ディスカバリー伊豆

伊豆の美しい自然と貴重な歴史物語を徒然なるままに気の向くままに綴りたいと思います。

門脇埼灯台

2008-02-14 | 城ヶ崎海岸
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・・・・・・・・・・・・・( 現在の灯台 )・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (  旧灯台 )


城ヶ崎海岸は静岡県自然100選第一位に選ばれた富士箱根伊豆国立公園に属する屈指の景勝地です。とりわけ門脇岬付近は最も美しい場所です。門脇埼灯台は門脇岬に立つ伊豆東海岸の重要な灯台の一つで沖行く船の安全航海を守っています。昭和35年(1960年)初ての灯をともしました。(写真左)
その後、平成7年(1995年)上部に展望台のあるデザイン灯台に改築されました(写真右) 
<灯台の詳細>
*位置:北緯34度53分23秒 東経139度08分19秒
*高さ:地上~灯塔頂部=24.9m (地上~展望台=17m)
     平均水面~灯火=43.7m 
*光達距離:18マイル(約33Km)
*灯質:Fl.10 sec.(毎10秒に1回閃光)


城ケ崎ピクニカルコース

2008-02-11 | 城ヶ崎海岸
ぼら納屋(富戸)から海洋公園までの約2キロの海岸沿いの遊歩道を城ヶ崎ピクニカルコースと云い、城ヶ崎海岸の景観を楽しみながら約2時間の散策が楽しめます。
途中、ぼら納屋、魚見小屋、幕末の砲台跡、門脇崎の吊り橋、門脇灯台、半四郎落し(溶岩トンネルの跡)、星野哲郎歌碑、穴口(陥没した溶岩トンネル)などを見ることが出来ます。
晴れた日には水平線に伊豆七島が見えます。
ヒメユズリハ等の木々や秋から冬にかけて可憐な黄色い花を咲かせるイソギク、また、アマツバメ(春から夏にかけて)など珍しい野鳥の観察も楽しめます。

富戸のぼら納屋

2008-02-09 | 富戸地区

富戸は400年近く前(江戸時代初期。1726年頃)からボラ漁が盛んだった。獲れたボラは住民の蛋白源となるほか、徳川御三家の一つ紀州家へのご用達品や直接将軍家への献上魚として使われた。徳川三代将軍家光公もその美味を楽しんだとも云われる。ボラは又出世魚と言われ縁起のいい魚だった。このため幕府の保護を受けながら富戸のボラ漁は発展/継続された。ぼら納屋には春と秋の漁期に漁師が住み込み迅速な出漁に備えた。ボラ漁は昭和39年ごろまでは続けられたがボラの数も減り現在は行なわれていない。ぼら納屋もレストランに改造されている。


<ボラの漁獲方法>
ボラの大群を見つけると”あんぶね(網舟)”から大網を海に広げ、”くちぶね”が網の入口を両方から持ちボラが網に入り易い様に保つ。ボラが網に近づくと”はしけ舟(4丁櫓の高速舟)”が右に左に走り、漁師は舟腹を叩いてボラを網に追い込む。このとき網の入口付近に待機していた”いきじ舟”と”かいじ舟”が細長い別の網(かけ網と云う)を使ってボラが横に逃げないようにする。更に”はしけ舟”、”いきじ舟”、”かいじ舟”及び何人かの漁師が海に飛び込んでボラを大網に追い込む。頃を見計らって”くちぶね”が網の入口を絞りボラが網から出られなくする。
ボラの水面近くを群れをなして回遊する性質を利用した漁法。一度に何百匹~数千匹を獲る漁法。

富戸の魚見小屋

2008-02-09 | 富戸地区
富戸は江戸時代半ば(1744年頃。徳川8代将軍吉宗の頃)からボラ漁が盛んに行なわれたが、ボラの大群を見張ったりボラを獲るときの指揮をこの小屋で行なった。
現在この魚見小屋は貴重な文化遺産であり静岡県の「有形民族文化財」に指定されている。

富戸の定置網

2008-02-09 | 城ヶ崎海岸
ぼら納屋近くの”まえかど(岬)”~”こずり(岬)”の約100m沖には定置網が置かれています。回遊してくる魚が網(垣網)にあたって方向を変えると網の奥へ奥へと進んで網から出られなくなってしまう構造となっており、一時に大量の魚を捕獲する漁法の一つです。10人程の漁師さんが、毎日、早朝、2隻の漁船で網を引き上げます(第二と第四土曜日は休み)。魚の種類はブリ、アジ、サバ、イワシ、スルメイカなどのほかチヌ、ブダイ、イシダイ、ホウボウなど各種の魚が獲れます。
伊東には富戸のほか宇佐美、川奈、赤沢地区の沿岸にも定置網が敷設されています。


