ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「アメリカの本音」

2011-08-18 07:40:05 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「アメリカの本音」と云う本を読んだ。
サブタイトルには「日本人が知りたくない」とクレジットがついているが、非常に刺激的な表題である。
著者は日高義樹氏、彼の「ワシントン・リポート」というテレビ番組は好きで、機会があれば見るようにしているが、見落とす事も多い。
テレビに登場しているメディア関係者にも、それぞれに個性というか品の良さが如実に表れる。
例えば、田原総一郎などは、相手を怒らせてでも本音を引き出そうとして、その手法に強引さが見え隠れしているので、総体として下品である。
立花隆等は、自分の方が知の巨人なるが故に、自分で相手の思っている事を組み立ててしまう。
その点、日高義樹などは純粋にインタビューアーとしての本質を継承しているのではないか、と私なりに評価している。
ただしこの本は7年も前の事を書いているので、いささか時代遅れという感がする。
国際的な政治外交というのは、まさしくカレントというだけあって、水の流れの如く、極めて流動的で、瞬く間に時代遅れになってしまう。
だが、日本でもアメリカでも、メディアが大騒ぎすることが、必ずしも事の本質をついたものでない、ということは厳然たる事実で、我々はメディアの言うことの裏を、様々な情報を酷使して、真剣に考えなければならない。
この本は2001年の同時多発テロ以降のアメリカの姿勢を顕彰する過程で、ブッシュ大統領の政治手腕に言及しているが、アメリカという国は、常に何かに挑戦し続けている国だと思う。
ある意味で自転車操業に通じるものがあるみたいで、常に挑戦というペダルをこぎ続けていない事には転んでしまう国なのではなかろうか。
アメリカという国の建国の過程を見ても、世界の他の国とは全くその過程が異なっているわけで、彼らは基本的にその地に根を張って生きて来たネイティブな人々ではない。
元々の土地に住みついていたネイティブな人々と、入れ替わってしまった人たちである。
地球上の他の地域の人々は、有史以来その土地で生きて来た人たちであるが、アメリカに限っては、途中でそういう人々が入れ替わってしまって、人種が接ぎ木されたような状況である。
自然界の植物でも、途中で接ぎ木すれば、本来の能力よりも有効な成果を引きだす事が可能なように、それと同じ事が人類においてもあったものと思う。
ネイティブな現住民がいた所に、ヨーロッパから流れ着いた人たちが移入し、後になってきちんとした住み分けをしたということは、人種を含めてそれに付随する文化ごと接ぎ木したようなものである。
接ぎ木の場合、接ぎ木をする先の部分を穂木といい、その土台になる下の部分を台木というらしいが、ネイティブ・アメリカンという台木に、ヨーロッパの人間と文化が穂木として接ぎ木されたものと考えられる。
地球上の他の地域の人々は、そのほとんどが、その地に根ついたネイティブな人々であったが、アメリカではそうではなく、接ぎ木されていたので、その生命力が他よりもたくましくなったと言える。
文化が接ぎ木されると何故生命力が旺盛になるかと言えば、古臭い伝統の束縛がないからである。
我々の身の回りの例でいえば、儒教思想というのは既に栄華を得た人の論理で、そういう人が自分の地位を維持するために、先人を敬い、師を仰ぎ、老親に孝行せよと説くわけで、それでは後に続く若者は、先輩や師匠を踏み越えて先に進めないではないか。
これでは文化の進展は望めないのも当然である。
これだからネイティブなアジアン、エイジアン、アジアの現地人は近代文明に一歩遅れをとったのである。
農作物は収量の増産を計って苗の時に接ぎ木をする例が多いが、接ぎ木をしたのとしないのでは収量が違うと云う事は、接ぎ木をする事によって、本来の性質に何かのインパクトを与えた、何かの刺激を与えた、ということではないかと思う。
人間の集合を民族という枠で捉えた場合、それは物事の考え方の相異ではないかと、私は勝手に想像している。
今年も夏が来て、敗戦記念日が近づくと、66年前の事をメディアがもっともらしく騒ぎ立てているが、あの戦争を敗北と認識した時点で、我々はその敗北の責任を掘り起こして、その責任者を追及し、糾弾しなければならないのではなかろうか。
極めて個人的な事であるが、今年の夏、古い荷物を整理していたら、71年前の母の日記が出て来た。
昭和15年、1940年、私が生まれた時の育児日記が出て来たが、それによると既に戦争前からさまざまな品物の統制が始まっていて、炭から粉ミルク、砂糖等々あらゆるものが統制されていたらしいが、そういう国民的努力をしても、結果として敗北であったとなれば、その失政の責任者は、石を以て撃たれて当然だと思う。
勝った側が、勝った側の勝手な思い込みで、日本側の指導者を制裁するのは、それはそれでいた仕方ないが、問題は、我々の同胞の中で、その同胞に途端の苦しみを与えた、同胞の処遇である。
勝った側が勝手にやったのだから、それで戦に負けたことの禊は済んだとはならないと思うが、我々は戦後66年間、その部分を真剣に考えてこなかったのではなかろうか。
日本の元首が靖国神社に参詣すると、アジア諸国からとやかく言われる。
その度に右往左往する政治指導者は、まさに戦争を止められなかった政治指導者と同じ轍を踏んでいるわけで、その部分に民族としての政治的DNAがあって、この発想の相異は接ぎ木でもしない事には克服できない事柄なのかもしれない。
昭和15年という年は皇紀2600年で、その式典を見に行ったと母の日記には記されているが、その事は日本民族が過去2600年も連綿と継続した事を云っているわけで、だとすれば途中で接ぎ木されたアメリカ人の思考とは、大きな乖離があっても何ら不思議ではない。
問題は、あらゆる面でグローバル化した国際社会で、アメリカと如何に付き合って、我々のアイデンテイテイーを如何に確立するかということに尽きる。
こういう発想に立った時、日本のメディアは、色々言われている表層面だけを見て、その受け売りに徹してしまっているところに、日本人の物の見方の浅はかさが横たわっている。
日本人も、近世以前ならば外国の文化に畏敬の念を持ていたが、それが明治時代に日清・日露の戦役に勝利した事によって、我々は潜在意識の中の謙虚さを失ってしまったものと考えられる。
遣隋使、遣唐使、元寇の乱というときは、我々は外国人に対して畏敬の念を以て接していたと思う。
ところが明治時代に日清・日露の戦役に勝ってしまったことによって、明らかに驕った精神を持ってしまったわけで、この時点で、我々の民族の美徳であるべき謙虚さとか、謙譲の美徳を失ってしまったものと考えなければならない。
世の中の変革は、常にその時のリーダ-によってなされるわけで、我々の民族として謙虚さを失ったという事は、我々の民族のリーダ-達がそういう謙虚さや謙譲の美徳を失ってしまったという事だ。
日本の高度経済成長華やかリし頃、ジャパン・イズ・No1、アメリカ何するものぞ、という風潮が日本中に蔓延していたが、まさしく太平洋戦争前の我々のアメリカ認識と全く同じ轍を踏んでいるではないか。
こんな事の不合理、不条理を、アメリカに留学した日本の知識人がわからない筈がないではないか。
にも関わらず、あの時点で「日本の経済はバブルだから注意しなければならない」と、警告を出した人はいないわけで、「今、投機しない奴はバカだ」と、バカ呼ばりするほど、驕り高ぶっていたのである。
ちょっと金回りがよくなるとすぐに舞い上がる輩は、名実ともに「軽佻浮薄の輩」と云うことであるが、昔はこういう人の事を成り金と云って、知識人たちは軽蔑して眺めていた。
ところが、今では成り金こそ人々の憧れの的になっている。
東京大学を出たような人までも、成り金に憧れを抱いているようで、こんな知的センスの日本人ばかりであるとするならば、日本という国そのものがメルトダウンしてもいた仕方ない。
日本という土地に住んでいる人が、皆、そういう思考をもつようになれば、それこそ国家という概念も消滅するわけで、そうなれば民族の誇りも、名誉も、アイデンテイテイーも一切関係ないわけで、「友達の友達は友達だ」で、皆仲良く生きていけると思う。
併し、我々はそれでハッピーかもしれないが、我々の回りには、その我々のハッピーを妬む人間もいると思うが、それに対してはこういうハッピーな日本人は如何に対応するのであろう。
そういう時になって、国家に頼ってこられても、その時には頼るべき国がないわけで、偏狭なアジア諸国の言いなりになって、彼らの立ち居振る舞いを指を咥えて見ている事になる。
そもそも日本の国土から、日本人が外国人に浚われるなどという事は、100%完全なる主権侵害であって、国際社会に訴えて、その非常識さ、不合理さ、非常理さを国際世論に訴え続けなければならないことである。
本来ならば武力を使ってでも、浚われた日本人を救出しなければならないところである。
日本の国土から日本人が浚われるということ自体、日本が舐められているという事に他ならないが、日本の政治家の中には、これを真剣に考えている人が一人もいないということである。
こういう身近な問題はひとまず棚に置いておくとして、我々の国が資源に乏しい事は古の昔から赤ん坊でも知っている事であって、だからと言って、アメリカと戦争するのに、その資源を東南アジアからもって来て、日本で加工してそれで兵器を作ってアメリカと戦争をする、という発想は一体どこから出て来たアイデアであったのだろう。
世界中が平和な時ならば、こういうアイデアにも整合性があるが、片一方で中国と戦争しながら、こういうアイデアが出てくるという事は、如何に世の中の動きに無頓着かという事を、自ら暴露しているような馬鹿な発想である。
このバカさ加減に気がつかない政府首脳というか、知識人というか、軍官僚というか、当時の日本のリーダーは、如何にバカで阿呆だったかという一語に尽きる。
こういうリーダーが戦争指導していたとすれば、勝てる戦争でも勝てないのが当然である。

