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ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

「教師が教えない人になれる時間」(青木善治著;東洋館出版社)を読む

2024-08-04 22:17:58 | 読む

「教師が教えない人になれる時間」。

教育の専門書なのに、書名からして面白い。

「教師」という言葉には、「教える人」の意味がある。

その「教師」が「教えない人」になれる、とはどういう意味?

教えることをサボって得しようということか?

…なんて考える人がいてもおかしくはないだろう。

 

でも、その意味が分かる人は分かるはずだ。

意味が分かる教師は、きっと心ある教師だろうと思う。

ちなみに、帯には次のような方におすすめと書いてある。

 

本書は、表紙に「15分間の『朝鑑賞』が子どもの自己肯定感を育む」とある。

どういうことかというと、月に1,2度でいいから、15分間の朝学習の時間に、学級で美術作品を鑑賞することによって、子どもたちの力も、教師の力もつけていこうということなのだ。

そのために、「対話型鑑賞」の実施と、教師がファシリテーターに徹するということが求められる。

 

子どもたちの表現力や思考力は、教師が教え込んでも育つものではない。

では、教師にどのような配慮や役割が求められるのか。

その大切なものが、本書の実践の中に見ることができる。

 

著者の青木善治氏は、現在滋賀大学大学院教育学研究科高度教職実践専攻(教職大学院)教授である。

その前には、校長など新潟県の公立小学校の経験もある方である。

私も、かつて十数年前に一緒に勤めた経験がある。

物腰も頭脳も柔らかさを感じさせる人だった。

図画工作や美術を専門としていたが、当時よく実践論文などを書いていた方であった。

そのせいか、本書はかたい内容ではなく読みやすく分かりやすいのは、いかにも氏らしい。

「質問を投げかけてから、10秒は待つ」

「否定する言葉を使わない」

「オウム返しや言い換えをする(『〇〇ということですね』など)」

「事実と意見を分ける」

など、教師が「教えない人になる」ために大事なポイントが具体的である。

 

朝の短い時間の実践によって、

子どもたちに自分の思いを自由に表現する力をつける

みとめ合う力をつける

自己肯定感をつける

などができるということ。

そして何より教師の「子どもを支える力」「子どもの力を引き出す力」が育つことが期待できる。

すでに現職から離れて遠くなってしまったが、読みやすくいい本だと思った。

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「EPICソニーとその時代」(スージー鈴木著;集英社新書)

2024-07-19 22:11:52 | 読む

BS12の「ザ・カセットテープ・ミュージック」は、80年代の音楽を取り上げて、熱く独断で語り合う番組で、時々見ている。

スージー鈴木氏が、マキタスポーツ氏と2人で語り合う姿は、見ていて本当に音楽が好きな方なんだな、と思っている。

そんなスージー鈴木氏の著書を新書で見つけ、買ってきたのが、この本。

本の帯や表紙カバー裏には、次のような本書の紹介があった。

     

「80年代」と書いて、「EPICソニー」と読む――。

先進的な音楽性により80年代の音楽シーンを席捲したレコード会社「EPICソニー」。

レーベルの個性が見えにくい日本の音楽業界の中で、なぜEPICだけがひと際異彩を放つレーベルとして君臨できたのか?

そして、なぜその煌めきは失われていったのか? 

佐野元春《SOMEDAY》、渡辺美里《My Revolution》、ドリカム《うれしはずかし朝帰り》など名曲の数々を分析する中でレーベルの特異性はもちろん、当時の音楽シーンや「80年代」の時代性が浮かび上がっていく。

佐野元春ロングインタビュー収録。

 

80年代という時代は、私にとっては、社会人になったばかりの年代だったので、仕事をこなしていくのに必死で(?)、EPICソニーから出ていた歌については、あまり多く知らなかった。

だが、著者のスージー氏自身が高校生であったり大学生であった時代、本当に好んでよく聴いていたのが、EPICソニーレーベルの音楽だった。

その音楽をこよなく愛していたからこそ、追跡して書かれた本だということがよく分かった。

 