"おおづり”の歌碑

2008-02-09 | 城ヶ崎海岸
城ヶ崎海岸をぼら納屋から門脇灯台の方へ歩き出して間もなくの岬”おおづり”の岩の上に歌人 香川進氏(1910年~1998年)の歌碑があります(ピクニカルコースから微かに見える程度で殆ど気がつきませんが)

1970年沖に見える伊豆大島の御神火を詠んだ句が刻まれています。
『夜の海 うるしの如くうねりゐて 噴く火に明るき島ひとつある』

 (注)香川進は豊かな海を有する香川県出身。多くの海の歌がある。 

伊豆七島

2008-02-08 | 城ヶ崎海岸


よく晴れた視界のいい日に門脇岬から見た水平線に浮かぶ伊豆七島のイメージ。
八丈島と御蔵島は遠すぎて門脇岬からは見られません。式根島は島が低い為(約100m)通常は門脇岬からは見えません(山の上など眼高を高くすれば見えます)



大室山の大蛇穴伝説

2008-02-06 | 補足説明など

<大蛇穴伝説>

むかしむかし 大室山のふもとの大きな穴の中に大蛇が住んでいました。この大蛇はたいへん恐ろしいやつで、ときどき近くの池というに下りて行っては作物を食べたり、ときには子供まで食べてしまいました。村人は恐ろしくて夜もおちおち眠れませんでした。

1203年、ときの鎌倉幕府二代将軍源頼家がたまたま伊豆に狩りにやってきました。池の村人は「これはいいチャンス!ひとつ将軍様にお頼みして、恐ろしい大蛇を退治してもらおう!」ということになりました。源頼家は村人の頼みをこころよく引き受け、家来の和田平太(ワダヘイタ)と云う大変強くて勇気のある武将に大蛇退治を命じました。そして、和田平太は村人に案内させ大室山のふもとにある大蛇の住む洞穴(大蛇穴)にやってきました。大蛇穴の近くまで来ると村人は恐ろしがって逃げていってしまいました。しかたなく和田平太は一人で大蛇穴に近づいていきました。洞穴の入口に着くと、和田平太はあたりに気を配りながら刀の柄に右手を添えて、そろそろと洞穴の中に入って行きました。洞穴の奥は真っ暗で、天井からはポタリポタリと水しずくが落ち、足元にはチョロチョロと水が流れていました。

和田平太は背筋がひんやりとし、恐ろしさが身をつつみました。しかし、それは源氏随一の武将の和田平太、武者震いをすると、なおも奥へ奥へと進んでいきましった。と、その時、くらやみの中から眼をランランと光らせ、口を「カーッ」とあけ、火焔の様な舌を出した恐ろしい大蛇が現れました。すかさず和田平太は腰の大刀をスラリと抜き「南無八幡大菩薩」ととなえると用心深く身がまえました。しばらくにらみ合いが続きました。「今だ!」、和田平太はチャンスを見はからって大蛇めがけて斬りつけました。
「ギャーッ」、太刀先はみごと大蛇の心臓をつらぬきました。大蛇は和田平太の必殺の一太刀で死んでしまいました。

それからは池のに大蛇が現れることも無くなり、村人は平和に暮らしたということです。(おわり)



鷹羽狩行行句碑

2008-02-06 | 大室山・さくらの里
“伊豆は日のしたたるところ花蜜柑” 
俳人 鷹羽狩行(1930年生れ)が平成5年4月大室山を訪
れた時読んだ句を記念してたてられた碑。
初夏の「日ざし」を「滴る」ようだと詠たったこの句は、伊豆
の自然の明るさと豊かさをよく表現しているといわれている。



五智如来地蔵尊

2008-02-06 | 大室山・さくらの里
大室山山頂西方に等身大の五体の地蔵尊が安置されている。
江戸時代(1663年頃)相州岩村(神奈川県足柄下郡。根府川
と真鶴の間の集落)の網元の朝倉清兵衛という人の娘さんが
9歳で身ごもり、その安産を大室山の浅間神社に祈願したところ
無事安産したので、お礼にこの地蔵尊を山頂に奉納したと云う。
(浅間神社が建立されてから約9~10年後の話か?)
地蔵尊は真鶴石で造られている。
5体の地蔵尊は船で富戸港まで運ばれ、そこから1体を三つ
に分割して背中に背負い山頂まで運んだと云う。
(注)「伊東の歴史」によると奉納は1672年とのこと。
五智如来とは大日如来や阿弥陀如来など5つの如来さんのユ
ニットで、仏教でいう5つの知恵の集合だそうです。
五大如来とも云われる。神様(浅間神社)にお願いして安産を成し
遂げて貰い、お礼に仏教の地蔵尊?