ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

娘よ(48)~なぜ!?…半年ぶりの…~

2014-07-04 23:07:21 | 生き方
それなりに順調だと思っていた。
半年も痙攣は起こっていなかった。
記憶障害は容易に改善されないが、それでも一日の中で排便があったかどうかについては、ほぼ間違いなくは言えるようになってきていた。
家から病院に戻った後も、疲れは見せなくなっていた。
日曜日に時間外出で帰宅した時には、自宅の洗面所がきたなく見えたらしく、ていねいに拭き洗いして磨いてくれたりした。
そのようなわずかながらの変化でも、状況が明るく見えるものは、本当にうれしいものだった。
完全な記憶障害からの脱却は難しいだろうが、状態が少しずつでも改善に向かうことをずっと祈っていたからだ。
歩き方もしっかりしてきて、結構大股で歩くようになってきていた。
転院してから、2か月を経過して、リハビリの効果も少しは感じられるような気もするこの頃であった。

それが―。

病院から、わが家へ電話が入ったのは、月の変わった火曜日のことだった。
その日は、7月1日。
去年の7月1日は、ICUで治療中だったにもかかわらず、日に5回も全身痙攣を起こし、人工呼吸器をつける羽目になったのだった。
今年は、それに比べたら雲泥の差。こうして毎週数時間とはいえ、日曜日の日中は家で元気に過ごせるようになったのだから。
そう思っていたのに、突然の電話であった。

病院から入った電話は、早朝、娘に痙攣が起こったということを知らせるものだった。
誰か来られるかを聞かれ、妻が駆け付けることになった。
息子も、仕事場を経由して行くことになった。
私は、去年こそ代理を立ててドタキャンしたが、この日は地域で大きな行事があり、そこに出かけて参加しなければいけない日であった。
2年続けて休むわけにはいくまい。そう考えて、勤務先に向かった。

勤務先で届いたのは、妻のメールだった。
その後も2度、そのうち1度はたった今目の前で痙攣が起きたとのこと。
なので、リハビリ専門の今の病院から、以前入院していた大きな病院に、救急車で搬送されることになった、とのこと。
心は騒いだ。半年ぶりの痙攣を、3回も頻発している。
2年続けて地域の行事をドタキャンする訳にもいくまいと思ったが、動揺は隠せなかった。
見かねた職員が、代わって出席するから休んでください、と名乗り出てくれた。
迷ったが、その言葉に甘えることにした。
行事の主催者側に連絡して、詫びながら、代わりの人が行くことを告げた。

病院に駆けつけると、救急外来の待合室に妻がいた。
CTほか様々な検査をして入院するとのこと。本人には会えなかった。
この後、2時間以上も、われわれ夫婦に声がかかることはなかった。
12時近くになって、「病室が空いて入院できるのは、午後2時からになる」とのこと。だから、食事をとってきた方がよいと言われた。

結局、2時半近くになってから、病室へ移動。
ようやく娘に会うことができた。
娘は、寝ながらぼんやりと片手を振ってくれた。
しかし、その仕草は緩慢でだるそうであった。
2か月余り前までお世話になっていた、なじみの看護師のIさんやNさんがベッドごと娘を上の階まで運んで行ってくれた。

結局、病棟も2か月余り前と同じ。
病室は、1年余り前、娘が最初に入院を始めた時の部屋●▲★号室であった。
担当看護師も、またIさん。
師長のSさんが、わざわざ訪ねてきてくれた。
「何と言えばいいかわからないけど、また精一杯お世話します」というようなことを話していかれた。
知っている人たちばかり。
2か月余り前に気持ちよく退院(転院)を祝ってくれた人たちばかり。
それなのに、またこの人たちにお世話になってしまうことになるのが、なんとも歯がゆかった。
かつての主治医の先生は、「半年ぶりというけど、退院しても痙攣をおこすのはよくあること、よくある話なのです。」というようなことをおっしゃった。
その言い方が、いかにも大したことがないことだ、と言わんばかりに受け取れた。
看護師さんたちに比べて、軽くとらえられているように思われて、あれほどお世話になった先生だが、感じがよくなかった。

病室の娘は、両手が点滴につながれていた。非常に眠たそうであった。
眠っている間に、この2か月余りの間入院していた病院へ、娘の荷物を取りに行った。
せっかくこの2か月間お世話になって、娘も慣れて知っている人も多くなってきたというのに、この病院を離れなければならないということに、無念さを感じた。
看護師さんの中には、子どもの頃を知っている人がいた。
ナースステーションにあいさつをしたら、目が合った。
彼女は、会釈をしてくれたが、何とも悔しい別れになってしまった。
荷物を積んで、再び娘の入院した病院に向かった。

着いて荷物を運び入れると、もう夕方であった。
まもなく夕食となったが、普通の食事が運ばれてきたので、娘を起こして食べるよう促した。
さすがに、痙攣のダメージが大きかったようで、娘はおかずにはほとんど手を付けずに、味噌汁に入っていた、嫌いなはずのしめじとご飯の3割ほどを食べただけであった。
まだ頭が痛い、と言っていた。
ダメージが大きいようだった。手は、いつもより熱く感じた。
私たちは、娘をさっさと寝せることにした。

翌日は、娘は一日中眠たがっていたとのこと。
お見舞いに来てくださった方もいたが、眠たがっていたということであった。
妻の話では、食べ方もきたなく、ひどかったようだ。
3日目は、妻は、だいぶ改善されたと言っていた。
冗談も言えるくらいになっていた、と言う。
しかし、私が、ここはどこかと問うと、ショッピングセンターだったりホテルだったりした。
数分前にいた妻のことも、もう覚えていなかった。
今日は、同じ問いに対し、近くの老人ホームの名を言った。
でも、娘に、「おまえは老人でないよね、じゃあ、どこだ?」と聞くと、病院名を言うことができた。
まだまだ、回復してきた、とは言い難いが、痙攣が起きた初日や2日目よりはましである。
しかしながら、その様子は、去年のよくなかった姿と同じである。
家族が付いていない時には、腰に抑制ベルトを付けられている。
今までのことは何だったのだ、と言いたいぐらい、むなしい「ふりだしに戻る」の仕打ちを受けている思いがする。

今週は、火曜日からが早かった。
そして、疲れも半端ではないくらい、われわれ夫婦は疲れた。
ようやく週末を迎えられる。
やっと今日になって、このエントリーをまとめられる心身と時間の余裕ができた。

娘の入院生活は、合計400日を超えた。
少しは改善されるのかと思っていた近頃だったのに、「ふりだしに戻る」に落胆した今週であった。
だけど、落胆したままではいられない。
希望は、失っていない。
前を向いていくしかないのだ、私たちは。
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