◎病院に行って傷の手当を致しませう(小坂慶助)
小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)から、「Ⅱ 相沢事件」の部を紹介している。本日は、その四回目。
「犯人だ!」
と直感した。青柳〔青柳利之軍曹〕に合図にして、近付くのを待った。マントの襟には星が二つある佐官である。犯人は有末〔精三〕中佐の電話で大尉とばかり思っていた。一寸戸迷どった〈トマドッタ〉が、これだ、これに違いないと確信した。彼は私達二人の存在を無視して通り過ぎて行った。追い迫って呼び取止めようとした瞬間、食堂の廊下から、当時調査班長の山下奉文〈トモユキ〉少将が突然姿を現わした。
「閣下! 相沢です! 台湾に赴任して参ります。しっかりやって下さい」
と、云うと携げていたトランクを廊下に置き、右手を差し延べて、固い握手を交した。
「それは、御苦労! 余り無理をするなよ」
と云 った。山下少将は、巨躯を平然として階段を降りて行った。この会話で階級は判らないが、相沢と云う姓だけは知る事が出来た。勇を起して、青柳と両人で相沢の前に立塞った。
「憲兵ですが!」
と、云うと皆迄云わせず
「憲兵? 憲兵などに用はない!」
きっとした面持〈オモモチ〉で、睨み付ける様にして立去ろうとした。
「待って下さい、貴男は先程永田軍務局長の室へお出〈オイデ〉になりましたか?」
まさか局長を殺しましたかと、聞く訳には行かない。
「行ったが、それがどうしたというのだ!」
全く予期しない態度だった。蒼ざめて、冷たい表情で喚く〈ワメク〉ように云った。無用の問答は無意味だ。犯人は相沢に間違いないが、未だ犯人と確定した訳ではない。それに制服着用の上長官〈ジョウチョウカン〉を格闘迄して逮捕する事は、愚の骨頂だ、本人を速かに憲兵隊に連れ込む事が、先決問題である。此際曖昧に胡魔化して置いて、それから徐ろに対策を講じても遅くはないと思った。
「大変に血が出ているようですが、早く傷の手当を致しませう!」
「先程から医務室を捜しているが、判らない」
「医務室には、今誰も居りませんから、病院に御案内致しませう!」
「さうか! それでは連れて行って呉れ」
青柳と二人で両脇に附添うようにして、階段を降り始めた。階段の半程迄来ると
「俺は! 帽子を捜して来る!」
と、云うと二階に引返さうとした。
「帽子は、何処に置いたのですか?」
「永田少将の部屋だと思う!」
今、局長室にでも、行かれたら不味い〈マズイ〉事になる。何としても阻止しなければならない。
「帽子などより先きに、病院に行って傷の手当を致しませう!」
「いや! 軍人が無帽で、出て歩く訳にはいかぬ!」
飽く迄帽子に拘だわっている。
「帽子は病院に行く途中、偕行社で買う事にしませう。それに永田少将の部屋は大变ですからお出にならぬ方が良いでせう。」
永田少将の部屋は、大変だと云った言葉が効果があったのか、漸く納得したらしい。階段を降りて、長い廊下を通って、裏玄関に出た。問題は自動車である。乗り込ませて仕舞えばどうにでもなる。誰の車でも構わないと、表に出ると、幸いにも憲兵司令部の「憲6」ナンバーの車が止っていた。無言の侭相沢〔三郎〕中佐を真中にして乗込み、ホッと安堵の胸をなで下した。此の車は仙台の第二師団長で待命となった、前憲兵司令官秦真次〈ハタ・シンジ〉中将が、待命の挨拶廻りに使っている車であった。
流石は憲兵隊の運転手である。飛んで来て車に乗ると、行先も聞かず、フルスピードで、半蔵門から三番町九段へ向って走る。偕行社を左に見て、九段坂の中程迄下りて来ると、車の内で終始無言で瞑目していた相沢中佐は、突然顔を上げ
「憲兵ッ! 道が違うではないかッ!」
と呶鳴るように云った。
「取り敢えず、憲兵隊迄参ります!」
と、云ってそっと顔色を窺った。相沢中佐は一寸腰を浮かせるようにして、グット私を見据え 語気も鋭く、
「憲兵隊? 憲兵隊などに用事はない! 偕行社に車を着けろ!」
と、半ば命令句調で云った。其時自動車は既に九段下を右折し、軍人会館の横を走っている。 憲兵隊はもう目と鼻の間に迫っていた。
麹町憲兵分隊は、麹町区竹平町の元仏蘭西大使館跡に新装なった、四階建の堂々たる新庁舎に移転したばかりの、憲兵司令部内にある。
左手の傷の手当に藉口〈シャコウ〉して、巧く胡魔化して憲兵隊に連行した。相沢中佐を取り敢えず、分隊の応接室に連れ込んだ。応接室と云っても丸卓子〈マルテーブル〉一脚と、椅子四脚、なんの装飾もない五坪位の殺風景な部屋である。【以下、次回】
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