第1章では、EPICソニーの「音楽」。

大沢誉志幸、ラッツ&スター、大江千里、岡村靖幸、渡辺美里、BARBEE BOYSそして佐野元春その他の人たちの佳曲について、スージー氏独自の解釈を加えて紹介していく。

「そして僕は途方に暮れる」「め組の人」「目を閉じておいでよ」「SOMEDAY」ら、知っている曲も結構あった。

ほほう、そんな人たちのそんな曲には、そんなエピソードがあったのか。

いい歌を歌っていたんだね、ということを改めて知った感じ。

 

第2章では、EPICソニーの「時代」。

EPICソニーは、どのように始まったのかや、中心になっていたリーダーだった人の話など、その歴史が述べられる。

歌謡曲の受賞ダービーがいやで、逃げ出したかった、というのがきっかけというのは興味深い。

 

そして、面白いのは、EPICソニーの「意味」として、その素晴らしかった存在理由を次々述べているところだ。

EPICソニーとは「ロック」だった

EPICソニーとは「映像」だった

EPICソニーとは「タイアップ」だった

EPICソニーとは「東京」だった

つまるところ、EPICソニーとは「佐野元春」だった

これらの解釈が、スージー氏らしくていい。

なるほど、この文章たちが、この本の肝なのだと思った。

 

第3章は、EPICソニーの「人」

EPICソニーで重要な役割を果たした2人へのインタビュー。

小坂洋二氏そして佐野元春氏への貴重なインタビューで当時のことを掘り下げていく。

 

今までEPICソニーをよく知らなかった私でも興味深く読めた。

「ロック」を目指して、独自の戦略で意欲的に取り組み、当時音楽界をリードしたEPICソニー。

なるほどなあ。

歌好きな人なら、面白く読めるだろう。

また、1980年代に若い時代を過ごし、歌が好きでよく聴いていた人たちなら、懐かしさだけでなく初めて知ったエピソードも多く、さらに楽しめることだろうな。

著者のスージーさんが、最も楽しんでこの本を作ったような気がした。

 

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44年ぶりの再読「こころ」(上・下)(瀬戸内晴美著;講談社)

2024-07-04 21:23:11 | 読む

車庫の段ボール箱に詰め込んでおいた本が、2年前の出水で濡れてしまった。

濡れた本のほとんどは捨ててしまったが、数冊捨てられない本があって、何日か陽に当てて乾かして残したものもあった。

瀬戸内晴美の「こころ」という、上下巻ある本も、その一つだった。

 

この作品は、私の学生時代に、読売新聞で連載されていた。

「こころ」という名の小説は、夏目漱石の作品の中にもあった。

だが、それとどのようなかかわりがあるのかは知らない。

作者のみぞ知るところではある。

連載当時、読売新聞を購読していた私は、珍しく毎回この小説を読んでいた。

それなりに面白さを感じたのだろう。

だから、単行本化されたときには、購入して読んでみる気になったのだろう。

上巻、下巻の2冊で発行されたこの本を読み終えたのは、巻末のメモによると、上巻が1980年の9月21日、下巻が9月23日であった。

当時、社会人1年生だった私が、一気読みしたことがわかる。

 

だけど、今、その小説の内容をまったく覚えていないのである。

濡れた本を乾かしてまで取っておくことにしたのは、かつての自分が一気読みをしたのはどうしてなのかなあ、その面白さを知りたいと思ったからだった。

だけど、いざ読もうという気持ちにはなかなかなれなくて、それから2年もたってしまった。

バーコードもついていない古い本だし、汚れてしまった本だから、処分しよう。

でも、その前にもう一度読んでみよう、と44年ぶりの再読を決心したのだった。

 

いざ読んでみると、上巻も下巻も320~330ページの厚みがあった。

おまけに、案外文字がびっしり並んだページも多かった。

とてもじゃないが、かつてのように一気読みをする気力はなく、読んでは休みをくり返して2週間近くかけてようやく読み終えた。

 

どんな話なのかを紹介する帯に書かれている文章を紹介する。

【上巻;表】

愛することの真実を!