「9.11 あの日からアメリカ人の心はどう変わったか」

2011-08-13 06:53:04 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「9.11 あの日からアメリカ人の心はどう変わったか」という本を読んだ。
著者は冷泉彰彦という人だが、1959年東京生まれで、東京大学を出た人ということがインターネットによると記されている。
私の持ち前のフィーリングとしての先入観で眺めると、がちがちの全共闘世代の闘士のような印象になりがちである。
この本の趣旨は、標題でも判るように9・11事件後のアメリカ人の心の在り様を追いかけたもののように見えるが、その中の文章は何を言いたいのかさっぱり掴みどころがないように思えてならない。
やさしい言葉を書き連ねているが、読み終わって、「さてこの人は何を言いたかったのだろうか」と思った時何も心に残っていない。
それはこの人の世代に共通する思考ではないかと思う。
つまり、究極の平和主義者なるが故に、言葉の上でも、敵の存在を全否定するように気を配っているので、相手を傷つけまいとするあまり、言葉を厳密に選んで使っているので、表現に生気がない。
嫌いなことを「嫌い」と正面から言わず、もってまわったような言い回しで、その事を言い表そうとしているので、かったるくて仕方がない。
嫌いなことは「嫌い」と正面からどうどうと言えばいいが、そう赤裸々に本音を言ってしまうと、きっと相手か傷つくと思って、単刀直入に言わないものだから、まどろっこしく適わない。
戦後の、平和主義と民主主義の教育を受けて成人に達した世代に特徴的な思考パターンだと思う。
今の民主党政権の大部分は、こういう世代で成り立っているのではないかと思う。
世の中の綺麗で良い面ばかりを見て育っているので、「そういう社会にしなければならない」という使命感に突き動かされている面が顕著で、そういう部分に子供らしさが抜け切れていない。
こういう世代が、どうしてこういう安易で綺麗ごとの社会感の陥り、こういう偽善化した世間の見方に陥っているか、不思議でならないが、その理由をまだ誰も解明していない。
これは明らかに戦前の軍国主義の反動なわけで、あの戦争で生き残った我々の先輩としての同胞は、その大部分が戦前の異常な軍国主義を身をもって体験しているわけで、そういう人々は戦後の民主教育の行き過ぎに何の抗議をするでもなく、無抵抗のまま受け入れてしまったところにある。
如何なる国の大衆、民衆、国民というものも、結局のところ愚民そのもので、我々の場合、戦前においてはその愚民が心底、軍国主義に洗脳されていたが、戦後はそれのベクトルが逆向きの民主主義に洗脳されてしまった。
ここにある現実は、自らの脳みそで考えることを放棄した愚昧な民衆の存在ということである。
この著者は、東京大学を出て、アメリカで生活をして、アメリカの悪口を言っても生きておれる、ということの意義を真剣に考えたことがあるであろうか。
そういうことはアメリカだから出来るのであって、アメリカ以外の国で、例えば中国で、例えばロシアで、アメリカでの行動と同じことが在りうるであろうか。
自分の置かれた状況を何ら顧みることなく、自由奔放に思ったことを思った通りに発言するということは、お釈迦様の掌の上で暴れまくっている孫悟空の存在と同じなわけで、言葉を変えていえば、バカ、あるいは無知、もう少し違う表現をすれば身の程知らずということになる。
そもそも東京大学を出たような人が、世の中のことを正邪、善し悪し、善悪、正不正という価値観でもって眺めること自体愚昧そのものではないか。
人間の存在そのものが、生存競争の渦中にあるわけで、生きるか死ぬかの葛藤の中で、正邪、善し悪し、善悪、正不正という価値観が通用するわけがないではないか。
人々は自らが生きんがためには「悪」とも手を結び、邪な行為もあえてせねばならず、人を騙し、嘘を言い、自己の利益を確保せねばならないわけで、政治はそれを如何に合理的に行うかという手練手管である。
戦後の民主教育にどっぷりとつかった全共闘世代は、民主教育の名の元に、戦争という言葉に異常に過剰反応を示すが、これもこの世代の人々が「人が生きる」と言うことの本質に無頓着なるがゆえの盲信に過ぎない。
同じ類どうしで殺し合う動物は、人類以外に無いと思う。
共食いという言葉もあるにはあるが、これも同じ狭い空間に閉じ込めた場合の特殊な環境での行いで、普通にはあり得ないと考えられると。
ところが人類だけは、太古から人類同士で殺し合いを繰り返してきたわけで、それは人間というものに脳があるからであって、その脳が人間の根源的な本質を追い求めるからだと私は考える。
普通の自然界の生きものにも脳はあるが、その脳は種の保存、つまり子孫を残す生殖のみに作用するが、人類の脳は、それのみならずその他の様々な欲求を満たすために、その脳が機能するわけで、その行きつく先が同じ人類を殺してしまうということに繋がっていると思う。
人間は、人類誕生の時から殺し合いを繰り返してきた。それが21世紀になった途端に、「そういう醜いことはやめましょう」と言っても、そう安易に止められないのが当たり前だと思う。
2001年に、アメリカのニューヨークの世界貿易センタービルに、旅客機を乗っ取ったテロリストが突っ込ませて、ビルごと崩壊させたことに対して、普通の並みの人間ならば、直ちに「テロリストに報復すべきだ」と叫ぶのがノーマルな人間の感情だと思う。
人類の歴史は、こういうノーマルな感情で人々が戦争を繰り返してきたと見做していいと思う。
こういう状況下で「それは人類愛を欠いた行為だから、報復はしてはならない」と説くことは、勇気がいるけれども、普通の人の、普通の感情ではなく、普通の感情を超越した思考だと思う。
無知蒙昧な大衆民衆は、人間の自然の感情を躊躇することなく優先させると思うし、民主主義というものが多数決原理であるとするならば、報復することが民意の実践ということになるではないか。
問題は、無知で蒙昧な大衆が「報復せよ」といっている最中に、「いやいや報復はまかりならぬ、それをすればテロの連鎖反応が起きるから、ここは隠忍自重すべきだ」と説くことは勇気がいることであるが、その勇気があれば、テロの実行犯にも「テロをしてはならない」ということを説くべきである。
このテロの時、アメリカ大統領のブッシュは「これは戦争だ!」と思わず叫んだと言われているが、戦争には目に見える相手がいるが、このテロにはそれがないわけで、非対象の戦争と言われている。
「テロに対する報復を自重せよ」と言う人は、その勇気と才覚で以てテロ行為者に、テロの実施を止めるよう説くべきだと思う。
テロは正規の戦争ではないが故に、敵の姿が目に見えないわけで、テロの実施を止めるべく説く相手が見えない。
その意味でも、こういう物分かりの良い人たちは、お釈迦様の掌で暴れまくっている孫悟空と同じなわけである。
「テロの報復を止めよ」と叫ぶ前に「テロを止めよ」と叫ぶべきが筋ではなかろうか。
アメリカに対するテロは、これからも無くなることはないと思う。
こういうテロは、イスラム教徒のアメリカの抑圧に対する反抗という形で見られがちであるが、それはテロをする側の勝手な言い分であって、何の整合性も見つけられないと思う。
イスラム教徒とアメリカ人という対立軸で見ると、イスラム教徒というのは未開人の集合であって、近代文明の辺境の民のような印象を受けるが、それは彼ら自身の選択である。
断食も1日5回の礼拝も、彼ら自身の選択なわけで、誰もそれを彼らに強要したものはいない筈である。
アメリカが、今、世界で一番の軍事大国になったのは、アメリカ人の努力の結果であって、彼らは彼らの力でそれを獲得したのである。
アフガニスタンの人も、イラクのクルド人も、シーア派の人も、スンニ派の人も、アメリカ人と同じ努力をすれば、今すぐとはいかないまでもアメリカに出来るかぎり近い文化生活が出来るに違いない。
しかし、彼らにはそうしようという気はさらさらないわけで、2千年前と同じように断食をして、1日5回も礼拝を繰り返していれば、アメリカに追いつくことは今後もありえない。
何故、彼らがテロに訴えるかという質問に「格差が存在するからだ」という言い分は答えになり得ない。
「アメリカにはテロをする自由があるからテロが起きる」という答えの方が、まだ整合性があるように思える。
そもそも、人類の誕生という意味では、どの民族もスタートラインは同じの筈である。
考古学的に、厳密に言えば、それぞれの民族の誕生は個々の事情によって異っているであろうが、アメリカ人とべドウイン、あるいはアフリカのマサイ族、あるいはアマゾンの奥地の現住民という捉え方をした場合、それぞれの民族の相異は問題外の瑣末なこととなってしまう。
特に、21世紀の今日において、地球規模での格差の是正という問題意識で各民族を捉えた場合、それぞれの民族の優劣はあり得ない話だ。
にもかかわらず、今日、アメリカと、中東に住むべドウインとの文化的な格差、アフリカのマサイ族の生活様式、アマゾンの奥地に住む現住民の生活、等々こういう生活様式の相異は、それぞれの民族の選択の問題であったわけで、格差が押し付けられたものでないことは言うまでもない。
アフガニスタン、イラン、イラク、その他中近東の人々の生活は、彼らがそういう生活を自ら選択しているわけで、それを押し付けたのはヨーロッパ人でもなければアメリカ人でもないわけで、全て彼らが自分で選択した道なのである。
にもかかわらず、彼らがアメリカの繁栄を恨む心情には、自らの選択が間違っていたことの悔悟の念であって、それを素直な気持ちで表せないでいるからだと思う。
テロの実施者として旅客機を乗っ取った犯人たちは、知的にはアメリカ人と何ら遜色ない知能をもっていたわけで、だからこそほんのわずかな短時間の訓練で、旅客機をビルにぶつけることが可能になったのである。
如何なる民族でも、近代的な文化に順応できない人はいない筈であるが、にもかかわらず彼らが前世紀の文化に縛られている現状は、彼ら自身の問題である。
だからこういうテロの事件に直面して、テロが起きる原因として、文化の格差の是正を挙げることは、論拠が極めて希薄であって、それはそういうことをいう人の偽善そのものであって、人間の本質を見抜けていないということだと思う。
人間の本質は、極めて単純な動機で凝り固まっているはずで、足を踏まれたら踏み返す、殴られたら殴り返す、これが人が生きる根源的な動機であって、教養知性のある人は、その単純な動機を素直に認めようとせずに、色々な屁理屈で覆い隠そうとするから話が複雑になるのである。
日本の東日本大震災でも、自然災害ではあっても、想定外の地震であったとすれば、「これは戦争だ!、危機管理体制を取れ!」という指示が直ぐに発せられれば、東電の福島第1発電所の事故の対応も相当に違って来たと思うが、今の民主党の閣僚の中には、そういう体験というか、事態というか、状況を真に認識できる人が一人もいなかったものと思う。
戦後に生まれた世代には、戦時体制という概念すら意識の中に持っていないわけで、見たことも聞いた事もない状況であるとするならば、とっさの対応が出来なくとも不思議ではない。
この本の著者も、戦後生まれの人なので、そういう面が論旨のはしはしに出ている。
そういう意味でパパ・ブッシュは、先の戦争では我々と戦った戦士であり、ジョージ・ブッシュも州兵ではあるが空軍の将校であったわけで、軍事的にずぶの素人ではない。
国の舵取りをする人が、軍事的に全くの素人では、外交交渉の面で非常に不都合をきたすと思うが、日本ではそういうことが正面きって言えない。
先の大戦中の我々の祖国の政治ということを考えてみると、戦争のプロが国の舵取りをしても、負けるような戦争指導をするようでは何の意味もないが、そういう経験に照らして、政治家はなまじ軍事のプロであってはならない、という風になったともいえる。
しかし、テロというのは戦争ではないわけで、戦争ならば、やられたらやり返すということが正々堂々といえるが、テロでは真の敵が果たして何処に居るのか、果たしてそれが真の敵なのかどうかが甚だ不明なわけで、そこがテロリストの極めて卑怯な所以である。
アルカイダやタリバンに仕返しをしようとしても、事態が解らないので効果的な作戦は出来ず、非戦闘員の巻き添えは当然予想されるので、攻撃に躊躇してしまう。
テロリストの狙いはそこにあるわけで、非戦闘員に犠牲が出るから反撃を控えさせる、と言うのが彼らの狙いであるからこそテロなのである。
だから、この世の知識人と言われる人々は、アメリカに「反撃を止めよ」と言う前に、テロリストに「テロを止めよ」と説くべきだと思う。
しかし、テロリストの側は、実態が無いので、誰に何を言うべきか雲を掴む話で、実際にはそういう説得はあり得ないことになる。
本来ならば、そういう時にこそメデイアが率先して、そういう論旨を掲げてテロリストに自重を呼び掛けるべきではなかろうか。
メデイアがテロの成果、被害のみを大々的に報ずるのでは、テロに加担しているようなもので、社会的な使命を果たしているとは言えないのではなかろうか。
メデイアにとってテロの被害状況は格好のニュース・バリューを産むが、テロリストがメデイアの言うことを聞いてテロを止めてしまったら、メデイアとしてのバリューは枯渇してしまうことになり、メデイアとしての存在価値が薄れることは厳然たる事実であろう。

