ディスカバリー伊豆

伊豆の美しい自然と貴重な歴史物語を徒然なるままに気の向くままに綴りたいと思います。

海難法師

2020-05-19 | 補足説明など
伊豆七島の伝説 
“海難法師”

江戸時代の話です。
伊豆大島に伊豆七島を治める豊島忠松(とよしまただまつ)という代官が住んでいました。冷酷で悪名高い代官で厳しい年貢の取立てなど島民を苦しめていました。
あるとき代官が視察のため新島、利島、神津島、三宅島など島巡りを計画しました。
家来を従え大島から小船で出帆するとき、代官は「天気は大丈夫か?」と島民に聞きました。島民は1年中海に出て漁をして暮らしているので天気のことはよく知っています。風向きや雲行きの様子から明日の天気がどうなるか容易に判断できました。「大丈夫でございます」島民は答えました。実はそのとき本当は近い内に天気がくずれるかも知れないことを島民の誰もが予想していました。しかし、普段苦しめられている代官一行の船出のこと、「どうにでもなれ!海が荒れてみんな死んでくれたらいい!」とさえ思っていました。
 代官一行が大島を出帆してまもなく急に風は強くなり雲は厚くなり雨まで降りだしました。そして潮流はいつもより強く中々船は前に進みませんでした。
やがて海は大時化になりました。そして代官の乗った小船はとうとう大波によって転覆してしまい、全員が死んでしまいました。丁度1月24日のことでした。

今でも1月24日になると代官豊島忠松の亡霊が「よくも騙しおったなー!」、と伊豆七島の家々を訪れその家に不幸をもたらすとされています。人々は「海難法師」と呼んで恐れています。そんな訳でその日島民はみんな家の中に閉じこもり1日中じっとしてるということです。そして玄関には厄除けの「トベラの葉」を吊るしておくのだそうです。

マール(Maar)

2015-06-03 | 補足説明など
===マール (Maar)>===
マグマが地下水と急激に反応,水蒸気マグマ爆発を起こし、その時作られる火山地形がマ ールです。伊東市の一碧湖はおよそ10万年前に起きた激しい 水蒸気マグマ爆発によってできた火口(マール)に水が溜まったものです。伊豆大島の波浮港もマールです。
マールは火口の他に目立った地形がありませんが、火口の周りがリング状の山体となっているものをタフリングと言います。例えば伊東市梅ノ木平火山はタフリングです。

元中丸

2012-08-23 | 補足説明など

元中丸・・・大正7年(1918年)建造(東京石川島造船所)。貨物船。 3,206総トン。 長さ 92.96m 幅 13.34m 深さ 8.31m。 レシプロエンジン 1790馬力 1基。 航海速力9.5ノット(最大12.85ノット)近海郵船株式会社(日本郵船の100%子会社)所有。(詳しくは鈴木商店という会社が発注・建造したものだが、1922年(建造4年後)日本郵船が本船を購入、翌年の1923年子会社近海郵船株式会社設立に伴い本船は同社に移籍され主に国内航路に使用されていた。
昭和7年(1932年)11月14日午後8時頃、神戸/小樽航路に就航していた本船は北海道から清水に向かう航海の途次(積荷はジャガイモ、シャケなどと言われる)、台風のため静岡県田方郡富戸海岸で座礁、大破、全損となった。

水原秋桜子

2010-03-24 | 補足説明など
水原秋桜子
明治25年生まれ。大正-昭和時代の俳人であり医学博士。昭和56年88歳で死去。高浜虚子(きょし)に師事、「ホトトギス」で山口誓子(せいし)等と4S時代をきずく。その後ホトトギスを離脱、独立する。昭和6年主宰誌「馬酔木(あしび)」で虚子の写生観を批判、新興俳句運動の口火をきった。