人はみな他人との愛の関係に生きる。ままならぬ「こころ」をめぐって俗情のうちに…。

【上巻:裏】

子供は成長すれば家を出て行く。長男はアメリカに長期留学中、次男は受験に失敗して流浪の旅へ、長女は妻子ある男と恋愛中のアパート暮らし。こういう失格家庭で、家族は互いに言うに言われぬ思いやりを示す。淋しく生きねばならぬ故に、絆の大切さを知る。

 

2つの家庭で登場する人物たち…結婚する前の若者である子どもたち一人一人や、その親たち―特に母親—…の行動や心情を描きながら、ストーリーが展開する。

これをかつて読んでいた頃は、私は、登場する若者たちと同年代であった。

その母親や父親から押し付けられる価値観は、たしかに私も感じたものだった。

それは、当時父親より意外と母親の方が特に強かった。

だから、小説では、既成の道徳観・価値観とぶつかる、登場人物たちの自由さに喝采を送りたいところがあった。

書かれてある当時の風俗や常識が、今では想像できないものもあり、読む方には懐かしく感じられた。

出てくる結婚観や喫煙シーンなどは、時代が変わったと思わされた。

 

再び、帯の紹介文。

【下巻:表】

新しい家庭小説の誕生!

切れてしまった家族のつながり。それぞれ社会に直面して傷つくことで初めて愛の光景が出現。

【下巻:裏】

ここには現代の家庭が持つあらゆる問題がある。夫の浮気に悩む妻、子供に苦労する母親。もっとも今様の風俗を描きながら、いずれの場合にも求めてやまないものとして「こころ」がある。それは、人が生きていくうえでの、闇の向こうのかすかな明るみを確信させる。

 

今改めて帯の紹介文の「こころ」の入った文章を見て、そういうふうに読む小説だったのだな、と思う。

今回再読しながら、登場人物たちの浮気や不倫の行方がどう展開するのか、大学受験に連続して失敗した若者がどんな道を進むのか、そんなところは気になった。

だが、読み終わって、意外性がありながらも、結果的には物足りない終わり方だと感じた。

若いときには、どうして面白く一気読みしたのか、今となってはわからない。

とりあえず上下巻の帯の文章から、「そうか。みな『こころ』を求めていたのか」と気付き、物足りなさはあるが、納得することにした。

 

著者はその後出家して、「寂聴さん」になった。

「瀬戸内晴美」の時代に出されたこの本にも、寺に嫁いだ女性や出家しようとする若者などが登場する。

仏教に多する著者の造詣の深さを感じ、その後の出家、寂聴さん誕生も分かるような気がした。

 

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「エルマーのぼうけん(3部作)」(ルース・S・ガネット著;福音館書店)を読む

2024-06-22 13:17:41 | 読む

先日、アメリカの児童文学作家ルース・スタイルス・ガネットさんが日死去したというニュースが新聞に小さく載っていた。

100歳だったそうだ。

「児童文学作家ルース・スタイルス・ガネットさん」と言われても、ピンとこなかった。

だが、児童書「エルマーのぼうけん」の作者だと知って、ああ、そうだったのか、と思った。

「エルマーのぼうけん」は、どうぶつ島にとらわれたりゅうの子を助けに行く、9才の男の子エルマーの冒険物語だ。

この本は、1948年に出版されたそうだが、私が子どもの頃、小学校の図書室にあったと記憶している。

図書室には、「エルマーのぼうけん」だけでなく、「エルマーとりゅう」の本も置いてあったのを覚えている。

だが、このシリーズは3部作で、もう一つ「エルマーと16ぴきのりゅう」もあったのは、記憶に残っていない。

でも、「エルマーのぼうけん」「エルマーとりゅう」の本は好きだったことを覚えている。

 

アメリカでは、1948年から51年にかけて、「エルマーのぼうけん」「エルマーとりゅう」「エルマーと16ぴきのりゅう」の順に出版され、世界的ベストセラーとなった。

日本でも累計780万部を記録したベストセラーなのだが、日本では、1964年初版で福音館書店から出版されていた。

私が小学生になったのは、1963年だったから、その頃新しい本として図書館に入ったばかりだったのだろう。

まさに低学年の頃だし、表紙絵からしても魅力的な本として目に映ったに違いない。

子どもの頃は冒険のお話は大好きだったから、「エルマーのぼうけん」には飛びついたことだろう。

さて、わが家には、30年近く前に、この3部作がセットで買ってあった。

子どものためだったのかもしれないが、大人でも手元に置きたい本だったのかもしれない。

話はすっかり忘れてしまっていたので、このたび順番に読んでみた。

 

