ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「戦争特派員」

2009-08-31 15:56:16 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「戦争特派員」という本を読んだ。
文字通り戦争特派員の自叙伝風の読み物であったが、とにかく読み辛い本であった。
字は小さく、ページ数は多く、分厚な本で、こんな読み辛い本も最近では珍しい。
戦争特派員というから最近の戦争に関するものかと思ったら、第一次世界大戦の頃の話で、イタリアのエチオピア戦争に関する話題から始まっているので、その意味では少々古すぎる話題であった。
日本の年号でいえば、明治の初期の時代のことで、この時期にイタリアがアフリカのエチオピアで如何に帝国主義的な略奪に現を抜かしていたかが克明に記述されていた。
それとその後に続くスペイン内乱に乗じたドイツとイタリアの干渉について、くどくどと記述されている。
スペインの内乱に乗じて、ドイツがゲルニカというスペインの小さな街を空から攻撃したのは1937年、日本の年号でいえば昭和12年のことで、日本では盧溝橋事件が起きて日中戦争に嵌り込んでいった時期である。
ここで興味深いことは、このドイツ空軍のゲルニカ爆撃の真偽が一般市民というか、戦場から離れた人々の間では疑問視されていたという事実である。
こういう事実は実に不思議なことだと思う。
昨今の我々の間でも、日本軍による南京大虐殺がこの年に起きているわけだが、これもその真偽がいまだに議論に種になっているわけで、なぜこういう不可解なことになるのであろう。
この本の主題は、現地でドイツの爆撃を体験した報道記者が、リアルタイムに記事を送稿したにも関わらず、その内容を素直に信じる者がいなかったということだと考える。
戦争特派員が目の前の事実を見たまま送稿しても、それを受け取る側の人間は、自分の想定外の事件をそのまま素直に受け入れることが出来ない。
つまり、人は自分の体験からかけ離れた想定外のことを素直には受け入れることが出来ず、相手は嘘を言っているかもしれないという疑心に駆られ、そこで人為的な策意を思い巡らし、自分が騙されているという風に受け入れてしまうのかもしれない。
ただ、事実は一つしかないが、その一つしかない事実に対しても、見る視点が変わると様々な解釈が成り立つわけで、その一つの事実から導き出された真実には、さまざまな見方が成り立つということは言えると思う。
一つの事実に対してある報道が流され、その報道に対してその事実を否定する報道が政治的なプロパガンダとして流されると、その事実は茫洋とした海の中に嵌り込んでしまい、本当の真実が霞んでしまうことになる。
その両方の記事を見た人は、果たしてどちらが真実なのかわからなくなってしまうわけで、事実を公表したくない側としては、真実を打ち消すニセ情報は大いに有難い存在となるのである。
このゲルニカも、そういう意図のもとに、ドイツによる非人道的な行為をカモフラージュすることに成功した例で、それは日本の南京大虐殺にも同じことが言えている。
これは明らかに一種の情報戦、情報による戦争が仕掛けられているわけで、ある真実に対して、それに対抗しうる偽情報を流すと、真実がわからなくなってしまうという具体的な例である。
「それで得をするのは誰か」と考えれば、自ずと仕掛け人は判明するはずであるが、解ったところでそれが個人の犯罪ならばそれで終わりであるが、国家の行為だとすると、事件の真犯人が分かったからと言ってそれで事件の解決にはならないわけで、そこが国際関係の極めて難しいところである。
世界大戦というのは、結局それが原因で起きているわけで、ドイツがゲルニカという街を無差別に攻撃したのだから、世界は寄ってたかってドイツを袋叩きにしよう、というわけにはいかない。
イタリアがアフリカのエチオピアで毒ガス兵器を使っている、ドイツがゲルニカの街を攻撃した。よって平和を愛する諸国は力を合わせてイタリアやドイツを叩きましょう、と単純にはならないわけで、それは何故かといえば叩く側にも国民というものがあり、道義的に義憤を感じたとしても、それが自国民に如何にフィードバックするかを考えなければならないからである。
世界というのは綺麗な理想や理念、美しい道義で動くことはないわけで、世界を動かすエネルギーは、国益に他ならない。
国益ということは、自国民の安心と安定した生活というものを内包しているわけで、地球の何処かで非人道的な行為が行われているから、直ちにはせ参じて救済するというわけにはいかないのである。
行動を起こす前に、それが自国民の安全と安心に如何なる関わり合いがあるのかを計算しなければならず、その綿密な計算に基づいて見返りが期待できるという場合のみ行動に移すわけである。
この本の例でいくと、スペインのゲルニカという街をドイツが空から攻撃した。
その事実を知らせる一報は確かに届いているが、それを確認・検証する手段は他にないわけで、その事実を知られたくない側は、ここで偽情報としてその第一報を否定する記事を出すと、これは水掛け論に終始するわけで、真実は藪の中となりかねない。
こうなると完全に情報戦の領域に入るわけで、一つの報道がその真実を巡って水掛け論の輪が大きくなればなっただけ、情報戦の成果だといえる。
この本の主人公ジョージ・スティアは、1944年、第2次世界大戦中にアジア戦線でなくなっているので、原爆の被害を知らずに済んだが、彼が戦争特派員の目で原爆の被害者を見たとしたら、どういう風にそれを表現するのであろう。
彼は戦争特派員としてアフリカのエチオピアでイタリア軍が行った毒ガス攻撃の実態を見、ドイツによるスペインのゲルニカの街の攻撃を目の当たりにして、殺される側の悲惨な姿を世界に発信しているが、その悲惨な状況というのも、人間の過去の残虐さの集大成であって、今までの人間が知覚し得た範囲の残虐さであった。
ところが原爆の被害というのは、過去の人間の思考の内にある残虐さを超越したものがあったわけで、戦争特派員の彼ならば、それをどういう風に表現したであろう。
彼、ジョージ・スティアは、ゲルニカの街を空から攻撃するドイツ側の兵士の気持ちについては一言も思いを巡らしていないが、私は爆弾を落とす側の人間の気持ちというものを少しは考えてみたい。
太平洋戦争の末期、日本が完全に制空権を喪失した時点で、アメリカの戦闘機は日本の本土内において、地上を逃げまどう人間を面白半分に追いまわしたようだ。
これは明らかに優位に立った側のゆとり、余裕ではないかと思う。
こういう余裕が敵側に生まれた状況は、戦略の成功と、その戦略を成功ならしめる国家的な物資の豊富さが背景にあると思う。
それで、敵地まで進出して戦闘機に乗り、爆撃機に乗り、攻撃を仕掛けている人間というのは、おそらく二十歳前後の若者だと思う。
少なくとも、入れ歯がたがた、腰の曲がった年寄りが飛行機を操縦しているわけはなく、こういう若者が出撃を命じられた時、彼等はどういう気持ちでその命令を受け入れているのだろう。
日本の特攻隊というのも、帰還することのない出撃であったが、敵側は帰還することが前提の出撃であったわけで、自分達は生き延びることを前提としているにもかかわらず、敵つまり日本人は対しては、一人でも多く殺すことが大儀となっていたわけである。
それが戦争だと言ってしまえば、話は終わってしまうが、任務だからと言って、飛行機に乗って爆弾を人の上に落とすことに彼等はどういう感情を抱いているのであろう。
彼らには、自分が人を殺している、という実感がないのではなかろうか。
高い空から機銃で地上の人間を撃ったとしても、それで撃たれた人が死んだかどうかはパイロットにはわからないと思う。
その上、戦争中のことでもあるので、敵を殺すことは名誉なことであり、自分の良心に呵責を覚えることではなく、そこで逡巡することのないよう訓練さられていると思うが、本当はこの部分が一番の厄介な点である。
訓練されたから、空から地上の人間を銃で撃って、本人の良心に何の呵責も感じない人間であってもらってははなはだ困ると思う。
一人一人の人間は、平和な時ならば決して人を殺すような人ではなく、それを肯定することもなかろうが、一旦戦争状態になると、一人でも多く敵を倒すことが「善」となってしまうわけで、これは一体どういうことなのであろう。
これは個人のレベルから国家のレベルに至るまで、同じジレンマを抱え込んでいるわけで、冷静な理性で考えれば、戦争はすべきではないということを十分に理解しているにもかかわらず、考えれば考えるほど、呻吟すればするほど、事態は避けられな方向に転がってしまうのである。
この本の主人公ジョージ・スティアは、ゲルニカの街に対するドイツの空襲を極めて残酷な人でなしの行為として糾弾しているが、彼の死後、我々の経験した事実は、彼の想像を絶するものであったに違いない。
我々は、彼が生きておれば糾弾の言葉も失うほどの惨劇を経験したことになる。
こういう歴史をじっくり考えてみると、ヨーロッパ系の白人から有色人種を眺めると、白人の側には有色人種に対する偏見は拭い去れないものがあるように思える。
当然といえば当然で、地球上の人間というのはたった一人で生きているわけではなく、大勢の人と連携して生きているわけで、ここに人間の持つ「業」が潜んでいる。
人は仲よく暮らすに越したことはない。
向こう三軒両隣り、仲良く暮らすに越したことはないが、これが案外「言うは易く行うは難し」であって、理想通りにはいかないわけで、何故そうなるかと問えば、やはりそこには人間の個性、如何にものごと考えるか、如何に人の言うことを信じるか、如何に良心の規範に忠実かというそれぞれの個人がそれぞれに持っている魂の個性に左右されると思う。
ただこの地球上に住む人間の共通認識で、間違いのないことは自己愛である。
自分自身がこの世で一番可愛いという自己愛は、万人共通のもので、この自己愛が集合すると、郷土愛、祖国愛、愛国心と昇華し、行きついた先が国益偏重主義になってしまうわけで、ここまで来る過程の中で、それぞれの人の集団の間、いわゆる民族、種族、国家、国家の連携という中で、自己愛の形がさまざまな形に変化するわけで、その変化が今度は軋轢を生むことになり、結果的にホットな戦争という形に進化するものだと考える。
人が人を殺すなどということを好んでするものはいないと思う。
しかし、そう言いながらも人間は太古から殺し合いを演じていたわけで、これは言い方を変えれば、自己愛と自己愛の衝突、あるは我と我のぶつかり合いであったわけで、こういう場合、我々の先祖は、きっと話し合いから交渉に入ったものと推察するが、その話し合いでは納得のいく結果が得られなかったので、戦争という手段になったものと思う。
戦争は確かに政治の延長線上の統治の手法だと思う。
政治と戦争は、簡単に線引きの出来ない人間の集団生活の在り方であって、平和な時というのは、ただただ武力行使を中断している休戦状態の在り体だと思う。
今の南北朝鮮は、正確にいえは戦争中にもかかわらず、平和の状態が維持されているので我々から見ると、双方が平和を享受しているように見えるが、内側では如何に国威を維持するか細心の注意で以って図られているに違いない。
しかし、表面的には平和な状態で、話し合いで物事を解決しようとしているが、それは約半世紀にわたって効果が表れていないわけである。
言い方を変えれば、話し合いでは何も物事は解決しないということである。
日本の北方4島の問題から、日本人拉致の問題に至るまで、話し合いでことが解決するとうことはあり得ないが、だからと言って、こちらから武力行使をしてまで解決を急ぐ、あるいは解決するだけの覚悟が我々の側にあるかと問えば、それだけのリスクを負うだけの勇気を我々は持ち得ていないのである。
だから一向に物事は解決せず、解決したわけではないが、我々の置かれている立場は、明日の糧にも困る状況ではないわけで、危ない橋を渡るまでもなく問題を先送りして、話し合いの場が向こうから転がってくるのをじっと待ているわけである。
国益ということ考えた場合、北方4島にしろ、北朝鮮の日本人拉致の問題にしろ、日本の全国民を危機に晒してまで、その奪還に執着するほどのリスクを考えると、犠牲者には申し訳ないが今の選択が一番政府にとっては無難なわけで、これが戦争に負けた結果としての我々の現実の姿なわけである。
我々は敗戦国だ。
日清戦争、日露戦争では勝利したが、日中戦争から日米戦争においては連合国に負けたのである。
戦争に負けるということはこういうことであるが、今の日本人には、戦争に負けた者の心の在り様というのはまるで陳腐な光景に映るに違いないと思う。
これだけの経済成長の中で、過去に日本が連合国の軍門に下ったという事実さえ認識し得ないのではないかと思う。
この本では、事実の報道が歪曲して広がっていく過程が暴かれているが、それも戦争に勝つための手段の一つではあるわけで、情報の操作で戦いを有利に導くことは極めて重要なことではある。
報道というのは実にややこやしい存在で、一つの話に尾ひれがつくと、その収拾は極めて困難になる。
例の南京大虐殺に関連して「百人切り」という話が報道されて、それが独り歩きしてしまって最近まで決着がつかなかった。
要するに南京攻略戦の際に、陸軍の将校二人がお互いの自慢話の中で、どちらが先に中国人を百人切るかという競争をしたということになっているが、実際にはたわいもない茶飲み話であったものを、それが戦意高揚を狙いとするプロパガンダ的に報道されたことによって、二人の将校はもとより日本軍の残虐性を露わにした報道として、裁判で争われるということにまでなった。
これこそ極め付きの情報戦の成果であって、この記事を書いた記者、この場合は戦争特派員は、見事に祖国を敵に売り、自分の同胞を戦争犯罪人に仕立て上げ、祖国の顔、民族の誇りに泥を塗ったわけである。
この話の最大の問題点は、この裁判で問われている二人の将校に対して、その記事を書いた記者・戦争特派員が真実を述べなかったところにある。
彼は、「あれは二人の将校が冗談で言っていたことを戦意高揚のために面白おかしく脚色した」といえば、誰も傷つくものはいなかったが、彼はそれをしなかった。
そのことによって日本民族が如何にも残虐な集団であるかのようなイメージを国際的に流布したわけで、そのことで得をしたのは言うまでもなく中華人民共和国である。
二人の将校が「冗談で言っていた」ということ故意に言わなかったその記者は、日本民族を卑劣な残酷者に貶めることに成功したわけで、中華人民共和国に大いに貢献したことになる。
その記者は当時、東京日日新聞、現毎日新聞、浅見一男記者であって、私の想像するところ、極めつけの隠れ共産党員ではなかったかと想像するが真実のほどは知らない。
あの戦争中の厳格な天皇制の中でも、こういう生粋の共産主義者が軍国主義の仮面を被って我々の周りにいたわけだ。
ゲニ恐ろしきは記者と称するインテリヤクザである。

