private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第18章 4

2023-01-01 13:59:52 | 連続小説

 それはスローモーションのようにして目に映り込んできた。マリのサイドウィンドに接近するロータスは、平走するのもつかの間、最適なライン取りからの加速の違いを見せつけ、一気にオースチンを抜き去って行った。
 マリがどれほどギアに力を込めようと、オースチンにプラスアルファの力が加わることはなく、ましてやロータスの加速が鈍るわけでもない。
 追い抜かれた現実だけが自分の無力さを痛いほど知らしめていた。いつ仕掛けてくるのかと背後からの過重をここまで苦しく感じ続け、それを自分自身で過度に捉えすぎて、できること以上をやろうとした挙句にかえって細かいミスを連発していた。
 もしもゆるされるなら1コーナーからやり直したいとの思いが、失敗の数々が脳裏にこびりつき、気持ちを前向きにすることなく切り替えを妨げていた。
 ナイジは何も言ってこないが、ロータスに差されたコーナーの手前で、ナイジの動きに対して一瞬の遅れでギアシフトしてしまい、トルクが地面に伝わらない時間を発生させていた。
 当初心配した通り、そんな小さなミスが次の操作を遅らせ、ステアリングを切るタイミングも、スロットルを踏み込むポイントも後手後手に回っていった。それがロータスに隙を見せることになり、イン側にスペースを与える原因をつくってしまった。
 薄目で恐る恐るナイジの様子をうかがう。以外にもナイジの目は死んではいなかった。それどころか、楽しんでいる余裕さえ見て取れる。
「終わったことは考えるな。先だけ見て走るんだ」
 そんなマリの心情を察したかのように、ナイジが声をかける。その言葉はマリのミスを咎めるどころか、まるでここで抜かれることを予測し、次のシナリオへ進む単なる過程であるほどにさえ力強く聞こえる。
 同時にギアチェンジも烈しく鋭くなり、マリの手を介しているとは思えないほど、本当にケガをして痛みがあるのかと疑うほどに、自分の感性で操作しはじめている。
 これまでのように押さえ込もうとする受動的な走りは姿を消し、もう一度抜き返すための能動的意欲に切り替わっていった。
 なんのために無理を承知でナイジが自分をナビに座らせたのか。これまでと同じ気持ちのままならばここに座っている価値はない。それをもう一度問われているようで、マリの気持ちを奮い立たせるには充分なナイジの戦う姿勢がそこにあった。
 そんなナイジが還ってきたのは、マリのひたむきなシフトワークを見て勇気づけられたとも知らず、ふたりはお互いに弱い自分を知り、強い相手を垣間見ては修正を重ねていった。
 緩い下り勾配が続くコースは細かいコーナーの繰り返しで、クルマの荷重を加味したブレーキ操作と、自分の中の猜疑心に真っ向に向き合い、スロットルをどれだけ早くから開けられるかが問われる自制心との戦いだ。
 ナイジの目の前にいるロータスはそれ程離れてはいかない。これまで自分がやられたようにオースチンを完膚なまでに押さえ込むことで、自分のテクニックを観衆に見せようとしているのだ。
 そんな2台の超接近戦はロータスのテールバンパーと、オースチンのフロントバンパーが、見えない糸でくくりつけてあると思われるほど一定の距離を保ちつつ、コーナーの前では同じように減速し、コーナーを旋回し、そして立ち上がっていく。
 黒と白のクルマはボールルームで踊る一流ダンサーと見間違うほど息を合わせ、コースの幅全域を使って一糸乱れぬ体勢でダンスを踊り続けた。
 ロータスが抜いたことで歓声を上げた観衆は、いつしか2台が折り重なって走る姿に魅了され、誰もが口をあけたまま、声をなくしていった。センチどころかミリ単位の隙間で走りつづける2台のクルマの美麗な挙動に、これがレースであることを忘れさせられるほどだ。
 そんな走りも、外で見ているほど車内は優雅でも華麗でもない。レーサーでもないマリにとってはここまでも劣悪な環境下であったのに、ナイジがマリの存在を意識しなくなり、もう一段階上の次元に行ってしまってからは、それがさらに一層ひどくなっていた。
 そんなナイジの進化した走りの中で、マリにもまた独自に新しい対応力が生まれていた。少しでもナイジの左手と一体化したギアチェンジを心がけていたマリは、目でナイジの動きを追わずとも、コーナーを見ながらナイジからの波動を感じるようになっていった。
 シフトに添えたマリの手に、ナイジの熱量が接近してくる。その温度を感じ取ってシフトを動かすタイミングが計れるようになり、ナイジの手が触れた時には既にマリは適切なシフトチェンジの始動をはじめていた。
 最初だけ少し驚いて目線を動かそうとしたナイジは、集中しているマリを目端に捉え、その流れに身を任せることにした。そうなればシフトチェンジが面白いぐらいにハマってくる。ふたりが呼び込んだ奇跡であり、そうなればと望んでいたマリとの一体感であった。
 マリはもうアタマで考えなくとも、この感覚を肌に伝わる空気の動きだけで捉えられるようになっていた。少しでも思考を介すれば、またたくまにそれは破綻し、元に戻らなくなるってしまう諸刃の剣でもあった。
 その恩恵を余すところなく受けとめて、レーシングスピードが上がったナイジのドライビングによって、ハードブレーキングの度に身体は前のめりになり、シートベルトが容赦なく胸部から腹部を圧迫する。
 すぐさま次の加速でシートに押し付けられ、息つくひまもないまま肺が締め付けられる。それでも、ナイジに余計な気を遣わせまいと嗚咽をこらえ、吐瀉物を飲み込み、苦しみを表情や声に出さないように耐え続けた。
 その度に目からこぼれた涙は、ブレーキングから加速へ移る一瞬の無重力状態時にマリから解き放たれ、空中を浮遊する雫となる。車中に浮かんだ糸の切れた真珠の珠のような複数の涙の粒は、次の加速の重力がかかると再び自分に戻ってくる。
 何度同じようにコーナーを回ったのだろう。マリの目の前にあるロータスのテールエンドはコーナーでもストレートでも常に同じ位置にある。いつ激突してもおかしくないほどの距離しかなく、実際のスピードより体感的にはかなりの速さの中に在り続ける。
 それは身体への負担もさることながら、いつ恐怖に負けても不思議でない闘いが果てることなく続いていく。奥歯はかみ合わず、心臓が高鳴り続け、身体の震えが止まらない。
 コーナーへの減速の度にぶつかるのではないかと心臓が締め付けられる。そんな過酷な状況の中でも2度とシフトを遅らせるわけにはいかない。クルマの挙動を感じ、コースを読み取り、熱量を察知しつづけるマリは、なにより早くナイジの意志を読み取りたい。一秒でも早くナイジの脳波を感じたい。その思いだけが崩れ落ちそうな今の自分を支えていた。
――もっとうまくやらなきゃ。これ以上ナイジの足を引っ張っりたくない。ううん、そんなことよりロータスを抜き返すんだから――
 マリは自分に言い聞かせる。ナイジとともに成長していくなかで、登り区間よりも同調してきたシフトチェンジに、ナイジはもはやアシストを受けている感覚はなくなってきた。
 登り区間とは別人のようなナイジの走りに、安藤は手を焼きはじめていた。一度崩れたリズムは簡単には戻ってこない。オースチンを抑えこむ走りは、いつしかオースチンを抑えるというよりも、流れの中に巻き込まれる走りになっていた。
 ステアリングを指先で弾きながらリズムを取るナイジは、前を走るロータスの一手先の動きが先読みでき、ドライビングにゆとりが生まれ、いつしか縦走する2台のクルマを俯瞰で捉えるようになっていった。
 5連コーナーの前で先行するならば、仕掛けるのは今しかない。ステアリングをつかむ手に力がこもる。それを目にしたマリにも、今からナイジが勝負をかけるのが伝わってくる。緊張感から乾ききった喉がそれでも小さく鳴ってしまった。

