◎重田定一の講演記録「修正国定教科書に就て」(1912)
重田定一著『史説史話』(弘道館、一九一六)の紹介を続ける。
本日以降は、「修正国定教科書に就て」という文章を、何回かに分けてしたい。これは、一九一二年(明治四五)二月二五日に、神奈川県教育会の総会の席上でおこなわれた講演の記録である。ここで、「修正国定教科書」とは、南北朝正閏論争を機に、修正された国定歴史教科書のことを指している。重田定一は、一九一一年(明治四四)、広島高等師範学校教授から文部省図書審査官に転じ、この「修正」にあたった。
この文章は、第一「発端」、第二「修正の大要」、第三「結語」の三部からなり、第二は、さらに、「一」から「十一」に分かれている。第二は、かなり長いので、その後半は割愛することになろう。
四十 修正国定教科書に就て
第一 発 端
盛大な総会に出席致しまして、直接間接教育に御関係の諸君と御会ひを致すことは、私の非常に愉快に存ずる次第でございます。今日御話を申上げようと云ふのは、昨年〔一九一一〕から掛けまして修正出版になりました国定歴史教科書の内容の一班でございます。此の教科書は既に多数の諸君も御覧になつて居る訳でもありますし、又〔千葉〕県庁教育課に於きましては、余程綿密に修正以前の本と修正本とを比較して御調べになつて居るさうでございますから、私から事新しく申上げるまでも無いことと心得まするけれども、それを特に話をせよと云ふ御注文がでましたのは、県当局の御方が此修正に付いて余程御注意になつて居る結果であらうと存じますから、私の存じて居りまする限り、大体の所を申述べて御参考に供したいと存じます。」 此修正に付きましては自分も少なからざる手伝ひを致しましたのでございまするけれども、私か東京に参りました頃には既に大方針も確率して居りました後でありまして、ホンの謂はゆる犬馬の労を執つたに過ぎませぬので、自然私の是から申上げます中には、或は間違ひ等も有るかも知れないのでございます。自分では先づ先づ無からうと思ふ所を、少しばかり御話をしようと思ふのでございます。」又此等の事柄は極めて簡単明瞭なことでありますけれども、間違ひの無い上にも無いやうにと云ふ希望の上から、筆記等を妄りに〈ミダリニ〉に新聞雑誌等に表はしますことを好みませぬ。若し何かで御掲載になると云ふやうな場合には、一応私の方へ御相談を下さいまして、拝見の上御返しをした後に、御掲載を願ひたいと存じます。
第二 修 正 の 大 要
小学校の歴史教科書の尋常及び高等両方を通じまして、及び尋常の教師用書をも通じまして、大分沢山に修正になりました。修正の箇条を申しますると中中夥【おびただ】しい数でございまして、迚【とて】も一一勘定は出来ない位沢山にあります。又物に依り所に依りますると、殆んど全体に修正になつて居ります。けれども、大体に於きましては、さうむづかしい訳では無いのであります。一番大きい修正を、第一に申上げて見ますると、尋常の巻の一〈マキニイチ〉の第二十三課、従来「南北朝」と書いてありました所をば、「吉野の朝廷」と云ふことに改め、従つて其内容が変つたのが一番大きいのであります。其他本文にも附録にも挿画【さしゑ】にも、大分沢山の修正がございますが、其大小種種の修正を通じまして、一番の骨になつて居る所は、何かと申しますると、御歴代の御順位――何天皇の次には何天皇と云ふ御順位が明かに定まりまして、さうして御在位年間が極まつたと云ふのでございます。是が一番の眼目であります。御歴代の御順位が定まりまして、さうして御在位年間が明瞭に定つたと云ふのが眼目になつて居ります。デ修正は高等の歴史の方にも沢山ありまするけれども、併し大趣意【だいしゆい】に於きましては少しも変はらないのであります。例へば従来は「持明院・大覚寺両統の分立」と云ふ一課を設けてりましたが、今度は「北条氏の滅亡」と云ふ課の中に入れて説いてあると云ふ位のことで、大した変はりは無いのであります。故に是からは便宜上、尋常歴史の方のみに就いて御話を申上げて置きたいと思ふのであります。それで十分であります。
一、御歴代の御順位は従来不定
御歴代の御順位と云ふことは従来極まつて居るが如くにして実は極まつて居なかつたのであります。デ、早いことを申して見ますると、今上天皇{明治天皇}は、書物に依ると第百二十二代の天皇だと申上げて居り、又他の書物に依ると百二十一代の天皇だと申上げて居るのもございました。此の百二十一代若くは百二十二代の内に数へて無い天皇もあります。」【以下、次回】
文中、文末の一部に、カギカッコが付されている場合があるが(。」)、原文のままである。
また、「今上天皇{明治天皇}」とあるのは、「今上天皇」のあとに、割り注で、「明治天皇」とあることを示している。