「マンスフィールド・20世紀の証言」

2009-08-29 11:12:29 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「マンスフィールド・20世紀の証言」という本を読んだ。
どうも日経新聞の「私の履歴書」に寄稿したもののようであった。
1977年、昭和52年から12年間にわたって駐日大使を務めたマイク・マンスフィールドのそれこそ文字通りの「私の履歴書」であった。
最近読んだ本はどういうわけかアメリカ人のサクセス・ストーリーが多かったが、彼らに共通した特質は、彼らはいずれも軍歴があるということである。
日本でも、戦後の昭和の時代を通じて高度経済成長をけん引した世代は、大なり小なり軍隊の経験を有していると思うが、我々の側は負け戦だったので、それを誇りに思っている人がいないのであろう、軍歴を誇示する人は皆無である。
その点、彼等は戦勝国なので、自分があの戦に如何に活躍したからは、彼らの個人的な大きな誇りになっているのであろう。
彼は20歳前にアメリカ海兵隊員として日本に来ているわけで、その印象が彼の関心をアジアに向けたようである。
彼は祐福な出自でもないにかかわらず、高学歴を得た背景には軍との関係があったわけで、こういう関係は実に素晴らしいシステムだと思う。
同時に、それは極めて合理的な社会システムだと思う。
つまり、若い世代に、国家に殉ずる行為を身を以って体験させ、それを経たものには社会的な得点を与え、進学に際してさまざまな便宜を図る、というシステムは国家の存続に極めて有意義なことだと思う。
いくらシステムがあっても本人が努力しない限りそれは意味をなさないことはいうまでもないが、成功した人は、そこでそれなりの努力をしたことはいうまでもない。
しかし、彼等のそういう目から見ても、やはり日本という民族は異質な民族に映っていたことは間違いない。
彼等の潜在意識としては、アジアに住む黄色人種は、フイリッピン人か中国人かインド人でしかないわけで、日本民族はその範疇に入らないので、彼等にしてみたら異質な存在に映るのもいた仕方ない面がある。
彼等の目から見て、日本民族が異質な存在に映るということは、我々が白人のキリスト教文化圏、およびその社会を脅かす存在である、という危惧を彼等は肌で感じているということだと思う。
ヨーロッパ系、いわゆるキリスト教文化圏の白人と言われる人たちが、アジアの人達を見る視線というのは、フイリッピン人や中国人やインド人を視野に入れている分には彼等は安心して眺めておれるが、日本人となると彼等は用心して、警戒して、構えて対処しなければならない。
アジアの日本以外の民族と日本人では、その格差が極めて大きいわけで、彼等にしてみれば日本の秘められた潜在意識というか、潜在能力が極めて恐怖に映るわけで、警戒心を怠れないと感じるのである。
思えば、当然といえば当然だろう。
あの日米決戦を見ても、アメリカ人の誰一人として、日本軍が真珠湾を空から攻撃するなどということは想定外のことであったに違いない。
日米の海戦でも、日本は負けたとはいえ、アメリカと正面から堂々と渡り合ったわけで、こういう黄色人種の存在というのは、彼等にしてみたら信じられない存在であったに違いない。
彼等のこの恐怖、「日本は舐めてかかれない存在だ」という恐怖感が、広島・長崎の原爆投下に繋がっているものと私は推測する。
結果として我々は日米戦争に敗北した。
勝ったアメリカは、太平洋戦争には勝ったが、日本は再び復興して捲土重来を図るに違いない、そうさせてはならない、と彼らなりに考察したものと考える。
だからこそ勝った彼等は徹底的に日本民族の魂をぶち壊し、日本民族の潜在能力の根源を断ち切ろうと、我々の伝統を否定し、思考の根源を木っ端みじんに粉砕する施策を実施したのである。
このアメリカの駐日大使は、はっきりと日本国憲法はアメリカ製と認めているではないか。
世界中の人が、あの日本国憲法は占領下にアメリカに押し付けられたアメリカ製の憲法だと認識しているのに、日本の中の大学者が何をもって日本の自主性が加味された自主憲法だとのたまっているのであろう。
日本国憲法がアメリカから押し付けられた憲法だということを認識することと、それを改正するかどうかの話は、次元の異なる問題ではあるが、普通の常識人の発想ならば、戦争に負けた占領下の憲法ならば改正してこそ民族の誇りが維持されるというものではなかろうか。
駐日大使、ライシャワーでもマンスフィールでも、基本的にはアメリカ人であって、アメリカの国益に貢献する立場であるので、彼等がいくら親日的であったとしても、アメリカの不利になるような発言は決してしない筈である。
それと同時に、彼等は極め付きの老獪な政治家でもあるわけで、政治的な掛け引きでも、我々の上を行っているわけで、彼等が親日的だからといって日本のために何かをしてくれると思ってはならない。
外交交渉というのは、いわゆる利益配分の調整役なのだから、双方の利益がぶつかり合っているのが常態なわけで、その利益の中には長期的あるいは短期的、経済的、構造的な利益配分も含有しているわけであって、その中で如何に平衡感覚のバランスを取るかの話である。
双方の問題点をさらけ出して、どこで妥協してどこで押し通すかのバランスが極めて大事であって、それはまさしく政治的なバランス感覚と同一である。
本日(8月29日)の朝日新聞の報ずるところによると、民主党の鳩山代表が「ニューヨーク・タイムズ」に寄稿した論文があちらで話題になっているということだ。
要するに、鳩山氏の言い分は、アメリカ流の資本主義体制を批判して、アジアにシフトした枠組みを作るということらしいが、今の世界を眺めてアメリカ抜きには何一つ成しえないという現実を認識していない感がある。
アメリカ抜きで、日本がアジアで主導権を唱えて何かが出来ると思うこと自体、昔の大東亜共栄圏の再現ではないか。
明日(30日)の選挙で、いよいよ民主党の天下が到来しそうであるが、こういう考えの人間が総理大臣の椅子に座るということを我々はどう考えるべきなのであろう。
我々がアメリカの頸木から離れて独自の道を歩むというのは極めて聞こえはいいが、これほど危なっかしい道もないわけで、日本の国民はそれを肌で感じているのであろうか。
今の若い世代は、歴史を教わってきていないということであるが、64年前日本は、アメリカに完膚なきまでに敗北したということを知らないのであろうか。
戦後の復興の中で生育した今の大人は、我々の民族が奈落の底から這い上がってきた過程を一切合財知らずに生きているのであろう。
今の飽食の状態が自分達の生まれる前から続いていたとでも思っているに違いない。
日本がアメリカと戦いをしなければならない状況に追い込まれたのも、元はといえばアメリカに対して不満をぶち開けたことにあるわけで、アメリカの神経を逆なでしたことにある。
昭和初期の日本政府の意向としては、今、鳩山民主党党首の唱えるアジアの融和と友愛を図るつもりであったものが、軍部という日本国民の総意を体現した集団に踏みにじられてしまったわけだ。
ヨーロッパ系の白人、キリスト教文化圏の西洋人が、日本を警戒し、油断ならない存在と認識するのは、こういう突出した発言に対して、非常に神経を尖らせている所為だと考える。
鳩山由紀夫が総理になる前から、アメリカに対して牽制球を投げるということは、非常に不見識なことだと思う。
「出る杭は打たれる」という俚言は、何も日本だけのことではなく地球規模で普遍的なことであって、この地球村の中で自分一人が良い子ぶっていると、周囲から「生意気だ!」と言って袋叩きに遭うということも十分あることを覚悟しなければならない。
国際連盟の立ち上げの際、日本は人種差別撤廃を盛り込むよう要求したが、アメリカによって否決された。
人種差別問題というのは当時のキリスト教文化圏では口にしてはならない不文律であったわけだが、我々はそれを絶対正義の名の下で、公開の場で口にしてしまったので、相手方は腹の中で日本パッシング、要するに「出る杭は打つ」という表面下の憎悪が芽生えたものと私は推測する。
彼等にしてみたら、悪いこととは知りつつも、それを口に出して言うことが長年憚られており、心の中では忸怩たる思いでいたものを、日本が絵に描いたような理想主義を掲げて、臆面もなく口にしてしまったわけである。
彼の記述を読むと、彼は日本には情緒的な関心を寄せているが、中国人に対してはリアルな観察眼で彼等を見据えている。
彼自身は日本も中国も同じバランスで見ているわけで、特別に日本のためにという思考は持ち合わせていない。
その彼は中国の共産主義の状況を極めて好意的に見ているが、不思議なことにエドガー・スノーのように中国奥地まで入っているにもかかわらず、スノーの話は一言も出ていない。
しかし、彼の提出した報告書というのは極めてスノーの観察に近いわけで、そのことは誰が見ても中国の状況は同じだったということなのであろう。
しかし、この部分で、中国5千年の歴史の中で、中国共産党、八路軍の支配地域において、そこの住民だけが極めて開明的で、積極的に働き、積極的にルールを順守する人たちだとはとても信じれない思いがする。
そこに住む人たちのしたたかな計算があると思わなければ、中国5千年の歴史は一体何であったのかと言わなければならない。
中国の国民政府軍、いわゆる蔣介石の軍隊が腐敗堕落しているというのは中国に対するごく普通の認識であって、そうではなく規律をきちんと守る中国の人々というのは、俄かに信じれないことである。
中国共産党、八路軍、後の人民解放軍も、生誕から年を重ねるに従い、徐々に中国人本来の姿に回帰して腐敗堕落していったわけで、中国の歴史というのはこれの繰り返しであったものと私は推察している。
こういうことは海の向こうの他国の問題であるが、こういうことが日本に存在に大きく関わり合ってくるから国際問題及び外交問題というのは厄介な存在である。
他国の問題が自分の国に大きな影響を及ぼすという意味では、アメリカの存在も全く同じなわけで、沖縄返還や核持ち込みについて両政府の間に秘密文書の存在が問われているが、外交関係ではこういうことはごく当たり前のことで、ことさら大騒ぎすることもない。
メデイアがこういう問題を追及してくる根拠は、表向きは国民の「知る権利」とか「知らせる権利」とかを振りかざしているが、それはメデイアの飯の種につながることであり、ある程度は自分達の存在意義を高々と叫んでいるにすぎない。
政治や行政がそのメデイアの意向に組みする必要はさらさらないわけで、一旦「無い!」といった以上、天地がひっくりかえっても最初の言葉を守らなければならない。
ところが人間誰しもそこまでは自分を律しきれないので、途中でメデイアの追及に屈してしまって、「嘘を言っていた」という言葉じりをとられてしまうのである。
政治家、特に外交や国際関係に携わった人たちには、墓場まで持っていかねばならない秘密の一つや二つはあると思う。
だとしたら、それは完璧に守らなければならないわけで、途中で馬脚が現れるような醜態を晒すべきではない。
我々はどういうものか秘密を守れない民族で、本来、暴露される筈のものでないことが、他の関係者から簡単に漏れることがある。
正式な文書の下書きとかコピーが、とんでもないところから現れることがあって、歴史が書きかえられるというような大ごとになることもしばしばある。
ここで大使館員という職責について思いを巡らすと、彼等の職業というか、行政官というか、官僚というか、その立場を考えてみると実に不思議な気がしてならない。
日本の場合、大使といえばその大部分が外務省の人間ではないかと思う。
ところがアメリカでは大統領から任命されて、ケース・バイ・ケースでその時々の状況にあった人物が適材適所で任命されているようだ。
日本でもこういうケースはあるに違いなかろうが、今現在、誰がどこの大使になっているかなどということは国民には解らない。
それはそれでいた仕方ないが、政治にしろ、行政にしろ、人を適材適所に配置するということは非常に大事なことだと思う。
アメリカの例で見ると、ライシャワーにしろマンスフィールドにしろ、押しも押されもせぬ学者なわけで、学者だから偉いというわけではないが、学者としての広範な知識に根ざした振る舞いというのは、大いに参考にすべきところだと思う。