「マンハッタン、9月11日」

2011-08-11 07:35:16 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「マンハッタン、9月11日」という本を読んだ。
言うまでもなく2001年、アメリカ、ニューヨークで起きた世界貿易センタービルにおけるテロ攻撃のことを記述したものであるが、あの事件に生き残った人の証言記録であった。
私はあの事件をテレビの映像で見て、紛れもなくテロ行為だと頭から信じていたが、最近になって、どうもそうではなさそうだという見解が、巷に溢れて出てきているように見受けられる。
アメリカのケネデイー大統領暗殺が1963年のことで、この映像も私はテレビで見た記憶がある。
この時は、確か、日本とアメリカの衛星中継の初日の出来事で、アメリカからどんなニュースが報じられるかという期待で待っていたように記憶している。
その最初の一声が、アメリカ大統領暗殺のニュースで、たまげた記憶があるが、そういういきさつであったので、後あとまでこのケネデイー大統領暗殺については興味を持ち続け、その後で出た「ウオーレン報告書」も、翻訳したものではあったが私なりに読んでみた。
この時は、最初の狙撃犯と言われたオズワルドも、警察署の前で狙撃されて死んでしまい、それを行ったジャック・ルビーという男も、また狙撃されるということで、結局のところ謎が謎をよんで、最終的にはわけがわからなくなってしまったようだが、事件が迷宮入りになるとCIAとかFBIの仕業ということになってしまうが、結論がそうなるということは、完全なる迷宮入り事件ということで落ち付いてしまった。
何でも訳のわからないことは、CIAとかFBIの仕業ということしておけば、整合性が維持できるということになりがちである。
しかし、単純な事件でも難しい理屈をくっつけて迷宮入りにしてしまう傾向があるようにも見受けられる。
そういう時の常套句が、「CIAかFBIの仕業」というフレーズを使うということだ。
この9・11事件でも、あの飛行機がビルに突っ込んで行く映像を世界中が見ていたにもかかわらず、「あの映像に不審な点がある」という言い分は、私に言わしめれば「風が吹くと桶屋が儲かる」式の何の根拠もない言い係のような気がしてならない。
もっともらしい説明を聞くと、何となくそういう風にも見えないことはないが、だからといって、それがCIAとかFBIの陰謀というのは何とも論理の飛躍のような気がしてならない。
この話題に関して、インターネット上にはあらゆる情報があふれ返っているが、そういうものを拾い読みすると、確かにあのビルデイングが下に沈みこむように崩れていく姿は、古いビルの解体工事のとき行われる爆破による解体の映像と酷似してはいる。
しかし、誰が何のために旅客機の衝突とタイミングを合わせてそんなことが出来るのか、という面で不可解な点も数多くあるではないか。
仮に、爆薬であのビルを瞬間的に解体したとしても、誰が何のために、という問いは残ったままだし、飛行機の突入に合わせてそれをするなどということは、どうしても考えれない。
世界貿易センターは過去にもイスラム系の原理主義者による自爆攻撃に曝されているわけで、イスラム原理主義者が、あのビルを狙う理由も甚だ不可解千万である。
イスラム原理主義者のいう論旨が、我々の常識では理解し難い面があることは否めないが、「アメリカがこの世で一番の強者だから気に入らない」と言い分は甚だ迷惑な話であって、そういう独りよがりな言い分が罷り取っているから、アメリカに抑圧される地位に甘んじざるを得ないのである。
聖戦などと称して自爆テロをすれば、天国で良い地位に招かれる、などというバカげたことを信じているからこそ、近代化に立ち遅れるのであって、彼らの精神を呪縛している宗教を捨てれば、それこそ精神的な自由に身を委ねられるが、ムスリムに精神を束縛されている間は、何処に住んでも不平不満はついて回るであろう。
不平不満というものは、如何なる人間にもある程度は付きまとうものであるが、その原因とか理由を他者の所為にするかしないかが宗教の違いだと思う。
イスラム以外の宗教は、個人の不平不満を内側に向けて、自己の内部で克服するように説くが、イスラム教徒は、それを他者の所為にするので、常に他者との諍いが避けられないのである。
アメリカの繁栄はアメリカ人が自らの力で築いたもので、昔の黒人奴隷のように他から無理やり持ってきたものではなく、アメリカ人の努力の賜物だと思う。
イスラム教徒は、彼らのテリトリーの中で、民主主義とか技術革新とか、宗教改革というような、西洋キリスト教文化圏が経験したような文化的な脱皮を経ているであろうか。
有史以来のイスラムの原理に忠実たらんと、21世紀に至っても、なおそれに固執していては、やはりキリスト教文化圏の合理主義には対抗できずに、格差はますます広くなっていくと思う。
彼らは、テロの手段としては、キリスト教文化圏の文明の利器を最大限利用するにもかかわらず、その利用目的がただただ人殺しのみに限定されているではないか。
こんなバカな話があるかと言いたい。
如何なる宗教にも原理主義というのはあると思う。
自らの宗教の本質に忠実たらんとする人の塊は、あっても何ら不思議ではないが、そもそも宗教の本旨は、魂の救済なわけで、それを差し置いて他者を悪し様にののしり、他者の存在を否定するような思考が、宗教たり得ないではないか。
自分の隣に哀れな者がおれば、救済の手を差し伸ようという思考は、あらゆる宗教の基底に流れていると思うが、それを否定するような宗教は、宗教たり得ないではないか。
自分の隣人を助けるという行為は、宗教の壁を乗り越えた、生きた人類の普遍的な愛だと思う。
生きた人間であれば、助けを乞う隣人には、自分の与えうるすべてのものを分け与える、というのが生きた人間の生の魂の声で、別の表現で言えばそれは「慈悲」という言葉だと思う。
ましてそれを日本人が考察するとなると、国際的な知的ゲームに参加するような印象を受ける。
この本は、旅客機がビルに突っ込んで、そのビルの崩壊で逃げ惑った人々の証言をあつめた作品であるが、ここで我々日本人とアメリカ人の根源的な潜在意識の相異が自ずから炙り出されている。
というのは、飛行機がビルに突っ込んで行くのを見て、その場にいたアメリカ人は「これは戦争だ!」と認識している点だ。
パールハーバーと同じだと認識している点である。
「だったら仕返しなければならない!」と自然の感情を抱いた点である。
今年の3月に日本も東日本大震災に見舞われて、多くの被害をこうむった。
中でも東京電力の福島第1原子力発電所の事故は、甚大なる被害を出して、5か月たった今頃ようやく避難地域の解除に漕ぎつけたが、こういう状況下で、我々同胞の愛国心というのは、実に貧弱なものだと思わざるを得ない。
というのも、野菜やその他の食べ物に対する風評被害とか、その地域からの被災者に対する差別とか、随分と自己中心主義の跋扈があちらこちらで散見された。
発災直後、被災地に救援物資を運ぶことさえ忌避したものがいたわけで、放射能汚染地域がそのまま伝染病に犯された地域と同じような感覚で、そこに行くことさえ拒むという行為は、無知と同時に、同胞愛に欠けた、人類愛に欠けた鬼畜並みの思考である。
こういう人間が我々の同胞というだけで、我々の仲間の中に居るというだけで、我が祖国の行く末が案じられる。
世の中には、捨てる神がいれば拾う神もいるわけで、人の苦難を見てその苦難を分かち合おうと言う人もいれば、人の苦難などに目もくれず、我が道を行くと言う人がいるとことは、世の東西を問わないと思う。
9・11事件の時のアメリカ人にも、当然、二種類の人間がいただろうと思う。
しかし、その時の状況を後世に伝えようとした時、人間の良い面を強調して伝えた方が、後に続く人々の為には良いことだし、語る方もそういう話題の方が語りやすいと思う。
人の醜い面、汚い面を言い募るよりも、良い面を語り継いだ方が、精神的にもストレスにならないと思うが、本来、憂うべき事は、悪い面をもった人の存在である。
自分の居るビルが今にも崩れ落ちるかもしれないという時に、我先に人のことなどいささかも顧みることなく、自分さえ助かれば、後のことは知ったことではない、と考える人も当然いると思う。
日本で起きた、東電の福島第1原子力発電所のメルトダウンで、放射能が周辺地域に飛び散ったので、その地域に救援に行くのは嫌だという思考も、突き詰めればこういうことなわけで、自分ではリスクをいささかも負いたくない、ということを正直に言っている。
大勢の中には、こういう人がいることは当然予想されることであって、我が身が何よりも可愛いいというのは、生きた人間の普通の真理であって、それは当然のことである。
しかし、人類の人類たる所以は、そういう自然の摂理、自然の感情、自然の動物的思考を人としての理性で以てコントロールして、自己愛よりも他者を愛する心情に価値を見出している点にある。
そういう考えをもった人を、動物並みの思考をもった人よりも価値ある人間として認めあっているわけで、野生動物並みの自己愛で固まった人には、人としての価値は皆無ということになる。
しかし、自然災害とか、テロの起きた現場で、我先に逃げ出す人が立派な人という評価はあり得ないが、中にはそういう人がいても何ら不思議ではない。
でも、あのビルに巨大な旅客機が突っ込む映像を見て、下から消防士が機材を担いで掛け上がって行く姿というのは、まさしく戦場に向かう戦士の姿そのものであるが、論理的に考えて、あれは太平洋戦争中の日本軍の特別攻撃隊、特攻隊の出撃と酷似しているように思えてならない。
100階以上もあるビルの真ん中あたりに旅客機が突っ込めば、当然火災が起きて、旅客機の燃料であるケロシンが流れ出し、炎は上から下に燃えだすと思う。
そういう状況下で、下から消防隊が制圧に向かうということは、送り出す方の頭の中には、ビルが崩落することも想定していたと思う。
火のついた航空燃料は、上から雨のように降って来る中に、ビルの中にはまだ生存者が一杯いるわけで、消防隊としてもビルが崩落することが判っていても、「危険だから」「自分がやられかねないから」といって傍観しているわけにもいかなかったに違い。
消防隊の指揮官は、恐らく苦渋の選択をしていたに違いなかろうと思う。
ただ個々の消防隊員は、全体の詳しい情報は持ちあせていなかったのではないかと想像する。
2011年に起きた東日本大震災における東電福島第1原子力発電所の事故も、明らかに危機管理の課題を呈しているが、我々の側には、そういう危機管理という意識が満ちていなかったのではないかと思う。
究極の危機管理は戦争であるが、9・11事件に遭遇したニューヨークッ子は、「これは戦争だ!」と直感的に考えたが、我々の被った東電福島第1原子力発電所の事故では、そういう認識は一切なかったわけで、こういう点に初動操作の遅れが現れたに違いない。
この場合、ニューヨークの9・11事件と違って、空から人間がばらばらと落ちてくるわけではないので、危機管理の意識が希薄であったとしても致し方ないが、統治する側に原子力事故の認識が甘かったことは否めないだろうと思う。
日本でもアメリカでも統治、あるいは行政といった場合、トップの人が万能でないことはいうまでもないことで、ある特殊な事例については、ずぶの素人以下のことも往々にしてあると思う。
しかし、そういう状況下においては、何もかも自分で采配する必要はないわけで、適当なべテラン、適任者に、権力を移譲させて、その人の采配に任せればいいわけで、そういうことも政治の絶妙な手練手管である。
判りもしないのに、何でもかんでも自分で采配を振おうとすると、ちぐはぐな対処療法になってしまうわけで、結果として統治の失敗ということに繋がってしまう。
この9・11事件では、アメリカ国民は全て愛国者になってしまったが、アメリカ国民が一致団結してしまえば、国連の決議よりもアメリカ国民の意向が優先してしまう。
あの9・11事件が陰謀だという説の根拠は、このアメリカ国民の意向を一つの方向に集約する、如何にもアルカイダのテロにみせて9・11事件を演出し、アメリカ国民の心を一つにして、イスラム原理主義者の集団を叩き潰す、という目的達成のために仕組まれたという論旨であるが、私個人としてはどうにも今一、信じがたい面がある。
旅客機を乗っ取ってビルに突っ込ませたのは紛れもなく正真正銘のアルカイダのメンバーであって、そういうテロリストにどうしてCIAやFBIが呼応しなければならないのか、甚だ不合理な論理ではないか。
またテロリストが、ビル爆破の手法でWTCのビルを破壊したとして、何故、旅客機の突入と同時にそれをしなければならなかったのか、甚だ不可解ではないか。
ただあのWTCのビルに旅客機が突っ込む映像は、世界の人が見ているわけで、そういう万人に公開された映像に対して、様々な講釈を付けることも、これ又容易なことだと思う。
ビルの崩落があまりにも見事で、誰かに仕組まれたとすれば、その手際は完ぺきに近いが、誰が何のためにそのように手間暇かけた演出をする必要があったのであろう。
2機の旅客機がビルに突っ込むだけで、テロの目的は十分果たしたことになるのではなかろうか。
奇しくも今年は2011年で、あの事件の日から数えて10周年目に当たるので、今年の9月11日にはそれにまつわる記念式典があるかもしれない。

