private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第15章 8

2022-09-04 13:56:10 | 連続小説

 オールド・スポートの奥にある窓際の席。土曜の朝一番であればナイジの指定席になっているテーブルだ。そんな因縁じみた巡りあわせを知るよしもなく、その場に席を構えるのは安藤と西野であった。
 この席に座って何かを感ずるものがあったのか、安藤はこれまで見たこともない神妙な態度で食事を続けていた。時折、思い出したようにフォークで突いて、厚焼きのステーキをフォークで口に押し込み噛み切ると、口いっぱいに納まるまった肉を、その行為が永遠に続くかと思われるほど噛み続けている。
 いつもなら西野が聞いていようがおかまいなしに、食事を口に運びながらも一方的に持論を語り続け、ロクに噛みもせず飲み込むか、噛みながら喋りつづけるものだから、汁だの食べカスだのがテーブルに飛び散り、見るに絶えない状況となるほどだ。
 話を聞くだけの西野の方が却って食事が進まず、半分ぐらい食べたところで安藤が席を立ってしまうこともままあり、そんな調子であっという間に皿をたいらげてしまう安藤が、アタマの中は他ごとを考えて、口の動きと切り離されているように黙々と食事を続ける姿は異様にも見える。
 そうならば西野もそういった煩わしさもなく、気楽に食事をすればいいものの、おかしなもので黙りこくる安藤が気になって却って落ち着かず、西野がすでに食べ終えようとしているのに、安藤の方は半分ほどしか減っていない。
 口内は空になったはずのに惰性のようにあごが動いている姿は、壊れかけたブリキのおもちゃでも見ているようで滑稽だ。調子がくるった西野が気遣った言葉をかけてしまう。こんなことはマネージャーになって初めてのことだった。
「どうした? やけに静かだが」
 焦点が合っていない安藤の瞳孔が西野の顔を認識していく。目線があっても安藤は押し黙ったままで、西野はやりずらい。
「んっ、 …ああ、そうだな」
 ようやく出てきた言葉は、やはり気のない返事でしかなかった。
 なにが気にかかるのか聞いてみたいところであっても、気にかかる内容はオースチンの若造がらみの話なのはわかっているし、どうせこの調子ではろくな返事は期待できそうにない。安藤が自分から口にしない限りまともな会話は懇談だと、無駄な問いかけは止めることにして椅子に斜めに座り直し、ザワつく店内の様子を観察しはじめた。
 いったいどこからハナシが漏れているのか、どのテーブルからも黒(ロータス)と白(オースチン)対決のウワサ話が囁かれている。やけに血色張った者達の顔は見るに堪えず、うつろに目線を動かし続ける。
 西野の目の前に座っている男がその当人だと、周りの者達は知る由もないため、好き勝手に増長されたウワサ話は、安藤を別の人間に作り変えてしまうほどで、つくづく人のウワサはあてにならないと首を振る。
 この調子ならば、オースチンの若造について語られていることも、話半分で聞いておく必要があるはずだ。もっともその話しが何かの役に立つのか、どちらにせよ変な先入観は身にはならない。
 その西野の眼先に気になる男が引っかかった。何人かでテーブルを囲むグループばかりの店内で、ひとりトイレに続く戸口の脇でなにがおかしいのかニヤついている。自分と同じように一歩引いた立場でこの状況を俯瞰しているようで、それにしてもなにか達観したようなその表情は不快感さえ湧いてくる。
 店の扉が開かれ新しい数人の客が入ってくる。戸口の男はその客を視線で追っていき、おもむろにその場を離れ連中の背後にまわった。新規の客は西野達のテーブルの後ろに席を取り、件の男はその付近で立ち止まりまわりのようすを伺っている。
 席に着いた3人連れはさっそく、本日最大の話題を話しはじめる。
「そのロータスのヤツ、向こうではエースでもないんだろ。それであんな走りされたら、うちのツアーズの面目がたたないよな」
「だろ、もし志都呂ツアーズが乗り込んできたらひとたまりもなく飲み込まれちまうぞ」