「747・ジャンボをつくった男」

2009-08-27 06:37:17 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「747・ジャンボをつくった男」という本を読んだ。
この日(8月25日)は通院のため上京する日であったので、その行き帰りの時間内に一気に読み終えた。
基本的にこのジャンボ機の設計担当者のジョー・サッターという人の自叙伝的な内容であったが、一つのことを成し遂げるということは、結果的にその人物の生涯を通じた大仕事なわけで、それを記述するとなると、どうしても自叙伝風な物語になってしまうということであろう。
仕事の内容に物語のウエイトを置けば、ある種の開発神話になってしまうが、人にウェィトを置けば、それはそれで一つのサクセス・ストーリーになってしまう。
この本のヒーロー、ジョー・サッターという人は、アメリカのビズネス界では極めて珍しく、一度入社した会社で定年まで勤め上げた人で、こういう例は極めて珍しいのではないかと思う。
彼をそうあらしめたのは、747の開発という仕事が彼について回った結果として、会社側も本人もその呪縛から逃げられなかったからではなかろうか。
この本の中にも描かれているが、ボーイング社の中の彼の周りでも、来る人もおれば去る人もいるわけで、ボーイング社の中での747の開発という仕事も、紆余曲折があるのは当然で、それに付随して人の出入りもあったに違いない。
我々旧世代の日本人として、アメリカのビジネス界は能力主義で日本のように終身雇用ではないので、人は安易に転職をするということがまことしやかに言われていたが、実情はそんなに安易なものではないと思う。
私自身アメリカの内情に詳しいわけではないが、テレビとか映画から想像するアメリカ社会というのは、意図も安易に馘首するように描かれているが、ああいう光景は視覚に訴える媒体として最大限に誇張した有様だと考える。
確かに社会構造の変化で人の流れが変わるということはありうるであろう。
合理化が進んで旧来のやり方が通用しなくなって、その波に取り残される人も大勢いるに違いない。
しかし、人が人を管理、雇用する場において、真面目で、忠実に働く人間をいくら悪辣な上司といえどもそう安易に突き放すことはなく、そういう人間を手元に置いておきたいと思うのが人情というもので、その点においては、日本もアメリカも変わらないと思う。
自分の仕事に情熱を持たず、言われたことだけを、賃金の分だけしか働かない人間は、如何なる経営者でも使い捨てにしたいと思うのは洋の東西を問わず何ら変わるものではない筈だ。
経営者というのは、街の小売店からボーイングやIBMのようなビッグビジネスに至るまで、コストとしての人件費を如何に圧縮するかが大課題なわけで、経営目的に合わせて人を雇ったり馘首することは往々にしてあると思う。
そういう動きの中でも、経営者が真から欲しいと願う人間は、立派にヘッドハンテイングされるわけで、そういう意味でアメリカの企業社会は、資本主義の利点と欠点をモロにさらけ出しているということである。
我々日本民族の終身雇用制度とアメリカの能力主義を比べて、我々は何となく能力主義の方が合理的であるかのように錯覚しているが、これは日本の経済学者の対米コンプレックスに他ならない。
それは同時に、我々の側が潜在的に持っている一つのパイを如何に多くの人に平等に分け合うか、という思考と、如何に効率よく利潤を追い求めるかという発想の相違でもあったわけで、発想の相違とシステムの相違をごっちゃにした日本のバカな学者の浅知恵でしかない。
こういうバカは学者の浅知恵を真に受ける企業経営者もいるわけで、日本経済界というのは総体としてタコが自分の足を食って生きているようなものである。
アメリカの経営者というものをよく見てみると、彼等は小さい時から自分の力で銭を稼ぐ訓練が行き届いている。
日本では、貧乏人が背に腹は変えられなくなって、子供までを働かせるというイメージで見られ、子供が働くことは貧困の極地のような言い方がなされているが、アメリカでは金持ちの子供だからこそ、自分の知恵と才覚で金を得ることを身をもって学ぶという意味で、子供が仕事に就いている。
経営ということを考える前に、子育ての段階から既にこのように発想の原点から大きな相違があるわけで、この思考の格差こそ我々は考えるべきことではなかろうか。
日本のバカな経済学者が「アメリカは能率主義で、終身雇用ではないので発展したのだ」と説くと、あまり利口でない日本の経済界は、バカな学者の言うことを真に受けて、システムまでそういう方向に変えてしまったので、日本経済は斜陽化してしまったのである。
世の中のことは、すべてが失敗から教訓を学んで前進しているわけで、失敗の原因を深く掘り下げて、それを取り除くことで前に進んできたものと私は推測する。
それに比べると、我々の発想は、成功事例からそれを真似ることで、柳の下の2匹目のドジョウを追うような形である。
日本のバカな経済学者が「アメリカは能率主義だから日本もそうすべきだ」と言うことは、歴然とした成功事例の真似ごとを吹聴している姿ではないか。
我々の仲間のうちでも、物作りの現場の人は、こういう思考をしないわけで、目の前にあるものよりももっといいものを作りるにはどうしたらいいかという発想をするが、それを管理する側の発想は、成功事例を踏襲すれば同じ結果が得られると思い込んでいるわけで、それぞれの置かれた立場で発想の思考が全く異なっている。
日本でも若くて優れた経営者は掃いて捨てるほどいる。
それぞれにスキャンダルにまみれてはいるが、堀江貴文、孫正義、村上世彰というような若い経営者は、基本的に国に殉ずるという発想が根本的に存在していない。
これは彼等経営者のみならず日本の全ての若い世代に言えることであるが、「国のために何かをする」という意識は全く無い。
アメリカ人で功なり名を成した人は、全て自分の祖国に何らの形で奉仕、あるいは尽くし、貢献した経歴を持っている。
そういう体験をした後で、生き馬の目を抜く修羅場のビジネス界に身を投じるわけで、彼らの成長の過程では、祖国に対する熱い情熱が火山のマグマのようにふつふつと沸きだっているように思える。
アメリカ以外にも成功した経営者はいくらでもいるが、アメリカ以外の人達は、自分の祖国の課す兵役から如何に逃れるか、如何にその苦業から免れるかに知恵を絞るわけで、こういう人は祖国に対する愛というものははなから存在していない。
後進国の富裕な若者は、如何に自分の祖国の兵役から逃れるかに知恵を絞って、その為には手段を選ばないという傾向があるが、アメリカの若者は祖国の危機に敢然と立ち向かう意欲と誇りを失わず、祖国もそれに十分応える準備がある。
アメリカ社会では、金持ちは金持らしく国家に奉仕し、貧乏人は貧乏人らしく国に尽くし、その見返りもアメリカらしく大いに享受するシステムが構築されている。
社会全体として考えた場合、経営者としてはより多く金を稼いだ人が勝者には違いないが、社会に貢献する度合いによっては、守銭奴という評価もありうるわけで、社会の評価というのは自分ではコントロール不可能であって、他者がそれを選択するものである以上、金の量だけでは測れないものである。
日本の戦後の世代の若い経営者についても、国のためにという意識は頭の隅にも存在していないわけで、それが言葉の端はしに出ている。
で、この本の主人公は、ボーイング社に勤めて、747のプロジェクトを任されたわけであるが、その間にボーイング社そのものが数多くのプロジェクトを抱え込んで、その何れのプロジェクトも先行きが不透明であったが、この747の成功で会社の窮地が救われたという話である。
私もこの747を始めて見た時は驚いたものだ。
最近の海外旅行では747や777というような大型機で外国まで飛ぶわけだが、そもそもこのような大きな機体が空に浮かぶこと自体が不思議というか納得しきれない気分である。
座席に身を委ねて、何となく緊張した気分でいると、ほんの1分か2分の滑走で車輪が地を離れる感触があったかと思うと、上向きにひっくり返るのではないかという角度で空に上がっていくということが何とも不可解な気持ちになる。
B747は確かに大きな飛行機で、これを作り上げたということは大した事業だと思う。
しかし、これと同じことは64年前、戦争に負けるまでの日本はアメリカと同等にやっていたわけで、アメリカと同じことを我々がやっていたということは実に大いしたことだと思う。
確かに、我々とアメリカ人は、発想の段階から異なっているが、それは良いとか悪いという価値観では測れないわけで、我々の側で自分の祖国を愛する気持ちが無いという現実にはいささか心が曇る。
あの日米戦争の最中、日本でも学生が学業を放棄して戦場にはせ参じた例があるが、あれと同じ状況はアメリカ側にもあったわけで、勤労奉仕や学徒動員に近い状況があった。
この場合も、制度はよく似ているが、その運用が大きく違っているわけで、この運用の妙を我々は研究しなければならない。
ここで「研究」と言うとすぐに日本のバカな学者がシャシャリ出てくるが、研究する段階から、誰にその研究をさせるかから深く掘り下げて考えなければならない。
バカな学者が研究して、軽薄な経営者がそれを真に受けて、無責任な官僚が進取の芽を摘む、というのが我々の社会ではなかろうか。
我々は世界でもまれな物作りにひいでた民族である。
だから、「これこれを作れ」と言われたときは、極めて忠実に言われた通りものを作り得るが、いざ作り上げたものを運用する段になると、途端に馬脚が露呈して、折角作り上げたものの価値を失ってしまう。
この本にも書かれているが、ボーイング社は日本の三菱重工に機体の一部を作らせているが、その評価は極めて好評なわけで、ボーイング社の要求に十分に応えるだけの技術を我々の側は持っている。
ならば新規の新しい機体の開発が出来るかというとこれが出来ない。
飛行機の製造というのは、その全てがアッセンブリ組み立てなわけで、飛行機全体の部品が全て均一の基準内に収まっていないことには成り立たないわけで、それを完璧にこなすことは、非常に難しい仕事である。
それぞれの部品メーカーに、統一基準にあった製品を作らせて、それをアッセンブリ―組立てするということは、もう既に政治の世界に極めて近いということになり、こうなると我々の民族は12歳の子供の発想から抜け出せないことになる。
すべての部品が全て均一の基準内に納めるということは技術の問題を超越して、政治としての説得力の問題に化しているように思える。
我々の場合、ことほど左様に、今までにない何物かを作るという場合、作る目標が確実にイメージとして出来上がっておらず、次から次へと追加要求が出てきて、最初のコンセプトと異なってしまうようでは、プロジェクトを完全に遂行したとはならない筈である。
ゼロ戦の開発でも、軍の要求が極めて過酷なものであったにもかかわらず、設計担当者がその条件を飲むと腹を決めた時点で、コンセプトは確定したものと考える。
後は、その要求に合うように実験を重ね、実験からデータを導き出し、それから図面に起こして、比類まれな成果を出したわけであるが、航空機の開発というのは同じような軌跡を歩むものだと思う。
戦後の日本で、アメリカの航空機メーカーと互角に争える企業がないというのは、戦後に航空機業界が封印されたこともあるが、それよりも経済効果をもたらさない、金を浪費するだけの実験や、その検証を行うゆとりが無かったということだと思う。
要するに、日本の企業経営者の中には、それだけの無駄使いを受け入れる度量が無かったということで、日本の会社の底の浅さが、こういう開発に乗り出せなかったおおきな理由ではなかろうか。
アメリカでも、ビッグ・プロジェクトには国家が支援するケースも往々にしてあるわけで、日本でも次世代航空機の開発というようなビング・プロジェクトには、国家の財政的支援があってもよさそうに思うが、こうなるとそれこそ12歳の子供の政治感覚で、綺麗事や子供じみた理想論を振りかざして、投資をやめさせる方向にエネルギーが向いてしまう。
プロジェクトのビジョンが確立し、実験を沢山こなして、検証を重ね、そのデータに基づいた図面を起こせば、後は出来上がったも同然で、そこに我々の物作りの真価が発揮されるに違いない。
ロケットの分野でも、航空機の分野でも、日本とアメリカでは発想の原点から、その規模の大きさに格段の差があって、この乖離は埋めようがないように思われる。
アメリカ人は、何でも世界一のものを狙うわけで、アメリカにはそれをするだけの原資があるから一目置かざるを得ない。
それに引き替え、ロシアや中国は、アメリカと同じ原資を持ちながら、アメリカと肩を並べることが出来ないというのは、どこに問題があるのであろう。
ロシアに関して言えば、冷戦中、軍事力の面でアメリカを凌駕していたにもかかわらず、民生品では全く足元にも及ばないというのは一体どういうことなのであろう。
アメリカよりもはやく人工衛星を打ち上げた実績を持ってすれば、B747を凌ぐ飛行機ぐらい容易に出来そうなのにそうならないのは一体どういうことなのであろう。
軍用機にはアメリカと比べて遜色ないものがあるにはある。
しかし、それを民生品にするということになると、手も足も出ないわけで、これは一体どういうことなのであろう。
中国は中国で、今あるものをコピーすることはできても、オリジナルを作るということに関しては、からっきしだめなわけで、これは一体どういうことなのであろう。
それはたぶん、金につながらない投資を心底嫌っているからだと思う。
新しいものを生み出すには、そのコンセプトの実現に向かって実験を繰り返し、その実験の効果を図面にフィードバックし、それを何度も繰り返して最初の目標に絞り込んでいくわけで、その間は全く金を産むという場面はないわけで、金を浪費する一方なので、中国人にとってはそれが出来ないのではないかと勝手に想像している。