「琉球の星条旗」

2011-08-08 11:53:46 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「琉球の星条旗」という本を読んだ。
サブタイトルには「普天間は終わらない」となっているが、普天間の基地を宜野湾に移す計画が、民主党政権に変わったことで根底から覆されてしまったことの騒動を毎日新聞が一冊にまとめたものだ。
沖縄の基地の問題が、極めて厄介な問題であることに、昔も今も変わりはない。
それは沖縄という島が抱えた根源的な宿命なのかもしれない。
アジア大陸との距離感、太平洋と東シナ海の中の他の島との距離感、そこに住む人々の人間の多様性というようなものを全部ひっくるめて、複雑な宿命を背負っているのかもしれない。
この問題の発端は、普天間という基地の周辺で起きたアメリカ兵による婦女暴行事件や、近くにある大学に軍用ヘリが墜落したことが発端となって、基地の移転という問題に展開したのが端著であるが、沖縄の基地は、これから先も無くなるということはあり得ないように思う。
その理由は言うまでもなく、沖縄という島の地勢的な位置関係にその理由があって、沖縄という島があの位置にあるかぎり、あの島から基地というものは無くならないと思う。
今から66年前、日本がポツダム宣言を受諾することによって、日本の敗戦ということになり、沖縄のみならず日本各地にもアメリカ軍の基地があからさまに置かれるようになった。
しかし、兵器の進化と、国際情勢の推移で、日本内地の基地は日本の独立回復と共に、その大方が規模縮小あるいは撤廃、あるいは自衛隊に移管された。
その結果として、今現在、沖縄に日本の米軍基地の70%が集約されてしまっているが、これは沖縄は今に至ってもたアメリカ軍の占領下にあるということである。
これを別の言い方で表現すると、日本の米軍基地は沖縄以外、価値を失って、存在意義が消滅し掛っているが、沖縄の基地は立派にその存在意義を誇示しているということである。
1945年昭和20年の日本の敗北は、沖縄も公平に本土と運命を共にした。
この時、アメリカ軍は普天間に自分たちの軍事行動の為の基地、飛行場を作った。
敗戦後の日本、6月にアメリカ軍によって敵前上陸された沖縄の住民は、それこそ乞食同然のみすぼらしい姿でその工事を見ていたに違いない。
実は私も、それと全く同じ体験をしているわけで、私の住んでいた愛知県小牧にも、終戦直前に出来た日本陸軍の飛行場があって、そこにアメリカ進駐軍がやって来た。
飛行場をフェンスで囲み、その中ではブルドーザーとパワーシャベルで滑走路の拡張工事をしているのを、みすぼらしい格好の洟垂れ小僧の私が眺めていたわけで、沖縄の状況は目に浮かぶように想像出来る。
沖縄はアメリカ軍が敵前上陸して、アメリカ軍が生の実力で得た土地であるからして、アメリカとしても特別の思い入れがあったに違いなく、戦後27年間もアメリカの治世下に置かれていた。
日本内地がサンフランシスコ講和条約で独り立ちした以降も、約20年間アメリカに統治され続けたということは、当時の国際情勢が大きく関わっていたことはいなめないであろう。
ここで、我々は、沖縄と本土は本当に同じ日本国の国民同士と言えるかどうか、真摯に考えなければならない。
沖縄という島を中心にして物事を考えると、沖縄、琉球の人々は、自分の置かれた地勢的な条件から、中国とも交渉をし続け、日本とも同じように関わりをもって生きて来たわけで、それは彼らが生きんが為の二枚舌外交であったことは否めないだろうと思う。
シナと日本に対して日和見な態度で接しなければ、自己の生存すらも危うかったわけで、それは生きんが為の必然的な態度で致し方なかった。
それが時代の推移とともの薩摩藩の隷下に入り、明治維新で必然的に日本の国民と見做されてきた。
昭和の太平洋戦争では、押しも押されもせぬ大日本帝国の一員と見做されたので、当時の日本政府としては最大限の防衛措置をとったけれども、結果としては敵前上陸を許し、敵の実力により実質的な占領を許してしまった。
敵にすれば、自分たちの実力で奪還した土地であるから、土地に対する執着は普通の占領地に比べれば一段と強いのも当然である。
だから占領した最初に普天間に飛行場を建設した。
恐らく、ブルドーザーとパワーシャベルを酷使して、短時間にあっさりと築き上げてしまったに違いない。
そして周囲をフェンスで囲み、軍事作戦がそこから展開されたであろうが、問題はそれを指を咥えて眺めている沖縄の人々の存在である。
沖縄県平和祈念資料館で購入した資料を見ると、昭和20年の普天間基地の周辺は、畑ばかりで民家などは何もないではないか。
まさしく「ざわわざわわ」と風に揺らぐサトウキビ以外に何もないではないか。
これが街の中に埋没した危険な基地となったということは一体どういうことなのだ。
その経緯を勝手に想像で描いてみるときっとこういうことだと思う。
一番最初に上陸してきた米軍が拠点を築く。それが米軍の基地であった。
基地の傍などに誰も住みたくない。
アメリカ兵がうろうろしている基地の傍で生活をしたいなどと願う人間がいるわけ無いではないか。
よって地価が安い。その安さに惹かれて貧乏人が集まって来る。
貧乏人はもともと根性が卑しいので、様々な名目の補償金を目当てに政治的な発言で金をせしめる。
その心卑しき人々は、最終的に、基地撤廃を叫べば天文学的な金をせしめることが可能というわけだ。
沖縄の人にとってはこの地に建設的な産業があるわけではなく、無から有をなさしめるには、金のあるところにタカルという選択肢しかないわけで、究極のタカリの構図が出来上がったと見做していいと思う。
基地に存在意義があればある程、基地撤廃のスローガンの付加価値は上がるわけで、軍事的にも、安全保障の面からも、地勢的な面からも、そこにある基地の存在意義が高ければ高いほど、その対価としての付加価値は上がる。
そこにあるのは、基本的には、如何に日本政府から地域振興を促す補助金を引き出すかという、タカリの乞食根性ということになる。
結果として、日本の敗戦、沖縄にアメリカ軍が上陸して以来、半世紀以上も時が経過すると、敵の航空基地の回りも、日本の住民の真っただ中に埋没してしまって、住宅地の中の基地ということになってしまった。
アメリカ軍にとっても、周辺住民にとっても、基地の移転ということが切実な問題となって来たので、政府はその目標に向けて営々と努力を重ね、移転先の住民と、アメリカ軍と、政府の関係者の間で、万全ではないかもしれないが三者三様に妥協を重ねて、苦渋の選択として辺野古の沖合に移転するという案が出来ていた。
それを民主党政権が出来上がった途端に、鳩山首相が「県外移転」というとんでもないアドバルーンをぶち上げたものだから、折角、合意が出来上がっていた辺野古への移転という話が、何処に吹き飛んでしまった。
この鳩山首相の「普天間を県外に移転する」という話は、鳩山首相自身、何の根拠もないまま、ただただ人気取りの方便でぶち上げたアドバルーンであったので、あらゆる方面で大混乱をきたしたが、本人は何の痛痒も感じていない節がある。
ただただ自らの人気取りで、大衆受けする文言を撒き散らしているが、こういう行為は政治家である前に人間失格だと思うし、無知そのものだと思う。
「普天間基地が街中にあって危険だから何処かに移転させる」という問題を前にしたら、その経緯を事前に調べて、地元から米軍のスタンスまで克明にオぺレーション・リサーチをして、もっとも適合する言葉を探して発言するのならば整合性を認めることが出来るが、ただの思いつきで、大衆受けする綺麗ごとをぶち上げても、それは混乱を招くだけで何の進展もありえない。
事実、その通りの軌跡を歩んでいるわけで、綺麗ごとの無責任な言葉を並べ立てているから降板ということになってしまったではないか。
彼は政治家としての資質を持ち合わせていない。
何処までいっても金持ちのオボッチャマで、人に担がれてあっちに行ったりこっちに行ったりするだけの神輿であって、自らは何もすべきではなく、してはならない立場であり、してはいけなかったのである。
にもかかわらず、律義な正義感を振りかざすからこういう事態を招くわけで、政治家として何の発言もせず、ただただにこにこして、金さえバラ撒いておれば、それで良かったのである。
政治も判っていなければ、外交も判っておらず、まして軍事となるとイメージさえつかめていないわけで、こういう人に国家の舵取りが出来るわけがないではないか。
現状を説明しても、今、目の前にある現実の重さ、生の状況を肌で感じる感覚が最初から欠落しているのて、あるのはただただ綺麗ごとの絵に描いたような空想のみであって、現実を直視しても何を見るべきか判っていないため、こういう陳腐な行動になるのである。
そもそも「普天間基地が街中にあって危険だから何処かに移転させる」という課題を真剣に考えるならば、その場の思いつきでどうにかなる問題ではない。
だからこそ、自公民政権の時に13年も掛けて辺野古移転案を検討して、どうにか妥協案を作り上げて、これからという時に、民主党政権に変わった途端、その妥協案を御破算にして、又最初から作り上げるなどということがありうるわけがないではないか。
民主党政権全体として、そういうことが判らない、理解できない、公約だから自公民政権の作り上げた素案をひっくり返す、それを乗り越えて新しい案で行くと考えていたとするならば、政治家足り得ないし、政治の空転を繰り返すのみである。
「普天間基地を何処かに移す」ということは、日本だけの問題ではなく、アメリカも深く関わっているうえに、そのアメリカの関わりも軍事と密接に関連しているので、軍事音痴の民主党が適切に対応できないことは火を見るより明らかなことである。
そういう周りの環境がさっぱりわかっていない民主党に成せる業ではないことは言うまでもない。
そもそも、その事を真剣に考えているとするならば、最初から戦略的な思考で綿密なオペレーション・リサーチをして、組織的に思考を積み上げて、結論を導き出さねばならない。
自公民政権ではそれに13年を要したわけで、それをほんの思いつきで根本から変えるなどということがあるわけがない。
事実、アメリカは最初の案からいささかたりとも譲歩する気がないので、最終的には辺野古に戻ってしまったわけだが、収まらないのは地元である。
地元といえば、やはり本音では基地など無いに越したことはなかろうが、有効な金儲けのチャンスがない以上、地域振興策という補償金との抱き合わせがあれば、タカリの意味合いが出るわけで、そういう前提でしぶしぶ合意に至ったに違いない。
内閣総理大臣が「最低でも県外に持っていく」と言えば、それまでの合意が全て御破算になるわけで、それは今後のタカリの付加価値がより一層高価になったということである。
鳩山総理が出来もしないことを大見えを切った代償は大きな国家的損失になったことは明らかであるが、鳩山由紀夫はその事をどう考えているのであろう。