「まてよ、あのオースチンだって、ウチのエースじゃないんだ。指宿さんだって本来の調子じゃないし、坂東もいいだろ。まだ隠れた逸材がいるかもしれないし、返り討ちにしたら爽快だろうな」
 これまでにない展開にギャラリーの意見はおおむね好感触だ。話の盛り上がりとともに期待値が上がるなか、どんな展開を望むか皆が思い思いに口にする。それを刈り取るのがアキオの仕事の最終仕上げとなる。
「あのオイルさ、どうなんだろうな?」
「あっ、おれも気になってた。スタンドから観てたけど、コーナーからの加速とか、トップの伸びとか、ちょっと違うんじゃない?」
「オレ、ちょっと入れてみようかな? 近くのスタンドで見かけたんだ」
「えっ、ヤバいオイルって聞いたけど。でも、どこ? 俺にも教えてくれよ」
 笑みが漏れるのをこらえて西野は両手で顔を覆う。スピードは誰をも虜にする。タイムの価値は絶対だ。それを裏付けるような若者たちの短絡的な商品価値の捉え方にあきれてしまう。
 たしかに新製品で効果的なオイルなのは間違いではない。ただ、それで加速が良くなるとか、トップが伸びるという裏付けはなにもない。タイムを出したクルマに使用されているということだけで神格化されていく状況を見て、あらためて馬庭の商才に舌を巻く。
 あのサーキットでタイムを削り合い、使用した新商品を宣伝してボーイズレーサーたちにアピールする。今回、安藤がオイルスポンサー付きで乗り込んできたかのようなアングルを考え出したのも馬庭だった。裏で久堂院と話しをつけているのだろうが、どんな戦況になっても自分のところに利益を落とす目算をつけているのは、敵ながら天晴れというしかない。
 そんなまわりにいい加減な話しにも関心を寄せない安藤は、囁き続けられるデマのような話も、中傷的な表現にも一切反応することなく、どうもひとりで自問自答しているようにみえる。
 西野に思い当たる点があるのは、あのオースチンの若造から、今までになく多くの刺激を受けていることだろう。これまでに経験のない闘いの展開に、安藤自身も気付かなかった自分の一面を表層化させられ、とてもこのまま仕事をまっとうすることができなくなっていた。

 志都呂のサーキットに入ってきた頃の安藤は、その性格と能力を持って、対戦者の腕や、レースの流れから勝負を早読みしてしまい、取るに足らない相手であったり、逆にクルマだけが良く乗らされているような相手には、やる気も起こさず、適当に流してしまうような自分本位なドライバーだった。
 何か感ずるものがあれば圧倒的なスピードを伴いレースを席巻するのに、気が乗らないとレースの途中で投げ出してしまうこともあり、小バカにされた扱いを受けたドライバー達からはうとまがられて、一時は干されかかった時期もあった。
 類い稀な速さを持っていても、ムラッ気のある性格ではその才能も活かし切れず、くすぶりかけていたところを、このまま埋もれさせることを良しとしない久堂院が、堅固実直な西野をマネージャーとして当てがいテコ入れを試みた。
 西野は根気よく何度も話し合いの場を持ち、難しい性格を掌握していく。レースに対しての動機付けを持たせるために、レースに向けてストーリーを組み立て、安藤が走りやすい状況をおぜん立てしていった。
 それが会社側の都合のいいアングルであったとしても、走る意欲が湧くようなストーリー展開であれば、それを具現化させて見せ、観客の熱狂もまた安藤を気持ちよく走らせることにつながり、手に入る賞金の額も増えていった。
 その労もあって出入りの多いレースは滅法なくなり、速さが着実に結果に結びついていった。そして近ごろでは西野の手を借りずとも、安藤は自らレースへの動機付けを創れるようになってきた。
 走りの才能は折り紙付だっただけに、本人の意に沿うかどうかは別としても、久堂院の持ち駒として、ようやく使えるドライバーになっていったのだ。
 そうするといつしか、安藤の相手になるドライバーは志登呂のサーキットではいなくなっており、今度は強すぎるドライバーとして敬遠されだし、久堂院のお気に入りということも併せて、再びサーキットの異端児として厄介者扱いされる存在になってしまった。