「無一文の億万長者」

2009-08-26 08:08:53 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「無一文の億万長者」という本を読んだ。
ツアーで海外旅行に出掛けると、おそらくDFSの店に案内された経験は一度や二度ではないと思う。
このDFSを立ち上げた人物のサクセス・ストーリであった。
生い立ちから始まって、如何に苦労してのし上がったかというストーリーであるが、それはそれなりに興味深い読み物でもある。
ところが、このDFSの創業者のチャールズ・フィーニーという人物は、成功した後の考え方が、並みの人物ではないところがより興味深い。
ビジネス界である程度の成功を納めるというのは、この世に数えきれないほどの企業が存在している限り、その数と同じだけ成功者がいるということだと思う。
並みの経営者がビル・ゲイツやチャールズ・フィーニーと違うところは、その規模の大きさのみで、企業主の全てが、最初はゼロから企業を立ち上げて、無から有を築きあげたものだと私は思う。
人それぞれに苦労して現在の地位を得たに違いないものと思う。
今、日本の政治は転換期を迎えて、自民党が没落して民主党が旭日の勢いであるが、この騒動の中で「格差の是正」ということが双方で声高に叫ばれている。
これって本当はおかしなことではなかろうか。
人が複数集まった社会の中で、皆が一律に均一ということはあり得ないわけで、それを理想に掲げた共産主義というものは、すでに崩壊して久しいわけで、人の集団から「格差をなくす」などということはあり得ないことである。
共産主義の理念だって、この世から貧富の格差をなくすことにあったわけで、その為には金持ちを殺してバカな大衆に統治を任せよう、という発想であったわけである。
今の政治家は共産主義を振り回すような愚は犯していないが、基本的に「格差の是正」といえば、行く着く先は同一労働同一賃金に行きつかなければならないわけで、こういう矛盾を知ってか知らずか、綺麗事で能書きを並べているとしたら、政治を弄んでいるに等しい行為だと思う。
DFSの創業者、チャールズ・フィーニーという人のサクセス・ストーリーは、極めつけの資本主義社会の中で自分の富を得る創意工夫に徹した結果として、成功を収めた例であろう。
人が金儲けのためだけに生きるとするならば、もっともっと殺伐とした世の中になっていると思う。
この世には、金儲けよりも人助け、子供の教育、物作り、芸術に自分の力を注いでみたい、という名もなき大勢の人がいると思う。
メデイアに一度も取り上げられることもなく、誰からも称賛されることもなく、それこそ名もなく金も名誉も得ることなく生涯を閉じる人も大勢いると思う。
世の中というのは突き詰めればそういう人たちで成り立っているわけで、成功してメデイアに大々的に取り上げられる人の方が少ない筈である。
大部分の庶民と呼ばれる人たちは、基本的に、名もなく貧しく美しく生涯を生き抜いていると思うが、問題は「貧しく」の内容と質が問われているわけである。
激動の連続であった昭和の時代には、日本でも数多くのサクセス・ストーリーが生まれた。
松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫等々、立派な起業家もこの時代には数多く輩出しているが、日本人の起業家の場合、それが物作りの方に偏在してしまって、純粋に商業の部分、いわゆるマーチャンダイズの面では、物作りに比べると人々の意識がいささか後ろ向きの感がしないでもない。
我々は、長い江戸時代の庶民感覚をそうそう綺麗さっぱりと払しょくしきれず、士農工商の秩序が潜在意識の中に澱となって残っているのであろう。
成功した人の生き方というのは、それこそ努力の上に努力を重ねて、アイデアを絞りだし、それを果敢に実践した結果として成功という果実が実るわけで、私が今年金だけの汲々した生活を余儀なく強いられているのは、そういう努力を怠ったからに他ならない。
私の個人的な例でいえば、私は金儲けという行為に対してあまり関心がなかった。
食うに足るだけの実入りがあればそれで十分だと思い、それ以上の金を得るということについては、考えたこともなかった。
今の生活が維持できていればそれで十分で、ほんの少し欲を言えば、本を自由に買う金があればいいなあと思うこともあるが、これも図書館を利用すればことは足りるわけで、その為に体を酷使して金を稼ぐということはご免こうむりたい。
今、巷に氾濫している若者、ニートだとか、フリーターだとか、派遣社員というのは、この私の思考と全く同じ考え方の若者ではないかと思う。
私を含めて、今の我々の生きている空間というのは、完全に満ち足りた空間なわけで、基本的に何もしなくても生きていける世の中に身を置いているのである。
派遣切りで仕事がないといっても、生きるだけならばなんとでもなるわけで、そういう状況に甘え切っているから社会問題と化しているのである。
終戦直後のように食うもの自体がない時代ならば、いかなる手段を講じようとも、まず自分が生き切ることが先決問題であったわけで、仕事が厭だとか、きついなどという不平不満は言っておれなかった。
人が事業に成功するということは、こういうハングリー精神を常に維持していないことには、成功という果実は採れないのではなかろうか。
それを人々は、夢とか希望とか表現しているが、「若者ならば夢をもて」だとか、「希望を捨てるな」とか言って、若者のやる気を煽りがちであるが、こういう若者を扇動するような綺麗事の言葉は罪つくりだと思う。
若者に「自分の好きなことを続けよ」とか、「自分に納得の出来る仕事を探せ」だとか、若者の理想を煽る言葉を安易に使っているが、若者には現実の惨さをもっともっと知らしめるべきだと思う。
この本を読んで、企業家の心の在り方にやはりノブレス・オブリージというものがあるように思えた。
このDFSを立ち上げたチャールズ・フィーニーという人は、わずか50歳代で、億万長者になったわけだが、億万長者になってしまうと今度は慈善事業家になってしまって、匿名で寄付することを生きがいにするようになったということだ。
成功した人の、その後の在り方というのは、こうでなければならないと思う。
ビル・ゲイツも大規模な寄付をしたという話を聞いた覚えがあるし、有名な話としては鉄鋼王のカーネ-ギーも、大口の寄付をしたことは既存の事実であるが、アメリカ人が儲けた金を社会に還元する発想は実に素晴らしいことだと思う。
功成り名を成した人が死んだ後でどのように検証されるかということは、貧乏人の僻み根性として極めて興味あるところであるが、アメリカの元大統領のジョン・F・ケネデイーとその弟のロバート・ケネデイーの墓は、実に質素そのものである。
緩やかな丘の上に永遠の火こそ絶えることなく燃えているが、墓標らしきものはなく、火の前の銘盤がそれを示すだけの実に簡素なものである。
そこにいくと日本の経営者の墓というのは実に立派なものが多く、生前の偉業を誇示せんばかりのこけおどしの体を成したものがあまりにも多い。
日本の経営者の中にも、儲けた金を社会に還元しなければ、と考える人は大勢いるわけで、基金を作ったり、美術館のようなものを作って一般公開する会社もたくさんある。
それはそれで一つの企業としてのノブレス・オブリージだと私は考える。
ただこの本に描かれているDFSを立ち上げたチャールズ・フィーニーの特異なところは、それを完全に匿名で行うという点にある。
ひところ、メセナという言葉が飛び交い、企業の文化活動が声高に叫ばれた時期があったが、このメセナにしろ、基金や美術館の建築というような動きにしても、企業の儲けを社会に還元するということは、仮にその企業の宣伝や広報に利用されたとしても、それはそれでいいと思う。
冠つきのイベント、冠つきの施設など、いくら冠がついていようとも、利用者がそれを享受出来れば、それに越したことはないわけで、堂々と企業名を入れたイベントや施設でも、無いよりはましだ。
ところが、このチャールズ・フィーニーは、匿名に徹底的にこだわったわけで、その部分が実に特異だと思う。
企業名や奇贈者の名前があろうが無かろうが、受け取る側の有り難さはそれによって変わるものではない筈で、それはただただ贈る側の自意識の問題でしかない。
人にものを贈るということは、まさしく贈る本人の心まで心地よい気分にさせ、何か良い事をした気分に浸ることになり、心が軽やかになるものと考える。
人に恵むという行為は、そういう要素を秘めた行為のように思える。
如何なる宗教でも、寄付を否定する宗教はないわけで、全てが貧しきものに寄付をすることを善と見なしているわけで、その意味からすれば、寄付をするということは人間の深層心理の善の欲求を満たす行為ということになりうる。
我々、凡庸な人間は、今あるものをもっと大きく、もっと沢山、より多く手に持ちたいという欲望にかられるが、これこそ人間の煩悩というものであろう。
しかし、この世に生を受けたいかなる人間でも、三途の川を渡るときにはなにも持っていけないわけで、生まれた時に裸であったように、彼岸に行く時も身一つの裸で行くしかない。
しかし、それが解っていながら、死ぬまで富を手にしたいという人間の心は全く私には理解しかねる。
死んだ後のことまで悩みながら死んでいく人の心がわからない。
この本の主人公、チャールズ・フィーニーという人は、ビジネスをゲームと認識していたのではないかと思う。
こういう風に考えれば、人生もかなり気楽に生きれると思うが、こうなるまでにはかなりの原資を用意する必要があるわけで、私ごときが、「人生はゲームだ」などと言いだせば、その日から家族が路頭に迷うことになる。
今はやりの蟹工船ではないが、いくら虐げられても、おおんぼろ船から逃げ出すわけにはいかない。
今の若者は、この部分で、極めつけの極楽トンボを決め込んでいるので、派遣切りだとか、仕事が無いとか、仕事が気に入らないから辞めるなどという贅沢が許されているのだと思う。
如何なる社会でも同じだと思うが、報われる人というのは、それだけの努力をしているわけで、この本の主人公も、ごくごく小さい時から自分の才覚で金を稼ぐということをしているわけで、今の日本の若者は、その部分が全く未成熟だと思う。
これは今の若者だけが悪いのではなく、彼らの親、彼らの祖父母までが、代々自分の子供を甘えさせて育ててきたわけで、言い換えれば民族の潜在意識として、自分の才覚で稼ぐということを忌避してきた結果だと思う。
日本でも昭和の初期までは、家族の中の子供は小さいながらも労働力であった。
ところが日本の近代化が進むに従い、子供の扱い方が変わってきて、子供には学歴を付けて立身出世をしてもらうことが親としての喜びとなった。
いわゆる親離れ子離れが未成熟で、自分の子供が可愛いから自分と同じ苦労をさせたくない、良い学校に行って、良い大学に入って、良い会社に就職することが、本人を含めた家族の願いとなったわけである。
だから子供が日銭稼ぎの仕事に精を出すよりも、机に向かって勉強してもらった方が親としては喜ばしいという思考に至った。
この思考が3代続いた結果として今の若者は働くということを安易に考え、働かなくても食うだけはできるので、飢えを知らないが故に甘えているのである。
そこに以ってきて、物わかりの良い知識人というというな人達が、「そういう若者を救済しなければならない」などと綺麗事のご都合主義の言辞を並べるから、彼らはますますハングリー精神を喪失してしまうのである。

「みどりの窓口を支える『マルス』の謎」

2009-08-22 07:01:02 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「みどりの窓口を支える『マルス』の謎」という本を読んだ。
今のJRの切符を発行する機械のことであるが、この切符、および座席指定や特急券の発行に関わるコンピュータの開発の話であった。
がんの検診のため東京に通うようになって久しいが、その度に新幹線を利用している。
新幹線に乗る度に、日本の技術革新の素晴らしさに驚嘆している。
それは飛行機についても全く同じ感じを抱いているが、新幹線や在来線の特急列車、あるいは旅客機でも、ある意味でみなハード・ウエアーなわけで、日本のハードの面の進歩は実に著しいものがあるが、これを運用するソフト面となると、必ずしもハードの進化と歩調がそろっているわけではないと思わざるを得ない。
ハード面とソフト面の歩調が合わないというのは、その間に介在する人間の心の問題が大きく絡んでいるわけで、その人間の心というものが自己中心に思考を回転しがちだからだと考える。
ハード面を支える技術、テクノロジーというのは、極めて自然の真理に近い存在であって、1足す1は2の世界である。
ところが人間の心の活動というのは、1足す1が2の世界ではないわけで、1足す1が4になったり8になったり、あるいはゼロになったりする世界であって、ハードの進化と同じように実績が努力に付いてくる世界ではない。
列車の話で言えば、蒸気機関車を通すと通さないという問題のとき、「蒸気機関車の火の粉が火事を誘発するから通すな」という結論に達し、さびれた町がある。
これなどは明らかにテクノロジ―を信じない人間の心のありようの結果として時代に取り残された例である。
もう一つ例を挙げると、モーターリゼーションの件で、巷にこれだけ車が氾濫して、モーターリゼーションの波に飲み込まれているのに、日本では未だに車のメリットを封殺する法体制で、車は昔のお大尽の贅沢品とみなし、人を轢き殺す悪者だ、という感覚から抜け出ていない。
よって街中に信号機を林立させて、あらぬ交通渋滞を現出させ、環境問題に背を向けているではないか。
ハードは際限なく進化しているが、それを使う側のソフト面では、人々の考え方、あるいは意識がハードの進化に追いついていない。
この本も、旧国鉄、今のJRの話であるが、ここでも仕事する人の利便性と、お客さんの利便性の両方を同時に追い求めての技術革新であるべきものだが、それを阻害する要因が労働組合の合理化反対の運動であったわけで、技術の進歩に真正面から衝突するものは人間の心であって、自分達の既得権益がマイナスに作用するという人間のエゴイズムであったわけだ。
旧国鉄や今のJRを語ろうとすると、労働組合の話を抜きには成り立たないと思うが、そこを掘り下げた読み物は案外少ないようで、この本もその部分にはほとんどノータッチである。
素直な気持ちで、今のJRの切符の購入というのは実に便利になっていると思う。
この便利さは、その裏に効率の良いコンピューターがあったればこそ実現しているのであろうが、この切符の予約システムもさることながら、銀行のATMも実に驚異のマシンだと思う。
約半世紀前の銀行といえば、その窓口には可愛い女の子が並び、ソロバン片手に札びらを扇子のように広げて銭勘定していたものであるが、いまではATMの機械が並んで、機械で出来ない処理を人間がしているという感じである。
子供の頃、銭勘定を機械にさせる、機械が銭勘定をするなどということは考えられないことであった。
お金などという大事なものは一銭の狂いもあってはならないので人間が何重にも確認して取り扱うべきものだという認識であった。
銀行のATMに詳しいわけではないが、普通の生活の中で感じたままで言えば、最初は引き出すだけの機能しかなかったように記憶している。
私の生活の中では、引き出すことと預けることさえできれば、それで過不足はないが、町内の役員をしていた時にはそれに振り込む作業をしたことがあって、これは私にとってはいささか煩雑な作業であった。
このATMというのは銀行の合理化には欠かせない機械なのではなかろうか。
あの一台一台の機械は、それこそ女性行員一人一人に匹敵しているわけで、銀行の機械化、合理化、いわゆる銀行業務のテクノロジ-は限りなく進化したにも関わらず、大手銀行の離合集散が頻発したということは、やはり人間の心に起因する大きな問題であったわけだ。
一言でいえば、技術、テクノロジーは如何様にも進化することが可能であるが、人間の心は有史以来いささかも進化していない、ということだと思う。
我々日本人が物作りに長けているということは、ハード面では実に優れた製品を世に送り出しているが、それを使いこなすソフトの面では、ハードに比べると考え方の進化が劣っているということだと思う。
先に例として挙げた車の例でいえば、モーターリゼーションの波に飲みこまれてしまって、車なしの生活はありえないにも関わらず、未だに車を走る凶器と認識しており、こういう人は車の利便性を封殺さえすれば人々は平和な暮らしが出来ると思い込んでいる。
車の利便性を最大限引き出して、そのメリットを最大限使いこなすには如何にすれば可能か、という発想には至らないわけで、信号機さえ沢山つければそれが安全だと思い違いをしている。
技術革新は基本的には人々を幸福に導くと思う。
駅の自動改札も、我々の子供の頃は、駅員がハサミでぱちぱちと検札していたものが、今ではそういう光景も見なくなった。
これは客の側も便利になったが、検札する駅員も、そんな労働から解放されたわけで本来ならば喜ぶべきことはずである。
ところがこれが組織の見解となると、マイナスの要因となるわけで、労働組合の立場に立つてみると、合理化のために仕事がなくなるという論法になるわけで、技術革新など以って他だということになる。
人の織り成す社会では、それぞれの人の持ち場立場で、それぞれに利害得失が異なるのは当たり前のことであって、自分が不利益を被るから反対だ、というのは心情的には理解できるが、その個人的な不満も何処かで折り合いを付けて妥協しなければならない。
世の中の流れというのは、個人の思う通りにはならないのが常であって、自分の思う通りにならないからと言ってみたところで、個人の力では何一つ解決できるものではない。
だとすれば、そういう世の中の流れに自分の方を合わせる他ないわけで、そのことは同時に、銀行のATMもJRの自動切符販売にも自分の方から接する機会を作って使い慣れるほかない。
この本の表題でいう「マルス」というのは、お客がじかに接するものではないが、この開発によって日本全国の列車の乗車券や特急券の予約受付と販売が可能になったということだ。
要するに、日本を走っている列車の運行管理を掌握しているということで、それは実に素晴らしいことだと思う。
旧国鉄にしろ、JRにしろ、合理化というとすぐにリストラに結び付けて、仕事の縮小、あるいは今まで二人でしていた仕事を一人でさせる労働強化という捉え方をしていたが、いわゆる3Kの仕事の撲滅という意味も含まれていたものと考える。
汚い、きつい、危険という3Kの仕事は、誰がやっても嫌なわけで、それを減らすというのも合理化の大きな課題だと思うが、従来の組合運動というのは、そういう面には目をつぶっていたわけである。
日本の近未来のことを言えば、団塊の世代というのが定年を迎えるにあたって、優秀な技能を持った人がいなくなるという話がよく言われるが、そういう意味からもルーチン化した作業のコンピューター化というのは重要な課題だと思う。
3Kの仕事を真っ先に機械化するというのは、土建業界に真っ先に波及したと思う。
あのパワーシャベルとダンプカーとブルトーザーというのは、そのもっとも顕著な例であって、土木工事に3Kの仕事がゼロになったとは言えなくとも、大いに貢献していると思う。
駅の改札の自動化も、そういう技術革新の成果であるわけで、最近のように私鉄を含めて相互乗り入れをしている路線でも、そのまま乗っておれるというのはまことに有り難いシステムである。
こういうコンピューターの開発も、並大抵のことではなかったろうと思うが、ここで大事なことが資本主義体制の中の自由競争というシステムである。
日本を含めて、世界規模でコンピューターの開発競争があったわけで、より良く、より早く、目標をクリア―するかという競争が熾烈を極めたわけで、この競争があったが故に、各企業が切磋琢磨してそれぞれのレベルをアップさせたものと私は考える。
企業の経営というのはある意味で戦争なのかもしれない。
常に右肩上がりの成長を維持するということは、連戦連勝を続けているということで、企業が倒産するということは反対に戦争に負けたということではなかろうか。
勝ち続けるにも敗北するにも、それぞれに理由があると思う。
常に勝ちを維持できるている要因、敗北して尻尾を巻かざるを得ない要因というのは、それぞれにあると思う。
今、我々の目に前に展開している社会というのは、あらゆる場面で勝ち残った企業の姿だと思う。
旧国鉄は、生き残り戦術に敗北してしまったからこそ名前が消えてしまったわけで、いまあるJR各社というのは、再生した生まれ変わりの化身だと思う。
昔あった有名銀行は、2つも3つも離合集散して、結果的にそれを順に並べた名前になってしまって、昔の銀行が生きているのか死んだのかさっぱり分からない状態である。
こうして眺めてみても、技術、テクノロジーというのは、裏切ることなく人間の幸福に寄与する方向に進んでいるが、人間の心というのはいささかも進化していないことが歴然としているではないか。
昔あった名のある銀行が合従連衡して、わけのわからない銀行になったということは、人間の心が如何に進化から取り残されているかということを語っているわけで、ここに経営者の在り方が如何に重要かということを物語っている。
企業にとって経営者の存在が重要なことは言うまでもないが、にもかかわらず訳のわからない合併や乗っ取りが横行するということは一体どういうことなのだ。
合併や乗っ取りは、する方もされる方もその経営に問題があるわけで、それは一重に経営者の経営感覚あるいは理性、理念、金銭哲学に起因していると思う。
ということは突き詰めればその経営者の心に行き着くわけである。
科学や技術は自然の真理に極めて忠実なのに、人間の心というのは実に誘惑に弱く、己の自己保存、エゴイズム、自己愛に抗しきれず、煩悩に翻弄され続ける。
これもその前提に資本主義体制下の自由競争があるからのことであって、企業がコンピューターの開発競争に血眼になって取り組んだのと同じ構図を個人に当てはめると、しゃにむに煩悩に振り回されるという結果を招くようである。
バブル崩壊の時、有名な銀行が倒産してこの世から消えてしまったが、今時、銀行が倒産するなどということがあること自体信じられないことであった。
常識人の普通の思考として、「その銀行の経営者は一体何をしていたのか」、という疑問は当然のことだと思う。
私個人としては倒産の明確な理由を知らないし、知ったところで如何ほどの意味もないが、銀行の経営者ともなれば、そのあたりのホームレスやニートやフリーターというような人達ではないことは確かで、きちんとした立派な大学も出て、立派な社会人の筈で、そういう人が銀行を潰したということをどういうふうに考えたらいいのであろう。
普通に常識のある人が、普通の常識に沿って、危ない橋を渡ることなく、普通の常識の線に沿って銀行経営していれば、倒産するなどということはなかったものと考える。
何処かに常識を逸した行動、行為があったればこそ、潰れるべくして潰れたに違いないと思う。
これ、すなわち、人間の心の問題だと思う。