「9・11」

2011-08-06 10:11:04 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「9・11」という本を読んだ。
サブタイトルには「あの日のニューヨークは……」となっていた。
静岡放送の記者が、あの事件に遭遇した時の記述であるが、いささか臨場感に欠ける。
放送局の記者としては文面から臨場感が迫ってこない。
放送記者であって、ものを書く方は苦手であったかもしれないが、その場にいた人間のレポートとしては、いささかもの足りなさを感じる。
というのは、その内容の力点が、放送記者としての立場を優先させる余り、テロの本質や、アメリカの本質に迫るものが少ないので、そういう印象を受けるのかもしれない。
しかし、この本を読んでいても、戦後の日本人は実に不思議な人種だと思う。
というのは、人が生きるということは、本質的に生存競争を生き抜くということであるが、戦後の我々はそういう認識ではなく、世界には悪と善があって、近代的な先進国は善の世界を築き上げて悪の世界を否定してしかるべきだという論理に陥っている。
だから日本人の視点から見て、善と悪が往々にして入り混じってしまって、昨日まで悪であったものが一夜明けると善になり替わるということもしばしばあるようだ。
この筆者は、世界貿易センターのビルが崩れ落ちるのを目の当たりにしながら「これは戦争だ!」と思ったと自ら記している。
しかし、ブッシュ大統領が同じ言葉を発すると、この大統領が瞬間的に感じた同じ思いを否定的なニュアンスで捉えて、さも好戦的な思考かのように報じている。
ニューヨークの世界貿易センターに2機の旅客機が突っ込んで、ビルが崩れ落ちるのを目撃したアメリカ人は「これは戦争だ!」と思ったし、この本の著者も同じ思いをした。
ところがその一瞬後の思考となると、アメリカ人は「そのテロリストを叩け」という思考になったが、日本人の場合、この期の及んでも仕事優先の思考に至ったわけで、まさしくワーカホリックそのものである。
そこには殴られたら殴り返せという思考、発想は微塵も存在していない。
人が生きるということは生存競争を生き抜くことなわけで、アメリカがああいうテロ攻撃にあえば、アメリカ国民、アメリカ市民、アメリカの人々は、当然のこと「敵を倒せ!」という心境に陥ることは当然のことだと思う。
それでこそ普通の人間であり、自然の感情の発露であって、自然人の真の姿だと思う。
人間の自然のままの姿というのは極めて赤裸々な闘争心に満ちているので、それを別の表現で言えば、報復の連鎖反応が何時まで経っても収集しない、ということになって、無限の殺し合いが継続するということになる。
それでは人類の消滅に至ってしまうので、あまりにも赤裸々な闘争心は、教養知性で覆い隠しましょう、というのが、人類の智恵として認知されてきたのではないかと私は考える。
しかし、人間がこの地球上で生きていくということは、何処まで行っても生存競争であることに変わらないわけで、その基底の部分には人類の潜在意識としての闘争心が脈々と流れている。
この地球上で多民族が共存共栄しようとすれば、当然のこと自己主張があるわけで、それは国益であったり、民族益であったり、ナショナリズムであったりするわけで、生存競争の場で自己主張するには、どうしても力の誇示をしなければそれが通らない。
戦後の日本人は国際連合というものに非常に価値を置いているが、国際連合などというものは、そんなに権威のあるものでもなければ、正義の具現でもないわけで、ただ単なる仲良しクラブに過ぎない。
そもそも誕生の経緯からして不純な動機で、第2次世界大戦の戦後処理の機関であったわけで、連合軍側が如何に勝利の線引きをするか、というのが発足の動機であった。
最初から正義を掲げたものではなく、領土配分を計った話し合いの場に過ぎなかったはずである。
しかし、第2次世界大戦の後では「もうああいう悲惨な戦争はご免こうむりたい」という願望を人々が共有したいと願ったので、国際連合もそういう線に沿った平和活動に比重が移った。
発足当時の国際連合には米・英・ソ・にフランスと中国が入っていたが、その後の経緯からすれば、中国は元々は中華民国であったものが中華人民共和国に替わり、ソ連はロシアに替わったということは、全く整合性が無いにもかかわらず、国連としては何の弁明もしていない。
つまり、この国際連合という仲良しクラブには、入会規定というものが無いわけで、その意味では日本の入会もドイツの入会もその根拠は極めて曖昧なままだということが言える。
こういう国連を、戦後の我々はまさしく正義の具現化でもあるかのように、真から信じようとしているが、それはイワシの頭を拝むような極めて根拠の薄い行為だということに気が付くべきだと思う。
この本の中で記述されていることで、9・11の翌年、アメリカが正にイラクを攻撃しようとしているとき、広島市長はブッシュ大統領にその攻撃を自重すべく手紙を届けに行ったと書かれている。
その手紙の内容たるや、「我々は仕返しをしなかった、アメリカも耐るべきだ」というものだからその不甲斐なさにはあいた口が塞がらないではないか。
広島の原爆慰霊碑には「もう二度と過ちは繰り返しません」となっているが、この発想を我々はどう考えたらいのであろう。
やられたら遣り返す、足を踏まれたら踏み返す、という人間としての自然の生き様を全否定するわけで、これでは生きた人間を愚弄する思考ではなかろうか。
やられたら遣り返す、足を踏まれたら踏み返す、殴られたら殴り返す、これが生きた人間の自然の有り体であって、仕返しを自重するなどということは神や仏のすることで、生きた人間のすることではない。
我々は生きた人間であって、口で美味しものを食べ、下から糞として出し、日々、身の周りのことに一喜一憂しながら喜怒哀楽の中で生かされているからこそ、自然のままで居れるのである。
人間が自然のままでいるからこそ、泥棒がいたり、人殺しがあったり、痴漢がいたり、汚職する役人がいたり、被災地にボランテイアーとして活躍する人がいたり、老人介護に精を出す若者がいたするわけで、アメリカ軍のアフガンやイラクの攻撃も、そういう生きた人間のある種の生きんが為の行為に過ぎない。
殴られたから殴り返す。理不尽な行為に対する仕返し・報復というのは、あきらかにそういうテロに対する生きた人間の生きている証であって、それをしない人間は、もう既に精神的に死んだ人間と同じだと思う。
広島と長崎に原爆を投下されて、「もう二度と過ちは繰り返しません」などと言っているような人間は、当然のこと、もう既に死んだ人間の泣きごとなわけで、こういう死んだ人間の言うことなど、生きた人間には何の意味も成さないわけで、「馬の耳に念仏」という感である。
「殴られたら殴り返す」という言葉を、文字通り暴力の応酬と捉える人がいたら、これ又、イマジネーションの乏しい人と言わなければならない。
66年前の暑い夏に広島に落とされた原子爆弾に対して、何故に我々の側が「もう二度と過ちは繰り返しません」となるのだ。
「もう二度と原爆は使わせません」というのならばまだ文言に整合性があるが、我々の側が「過ちを繰り返しません」という文言は一体どこから出てくる言葉なのであろう。
アメリカとの戦争では、我々は罠に嵌められたではないか。我々の側が被害者ではないか。
被害者の側が謝罪すると言うことは一体どういうことなのだ。被害者だからこそ謝罪するのか。
原爆を落とされた側が「もう二度とく過ちは繰り返しません」というのもおかしなことだが、そこの市長がアメリカ大統領に「9・11事件の仕返しをするな」と進言するというのも愚劣極まりない僭越な行為だし、不正常な行為だと思う。
市長ともあろう者がこういう行為に出るということは、本人自身が、人間が生きるということの真の本質を知らないということだと思う。
生存競争の中で生き抜くということを真剣に考えたことが無いということだと思う。
思えば、我々は戦後自分で自分のことを考えたことが無いわけで、常にアメリカと抱き合わせでものごとを考えて来たので、講和条約で独り立ちしたとは言うものの、それは名目だけであって、アメリカという後見役の居ない場では何一つ決らめれなかった。
石原慎太郎氏はアメリカに対して辛口の評論を成しているが、彼はその分アメリカの本質を見抜いているので、アメリカに対して急所を突くもの言いが出来るのであろう。
戦後と言わず戦前も含めて、日本人はどうしても表層の現象に流される傾向があって、ものの本質をえぐり抜いて理解するというよりも、表層の動きに付和雷同して時流に翻弄される傾向があるが、これは言わるゆる大衆に迎合するという意味で、非常に軽薄な思考である。
戦争と平和、どちらが良いかといえば、答えは問う前から判っているわけで、まさしく愚問という他ないが、こういう禅問答をいくら繰り返しても物事は進化しない。
進化はしないがそれを騒ぎ立てることで売文業者は糊塗を凌ぐことは出来るので、大勢の文化人がその禅問答に参加することで禄を食んできた。
そういう不毛の議論をいくら重ねても、実のある答えは無いので、議論は延々と堂々巡りをすることになるが、その間、世界の情勢からは立ち遅れてしまうことになる。
この本を読んでいてもう一つ引っかかるところがあった。
それは仮に中国の農村の映像がテレビで報じられているとすると、日本人ならばその映像を見て、「貧しそうだが精神的には我々よりも豊かかもしれない」という印象を持つ。
ところがアメリカ人ならば「まあ可愛そう。何とか助けてあげなければ」という発想になるので、これがトラブルの元だと述べている。
自分よりも貧しいものを見たとき、その相手を「助けてあげなければ!」という発想を、この著者は要らぬお節介と見ているようだが、この要らぬお節介こそ人間の本質的な愛だと思う。
戦後の我々の平和教育というのは、この人間として心の内側から湧き出てくる他者の苦難に対する要らぬお節介を全否定したところに、倫理観の崩壊が潜んでいるものと考えざるを得ない。
戦後の平和教育の中で行われてきた中途半端な個人主義を、要らぬお節介を排除する形で蔓延化したわけで、それは別の言い方で表現すればプライバシーの確立でもあったわけだ。
プライバシーを声高に叫べば、要らぬお節介の入り込む隙は無くなるわけで、人のことに構わずほっといてくれという言い分に繋がる。
そういうわけで、アメリカの立場からキューバ、ベトナム、イラク、イラン、アフガンという国々を見ると、こういう国々は見るからに貧しいわけで、このまま放置しておくと共産主義の国になってしまうかもしれない、という危惧もあって、援助しなければということになる。
ここでのアメリカの行為がそれこそ要らぬお節介なわけで、アメリカの気高い慈悲の精神が、現地の人々の精神を逆なでしてしまうのである。
9・11テロのテロリストの言い分でも、アメリカの繁栄を恨んでいるわけで、「アメリカがイスラム文化圏の人々を抑圧したからテロをするのだ」という言い分になっているが、それはただの整合性を欠いた言い訳に過ぎない。
アメリカにもイスラム文化圏の人々は一杯いるわけで、サダム・フセインやオサマ・ビンラデインの言い分は整合性を欠いているが、アメリカはアメリカで要らぬお節介を自分たちの大儀だと思って貫き通している。
この様相は正真正銘の生存競争の実態であるので、そこには正義とか善という綺麗ごとの価値観は入り込めない。
あるのは生きるか死ぬかの修羅場の駆け引きだけであって、負けた側が「過ちを犯しません」などという陳腐な宣言の入り込む隙は全くない。
戦争に負けるということは、奴隷にされても仕方がないことで、にもかかわらず我々は生かされたということは、ひとえにアメリカの慈悲であったのである。
「戦争に負けた方を奴隷にしてはならない」ということは国際条約に書かれているが、国際条約などというものは、元々何の拘束力もないわけで、結局は巨大な軍事力の前では無力であって、その部分が熾烈な生存競争の修羅場だと言っているのである。
そこでは正だとか邪だとか、善だとか悪だとかいうもっともらしい倫理観は何の価値もないわけで、あるのは自然人の感情のみである。
人間が自然人であるということは、好むと好まざると、戦いを避けて通れないということであるが、戦後の日本人は、このことを亡失してしまって、諍いを避けて通ることを習い性としてしまった。
広島と長崎に原爆を落とされたので、本来ならば「半世紀後にはワシントンとニューヨークに原爆を落とそう」というのが自然人の自然の感情だと思う。
殴られたら殴り返すのは自然人として当然のことで、アメリカ人も当然、人間の自然の思考として、日本人が原爆投下の仕返しをすることを想定して、そうあってはならじと戦後の日本人を愚民化することを計ったのである。
このアメリカの日本人愚民化政策は見事に功を奏して、戦後の我々は見事にアメリカの妾と成り下がってしまったのである。
日米安保はアメリカにすれば瓶の蓋であったわけで、日本が独自に戦力をもつことを見事に防いだことになり、アメリカの日本愚民化政策の見事な成功例である。
原爆を落とされた側が何故「もう二度と過ちは犯しません」と謝るのか甚だ不可解だが、戦後の我々は、それに何の疑問も抱かずに、アメリカとハートナーシップなどと言って有頂天になっている姿というのは、世界的な視野で見れば陳腐そのものではなかろうか。
これは突き詰めれば、我々の政治感覚の未熟さの表れであって、我々日本民族というのは四周を海で囲まれた島国なるがゆえに、異民族との接触が極めて稚拙で、他者への説得と自己PRが極めて下手なので、異民族に言葉で翻弄されてしまうのである。
先の戦争、太平洋戦争は、中国人の宋3姉妹、特に次女の宋慶齢と三女の宋美齢が、アメリカのルーズベルト大統領の説得に成功したから始まったようなもので、我々はシナの二人の女に国土を灰にされたようなものである。
あの戦争で、我々の側は、アメリカと開戦すべきかすべきでないか、突き進むべきか避けるべきか、迷いに迷っていたが、その同じ時に、シナの二人の女がルーズベルト大統領を一生懸命説得をしていたわけで、結果としてルーズベルトは日本の全権大使の言うことよりも、シナの女の話を聞いたわけだ。
日本人の話というのは、このように信用も無ければ説得力も無かった。
外国人、つまり日本人以外の人間は、我々をマスとして捉えているので、我々がマスとして一塊になった時、彼らは異様な恐怖感を我々に対して抱くようだ。
俗に「日本の常識は世界の非常識で、世界の常識は日本の非常識」と言われているが、この常識の乖離を世界は非常に恐れているのかもしれない。
第一次世界大戦が終わったあとで国際連盟が出来た時、日本は人種差別の撤廃を提起したが、新興国の日本がそういう堤案をすること自体、世界は驚いたに違いない。
人種差別の撤廃は、その時点では如何にも先鋭的な提案で、他の先進国にはそれぞれ利害得失が絡まっていて、時期尚早ということで却下されたが、こういう提案をして来ること自体、彼らには恐怖であったに違いない。
そこにも「日本の常識は世界の非常識で、世界の常識は日本の非常識」があったわけで、日本が戦争に負けても、「過ちは二度と起こしません」と反省するのも、それに通じる何かがあるのかもしれない。
だから広島市長がブッシュ大統領に「仕返しを思いとどまってくれ」と言う論理も、日本の常識と世界の常識の乖離の延長かもしれないが、殴られても殴られたままで我慢するというのも、何とも情けない生き方ではなかろうか。
自然界に生きる自然のままの人間としては、唾棄すべき類の人間と言えるのではなかろうか。
人間としての誇りを投げ捨てて、ただただ自己の生命を延命させるだけの奴隷根性丸出しの生き様が、世界から称賛されるわけがないではないか。
国の為、日本民族の為、同胞の生存のため、敵艦に飛行機ごと突っ込んで行く特攻隊の精神も、それこそ日本の常識が世界の非常識であった顕著な例であろうが、こういう事例があったからこそ、世界の人々は日本に対して一目おいて、敬意を表していた。
ところが、名誉も誇りも失った日本人であったとしたならば、奴隷として徹底的にこき使おう、という発想に至るのも当然のことである。

