ディスカバリー伊豆

伊豆の美しい自然と貴重な歴史物語を徒然なるままに気の向くままに綴りたいと思います。

堂の穴

2015-12-11 | 八幡野・赤沢地区

八幡野の海岸すぐ近くの岩壁に高さ4~5m、幅7~8m 奥行き7~8mの洞窟があります。堂の穴と呼ばれ、その昔八幡野のを治めた最初の神様がこの洞窟にお住まいになっていたということです。神様の名前はイワクラワケノミコトと言いました。
イワクラワケノミコトについて次の様な民話が語り継がれています。


<お酒の好きな神様>

昔々、伊豆の国を治める神様たちが伊豆の白浜に集まって話し合いが行われました。
一人の若い神様が八幡野の里を治めることになりました。神様の名前をイワクラワケノミコトと言いました。ミコトは大きな瓶(かめ)に乗って海から八幡野の里に着きました。そして海岸近くにある大きな洞窟を住み家とされました。ミコトは心が優しく、一生懸命に里づくりをされたので、里の人たちに慕われる様になりました。しかし、ただ一つミコトには困ったことがありました。それはお酒が大好きで朝からいつも酒を飲んでいることでした。酒がなくなると沖を通る船まで呼び止めて酒樽を置いていく様に強要しました。酒樽を献上しないで通り過ぎようとする船には海を大荒れにして航海出来ない様にしました。そのうち船は八幡野の近くには近寄らない様になり、八幡野に荷物を運んで来ていた船さえ来なくなりました。
里の人たちは大変困りどうしたら良いだろうかと考えましたが、直接ミコトに申し入れる人もありませんでした。
ある日ミコトが今日も酒を飲んで千鳥足で里を歩いていると何処からか歌声が聞こえてきました。
 「♪酒を飲むもの楽しいな、沖を通る船は困ってる、里の人々知らん顔、 何も知らな
  いミコト様、知らないことは楽しいな、知らないことは悲しいな、・・・・」
里の人たちが歌に託してミコトに申しいれていたのです。
その歌を聞いてミコトはハッと我に帰りいっぺんに酔いも醒め、自分がこれまでやって来たことは間違っていたと深く反省し、今後は酒はやめようと誓いました。そしてお住まいも海岸の堂の穴から船の見えない山側に移し、以後、里人が安心できる里作りに専念しました。それからというものは、里は栄え、人々は幸福に暮らしたということです。

現在、八幡野の山側に八幡宮来宮神社という約1200前に建立された有名な神社がありますが祭神は全国にある八幡宮の祭神ホムタワケノミコト(応神天皇のこと)とイワクラワケノミコトの2神が合祀された形になっています。元々は山側には堂の穴から移転した来宮神社(イワクラワケノミコト)と八幡神社(ホムタワケのミコト)の2つの神社があったものです。





河津三郎祐泰の血塚

2015-12-11 | 八幡野・赤沢地区


河津三郎祐(すけ)泰(やす)の血塚(曽我兄弟物語の発祥地)

伊東市八幡野と赤沢地区の境界線にほど近い森の中に(国道135号線の山側の別名“東裏路”と呼ばれる旧下田街道)河津三郎祐泰の血塚があります。
今から大よそ840年前、河津三郎祐泰が刺客の弓矢によってここで命を落とした所です。
当時、伊東の地を治めていたのは伊東入道祐親、その長男が河津三郎祐泰で伊東の南、河津の地を治めていました。
1176年、伊東祐親は伊東(奥野)で大々的な狩を催しましたが、その時余興として相撲退会を行いました。一番の人気を呼んだのは剛勇無敵と言われる河津三郎祐泰と剛力を誇る俣野影久の取り組みでした。影久は工藤祐経と言う武将の秘蔵の家来でしたが、実は伊東祐親と工藤祐経は親戚関係でありながら領地争いが絶えず、常に睨みあっている関係にありました。工藤祐経は「これはいいチャンス」とばかり剛力の俣野影久に河津三郎祐泰を投げ殺してしまう様密かに企みました。ところが相撲の結果は逆で俣野影久は河津三郎によって投げ飛ばされてしまいました。無念やる方なき祐経が、そのままで納まる筈はありません。闇討ちと弓矢の名人八幡の三郎、大見小藤太の二人の家来に言い付けて赤沢山(伊雄山)麓の谷間で待ち伏せさせ河津の館へ馬で帰る河津三郎祐泰を遠矢にかけて射(い)殺したのです。そして後の世に、その場に河津三郎の供養の碑として建てられたのがこの血塚です。

河津三郎には長男の一万と次男の箱王と言う二人の子供がおりました。二人は母と共に下曽我(現在の小田原近く)の曽我家に逃れ、名前を曽我五郎、十郎と改めました。
それから18年の歳月が過ぎ二人は元服し立派な武士となりました。建久4年(1193年)鎌倉幕府源頼朝が催した富士の巻き狩りの折、工藤祐経の陣屋に忍び込み、首尾よく父の仇を討ちました。これが日本3大仇討ちの一つ“曽我物語”であり、その発祥はこの様に伊豆八幡野の山陰に端を発していたのです。