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彼岸花は飢饉用の最後の食糧として植えられた。それも食べ尽くしたら人間の肉を食べた

2021-09-16 20:44:16 | 文学・歴史

 天声人語(2019年9月25日)に、気象庁が観測している全国18カ所のうち14カ所で、彼岸花の開花が平年より遅れているという内容が載っていた。

 そもそも彼岸花は昔、飢饉用の食糧(非常用保存食料)として人間が植えたものである。昔人間は干ばつや冷害など様々な自然災害を生き抜くために身近な生活空間の中に非常用保存食料を備えていたのである。塩蔵食品、燻製(芋がらなど)、漬物など。さらに、松皮、藁など。は土壁を作る時に入れる藁である。藁の根元を3㌢ほどの長さに切って壁土と混ぜて塗り込めておいたのである。食べる場合、壁を崩して藁を水洗いし、潰して汁のように煎じ、とれる澱粉を飲んだ。藁の根元近くには7、8%ほどの澱粉質があり、100年以上保存できるのである。

 それらをすべて食べ尽くすと、最後に彼岸花を食べたのである。彼岸花は渡来植物(931~937年の間に成立の日本初の分類体百科事典『和妙類聚抄』に不記載。)で、雄株は日本の酸性土壌に適応せず絶滅し、雌株だけが残った。球根植物であり、種で生え殖えるものではなく、飢饉用の食糧として人間が植えたものなのである。その球根を食用にした。球根には多量の澱粉質があるのである。

 ところでこの球根にはアルカロイド毒がある。だから、水に晒し溶解して毒を除いた。彼岸花を食べ尽くすとどうしたのか。それは驚くなかれ人間の肉を食べたのである

 天明の飢饉(1783~84)に関する史料で1784年のものである、杉田玄白『後見草 下巻』の一部を紹介しよう。

「貧しき者どもは生産の手だてなく、父子兄弟を見棄て、我一にと他領に出でさまよい、なげき食を乞う。されど行く先々も同じ飢饉の折からなれば、他郷の人には目もかけず、一飯を与える人もなく、日々に千人二千人、流民共は餓死せし由、又出で行く事のかなわずして残り留まる者共は、食うべきものの限りは食いたれど、後には尽き果て、先に死にたる屍を切り取りては食いし由、或は小児の首を切り、頭面の皮を剥ぎ去りて焚火の中にて焙り焼き、頭蓋の割れ目にヘラ差し入れ、脳味噌を引き出し、草木の根葉を混ぜ炊きて食いし人も有りと也」以上

 

 この飢饉による被害は単なる天災だけによるものではなく、租税の負担が平常から重く農民の余力がなかった事、領主は自己の領内の平和だけを望み、他領を救おうともしなかった事、天災に対する平常からの政治的配慮が極端に乏しかった事、飢饉に乗じて悪徳商人が跳梁した事などのため一層大きくなったといわれている。

(2019年9月29日投稿)


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