「戦う!サバイバル」

2011-08-05 10:52:37 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「戦う!サバイバル」という本を読んだ。
サブタイトルには「最悪から身を守れ」となっているが、要するにサバイバルのハウツーものである。
今年の3月11日の東日本大震災と、それに関連した東京電力福島第1発電所の事故が念頭にあったわけではないが、ついつい無意識のうちに関心がそういう方面に向いていたのであろう。
話は飛躍するが、7月23日、中国の高速鉄道鉄の事故の報に接して、新たに日本の安全ということに思いが至った。
日本と中国で、同じ鉄道という舞台で話を展開すると、日本ではあの震度9にも及ぶ東日本大震災の揺れ体験しても、走行中の列車には安全装置が機能して、見事にその場で停車して、一人の怪我人も出さなかった。
東北新幹線は創業した直後で、当初はさまざまな初期トラブルに見舞われたが、あの震災に関しては見事に安全装置が機能して、本来の性能を発揮した。
震災の被害の大きさの隠れて、その新幹線の安全性の素晴らしさは、一言もメディアで報じられることはなかったが、中国で事故が起きて、私個人としてはそのことの意義が覚醒された。
事故というのは、現実に起きた場合、その被害の状況は克明に報道され、事故に至る経緯が克明に解明されるが、それはそれで事故の原因究明のためには必要不可欠なことではある。
しかし、安全装置が完全に機能して、事故に至らなかったという事実も、極めて重要なことだと思う。
事故というのは、その安全装置が想定された状況で完全に機能しなかったから事故に至るわけで、それが当然だと言って安易に考えてはならないと思う。
その意味で、東京電力の原子力発電所の事故も、詳細に時間経過で追ってみると、原子炉自体は地震の振動を感知して緊急停止している。
つまり、安全装置は規定通り作動したということが言える。
地震による津波がなければ、ここで原子炉を冷却する機能が自動的に作動する筈であったが、この時は地震と津波で、その炉を冷却すべき冷却装置が破損してしまったので、結果的にメルトダウンにまで行ってしまったということだと思う。
ここまでは原子力発電所の安全装置は正常に機能していたといえるが、地震の振動と津波が炉心を冷やす冷却装置を破壊してしまったので、結果として最悪の事態を招いてしまったということになった。
ここまでは確かに天災と言えるであろうが、その後の対応となると明らかに人災の意味合いが大きくなってしまう。
地震とそれに伴う津波は明らかに天災であるが、その天災に如何に対抗措置をとるかということは、人為的な思考の発露が大問題になるわけで、そこを克服すべきテクニックがサバイバルそのものなのであろう。
新幹線の安全は地震の振動を感知して、列車がそこで止まれば一応の安全装置の機能は充分に機能したと言えるが、原子炉の場合は、運転を止めただけではまだ不十分で、その後で炉を冷却するという作業が残っていたのである。
その部分の機能が地震の振動と津波で破壊されてしまったので、結果として最悪の事態にまで至ってしまったわけだ。
この原子力発電所の人災にあたる部分は、東京電力という会社をはじめとして、政府を巻き込んだ組織論に行き着いてしまうわけで、技術的な問題よりも、組織としてのメンツの問題に成り変わってしまっていると思う。
原子炉がメルトダウンしたということは、もう完全に戦闘態勢に入ってしまっているわけで、安全問題を超越してしまっているように思う。
メルトダウンしてしまった以上、後は放射能という敵と如何に闘うか、という問題意識で掛からねばならないと思うが、民主党政権はそういう発想には至っていなかった。
牛の食べる藁にまでセシウムが入っているとか、これから取り入れる稲までセシウムが入っているかどうかという問題は、完全に放射能との戦いという概念で捉えなければならないと思う。
この問題意識の持ち方で、ただのトラブルと考えるか、放射能との戦争と考えるかの違いになるが、我々は戦後66年間も真の危機管理ということを考えたことがないので、これを放射能との戦争という認識に至らないのである。
原子炉が爆発したとしても、それは水素爆発であって、敵が銃器をもって攻め込んでくる状況ではないので、何処まで行っても事故という認識でしかない。
この危機管理の認識の甘さが、今日の事後処理の遅延に繋がっていると思うが、民主党政権はとにかく国民に金をバラ撒くことを政治と勘違いしている向きがある。
野菜の出荷停止、牛乳の出荷停止、牛肉の出荷停止ということは、すなわち補償金をバラ撒くということで、結局のところ、金で国民の安全安心を解決するということに直結している。
ならば「消費者に放射能に汚染された食品を黙って提供すべきか」となると、そうではないが、放射能に汚染されたからと言って、食べて直ぐに死んでしまうというわけではないので、その安全性が極めて重要なポイントになる。
ところが、その部分ではまだ確かな数値が出ていないわけで、ただただ危機感を煽っているだけのように見える。
危機管理を最高度に煽っておけば、補償金の供出には立派な大義名分が成り立つわけで、民主党は良い政治をしたという評価に繋がりやすい、
人間の健康にとっては、微量な放射能であったとしても、有るよりは無い方が良いわけで、「将来、子供の成長に心配がある」と言われると反論のしようもなくなるが、こういう不毛の議論を前提として金をバラ撒く思考というのは、ある意味で無責任極まりない発想だと思う。
ただただ人気取りに過ぎないように思えてならない。
「地震、雷、火事、親父」というのは我々の古来の認識からすれば天災なわけで、天災にあった被害者は気の毒ではあるが、それは天命という認識でもって、潔くあきらめることも大事なことだと思う。
「気の毒だから皆で助け合わねば」という発想は、素晴らしいことではあるが、あまりにも理想主義的で綺麗ごと過ぎる。
津波という天災の被害に遭うという点についても、ある程度の自己防衛の余地はあったわけで、古代の古老の言い伝えを守っていた集落は被害をまぬかれた例を見ても、そういう努力をした人もしなかった人も一律に「可哀そうだから金をバラ撒く」という論理はあまりにも綺麗ごとすぎる。
人の死については如何なる理由でもこじつけが可能だと思う。
病気で畳の上で死んでも、「国家がその病気の研究を怠ったから国家の責任だ」という論理も成り立ってしまうではないか。
このように「風が吹くと桶屋が儲かる」式の論理の目的は、国からカネをバラ撒かせることにあるわけで、その為にはどんな不整合、非整合、つじつまの合わない論理でも罷り通ることになる。
良識ある社会ならばそういうことを通らせてはならないと思う。
人間が生きる過程においては、あきらめということも大事だと思う。
物事には人間の人知の及ばないことも多々あるわけで、そういう出来事にああでもないこうでもないと屁理屈をくっつけて、国家から金をバラ撒かせようという発想は、人間の驕りだと思う。
人が生きるということは、如何に自己防衛をするかということに尽きるわけで、その事はこの本のタイトルそのままでサバイバルそのものだ。