9歳の少年エルマーが、家に出入りするねこから、とらわれた竜の子の話を聞き、遠い島まで助けに島に行く。

リュックに入れて持って行ったものが、チューインガムや桃色の棒付きキャンデー2ダースとか、じしゃくやむしめがね6つとか、「クランベリ行き」と書いた大きな袋…など、いちいち物の名前や数などが書かれているのも面白い。

やがて、それらがちゃんと使われるときがきたり、使われるときにはどういうことでいくつ使われるとか、子どもが気にしそうなことにもこだわってストーリーが展開するのは楽しい。

子どもの側に立って話が作られているから、読んでいて楽しいのだ。

 

想像をかきたててくれるのが、挿絵だった。

ふわっとした可愛い絵が多い。

「りゅう」というと、怖いイメージがあるが、エルマーと友だちになるりゅうは、とても愛らしい。

挿絵を描いたのが、作者ルース・S・ガネットの義理の母、ルース・C・ガネットだというのだから、その関係を思うとなんとなくほのぼのした感じにもなる。

 

様々な困難にあうたびに、エルマーは機転を利かして乗り越えていく。

自らの知恵を使い、手元の道具を生かして。

それは、相手を傷つけ痛めつけることなく。

そんなところが、子どもだけでなく大人受けするところなのかもしれない。

 

楽しい物語を与えてくれたことに感謝し、100歳で亡くなられたルース・S・ガネット氏の冥福を祈ります。

合掌。

 

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「となりの革命農家」(黒野伸一著;廣済堂出版)を読む ~「脱限界集落株式会社」(小学館)に続いて本書、そして「限界集落株式会社」(小学館)と黒野伸一氏の農業小説を3冊読む~

2024-06-08 21:41:19 | 読む

『脱限界集落株式会社』を読んでから、その前編に当たる『限界集落株式会社』を借りて読もうと思ったら、残念ながら貸し出し中。

そこで借りてきたのが、同じ黒野伸一さんの、「となりの革命農家」(廣済堂出版)。

何をやっても長続きしなかった和也が、夫の遺志を継いで有機農業にチャレンジする春菜と出会って、やがて2人で本格的に有機野菜作りに取り組み始める。

だが、しょせん有機農業の素人同士。

うまくはいかない。

だが、失敗し続けても有機農業にこだわって続けて工夫するうちに、少しずつ有機野菜づくりが軌道に乗り始める。

 

そんな2人のほかに重要な登場人物が、左遷されてその地域にある子会社アグリコジャパンにやってきた理保子。

彼女は、今まで通りの慣行農業とアグリパーク構想で、世界に勝てる農業を立ち上げ、本社に返り咲きをねらおうとする。

そうすることで、左遷にかかわった人たちを見返してやりたい、と思っていたのだ。

 

最初は、和也たちと理保子ではまったく方向性が違う農業を目指していた。

野菜の味などどうでもよいとしていた理保子だったが、やがて地域の農地が買収されそうになり、裏に大きな権力が隠れていることを知る。

地域の農業・農地を守るということで、地域の人々や和也たちとも結託して取り組むようになる。

 

前に読んだ「脱限界集落株式会社」もそうだったのだけど、この物語も、当初の主人公の活躍から、だんだん舞台がずれていき、金のない弱者対金のある強者の戦いになっていく。

登場人物は魅力的なんだけど、その戦いが中心になってしまうのが残念だ。

「となりの革命農家」というタイトルなんだから、有機農業にしても、新しい農業経営にしても、もう少しその難しさをえがいてほしかったなあ、と思う。

 

まあ、最後に、知恵を絞ってまとまってがんばった弱者が勝利する話なので、まるで水戸黄門を見ているような気分になれるのだが。

話の最後には、日本の農業のために、その地域に骨を埋める覚悟をしてとどまり、そのための経営的な仕事を選択した理保子が、格好よく好ましい。

 

