private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第14章 4

2022-06-05 12:06:22 | 本と雑誌

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R.R

「うわぁー、すごい。こんな風に見えるんですね。オールドコースまで見えますね」
 コントロールタワー側のメインスタンドに続く薄暗い階段から通用門を見上げれば、額縁に納められた絵画を思わせるほどの青い空と、山間部に萌える樹々。そして、いつも自分が座っていたピット側のホームスタンドが、立体的で奥深い雄大な自然を背景にその姿をふたりの前に現わしてくる。
 ホームスタンドとは対照的な奥行きと眺望に包み込まれ、リクオとマリはメインスタンドに立ち上がり、しばしその雄大なパノラマに見入っていた。
「だろ、いいだろ。こっからが大切だ。いいか、前の方に行くヤツぁシロウトだぜ。クルマを間近で見たいって気持ちはわかるけどな、こっち、こっち。上で見るとさ」
 マリはリクオに引き連れられステップを駆け上がっていく。息せききって登り切った最上段で振り返れば、対面するホームスタンドの上から山間部の奥のコーナーまで見通せた。
 あちらこちらが木々で覆われて完全にクリアな状態ではないにしても、十分にクルマの走りを追い駆けることができる景観だ。
 それにもまして驚いたのは、この頃では5~6分入りのホームスタンドが8分程は埋まっており、今日解放されたメインスタンドも既に半分以上が埋まっている。
「なっ、最高だろ。もう、5年も使ってないから、いま来てるような連中はほとんど知らないんだ。だから、アッチに行っちゃうんだろうけど。やっぱり、オールドコースを見るならここが一番だなあ」
「すごい。リクさんに連れてこられなけりゃアタシ、いつもどおりアッチで見てました。とっても得した気分。それにしてもいっぱい入りましたね。今日はいつもと違うってこと知ってるみたい」
 5年も使っていないこのスタンドが、客を受け入れるのに十分な状況であることを不審に思うも、それをリクオに問うてもしかたなく、そんな言葉になってしまった。
 リクオもスタンドの客入りを目にし、腕を組み感心していた。
「うーん、そうかもな。なんだかんだ言って、人のクチコミってヤツは広がるのは早いからなあ。外部ドライバーの参加にオールドコースでのレースだろ。それに、メインスタンドの開放と。どうやら、知ってるヤツ等はちゃーんと知ってるんだな。たぶん、アラトみたいなヤツがどこにでもいて、ウワサがウワサを呼んで、アッという間に広まっちまうんじゃないの」
 リクオは思いつきで言ったぐらいの話しだろうが、ウワサの効力についてはありえることだ。それにも増して、これほど見晴らしの良いメインスタンドを何故、何年も開放していなかったのか。5年前の事故や、タイムアッタック方式へのルール変更。それに『オールド・コース』の閉鎖。すべてはひとつの目的の為に綿密に操作されていたとしても、当時を知らないマリにはそこまで読むことはできない。
 久しぶりに開放したスタンドの足元や、ベンチが小ぎれいになっており、それが1日やそこらで準備できるとも思えず、それなりの段取りを踏んでいるのだろうという思うに留まっていた。
 リクオに対しては当たり障りのない相槌を打って、目線を落としていたマリが顔を上げる。
「きっと、そうですね。あっ、クルマが動き出したわ」
 マリが指を差すとほぼ同時にピットレーンにサイレンが鳴り響く。今日のレースが開始される合図だ。同時に今日の第一走者となるアウトビアンキがピットロードを飛び出した。観衆は立ち上がり拍手が沸き起こった。