「現代中国女工哀史」

2011-08-03 07:45:54 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「現代中国女工哀史」という本を読んだ。
著者は中国系アメリカ人のレスリー・T・チャンという女性であるが、ウオールストリートジャーナル紙の記者というだけあって非常に優れた筆力である。
昨年の1月に発刊された本で、まだ新しくその頃から大きな本屋さんの書棚には並んでいた。
手にとってみて、読みたいなと思っていたが、金2800円が年金生活の身には容易ならざる金額で、とうとう自分の金を投ずることはなかった。
英語圏で活躍している中国人女性には実に素晴らしいジャーナリストがいる。
数年前に読んだ『マオ』、あるいは『ワイルド・スワン』のユン・チャン女史などもそういうグループに入るのであろうが、作家という枠組みを超えて、中国の国益を擁護するという意味で、英語圏で活躍する中国女性の存在というのは実に目を見張るものがある。
この本の標題も日本語では『現代中国女工哀史』となっているが、原題は『Factory Girls』であって、我々のイメージからすれば、やはり女工哀史がもっともマッチした訳なのであろう。
「女工哀史」というフレーズから、私の個人的なイメージとしては、どうしても「ああ!野麦峠」を思い浮かべるが、21世紀の女工はとてもそういう時代とは様変わりしている。
しかし、その様変わりの現実の中にも、昔から全く変わらない部分と、大きく変わった部分が混在しているところが非常に興味あるところである。
この本、実に分厚く、読みでのある本であったが、その中には今の中国の現実が余すところなく記されている。
現実の今の中国の人々の本音の部分がそのまま記されているが、その姿は、やはり中国人固有の生き方を踏襲しているように見える。
やはり21世紀の中国の人々も、過去5千年の歴史を引きずりながら生きているように見えてならない。
その内容の大部分は、香港、深圳の近くの東莞という町の工場で働く女子工員に密着取材して、彼女たちの生態から今の中国の普通の市民の深層心理を解き明かそうとしたものである。
東莞という町そのものが、改革開放政策の流れの中で、経済特区に指定され、外国資本による新しい産業基盤の整備にあてがわれた場所なので、完全なる市場経済の自由競争の場になっている。
その分、人々は、自分の才覚で以て生存競争を生き抜く修羅場を演じているわけで、それは我々の国が明治維新から太平洋戦争に敗北するまでの経済発展をわずか半世紀の間に濃縮したようなものである。
我々が100年掛けてやってきた事を、わずか25年でそれと同じことをなそうとしているわけで、そのひずみは当然これから噴出するに違いない。
「女工哀史」というフレーズからは、私と同世代のものならば、「ああ!野麦峠」とか「蟹工船」を思い浮かべるであろうが、21世紀の中国の女工哀史は、それとは全くイメージが異なっている。
第一、携帯電話を皆が持っていて、それで情報交換しながらよりよい収入を目指して次から次へと転職するというのだから、我々のような思考のシーラカンスではついていけない。
全体の傾向としては、我々が過去に歩んできた道と同じに見えるが、その道を取りまく周囲の状況が全く異なっているので、同じに比較が出来ない。
ただそうは言うものの、この本を読んでいても、我々日本人と中国人では、ものの考え方が根本的に異なるなということは実感として迫って来る。
我々、日本人の戦後の復興期においても、中学を出たばかりの若年労働者の需要というのは、産業界に根強くあったわけで、それを学校も企業も、温かく送り出し温かく迎え入れたわけで、当人たちも最初の就職先で出来る限り努力することが暗黙の了解事項として横たわっていた。
ある意味で、社会全体がそういう「金の卵」を大事にして、家庭も、学校も、企業も、そういう人々を温かく見守ったと言える。
確かに、あの時期の労働が世間一般に過酷であったことはいなめないであろうが、当時はそれが当たり前であったわけで、それも徐々に解消されていったが、こういう人たちの待遇改善が結局のところ人件費の高騰という形で今跳ね返って来ているわけで、それが日本の工場が国内で成り立たないようになった最大の理由でもある。
その余波が、中国の東莞という町に代表される経済特区という形でシフトして行ったのである。
日本の戦後の復興期の「金の卵」と称せられた若年労働者の在り様と、この本で描かれている「ファクトリー・ガール」の在り様には、見事に民族の本質が露呈してしまっている。
この本の中には、日本のかつての「金の卵」に関するに記述は一言もないが、その実態を知っている我々からすれば、その対比は実に安易なことだ。
この本に描かれているファクトリー・ガールは、あどけない少女でありながら、最初から金儲けの階梯をかけ登る腹つもりで故郷を後にしているが、その動機は個人の野望を満たす為と割り切っているので、少しでも条件の良い職場があれば、安易に転職することを厭わない。
ところが我々の方の「金の卵」たちは、恐らく家を出るときには家族から「つらいことがあっても我慢するのだよ。主人には尽くしなさいよ」と言われて家を出てきていると思うが、その背景にある心情は日本人の連帯意識であろうと推察する。
ただただ自分の至福だけを追い求めるのではなく、社会に対する奉仕の精神、感謝の念を思い描いて生きよということを諭していると思う。
中国人は、同じように若い世代であっても、自己の意思で物事を決めているようだが、我々日本人は、純粋に自己の意思を貫き通すには、いくばくかの逡巡が残るわけで、そう単純に竹を割ったようには割り切れない。
我々は自分一人と思っても、自分の回りには家族や、友人や、会社の同僚や、学校時代の友達や、そういう目に見えない絆で結ばれていることを何となく意識していて、それらを綺麗さっぱり捨てきれない。
ところが中国人は、何処まで行っても自分は自分で、自分以外は何も信じられないわけで、ある意味で究極の個人主義に徹しきっている。
我々の発想では「友達の友達は友達だ」というフレーズに何の違和感も持たないが、彼らはこういうフラットな思考は決してしないようで、「個の確立」というと我々のイメージでは、自己の主張を確実に持った、自立した人格というイメージになりがちであるが、これは自分と相手を極端に際立たせる思考であって、相手と敵対することを是認した発想だと思う。
つまり、相手との差別化を毅然と宣言しているわけで、彼らの使う言葉の端々に、この差別意識が顔を覗かせている。
そのもっとも顕著な例が、地方の農民を蔑視する感情で、これは全ての中国人に共通して垣間見れることであるが、地方出身の農民を明らかに蔑視している。
あの中国の暗黒の10年と言われる文化大革命のとき、都会のインテリー層を下放と称して地方の農村に送り込んで、そこで農作業をさせた。
つまり、地方の農村で生きること自体が懲罰になっているわけで、こんなバカな話があるものかと私は思う。
確かに農作業というのは過酷な労働で、肉体労働をしたことのない都会のインテリーには、大いに懲罰の意味があるであろうが、ならば先祖代々その地で農業を営んできた人たちは、牢獄の中で生きていたということだろうか。
文化大革命の前に中華人民共和国が誕生した時に、都会の人と農村の人を分けて戸籍を作るという発想そのものが、完全なる差別意識の具現であって、民主主義を標榜する共産主義のテーゼと完全に矛盾しているではないか。
都会と農村、この間には同じ民族、同じ国民、同じ同胞という意識は最初から成り立っていないわけで、この二つの人間集団は、まるで外国人のような感覚で語られている。
私も本の前の人間という意味で、中国の実態を知る由もないが、この本から窺い知る範囲では、21世紀の今日においても、中国の田舎というのは2千年前と大して変っていないようにも見える。
確かに、テレビはどんな田舎にも浸透しているようだが、田舎にはそもそも最初から仕事が無いわけで、人々は何もすることがなく、ただ昼間からテレビを見ているというのだから、都会の人から蔑視されるのも、むべなるかなという部分はある。
2千年前の生活に、文明の利器としてのテレビだけが入り込んできたので、物質的な欲求は際限なく浸透して、それに伴う情報も人々の欲求を大いに刺激したにちがいない。
この道は、かつての日本が歩んだ道と同じであるが、我々は、それを自分の力量に応じて自らの欲求を満たしてきたが、中国人は自らの力量をいささかも勘案することなく、目一杯、一足飛びに実現すべく足掻いているようにみえるが、それはあまりにも過度な反応だと思う。
日本でも中国でも、15、6歳の若年労働者の思考が、その後の国の発展に大きな影響を与えるようになると思うが、その部分で余りにも個人主義が際限なく浸透すると、社会の粘着力が失われて、社会が壊れてしまうと思う。
我々の経験した戦後復興期の「金の卵」と言われた世代も、今はリタイアーの時期に達しているが、この人たちが戦後の日本の経済を立ち上げた主役であったことは間違いない。
この人たちがあの時代に頑張ったので、日本は高度経済成長を達成し得たのであるが、それは同時に人件費の高騰を招き、結果として今の中国に工業生産の基軸がスライドしたということだ。
世の中というのは、内側も外側も同時に動いてしまうので、定点的に観測することが難しいわけで、そこを見極めるべき立場のものが、本来、学識経験豊富な知識人というものでなければならないが、こういう人たちは須らく学校秀才なわけで、実務においては何の役にも立たないのが現実である。
この本の著者が、一人の取材対象者の実家にまで密着取材で乗り込んでみると、そこに展開されていた状況は、まさしく2千年前の人間の生活と同じことが展開されていたのである。
狭い耕地にしがみつき、村の人間は全部親戚同士で、農業といいつつ自分の家族の食いぶちを得るのが精一杯の有り様で、貧乏人の子沢山の子供は、他の場所に出稼ぎに出て、その仕送りがなければ一族郎党が餓死寸前にまで落ちてしまうという有り様なのである。
家を出た子供が帰省しても、本人には家の仕事も村の仕事も何も無いわけで、結果として1日中何もせず、ただテレビを見て過ごすだけで終わってしまう。
何だか自分のことを言われているような感じがする。
しかし、こういう状況の中に携帯電話が入り込み、パソコンが入り込むとなると、我々の想像も出来ない社会になることになるが、果たして本当にここで書かれているように、中国の山間僻地にまで携帯電話の基地局が普及しているものだろうか。
それにパソコンの操作でも、田舎の中学出のものがそうそう安易にキーボードの操作が出来るものだろうか。
携帯電話にしろ、パソコンにしろ、その普及率には目を見張るものがあるとはいえ、そうそう誰でも彼でも手に出来るものではないと思う。
現代社会を論ずる際に、携帯電話やパソコンの存在を抜きには語れないと思う。
これの無い社会と、在る社会では全く違う社会だと思う。
こういう近代文明の利器が、中国における排日運動や、共産党批判、中国政府批判に直結しているというのは極論であろうが、大きなツールになっていることは確かで、こういうものが国民の底辺にくまなく普及した社会は、今まで人類が経験したことのない社会である。
中国の歴史は、北から攻め入る野蛮人を、万里の長城で阻止するという発想であったが、21世紀のIT技術は、そういう発想を根底から覆してしまったわけで、どんな遠方からでも意図も安易に言いたいことが言え、意見を表明出来るわけで、「人の口には戸が立てれない」ということが現実になってしまったということだ。
そういう目の前の現実はさておき、我々が考えなければならないことは、彼らのものの考え方であって、彼らはまさしく人を踏み台にしても自分が頭を出したいと願っているわけで、ただただ追い求めるものが自己の至福以外にないのである。
このバイタリテ―が中国人の特質になっているものと考えられる。
この本の中では、田舎から出てきあどけない少女が、如何にたくましく修羅場としての社会を生き抜くかという形で、個人の生き方としてそれを克明に描いているが、それはそのまま国家としての中国の在り方にも通じているわけで、中国という国家が世界という修羅場で如何に振舞って国益を維持するかという、国家の在り方そのものに現れている。
国家というのは個人の集大成なわけで、当然のこと、個人の生き方が国家の運営にもそのままの形で反映することは往々にしてあると思う。
中国という国の、国家としての立ち居振る舞いには、確実に中国人の個人としての立ち居振る舞いがそのままの形で表れている部分があるように見受けられる。
とにかく周りの人の存在など頭から無視して、当たり構わず大声でどなり散らして、自分の言いたいことだけを一方的に言い募って、自分の利益だけを声高に主張するという態度で、こういう態度は日本人の価値観からすれば一番下品で、卑しく、下劣な品位ということになっている。
我々日本人は、武士道という価値観を誇りに思っているが、彼ら中国人にはこういう誇りは中華思想であって、中国こそが世界で一番優秀な民族で、他のものはそれこそ夷狄という野蛮人であって、中国人を敬うのが当然だ、という価値感がぬぐい切れていない。
武士道の真髄は「謙譲の美徳」であって、人前で尊大な振る舞いをすることは、はしたない行為という位置付けであるが、中国には「謙譲の美徳」という価値観は存在しないので、相手に謙れば己の弱さを曝すことだと勘違いされかねない。
俗に「日本の常識は世界の非常識で、世界の非常識は日本の常識」と言われているが、私自身もつい最近までこれを日本の負のイメージとして認識していた。
日本の常識を世界の常識に合わせなければ、世界から爪はじきされると思い込んでいたが、この俚言は実に日本の優れた部分を表した言葉と最近考えるようになった。
世界に人種差別の撤廃をいち早く言い立てたのは我々日本であったし、あの未曾有の太平洋戦争の日本の眼目は、アジアの解放であって、それは今日のASEANの構想を先取りしたようなものであった。
まさしく我々の考えていたことは世界の非常識であったことになる。
同じく、戦前の日本の台湾や朝鮮の統治も、西洋列強の植民地経営とは全く異なった形態であったわけで、それこそ世界的視野で眺めれば非常識であったわけで、こういう我々の無意識の下の思考は、中国の人達には到底理解し難いことだと考える。
我々日本人には「謙譲の美徳」という概念があるので、口角泡を飛ばして議論する行為を、はしたない行為という認識がある。
以心伝心こそ、価値ある意思の疎通の極意だと思っているが、これはあきらかに時代錯誤であって、現代にマッチしていない上に、世界の非常識なので、そのために我々は非常に不利な立場に立たされている。
この本の著者の御祖父さんは、旧満州で共産党員か国民党政府軍か、そのどちらかに殺害されているので、御祖母さんに連れられて台湾に逃れ、そこからアメリカにわたっているが、こういう生き方の選択は我々日本人にはありえない。
明治維新のとき、幕府側に身を置こうとも新政府側に身を置こうとも、自分の立場が不利になったからといって、第3国に逃げようという発想は我々にはありえない。
ところが中国人は人の群れとして、マスでそういうことをしているわけで、それがいわゆる華僑と呼ばれる中国人の集団である。
外国に逃れ、その国に骨を埋める気でいても、それでも尚、自分が中国人、シナ人というアイデンテイテイ―を完全には捨てきれず、先祖がえりを願っている節がある。
この本の著者も、それを見事にこの作品の中で行っているわけで、自分が今現在ウオールストリートジャーナル紙の北京特派員という立場でありながら、自分のルーツ探しをしているわけで、その事は、自分の出自にいささかの未錬を引きずっているということなのであろう。
この本は実に良く書かれた本であって、今の中国人の生き方を隈なく言い表しているが、その中国人の生き方は、そのまま中国の国家の在り方と軌を一にしている。
人としての生き方に謙虚さが微塵もないわけで、ただただ目先の利益を追い回すのみで、他者に対する思いやりも無ければ、心配り、気配りも全く無いわけで、ただ自分さえ良ければ、後は野となれ山となれという態度が露骨に表れている。

