例によって図書館から借りてきた本で、「在日米軍司令部」という本を読んだ。
日本は63年前、世界を相手に戦ったが、その正面の敵はアメリカ一国であった。
戦端は中国大陸で起きたが、日本の敗北ということになれば、日本を負かして勝利を得たのは、アメリカ合衆国である。
よって、戦いが終わった後、日本はアメリカによって占領された。
表向きは連合軍であったが、実質はアメリカ一国である。
日本を占領したのが、連合軍の極東軍司令部そのものがアメリカの駐日軍隊と完全に一致していたわけで、第2次世界大戦後のアジアは、アメリカ軍の支配するところとなった。
その大元締めが在日米軍の司令部であることはいうまでもないが、日本の地勢的な位置は、アメリカの世界戦略には欠かさないキー・ストーンとなってしまったのである。
最初、アメリカにもそういう意図はなかったかもしれないが、冷戦の深化というのが必然的にアメリカの戦略上に占めるに日本の位置が重くなってしまって、東西冷戦が深刻化するにしたがい、アメリカの戦略上に占める日本の位置が付加価値を増して、今ではアメリカの不沈空母という言葉がそのままあてはまる貴重な存在になった。
その中に住む我々日本人からすれば、独立国の中に、同盟国とはいえ、他国の軍隊が我が物顔に居すわることは許しがたい、と言いたいところであるが、日本はアメリカと戦争をして負けたわけだから、いくら独立したからと言っても、そうそうアメリカと対等の立場で語り合える立場ではない。
日本の対米戦の経緯もよくよく冷静に考えてみると、お互いに抜き差しならない問題の解決を急ぎすぎたわけで、お互いに飲めない要求であればこそ時間を掛けて討議すべきだったかもしれない。
ところが、その場面で、こちら側は我慢の限界が破断しそうになって、我慢しきれなくなって相手の罠に嵌ってしまったし、相手、アメリカ側は、最初から日本を怒らせて罠にはめるつもりで待ち構えていたわけで、結果として最初は良かったが後からは雪崩を打って敗北への道を転がり落ちたわけだ。
その結果として我々は完膚なきまでに敗北した。
そういう成り行きで、その後の世界情勢の推移の中で、東西冷戦を如何に乗り越えるかというアメリカの都合によって、日本は独立を勝ち得たことになっているが、それは真の独立自尊ではなく、日米安保という温室の中の平和であったわけである。
太平洋の東の果てにある孤島の日本が、真に自分の身を自分で守りつつ、諸外国と互して生きていくだけの経費を、当時の日本では工面できないのは目に見えているわけで、それをカバーするためにアメリカが日本の防衛を肩代わりしてくれた。
この部分の金を節約できたから、戦後の日本は経済復興が出来たわけだ。
今の日本人が、アメリカ軍に対して基地撤廃を要求することは、そういう経緯を無視するという事につながると思う。
基地が近くにあれば、何が起こるかわからないという意味で、不安なことは十分理解できるが、過去の経緯を無視して、自分一人で大きくなったような気で、アメリカを非難するという態度は、ある意味で我々の奢りである。
日本は主権をもった独立国で、自分の国は自分で守る、というよりも憲法で戦争放棄しているのだから、日本に軍隊はいらないのだからアメリカよ出て行け、という論法はあまりにも無知に等しい。
21世紀の今日、自分の国を自分達だけで守れる国というのは、この地球上にあり得ない。
自分達で自分達の国を守れないから、お互いに連携し合って、助け合って連絡を密にしなが共同で立ち向かうというふうに考え方が進化している。
日本にあるアメリカの空軍基地の騒音問題というのは、由々しき問題ではあるが、日本が戦争に負け、6年半にも及ぶ占領を受け、日米安保で守られている状況下では、それを改善する方策はありえない。
もう一度アメリカと戦争をして勝つ以外に、基地の騒音問題というのは解決の道はない。