気に入ったのは、

“有機農業は野菜が生育するのを人間が手助けしてやる農法。だから主役はあくまでも野菜“

ということに和也たちが気づいて、おいしい有機野菜を育てることができるようになったところ。

そうやって育てた有機野菜のおいしさに、理保子も目覚めていくのはほっとしたところだった。

 

本書を読了後、出発点の(?)「限界集落株式会社」も借りて読むことができた。

「限界集落株式会社」「脱限界集落株式会社」「となりの革命農家」。

3冊の本を読んで、著者の黒野伸一さんは、こうして農業でがんばる若者たちを主人公にして、痛快な小説を書いて、農業に携わる人たちに元気を与える作家なのだなあ、と実感した。

話がいずれもハッピーエンドになるのはちょっぴり安易かもしれないが、3冊とも読後感は爽やかである。

読んで心がほっとする作品、楽しかった。

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「物語の種」(有川ひろ著;幻冬舎) …10編の短編小説を楽しむ

2024-06-05 09:57:35 | 読む

COVID-19感染症禍の息苦しい期間に、読者から「物語の種」になりそうなものを募集し、そこから芽吹いた物語をネット上で発表するということに著者はチャレンジした。

本書は、そうやって10の種から生まれた10編の短編小説集。

 

1つ1つの話の終わりに、どんな物語の種だったのかも明かしている。

読者から提供を受けたものばかりでなく、担当編集者から、というのもあった。

種の種類には、お手紙あり、写真(ヤモリとか薔薇とか)あり、質問のような言葉あり(「胡瓜と白菜どっちが好き?」)、連続した単語あり(宝塚 双眼鏡 顔が良い 恥ずかしい 見れない)で、確かにいろいろな種をもとにしていた。

そういった種をもとに、想像を膨らませて小説を創造するのだから、やっぱりすごいわ。

しかも、登場するのは、私たちのように何気ない日常生活を送っていてその辺にいそうな人物が登場したり、日常生活の中でありそうなエピソードばかりをうまく使って、意外性のある物語を作っていた。

さすがは人気作家の有川ひろさんだと、ひたすら感心した。

 

そんななかで、本書で目を引いたのが、「宝塚愛」である。

短編集10篇のうち、3編も宝塚歌劇団が深く関わる短編が入っている。

その中で、「Mr.ブルー」と「恥ずかしくて見れない」という作品はつながっていて、続編に当たるとも言えそうだ。

登場する人物も、意外なほど宝塚にハマっているのだが、そのハマり具合がなんとも楽しい。

しかも、出てくるスターには、きっとモデルとなるスターが実在するのだろうな、そうでなければここまで詳しく書けないよな、なんて考えてしまった。

きっと、この感染症禍に有川さんも宝塚にどっぷりハマっていたのではないか、と思わせるものだった。

 

10編の物語は、短編なので読みやすかった。

それぞれの話を読み、それがどんな「種」から芽吹いたのかを1つ1つ知ることによって、日常の中で一人一人にさまざまな物語があるのだな、と思った。

きっと、自分の中や周辺にも、「物語の種」はたくさん存在しているのだろう。

だけど、その種が芽吹いていたり、実にまでなっていることに、案外気づいていないのかもしれないな。

 

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「脱・限界集落株式会社」(黒野伸一著;小学館)を読む

2024-05-27 20:05:04 | 読む

移住の一番の理由が住まいの提供があって、安価だということ。
そんなことで地方に移り住んだ、やる気があるとは言えない若者が、少しずつ変わっていく、というか成長していく。
そこには、太っ腹なじいさんやばあさんがなかなかの役割を果たしている。
そんな話で始まっていくが、やがて話の中心は、巨大資本をバックにした大型ショッピングモールと地元商店街との、駅前シャッター商店街の再開発をめぐる対決に移っていく。

主人公の一人である若者健太が、地方・田舎の人々とふれ合うことによって、商店街を盛り上げながら、少しずつ成長していく。
そこにはちょっぴり恋愛の要素も入るのだが、そういうことがまたいいアクセントになっている。

