つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

閔妃暗殺事件の後始末と「憧れ天皇論」

2024-10-11 13:57:09 | 朝鮮問題

 アジア太平洋戦争敗戦した神聖天皇主権大日本帝国政府は、戦後、GHQの占領政策により、新憲法に基づく新しい政府を樹立し、国名も「日本国」とした。新憲法公布日(1946年11月3日)には第1次吉田茂内閣(1946.5.22~1947.5.20)が『新憲法解説』を発行したが、そこには「国体とは、日本国民がその心の奥深く根を張っている天皇とのつながりを基礎とし、天皇を、いわばあこがれの中心として仰ぎ、それによって全国民が統合され、日本国存立の基盤をなしているという、揺るぎなき厳粛な事実であるという事ができる」と説明している。皇室報道や天皇関係の文書を読んだり、話を聞いたりすると有難い気持ちになる。これを「あこがれ天皇論」というが、多くの国民が天皇家や皇族にこのような「あこがれ」を抱いているようだ。ところで、仮にこのような「あこがれ」を抱く、天皇皇后皇族が、政治的目的を達成する上で彼らを「邪魔者」と見做す他国政府の手によって「虐殺」されたとしたら、国民はどのような反応対処をするだろうか?神聖天皇主権大日本帝国政府が過去に政治的目的で「朝鮮国王」の「王妃」を「虐殺」した事実があった事を知っているだろうか?

 日清戦争後、1895年4月三国干渉により、ロシア帝国政府朝鮮国政府に対する支配力を強め、大日本帝国第2次伊藤博文内閣はその支配力を縮減させられ、朝鮮国の植民地化政策を妨げられた。朝鮮国では、それまで開国親日派であった閔妃(高宗の妃)政権(1873年大院君を引退させ政権掌握、初め大日本帝国政府に接近し、82年の大院君のクーデター「壬午軍乱」の鎮定の際、援助を得て収めた清国政府と結び、のち大日本帝国政府に後退させられたが、日清戦争後ロシア帝国政府に接近)がロシア帝国政府に接近し、日本を排撃した。1895年7月6日、閔妃政権はソウル駐在のロシア帝国公使ウェーバーと結び、政府から親日派を追放し、親露派を新たに入閣させ、大日本帝国政府が訓練した軍隊も解散した。大日本帝国政府は朝鮮国政府に対する支配力挽回を狙い、当時のソウル駐在大日本帝国公使三浦梧楼をして日本守備隊長(臨時ソウル公使館付?)楠瀬幸彦と共謀させ、大陸浪人たちを手先として閔妃暗殺し、大院君を擁立するクーデターを起こした。

 1895年10月7日夜から翌朝にかけ、大院君を訓練隊で護衛し、日本守備隊と抜刀した大陸浪人の一隊が景福宮に押入り閔妃を虐殺し死体を凌辱した後石油をかけて焼いた。閔妃に手をかけたのは大陸浪人であるが、主体は守備隊であった。守備隊は前日に宮殿の城壁を乗り越えるための梯子を作り、宮殿内の地理に詳しい日本領事館萩原警部も同行させていた。

 この犯罪行為は、一般の朝鮮人はもちろん、当時宮中にいたロシア人サバチンと王宮警備の親衛隊を訓練していた米国人ゼネラル・ダイも見ていた。

 さて、大日本帝国政府は、閔妃虐殺事件の後始末をどのようにしたのか?1896年1月20日、広島地裁の予審では下手人(大陸浪人)たちを証拠不十分として全員免訴とした。広島での軍法会議楠瀬幸彦日本守備隊長と兵士たちを全員無罪とした。審理では陸軍省が圧力をかけた結果であった。ソウルでは領事裁判を実施したが、大陸浪人たちはソウルで会議を開き、下手人として名乗り出る者を決定し、陳述内容打ち合わせていた。下手人を最初に調べたのは主犯ともいえる「萩原警部」であった。また、犯行当時押収した文書は、犯行の自白があり、広島地裁の予審でも検事正から司法大臣への報告に「犯人自白したる以上は予審も意外相運候半乎被存申候」とあり、「証拠不十分」というのは隠蔽工作と言える。また、当時のソウル領事の内田定槌の「明治二十八年十月八日王城事変顚末報告書」の附属文書(国会図書館憲政資料室「井上馨文書」)には「事変後既に数日を経て日本人の之に関係せしこと最早隠れなき事実に相成候にも拘わらず、尚当館に於て公然其取調に着手不致候ては外国人に対しても甚だ不体裁に付十月十ニ日に至り先ず警察官をして関係者の口供を取らしむることに致候処、杉村書記は其意を国友重章に伝え関係者中甘んじて我警察の取調を受くべき者の姓名を選出せしめたるに、即ち別紙第五号及第六号写の通り申出て、尚取調を受けたる節は別紙第七号の通り、同一の申立を致すべき様彼等の間に申合わせしたり」とある事から公正な取り調べはなされていなかった。

 大日本帝国政府は、閔妃暗殺後、大院君執政の下で朝鮮国政府の内閣改造(傀儡内閣)を行った。又、三浦梧楼公使の後任には小村寿太郎(1896年2月11日高宗とその世子が公使館に逃げ込み親露政権を樹立したため信任状の奉呈ができなかった。露館播遷。)をあてた。小村はソウルでウェーバーロシア帝国公使と協議し、閔妃事件に関与した訓練隊を解散し、隊長を免職し、軍部大臣、警務使も免官した。さらに、閔妃事件を裁くために、特別法院を設置し、1895年12月9日下手人3人を死刑に処した。しかし、この時の法務大臣は先の内閣改造による大日本帝国傀儡親日派で、刑事局長も同様であった。つまり、閔妃を虐殺した後、それに利用した朝鮮人たちの口を封じ事件を隠蔽しようとしたのである。

 露館播遷で樹立された朝鮮国の高宗親露政権は、先の大日本帝国傀儡内閣の総理大臣、度支部大臣、農商工部大臣を捕え殺した。その他の閣僚たちはすべて大日本帝国へ亡命した。

(2024年10月10日投稿)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 政教分離違反:大阪市(大阪... | トップ | 甲午農民戦争を理由に対清戦... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

朝鮮問題」カテゴリの最新記事