ただし、日本は自由に恵まれた国なのだから、自分の方が基地の無い町に移り住むという選択は、大いにあるわけだが、そういう状況下で自分から住居を変えると国家から一銭も補償金がもらえないが、反対運動を盛大に盛り上げると、国も補償金を出してくれるわけで、それにありつこうという人はかなりの数いると思う。
アメリカにとって日本にある米軍基地というのは、極めて重要なキー・ストーンであることは論をまたない。
ハワイでもフイリッピンでもアメリカ本土との関係は深いが、後ろに工業地帯を控えているという点では、日本にかなうものはないはずで、その上、戦略上を取っても日本の地勢的な位置というのはかけがえのないものだと思う。
時間を63年前まで遡ってみると、アメリカ人は日本人に対して非常な恐怖心をもっていたようだ。
無理もない話で、アメリカのペリーが日本の扉をこじ開けてから、アメリカと対等に戦争するまでたった93年しかたっておらず、その間に清帝国やロシアを負かしてきているわけで、太平洋上の日本の存在を考えると、アメリカも枕を高くして眠れなかったに違いない。
そういうわけで、今のアメリカは、日本の自衛隊とも緊密に連絡を取り合っているが、わが日本、やまと民族には民族固有の欠点があって、それは秘密が守れないということである。
秘密が守れないということよりも、秘密ということに対する認識が最初から甘いわけで、「人に漏らしてはならない」という意味を深く考えない節がある。
それは事の本質あるいは意義を知らないということなのであろう。
自分が人から聞いたこと、教えられたこと、見たこと、目のまえの物が、立場が変わると如何なる影響を及ぼすかというところまで考えが回らないわけで、その部分を安易に考えているから、結果的に秘密漏えいということになってしまうのである。
イージス艦の秘密の部分を、自分のコンピューターに取り込むということの重大さに全く気がついていないわけで、こういうことの本質に無感覚というところが秘密漏えいにつながっているのであろう。
これは昔から我々の民族の特質なわけで、自分の言葉や振る舞いが自国を苦境に落としめ、相手を利するということに思いが至っていないわけである。
話は少々飛躍するが、こういう感覚が我々の自虐史観にもストレートに表れているのではなかろうか。
自分が謙れば、相手は自分を尊い存在と認め、自分を高く評価してくれるのではないかという淡い期待をもって、相手に花をもたせる論議というのが、回り回って自分を窮地の陥れることになるのである。
ある事柄を、交渉相手に見せる見せないという判断は極めて高度な交渉技術であって、それは同時に高度な戦略でもある。
時と、場所と、事案によって、それの使い分けは微妙に変化するわけで、ある時は見せるが情況が変われば見せない、というのは極めて高度な政治的判断である。
我々はともすると寡黙であることに価値を見出す国民であるが、寡黙であるということは、必要な時に必要な言葉を発しないということでもあるわけで、それは逆に黙っていればいいというものでもない。
必要な時に必要なことを言うという場合、その言うべきことの中にも、嘘、ブラフ、真偽の曖昧なことまでが入っているわけで、これの使い分けは極めて高度な戦略であると思う。
核兵器を開発できてもいないのに、「既に開発した」という情報を流すことも立派な戦略なわけで、その真偽を探るのもこれまた立派なカウンター・情報である。
こういう駆け引きが我々は極めて不得意で、自分のもっている情報を全部曝け出してしまえば、相手はこちらの善意や好意に報いてくれると思い込んでいる。
情報が漏れるという点では、メデイアの責任も大きく関与しているはずで、今の日本国民にとって、外国に知られてならない、外国に隠さねばならない情報などあり得ないと考えている節がある。
この事実は、国を守るという意識が最初から欠落しているわけで、自国民を烏合の衆としか見なしていないわけで、主権の存在ということなどいささかも認識していないということである。
メデイアの追い求める知る権利と、国家の国益上の情報には大きな隔たりがあるわけで、国益のためには隠さねばならない事柄も現実には存在するわけだが、メデイアはそれを認めようとはしない。