灯台の歴史

2008-06-20 | 補足説明など
灯台の歴史 
人類が舟(筏や丸太を含む)を使って水の上を物や人を運んだのはこの世に人類が出現したのと略同時期と言われる。その後板などを張り合わせた船の原型ともいえるものが出現したのは今から約6,000年前の紀元前4,000年といわれる。
その頃は目的地へ航海するには山の頂とか岬、大きな木など自然の物を目印としました。その後夜間の航行や沿岸から遠く離れた漁場に出て元の港に帰ってくる為に陸の岬や高いところで火をもやしたり煙を上げることを考えました。これが灯台の原点です。
今から約2,300年前(紀元前279年)エジプトのアレキサンドリア港が栄えたころ、その入口に大理石造りの火を焚く塔が建設されたのが世界で一番早い灯台と云うことです。
日本においては航路標識の歴史としては大阪難波の「みおつくし」が最も古く万葉集にも歌われていますが、火を焚く灯台の原型としては664年(天智天皇)壱岐、対馬、筑紫に「さきもり(防人)」を置いて海岸防備にあたらせましたが、ここで夜はかがり火を焚いて船(主に遣唐使)の航行の標識にしたのが灯台のはじまりといわれています。
その後江戸時代になり石積みの台の上に小屋を建てその中で木を燃やす「かがり屋」とか「灯明台」と呼ばれるものになって行きました。幕末には全国に100余基の灯明台があったといわれます。(海岸近くの神社や寺院の石灯籠など常夜灯が灯台の役目を果たしていたもの多くあり)
日本が現在の様な灯台を建てるようになったのは1866年徳川幕府が米英仏蘭の4ヶ国と江戸条約を結んでからです。これにより以下の8基の灯台が建設されました。
観音埼灯台・・・1869年 日本初の灯台(洋式灯台)
野島埼灯台・・・1870年
樫野埼灯台・・・1870年
神子元島灯台・・1871年
剣埼灯台・・・・1871年
伊王島灯台・・・1871年
佐多岬灯台・・・1871年
潮岬灯台・・・・1873年




スコリアラフト

2008-06-05 | 補足説明など
大室山麓の北西側、さくらの里の中央付近には大きな岩石と小石の混ざった土(スコリア)とが混ざり合った様な岩の様なものがある。スコリアラフト(Scoria raft)と云う。
これは大室山(スコリア丘)が作られつつある過程(或いは出来上がった直後)にマグマが地中より火道を上昇してきて地表に出て、比重がスコリア(軽石)より大きいので大地とスコリアの間を流れ、このときスコリアの一部をまるで溶岩流の海に浮くスコリアの筏(raft)の様に押し流したものである。スコリアが完全に溶岩でつつまれたものを溶岩ボール(lava ball)と云うことだが,さくらの里のものは溶岩ボールへの漸移型スコリアラフトと云うことです。
2010年(平成22年)5月26日 伊東市の天然記念物に指定されました。


....(注)raft=筏(いかだ)。船舶の「救命筏」はライフラフト(Life-raft)と云う。

大室山の大蛇穴伝説

2008-02-06 | 補足説明など

<大蛇穴伝説>

むかしむかし 大室山のふもとの大きな穴の中に大蛇が住んでいました。この大蛇はたいへん恐ろしいやつで、ときどき近くの池というに下りて行っては作物を食べたり、ときには子供まで食べてしまいました。村人は恐ろしくて夜もおちおち眠れませんでした。

1203年、ときの鎌倉幕府二代将軍源頼家がたまたま伊豆に狩りにやってきました。池の村人は「これはいいチャンス!ひとつ将軍様にお頼みして、恐ろしい大蛇を退治してもらおう!」ということになりました。源頼家は村人の頼みをこころよく引き受け、家来の和田平太(ワダヘイタ)と云う大変強くて勇気のある武将に大蛇退治を命じました。そして、和田平太は村人に案内させ大室山のふもとにある大蛇の住む洞穴(大蛇穴)にやってきました。大蛇穴の近くまで来ると村人は恐ろしがって逃げていってしまいました。しかたなく和田平太は一人で大蛇穴に近づいていきました。洞穴の入口に着くと、和田平太はあたりに気を配りながら刀の柄に右手を添えて、そろそろと洞穴の中に入って行きました。洞穴の奥は真っ暗で、天井からはポタリポタリと水しずくが落ち、足元にはチョロチョロと水が流れていました。

和田平太は背筋がひんやりとし、恐ろしさが身をつつみました。しかし、それは源氏随一の武将の和田平太、武者震いをすると、なおも奥へ奥へと進んでいきましった。と、その時、くらやみの中から眼をランランと光らせ、口を「カーッ」とあけ、火焔の様な舌を出した恐ろしい大蛇が現れました。すかさず和田平太は腰の大刀をスラリと抜き「南無八幡大菩薩」ととなえると用心深く身がまえました。しばらくにらみ合いが続きました。「今だ!」、和田平太はチャンスを見はからって大蛇めがけて斬りつけました。
「ギャーッ」、太刀先はみごと大蛇の心臓をつらぬきました。大蛇は和田平太の必殺の一太刀で死んでしまいました。

