private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第16章 1

2022-09-18 17:21:34 | 本と雑誌

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R.R

 

 マリの土曜日がはじまる。それは伯父の志藤と一緒にサーキットに行く日でもある。土曜日は大学の講義が午前中にあり、それには出席できない分、平日に集中して講義を受け補修も行って、土曜日に休めるよう調整していた。
 いつもと違うのは、起きた時間が30分早かったことだ。今日も朝から湿度が高く、室内の膨張した空気が煩わしくまとわりついてくる。寝室を出て歩きながら方々の窓を開けて回り、こもった空気を入れ替えながらそのまま洗面所に向かう。
 蛇口をひねりガランに溜めた水を手ですくって顔を洗うと、ようやくアタマがスッキリしてくる。パジャマ代わりに着ているロング丈のTシャツを脱いで、水に晒したタオルを搾って身体をさっと拭き、昨日の洗濯物と共に洗濯機に入れる。
 そうしておいて籐籠のケースから夏場に愛用しているネル生地のシャツを身に着ける。やや厚手でもサラっとしていて、肌にまとわりつかないので今のシーズンは重用する。
 それでもじっとりとした空気が肌を覆って汗ばみそうで、風を送るために左手をばたつかせる。さらにシャツの裾を右手であおると、空気の流れが足元から身体をつたってくるのが心地良い。とても人には見せられる姿でなくても、涼をとるための手段としてつい手が動いてしまう。
――せっかく拭いたのに汗ばみそう。はしたないけどしかたないわね。――
 洗濯洗剤が残り少なくなっているので、このタイミングで補充しておく。踏み台を用意して建付けの戸棚から買い置きを取り出し、明日に備えて準備しておく。
 マリの場合、どうしてもすべてにおいて人より時間が掛かってしまうので、常に一手も二手も先を考えて準備しておく必要があり、余裕を持って手配できるように在庫品の管理をしていた。切迫してから動き出していては、対処するために時間がかかり一日の予定がズレ込んでいき、やりきれずに翌日になってしまうことがある。
 スピードアップして調整をはかる手段を持てないマリにとって、そうすればどうしても生活するのに優先順位の低いものから明日に先延ばしにしなければならない。それは自分のやりたかったことを後回しにするか、我慢するということだ。
 そうしてこれまで失ってきたの多くのやりたかったことは、二度と戻ってこなくなる。大げさな話しに聞こえても、そうしてマリにとっての大切な時間はいやおうなしに削り取られていった。
 残り少なくなった洗剤を箱を逆さにして直に投入して使い切り、空箱を丁寧に折りたたみ屑篭へ入れる。濯槽の中では目の粗い泡が一気に湧き上がり大きく膜を張る。フタを閉じると遠心運動から振動が発生しはじめる洗濯機が大きく揺れだした。朝食の準備ができる頃には洗濯が終わっている段取りだ。
 洗濯をまわしておいて、一度自分の部屋にもどり、デニムのスカートを取り出す。先週着たものと一緒だったので、別のにしようかと頭をひねったが結局それを穿いた。
――さあ、いそがなくっっちゃ―― 靴下は準備だけして、出かけるときに履くことにする。
 今度は台所へ向かい、椅子に掛けてある頭から被るタイプのエプロンを取り上げ身に付ける。いくら一緒にいるのが伯父といっても、シャツ一枚では胸のシルエットが出てしまうので、外ならばジャケットを着るところを替わりにエプロンを付けている。
 台所の出窓は摺りガラスがはまっていても、昇りつつある夏の太陽が直接当たれば、その熱を遮ることはできない。朝の空気を取り入れるために窓を開けると、夏の日の裏庭の匂いが台所に侵入してくる。ついでに雨の匂いがしないか鼻を効かせたがその心配はなさそうで、今日一日は良い天気で過ごせそうだった。
――ホント、イヌじゃないんだから―― ナイジとの会話を思い出し少し顔がにやけてしまった。
 鍋に水を張り、火に掛け、冷蔵庫からホウレンソウを取り出し、適当な大きさに切って、煮立ってきた鍋の中に入れる。いつもの倍の卵をボウルに割って入れコショウと塩、それに少々の砂糖を入れて、よくかき混ぜる。伯父の志藤は、もういい年齢なのに朝は洋食派で必ずトーストとコーヒー、それに必ず卵料理を食べる。それも曜日毎に調理方法を変えて出すように注文されている。
 今日は炒り卵の日だった。いつもより早い朝、いつもの倍の卵はナイジのために『お弁当』を作っていこうと思ったからで、料理の最中にも自然と顔が緩んでしまうのが自分でもわかっていた。