メデイアはメデイアの論理で、知る権利を前面に押し出して、どこまでも真実に迫ってくるが、その真実には国益が絡むと相手に知られては不味いこともあるわけで、そこを斟酌するのがメデイアの良心の筈であるが、日本のメデイアはそこの部分で非常に愛国心が希薄で、国益を損なっても知る権利を優先させたがる節がある。
防衛秘密の漏えいというのは、こういう高度な政治判断を伴うものではないが、公開してもいい内容か、隠匿しなければならない事項か、の認識が極めて甘いことは確かだと思う。
この機密の保持が非常に甘い、ということはルールに対する認識の甘さでもある。
「秘密を漏らしてはならない」、ということは頭では理解しているが、「この程度の事ならば大勢に影響ないだろう」という安易な思考が秘密の漏えいにつながっていると思う。
それは逆に言うと秘密があまりにも安易に指定されている面もあり、何でもかんでも秘密、極秘、機密とゴム印をぺたぺた押すものだから、どれが本当に秘密事項なのかわからなくなってしまって、結局は外に漏れてしまうということでもある。
秘密を守るということは、漏えいの方ばかりに関心が向いているが、「何を秘密に指定するか」というところまで遡って考えなければならないと思う。
その意味でアメリカ軍というのは、そういう根幹の部分でかなりしっかりしている。
基本的には、ルールの順守というところに行きつくのであろうが、ルールがきちんと順守された組織は極めて民主化の度合いの高い組織だと思う。
この本の主題は、在日米軍の総指揮は一体どこにあるかという疑問に答えるものであるが、我々はともすると組織を動かすのは、上意下達の命令系統だと思い込んでいるが、この在日米軍の組織を眺めていると、組織の行動規範はボトムアップで、下からの要請で組織全体が稼働するようにも見える。
末端のあるいは先端からの情報が、組織図を昇って行って、それがまた命令下達という形でフィードバックするのではなく、末端や先端の情報は、その場から横に広がって、インターネットのように何時でも何処でもその情報にアクセスできる組織に組みかえられているように見える。
従来の軍の指揮というのは、ピラミットのように、強固で、かたい団結で支えられていたが、昨今の軍の組織は、極めて柔軟な組織で、ヤマタノオロチのように頭がいくつもにわかれていて、その都度離合集散する組織に変わっているようだ。
在日米軍というのも、基本的には戦争を前提とした組織であるが、21世紀の戦争というのは、主権と主権のぶつかり合うような正面戦争は考えにくい。
あるのはテロとの戦いだが、これからはこれが主流になるのではないかと思う。
テロとの戦いであれば、警察が対応すればそれで問題はないが、警察では対応し切れないので、軍隊の登場ということになるが、日本人ばかりではなく世界の知識人は、こういう場面で軍隊が出ることに極めて否定的なコメントをする。
01年の9・11事件のあと、オサマ・ビン・ラデインがテロの黒幕だと言われ、彼はアフガニスタンに隠れたが、あれほどの事件を起こした黒幕を、誰も公の場に突きだすことなく匿ったわけで、この現実を一体どういうふうに考えたらいいのであろう。
この事件を契機にアメリカ軍はアルカイダやムスリム原理主義者たちを敵として認識して、討伐に乗り出したが、こういうアメリカの行動を世界の知識人は冷めた目で見、積極的な支援を拒み、何となく相手の方を擁護する発言で言葉を濁し、アメリカを非難する傾向が強かった。
アメリカとしても、正規軍による正面戦争ならば堂々とアクションがとれるが、こういうテロとの戦いでは、少しょう勝手が違うものと思う。
このように21世紀においては、戦争を取り巻く状況が大きく変化しているので、アメリカが取りうる作戦運用も、大きく時代の変化に対応しなければならないことはいうまでもない。
こういう時代の状況に合わせて、組織そのものが、変化していく柔軟性というものが極めて大事と思う。
