private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

Starting over22.3

2018-09-02 15:53:42 | 連続小説

「いい? わたしたちはそれぞれ仲間のクルマの前に立つ。3・2・1で手を離してクルマの前から飛び退く。前が開けたらスタート。これでフライングは出来ない。仲間を轢いてもかまわないならフライングしてもいいけど、轢いてちゃあスピード出ないでしょうし、貴方がスタートの合図より先に動けば、やっぱり貴方は腰抜けのチンカス野郎だって証明するようなものだし」
 
こうして朝比奈の揺さぶりはまだ終わらない。なんとも男の見栄と虚勢を見透いたようにスタート方法を提示した。
 
そこで反応したのはミカサドではなく、ヤザワのほうだ。
「ふざけんなっ。オンナより先に、よけるわけないだろ。コケにするのもいいかげんにしやがれっ!」
 そうヤザワは吠えた。ミカサドも当然だとうなずいている。これまた朝比奈の目論見に勝手にはまっていってくれる。ここで勝負したかったヤザワにあえてその役を任せる。自分がすこしでも関われることで、なにかひと仕事してやろうといきり立つ心理をみごとについている。
 
これでヤザワは朝比奈より早く離れるわけにいかなくなった。ミカサドもスタートのタイミングが取りづらいだろう。コンマ何秒でもいい、ヤツより時間が稼げれば。それが最後に効いてくることだってある。
 
勝負って勘違いしがちなところが、ゴールの間際、タイムアップ寸前、最後の一球で結果が出るんだけど、試合開始からの積み重ねがそこに至るわけで、なにも最後の瞬間だけで勝敗が決するわけじゃない。むしろそこに照準を合わせて、余力を持って望めるぐらいのスタンスがちょうどいいんだ。
 
オンナの手を借りて、セコイ方法かもしれないけど、何の役にも立たない見栄やプライドはおれには不用だ、、、 たぶんこの先も不用だ、、、 だからもう細かいことは考えずに、目前の朝比奈の動きだけを見た。
「ねえホシノ。聞こえてる? 人間のカラダの遣い方ってそれほど単純じゃなくて、経験や練習したことがそのまま力になるわけでもなく、見えなかった潜在能力がうまく発揮できることだってある。それも経験や練習が下地になっているのは間違いないけど。ホシノはさっきまでさんざん走り込んでいた。勝負が早まったのはある意味、情報が新鮮な中で勝負に臨めて良かったと思うべき。アイツは余裕で勝てるって気が緩んでいる。それはどれだけ気を引き締めようと思い直してもうまくいき難い。精神論ってバカにできないもんで、よほどお互いの力量に差がない限り、最後に効いてくるのは貪欲なまでの勝利への餓え… 想いが能力を超えたとき、カラダは限界値を最大限まで導いてくれる」
 ヤツとの力量がおれと差がないなんてことはないんだけど、だから挑戦者でいられる。それがおれにはメリットのひとつなんだって朝比奈はつたえている。
 
おれにも経験があるのは練習会でも大会でも、一緒に走る相手を値踏みしてしまうことだ。このグループなら勝てそうだなんて一回気を抜いてしまうともう元には戻れない。余計なことを考え、集中できないまま、脚は空回りするやら、力が伝わらないはで、自分が自分でないふやけた感覚のままレースは終わってしまう。
 
それなのに、前日に脚をまわす軌道を先生に注意されたときがあって、単純なるおれはスタートの前からその動きだけをあたまの中で繰り返していた。いつもなら、さっき言ったみたいに、まわりのメンツを気にしたり、コースの状況が気になったり、となりの女子ハイジャンパーの脚が長くて綺麗でオシリがプリッとして、、、 そっちの集中力は底なしだな、、、 とにかく雑念だらけなんだけど、脚の運びであたまがいっぱいのおれは結果的に集中できてたらしく、いつのまにか走ってて、なんだか独走でトップゴールして、タイムも自己ベストが出た。
 
先生は得意満面でおれの言った通りだろと声をかけてきた。おれはただ自分で速く走れた認識がないから、心中にとまどいがあったけど、先生の手前、感謝の気持ちを伝えた。
 
その後、このとき以上に速く走れたことはなく、足の運びというより、その動きだけに集中して走れたことが原因としかいえない。肉体を精神が越えたんだ。だから朝比奈のおだてにノッておけばいい。そこだけに集中していればきっと、知らない間にミカサドを後方に従えられる、、、 ればいいなあ、、、 それだけがおれがすがれる経験値だ。
 おれの表情に余裕が出て来たと見えて、朝比奈は安心したみたいでクルマの前に向かった。ヤザワとともにクルマの前に立ち、朝比奈が先に手を出すと、ヤザワはどう見ても居心地悪そうで、目をそむけてぶっきらぼうに手だけを伸ばした。ヤツラの仲間のひやかす声もヤザワの動きを硬直させる。
――わたしが勝たせてあげる。
 朝比奈は、そう言っていた。もはや今となっては何を言われるよりそう言ってもらったほうが力になるし、それで丁度いい。朝比奈に信じてもらえるだけでおれは能力以上の力が湧いてくる、、、 はずだ、、、 きっと。
 そこからおれはもう、朝比奈の顔しか目に入らない。おだやかな目がおれを見つめている。その顔が消えたときに走り出せばいい、、、 ずっと見てたかったけど、、、
 そうしておれは深層のなかへ没頭していった。深い、これまでにない集中。ハンドルのきしみが、アクセルの反応が、シフトの滑りが、シートの反発がこれまでより何倍もの情報を与えてくれる。
 何も考えていないし、何も成し遂げようと思わなかった。それなのに身体はやるべきことを行なうために、最大限の力を発揮しようとしていた。いいじゃないか、悪くない。こんな感覚は久しぶりだ。
 おれの耳から音が消え去っていき、目に見える映像はコマ送りみたいになった。
 
時間が、おれの時間がひろがり続けていった。
 そこで朝比奈の顔が視界から消えた。