 いつもより人が多いので相乗効果もあり、スタンドは一体化し集まった歓声は一層の盛り上がりを感じさせる。ただ、メインスタンドの一部は静まり返っており、まるでそこだけがぽっかりと沈み込んでいるように見えた。
「さあ、スタートだ。最初は玖沙薙のビアンキだ。何にしろコイツのタイムが基準になるからな、いったい舘石さんが残した最速ラップにどこまで近づけるんだろ? うわあー、ドキドキしてきたぜ。最速っていったってもう5年も前のことだぜ。クルマもパーツも進歩したし、それぐらいのタイムは出ると思うけどなあ」
 ビアンキの走りに集中しはじめたリクオの気をそぐように、真顔のマリから発せられた言葉に耳を疑う。
「あのー、すっごく初歩的な質問なんですけど。これってどうやって勝ち負けを決めてるんですか?」
 リクオの眉毛が伸び上がり唖然とする顔に、みるみるマリの頬が紅くなっていく。
「へっ、知らんかったの? それもまた… すげえな。今までなに見て楽しんでたんだ?」
 わかっていたとはいえ、相当に頓珍漢な質問をしてしまったことに照れ笑いで応じるしかなく、リクオへの答えも話がズレていってしまう。
「えっ、ああ、そのう、順番にいろんなクルマが走っていくなあとか。今日のタイムはこれぐらいなんだなあとか… 周りが盛り上がっても、何が凄かったのか良くわからなくて。あっ、でも、クルマが走ってるのを見るのは本当に楽しくって、キレイな走りをしてるクルマはタイムも良かったりするから。それを見てるととっても幸せになれるから、それが楽しみだったんです… けどぉ」
 話すほどに目を輝かせはじめるマリも、最後には再び恥ずかし気な表情に戻っていく。リクオは冗談でしかめっ面をする。
「へい、へい、そんで一番キレイな走りして、幸せの絶頂にしてくれたのがナイジだったんだよな。しかもそれ練習走行だぞ。そこまで言わねえだろうけど。さすがにそれぐらいオレでも察するよ。ははっ、はーあ」
「えっ、えっ、そんな、別にそんなつもりじゃ、…でも、そうだったかな。あっ、あっ、そうじゃなくて」
 両手を交互に振り必死に弁解する。
「いいよ、いいよ、そんなに気ぃ遣わなくても。わかってっからさ。やっぱり、光るものがあるんだよなナイジのヤツ。ルールも知らないシロウトが見てもそこまで感じれるんならさ。それとも、わかる人にはわかるってことか? そうなると、マリちゃんも結構スルドイ目してるかもね。だけど、それが、実際にタイムとして目に見えるものになるのか、夢のままで終わっちまうのか、今日次第ってとこだな」
 すこし、リクオはさびしげな表情をした。
「おっ、戻ってきた、タイム計測に入るぞ。ああ、そうそう、レースの勝ち負けのことだけど、ツアーズって4つあるだろ。ああ、4つあるんだよ。それぞれ、5台づつエントリーするんだ。第一走者、ファーストレグって呼ばれてるんだけど、そいつが走って、タイム計って出したタイム差がポイントになるんだ。10分の1秒で1ポイント。だから、簡単に説明すると、ファーストレグが終わって1位から4位まで1秒づつ差がつけば10ポイントづつ差がついていくってわけだな。それ5台の合計で足していく。いってみれば、見えないバトンをつないでくリレーをしてるみたいなもんだな。だから、いくら自分が失敗したからって途中で諦めるわけにはいけないんだ。レース全体の勝負を考えれば少しでもタイムを削れば次につながるし、そうしなきゃ自分とこのツアーズに迷惑がかかっちまうからな」
 言いながらも目線は1コーナーの方へ向かって行く。マリも同じように目線を持っていく。
「これが結構うまいこと回るんだよ。更新したパーツや消耗品のテスト結果を考慮して、戦略を立てて出走順を毎回変えてくるから、そのレグで何秒差をつけるか、つけられるか想定しなきゃいけない。それにエースが必ず最後に走るわけじゃないから、誰と走るかでタイム差が毎回変わるから、途中で思いもよらない差がつくこともある。それでもだいたい最終出走までもつれていくから、最後まで順位がどう転ぶかわからないんだ。だからさ、オレ達ドライバーは禁止されてるけど、スタンドで見てるヤツ等は食事とか、飲み物を賭けたりして楽しんでるんだ。わかった?」
