例によって図書館から借りてきた本で「警視庁捜査二課」という本を読んだ。
立て続けに警察関係の本を読んだことになるが、これは図書館の書棚にかたまって並んでいたからに他ならない。
この本は警視庁の現場にいた刑事の話なので非常に興味あるものであった。
テレビドラマの「はぐれ刑事純情派」を文字で表現したようなもので、非常に面白かったが、警察組織も巨大で中には警察官にふさわしくない人間もかなりいるようだ。
同じ警察官として、自分と同じ仲間を摘発し、逮捕するということは、さぞかし気が重く苦しい心境ではないかと想像する。
学校の先生とか警察官というのは世間からは聖職とみなされているので、ただでさえも自分の行いを正さねばならないが、やはり一人の人間としては、ついつい誘惑に負けることも多々あろうと思う。
既に誘惑に負けてしまったものは自己の責任であろうが、それを逮捕しなければならない同僚というのはきっと複雑な心境ではないかと思う。
それと、この本の著者も、警察官としての秘密を墓場まで持っていく気でいるようであるが、警察の中でも事件のもみ消しということはしばしばあるように見受けられる。
テレビドラマの中では往々にしてそういうケースが描かれているが、私は単純にドラマの中の話だと思っていたが、やはり現実にもあるもののようだ。
一般論として警察が忙しがっている世の中というのはあまり良い世の中ではない。
警察の暇な世の中であれば、それだけ平和な証拠になるが、警察官が忙しくて忙しくてならない社会というのは、極めて不安全な危なっかしい社会だということになる。
世の中が複雑になり、社会が多様化してくると、それに付随して犯罪も多様化するわけで、まことに困ったことである。
しかし、人はなぜ犯罪に走るのであろう。
犯罪を犯すにも、完璧にそれを実行しようとすると極めて用意周到に知恵を働かせ、頭脳を使って自らの防御に当たらなければならない。
やはり、この世に生きている人間には、先天的に犯罪に手を染める人というものはいるようだ。
既に述べたことでもあるが、一部の人間の内には先天的に盗癖というものがあるようで、生まれ落ちた時から人のものを盗んでも良心の呵責に何ら触れることのない精神構造の人間がいるようだ。
我々はともすると人を見る時性善説に依拠しがちで、人はすべて善意の持ち主で、基本的には人を騙すような悪いことをする人間はいない、と思いたがっているが、現実には人を騙しても何ら良心の呵責を感じない人間もいるわけだ。
原始の人間はおそらく「自分のもの」という概念は持たずに、人のものは自分のもの、自分のものは自分のものという大雑把な所有権しか持っていなかったと思う。
農耕生活の初期、あるいは狩猟生活の初期の段階では、人は所有権という意識は毛頭持っていなかったと思う。
その場にあるものを、自らの生存のために誰に断ることもなく自分のものとしていたに違いない。
第一、 皆が裸かあるいは毛皮をまとっているわけで、皆が皆、同じような服装というか身なりであ
って、貧富の差などという概念もなかったに違いない。
しかし人間の社会が複雑化してくると、当然のこと、持てるものと持たざる者の区分けが出来てきて、持たざる者は持てるものを羨ましく思うようになって来た。
いわゆる貧富の差が出来てきたわけで、その差は、所詮は、それぞれの人間の頭の使い方の違い、頭脳の働きの違いであったわけで、スタートが同じであっても人間の個性そのものが立場の違いを増幅してしまったことになる。
頭の使い方や頭脳の働きの方向性が人倫の線に沿ったように機能させれば、それは健全な社会生活を営むということになるが、数多くいる人間の中には、どうしても人倫の示す生き方に同調出来ない人間が紛れ込むわけで、それの行く着く先が犯罪者という範疇に集合するわけだ。
大勢の生きた人間の中には、生まれ落ちた時に既に盗み癖をもった者もいるわけで、こういう人は刑務所を出たり入ったりして人生を過ごすことになるが、それはそれでいた仕方ない。
ところが、汚職とか、贈収賄とか、詐欺という犯罪は、完全に最初からそれをすること目的とした犯罪なわけで、明らかに確信犯である。
こういう犯罪に関しては、巷の不良やヤクザの三下が出来心でやるような生易しいものではないわけで、相当に知恵と頭脳を酷使した所業であり、真の馬鹿やアホではなしえないものである。
贈収賄ともなると、贈る方も受け取る方も、相当に社会的地位の高い者の仕業といわねばならない。
