ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

広島の旅

2006-05-29 17:56:45 | Weblog
27日から今日まで広島に旅行に出かけていた。
錦帯橋から、江田島、大和ミュージアム、原爆ドームと広島の名所旧跡を訪ね歩いてきた。
今にも雨が降るかという天気であったが、本格的には降られず傘もほとんど不要な程度の雨だった。
旅に出たからには書かずはおれないわけで、いづれ「大きい旅小さい旅」にUPされるでしょうが、そのときはどうかお目通しを願えればと思っています。 
旅の最大のポイントはやはり海軍兵学校の赤レンガの建物と原爆ドームでした。 

「財閥解体」

2006-05-26 07:40:52 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「財閥解体・GHQエコノミストの回想」という本を読んだ。
このエコノミストいうのがうら若き女性と言うのだから一気に好奇心に火がついた。
エレノア・ハードレーと称する経済学者で、GHQで財閥解体という政策を担当し、その後本国に帰って経済学の博士号を取ったというのだから実に驚きである。
こういう社会システムは日本と比べるとまさしく驚天動地のことだと思う。
GHQが戦後日本の財閥解体を行ったことは歴然とした事実であるが、それがこういううら若き学生というよりも、女性によってなされたということは今の今まで知らなかった。
彼女の言うところによると、彼女はアメリカ本国からの基本計画に従っただけだ、と謙虚な言い方をしているが、それを実施するに当たって相当に日本を研究したことであろう。
思えば日本の戦後改革もアメリカのうら若き女性によってなされたものが随分ある。
そういうことができる社会、そういうことを容認する社会、そういう社会システムというのは実に驚くべきことだと思う。
彼らは戦前、戦中の日本の財閥というものが戦争の後押しをしていたという認識でいたようだ。
国家総力戦という意味では確かにそういう部分も否めないであろう。
けれども、彼らの認識では日本の財閥は労働者を安い賃金でこき使って利益をむさぼり取り、自分たちは酒池肉林にふけっている西洋式の資本家という認識に立っていたようだ。
そういう資本家、そういう持株会社の少数の家、家族、家系というのは叩き潰さねばならないという風に考えていたに違いない。
日本の財閥の形成ということは確かに限られた家族、一族によって牛耳られた持株会社によってコントロールされていたことは間違いないが、その家族や一族郎党が私利私欲で戦争を後押ししていたという視点は間違っていたのではないかと思う。
国策としての戦争遂行に協力することによって、結果的に利益がそういう家族に集中するということはあったかもしれないが、それは目的と結果が逆になってしまったということだと思う。
アメリカの日本占領政策で、若いアメリカ女性が、その中で大いに手腕を発揮することが可能であった、そういうチャンスが与えられていたということは実に驚嘆すべきことだと思う。
仮の話として、日本が満州国の官僚に若い女性を派遣することを考えた場合、そういうことがありうるであろうか。
占領政策の一環としての公職追放とか、レッドパージというのは我々の立場からすると、「戦争に負けたから、アメリカが日本の旧秩序を破壊し、価値観を逆転させ、アメリカにやられた」という認識になり勝ちであるが、これも視点を変えて眺めてみると、確かに日本にとってもいい結果を招いたといえるかもしれない。
例えば、戦後の昭和24年に起きた下山事件の被害者、下山貞則氏は当時49歳であったわけで、49歳の国鉄総裁などということは、GHQの公職追放がなければありえないことではなかろうか。
公職追放という措置で、戦前からの日本のあらゆる組織が全国規模で、そして全産業の組織が、嫌もおうもなく若返りが実現したわけで、それでなければ49歳で国鉄総裁などありなかったと思う。
戦争に負けた結果として、日本のあらゆる組織で、従来の指導者が排除されてしまい、組織の若返りが徹底したものと考えなければならない。
財閥解体についても、無理やり解体されたからこそ、若手がトップの座を占め、その後の企業努力が刺激されて、それが競争を激化し、競争の激化が戦後の復興にしのぎを削るという結果を誘引したのではなかろうか。
小泉首相の構造改革というものが、GHQの力で無理やり強行されたという図ではなかろうか。
しかし、組織というのは必然的に権力抗争を内在するというのは実に面白いと思う。
組織内の権力闘争というのは民主化の度合いとはまったく関係のないものようだ。
というのも彼女は、自分のあずかり知らないところで、この抗争に巻き込まれていて、その後17年間も冷や飯を食わされたという部分は非常に面白い。
それというのもGHQ内のホイットニーとウイロビーの対立で、彼女はホイットニーには可愛がられたが、ウイロビーからは疎まれたわけで、その疎まれた理由が、彼女の財閥解体があまりにも過酷であったというのだから面白い。
彼女の考え方が過酷ならばこそ、彼女は共産主義者ではないかと疑われたということだ。
確かに戦後のアメリカでマッカアシー旋風という共産主義者狩りが行われたことは知っているが、その余波を受けたということだ。
日本の占領政策はアメリカのニュー・デイラーたちが日本で彼らの理想主義の実験をしたという面もあったわけで、その風潮がGHQ内にもしのびよってきたということであろう。
日本の戦後復興の成功は、財閥をばらばらにして、それらを通産省が業界ごとに統制指導したという点にある、というのが彼女たちエコミストたちの見解らしいが、物事、窮すれば通ずるわけで、解体された元財閥企業が生き残るために編み出したのが、通産省の指導を受けた護送船団方式というものではないかと思う。
こういう手法はGHQ内の、つまり彼女たちのようなニュー・デイラーからは支持を得られなかったが、朝鮮戦争の勃発で占領政策が方向転換を余儀なくされたので、こういうことが可能になったものと考える。
彼女たちの理想は自由競争であるが、我々は弱肉強食の赤裸々な自由抗争を好まないわけで、話し合いで相互の利益を分かち合うという手法で生き残ってきたものと考える。
戦前の財閥は、この話し合いを異業種間で行い、人、金、物の融通を自分たちの仲間内で行っていたということだと思う。
今の企業の談合は、この話し合いを同業者の間で行い、受注の調整を図って過当競争による共倒れの防止策とする形態だと思う。
財閥にしろ企業の談合にしろ、これらは日本の風土になじんだ話し合いの形態だと思う。
この談合の排除という概念、企業の集中の排除というのが彼女たちがしようとした究極の目的であったわけである。

