礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

変態の場合こそ大義名分を明らかにせねばならぬ

2020-03-27 02:02:13 | コラムと名言

◎変態の場合こそ大義名分を明らかにせねばならぬ

『日本及日本人』第五百五十四号(一九一一年三月一五日)「南北正閏論」特集から、菊池謙二郎の「南北朝対等論を駁す」という論文を紹介している。本日は、同論文の「余論」の二回目。

▲(一)正閏の語 正閏の語は支那の歴史に用ひられた語で、易姓革命の彼の国に在つては通用するけれども我国に在つては適用せぬと対等論者は言ふのである。殊に久米〔邦武〕博士の如きは正閏の語を我国に用ふるのは無学の致す所であるとまで罵倒して居る。正閏の語は固より支那の歴史に用ひた言葉であるが支那の如き易姓革命の国には却つて〈カエッテ〉適用せぬので我国には能く応用が出来るのである。支那の國體は事新しく言ふまでもなく君主専制の衣を被れる共和国で、徳なく力なきものが亡んで徳あり力あるものが王者となるのであるから、正統の天子とか閏位の天子とかいふのは誤りで王位に昇つたものは皆正当の王者である。唯歴史編纂上前朝との連絡を保つために歴史家が正閏の区別を立てたのに過ぎないのである。万世一系の天皇が統治権を有する我国に在りては歴史上変態を生じた場合にはこの正閏の語が極めて能く適用せらるゝのである。同時に二天皇あるときは、一方を正とし一方を閏とせねばならぬ。こゝが即ち大義名分でどうしても正閏の区別を立てねば國體に戻り〈モトリ〉国民の帰嚮〈キキョウ〉を失はむることになる。それであるから正閏の語は本家の支那には寧ろ不必要で我国には却て必要なので又能く当嵌まるのである。恰も〈アタカモ〉忠孝一本といふ語は支那から来た言葉であるが支那の國體には適切でなく我国家に適切であると同様である。
▲(二)変態論 対等論者は南北朝分立の如きは一時の変態であるから其間に正閏軽重の区別を立ててはならぬと言ふのであるが我々南朝正統論者は一時の変態であるから正閏軽重の区別を立てねばならぬといふのである。蓋し対等論者は一時の変態は南北朝時代に限つて将来再たびかゝる事の無い事を予想するのであらう。我々とても勿論かゝる変態の再び起らぬ事を希望するのは万々である。希望するからして我國體の上より大義名分を明かにして変態の再び起らぬことを予防するのである。再び起らぬ事を希望すれども再び起らぬ事と予想することは到底出来ぬ。変態の場合には大義名分を明にせず、正閏軽重の区別を立てぬとすれば実に寒心すべき事を予想せざるを得ないのである。それは乱臣賊子に口実を与ふることになるからである。皇胤を擁立さへすれば逆賊の名を免るることが出来るとの観念を知らず知らず国民の頭に吹き込めばどういふことになるであらうか、第二第三の尊氏を生ずることなしとも限らぬでないか、神経質と笑ひ給ふな、我々国民の倫理思想の大半は国史によつて出来て居るのである。国史の教育を一歩誤るというと、それこそ倫理思想に大なる変動を来たすのである。歴史上平静の時代には大義名分を明にする必要は却て少なく、変態の場合こそどこまでも大義名分を明にせねばならぬのである。さうせねば国史の教育といふものは存外有効のものではない。【以下、次回】

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