 ナイジと特別に何かを約束したわけではない。今週末また遭えるということだけが、たったひとつの事実だとしても、マリにとって一週間が待ちどおしく思える大きな出来事であった。
 今週は、大学でも友人に指摘を受けていた。やれ顔かニヤけてるとか、普段より明るいとか、幸せそうな顔でボーッとしているとか、マリにそんなつもりはなくてもきっと自然にそうなっていたのだ。気になる人のことを想うという行為が、いままでのマリの人生には欠落していたために、それが一気に埋まってしまった反動が自分でも上手く現せない。
――もしかしたら叔父さんも気づいてるのかしら―― 叔父になんの指摘も受けていないことが却って気にかかる。
 茹であがったホウレンソウをバターでソテーして塩と胡椒で味を調える。朝食用に伯父の皿と自分の皿に取り分け、後は弁当用に残しておいた。撹拌された卵にはお湯で溶いた顆粒のコンソメを入れ、コクを出すと共に洋風仕立てにアレンジした。
 ドリップしたコーヒーが入り、トーストを焼く頃には香ばしい匂いに誘われてか志藤が起きてくる。目を擦りながら今日はいつもより早かったんじゃないのか、とぼやきながら洗面所へ向かって行く。マリが家の中を動き回る音が気になったのだろう。
 弁当を作る時間を考え早く起きたのは、志藤が起きる前に作り終えるためであった。やはり自分が想定したより時間がかかっており朝食の時間になっていた。洗面所に行った隙に弁当用の具材の上から紙ナプキンでカモフラージュしておく。
 先に焼けたトーストから順にバターを塗り、皿にのせて、これにも紙ナプキンを被せておく。志藤が廊下を歩く音が近づいてくると鼓動が高まってきた。いけないことをしているのではなくとも、やはり生身の自分をさらけ出しているようで、まだ触れられたくはない。
 テーブルにつく志藤の前に朝食を配膳する。炒り卵を口にすると、いつもと味付けが違うと言われ、心臓が高鳴った。余計なことを言うとボロが出そうで何も弁護することなく、そう? とだけ言い、自分も朝食をとりはじめる。洗面所で唸っていた洗濯機の音が静かになった。
 志藤はひととおり食べ終えると、マリにコーヒーのお代わりを注いでもらい朝刊を広げる。今日も大国同士の代理戦争が一面を占めていた。戦地から兵を引き上げようとした指導者が暗殺されたことを引き合いに出し、時の政権より複合産業会社のほうが力があると嘆いている。
 それについてはマリも言いたいことがあっても今日はその議論を盛り上げている場合ではない。いやな世の中ねとあたりさわりのない相槌を打つと、志藤はけげんな顔をして新聞から顔をのぞかせる。食器を片付けるマリはその視線を感じて、普段通りでないのも変に勘繰られるようでどうしようかと焦り出す。
 洗濯ができてるから干してくると、とりあえずその場を離れことにした。顔が火照っている気がして志藤のほうを向けない。――ダメね、なれないことすると―― 顔を覆った両手がピクピクと震えている。
 マリが洗濯物を干し終わり、食器を洗い終える頃には、普段なら志藤からそろそろ行くぞとい声がかかるはずであるのに、すでにクルマに乗り込んでマリの到着を待っているようだ。壁に掛かった時計を見れば、出発の時間に近づいている。
 どうやらこれまでも含めて、見て見ぬふりをしてくれているのだとようやく悟った。そんな気を遣わせたことに負い目を感じながらも、そっとしておいてくれる気持ちに感謝した。そうなれば自分も気づかれていない風を装い、道化師を演じるしかない。
 勇躍、ナプキンをかけておいたトートスと、サンドイッチの具材を取り出して、仕上げに取り掛かる。ミカがパニーニを手際よく仕上げていく姿を思い浮かべ、自分も同じようにとやってみる。それなのに、ホウレンソウソテーや炒り卵は、ポロポロとトーストから零れ落ちてしまう。
 それは想定済みで耐油性の紙シートを敷いてあるので、シートを折り戻して具材をトーストに戻してやる。なんとか仕上がったサンドイッチにナイフを入れ、洗い物は帰ってきてからにしようとシンクで水につけておくことにした。
 戸締りをして駐車スペースに行き、志藤に急かされるようにしてローバーに乗り込んだ。何してたのかと言われるかと構えていてみても、志藤は遅れたことについてはなにも言わず、暖気も十分のローバーですぐに出発した。そうなるとマリのほうも落ち着かない。なるべく笑顔で、遅れてゴメンねとあやまると、うなずくだけでクルマの運転に集中している。