さて、巨大資本をバックにした大型ショッピングモール対さびれた地元商店街の一部の住民たち。
どうすれば後者が前者に勝てるのだろう、と思いながら読み進めていった。
田舎に住む人間にとって、都会への憧れや便利さは大きい。
大型ショッピングモールには、それがあるからそれを売りにする。

後者が大切にしていくものが、田舎そのもののよさ。
たとえば、農産物の食べ方、活かし方。
たとえば、若者から高齢者まですべての人に対する思いやり。

普通は、大型モールの一人勝ちになる地方が多いのが現実だろう。
最初は、対立の構図から、どうやって力のない者たちが力のある者に対して、逆転して勝っていくのだろうと思いつつ読んでいたが、途中で考えが変わった。
開発を打ち出す大型ショッピングモールも必ずしも悪いところばかりではない。
田舎の人間にはあると便利だし、助かる部分も多い。
だけど、みんながみんな大型モールみたいになる必要もない。
大型モールには出来ないことだってあるのだ。
だから、両立できるようにするのが理想なのだ。
どちらも、キーワードは「人を大事にする」ことなのだ。
そこから外れて行ったとき、破たんを招いてしまうのだ。
本小説は、そんなことを言ってくれているような気がした。

本書は「脱・限界集落株式会社」だったが、その後この話は続編にあたるらしいと知った。
同じ著者が、「限界集落株式会社」という小説を書いていて、それが前編になるようだ。
途中から重要な働きをする人物たちは、その前編でも活躍していたと聞いた。
順番が逆になったが、それでも「脱・限界集落株式会社」は、十分楽しめた。
そのうち、前編に当たる同じ著者の「限界集落株式会社」も読んでみよう。
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「フジ子・ヘミング真実の軌跡~ドラマでは描かれなかった物語~ 」(喜多 麗子著;角川書店)

2024-05-14 18:08:14 | 読む

フジコ・ヘミングの名前は知っていた。

その彼女が4月21日に亡くなっていたことが、この連休中、彼女の公式ホームページから発表されていた。

彼女が、聴力を失いながらも情熱的な演奏をするピアニストであるということは聞いていた。

波乱万丈な人生を送って来たということも。

だけど、恥ずかしながら、じかにピアノ演奏を聴いたこともないし、どのような人生だったのかもよく知らなかった。

そこで、図書館で彼女の名前を見た時に、その人生を知ってみたいと思って、本を借りることにした。

 

2003年秋に放送されたドラマ「フジ子・ヘミングの軌跡」は、菅野美穂が演じて話題となり、そこでフジコ・ヘミングを知った人も多かった。

その番組の制作にあたってインタビューを重ねた際、フジ子本人があらためて自身の足跡を吐露したという。

ドラマでは収まり切れない量の人生とわかったので、本書は、プロデューサーが、改めて本にまとめたのだということだった。

その本が出版されたのは、2004年のことになる。

もう20年も前の本ではあるが、書名の「真実」に変わりはないだろうと考えて、本書を選択した。

 

本書では、母の影響が非常に強かったことが描かれている。

それは、フジ子にピアノを教える以前の母・投網子の生き様まで書かれていることからも分かる。

その母から厳しくピアノをたたき込まれ、幼少の頃から天才ピアニストとして脚光を浴びてきたフジ子。

厳しさに逃げ出す彼女だが、幼少期はアカマンマが一面に赤く咲く原っぱが心のよりどころだったという。

だが、時代もあって、素晴らしい才能を持って生まれながら、決して恵まれているとは言えない境遇に育つ。

外国人の父は、日本から出た後、帰ってくることがなかった。

その後も、様々な苦難が彼女を襲う。

右耳の聴力を失ってしまった。

ピアノで生きるために外国に渡ろうとしたら、国籍がなかった、という問題も起こったりした。

それでも、ピアノの演奏を通じて、なんとか乗り越え、ようやくピアニストとして生きる道が開けようというときに、いつものように起こるアクシデント。

そして、きわめて貧しい生活の連続。

そんな生活に追われながらも、彼女の心の奥底で厳しかった母が支えになっていた。

 

やがて、母の死を契機に35年ぶりに移住した日本で、彼女は奇跡の復活を遂げた。

なんという波乱に満ちた人生だろう。

 

