山横目のブログ

日々のつぶやきや旅の忘れじを書き綴ります。

弘化4年の信濃善光寺地震について

2020-04-20 13:54:55 | 大森家 古文書解読
4月20日 朝から小ぶりの雨が降っているが、それほど寒くはない。
今日は家にこもっていて、ふと思い立ち、久しぶりに以前に読んでまとめておいた古文書を再読してみた。
常陸国久慈郡常福地村・大森家に残されている古文書の中に、なぜか弘化4年(1847年)に起きた、信濃善光寺地震に関する文書があったので内容を少しまとめてみた。
(原文)

この文書は信濃國松代城主「真田信濃守」より幕府の勘定奉行に当てた報告書の写しで、大量に手書きコピーをして各藩の奉行所を経由して、各村々の庄屋に配られたものと思われる。
(解読文)
【弘化四年 信濃善光寺地震について】
 弘化四丁未年三月廿四日夜
  信濃国 善光寺並近辺大地震ニ候
   御写書之事
  同国松代城主
   真田信濃守殿より

公達江御届書之写
一当月廿四日夜九ツ時頃大地震之有 信
 州善光寺本堂山門斗相残り大動寺
 初□申不残打崩 其上出火ニ相成不残
 焼失 善光寺町藤屋平五郎と申大□ニ
 止宿驟人凡六百人余り内五百人致即死
 以多也 同国稲荷山宿方同様にそ□六百人
 余り致即死 同国須坂 飯山 松代の
 三城并城下□打崩 同国水内郡山谷
 府犀川 山津波と岩石押出 同国
 筑摩郡之より花水佛座相成也
 此拠御届申し上候
      真田信濃守 判
  未三月晦日
 信州水内郡 佐久間郡之陣分御□
 川上重五郎殿より右同様ニ候
  御勘定奉行御届書

弘化4年3月24日の夜に起きた信州善光寺周辺の大地震で火災が発生し、善光寺の本堂や山門は残ったがそのほかは残らず焼失した。善光寺町藤屋平五郎の宿坊に泊まっていた600人のうち500人が死亡した。同様に稲荷山宿方でも600人余りが即死。須坂 飯山 松代の三城は崩壊し、水内郡山谷府犀川では山津波と岩石押出が起こり、筑摩郡之より花水佛座相成となっている。
「花水佛座」となったとはどのようなことなのかは不明。
このような地震による被害の状況を、各藩の奉行所や庄屋までもに知らしめる理由を少し考えてみる。
もちろん被害のあった地域に知己のいる人にとっては重要な情報になることは容易にわかる。もう一つ重要なことは、この大地震によって家が破壊され、田畑を失った農民が村を出て、各地に流出していくことが考えられる。江戸時代には農民の移動は禁止されていたので、各地の村の庄屋に対し、流失した農民をチェックさせるために情報を提供したものと考えられる。
実際に、この時期の奉行所からの「触書」には、信州から逃れてきた人の人数やどの村に現れたかなどの情報が書かれた文書が配布されていた。幕府や藩主にとって農民は年貢を調達するために重要な働き手となってる。そのため、自由に他の土地に移動されないようにしていた。「家」という仕組みの下に代々家督を相続することが求められた。

コメント
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