叱り飛ばされた。名前なんかいってはいかん、というのに軍曹はどういうわけか、とむらう気持かなにか名前をいった。それは注意されてあったそうです。火をいれてから廿分ばかりして飛田所長と火夫長の磯崎が裏口へ出てのぞいているように命ぜられた。
花見 棺にもいろいろあるでしょう。寝棺〈ネカン〉のふつうにあるのですか。
三文字 粗末な木の棺でまア一般にあるものらしいですね。そこで焼けてしまってもアメリカがすぐに手をつけるわけじゃない。火夫長の磯崎が鉄の棒をもってきて遺骨を粉にした。それからそれを長サ六、七寸、深サ三寸ばかりの箱におさめた。
花見 それはひとりひとりについてやった?
三文字 ひとりひとりやったのですが、それはすぐに没収されてしまった。そしてひとまとめにされてしまったのです。火葬場からすこしはなれたところに行路病者〈コウロビョウシャ〉などをいれる無縁の骨捨て場がある。これは四方が約一間半で深サは十四尺はあるでしょうナ。みんな骨灰〈コッパイ〉はそこにいれられたんです。それから十二月廿六日だった。わたしは市川〔伊雄〕住職と飛田に会った。
花見 死刑はクリスマス・イヴの前の日〔二三日〕でした。するとクリスマスもすんだころに。
三文字 そう、寒くてふるえるような晩でした。飛田を案内役にしてハダシになって遺骨のあるところへいった。すると入口に幅は四寸ぐらい、深サ五尺以上もある穴がある。そこに御影石の花立てがチョコンとのっている。それをとってみると穴はとてもふかくみえる。そのときちょうどどこかで犬がしきりに吠えてネ。懐中電灯で照らしてみると中に白く浮かんでみえる。七人分の骨が混合で入っているのだ。前に骨がおいてないから、青白く光って浮かんでみえる。どうしてとったらいいかわからん。重いフタをのけておいて火カキをグッと伸ばしてとることにした。さア、とるにはとったが、これをどうしたらいいか、こまってしまった。こまかい骨ばかりではわかるからナマナマしい太いのを一本いれた。骨はすぐ湿るから焼き直して鉢に入れた。
ところが、わたしの甥〔三文字正輔〕が東大を出て戦争にいったが、上海の先で死んだ。わたしは甥の骨をここの興禅寺へあずかってもらう事にして、札を書いておいたから、七人の遺骨をこの甥のものだといってあずけた。
花見 非常な苦心で、しかもなにかの因縁があるものですネ。
三文字 しかし、すぐではいけない。遺族に分けるにもすこし時間をおかぬといけない。年末年始でもあるし、ホトボリをさまして年が明けぬとこまる。そこで四月になってから板垣〔征四郎〕大将夫人に「わたしが遺骨をおあずかりしているから、いつでもさしあげます」といった。板垣夫人はおどろいて、松井〔石根〕大将夫人と相談して「それなら五月三日に熱海の松井さんの邸でいただきましょう」ということになった。【以下、略】
以上の証言に対するコメントは次回。