組織の下っ端同士ではいくら贈収賄したところでメリットが最初から無いわけで、組織のトップ同士で金を贈って、その見返りが期待できるからこそ贈収賄をする価値が出るのである。
ここで問題となってくるのが組織のトップの倫理観である。
組織のトップともなれば当然のこと社会的地位もあるわけで、その地位の前提になっているのは当然のこと高い学歴である。
有名な大学を優秀な成績で卒業して、組織のトップまで上り詰めて、そこで司直の世話になるというのも実に浅はかな人生なのではなかろうか。
銀行員の横領事件とか、警察官の情報漏洩とか、外務省の旅費の横領事件とか、本来の業務を真面目にしていれば世間の人望を一身に背負える立場のものが、金に目がくらんで塀の向こう側に転げ落ちるというのはあまりにも人間として情けないではないか。
私としては、犯罪者というものは、倫理観に対する認識が甘いという部分に、遺伝的な要因があると考えているが、こういう類の犯罪者はそういうものではないと信じたい。
ただの出来心と思いたいところであるが、こういう人達はおしなべて高等教育を受けている筈なのに、高等教育がモラルの順守に一向に貢献しないというのは一体どういうことなのであろう。
道徳教育が叫ばれて久しいが、あまりにも組織のトップの不祥事が多いと、高等教育の場で道徳教育を実施しなければならなくなるのではなかろうか。
そもそもモラルの順守ということは家庭教育の場で行うべきことであって、学校で教えるようでは世間の親は子育てを放棄したのかと言わなければならない。
世の進歩的と言われる知識人は、「子供の躾は地域の責任」などとバカなことを言っているが、冗談ではない。
子供の躾、あるいは人として守らねばならないモラルの順守を教えるのは親の責任であって、それを地域や学校に転嫁させようなどという発想そのものが犯罪の温床である。
こういうと必ず「今時は家庭の主婦がパートや仕事に出ていて家にいないので、子供の躾や教育は地域で負担しなければならない」という論法になるが、「ちょっと待ってくれ」と言いたい。
自分の子供が出来たら、何をさておいても子育てを優先させるのが人としての道ではないのか、ということを思い出してもらいたい。
若い夫婦で、経済的にゆとりがないから主婦も稼ぎに出るというと何となく整合性があるように見えるが、そもそもその発想から間違っている。
経済的ゆとりと子育てを秤にかけて、子育てよりも金稼ぎを優先しているということではないか。
若い夫婦が経済的にゆとりがないのは人類のすべてに通じる普遍的なことであって、ならばその時期はある程度のひもじさ、貧乏、苦難に耐えてでも子育てを優先させるのが人としての普遍性ではなかろうか。
家で健康な主婦が子育てに精を出しても、それは実入りの増加にはつながらないのは当然であるが、そのトンネルは皆同じように経験しなければならない道だと思う。
母親が外に働きに出るということは、子育てを犠牲にして金稼ぎに精を出しているということであって、決して褒められるべきことではない筈である。
ところが戦後の民主化の中で生育した進歩的知識人という人達は、「女性が外に働きに出ることは良い事だ」という認識に立って、自分の作った子供の教育を他者に委ねようとしているのである。
この思想は、共産主義の指し示す集団的農業あるいはソホーズ、コルホーズの思想であって、資本主義社会では、個々の家庭を尊重して、昔ながらの子育てを継続するように図らねばならない。
若い夫婦が経済的なゆとりがないというのは何処でも同じであって、ならば国とか行政は、子育中の女性には家に居て出来る仕事を斡旋するというか、そういうシステムを構築すべく知恵を絞り工夫をしなければならない。
人間の営みの中でも、子育てというのは実に大変なことで、その大変なことをスポイルする方向に思考を巡らすのではなく、それを継続できるようにシステムの方に工夫をすべきだと思う。
我々世代は内職という言葉に非常になじみがあるが、この内職であれば母親はいつも子供のそばにおれるが、どうしても貧困のイメージが付きまとい、貧乏たらしいイメージが払しょくしきれないので、どうしても「パートに出る」と言う方が聞こえがいい。
ことほど左様に、現代人は金を稼ぐことに執念を燃やし、子育てを蔑にしがちであるが、この部分にモラルの崩壊の芽が潜んでいるように思う。
若い主婦は子育てを犠牲にしてまでパートに出て、得た金は全部保育園や幼児施設に吸い取られているわけで、行政はその吸い取る方の箱物作りに精を出しているが、それよりもパートに出なくても済む内職のシステムを再構築すべく知恵を働かせるべきだと私は思う。