日本は63年前、世界を相手に戦ったが、その正面の敵はアメリカ一国であった。
戦端は中国大陸で起きたが、日本の敗北ということになれば、日本を負かして勝利を得たのは、アメリカ合衆国である。
よって、戦いが終わった後、日本はアメリカによって占領された。
表向きは連合軍であったが、実質はアメリカ一国である。
日本を占領したのが、連合軍の極東軍司令部そのものがアメリカの駐日軍隊と完全に一致していたわけで、第2次世界大戦後のアジアは、アメリカ軍の支配するところとなった。
その大元締めが在日米軍の司令部であることはいうまでもないが、日本の地勢的な位置は、アメリカの世界戦略には欠かさないキー・ストーンとなってしまったのである。
最初、アメリカにもそういう意図はなかったかもしれないが、冷戦の深化というのが必然的にアメリカの戦略上に占めるに日本の位置が重くなってしまって、東西冷戦が深刻化するにしたがい、アメリカの戦略上に占める日本の位置が付加価値を増して、今ではアメリカの不沈空母という言葉がそのままあてはまる貴重な存在になった。
その中に住む我々日本人からすれば、独立国の中に、同盟国とはいえ、他国の軍隊が我が物顔に居すわることは許しがたい、と言いたいところであるが、日本はアメリカと戦争をして負けたわけだから、いくら独立したからと言っても、そうそうアメリカと対等の立場で語り合える立場ではない。
日本の対米戦の経緯もよくよく冷静に考えてみると、お互いに抜き差しならない問題の解決を急ぎすぎたわけで、お互いに飲めない要求であればこそ時間を掛けて討議すべきだったかもしれない。
ところが、その場面で、こちら側は我慢の限界が破断しそうになって、我慢しきれなくなって相手の罠に嵌ってしまったし、相手、アメリカ側は、最初から日本を怒らせて罠にはめるつもりで待ち構えていたわけで、結果として最初は良かったが後からは雪崩を打って敗北への道を転がり落ちたわけだ。
その結果として我々は完膚なきまでに敗北した。
そういう成り行きで、その後の世界情勢の推移の中で、東西冷戦を如何に乗り越えるかというアメリカの都合によって、日本は独立を勝ち得たことになっているが、それは真の独立自尊ではなく、日米安保という温室の中の平和であったわけである。
太平洋の東の果てにある孤島の日本が、真に自分の身を自分で守りつつ、諸外国と互して生きていくだけの経費を、当時の日本では工面できないのは目に見えているわけで、それをカバーするためにアメリカが日本の防衛を肩代わりしてくれた。
この部分の金を節約できたから、戦後の日本は経済復興が出来たわけだ。
今の日本人が、アメリカ軍に対して基地撤廃を要求することは、そういう経緯を無視するという事につながると思う。
基地が近くにあれば、何が起こるかわからないという意味で、不安なことは十分理解できるが、過去の経緯を無視して、自分一人で大きくなったような気で、アメリカを非難するという態度は、ある意味で我々の奢りである。
日本は主権をもった独立国で、自分の国は自分で守る、というよりも憲法で戦争放棄しているのだから、日本に軍隊はいらないのだからアメリカよ出て行け、という論法はあまりにも無知に等しい。
21世紀の今日、自分の国を自分達だけで守れる国というのは、この地球上にあり得ない。
自分達で自分達の国を守れないから、お互いに連携し合って、助け合って連絡を密にしなが共同で立ち向かうというふうに考え方が進化している。
日本にあるアメリカの空軍基地の騒音問題というのは、由々しき問題ではあるが、日本が戦争に負け、6年半にも及ぶ占領を受け、日米安保で守られている状況下では、それを改善する方策はありえない。
もう一度アメリカと戦争をして勝つ以外に、基地の騒音問題というのは解決の道はない。
ただし、日本は自由に恵まれた国なのだから、自分の方が基地の無い町に移り住むという選択は、大いにあるわけだが、そういう状況下で自分から住居を変えると国家から一銭も補償金がもらえないが、反対運動を盛大に盛り上げると、国も補償金を出してくれるわけで、それにありつこうという人はかなりの数いると思う。