「JRはなぜ変われたか」

2009-08-20 07:02:27 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「JRはなぜ変われたか」という本を読んだ。
表題のとおりの主題を追い求めた本であったが、その表題に素直に答えるならば、それは「過激な労働組合員を排除したから変われた」という一語に尽きる。
基本的にはこの本は経営者の観点から描かれているが、その中でも私が特に気になったことは、旧国鉄時代の労働組合の在り方であった。
この本はそれを追求したものではないので、組合の運動を克明に記したものではないが、旧国鉄の組合が常軌を逸した存在であったことは衆人の知るところである。
国鉄改革の話の中には、この組合対策の話を抜きには語れないわけで、結局のところ労働組合が国鉄を民営化しなければならない状況に追い込んでしまったということである。
国鉄、日本国有鉄道の存在の理念というのは、基本的には日本の津々浦々に庶民の足としての鉄道を維持管理するというものであったろうと考える。
日本全体が戦後の復興を成し、高度経済成長の波にさらされて、モーターリゼーションの荒波に直面すると、地方では鉄道の利用者が減り、空気を運ぶだけになり、合理化せざるを得ない状況に追い込まれ、それが最後には廃線という状況にまで追い詰められてしまったに違いない。
この合理化の波に抵抗しようとしたのが、国鉄内の各労働組合であったわけで、労働組合の活動も常識的な範囲であればそれは大いに歓迎すべき存在であるが、この組合そのものが共産主義者に占領されてしまった点が大いなる苦痛の種であったわけである。
企業という組織の中で、経営者側と労働者を代表する組合の存立は極めて結構なことで、それでこそ本来の健康な社会であると考える。
ところが日本の国鉄は、戦後、海外からの引揚者を数多く雇用して、ある種のワークシァリングに貢献した時期もあったが、この組合が共産主義者に乗っ取られてしまってからというもの、健全な労使交渉ということが成り立たなくなってしまった。
共産主義者というのは、基本的に現在の秩序の破壊ということが至上命令なわけで、これがある限りあらゆるもの、あるいはあらゆる施策、あらゆる技術革新に反対するわけで、何一つ前進しないのである。
ところで、JRになってからでも、当時の国鉄の中の組合員が如何なる勤務体制であったのか、という話は一向に漏れてこない。
この本では少し漏れているが、新幹線の運転手の実質稼働時間が1時間半だとか、首都圏の運転手の実働時間は4時間だとか、保線区員の実働時間は極めてわずかな時間で、実質の労働はないに等しいなどという話が漏れ出でている。
またマル生運動の結果として、会社側は何一つ新しい企画が出せないという話など、労働組合が実質、旧国鉄というものを潰したということになる。
新しいJRになって、そういう不良組合員を徹底的に排除したせいで、新しい進歩が可能になってわけで、共産主義者というものが如何に組織を腐敗堕落させ、組織のがん細胞であったかということである。
戦後の日本では、思想・信条の自由が保障されているので、共産党員というだけでは抑圧を下せないわけで、いくらサボタージュを繰り返されても、刑事犯でもない限り拘束はできない。
よって、人と人のまともな話し合いが成り立たないが、そういう理不尽な要求にも、対応する経営側は何らかの答えを捻り出さねばならないわけで、担当者の方々の苦労も並み大抵ではなかろうと思う。
共産主義者の組合員との団体交渉というものは、正常な人間との話し合いではないわけで、異星人かインベーターと話をするようなもので、無意味、支離滅裂な論議が展開されるのが常である。
当然といえば当然のことで、こういう場で組合側はまともに労働者の利益を追求するのではなく、ただただ既存の秩序を壊すことが狙いだったわけで、まともな話し合いなど最初から期待していないのだから。
旧国鉄の経営者も、こういう労働者を抱え込んでいたわけで、そういう異端者を締め出すには組織ごと一旦消滅させて、そういう不穏な労働者を除外して優良な社員のみを集めたい、という欲求に駆られたに違いない。
国労や動労の過激な組合員が振りかざす、全く整合性に欠けた、支離滅裂なスローガンを、一般の国民としてどういう風に解釈したらいいのであろう。
同じ日本人として、日本という国を壊すような要求を出して、日本人に支持されるとでも思っているのであろうか。
共産主義者の大部分は、自分の祖国という概念よりも、共産党という党に忠誠を誓っているわけで、そういう視点から自分の祖国は潰してもよく、滅亡させてもいいわけで、とにかく現状を破壊することが至上命令であったわけである。
こういう共産主義者は国鉄だけではなく、日教組の中にも大勢いたわけで、これからの日本を背負って立つ若者の教育現場に、こういう偏向した先生が大勢いても、日本政府も日本の国民も何の処置も施そうとはしなかったわけである。
国鉄の組合が、いくら不法なスト権を行使しても、先生が如何に偏向した教育をしていても、国民の側から「それでは困る、ただちに正常に戻せ」という国民的欲求は未だに出ていない。
旧国鉄は民営化を機会にそういう不穏分子を排除することに成功したが、教育界では未だに偏向した先生が子供たちを教えているのである。
共産主義そのものに罪があるわけではない。
それは一つのものの考え方として、存在し続けても何ら支障をきたすものではないが、その考え方を支持することと、それを実践に移すことは全く違っているわけで、戦後の日本を腑抜けの状態に追い込んだのは、それを実践しようとする方法と手段が人倫を踏みにじっているにもかかわらず、そういう輩を排除しようという内側からのエネルギーが湧き出てこなかったからであって、その点が普通の常識人として容認できないのである。
そういう活動に身をやつしている人達は、本人自身は共産党員ではないかもしれないが、彼らの心の奥底には、共産主義社会になれば世直しが実現するという夢物語を描いて、現状打破の活動に走っている点が非難されるべき点である。
人が織りなす社会は、必然的にピラミット型の組織を形作るわけで、その組織のトップとボトムでは、考えていること、それぞれの利害得失が相反することは当然であって、その幅を極力縮める努力はあって当然であるが、その為には双方で人間として礼節に基づいた節度ある話し合いで問題点を探り合うべきであって、自分達の言うことが通らないから何をやってもいいんだという発想は思い上がりもはなはだしい。
ただ、こういう過激な組合は、最初から社会秩序の破壊が目的なのだから、話し合いそのものに重きを置いていないわけで、それはただ破壊活動のきっかけにすぎない。
だとするならば、それを黙って傍観する国民の側があまりにも無責任ということになるはずであって、言葉を変えて言えば、日本国民の全部が「未必の故意」でもって犯罪者の肩を持った、ということにならなければおかしいではないか。
我々はともすると判官びいきで、組合と国家権力が対峙した時、理由の如何を問わず弱い者の方に味方に付きたがるが、我々は法治国にいるわけで、善悪の所見は法に照らして判断すべきであって、組合側が可哀想だから国家権力の側が譲歩せよ、という思考はあまりにも感情論的すぎる。
我々の子供の時は、国鉄一家とも言うぐらい国鉄というのは結束力の固い組織だと思っていたが、その内側で目を覆いたくなるような常識はずれの労働実態が生まれていたということは、一体どういうことなのであろう。
あの戦争に敗北した裏には、明治維新で近代化を成した大日本帝国軍隊が、昭和初期の時代になると、内部で組織腐敗、組織のメルトダウン、自らの使命の拡大解釈をし、してはならない政治に関与して、戦争を知らない官僚的な軍隊になっていたのと全く同じ軌跡を歩んでいる。
日本国有鉄道の理念は、日本の全国津々浦々にまで公共の庶民の足を確保することにあったものと私は考えるが、この理念は戦後の国鉄内の各労働組合によって踏みにじられてしまって、国鉄の職員は世界でもっとも働かない労働者になってしまったわけで、これは一体どういうことなのであろう。
私の知る国鉄職員というのは、親子三代国鉄に奉職し、彼等はそのことに誇りを持って仕事に就いていたように記憶しているが、戦後の国鉄の組合というのは、そういう人に対してどういう扱いをしたのであろう。
国鉄職員が働かない労働者になり下がったのは、いわゆるマル生運動で、経営者側が敗北したため、そこに組合側が付け込んで、労働者が労働を拒否して、働くという行為をサボタージュするようになったことにあるが、これは一種の革命の成就でもあったわけで、その事態は旧ソビエットソ連邦や新生中国の現状と瓜二つであって、その後の軌跡も同じ轍を踏襲したというわけだ。
労働者が労働を拒否して組織が成り立つわけがないことは自明のことであって、にもかかわらず組合側がマル生運動をごり押ししたということは、いわゆる「墓穴を掘った」という端的な表現がそのまま当てはまる。
行く着いた先が民営化であったわけで、国鉄の中でも真面目な社員は、この方が良かったと思っているのではなかろうか。
私の個人的な考え方としては、国鉄というものが純粋な利益追求の民間企業、私企業になり替わるということは由々しき問題と思っている。
採算性の悪い路線でも、創意工夫でそれを乗り越えて、基本的には日本の津々浦々に公共施設としての路線を維持する方がベターだと思う。
儲かる路線ではしっかり儲けて、その儲けた部分を不採算部門に回して、全体としては利益というものをイーブンで推移すべきだと考える。
しかし、通院のためよく東京に出るが、最近の鉄道というのは実に目覚ましい進化をしている。
JRのみならず各私鉄もよく頑張って、眼を見張るような新型車両を投入しているが、まことに結構なことだと思う。
思えば日本もよくここまで頑張ったものだ。
我々のように終戦直後の実情を知っているものからすると、今の現状は隔世の感がする。
私には身内も含めて鉄道の関係者は一人もいないが、鉄道は前から好きであって、だからこそ国鉄職員の組合員たちが国鉄に対して無理難題を押し付け、駅の施設や車両を破壊する行為が許せない思いがしたものだ。
しかし、考えてみると旧軍隊でも、旧国鉄でも組織そのものがメルトダウン、崩壊、融解しているのに、中にいる人間には、そういう現状が目に入らないようで、内部から自己改革の兆しがいささかも出ないというのも不思議なことだと思う。
旧軍隊は戦争に敗北したことで占領軍によってその存在を否定され消滅してしまったが、旧国鉄は民営化という荒治療で以って解体、作り直しを、立て直しがなされたことになる。
鉄道事業というのは人の社会の大きなインフラであるわけで、人の移動には欠かせない存在であるし、いくらモーターリゼーションが進んだところで鉄道をなしにするわけにはいかない。
これから先、環境問題がせっぱつまってくると鉄道の意議がますます見直され、それは同時に車のメリットが相殺されるわけで、エネルギー保護の目的からもますますその意義が大きくなると思う。
大きな技術革新がその問題をフォローするようになり、ますますエネルギー効率のいいものが登場してくるに違いない。
私も旧世代の人間で、鉄道というのは乗車率100%でなければならないと思っていたが、よくよく考えてみると、乗車率が100%ということは後進国並みということで、先進国では乗車率が
100%以下でなければならないわけだ。
今のJRに一つ注文を付けるとするならば、貨物輸送の合理化というか、今のトラック輸送を大きく取り込んで、トラック輸送のメリットを相殺する方法を考えるべきだと思う。
そのことはトラック業界を圧迫することではあるが、今の日本のトラック業界の在り方というのは実に非効率だと思う。
大型トラックから自転車便、バイク便まで同じ道路を使っているわけで、資本主義社会の中の自由競争の現実と言ってしまえばそれまでであるが、あまりにも資源の無駄使いが多いと思う。
あのトラックが常に荷物を満載していれば、それはそれで仕方がないが、あの大部分が半分にも満たない荷物しか積んでいないわけで、だとすればもっと効率の良い方法を考案してしかるべきだと思う。
いくら資源の無駄であろうとも、企業として利益が上がりさえすれば、それでいいんだという発想は21世紀には通用しないと思う。