世間を騒がすあらゆる組織のトップの犯罪も、すべてモラルの破壊が有って起きているわけで、良い年をしたオッサンが、警察のお縄を受けるということは一族郎党の恥であろうが、こういう意識が心の奥底で作用している限り、モラルハザードということにはならない。
「石川や 浜の真砂は尽きぬとも、世に盗人の種は尽きまじ」ということであるが、盗人には高等教育の効果というのは期待できないということなのであろう。
しかし、前にも述べたように犯罪を犯す人というのは遺伝的なものを前世から引き継いでいると思う。
世の中を見てみれば、いくら貧乏でも犯罪を犯さない人はいくらでもいるわけで、その反対にいくら経済的に恵まれていても罪を犯す人も掃いて捨てるほどいるわけで、犯罪を犯す犯さないの違いは、その人の持って生れた遺伝子にあるのではなかろうか。
今時の組織のトップの犯罪というのは、犯罪を犯す遺伝子を持った人が、たまたま高等教育の機会に恵まれ、立派な組織に入り、その中で立派に立身出世したが、持って生れた遺伝子、つまりモラルを軽視する性癖は、いくら地位が高くなろうとも変わるものではないわけで、ついつい悪事に手を染めてしまうということである。
こういう人はもともとの頭は極めて優秀なわけで、知識としてはミニマムの倫理観を十分に備えており、何が法に触れ何が触れないかを十分理解したうえで、その法の網をかいくぐろうとし、法の盲点をかいくぐろうとするところにモラルハザードの芽が潜んでいるのである。
この時のモラルハザードに対して自制心が効くか効かないかが犯罪を犯すか犯さないかの分かれ目であるが、本来、高等教育を受けたものならば、この時にその教育の効果として理性や知性が作用して、自己の欲望をコントロールするように機能しなければならない。
人間は確かに誘惑に弱い生きもので、自己の欲望を抑えるのが下手であるが、この時にそういう人の持つ理性や知性が正常に機能しないのであれば、他の動物と同じであって、霊長類としての意味をなさないではないか。
ましてや教育がそういう岐路で全く当人の判断力に影響を与えていないでは教育の意味がないではないか。
立て続けに警察関係の本を読んだことになるが、これは図書館の書棚にかたまって並んでいたからに他ならない。
この本は警視庁の現場にいた刑事の話なので非常に興味あるものであった。
テレビドラマの「はぐれ刑事純情派」を文字で表現したようなもので、非常に面白かったが、警察組織も巨大で中には警察官にふさわしくない人間もかなりいるようだ。
同じ警察官として、自分と同じ仲間を摘発し、逮捕するということは、さぞかし気が重く苦しい心境ではないかと想像する。
学校の先生とか警察官というのは世間からは聖職とみなされているので、ただでさえも自分の行いを正さねばならないが、やはり一人の人間としては、ついつい誘惑に負けることも多々あろうと思う。
既に誘惑に負けてしまったものは自己の責任であろうが、それを逮捕しなければならない同僚というのはきっと複雑な心境ではないかと思う。
それと、この本の著者も、警察官としての秘密を墓場まで持っていく気でいるようであるが、警察の中でも事件のもみ消しということはしばしばあるように見受けられる。
テレビドラマの中では往々にしてそういうケースが描かれているが、私は単純にドラマの中の話だと思っていたが、やはり現実にもあるもののようだ。
一般論として警察が忙しがっている世の中というのはあまり良い世の中ではない。
警察の暇な世の中であれば、それだけ平和な証拠になるが、警察官が忙しくて忙しくてならない社会というのは、極めて不安全な危なっかしい社会だということになる。
世の中が複雑になり、社会が多様化してくると、それに付随して犯罪も多様化するわけで、まことに困ったことである。
しかし、人はなぜ犯罪に走るのであろう。
犯罪を犯すにも、完璧にそれを実行しようとすると極めて用意周到に知恵を働かせ、頭脳を使って自らの防御に当たらなければならない。
やはり、この世に生きている人間には、先天的に犯罪に手を染める人というものはいるようだ。
既に述べたことでもあるが、一部の人間の内には先天的に盗癖というものがあるようで、生まれ落ちた時から人のものを盗んでも良心の呵責に何ら触れることのない精神構造の人間がいるようだ。