 真夏の道路は陽炎が立ち、すべての風景が夏の色彩に埋め尽くされ白くぼんやりしている。それなのに風景の中に反射物でもあれば、太陽の光を否応なく跳ね返してくるので、目を細め侵入光を調整しなければならず、志藤もたまらずサンバイザーを下ろした。
 マリの膝の上にはいつもの手提げカバンと、丁寧に包まれた『お弁当』が大切に抱えられていた。乗りはじめた頃は硬めのシートに馴染めず、落ち着かない気分になることもあったこのクルマも、今はすっかり身体に馴染んでしまっていたはずなのに、山道に入ると振動や、コーナーでの横Gに気づかうことになる。
 助手席で『お弁当』をしっかりと抱える姿から、そんな空気を漂わせているのが感じられたのか、志藤はチラチラと目はやる。ただ、それについて言及することは最後までなく、何か聞かれたら、お昼にスタンドで食べようと思って、と言うつもりであった。弁当などこれまで持参したこともなく、バレバレの言い訳にしかならないはずだ。
 サーキットに着いたマリは、あとから診療室に行くと志藤に言うが早いか、そそくさとその場を立ち去ってしまった。余りにもわかりやすい行動に、志藤はやれやれとばかりに後頭部を叩き診療室へ向かって行くしかない。
 自分では平静を装っているつもりなのだろうが、こうまであからざまに普段の態度が変われば、さすがに志藤にもあの男に入れ込んでいるのもわかるというものだ。
 これまで一切オトコッ気もなく大学と診療所に通うだけの生活で、自分の殻に閉じこもりがちな性格のマリは、積極的に他人と、ましてや異性となど関わろうとしなかった。
 伯父である贔屓目もがあるのは承知のうえで、美人と言えずとも可愛いらしい顔立ちではあり、言い寄る男もいたはずだ。マリ自身が自分の不具合に対し、異性と特別な関係になった際に、それとどう向き合ってもらえるのか消化しきれないため、一歩引いた場所に居続けることをかたくなに貫こうとしてきた。
 これまでマリは様々な方法で周りとのコミュニケーションを取ろうと努力してきた。時には、痛々しいほどに周りより劣ることを認め、ひとの優しさに委ねるのが正しいとしてみたり。何の負い目も持っていないような振る舞いをして、強い自分であることが正しいとしてみたり。
 どちらにしても、ありのままの自分ではないため疲れてしまうのは、どうしても自分の本心でないことにあり、その姿を見る周囲も違和感だけが強調され、バランスが崩れていくだけであった。なんとかなっていた小さい頃とは違い、思春期に入れば個々の思惑は幅広くなり、ちょっとした親切心や、優しさが、ある時には甘い蜜となり、ある時は棘となってマリのカラダを傷つけていた。
 マリの行動が徐々に受身な方向に針が振れていく中、もう一度自分から変わっていこうとしている。それを決心したのは、あの男が発端なのは間違いないだろう。今はただ静観し、ふたりがよい結果に導かれることを願うしかなかった。これまでのマリを見てきた志藤であるからこそ、今回の件はうまくいくといいと期待している。
 午前早めのサーキットは関係者を含めて人影はまばらだ。マリはスタンドを駆け上がり、軽く息を弾ませるながら360度回転してサーキットを一望した。最終コーナーをとぼとぼと歩いているナイジの姿を発見する。先週と同じように路面状況を確認しつつ、右へ、左へ、うねるように歩き、立ち止まり、しゃがみ込み、何かを手にし、そして、足で感じる。
 額に汗しているのだろう、何度も袖で汗を拭っている。ハンカチぐらい持てばいいのにと思いながらも、そこまで気がまわるナイジは想像できず、自分を笑ってしまう。
 ナイジは屈んだままで、しばらく動きを止めて、それからゆっくりと立ち上がり、その場で顔を上げ、腰を伸ばし、続いて膝に手をやり大きく肩で息もつく。何かを考えているのか想像もつかない。ナイジだけに見える景色に没頭しているのだ。
 もし、このまえと同じ、6時頃からはじめていたならば、2時間もかけてコースの下見を行っていることになる。本来なら路面の読み取りに、これぐらいの時間をかけたかったのなら、自分のせいで前回は随分と邪魔をしてしまったことになる。
 いつしかマリは、ナイジが真剣に物事に打ち込む姿に吸い込まれていった。遠めに見てもかなり疲れているのがわかる。足取りも重く、しゃがみ込む時間も長くなっている。
 それでも気になることがあればコースを引き返してでも、もう一度確認することを怠っていない。そうしてなかなか前に進まない姿を見れば、あながち2時間もかかっていても不思議ではないはずだ。
