例によって図書館から借りてきた本で、「財閥解体・GHQエコノミストの回想」という本を読んだ。
このエコノミストいうのがうら若き女性と言うのだから一気に好奇心に火がついた。
エレノア・ハードレーと称する経済学者で、GHQで財閥解体という政策を担当し、その後本国に帰って経済学の博士号を取ったというのだから実に驚きである。
こういう社会システムは日本と比べるとまさしく驚天動地のことだと思う。
GHQが戦後日本の財閥解体を行ったことは歴然とした事実であるが、それがこういううら若き学生というよりも、女性によってなされたということは今の今まで知らなかった。
彼女の言うところによると、彼女はアメリカ本国からの基本計画に従っただけだ、と謙虚な言い方をしているが、それを実施するに当たって相当に日本を研究したことであろう。
思えば日本の戦後改革もアメリカのうら若き女性によってなされたものが随分ある。
そういうことができる社会、そういうことを容認する社会、そういう社会システムというのは実に驚くべきことだと思う。
彼らは戦前、戦中の日本の財閥というものが戦争の後押しをしていたという認識でいたようだ。
国家総力戦という意味では確かにそういう部分も否めないであろう。
けれども、彼らの認識では日本の財閥は労働者を安い賃金でこき使って利益をむさぼり取り、自分たちは酒池肉林にふけっている西洋式の資本家という認識に立っていたようだ。
そういう資本家、そういう持株会社の少数の家、家族、家系というのは叩き潰さねばならないという風に考えていたに違いない。
日本の財閥の形成ということは確かに限られた家族、一族によって牛耳られた持株会社によってコントロールされていたことは間違いないが、その家族や一族郎党が私利私欲で戦争を後押ししていたという視点は間違っていたのではないかと思う。
国策としての戦争遂行に協力することによって、結果的に利益がそういう家族に集中するということはあったかもしれないが、それは目的と結果が逆になってしまったということだと思う。
アメリカの日本占領政策で、若いアメリカ女性が、その中で大いに手腕を発揮することが可能であった、そういうチャンスが与えられていたということは実に驚嘆すべきことだと思う。
仮の話として、日本が満州国の官僚に若い女性を派遣することを考えた場合、そういうことがありうるであろうか。
占領政策の一環としての公職追放とか、レッドパージというのは我々の立場からすると、「戦争に負けたから、アメリカが日本の旧秩序を破壊し、価値観を逆転させ、アメリカにやられた」という認識になり勝ちであるが、これも視点を変えて眺めてみると、確かに日本にとってもいい結果を招いたといえるかもしれない。
例えば、戦後の昭和24年に起きた下山事件の被害者、下山貞則氏は当時49歳であったわけで、49歳の国鉄総裁などということは、GHQの公職追放がなければありえないことではなかろうか。
公職追放という措置で、戦前からの日本のあらゆる組織が全国規模で、そして全産業の組織が、嫌もおうもなく若返りが実現したわけで、それでなければ49歳で国鉄総裁などありなかったと思う。
戦争に負けた結果として、日本のあらゆる組織で、従来の指導者が排除されてしまい、組織の若返りが徹底したものと考えなければならない。
財閥解体についても、無理やり解体されたからこそ、若手がトップの座を占め、その後の企業努力が刺激されて、それが競争を激化し、競争の激化が戦後の復興にしのぎを削るという結果を誘引したのではなかろうか。
小泉首相の構造改革というものが、GHQの力で無理やり強行されたという図ではなかろうか。
しかし、組織というのは必然的に権力抗争を内在するというのは実に面白いと思う。
組織内の権力闘争というのは民主化の度合いとはまったく関係のないものようだ。
というのも彼女は、自分のあずかり知らないところで、この抗争に巻き込まれていて、その後17年間も冷や飯を食わされたという部分は非常に面白い。
それというのもGHQ内のホイットニーとウイロビーの対立で、彼女はホイットニーには可愛がられたが、ウイロビーからは疎まれたわけで、その疎まれた理由が、彼女の財閥解体があまりにも過酷であったというのだから面白い。
彼女の考え方が過酷ならばこそ、彼女は共産主義者ではないかと疑われたということだ。
確かに戦後のアメリカでマッカアシー旋風という共産主義者狩りが行われたことは知っているが、その余波を受けたということだ。
日本の占領政策はアメリカのニュー・デイラーたちが日本で彼らの理想主義の実験をしたという面もあったわけで、その風潮がGHQ内にもしのびよってきたということであろう。
日本の戦後復興の成功は、財閥をばらばらにして、それらを通産省が業界ごとに統制指導したという点にある、というのが彼女たちエコミストたちの見解らしいが、物事、窮すれば通ずるわけで、解体された元財閥企業が生き残るために編み出したのが、通産省の指導を受けた護送船団方式というものではないかと思う。
こういう手法はGHQ内の、つまり彼女たちのようなニュー・デイラーからは支持を得られなかったが、朝鮮戦争の勃発で占領政策が方向転換を余儀なくされたので、こういうことが可能になったものと考える。
彼女たちの理想は自由競争であるが、我々は弱肉強食の赤裸々な自由抗争を好まないわけで、話し合いで相互の利益を分かち合うという手法で生き残ってきたものと考える。
戦前の財閥は、この話し合いを異業種間で行い、人、金、物の融通を自分たちの仲間内で行っていたということだと思う。
今の企業の談合は、この話し合いを同業者の間で行い、受注の調整を図って過当競争による共倒れの防止策とする形態だと思う。
財閥にしろ企業の談合にしろ、これらは日本の風土になじんだ話し合いの形態だと思う。
この談合の排除という概念、企業の集中の排除というのが彼女たちがしようとした究極の目的であったわけである。