ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「国のこころ国のかたち」

2007-02-26 08:17:25 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「国のこころ国のかたち」という本を読んだ。
6人の有識者が座談会形式で自分の思いや考を述べるというものであった。
日本を代表する人たちなので、それなりに見応えのある内容であるが、主催が産経新聞なので、比較的右よりの論調になっている。
戦後の日本に定着した民主主義ということから言えば、6人の有識者が語ることに6人が全部賛同するということはあり得ない。
それこそが民主主義というものであろうが、然し、物事を推し進めるにはどこかでこのまちまちの意見を収斂しなければならないはずで、6人の意見をそれぞれに併記しただけでは物事は前に進まないと思う。
そこが民主主義の難しいところで、仮に意見が3対3に分かれたとしたら物事はその場で頓挫してしまう。
そこで意見が4対2になったとしたら、ここで多数決原理でことを決めるとすると、少数意見をどうするのだという意見が出てくる。
民主主義には少数意見を切り捨てるという勇気も必要なのではなかろうか。
民主主義体制というものは皆が全てに平等ということではないと思う。
我々は民主主義を標榜しながら、皆が全ての点において平等ということを追求しようとするから世の中がおかしくなってしまうのではなかろうか。
民主主義にも欠陥が内在しているわけで、その欠陥の一つが少数意見を汲みきれないという点だと思う。
最大多数の最大幸福をねがっていても、最大多数でないグループの意見というのは反映する場がないということである。
これは全ての人々を皆一律に平等に扱おうとするからこういう誤謬を容認できない、という極端な思考に陥るのであろう。
国家を論ずるとき、人々は政治家のリーダーシップを期待するが、私はこの点について大いに疑問を感じている。
政治家は確かに国の舵取りをしているが、その舵取りに指針を示すべきは、常に物事を研究することを生業にしている学者でなければならないのではなかろうか。
ただし、世の学者というのは、その大部分が過去のことを研究しており、未来に考察を巡らすことは学者としての仕事のうちに入っていないように見えるが、日本の知識人のあこがれるマルクス、エンゲルスは明らか未来学者であったと思う。
人間の歴史を克明にたどれば過去の実績から未来が予測できると思う。
世の学者先生は学問的研究が過去を研究するだけで終わってしまっているから未来予測ができないわけで、本当の学問ならば、その研究の先がまだ残っているのではなかろうか。
過去を研究しているだけならば、学問的遊び以外の何者でもないわけで、知的遊戯の域を出るものではない。
人間の考えることは昔も今もそうたいした違いはないと思う。
性欲、金欲、権勢欲、顕示欲、その他欲望の名前は多々あろうが、人間はこういう欲望に触発されて動いているだけで、人間の基本的な欲望の数が年々増えるというものでもないと思う。
ただここで注意しなければならないことは、欲望を満たすための手段は年々歳々進化するわけで、それが文明とか文化と称されるものであり、人間の欲望がこれと合体すると、悲喜劇が繰り返されることになる。
それをコントロールするのは本来ならば学者でなければならないと思う。
政治家というのは、突き詰めれば、人間の欲望を文明の利器を使って効率よく実現することに精力を集中させる存在だと思う。
昨今の風潮として、学者から政治家を見る目というのは、何か胡散臭いものを感じ取る目つきだ。
学者の視点から政治家を見れば、利権を求めて徘徊するハイエナのように写り、何となく薄汚い妖怪でも見るような目線だと思う。
学者も政治家も、国民とか市民の存在は眼中になく、お互いに胡散臭い気持ちで腹の内を探り合っている感がするが、学者は政治家を啓蒙する気迫を持たなければ駄目だと思う。
国会の中には各種の委員会があり、又政党のなかにもそれぞれにブレーンを抱えているところもあり、その中には大学教授も含まれているが、政治家がそれらの意見を採用するときもあれば、無視する場合も多々あるに違いない。
それは学者の目標と政治家の目標が合致していないからであって、学者は絵に描いたような理想を言うが、政治家は実現可能な実績を求めているからであって、その目指すところが違っているからである。
学者も絵に描いた理想をいうのではなく、国民のおかれた現状に即して近未来の実現可能な案を提示すべきで、それを政治家に説くのが学問を生業とする彼らの使命ではなかろうか。
学者が政治家をリードするということは、学者の側が実現可能な案を提示しないから双方が反発してしまうのである。
学者の未来予測が絵に書いたような理想であっては、学者としての器量がないということである。
道路一本作るにも、橋一本掛けるのも賛否両論があることは当然であるが、賛否両論を併記したところで意味はないわけで、そこで大勢の賛成することならば、それを推し進めようという風にならなければおかしい。
ここで学者や知識人のお知恵拝借となるわけであるが、そのときにそういう偉い先生方が全部反体制の側につくということはおかしな話なわけで、本来ならばこういう場面で偉い先生方が「大勢の方々が恩恵に浴すことなのだから、少数意見の方々も協力しましょう」、と説得にかからなければ学者や知識人としての価値がないではないか。
政治家集団としての政党は、本来的に政権政党を目指すという宿命を抱えているわけで、内心では反対するまでもないと思っていても、それを表面には出せず、野党としては与党に対して反対せざるを得ない。
その野党に学者や知識人が率先して乗っかってしまっては彼らの学識経験というものの意味がないではないか。
小泉首相の行政改革でも、学識経験者や知識人がよってたかって批判するだけでは一歩も前に進まないわけで、現状がゆき詰まっていることは誰の目にもあきらかなわけで、だとしたらそういう人たちは率先して彼に協力してしかるべきだ。
然し、それでは御用学者と見なされるわけで、学者として御用学者といわれることは非常に恥ずかしい思いがし、学者としての矜持が許さないのであろう。
学者が御用学者と見なされるのは、学者が政治家の後を歩くからであって、学者は誇りと自信を持って政治家の前を歩み、政治家にあるべき指針を示すべきだと思う。
学者がメンツにこだわって祖国を欺く言辞を労するようでは、この国も先細りになるのも致し方ない。