 そんな、ナイジの一途で真摯な姿を目にして、マリの胸は熱くなり、嗚咽に近い熱い息が口から漏れてくる。いつものひょうひょうとした態度からは、努力の欠片も感じさせないナイジは、こうして誰にも知られることなく、早朝から一人きりで労力を惜しまず自分のなすべきことを行っている。
 地味でレースの華やかさとは正反対のこの行動が、実戦で自己能力を余すところなく発揮し、最大出力につなげていくことで、あの素晴らしい走りにつながるのだ。
 マリはどうしても待ちきれずに、最終コーナー寄りのスタンド端まで小走りで進む。視線を感じたナイジが見上げる先には、大きく手を振るマリの姿がある。
――なんだい、あれじゃ小学生だよ。 …大学生だったかな――
 口では悪態をつきながらも、かざらない純朴な姿に、疲れた体と心が和む思いがした。ナイジは軽く手を挙げ、マリを認識したことを伝える。
 それを見ると今度はスタンドの階段を下り、最終コーナー出口まで戻ってきたナイジを、金網に指を掛けて待ち構えた。そうまでしておいて、いざ面と向かえばなんと声を掛けていいのか分からず、マリははにかんだ口元と、かしげた首のまま目が泳ぎだす。
 久しぶりのナイジの顔は少し痩せて見え、精悍さが増したように思えた。逢うことのできなかった1週間で、ぐっと大人の表情に変わってしまったのは、先週からの一連の出来事を受けて、心身ともに一回り成長したからなのか。そんなナイジを見て、変わらない自分だけが置いてきぼりになったようで少し焦ってしまう。
「なんだよ、どうしたんだ?」
「えっと、その、久しぶり。元気だった?」
 ナイジはさっきの自分の突込みを思い出し、軽く小鼻を鳴らす。そして、再び。
「夏休み明けの小学生みたい… 」
 マリは口先を尖らせ、赤らめた顔を隠すように下を向いてしまった。ナイジは、フェンスの金網を登りはじめ、フェンスの頂点からスタンド側に降り立った。マリの肩をポンポンと叩き、最上階まで牽引して日陰のベンチに座るように促がす。
「アレ、キズついた?」
 コースを正面に向かって座るマリとは相反し、反対を向いてベンチに腰掛けたナイジ。少し身体を斜めにすれば、ふたりは互いに正面を向き合う位置に対した。
「ううん、違うの。ホントにね、咄嗟にナイジに何て言葉掛けたらいいか思い浮かばなくて、ようやく出た言葉がこんなので、なんか恥ずかしくて」
 50cmも離れていないナイジの横顔を見て、マリの鼓動が早くなる。
「それより下見、もう大丈夫なの?」
「ああ、そうだな。大丈夫だよ、そんなに気ィつかわなくても。それよりさ、なんか早かったよな、1週間。医務室で別れたことがついさっきのようだ」
 ナイジがそう思うのはふつうのことでも、マリが今日まで重ねた時間は、もっと重要で大切な時間であった。先週の出来事が夢じゃないことを確認でき、ナイジの心が変わっていないことを知るまでは、不安と共に今日までを過ごしてきた。
「そうなのね。うーん、あのね、アタシは長かった。ナイジはその分充実していたのね、時の流れが早く感じられたってことは。アタシはいつのまにか今日だけを追い駆けてた、時間が決められた以上に早く進むはずはないのに、やたらと時計ばかりを見てた気がする」
「そう? そんなにオレに遭いたかった?」
 ナイジは冗談で受けてくれたが、つい自分の正直な思いを赤裸々に語ってしまったことに気恥ずかしさを覚え、肩をすくめ顔をそらした。そんな姿を愛しげに見つめるナイジも付き合うことにした。
「いや、オレも同じかもな、きっと無理に考えないようにしていたんだ。そうやって、別のことに没頭していた。そうでもしないとね、まあ、いろいろと。ヘヘッ」
 最後は笑ってごまかし言葉を濁す。マリのように素直には口に出せない。
「フーン、いろいろとねえ。ナイジ、ずるいわよねえ。まあ、いいけど」
 マリは勝手にナイジの気持ちを汲み取り悦に入っていた。ちゃんと言葉にしたがらないナイジであり、それだけでもマリには充分だった。両手を空に向けて広げ大きく息を吸う、顔を上げ遠くを見る目は日差しの強さに細まっていった。
 コントロールタワーの向こう側から差す太陽光が、多くの隙間を通していくつもの光の線条を作り出し、ホームストレートまで伸びている。自然と造形物が織りなす美しい光景は、時と共に刻々と姿を変えていきマリは目を奪われる。その目線を追いナイジも振り返る。
「なんだか写真にでも残しておきたいぐらいキレイな風景だな。こんな時間にスタンドにいたの初めてだから。でもこうして時の流れを記憶に残せたほうがいいのかな?」
「記憶はよくも悪くも、実際より増幅してくれるから、写真に残さないほうがいいかもね」
 重なったのはそれぞれの想いだけではなく、やわらかな香りがふたりをつなぎあわせていった。