アメリカにとって日本にある米軍基地というのは、極めて重要なキー・ストーンであることは論をまたない。
ハワイでもフイリッピンでもアメリカ本土との関係は深いが、後ろに工業地帯を控えているという点では、日本にかなうものはないはずで、その上、戦略上を取っても日本の地勢的な位置というのはかけがえのないものだと思う。
時間を63年前まで遡ってみると、アメリカ人は日本人に対して非常な恐怖心をもっていたようだ。
無理もない話で、アメリカのペリーが日本の扉をこじ開けてから、アメリカと対等に戦争するまでたった93年しかたっておらず、その間に清帝国やロシアを負かしてきているわけで、太平洋上の日本の存在を考えると、アメリカも枕を高くして眠れなかったに違いない。
そういうわけで、今のアメリカは、日本の自衛隊とも緊密に連絡を取り合っているが、わが日本、やまと民族には民族固有の欠点があって、それは秘密が守れないということである。
秘密が守れないということよりも、秘密ということに対する認識が最初から甘いわけで、「人に漏らしてはならない」という意味を深く考えない節がある。
それは事の本質あるいは意義を知らないということなのであろう。
自分が人から聞いたこと、教えられたこと、見たこと、目のまえの物が、立場が変わると如何なる影響を及ぼすかというところまで考えが回らないわけで、その部分を安易に考えているから、結果的に秘密漏えいということになってしまうのである。
イージス艦の秘密の部分を、自分のコンピューターに取り込むということの重大さに全く気がついていないわけで、こういうことの本質に無感覚というところが秘密漏えいにつながっているのであろう。
これは昔から我々の民族の特質なわけで、自分の言葉や振る舞いが自国を苦境に落としめ、相手を利するということに思いが至っていないわけである。
話は少々飛躍するが、こういう感覚が我々の自虐史観にもストレートに表れているのではなかろうか。
自分が謙れば、相手は自分を尊い存在と認め、自分を高く評価してくれるのではないかという淡い期待をもって、相手に花をもたせる論議というのが、回り回って自分を窮地の陥れることになるのである。
ある事柄を、交渉相手に見せる見せないという判断は極めて高度な交渉技術であって、それは同時に高度な戦略でもある。
時と、場所と、事案によって、それの使い分けは微妙に変化するわけで、ある時は見せるが情況が変われば見せない、というのは極めて高度な政治的判断である。
我々はともすると寡黙であることに価値を見出す国民であるが、寡黙であるということは、必要な時に必要な言葉を発しないということでもあるわけで、それは逆に黙っていればいいというものでもない。
必要な時に必要なことを言うという場合、その言うべきことの中にも、嘘、ブラフ、真偽の曖昧なことまでが入っているわけで、これの使い分けは極めて高度な戦略であると思う。
核兵器を開発できてもいないのに、「既に開発した」という情報を流すことも立派な戦略なわけで、その真偽を探るのもこれまた立派なカウンター・情報である。
こういう駆け引きが我々は極めて不得意で、自分のもっている情報を全部曝け出してしまえば、相手はこちらの善意や好意に報いてくれると思い込んでいる。
情報が漏れるという点では、メデイアの責任も大きく関与しているはずで、今の日本国民にとって、外国に知られてならない、外国に隠さねばならない情報などあり得ないと考えている節がある。
この事実は、国を守るという意識が最初から欠落しているわけで、自国民を烏合の衆としか見なしていないわけで、主権の存在ということなどいささかも認識していないということである。
メデイアの追い求める知る権利と、国家の国益上の情報には大きな隔たりがあるわけで、国益のためには隠さねばならない事柄も現実には存在するわけだが、メデイアはそれを認めようとはしない。
