ディスカバリー伊豆

伊豆の美しい自然と貴重な歴史物語を徒然なるままに気の向くままに綴りたいと思います。

八幡宮来宮神社のご神木

2018-01-24 | 八幡野・赤沢地区


伊東市八幡野地区にある八幡宮来宮神社(建立1200年の歴史をもつ)はいつ訪れても厳粛な気持になります。拝殿の横の大杉のご神木は幹まわり約6メートル、高さは50メートルほどあります。高々と空に向って伸びています。武運の神様のご神木とあって太平洋戦争中、戦地に向う兵士がお守りに杉の木の皮を少し頂き腹巻の中にしのばせて置いたとか言われます。今年も平穏な1年を願い初詣にお参りしました。

橋立駐車場がリニューアルされました

2017-04-03 | 八幡野・赤沢地区

市営橋立駐車場がリニューアルオープンしました(2017年3月)新しいトイレもあります。城ヶ崎海岸自然研究路のイガイガ根から橋立(大淀・小淀)/吊橋を経て八幡野港に至る区間、これ迄トイレがありませんでしたが、これで橋立から少し寄り道をすればトイレの利用が可能になりました(片道約10~15分の寄り道)。

堂の穴

2015-12-11 | 八幡野・赤沢地区

八幡野の海岸すぐ近くの岩壁に高さ4~5m、幅7~8m 奥行き7~8mの洞窟があります。堂の穴と呼ばれ、その昔八幡野のを治めた最初の神様がこの洞窟にお住まいになっていたということです。神様の名前はイワクラワケノミコトと言いました。
イワクラワケノミコトについて次の様な民話が語り継がれています。


<お酒の好きな神様>

昔々、伊豆の国を治める神様たちが伊豆の白浜に集まって話し合いが行われました。
一人の若い神様が八幡野の里を治めることになりました。神様の名前をイワクラワケノミコトと言いました。ミコトは大きな瓶(かめ)に乗って海から八幡野の里に着きました。そして海岸近くにある大きな洞窟を住み家とされました。ミコトは心が優しく、一生懸命に里づくりをされたので、里の人たちに慕われる様になりました。しかし、ただ一つミコトには困ったことがありました。それはお酒が大好きで朝からいつも酒を飲んでいることでした。酒がなくなると沖を通る船まで呼び止めて酒樽を置いていく様に強要しました。酒樽を献上しないで通り過ぎようとする船には海を大荒れにして航海出来ない様にしました。そのうち船は八幡野の近くには近寄らない様になり、八幡野に荷物を運んで来ていた船さえ来なくなりました。
里の人たちは大変困りどうしたら良いだろうかと考えましたが、直接ミコトに申し入れる人もありませんでした。
ある日ミコトが今日も酒を飲んで千鳥足で里を歩いていると何処からか歌声が聞こえてきました。
 「♪酒を飲むもの楽しいな、沖を通る船は困ってる、里の人々知らん顔、 何も知らな
  いミコト様、知らないことは楽しいな、知らないことは悲しいな、・・・・」
里の人たちが歌に託してミコトに申しいれていたのです。
その歌を聞いてミコトはハッと我に帰りいっぺんに酔いも醒め、自分がこれまでやって来たことは間違っていたと深く反省し、今後は酒はやめようと誓いました。そしてお住まいも海岸の堂の穴から船の見えない山側に移し、以後、里人が安心できる里作りに専念しました。それからというものは、里は栄え、人々は幸福に暮らしたということです。

現在、八幡野の山側に八幡宮来宮神社という約1200前に建立された有名な神社がありますが祭神は全国にある八幡宮の祭神ホムタワケノミコト(応神天皇のこと)とイワクラワケノミコトの2神が合祀された形になっています。元々は山側には堂の穴から移転した来宮神社(イワクラワケノミコト)と八幡神社(ホムタワケのミコト)の2つの神社があったものです。





河津三郎祐泰の血塚

2015-12-11 | 八幡野・赤沢地区


河津三郎祐(すけ)泰(やす)の血塚(曽我兄弟物語の発祥地)