我々はともすると人を見る時性善説に依拠しがちで、人はすべて善意の持ち主で、基本的には人を騙すような悪いことをする人間はいない、と思いたがっているが、現実には人を騙しても何ら良心の呵責を感じない人間もいるわけだ。
原始の人間はおそらく「自分のもの」という概念は持たずに、人のものは自分のもの、自分のものは自分のものという大雑把な所有権しか持っていなかったと思う。
農耕生活の初期、あるいは狩猟生活の初期の段階では、人は所有権という意識は毛頭持っていなかったと思う。
その場にあるものを、自らの生存のために誰に断ることもなく自分のものとしていたに違いない。
第一、 皆が裸かあるいは毛皮をまとっているわけで、皆が皆、同じような服装というか身なりであ
って、貧富の差などという概念もなかったに違いない。
しかし人間の社会が複雑化してくると、当然のこと、持てるものと持たざる者の区分けが出来てきて、持たざる者は持てるものを羨ましく思うようになって来た。
いわゆる貧富の差が出来てきたわけで、その差は、所詮は、それぞれの人間の頭の使い方の違い、頭脳の働きの違いであったわけで、スタートが同じであっても人間の個性そのものが立場の違いを増幅してしまったことになる。
頭の使い方や頭脳の働きの方向性が人倫の線に沿ったように機能させれば、それは健全な社会生活を営むということになるが、数多くいる人間の中には、どうしても人倫の示す生き方に同調出来ない人間が紛れ込むわけで、それの行く着く先が犯罪者という範疇に集合するわけだ。
大勢の生きた人間の中には、生まれ落ちた時に既に盗み癖をもった者もいるわけで、こういう人は刑務所を出たり入ったりして人生を過ごすことになるが、それはそれでいた仕方ない。
ところが、汚職とか、贈収賄とか、詐欺という犯罪は、完全に最初からそれをすること目的とした犯罪なわけで、明らかに確信犯である。
こういう犯罪に関しては、巷の不良やヤクザの三下が出来心でやるような生易しいものではないわけで、相当に知恵と頭脳を酷使した所業であり、真の馬鹿やアホではなしえないものである。
贈収賄ともなると、贈る方も受け取る方も、相当に社会的地位の高い者の仕業といわねばならない。
組織の下っ端同士ではいくら贈収賄したところでメリットが最初から無いわけで、組織のトップ同士で金を贈って、その見返りが期待できるからこそ贈収賄をする価値が出るのである。
ここで問題となってくるのが組織のトップの倫理観である。
組織のトップともなれば当然のこと社会的地位もあるわけで、その地位の前提になっているのは当然のこと高い学歴である。
有名な大学を優秀な成績で卒業して、組織のトップまで上り詰めて、そこで司直の世話になるというのも実に浅はかな人生なのではなかろうか。
銀行員の横領事件とか、警察官の情報漏洩とか、外務省の旅費の横領事件とか、本来の業務を真面目にしていれば世間の人望を一身に背負える立場のものが、金に目がくらんで塀の向こう側に転げ落ちるというのはあまりにも人間として情けないではないか。
私としては、犯罪者というものは、倫理観に対する認識が甘いという部分に、遺伝的な要因があると考えているが、こういう類の犯罪者はそういうものではないと信じたい。
ただの出来心と思いたいところであるが、こういう人達はおしなべて高等教育を受けている筈なのに、高等教育がモラルの順守に一向に貢献しないというのは一体どういうことなのであろう。
道徳教育が叫ばれて久しいが、あまりにも組織のトップの不祥事が多いと、高等教育の場で道徳教育を実施しなければならなくなるのではなかろうか。
そもそもモラルの順守ということは家庭教育の場で行うべきことであって、学校で教えるようでは世間の親は子育てを放棄したのかと言わなければならない。
世の進歩的と言われる知識人は、「子供の躾は地域の責任」などとバカなことを言っているが、冗談ではない。
子供の躾、あるいは人として守らねばならないモラルの順守を教えるのは親の責任であって、それを地域や学校に転嫁させようなどという発想そのものが犯罪の温床である。
こういうと必ず「今時は家庭の主婦がパートや仕事に出ていて家にいないので、子供の躾や教育は地域で負担しなければならない」という論法になるが、「ちょっと待ってくれ」と言いたい。
自分の子供が出来たら、何をさておいても子育てを優先させるのが人としての道ではないのか、ということを思い出してもらいたい。
若い夫婦で、経済的にゆとりがないから主婦も稼ぎに出るというと何となく整合性があるように見えるが、そもそもその発想から間違っている。