 自信満々に問いかけるリクオであるのに、こわばった笑顔のマリは理解するのにもう少し時間を要するようだ。
「はあ、何となく、ハハッ」
「ハハッ、じゃねーよ。なんだよ、これじゃあ、早くも解説者失格じゃねえか? まあ、マリちゃんの場合そこまで深く見なくても、楽しんでるからいいけどさ」
「えっ、はあ。 …あのう、ところでそんなに大ぴらに賭けなんかしてるんですね?」
 よくわかっていないマリが引っかかったのは別のところにあり、リクオは肩を落とす。
「はあ? ソッチが気になるのかよ。意外とギャンブラーだったりしてなマリちゃんは。ナイジのこともだそうだけど。まあ、いいか、そんなハナシは。あっ、帰ってきた。おーっ、3秒落ちかー、うわー、なんだよ、なんだよ、5年前の舘石さんのタイムってそれほどスゲエっのかよ」
 スタンドの反応も同じようなもので、一様に落胆と、賞賛の入り混じった声が沸きあがる。続いて、駿峨ツアーズのカーマン・ギアが完熟走行を経て、計測に入っていった。
 次走車は前走車がタイムアタックに入ったタイミングでピットアウトをし、チェッカーと共に次のクルマがアタックラップに入るように計算されており、観客を飽きさせないタイムスケジュールとなっている。
 第一計測ポイントで、カーマン・ギアが前走のビアンキよりコンマ5秒早かったが、それが掲示されるとスタンドは一瞬だけどよめきを起こした。しかし、例えコンマ5秒づつ削ったとしても、トータルでは2秒しか縮まらず、舘石のタイムにはまだ1秒及ばない。
 結局、続く、第2・3ポイントではさほどタイムは詰めることはできず、トータルでビアンキよりコンマ9早いタイムでフィニッシュしたに留まった。山間部の途中でミスがあったらしく、それを立て直すことができなかったことが最後まで響き、それ以上のタイムアップにつながることはなかった。
 続く濱南ツアーズのプジョーも甲洲ツアーズのミキオが乗るローバーも似かよったタイムに留まりファースト・レグが終了した。
 次のレグまでに10分の休憩があり、スタンドでは多くのにわか解説者が感想を述べはじめる。リクオも同様に自分の中に蓄積していった持論をマリに語り出す。
「まあ、どこもまだ、エース級が出てないし、これからだよ。うーん、でも2秒は縮まらないだろうな。これじゃあ、舘石さんの伝説がますます脚光を浴びるだけになっちまう。いや、もし志登呂からきたロータスにしてやられたら、ウチらここのツアーズの立場が無くなっちまうぞ」
 マリにはそれも想定内であるとピンと来ていた。それもまた、展開としては運営側としては面白いことになるはずだ。ストーリーが今回で終わらず次につながっていくことになる。
「ですよねえ。あと2秒詰めるのはかなり難しいんですよね? 距離が長いからもう少し詰めれる気がするんですけど?」
 周囲の会話もだいたい同じような見方がほとんどだった。あらためて舘石の偉業が見直されるものの、誰もがなにやら物足りない印象を持っているのは間違いなく、しだいに重たい空気がスタンドを覆っていった。

 ガレージ出口で静かにその時を待つナイジに、ここまで盛り上がりが少なかったスタンドが、にわかに活気が出てきたのが伝わってきた。
 そこに、さらに大きなどよめきが届くと同時に、甲州ツアーズの連中の声が響く「ジュンイチがやったぞ、一番時計だ!」そんな声が聞えてきた。
 ジュンイチがどれほどのタイムを出したのかナイジにはわからなくとも、ここまでの最速タイムが出たことで、甲洲ツアーズのピットに歓声が沸き起こったのだ。
――やったな、BJのヤツ。地道な練習もダテじゃないな。あとは、あのロータスがどんなタイムを出してくるか。筋書きどおりなら、最低でもコースレコードは出してくるだろうし――