メデイアはメデイアの論理で、知る権利を前面に押し出して、どこまでも真実に迫ってくるが、その真実には国益が絡むと相手に知られては不味いこともあるわけで、そこを斟酌するのがメデイアの良心の筈であるが、日本のメデイアはそこの部分で非常に愛国心が希薄で、国益を損なっても知る権利を優先させたがる節がある。
防衛秘密の漏えいというのは、こういう高度な政治判断を伴うものではないが、公開してもいい内容か、隠匿しなければならない事項か、の認識が極めて甘いことは確かだと思う。
この機密の保持が非常に甘い、ということはルールに対する認識の甘さでもある。
「秘密を漏らしてはならない」、ということは頭では理解しているが、「この程度の事ならば大勢に影響ないだろう」という安易な思考が秘密の漏えいにつながっていると思う。
それは逆に言うと秘密があまりにも安易に指定されている面もあり、何でもかんでも秘密、極秘、機密とゴム印をぺたぺた押すものだから、どれが本当に秘密事項なのかわからなくなってしまって、結局は外に漏れてしまうということでもある。
秘密を守るということは、漏えいの方ばかりに関心が向いているが、「何を秘密に指定するか」というところまで遡って考えなければならないと思う。
その意味でアメリカ軍というのは、そういう根幹の部分でかなりしっかりしている。
基本的には、ルールの順守というところに行きつくのであろうが、ルールがきちんと順守された組織は極めて民主化の度合いの高い組織だと思う。
この本の主題は、在日米軍の総指揮は一体どこにあるかという疑問に答えるものであるが、我々はともすると組織を動かすのは、上意下達の命令系統だと思い込んでいるが、この在日米軍の組織を眺めていると、組織の行動規範はボトムアップで、下からの要請で組織全体が稼働するようにも見える。
末端のあるいは先端からの情報が、組織図を昇って行って、それがまた命令下達という形でフィードバックするのではなく、末端や先端の情報は、その場から横に広がって、インターネットのように何時でも何処でもその情報にアクセスできる組織に組みかえられているように見える。
従来の軍の指揮というのは、ピラミットのように、強固で、かたい団結で支えられていたが、昨今の軍の組織は、極めて柔軟な組織で、ヤマタノオロチのように頭がいくつもにわかれていて、その都度離合集散する組織に変わっているようだ。
在日米軍というのも、基本的には戦争を前提とした組織であるが、21世紀の戦争というのは、主権と主権のぶつかり合うような正面戦争は考えにくい。
あるのはテロとの戦いだが、これからはこれが主流になるのではないかと思う。
テロとの戦いであれば、警察が対応すればそれで問題はないが、警察では対応し切れないので、軍隊の登場ということになるが、日本人ばかりではなく世界の知識人は、こういう場面で軍隊が出ることに極めて否定的なコメントをする。
01年の9・11事件のあと、オサマ・ビン・ラデインがテロの黒幕だと言われ、彼はアフガニスタンに隠れたが、あれほどの事件を起こした黒幕を、誰も公の場に突きだすことなく匿ったわけで、この現実を一体どういうふうに考えたらいいのであろう。
この事件を契機にアメリカ軍はアルカイダやムスリム原理主義者たちを敵として認識して、討伐に乗り出したが、こういうアメリカの行動を世界の知識人は冷めた目で見、積極的な支援を拒み、何となく相手の方を擁護する発言で言葉を濁し、アメリカを非難する傾向が強かった。
アメリカとしても、正規軍による正面戦争ならば堂々とアクションがとれるが、こういうテロとの戦いでは、少しょう勝手が違うものと思う。
このように21世紀においては、戦争を取り巻く状況が大きく変化しているので、アメリカが取りうる作戦運用も、大きく時代の変化に対応しなければならないことはいうまでもない。
こういう時代の状況に合わせて、組織そのものが、変化していく柔軟性というものが極めて大事と思う。