伊東市八幡野と赤沢地区の境界線にほど近い森の中に(国道135号線の山側の別名“東裏路”と呼ばれる旧下田街道)河津三郎祐泰の血塚があります。
今から大よそ840年前、河津三郎祐泰が刺客の弓矢によってここで命を落とした所です。
当時、伊東の地を治めていたのは伊東入道祐親、その長男が河津三郎祐泰で伊東の南、河津の地を治めていました。
1176年、伊東祐親は伊東(奥野)で大々的な狩を催しましたが、その時余興として相撲退会を行いました。一番の人気を呼んだのは剛勇無敵と言われる河津三郎祐泰と剛力を誇る俣野影久の取り組みでした。影久は工藤祐経と言う武将の秘蔵の家来でしたが、実は伊東祐親と工藤祐経は親戚関係でありながら領地争いが絶えず、常に睨みあっている関係にありました。工藤祐経は「これはいいチャンス」とばかり剛力の俣野影久に河津三郎祐泰を投げ殺してしまう様密かに企みました。ところが相撲の結果は逆で俣野影久は河津三郎によって投げ飛ばされてしまいました。無念やる方なき祐経が、そのままで納まる筈はありません。闇討ちと弓矢の名人八幡の三郎、大見小藤太の二人の家来に言い付けて赤沢山(伊雄山)麓の谷間で待ち伏せさせ河津の館へ馬で帰る河津三郎祐泰を遠矢にかけて射(い)殺したのです。そして後の世に、その場に河津三郎の供養の碑として建てられたのがこの血塚です。

河津三郎には長男の一万と次男の箱王と言う二人の子供がおりました。二人は母と共に下曽我(現在の小田原近く)の曽我家に逃れ、名前を曽我五郎、十郎と改めました。
それから18年の歳月が過ぎ二人は元服し立派な武士となりました。建久4年(1193年)鎌倉幕府源頼朝が催した富士の巻き狩りの折、工藤祐経の陣屋に忍び込み、首尾よく父の仇を討ちました。これが日本3大仇討ちの一つ“曽我物語”であり、その発祥はこの様に伊豆八幡野の山陰に端を発していたのです。


雪景色

2014-02-15 | 八幡野・赤沢地区

2014年2月14日(金)昼ごろから夜半にかけ関東地方は記録的大雪に見まわれました。丁度1週間前(2月8日)も関東地方は大雪(都内で積雪27センチ、45年ぶり)となったばかりのことです。伊東市に於いてもしかり。市内あちらこちらで道は通行止め又はチェイン規制が敷かれました。大室山も真っ白に雪をかぶりました。

馬頭観音

2014-01-21 | 八幡野・赤沢地区


伊東市八幡野の国道135号線の海より、旧下田道と八幡野集落への旧道(浜道)との四つ角にあたるところに馬頭観音やお地蔵さんの石像が祀られてある祠があります。(少し離れて賽の神(道祖神)の石像も置かれています)
馬頭観音とは六観音(聖観音、千手観音、十一面観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音)の一つで人の心に住む魔や煩悩(欲望、執着、怒り、ねたみ)を全て取り払ってくれるとして奈良時代から信仰され崇められていました。頭に馬の頭の像がついているのが特徴です。身体は人と同じもの、顔が一つ、二つ、三つ、四つ、腕(ひじ)が二つ(人と同じ)、四つ、八つあるなどいろいろな形があるようです。
馬頭を頭に頂いていることからやがて民間信仰として、農耕や交通手段としてなくてはならない馬の無病息災、旅の安全を祈る観音様として崇められる様になりました。
旧道沿いに馬頭観音の石像をよく見かけるのはそのためです。
(日本海側の地方では海難防止祈願の信仰としても崇められているそうです)

リュウビンタイ

2014-01-14 | 八幡野・赤沢地区


伊東市八幡野の八幡宮来宮神社境内や裏山には大きなシダに似た珍しい植物が生えています。リュウビンタイと云う常緑シダです。リュウビンタイは伊豆を北限として、四国など黒潮洗う沿岸域、沖縄などに生育しています。場所は比較的水分量の多い谷間に見られます。
リュウビンタイの名前は葉が龍の鬢ヒゲに似ていることから由来していると言われます。(龍鬢帯) 別の説では根元が龍の鱗の様だから龍鱗(ビン)帯となったとも云われます。前者の方がより「納得」と言う感じです。



鵜渡根島(Udono-Shima)

2014-01-14 | 八幡野・赤沢地区





鵜渡根島
大島、利島、新島、・・・・と水平線に並ぶ伊豆諸島の一つですが伊東市では赤沢海岸以南でないと利島の裏側に隠れて見えないのであまり馴染みがありません。
高さ189m、周囲3.3Km 広さ0.4平方キロ、メジナ、イシダイなど釣りのメッカと言われます。明治時代は養蚕を営む人が住んでいましたが今は無人島です。
(写真は国道135号線を赤沢の更に下田方向に行ったところで利島の右端から顔を見せだした鵜渡根島です。下田、南伊豆から見ると完全に利島から離れた島となります。



ゆうまの坂と天神ヶ峯(赤沢)