本書では、その彼女の言葉が、2つ心に残る。

①本書の始まりのページに、次の文章があった。

母からは、強く生きること……「忍耐」を教わった。

「母は、世の中で一番好きな人だったけれど、天国では、一緒に住みたくない」

と彼女は微笑んだ。

 

②ピアノの上に乗った猫が、フジ子の頭に向かって、手を丸めて軽くたたくようななでるような様子を見て、〝この子は頑張れと言っているんだ。励まそうとしてくれているんだ″

と気づく。涙が止まらなくなったフジ子は、この子を飢え死にさせないためにもしっかりしなければいけない、と決意した。

後に出てくる言葉がすごい。

「どんな悲しいことがあってももう涙は出ない。だから今、泣いている人なんて、まだ苦労が足りないのよ」

…ははあ~、すみません、そのとおりですぅ~…と心の中で返事をしてしまった。

彼女は、想像を絶するような人生をピアノとともに送ってきたからこそ、なおのこと深く豊かな感性に満ちた音楽を奏でることができたのだろう。

 

彼女の公式ホームページを見ると、今年もたくさんのコンサートの予定が入っていたようだ。

もちろん、すべて中止となってしまったが、多くのファンがいただけに、彼女のピアノの演奏を生で聴く機会が失われてしまったのだなあ、と残念に思う。

たくましく人生をピアノとともに生きてきた彼女の演奏を、今後なんらかの方法でゆっくり聴いてみたいと思っている…。

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珍しいチェスを題材に繰り広げられる若者たちの生きざま~「エヴァーグリーン・ゲーム」(石井仁蔵著;ポプラ社)~

2024-05-10 20:26:43 | 読む

この「エヴァ―グリーン・ゲーム」は、第12回ポプラ社小説新人賞受賞作であり、昨年秋に出版された本だ。

著者の石井仁蔵氏は、ご当地新潟県新発田市出身の小説家。

1984年生まれで、東大文学部出身なのだという。

 

日本では競技人口が少ないチェス。

そのチェスを題材にして描かれた小説。

「相棒」で右京さんがよくやっていましたけどね。

チェスなんか知らないよ、やったことがない。

それなのに、登場する人物がチェスを通して、本当に生き生きと活躍する。

最初は、1章ごとに登場人物が変わる。

難病で小児病棟で入院生活を送っていた小学生の透が、チェスに没頭する少年と出会う。

ある日、チェス部の部長のルイに誘われた合コンで、昔好きだった女の子と再会チェス部の実力者である高校生の晴紀。

全盲ゆえに母からピアノのレッスンを強要された全盲の少女・冴理が盲学校の保健室の先生に偶然すすめられたチェスにハマる

児童養護施設で育ち天涯孤独の釣崎は、晴紀への暴行事件からチェスに興味を持つ。少年院を出た後、単身アメリカへ渡り、マフィアのドンとチェスの勝負することになる。

この4人が、大好きになったチェスにかかわりながら懸命に生き、残り2章で行われる大会で、優勝をかけて激突していく。

 

4人とも抱えている事情が違い、生き方がそれぞれ違うが、誰からもチェスは楽しい、チェスで負けたくない、もっと生きてチェスがしたい!ということが、がとてもよく伝わってくる話だった。

 

特に、破天荒でありながら最強の釣崎は、「ただ、チェスを指すこの一瞬のために、生きている」という生き方。

負けると命を取られる可能性もあった釣崎。

だが、決勝で命をかけて対戦しながら倒れる透に対し、釣崎は罵声を浴びせるが、それはチェスが好きで好きでたまらない人間にしか言えない叫びだった。

そこには、深い感動があった。

チェスをすることと、生きること、人生をうまく重ね合わせて読み応えがあった。

チェスをまったく知らない私でも、大会がどういう終わり方をするのだろうと、物語に引き込まれてしまった。

なるほど、新人賞を獲得するだけのことはある佳作だ。

面白かった。

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50年以上たっても、本質的な問題は変わっていない ~「恍惚の人」(有吉佐和子著;新潮社)を今さらながら読む~