経済的ゆとりと子育てを秤にかけて、子育てよりも金稼ぎを優先しているということではないか。
若い夫婦が経済的にゆとりがないのは人類のすべてに通じる普遍的なことであって、ならばその時期はある程度のひもじさ、貧乏、苦難に耐えてでも子育てを優先させるのが人としての普遍性ではなかろうか。
家で健康な主婦が子育てに精を出しても、それは実入りの増加にはつながらないのは当然であるが、そのトンネルは皆同じように経験しなければならない道だと思う。
母親が外に働きに出るということは、子育てを犠牲にして金稼ぎに精を出しているということであって、決して褒められるべきことではない筈である。
ところが戦後の民主化の中で生育した進歩的知識人という人達は、「女性が外に働きに出ることは良い事だ」という認識に立って、自分の作った子供の教育を他者に委ねようとしているのである。
この思想は、共産主義の指し示す集団的農業あるいはソホーズ、コルホーズの思想であって、資本主義社会では、個々の家庭を尊重して、昔ながらの子育てを継続するように図らねばならない。
若い夫婦が経済的なゆとりがないというのは何処でも同じであって、ならば国とか行政は、子育中の女性には家に居て出来る仕事を斡旋するというか、そういうシステムを構築すべく知恵を絞り工夫をしなければならない。
人間の営みの中でも、子育てというのは実に大変なことで、その大変なことをスポイルする方向に思考を巡らすのではなく、それを継続できるようにシステムの方に工夫をすべきだと思う。
我々世代は内職という言葉に非常になじみがあるが、この内職であれば母親はいつも子供のそばにおれるが、どうしても貧困のイメージが付きまとい、貧乏たらしいイメージが払しょくしきれないので、どうしても「パートに出る」と言う方が聞こえがいい。
ことほど左様に、現代人は金を稼ぐことに執念を燃やし、子育てを蔑にしがちであるが、この部分にモラルの崩壊の芽が潜んでいるように思う。
若い主婦は子育てを犠牲にしてまでパートに出て、得た金は全部保育園や幼児施設に吸い取られているわけで、行政はその吸い取る方の箱物作りに精を出しているが、それよりもパートに出なくても済む内職のシステムを再構築すべく知恵を働かせるべきだと私は思う。
世間を騒がすあらゆる組織のトップの犯罪も、すべてモラルの破壊が有って起きているわけで、良い年をしたオッサンが、警察のお縄を受けるということは一族郎党の恥であろうが、こういう意識が心の奥底で作用している限り、モラルハザードということにはならない。
「石川や 浜の真砂は尽きぬとも、世に盗人の種は尽きまじ」ということであるが、盗人には高等教育の効果というのは期待できないということなのであろう。
しかし、前にも述べたように犯罪を犯す人というのは遺伝的なものを前世から引き継いでいると思う。
世の中を見てみれば、いくら貧乏でも犯罪を犯さない人はいくらでもいるわけで、その反対にいくら経済的に恵まれていても罪を犯す人も掃いて捨てるほどいるわけで、犯罪を犯す犯さないの違いは、その人の持って生れた遺伝子にあるのではなかろうか。
今時の組織のトップの犯罪というのは、犯罪を犯す遺伝子を持った人が、たまたま高等教育の機会に恵まれ、立派な組織に入り、その中で立派に立身出世したが、持って生れた遺伝子、つまりモラルを軽視する性癖は、いくら地位が高くなろうとも変わるものではないわけで、ついつい悪事に手を染めてしまうということである。
こういう人はもともとの頭は極めて優秀なわけで、知識としてはミニマムの倫理観を十分に備えており、何が法に触れ何が触れないかを十分理解したうえで、その法の網をかいくぐろうとし、法の盲点をかいくぐろうとするところにモラルハザードの芽が潜んでいるのである。
この時のモラルハザードに対して自制心が効くか効かないかが犯罪を犯すか犯さないかの分かれ目であるが、本来、高等教育を受けたものならば、この時にその教育の効果として理性や知性が作用して、自己の欲望をコントロールするように機能しなければならない。
人間は確かに誘惑に弱い生きもので、自己の欲望を抑えるのが下手であるが、この時にそういう人の持つ理性や知性が正常に機能しないのであれば、他の動物と同じであって、霊長類としての意味をなさないではないか。
ましてや教育がそういう岐路で全く当人の判断力に影響を与えていないでは教育の意味がないではないか。