 良くも悪くも勝負のカギを常に自分の手の中に握っていることで、その中で自由に振舞い、走ることができた。それも度が過ぎれば周りにとっても見苦しいし、自分にとっても同じ戦いを続けるのに辟易しはじめていた。繰り返しの日々の流れの先に何もないことを知り、いつのまにか泥水の淵で行き詰まっているのは安藤もまた変わりはなかった。
 そうした状況を踏まえ、今回、単独ツアーで越境遠征の命を受けたのは、再び闘う動機を模索しなければならない安藤にとっては、わかりやすいストーリーの中で戦うことができる最適な仕事だからだ。
 自分を奮い立たせるために乗り込んで来たこの場所で、新たな獲物を得られれば、飢えた野獣が野に放たれたがごとく、大いに暴れることができる願ってもない状況だ。
 それですべてがうまく行く予定であった。安藤は新しい環境で自分の能力を余すところなく発揮し、なおも成長を遂げるかもしれない。出臼は、手に入れた武器を自らの立身のために遣えおうとした。久堂院は、馬庭に対して、今後の自分の影響力を誇示するために有利な状況が作りたかった。
 ナイジという思わぬ伏兵が現れたことで、誰もがそんな打算を覆されることになった。馬庭でさえも、とりあえず様子見としての当て馬ぐらいとしか考えていなかったオースチンの若者が、予想外の働きをしてくれたおかげで、次の一手の手数が随分と増えたことは棚ボタであった。
 一番の想定外だったのは安藤で、名も知らぬ思わぬ難敵の出現に調子を狂わされっぱなしだった。結果として市道での戦いも後付けの捏造で、安藤が勝ったことになっているし、今回のタイムアタックも記録上は勝利を手に入れていても、それとは別に記憶や印象は、あの白いオースチンにすべて持っていかれており、あろうことか自分が引き立て役を演じてしまう羽目になっているのが我慢ならない。
 それよりも問題なのは、給料をもらってサラリードライバーと割り切っていた安藤が、二度なりともオースチンとやり合うことで、消し去っていたはずのドライバーの本質の部分が、再び体内から湧き出てくるのをいつまでも無視することができなくなっていたからだ。
 今の立場を考えれば指示された仕事を確実にこなすことが優先で、選り好みで好き勝手に戦うことはご法度だ。それはわかった上でドライバーとしてのエゴを捨ててまでも、この仕事を続ける意味が自分にあるのか。思わぬところで突きつけられたナイフが、あろうことか自分の喉に迫っている。
 この先もサラリーを受け取って走るのがはたして自分に取って正なのか。魂を揺さぶられるほどの戦うべき相手がいるならば、損得勘定を取り払った上で勝負したいと思うのは子どもじみているのか。
 そんな問いかけをしてしまうのも、久しく自分の血を騒がせるドライバーに遭遇しなかったためで、その状況を受け入れることに、なんのためらいもなかったからだ。ドライバーの本能を呼び覚ます相手を得た今となって、騒ぎ出した血を抑えつけるのは容易ではない。
 会社には自分の変わりになる者は幾らでもいるだろう。口ではうまいことを言っても、しょせんはコマの一つにしか過ぎず、その場の状況で右へ、左へ振り分けられる扱いを受けてきた者を何人も目にした。自分に商品価値がある段階で次の生き場所を探しておかなければ、あっという間に選別の手のひらから零れ落ちるだろう。
 オースチンとやりあった時に感じた悦楽的快感、代え難き一瞬、意中の闘いに身を置ける恍惚感が、ぬるま湯になれきっていた体内を駆け巡った。忘れていたものを揺り起こされたのか、目覚める時期だったのか。オースチンとの出遭いは単なる偶発的なものではないならば、自分をごまかしてまで走る価値が一体どこにあるのか。 そんな堂堂巡りを繰り返えすさなか、一番気にかかっていることは、このような外的刺激がなければ自分はすぐに腐っていくと知ったことだ。自らの立案のもと道を切り開くのではなく、相手のレベルにあわせてしまう悪癖がいつまでたっても解消されず、同じことを繰り返していることに憤りさえ感じる。
 ふと思い出したように上目遣いで西野を見る。