2024-04-25 19:48:54 | 読む

50年以上も前にベストセラーとなったことを知っていたが、読まずにいた。

それは、自分が若かったからだし、老人を描いた小説なんて読みたくなかった。

なにしろ、1972年の作品だったから、その頃自分は高校1年生。

恋バナとかもっとワクワクするものを読みたかったのである。

だが、自分が高齢者となって、読まずにおいてはいけない気がして、今回初めて読んでみた。

それが、この有吉佐和子の「恍惚の人」。

 

姑の突然の死によって、認知症になってしまっていた舅を、家族として介護せざるを得なくなってしまった主人公の昭子。

1972年の頃であれば、たしかに嫁が老いた舅の世話をしなければいけない時代であった。

時代を反映するように、話の始まりから、人が亡くなった時に家庭で一般にどのような手順を踏んでどんなことを行いながら葬式まで行うか、まったく知らなかった昭子を追いながら、それらを示していく。

今は、葬儀会社に連絡すれば、つつがなく行ってくれはするが、あの時代はまだ各家庭で行っていたのだった。

そんなふうに時代を感じながら、読み進んでいった。

 

途中途中ではさまる情報が、当時の様子を伝え、と未来(われわれが生きている現在)の姿を示唆してくれていた。

 

例えば、会話に現れる、当時の平均寿命。

「なるほど、女の方が平均寿命が長いんですからな。七十歳でしたかね」

「七十四歳ですよ、あなた」

(略)

「男の平均寿命は何歳でしたかな」

「六十九歳」

…そういえば、このくらいだった。

現在では、2022(令和4)年のデータで、日本人の平均寿命は男性が81歳、女性が87歳というから、ずいぶん長命になったものだ。

 

そして、1970年頃には、明治時代に生まれた人間も元気な人が多かった。

明治生れが全人口の三パーセントに減少しているというのに、我々の会社は未だにこの三パーセント族に押さえこまれているではないかと一人が嘆けば、日本人口の老齢化が我が社においても顕著であると一人が和す。

 

本当か嘘か知らないが、今から何十年後の日本では、六十歳以上の老人が全人口の八十パーセントを占めるという。

昭和八十年には六十歳以上の人口が三千万人を超え、日本は超老人国になる運命をもっているという。

 

文明が発達し、医学の進歩がもたらした人口の高齢化は、やがて恐るべき超老大国が出現することを予告していた。

そして、現にほとんどそれに近い形になっている。

現在、年老いて長生きすることは、幸福につながっているのだろうか。

物語で、昭子の息子の高校生敏は、祖父にあたる茂造の姿を見るたびによく言うのであった。

「パパも、ママも、こんなに長生きしないでね」

 

小説では、時間の経過とともに認知症の程度が深まる舅の茂造の様子が、具体的で詳しく書かれてあった。

そして、介護に取り組む嫁の昭子のかかわり方や心の移り変わりも。

 

本書では、認知症となった高齢者の症状や、その介護についての問題、嫁姑の問題、夫婦間の問題、働く女性の家庭との両立の問題など、たくさんの問題があぶり出されていた。

それらの問題は、50年たった今でも、少しも色あせずに残っているのが何とも言えない。

本質的な問題は、何も変わっていないのだ。

 

昔この本を読んでも、ちっともピンとは来なかったかもしれない。

だが、自分も60代後半まで生きて経験を重ねてきたから、今になって本書の登場人物の心情がわかるようになったと思うことも多くあった。

 

幸い自分の場合、自分の両親も妻の両親も、認知症の問題には直面せずに済んだ。

齢を重ねることは誰でも経験することだが、さて、自分は今後どうなる?

昭子が茂造の様々な行動に疲れ切ってしまいながらも、しっかりと対応していたのは立派であった。

私自身はどうだろう?そんな訳の分からない状態になったら、彼女のような対応を周囲の人にしてもらえる自信がない。

自分の身に置き換えて、様々なことを考えさせられた。

 

とにもかくにも、ずっと気になっていた「恍惚の人」という小説を読み終えることができた。

「恍惚の人」にならないようにするには、どうすればよいのかは分からないが、自分なりに「終活」を意識しながら、日々生活を充実させて生きていきたいものだとは思うのだが…。

 

コメント
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