「近衛文麿・『黙』して死す」

2009-08-18 20:36:13 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「近衛文麿・黙して死す」という本を読んだ。
言うまでもなく終戦直後、戦犯に指名されて収監される直前に服毒自殺した近衛文麿に関する記述であるが、ある面ではあの時代の政治の裏面史にもなっていた。
思えばあの終戦直後の時代というのは混沌の極みにあったわけで、政治の裏も表もなかったに違いないし、その両方を合わせて政治そのものであったに違いない。
日本を奈落の底に突き落としたあの戦争にかかわった文官には、近衛文麿と木戸幸一があるわけだが、戦争の敗北にかかわって天皇存命のためにはどちらかが死ななければならない、というこの本の著者の見識は大したものだと思う。
今までそういうものの見方をしたことがなかったので、いささか居を突かれた感がする。
ただこの本を読んでいて感じたことは、「すべきことをしなかったからこうなった」という論法は、如何なものかと思う。
「あの時、あの場面で、こういう風に言うべきところでそう言わなった」という論の進め方は、歴史を語る時には少々違和感を感じるように思う。
それが小説ならば許されるが、一種のドキュメンタリーを目指したものであるとするならば、歴史という視点では見ることが出来ないように思う。
読み物としては、それはそれなりの面白い読み物ではある。
彼、近衛文麿、本人からすれば、戦犯容疑に架けられたこと自体が相当に苦痛であり、屈辱であったに違いない。
無理もない話だと思う。
彼自身はあくまでも戦争に反対であったわけで、反対であったればこそ、何度も首相の座を追われたわけで、本人にしてみれば、このような戦争反対論者を何故に戦犯にするのかという憤りは当然だと思う。
この本の中身は、おおよそ近衛文麿と木戸幸一の確執を暴くという形であるが、近衛文麿が戦争回避に奔走しているのに、木戸幸一はそういう方向に彼をフォローアップしていないという書き方で貫かれている。
この当時の政治の状況の中で、軍人がそれこそ肩で風切って動き回っている中で、文官としてはこの両名の存在が一目置かれていたわけで、その意味では双方ともお互いにライバル意識があったことは否めないであろう。
しかし、その問題を語る前に、やはりあの時代というのは、政治そのものの中に今と比べると根本的な欠陥が内蔵されていたように見える。
憲法そのものにも、また内閣のシステムそのものにも、大きな欠陥があったわけで、それを抜きに歴史から教訓を得るということはあり得ない筈である。
戦後の平和主義というのは、戦争の悲惨さを感情論に訴えて、悲惨な戦争を感情で煽りたてているが、こういう表層的な動きというのは、よほど注意してかからねばならない。
いまさら言うまでもないが、近衛文麿という人は、それを体質的に感じ取っていた人なわけで、如何なる場合でも戦争回避の思考であった。
ところがこういう考え方は、あの当時では極めて少数派であったわけで、少数派であったればこそ、何度も総理の座を奪われてしまったのである。
当時の国民の大部分は、それこそイケイケドンドンの軍国主義者であったわけで、その国民の軍国主義というのは上から強制されたものではなく、下からのボトムアップの軍国主義であったわけである。
戦後の知識人の中には、あの軍国主義は上から強制であったという人もいるが、国民の各階層の中のトップからの指示ではなく、中間階層がトップにゴマすりのために軍国主義を鼓舞した面は大いにありうる。
学校の先生、町内会の役員、巷の巡査、こういう組織の中間階層が、上からのおぼしめを良くするために,過度なゴマ擦り、協力、指示を強要したということは理解できるが、それは国の指針としての強制とはまた別の問題だ。
こういう点を詳しく吟味して歴史の教訓としなければならない筈なのに、こういうあらゆる事象を表面的に眺めて、それが全部だと思い込む愚を犯してはならない。
戦前・戦中の軍国主義というのが下からのボトムアップの軍国主義だという私の論拠はここにあるわけで、表層面だけを見て、それに流された結果が、日本全国津々浦々皆軍国主義者になってしまったということだ。
近衛文麿も木戸幸一も、押しも押されもせぬ日本の貴族の一員なわけで、その意味からしても、戦争、国と国が争う、人と人が殺し合う状況というのは彼らが一番回避したいものであったに違いない。
昭和の高級将校、高級軍人というのは、いわば貧乏人の成り上がりなわけで、水飲み百渉の子忰が、たまたま学費免除の特典のある軍人養成機関に入学できたので、その軌道に乗って立身出世が出来、肩で風切る勢いに乗ったわけだが、世が世なればそういう立場にはなりえなかった。
そもそも学費免除の学校に入って立身出世をしなければならない、という発想そのものがさもしく、卑しく、成金趣味であるが、当時はそういう言い方・見方をしていないわけで、国に殉じる、国家に奉仕するという言い方に変えると、貧乏人のさもしい根性、卑しい心根はどこかに昇華してしまって、愛国者にカモフラージュされてしまう。
貧乏人であろうと高貴な方であろうと、人間の本質はそう大して変わるものではないわけで、ライバル意識、競争心、嫉妬、妬みというものは高貴な生まれだからといって払しょくされるものではない。
この本は近衛文麿の側から描かれているので、彼が善人で木戸幸一は悪玉として描かれている。
人物評価をこういう悪玉・善玉という単純化した図式で描くというのは、わかりやすい部分もあるが、歴史を語る論法としてはあまり良い方法ではないと思う。
この本には直接的な記載にはなっていないが、日本の官僚、軍部を含めた日本の官僚は、何故に失敗に対してこうも寛大なのであろう。
軍部の作戦の失敗は言うに及ばず、外務省の大失敗に対しても、その責任を追及するという失敗の反省、失敗を教訓にするという発想がどうして醸成されなかったのであろう。
仲間意識で、お互いにかばい合うという心理は分からないでもないが、その後ろに国益が大きく損なわれたという事実に対して、本人は何の悔悟の念も持っていないということは、どういう風に解釈したらいいのであろう。
軍人が作戦に失敗したということは、天皇陛下の赤子としての兵員とその装備を無駄に浪費したということにつながるわけで、あの時代の天皇制のもとであれば、天皇に対して申し開きの出来ないことであるはずなのに、そういう心境に至っていないように見える。
日米開戦ときの駐米日本大使館の面々、奥村勝三、寺崎英成、井口貞夫は、正式書面を遅滞なく渡すべきところを彼らの怠慢で真珠湾攻撃の後になってしまうという失敗に対して、彼ら自身の責任の追及が一向にあったように見えないというのも実に不可解な話ではないか。
軍人も官僚であれば、外務省の大使館員も立派な官僚であるが、こういう人達が引き起こしたそれぞれの失敗は、そのいづれもが立派な国益の大損失の筈であるが、その責任を厳しく追及された風には見えない。
この本で面白かった部分は、近衛文麿が拉致に近い形で、東京湾の軍艦にうつされて、そこで東京裁判と同じような尋問を受けたという部分で、これが彼を自殺に追い込んだ直接的な理由となっているという話だ。
まるで推理小説並みの話の展開で、ここで彼・近衛は自分が嵌められたことに気がつくわけで、その嵌めた人間まで、この時に判ったという部分は推理小説そのものだ。
彼を嵌めた人間が木戸幸一で、それが何故わかったかというと、尋問の時の質問が、彼と木戸しか知らない話が出てきたので、彼に違いないとい悟ったという部分である。
ここで著者は、木戸幸一は戦前・戦中をつうじて、同じ文官の近衛文麿に対してもっともっとフォローアップしなければならなかったと説くわけであるが、この部分は極めて微妙なところだ。
日米開戦を避けるためには、アメリカ側の示したハルノートを受け入れるかどうかであるが、その中の文言にある中国からの撤兵を、陸軍が飲むことを許さないことは自明であって、その陸軍を説得させるためには、海軍の継戦能力の不足を告白せねばならず、それは海軍でも出来ないという訳だ。
それは当然といえば当然のことで、アメリカは先に日本から先制攻撃を引き出すためのハルノートであったわけで、最初から日本を戦場に引き込む呼び水であったことを考えれば当然の帰結である。
こういう状況判断が出来ていない当時の駐米日本大使館員というのはどういう風に考えたらいいのであろう。
文書を手渡すのが遅れたために我々は「卑怯な国」という烙印を押されたわけで、この国際的な信用の失墜に対して、彼ら3人はどういう申し開きをしたのであろう。
日米開戦の時のハルノートというのは、明らかに日本をして先に戦端を開かせるための口実にすぎなかったが、このアメリカ側の意図を日本の軍部というのはどこまでその真意を理解していたのであろう。
そのことを考えると、この頃の日本の軍人、軍部というのは真の戦争、近代あるいは現代の国家総力戦というものの概念すら持っていなかったに違いない。
戦争というものが前線での銃の撃ち合いや、戦闘機の空中戦の範囲を出ていないとしたら、それは関ヶ原の合戦の域を出ないままの旧式の思考でしかない。
戦争のプロとしての陸軍将校や海軍軍人が、その程度の認識しか持っていなかったとしたら、あまりにも情けない状況であったと言わなければならない。
21世紀の戦いというのは、もう戦争という言葉すら不要なものとなって、いわゆる政治と外交がそのまま国益という言葉に変わってしまっているように思う。
鉄砲の撃ち合いなどという古典的な戦争は、完全に時代遅れになるし、政治や外交問題の解決の手段として最も下手な手法である。
ところがこの政治と外交ということが我々の民族としては根本的に下手なわけで、それだからこそ鉄砲の撃ち合いという最も非合理的な手段に打って出たのが過去の我々であったわけである。
我々の外交や政治下手というのは、日本民族の本質的なものであって、我々は極めて単一的な民族であるからこそ、異民族との交渉に不慣れであり、相手を過大に評価したり、その逆に過小に評価したりするわけである。
そして相手が組みしやすいとなると、そこに集中的に群がるわけで、相手からすればそこに恐怖を感じ、警戒されてしまうのである。
そして、相手には、つまり西洋列強には、人種差別というものが歴然とあるわけで、我々はそれを「悪いことだから是正しよう」という動きを示しがちであるが、相手にしてみたら有史以来続いている認識なわけで、そこに嘴を突っ込む黄色人種など信頼に当たらない、という感情になるのも無理からぬことだと思う。
日本には「出る杭は打たれる」という俚言があるが、これは地球上のあらゆる民族に共通の認識だと思う。
ヨーロッパ系の白人社会、キリスト教文化圏の白人社会に、黄色人種がしゃしゃり出て「人種差別反対」などと唱えれば、彼らが面白く思わないのも当然であって、その部分は突かないでおくというのが彼らに対する大人の礼儀なのかもしれない。
何となれば、彼等の既存の価値観、あるいは既存の秩序を黄色人種の日本が否定するわけで、その行為そのものが彼等からすれば「出る杭」に思えるのも当然である。
ならば「皆して叩こう」ということになるのも自然の流れだと思う。