 八起は焦り始めていた。コースの半分を周回し終えようとしているのに、捜しているものは見つからない。スタートのカウントダウンをはじめるサイレンが耳に届き、なおのこと焦燥感に苛まれていく。
 いつまでも時間を掛けて調べている訳にもいかないと急ぐ一方、万が一見逃したことを考えると慎重にならざるを得ない。
 もう5分もすれば走ってくる2台に追いつかれてしまうだろう。この先何も見つからないとしても引き返すことはできない。本当に何もなければいいのだが、馬庭の確信めいた指示を聞いたからには、それはあり得ないだろう。
 馬庭があるといえば必ずそれはある。それが長い付き合いの中で得た経験値であり現実だった。それだけに、一周して何もありませんでしたではすまされない。
 真夏の太陽の下でコース状況を確認するには、照り返しも厳しく簡単な作業ではない。何度も目をシバつかせせては、きつく目を閉じて回復を図るが、すぐに目は乾き酷使からくる霞みもはなはだしかった。
「ボスも無茶言うぜ、この短時間で。砂漠で砂金を捜すようなもんだ」
 愚痴のひとつも言いたくなる。グリッド上でのトラブルの顛末を報告した電話で、すぐさま次の指令を受けることになった。出臼の静観を決め込む態度に引っ掛かりを覚えた馬庭は、その要因を推理しある仮定を立て、その検証をするため八起に指示をする。
「八起、今から直ぐにマーシャルカーでコースを回ってくれ。なんらかの危険な状態があるはずだ」
「えっ! いいんですかい。そんなことして?」
 八起が思わず声を荒げる。そして、周りを見渡し再び声をひそめた。
「すいません、ボス。でもどうして」
「時間がない、説明は後だ。私がお前に無意味なことを頼んだことがあるか?」
 めずらしく、最後は苛立った口調になっていた。もとより、そんな押し問答をしている場合ではないし、馬庭に命令されたことの意味を問う必要も本来はない。ただ、余りにも突飛で、このタイミングであったゆえ、思わず口をついて出てしまっただけだ。
「いえ、はい、わかりました」
 それでも簡単な仕事ではないと何度も首を振る八起だった。
 どんな状況であれ走らせてしまえば自分の有利な展開に持っていける。そんな思惑を読み取ることができ、そうであればレースが開始された後に何らかのトラブルが起きればいいわけで、それをすべてオースチンやロータスのドライバーや不破なりに責任を取らせる。あわよくば自分まで巻き込めればと考えているのかもしれない。
 手っ取り早くクルマに細工をすることもできるが、レース後の車検を考えれば旨いやりかたではないだろう。ならばコースに何らかの仕掛けをした方が隠蔽しやすく、そのせいでドライビングミスを犯しても、コース状況のせいかドライバーのせいか、後から判断するのは難しい。
 トラブルの後、その場を元通りにしておけば証拠は残らないため、自分の部下をマーシャルにして工作させればさほど手間はかかならいだろう。それが馬庭のくだした結論だった。
 スキール音と、エンジン音が徐々に近づいてくる。
「どこだ。考えろ、どこにオレなら仕掛ける?」