 これで第4レグが終了した。最後の第5レグを走る4台のクルマがピットレーン出口に待機する。ロータスと、濱南ツアーズのピットに順番に目をやると、そこには余裕の表情の出臼が時折笑顔を交えて回りと談笑をしている。ロータスに何ら指示をする様子も伺えない。
 ジュンイチのタイムを見てもなお一向に動揺もしないその態度からは、これから走る安藤の出すタイムに余程自信があるからなのだろう。想定内の出来事と言わんばかりの出臼の得意げな顔に気分が悪くなりナイジは目を閉じた。
――BJのタイムなんか屁でも無いってことか――
 そこにノックの音が耳に入る。瞳を開ければミキオが窓際に立っていた。しきりにサイドウィンドを開ける仕草をしている。何か言いたいことがあるのだろう。
 ナイジはこのタイミングで人と話しをする気にはならないのに、放っておくわけにもいかず仕方なくウィンドを下げる。
「B・Jがトップタイム出したんだ。コースレコードにはコンマ5秒届かなかったけど、今日の最速をマークしたぞ。ひとつ前を走った指宿さんよりコンマ3秒早い、不破さんも大喜びだ!」
 テレビ画面に映る興味のないニュースでも見ているように、ナイジの表情はとろけるほどに眠たげだった。
「なんだよ、ほんとに関心ないなオマエ」
 興奮気味に話し出したミキオは、ナイジが何の反応も示さず顔色ひとつ変えないので徐々にトーンダウンしていく。自分ではビッグニュースをナイジに話し、感動を共有したいというより反応が見たくて、仲間を出し抜いてわざわざ教えに来たのだった。
 そんなミキオの自己満足的なお節介よりも、ナイジが気になるのは別のところだ。
「そうか、まだ届いてないんだ」
「なんだよ、そっちが気になるのか。 …それで、どうなんだよ、行けんのか、オマエはさ。オレは期待してるんだぜ、オマエが何かやらかしてくれるって。オマエだってそんな気になったからリクを差し置いて出る気になったんだろ」
 がっくりと頭を垂れる。――こりゃほんとに、賞味期限が切れそうだ――
 そのとき、リョウタがピットから声をかけてきた。
「おーい、ナイジ! 時間だ。ロータスの後ろにつけ」
 ひとつ前のロータスがピットレーンへ向かったので、最終走者である次のナイジはそのあとに続く。ミキオは車体から身体を離し、ボディを叩いてナイジを送り出す。
「みんな、少しでも長く、いい夢見てられるといいな」
「へっ。まあ、それぐらいのことしか言わないと思ってたけどよ。だけどな、このまま、夢のままで終わらせたら、オマエも不破さんもあとがないのが現実なんだぞ」
――ロータスにやられりゃ、みんな同じだろ――
 サイドウィンドを閉める直前に、ナイジは親指と人差し指を立ててミキオに応え、オースチンを点火しピット出口までクルマを運んで行く。
 ミキオも思わず同じように指を立てるが、その合図の意味するところが読めず、指先を見つめ首をかしげてしまう。
――なんだよ、親指と人差し指で立てて。1番じゃないのか…?――
 ミキオが不破の進退を持ち出したのは、別にナイジを脅すつもりも、余計な緊張を与えるつもりでもなかった。もともと、そんなことで圧迫に瀕するナイジでもないことはわかっている。
 この状況下でさえいつも通りの飄々とした受け答えをするナイジを見て、自分とは違う別次元を感じずにはいられず、つい期待をかけてしまう。
 馬庭も、不破も、そしてナイジの内なる能力を密かに知る者たちにとっても、大なり小なり自分の隠し手として利用しようとしている。
 自分がそんな手駒にされているとも知らず、まわりからの喧騒から離れ、ナイジは最速のワンラップを叩き出すことに集中していく。
 これまではそこが自分が自分でいれらる拠りどころであったはずだ。それなのに、ふと思い浮かべるマリの顔にナイジは息を漏らしてしまった。
――オレもなにやってんだか――