「満州裏史」

2009-08-15 10:54:06 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「満州裏史」という本を読んだ。
図書館の何時も行く棚に随分前からあった本だが、あまりにも分厚く重厚な体栽だったので手に取ることを尻ごみしていた。
今回、まとまった読書時間が取れそうなので改めて挑戦してみた。
というのも、がんセンターへ出かける予定になっていて、そこでの検査が一日がかりだったので、行き帰りの道中と向こうでの待ち時間が十分にあったので挑んでみた。
正直言って面白い本であった。
私の認識で言えば、甘粕憲兵大尉といえば、大杉栄と伊藤野江と一人の少年を拷問で殺害したというものであって、これがいわゆる世間一般に言い伝えられていた風評というものであり、それから一歩も出るものではなかった。
ところが甘粕憲兵大尉はこの3人を殺害をしておれず、いわゆる旧陸軍の不如意な行動の責を一身に背負って沈黙を通したという点は実に立派な男だということになる。
にもかかわらず、その後の満州国における彼の行動には麻薬の疑惑がついて回っていたわけで、そのことが実に興味深いところである。
この本に描かれていた内容で、殺された大杉栄が名古屋幼年学校に在籍していたという部分も極めて興味深いところである。
甘粕正彦と大杉栄がこの部分でつながっていたわけだが、大杉栄はこの時点で既に組織からはみ出して、反政府運動の方に人生のカジを切り、混沌とした世界に踏み出してしまっていたところに悲劇が潜んでいたようだ。
大杉栄が名古屋幼年学校を去った理由というのはあまり詳しく述べられていないが、文中から察すると、彼は腕力が強くそのことで同級生とトラブルを起こしたという言い方で語られている。
その彼が、小柄な甘粕正彦から暴力的な扱いを受けて死ぬ、ということはありえないという言い方で話が展開している。
だから甘粕は大杉殺害には手を貸していないという論法であった。
問題は、自分は殺害などしていないにもかかわらず、刑期を黙って務め、後年満州に渡ったという部分がこの物語の一番の焦点であった。
今の言葉で言えば、立派な冤罪である。
やってもいない罪で刑期を全うして、出所してもその件については一切弁解せず、死ぬまで黙したままでいる、ということは相当に立派な行為だと思う。
だが状況証拠は彼が白ということを如実に物語っているわけで、彼は殺していないということが明白になってしまっている。
すると「真犯人は一体誰だ」ということにつながるわけであるが、そこまで行くと事は藪の中ということになる。
昭和史を紐解いてみると、こういう部分があまりにも多いようの思う。
大杉事件においても、甘粕正彦が白ならば何処かに真犯人が居る筈なのに、それを明らかにしないということは完全に組織ぐるみの隠ぺい工作なのだが、それが漏れてこないというのは、逆に言うと立派な組織とでもいう他ない。
8月15日の朝日新聞の報ずるところによると、元外務省条約局長の東郷和彦氏が、60年の安保条約に関連して、核持ち込みについては日米の間に密約があったということを暴露しているが、こういう官僚はまことに始末に負えない。
国事、あるいは政治の裏側、外交交渉においては、当事者は死んでもしゃべってはならないこと多々あると思う。
約半世紀も前のことを、当時の当事者がべらべら得意げにしゃべって誰がどういう得をするのだろう。
組織の人間として、生き馬の目を抜く修羅場を掻い潜った身ともなれば、墓場まで持っていく秘密の一つや二つはあってあたりまえなわけで、それでこそ祖国に忠誠を尽くすということであるではないか。
いくらアメリカ側が先に公表したからと言って、自分達が今まで固辞してきた信念を曝け出すということは明らかに祖国に対する裏切りに他ならない。
50年も前のことを告白という形で暴いたところで、誰も得するものはいないわけで、ただメデイアのみが「それ見たことか」と溜飲を下げるだけのことであって、屁のツッパリにもならないではないか。
冷戦の期間を通して、アメリカの艦艇が作戦行動で日本に立ち寄る時に、いちいち核を下してくるわけがないではないか。
当時の政治家としても、そんなことはわかりきったことであるが、政治的な立場として、それを公表できる立場になかったわけで、持ち込んでいることが歴然としていても、シラを切り続けるほかなかった。
一度シラを切ったら最後まで嘘を通さなければならないことは当然なことで、それは大人同士で解っているので、その部分は敢えて突かないという政治的判断でやり過ごしてきたに過ぎない。
嘘を通すということが良いことではないことは子供でも解っているが、政治というのはやはり清廉潔白で、何でもかんでも公表すればいいという訳のものではない、ということも大人ならば解りあえる筈だ。
それでもなおその部分を突くということは、突く方の思考が12歳の子供の域を出ておらず、青臭い子供の正義感でしかないということである。
この東郷和彦に比べると甘粕正彦は自分の秘密を死ぬまで明かさなかったわけで、国事に関与するということはこういうことだと思う。
一方、岸信介は機械体操が苦手で職業軍人にはならなかったという話は非常に面白いが、彼の政治手腕の見事さが如実に語られている。
この日の東郷和彦の暴露記事も、この岸信介の外交と深くかかわりあっているわけで、東郷和彦は岸信介の政治あるは外交の実績に対して正面から泥を塗ったようなものである。
政治とか外交とか国事というものは綺麗事では済まない部分が多々あるわけで、国際社会というのは所詮キツネとタヌキの化かし合いであって、その中で清廉潔白を絵にかいたような綺麗事は通用しないのである。
外務省の条約局長などというポストの者がそんなことがわからない筈はないわけで、だとすれば半世紀もしてから岸信介の功績の足を引っ張る行為というのは、何か他に政治的な目的があると見なさなければならないと思う。
そこを突き詰めると、今の自民党政権の足を引っ張るという策意しか思い当たらないわけで、要するに麻生太郎の弓を引いているということであろう。
メデイアというのはあくまでも傍観者であって、当事者ではないので極めて安易な発想をして、面白おかしく報じて、読者を喜ばすことが本命である。
日本がいくら国難に直面しても、それを面白おかしく報じていれば彼らの存在意義はあるわけで、日本がどちらに転ぼうが、彼らにはその結果はどうでもよく、その過程が大事なわけである。
甘粕正彦も岸信介もメデイアの扱いは手慣れたものだが、そのことは何をしゃべって何をしゃべってはならないかとよく理解していたということである。
表題の通り、この本は甘粕正彦と岸信介の満州での活躍が大きなテーマとなっているが、今思っても、満州という土地は、日本がもう少しうまく運用すれば、立派な近代国家になりうる要因を抱えていたようだ。
これは今の日本人の感覚からすると、日本の大陸侵略という目でしか見ようとしないが、それは明らかに中国側の視点で見ているわけで、アジアというもう一つ大きな視点で見れば、旧ソビエットに支配され、中国共産党に支配されたが故に、元の黙阿弥の戻ってしまったという感がする。
言い方を変えれば、自然のままに戻ったということになるが、なまじ近代化が中途半端なまま元の自然に戻ってしまったので、弊害の部分のみが残ったということになる。
しかし、満州という土地は20世紀の大きな実験場であったような気がしてならない。
確かに、日本があの地に進出した頃は、中国側からすれば「化外の地」であって、そうであればこそ女真族は中国本土に侵攻して清王朝を作ったわけで、中国人、漢民族にとっては人の住むべき土地ではない「化外の地」だからこそ、日本が開拓してそこに住むようになると再び人が戻って来たわけである。
ただ惜しむらくは、この「化外の地」の開拓には雄大なプロイジェクトがあったにもかかわらず、あまりにも気宇壮大なるが故に、当時の人々には理解してもらえず、ちまちまとしたアイデアを小出しにして、行きあたりばったりの泥縄式のアイデアしか実践されなかったので、その部分で逆に侵略されたという悪感情を植え付けてしまったようだ。
というのは、日産の鮎川義介はこの地でアメリカ式の大規模農法を実施して食料の大増産を図ろうとしたが、そのアイデアは石原莞爾の零細農民の救済につながらないというわけで潰されてしまった。
この石原莞爾の零細農民の救済が後に満蒙開拓団というアイデアになったわけで、結果として大きな悲劇のもとになったわけである。
この本のよると、この満洲の開発には関東軍が大きく関与していることは当然であるが、この関東軍の活躍というのが今考えてみると実に不可解である。
この関東軍というのは日本の陸軍の中できちんとした組織図からはみ出した存在のように見えてならない。
にもかかわらず、人事異動では東京の参謀本部から人が出たり入ったりしているわけで、それでいて独自の資金源を持っているということは一体どういうことなのであろう。
その関東軍の金が満州国の金とも連携していて、そういう金があったればこそ、甘粕正彦も岸信介も十分に活躍できたということをどういう風に解釈したらいいのであろう。
その金がいわゆる麻薬の収益だったという訳だが、国家が裏で麻薬を操作して資金源にするということは今の北朝鮮でもアフガニスタンでもありうることであって、そう珍しいことではないが、この場合、天皇の軍隊であるべき関東軍が、本国からの予算だけでは足らず、現地で麻薬を媒介にして資金を調達している、などということはにわかに信じられないことである。
しかし、国と国の関係というのは表面上の外交交渉のみではない筈で、当然あらゆるセクションで機密費というのは存在して当然だ。
その機密費のねん出に麻薬が使われたとしても何ら不思議ではないが、そういう裏事情というのは、あまり公表すべきことではない筈だ。
しかし、メデイアとしてはそれこそが特ダネとして真に価値があるわけで、その部分を掘り下げたい気持ちは手に取るようにわかるが、それはある意味で命がけの仕事でもある。
それにしても今関東軍というものを考えてみると、実に不思議な気がしてならない。
あれだけソ連を仮想敵国として認識しておきながら、対米戦がながびくとそこに兵員を割いてしまって実質もぬけの殻にするということはどういうことなのであろう。
政治とか戦争というのは、時々の情勢に即応するというのが本命であろうが、結果として言えることは、当時の帝国陸海軍の高級官僚たちは、国民の存在などいささかも頭の中になかったということである。
満州に満蒙開拓団を送り込むということは、同時に彼等を如何に守るかということも同時進行で考えなければならなかった筈であるが、このことは今に至っても誰一人こういう発想を展開した人がいない。
戦争も末期になり、沖縄では中学生や女学生まで戦っている時、本土決戦が叫ばれていたが、その時、「武器はどうするのか」という話題は一切出ていないわけで、この現実を一体どういう風に考えたらいいのであろう。
これが海軍兵学校や陸軍士官学校を出た人の発想であったとするならば、一般国民は何をどう信じたらいいのであろう。
戦後に至れば至ったで、立派なノーベル文学賞をとった人が、日本軍が自分達同胞の住民、民間人に自決を強要したと言うに至っては、何を信じたらいいのか皆目見当もつかないということになる。

『渡部昇一の「国益」論』

2009-08-12 07:20:29 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、『渡部昇一の「国益」論』という本を読んだ。
少々時宜がずれた感じがしないでもないが、渡部昇一流の持論の羅列であった。
しかし、この人の論旨は私の考えていることと見事に一致するので実に不思議な気がする。
この本では少々古くなったことではあるが世相を見事に両断しているので、その考え方に拍手喝さいを送りたい気分にさせられた。
この人の考えることは私とほとんど同じなので、改めて言い立てることはないので、少し違う視点から日本というものを眺めてみることにする。
というのもNHKで9日より10日と、次の日に掛けて3夜連続で、「日本海軍・400時間の証言」という特別番組を放映している。
いわゆるNHKスペシャルであるが、この番組は戦後しばらく経ってから海軍軍人が昔の海軍水交会に集合して、反省会を催し、その記録をドキュメンタリーとして放映している。
その映像の中で海軍軍令部の内情が暴露されているのだが、この映像を見る限り、海軍というのは究極の官僚システムであったことが如実に語られている。
軍令部というのは基本的に作戦を考えて、その作戦を実行せしめるセクションであって、いわば海軍の頭脳的な存在たが、此処の要員には戦争というものが根本から解っていなかったように思える。
戦争のプロに戦争が解っていない、というのも実に不可解なことであるが、現実の問題としてそうであったからこそ、日本海軍は戦争に負けたということではなかろうか。
よく言われるように、大艦巨砲主義というのがあって、最強の海軍は大きい戦艦を沢山持って、大きな大砲を沢山所有した方が有利だという思考は、この時代には既に時代遅れであったわけである。
そのことは戦艦大和や武蔵の建造の時まで遡るわけであるが、私個人としてどうしても腑に落ちないことに、海軍の上層部というのは海軍兵学校を出た秀才の集合体であったわけで、そういう連中が何故に、大艦巨砲主義と航空機運用主義とで意見の衝突が起きたのかということである。
この意見の分裂というのは、要するに官僚主義の縦割り行政に起因するタコつぼの利得の取り合いなわけで、究極のセクショナリズムの具現であって、目の前の大きな戦争に勝つ、という理念が抜け落ちた議論であったように思う。
少なくとも軍人ならば、「如何に勝つか!?」が彼らの生きる目的でなければならないわけだが、それが彼等にかかると、「戦争に勝つ」という大義を忘れてしまって、「如何に自分のセクションを有利な位置に導くか」になってしまっているところが問題である。
彼等は入学した時点から秀才であったわけで、その秀才がそこを卒業して軍官僚として研さんを積むうちに、全体像が見えなくなってしまって、自分のセクションの中、いわゆる自分のタコ壺の中しか見えなくなってしまって、全体のことに気が回らなくなってしまったに違いない。
思えば、我々、日本民族というのは「アジアの解放」などという大風呂敷を掲げて、出来もしないプロジェクトに挑戦すべきではなかったようだ。
戦後の我々の同胞も、あの第2次世界大戦を「戦争」という枠組みで括ろうとしているが、あれは戦争という概念を超えた文明の衝突であったと私は考える。
日米決戦というのはキリスト教文化圏と日本の生存権の衝突であって、日本側の戦争遂行は、究極の日本的政治手法の具現であったわけだが、それに対抗したアメリカ側の作戦は、究極の合理主義の具現であったわけだ。
日本は戦争に望む前の段階から、陸軍と海軍の中で意思の疎通に齟齬があったわけで、陸軍でも海軍でも双方が日本の優秀な頭脳の集団であったにもかかわらず、自助努力あるいは内部からのイノベーションで双方の意志の疎通を改善するという発想は生まれてこなかった。
今の日本の政治と同じなわけで、この経済の危機を乗り越えるのに自民党と民主党で相互に協力し合うという発想が生まれてこない状況と瓜二つではないか。
国難を目の前にして、双方で協力し合って事の解決に当たるという発想にならないという点で、党利党略はあっても国家のために、という思考は微塵もないということに他ならない。
平和な時ならばそれでも通るが、戦争中ともなれば、それではやられてしまう訳で、事実日本はその軌跡を見事にトレースしたわけである。
戦争が目に前にあるのに、陸軍も海軍もそれぞれメンツを重んじて反目し合い、それぞれのタコ壷を補強している図であって、敵と戦うということを忘れてしまっている。
前線では苦労して目の前の敵と戦っているが、後方の軍令部や参謀本部では、前線の苦労など目に入らないわけで、机上の理想論でバーチャルな戦いをして、勝てると思い込んでいたのである。
軍令部の思う通りの結果が出ないと、前線の指令官の責任にされてしまうわけで、これでは絵に描いたような官僚システムであるが、問題は、この現状に対して内部から自己変革の機運が全く出ていないという点である。
これは一体どう考えたらいいのであろう。
若い時は村一番町一番といわれた秀才が、めでたく学業を修め官途について立身出世を重ねると、ただ以下の凡人になってしまうと言うことは一体どういうことなのであろう。
ここで見落としてならないことに、村一番町一番の秀才であったことは確かとしても、その出自が卑しい心根の人かどうかは本人以外は分からないわけで、そもそもこういう学校を選択して集まってくること自体が、そうとうに打算的であるということに気がつかねばならない。
村一番でも町一番でも、家が裕福であるとするならば、人の嫌がる軍隊などに入ってくることはない筈だ。
家が裕福であれば普通の文部省の所管する上級学校に進めばいいわけで、それが出来ない貧乏人であるからこそ、学費免除の特典があって、卒業すれば軍官僚として肩で風切って威張れる道を選択してくるのである。
こういう発想そのものが既に心卑しい巧理的な思考であって、貧乏人にとって最も効率のいい立身出世のコースであったわけである。
彼等はもともと頭が良いので、こういう見極めも実に的確に判断しているわけで、そういう意味では確かに村一番町一番の秀才の誉れが高いわけである。
問題は、こういう秀才が官僚システムというぬるま湯の中に身を浸していると、本来あるべき姿の頭脳明晰、学術優秀が色あせてしまって、ただの人になってしまったところにある。
貧乏人が苦学して官界にはいる。入った以上そのポストを出来るだけ大事に守って、休まず、遅刻せず、働かずで、目立たないようにしておれば、何時かは日の目に当たる機会があるかもしれない。
その間出来るだけ私欲を肥やしておこう、という卑しい根性を持つに至るのも自然の流れであろうか。
これは今の官僚についても全く同じことが言えているわけで、そもそも東大法学部から官僚になろうと思うこと自体が究極のの思考である。
ところが今時、の思考といっても、まともに理解できる人は我々世代よりも上のものでしかいないわけで、心卑しき人々と言っても理解されないと思う。
昔は官吏という職業は蔑まれていた。
日本が西洋列強に追いつき追い越すことが国是の時は、「日本国のために」という大義が大手を振って罷り通ったが、昭和の時代になるとその大義が悪用されて、その大義を利用しながら、セクショナリズムが蔓延してしまった。
「国のために」という大義を悪用したのが、あらゆる階層の中の官僚であったわけで、そこに当時のエリートたちは気がつかねばならなかった。
高級官僚も、もとは片田舎の貧乏人の子忰であったが、官僚機構の中で立身出世をして、肩で風切る立場になると、「国家のために尽くす」ということが自分のセクションを如何に発展拡大するか、ということに摩り替ってしまって、国家ということが抜け落ちてしまっていたのである。
自分の出世に慢心してしまって、国家、国のため、ひいては天皇陛下の赤子としての国民、臣民の存在を忘れてしまうところが、のたる所以である。
つまり自分の出自を忘れてしまうということである。
これは21世紀の官僚にも立派に生き続けている官僚の潜在意識だと思う。