それからは池のに大蛇が現れることも無くなり、村人は平和に暮らしたということです。(おわり)



アマツバメ

2008-02-03 | 補足説明など
アマツバメは春から夏にかけて日本にやってくる渡り鳥です。つばくろ島は有名な繁殖場所で春から夏にかけ沢山のアマツバメを見ることが出来ます。『キュルキュルー、キュルキュルー』と鳴きながら上に下に、右に左に猛スピードで飛んでいます。
アマツバメは体長約20cm、羽を広げると40cmから50cmにもなる大きな鳥です。名前に”ツバメ”がついていますがツバメの種類ではありません。
この鳥は大変珍しい鳥でメスが卵をかかえる時以外は木の枝や岩の上におりることなく、その一生の大半を空中を飛び続けて過ごすといわれています。餌を食べるときも、寝る時も、更には子孫を残すためのオス・メスのいとなみも時速200Kmもの猛スピードで飛びながら・・・と云うことです。

大室山の二人妻伝説

2008-01-31 | 補足説明など


<大室山の二人妻伝説>

むかしむかし、神代の時代の話です。とても仲の良い姉妹の神様がおられました。姉の名前をイワナガヒメノミコト、妹をコノハナサクヤヒメノミコトと云いました。妹は絶世の美女、一方、姉の方はあまり器量がよくありませんでした。
ある日のこと、ニニギノミコトと云う若い男の神様が妹のコノハナサクヤヒメを見て、一目惚れし
てしまいました。そこでニニギノミコトはコノハナサクヤヒメの父親である大山祇神(オオヤマズノ
カミ)のところに行き、『下の娘さんを、是非、お嫁に下さい』と頼みました。オオヤマズミノカミ
は『姉妹はとても仲がいいので、二人いっしょなら差し上げましょう』と云うことで、ニニギノミコ
トは姉妹二人を妻にしました。

ところが、ニニギノミコトは美しい妹のコノハナサクヤヒメばかりを可愛がり、姉のイワナガヒメをだんだん遠ざける様になりました。そのことが原因で姉妹の仲はだんだん悪くなっていきました。やがて姉妹はお互い憎みあうまでになりました。喧嘩もする様になりました。それを理由にニニギノミコトは、とうとう、姉のイワナガヒメをオオヤマズミノカミのもとに送り帰してしまいました。

やがて、実家に帰ったイワナガヒメは自分が子供を身ごもっていることを知りました。そこで父親
のオオヤマズミノカミは娘の安産と孫の無事誕生を願ってイワナガヒメのために伊豆の大室山に産
所(産殿)を建ててやりました。そしてイワナガヒメは無事丈夫な赤ちゃんを生むことが出来たと云うことです。オオヤマズミノカミも無事孫の顔を見ることが出来、目出たし目出たしという事ですが、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメは、その後も昔の仲良し姉妹には戻らなかったと云うことです。

<ちょっと解説>
この伝説は古事記や日本書紀を基に作られたものであると云われます。しかし、本によって話の内容が少しづつ異なっています。古事記(梅原猛著)を読んで見ました。その中では姉のイワナガヒメがニニギノミコトに離婚され実家に帰されたところまでは書かれていますが、身ごもったことやオオヤマズミノカミが産所(産屋)を建てたことの記述はありません。
また、古事記によると、若い男の神様のニニギノミコトが美しいコノハナサクヤヒメに会ったのは「笠沙(カササ)の岬(九州宮崎県延岡市の愛宕山付近と云う説と鹿児島県川辺群笠沙町の野間岬と云う説あり)」と書かれてあります。何故、オオヤマズミノカミはイワナガヒメの産所(産殿)を遠い遠い伊豆の大室山に建てたのか不思議です。もっともオオヤマズミノカミは全国の全ての山を司る山の神様であったので、全国何処の山に産所を建てても彼の自由であったとは思われ、夫ニニギノミコトから冷たく離婚させれ傷ついた可哀想な娘を気遣い、なるべく遠い国に住ませ、心静かに無事孫を生んでもらいたい親心から伊豆の大室山を選んだのかも知れません。