「特捜検察VS金融権力」

2011-08-02 07:08:31 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「特捜検察VS金融権力」という本を読んだ。
著者は朝日新聞の村山治という人だが、実に読みにくい本であった。
というのも、検察にしても金融界にしても、めったやたらと職制上の役職が多く、その肩書きの羅列を見るだけで読む気が失せてしまった。
個人を論ずるのではなく、その肩書きを論ずる形になってしまって、興味が半減してしまう。
その事は、この本の内容そのものが組織論に成り変わってしまっており、その組織の功罪を説く形になっているが、組織の功罪と、官僚批判は、これは又別のシチュエ―ションなわけで、この本はその峻別がきちんとできていないように見えた。
検察も、金融行政を司る役所も、全て官僚であることは間違いないが、官僚を論ずるとなれば、当然、組織論に行き着くことも自然に流れではある。
何処の国でも、国、国家を形作るには官僚という組織を経ずして国家の枠組みそのものが成り立たないことは言うまでもない。
それと同時に、国を形作る人々やその中で生活を営んでいる国民も、善人ばかりではなく、悪人も大勢いるわけで、悪人を懲らしめて善人を擁護しなければ、国民としては浮かばれないわけで、国家の機能としてはそういう方向にあらゆる組織が志向するのも当然のことである。
主権国家の国民がすべて善人ではないのと同じように、国の根幹を成す組織の中にも、善人も悪人も同じように内包しているわけで、善人が悪人を駆除する社会でないことには、納税者としては浮かばれない。
自由主義による国家運営の国では、基本的には国民の自由な経済活動によって国の運営が維持されているが、国民の自由な経済活動も時には行き過ぎることがあるわけで、その時は国家としてブレーキを掛けなければならない。
それが国家による規制であり、規制を公平に実施するために監視し、取り締まるという行為に繋がるわけである。
問題は、国民の自由にまかされた活動が行き過ぎることなく、当局の考えている公序良俗の範囲内に収まっておれば、新たな規制というものは生まれず、それを取り締まるという余分な労力を払う必要もない。
このことは、自由な活動を保障されていながら、その枠を超えて自分だけ良い目をしようと考える不心得者がいるから、当局としては公平を期すために、規制を掛けねばならなくなるのである。
良心的な国民・市民・庶民の立場からすれば、そういう不心得者がいる為に、自分で自分の首を絞めるような結果を招くわけで、そういう不心得者の存在は、まことに不甲斐ないというか、ふしだらというか、愚にもつかないことである。
かといって、そういう不心得者を完全に排除したり、差別したり、駆除しようとすると、人権問題として提訴されて、真面目に社会に貢献している真面目な市民が悪者に仕立てられてしまう。
社会の不心得者の人権は手厚く擁護されるが、真面目な市民の嘘いつわりのない本音は、人権の抑圧という逆の評価がなされてしまう。
ここでまことに不思議なことだが、そういう極めて単純明快な人間の心のありように対して、教育というものがモラルの向上に対して全く効果を示していないということだ。
人間のもつ基本的な欲望は、金欲、性欲、権勢欲であろうが、これは人間が自然の生成物である限り払拭し切れない根源的な心のありようである。
しかし、学識経験を積めば、それをかなりの程度セルフ・コントロールすることは可能で、そのセルフ・コントロールの完成度を示すバロメーターが、教養知性というものではないかと思う。
だから独りの未成熟な人間が、高度な教育を受け、教養知性を積み上げて、学識経験豊富な知識人に仕上がったとすれば、その人は倫理的にも優れた人士にならなければ、その人に国家がつぎ込んだ教育費というのは無駄に浪費されてしまったと言うことになるではないか。
一人の若者が、東京大学法学部を出て、国家公務員試験1種をクリアーして官僚になったとすると、ここまで来る間には本人の努力も並々ならぬものがあったと思うが、それは同時に国の金がその人の教育に注ぎこまれたことも事実であって、だとすればその若者は国家に対して、恩に報いるという意味の何らかの奉仕の精神を抱いても当然であろうと思う。
この点で、自分の置かれた立ち位置のことを考えてみれば、そこに感謝の念が湧けば、自ずからモラルの崩壊ということはあり得ず、セルフ・コントロールを亡失するということはあり得ない。
ただ私のような無学な者から見ると、学校秀才は本当に頭が良いかどうか甚だ不可解な思いを抱いているが、頭が良いかどうかの評価は、試験にパスするかどうかで評価されるわけで、試験におっこちた者がいくらヤッカンダところで全く意味を成さない。
しかし、実社会ではかなずしも学校秀才が良い実績を上げるとは限らないが、学校秀才ならば頭が良いという評価はその人の人生について回るので、その意味で学校の成績というのは立身出世の免罪符にはなっている。
だけれども、官僚や金融界では、学校秀才は頭が良いという評価が立派に生きているが、実際に実務に携わってみれば、それが架空の評価ということは一目瞭然と判るにもかかわらず、虚偽の評価が一人歩きしている部分に整合性が欠けているということになる。
大蔵省とか金融業界で、組織のトップまでのぼりつめて、最後に司直に身を委ねなければならないということは、実に孫の代までの不名誉なことだと思う。
昔流の言い方をすれば、家門に泥を塗ったという言い方になるけれども、きっとそういう行為をする人は、そういう意識がもともと希薄な人ではなかろうか。
銀行員がそういう自覚をもった人たちばかりであったとしたならば、不良債権問題など起きるわけがないではないか。
不良債権の問題などそう難しい問題ではなく、ただただ担保以上に金を貸し付けたので、債権回収が出来なくなっただけのことで、金貸し業としては、基本中の基本を無視し、プロがプロではなかっただけの話で、我々レベルの言い方で表現すれば、金を貸した方がバカだったと言うだけのことである。
それを業界ぐるみで、あるいはまた大蔵省まで巻き込んで国家レベルで金貸し業の基本を無視したことに政治としての失敗があったわけだ。
担保以上に金を貸せば、その金が焦げ付くことは当然予想されるわけで、そういうごくごく当たり前の予想が出来なかったという点が不思議であるし、そういう判断をした大蔵省や、各銀行の立派であるべき筈の人たちは、一体どういう人たちであったのだろう。
日本の高等教育の場である大学というところは、こういうバカを養成する場であったということだ。
文字通り大学の幼稚園化そのものではないか。