愛媛県教委の指導で愛媛県立の全高校が新年度から校則を改訂し、校外の政治活動に参加する生徒に、学校への事前の届け出を義務化する事で批判がわき上がっている。当たり前のことである。県教委や校長職教頭職などの人間の時代錯誤の意識も甚だしく、まさかそんな事をするところはないだろうと思っていただけに、唖然とする出来事である。しかし、改めてこの事実を考えてみると、「こんな事が起こってもおかしくないな」とうなずけるところがある。
しかし、この「届け出制」を生み出す下地を作ったのは、今年1月に「届け出制」を容認した安倍政権馳文科相文科省であり、その曖昧で無責任な姿勢が元凶であるというべきである。文科相は「抜け道」をつくり、(恐らく県教委や校長職教頭職と結託して)この動きを導き出すために計算をしたうえでの「容認」であったのだろう。このように考えると安倍政権の手法は改めて何事においても極めて「狡猾」で「欺瞞的」だと強く確信する。また、県教委も「強制」との批判を避けるために、つまり「責任逃れ」のために「判断は各校に任せる」と伝えたとしている。しかし、同時に「校則を変更した場合は県教委の担当課長宛てに報告する」ことを要請しており、「変更例を示した文書(届け出制の内容)」を配布していた。これは全校に対し「届け出制」に変更するよう暗黙に「要請」していたという事である。
校長職は、職員会議で検討し導入を決めたとしているが「職員会議」の決定権は以前より「校長職」にあり、教員による充分な議論がなされたかのかどうか定かではない(恐らく深い議論はなされていないだろう)し、深い議論がなされたとしても議論の内容をどれだけ校長職がくみ取ったのかも疑問がある。つまり、ほとんど意見を言わない教員に対して校長職の権限で決定したのではないかという事である。
また、校長職からは「届け出制」を「正当化」する「理由」として「安全管理のために必要」とか「政治活動を優先するあまり、授業を欠席し続けるなど学業に支障がある生徒が出るような事態を防ぐため、届け出をお願いする事にした」などをあげているが、この発想は45年ほど前まではまだ学校と教師が一般的に強く持っていた「学校は生徒を管理しつけをする機関である」とする生徒管理の発想である。生徒指導という名目で親の教育権を認めず奪い取って(親も学校と教師に委ねていた面がある)腕力の行使(教師の体罰暴力問題)もして生徒の生活上のすべて(善悪しつけなどあるべき姿)に関して強い権限権力を高圧的に行使していたのである。その発想をいまだに強く持続しているという事の表れである。
学校と教師は自ら生徒の模範となり、憲法の精神を生徒に培い民主主義を支えさらに発展させる生徒を育む事が本来の仕事であるはずであるにもかかわらずそれを自覚せずなおざりにし、敗戦までの学校教育の中心であった「しつけ」教育「学校教育至上主義」を惰性的に踏襲したままその事に疑問を感じないでそれで教師の役割を果たしていると自己満足してきたりそれが立派な教師であると錯覚してきたと言ってよい。
ヨーロッパや他の外国では親の子どもに対する教育権を学校や教師が侵害する事はできない。日本では現状を維持するかぎり、学校と教師は親や子どもたちを混乱困惑させるだけで特異な国柄であり続ける事になる。
学校と教師は「憲法尊重擁護義務」を自覚すべきである。また、1994年に批准した「子どもの権利条約」をもっと学ぶ必要がある。当時の文部省は「校則の見直し」が必要と考え、「一人ひとりを大切にする教育をすすめるように」通達を出している。
馳文科相は18日、愛媛県のこの件に関して、届け出制導入は「私が校長ならしない」「各都道府県教委で適切に判断していただければよい」と述べ、その理由については「大臣という立場なので申し上げた通り」と答えるだけであったというが、この態度はもっと問題視しなければならない。なぜなら、大臣であるにもかかわらず、憲法にもとづいた説明をしないからである。憲法にもとづいて大臣職を務めるべきである。教育も憲法にもとづいて行われなければならないし、憲法を支え発展させていく子どもを培う事を目的としなければならないものだからだ。そうしていない国は憲法が機能していない国だという事である。やはり、馳文科相はその資格がないと言わざるを得ない。
◎子どもの権利条約
第12条「意見表明権」①締約国は、自己の意見を形成する能力のある子どもがその子どもに影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。
第14条「思想・両親・宗教の自由」①締約国は、思想、良心及び宗教の自由についての子どもの権利を尊重する。
第16条「私生活、名誉及び信用の尊重」①いかなる子どもも、その私生活、家族、住居若しくは通信に対して恣意的に若しくは不法に干渉され又は名誉及び信用を不法に攻撃されない。