古事記には姉のイワナガヒメが子供を宿したことは書かれていませんが、逆に妹のコノハナサクヤヒメが身ごもったことが詳細に書かれています。コノハナサクヤヒメがニニギノミコトの前で『子供が出来ました』と云うと、ニニギノミコトは『たった一夜の夫婦の交わりで妊娠するわけがない。きっと私の子供ではないであろう。別の男(と不倫したとき)の子供にちがいない』と、コノハナサクヤヒメを責める話となっています。こんな神代の時代から女の不倫や男の浮気があったのだろうか?と一瞬考えましたが、むしろ当時は男も女も自由恋愛があたり前の時代だったと考えた方が妥当でしょう。浮気とか不倫と云う言葉はなかったものと思います。

余談ですが、その後、コノハナサクヤヒメはお腹の子が確かにニニギノミコトの子であることを身をもって証明するために死を覚悟で産所に火を放ち火炎の中で3人の男の子を産みます。3人の中の長男が有名な海幸彦(ウミサチヒコ)、三男が山幸彦(ヤマサチヒコ)になります。そして、山幸彦(ヤマサチヒコ)の子供の子供が初代天皇の「神武天皇」であると記されています。
即ち、コノハナサクヤヒメは神武天皇のひいおばあさん(great-grand-ma)にあたります。即ち、大室山の“二人妻”伝説に出てくるニニギノミコトとコノハナサクラヒメこそ現在の天皇家の祖先に当たると云うことになります。

<結びに一言>
全国にはたくさんの浅間神社があちこちにあります。その数約1,300と云われています。それらのほとんどの祭神は妹の方のコノハナサクヤヒメノミコトです。浅間神社の総本社である富士山山頂の浅間神社(奥宮)も、勿論、コノハナサクヤヒメノミコトが祭神です。しかし、この様なわけで伊東市大室山の浅間神社は、姉の方のイワナガヒメノミコトが祀られていると云う珍しい浅間神社です。 
大室山でイワナガヒメノミコトが無事子供を産んだということから安産の神様として崇められています。しかし、伝説で伝えられている様に妹のコノハナサクヤヒメノミコトとイワナガヒメノミコトの姉妹仲は微妙です。「大室山に登って富士山の美しさを褒めてはいけない」と云う言い伝えが残っているのはその為です。(サガミ選書“伊東の民話と伝説”)。「イワナガヒメノミコトが嫉妬(ジェラシー)し、褒めた人にはたたりがある」とさえ書かれています。
とは言っても晴れた日、大室山の頂上から見る山頂に雪を頂いた富士山の美しさには、思わず、
「わー、富士山がきれい!」、と叫んでしまいます。 その時は続けて、『勿論、大室山は伊東のシンボル、その美しさと魅力は富士山に負けませんよ!』、と付け加えることを忘れないで下さい。
きっとイワナガヒメノミコトも許してくれると思いますよ。



半四郎落し物語

2008-01-30 | 補足説明など
[半四郎落し物語]
むかしむかし、城ヶ崎海岸門脇岬に近い富戸村に、半四郎さんとおよしさんと言うたいそう仲のよい夫婦が住んでおりました。ある日のこと半四郎さんはひとり海へトジ(しっくい壁に使う海草)を採りに出かけました。その日は潮も引き波も静かで半四郎さんは背負い籠いっぱいのトジを採ることが出来ました。さて、半四郎さんは帰途につきましたが途中、崖の上で一休みしました。しばらく腰を下ろして休んでから、「さて、帰ろうかな」と、腰を伸ばした瞬間、背中のトジの入った背負い籠に引かれ「あっ」と言う間に崖下の海に転がり落ちてしまいました。
 村人から半四郎さんが亡くなったことを聞いたおよしさんはそれはそれは、たいそう悲しみました。そして毎日のように半四郎さんが亡くなった崖の上に立っては涙を流す日が続きました。
以来、城ヶ崎一帯には毎年秋になると風に飛び散ったおよしさんの涙にも似た黄色く可憐な小さなイソギクの花が咲くようになりました。そしていつの頃か村人達は半四郎さんが亡くなったところを「半四郎落し」と呼ぶようになったということです。