2013-12-21 | 八幡野・赤沢地区


伊東市八幡野から旧下田道(東浦路)を赤沢方面に向かう時、曽我兄弟仇討ち物語発祥の地として有名な河津三郎祐泰の血塚を過ぎると、道は上り坂になります。この坂を「ゆうまの坂」と言います。この付近は地形的に山の谷間にあたり、昔は竹や木が生い茂り昼尚暗き寂しい場所だったそうです。今でも竹林が見られます。「ゆうま(”ユウマ”とカタカナ書きもする)」と言う由来は、明るい「昼間」に対していつも暗い「夕方」つまり「夕間(ゆうま)」の様だった事からその名が付けられとも言われています。(「夕魔」、「幽魔」から由来したと言う説もあります)

ゆうまの坂には昔悪い狐が住んでいて人をよく騙したと言うことです。ここでいろいろ悪い狐に騙された話が伊東の民話にあります。

ゆうまの坂を上りきり赤沢の方に下っていく途中(現在のルネッサ赤沢施設のある付近)を天神ヶ峯と云います。
下り道の始まる右側に石碑があります。第一次世界大戦に青島で名誉の戦死をされた小山濱吉と言う人を讃える墓碑です。

札場(ふだば)跡

2013-12-05 | 八幡野・赤沢地区
(イメージ)














ふだば(札場)又は高札場とは新聞、テレビ、電話等情報伝達手段のない時代(古くは奈良/平安時代からとも言われていますが主に江戸時代から明治時代の初期まで)国の定める法令を板に書いて往来に立て民衆に知らしめる方法をとりましたが、その立て札(高札)のあったところを云います。八幡野の国道135号線の山側、旧下田道(東浦路)が八幡宮来宮神社方面と伊東方面に分れるところがその跡地と言われています。現在は近くに「フダバ電気(フタバ電気ではありません)」と書かれた建物(民家)がその名を残しているだけで他に札場の跡らしき看板、案内板、痕跡などありません。

延命地蔵(八幡野)

2013-11-16 | 八幡野・赤沢地区
 

伊豆高原桜並木から八幡野へ抜ける旧道(東浦路)の途中に延命地蔵なるお地蔵さんが祠の中にまつってあります。何時の頃かはわかりませんが、その昔、戦いに駆り出された村人がここにさしかかった時、馬に乗った人が「もう戦いは終わった!」とふれ回っているのを聞き、村人はやれやれ命が助かったかと喜び、ここにお地蔵さんを祀ったと伝えられています。地元では延命地蔵としてその後も戦争に行くときこのお地蔵さんを拝んだと言うことです。
(注)伊能忠敬測量隊が日本地図を作る為に伊豆を測量した時(1815年)の測量日記では、ここに「延命の松」の大木があったと記されていますが、現在はお地蔵さんの後ろに枯れた大きな切り株が残っているだけです。


庚申塔

2013-10-28 | 八幡野・赤沢地区

・・・・八幡野の庚申塔・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・十足の庚申塔

庚申信仰の信者が建てた石碑。庚申信仰とは奈良時代(1300年前)中国から伝わってきた信仰で「人間の身体の中には三尸(さんし)の虫がいて、60日ごとに巡ってくる「庚申(かのえさる」の日に、その虫が体内から出て天帝にその人の悪行を報告しその人を早死にさせる。だから庚申の日には虫が身体から出ない様に寝ないで夜を過ごすべし」と言う信仰です。最初は庚申の日、信者達は静かにその夜を過ごしたものがだんだんその日みんなが集まることが楽しみとなり、その夜は夜通し宴会の夜になったものといわれています。そして60年に一度みんなが集まる場所に記念碑を建てました。何故60日に一度の日とか60年に一度とかにしたのか?それは十干(甲乙丙丁戊・・・・計10個)と十二支(子丑寅卯竜巳・・・・計12個)を組み合わせて日が定めれれていた旧暦によるものです。つまり、10と12の最小公倍数は60ですので、旧暦では庚申(かのえさる)の日は60日ごとに巡って来、庚申年(かのえさる年)は60年に一度巡ってくるからです。







江戸城を築いた石(サンプル)

2013-10-25 | 八幡野・赤沢地区
伊豆高原駅(桜並木口)前広場に台車(ソリ)に乗った巨大な石が展示されています。徳川家康が江戸幕府を開く(1603年)にあたって拠点である江戸城を全面的に改築しましたが、そのとき殆どの石(築城石)は伊豆東海岸で調達され船で江戸まで運ばれました。その築城石のサンプルです。江戸城改築は家康、秀忠、家光の3代に渡り30年を要しました。改築が終わり運び残された石が今でも宇佐美、富戸、東伊豆町に多く見られますが、展示されている石は東伊豆町から持ってきたものです。
(注)初めて江戸城を築いた人といえば有名な武将太田道灌ですが、彼が江戸城を造ったのは戦国時代に入る直ぐ前の室町時代末期(1457年)のこと、これが江戸城の原型です。(家康による改築は築150年後のリフォームといったところか)