「アメリカの不正義」

2009-08-10 11:04:42 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「アメリカの不正義」という本を読んだ。
レバノンに駐在した大使館員が、レバノン周辺の状況をつぶさに観察すると、アメリカの尊大な態度が鼻持ちならない横柄な態度に見えてならなかったという話である。
2001年の9・11事件も中東諸国のありようからすれば、ある面でいた仕方ない部分があるという見解だ。
あの事件にかこつけたアメリカの中東政策は、根本的に誤りであるという主旨で貫かれているが、私に言わしめれば、これも一種の偏見だと思う。
中東地域というのは人類誕生の時から紛争が絶えないわけで、紛争が絶えないからこそ、近代化に立ち遅れたともいえる。
古代ギリシャ、古代ローマの時代からこの地の人々は諍いを繰り返しているわけで、後世の人間はその争いにそれぞれ名前を付けているが、こういう現実があるからこそ、私は人類の歴史は戦争の歴史だと認識しているのである。
今日の中東地域の諸悪の根源は、私に言わせればイスラエルという国家の存在だと思う。
イスラエルという国の構成員は言うまでもなくユダヤ人なわけで、ユダヤ人は人類誕生の時から他民族からの偏見に苦しめられてきたわけで、この歴史、この現実を、我々第3者としてどういう風に考えたらいのであろう。
ユダヤ人に対する史上最大の迫害は、言うまでもなく第2次世界大戦中のドイツの行ったユダヤ人ホロコーストであるが、何故、ドイツはああいうことをしたのであろう。
イスラエルという国がこの地球上に誕生するまでは、ユダヤ人は自分の国家というものを持ち得なかった。
よって、彼等は地球規模で世界に進出して、如何なる地でも生き抜いてきたのである。
そのことは同時に、地球的規模で以って世界中で嫌われて、迫害を受けながらの生存の継続でもあったわけでもある。
世界中でユダヤ人は嫌われていたんだけれども、その中でドイツだけがあからさまにユダヤ人を大量に抹殺することを実践してしまったのである。
中近東の歴史をほんの少しインターネットで調べれば、10人単位の規模の小さい虐殺というのは、アラブ人とユダヤ人の間では日常的に行われているわけで、何ら珍しいことではない。
「目には目を、歯には歯を」が日常茶飯事として実践されているわけで、ある意味で極めて自然の人間感情に近い生き方が存在している。
私に言わしめれば「戦争はむごいことだから二度としてはならない」というのは、あまりにも良い事づくめを願うあまりの綺麗事であり、自然の人間の感情に対する欺瞞だと思う。
この世に人として生まれて来たからには、我々、生きた人間の深層心理の中には「やられたららやり返す、足を踏まれたら踏み返す」というのが潜在意識としてあると思う。
その自然の感情を抑制しているのが、これまた人間が潜在的に保有している理性と知性だと思う。
この理性と知性というのは人間の成長の過程の中で後天的に養成、発育、進化、熟成させることが出来るわけで、そうなることによって本来持っている潜在意識としての感情をコントロールすることが可能になり、そのことによって社会的なルールに従うという価値観が熟成されるのである。
問題はユダヤ人、ユダヤ教徒がなぜ世界中の人々から嫌われているのかを解かねばならない。
彼等は古代ギリシャ、古代ローマの時代から他の人々、他の民族から嫌われているわけで、これは一体どういうことなのであろう。
第2次世界大戦中のドイツは、戦争にかこつけてそれを具体的な行動として実践してしまったが、ドイツの占領地では、これ幸いとこのチャンスを逃がさないように巧妙にドイツに協力してユダヤ人を迫害したた国、民族もあるわけでキリスト教文化圏では如何なる国でも彼らに好意を寄せるところはない。
古の昔に、ユダヤ人がキリストを迫害したからということがもっともらしく言われてりるが、そんな迷信じみた話が根拠になっているわけではないと思う。
私に言わしめれば、ユダヤ人というのは他民族との共存共栄を拒むことが最大の理由ではないかと思う。
自分達の身内、親せき縁者、自分達の同じ主旨の信者だけで、内向きに結束することが他の民族から嫌われる最大歳の理由ではなかろうか。
この本の著者、元レバノン大使は、自分がレバノンの赴任してレバノンという国が気に入ったところまではいいが、中東の混沌がアメリカの所為だという論拠にはいささか幻惑する。
今日の日本の繁栄は、アメリカのお陰だといえば大いに反発する人もいるだろうと思うが、確かにアメリカの協力もあったことは確かであるが、根本的には我々日本人の努力の結晶であることも確かである。
それと同じなわけで、今日の中東の混乱はアメリカの影響も無ではなかろうが、彼等アラブ人の怠慢である部分が大部分だと思う。
昔、「アラビアのローレンス」という映画があったが、イギリスの軍人がアラブ人のために戦ったが、結局、本国イギリスの外交政策をアラブ側に有利に展開することが出来ず、結果的にアラブ人はイギリスに騙されたという話であった。
アラブの人達は、その時のまま今日に至っていて、精神的な進化は微塵も存在していない。
今日の中東が混迷の極みにいるということは、基本的にこの地にすむ人々がべドウインの域をいささかも出ていないということである。
確かに石油成り金もおり、ビジネスで成功した人もいて、文明の利器を使いこなしている人も大勢いるであろうが、国家が国家の体をなしていない、ということが彼らには解っていない。
だからべドウインの延長でしかないわけで、もっと解りやすい例え話にすれば、アメリカのネイティブ・アメリカンが金持ちになってラスベガスを肩で風切って歩いているようなもので、精神的には極めて未開人に近いわけで、現代思想については中身が何もないということを指し示している。
中東の混乱にアメリカの影響が大きく作用していることはいなめないが、そうであるとするならば、アメリカの影響を排除する動きを積極的にとるのはアラブ側の責務であって、何時までもいつまでもされままでいていいわけない筈である。
2001年9月11日のWTCのテロに対して、犯人はアラブ系の秘密組織の人間らしいということが解った時点で、中近東の諸国は自分達の国の中にあるそういう組織を徹底的に捜索して、犯人を引き渡すぐらいの協力をして当然だと思う。
しかし、現実の対応はそれと全く逆で、むしろテロを後押しするような行動をしたものだから、アメリカも武力行使せざるを得なかったに違いない。
この本の著者は外交官でありながら、アメリカの政治の裏にはユダヤ人が控えていて、彼らがそれを牛耳っていることを故意にか、それとも本当に知らないのか、語らないというのは私から見ると極めて不本意な話である。
アメリカ社会の上の方はみなユダヤ人が占めていて、彼等は自分達が嫌われていることを十分に認識しているので決して表に顔を出すことはないが、裏で金で以って政治を動かしているわけで、アメリカの利益はアメリカ在住ユダヤ人の利益だと考えなければならない。
だからアメリカの中東政策は力の誇示が前面に出て、イギリスやフランスがってしていたように柔軟な外交政策で以って自分達の利益を拡大するという手法がとれないのである。
アメリカがイスラエルの行動に対して極めて甘いというのも、アメリカという国家の上層をユダヤ人が占めていて、アメリカ在住ユダヤ人の利益のためにイスラエルに自粛を迫ることが出来ないのである。
アメリカ社会の上層部をユダヤ人が占めていることは世界中が知っているわけで、この本の表題の「アメリカの不正義」というのは言い換えれば「アメリカ在住ユダヤ人の不正義」ということになるわけで、実質その通りだと思う。
イスラエルという国家は、このアメリカ在住ユダヤ人というものがいないと成り立たないわけで、ある意味でアメリカの出来の悪い隠し子のような存在だと思う。
親の威を借りてしたい放題の悪さをする不良少年のようなもので、こういう態度こそが有史以来他民族から疎外されてきた大きな理由ではなかろうか。
ユダヤ人を公然と嫌ったのはナチス・ドイツだけではなく、旧ソビエットでもかなり大規模な迫害があったようだし、ヨーロッパ大陸では当然のように嫌われ続けていたわけで、それが彼らの先祖の地に祖国を作れば作ったで、周囲と摩擦を引き起こすわけで、こういうユダヤ人の存在そのものが、新たな争いを誘発している。
周囲の者に新たな争い、諍を誘発すること自体が、世界中の人々から嫌われる原因ではなかろうか。
彼等も自己主張を抑えて周囲のものと同調し、我々の言葉で「郷に入って郷に従う」のであれば、彼等もこうは嫌われないだろうが、何時でも何処でも自己主張を通し、妥協せず、唯我独尊的に振舞っておれば、周囲から嫌悪されるのも当然の成り行きである。
ユダヤ人とアラブ人を二つの民族として並べて眺めてみると、ユダヤ人の方が子供の教育にも熱心だし、知的好奇心も汪盛で、進取の気性にも優れているが、アラブ人の方はおそらく宗教の戒律がそれを強要しているのであろうが、近代文明や新しい発想を抑え込む方向に作用しているわけで、これでは如何なる近代的な戦争にも勝ち目はないわけで事実その通りになっている。
この本の著者は、レバノンと言う小さな国家が、イスラエルという近代国家にされるままになっているが、そのイスラエルの専横を許しているアメリカはけしからんという論法であるが、アメリカの政治はユダヤ人に牛耳られているわけで、これは何とも止めようがない。
アメリカの政治を軌道修正しようとすれば、ヒットラーの行ったホロコーストを再現して、アメリカを牛耳るユダヤ人の考えを修正しないことにはそれは実現し得ない。
今の中東情勢を揺るがせているイスラエルの行動を律するということは、アメリカの力を排除するということであり、それは今世紀の人類にとって不可能なことだと考える。
イスラエルに血で血を洗う抗争を止めてもらうということは、アメリカのユダヤ人をホロコーストで根絶しないことにはありえないことで、このイスラエルの態度、ユダヤ人の生きざまそのものが、有史以来、あらゆる民族が彼等を嫌っていたという厳然たる現実である。
この駐レバノン大使は、日本政府がアメリカのイラク攻撃に加担したことを諌めようとして、首相に意見具申の公電を打ったと述べ、そのリアクションとして本庁から転勤を示唆されたことに不満を述べているが、これは実に微妙な問題だと思う。
一介の大使が、総理大臣の施政が自分の意に沿わないからと言って、意見具申するところまでは許されるが、だからと言って、その意見具申を一国の総理大臣が真に受けて、その線に沿うように方向を修正していいものかどうかははなはだ難しい決断を迫られる。
ただ私ごときが思うに、日本の立場として、アメリカの意向に逆らって日本の存立がありうるだろうか、と考えざるを得ない。
確かに今の日本はアメリカの属国だと思うし、アメリカのポチであって、言われるままに振舞わざるを得ない部分が多々あるが、だからと言って日本の真の独立自尊ということがあり得るであろうか。
日本の知識人やメデイアや野党は、日本の真の独立ということを大声で言って憚らないが、彼らにはその真の独立という意議、意味が本当に解って言っているのであろうか。
アメリカの戦争に金を出さない、人を出さない、日本の領土からアメリカ軍がいなくなる、ということだけが日本の独立ではないわけで、そういう認識の上に立って日本の真の独立ということを唱えているのであろうか。
たった一人の大使が、自分の国の為政者に意見具申することは責められるべきことではないが、意見具申と政策批判とをどこでどう峻別したらいいのであろう。