市民講座

2006-05-25 09:15:47 | Weblog
昨日は市民講座の熟年大学というものに行ってきた。
内容は「論語」の話であった。
Minesanと「論語」、これほどのミス・マッチもこの世にないと思う。
だいたいが私は古典などというものが大嫌いで、この21世紀になって何故大昔のことを学ぶのか、何が面白いのか不思議でならなかった。
しかし、講師の話が面白くてついつい引き込まれてしまった。
「論語」というのは儒教の教科書ぐらいのものであろうという浅薄な知識はあったが、聞いてみるとそうではなく、儒教の教科書は別に五経と言うものがあり、「論語」は孔子の説話集のようなものだということを始めて知った。
知らないことを知るということは実に楽しい。
何となく好奇心という壷が知識という水で満たされるような感じがする。
人生もたそがれてからこんなことがわかるようでは、だいぶ損をしたような気がしてならない。
嗚呼、もういっぺん人生を最初からやり直したい!!!
今度は失敗しないぞ!!!

万歩計

2006-05-24 07:31:30 | Weblog
自分は以前からそう利巧ではないとうすうす感じていたが、それを最近目の当たりにした。
私ぐらいの年になると皆さん腰に万歩計を付けていなさる。
それで私もそれを近くのスーパーで購入して腰のベルトに付けてみた。
ところはそれを3日で無くしてしまった。
まだ試運転のつもりでウオーキングの心の準備段階にもかかわらず、さあこれから本格的に歩くぞと思うまもなく紛失してしまった。
小さなものだからおそらく着替えのときにどこかに転がったに違いない。
それとも歩数を見ようとはずしたときにどこかに置き忘れたのかもしれない。
身の回りのどこかに転がっているのだろうけれど見当たらない。
自分の馬鹿さ加減に自分で愛想が尽きた。

「現代史の争点」

2006-05-20 07:16:32 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「現代史の争点」という本を読んだ。
奥付きによると著者の秦郁彦氏は東京大学卒となっているが、この本の題名から仕方のないことかもしれないが、他者の論文の悪口を並べ立てる趣味というのは読んでいても後味のいいものではない。
私は学者でないので、言いたい放題のことを言っているが、少なくとも学者と称せられる人が他人の論文にああでもないこうでもないと論評をして、それを飯の糧にする態度は凡人としては好感の持てるものではない。
学術的な切磋琢磨という点ではそれなりの効果もあろうが、ならば一般読者向けにそういうものは発表すべきではないと思う。
しかし、彼の家永三郎批判は私も共感する部分が多多あった。
家永三郎氏に関しては私も私なりの所感を自分流に綴っているが、それは自分のホームページにアップするのみで、それで金を得ているわけではなく、無責任極まりない放言に過ぎない。
その他の部分でも共感できそうな部分も多多あることは認めるが、どうも心から共鳴するには至らない。
それは氏が自分たちの同胞の行為をある意味で自虐的に捉えている部分があるからだと思う。
歴史というのは善悪とか、正義・不正義とか、良し悪しという価値判断で捉えてはならないと思う。
この地球上にAという民族と、Bという民族が隣り合わせにテリトリーを確立しているとして、AがBの領域に入った入らなかったということをこういう価値観では測れないと思う。
Aの食糧の備蓄がなくなって、Bに食料を少し分けてくれと言ったとして、素直にBが応じてくれれば戦争にはならないが、Bのほうもそれを飲めず抗争になったとして、それをこういう価値観では測れないと思う。
それを帝国主義は悪とか、植民地主義は悪だとか、侵略だとか、武力行使だとか、虐殺だとか、先に攻撃したから悪いとか、経済封鎖は悪だとか、そういう言い方はできないと思う。
学者という人たちは、物事を綺麗に見せたいと思うあまり、こういう言葉を羅列して体裁を取り繕おうとしているが、人間の生存ということ自体奇麗事ではすまないと思う。
秦氏の論調は、あの先の戦争も我々の努力しだいで回避できたに違いない、という言い回しであるが、人間の自然の在り方から考えれば、当然の帰結であったのかもしれない。
日本のような島国の中では、時代の経過とともに人口が増えるのは当然のことで、その打開の方法としては、広い大陸、一番身近な大陸に皆で出かけなければ、という思考になるのは自然の成り行きだと思う。
ところがその考えは、どの民族でも考えることは同じなわけで、そこで先に進出していたヨーロッパ系の民族と後発の我々の衝突ということになるわけで、ここでアジア大陸の先住民としての漢民族や朝鮮民族がしっかりしておれば、彼らとしての外圧、つまり日本やヨーロッパ系の圧力を跳ね返すことができたが、当時はそういう力を持っていなかったので、この地はあらゆる民族の富の草刈場となっていたわけである。
日本も西洋列強も同じ目的で中国の地で富の確保を目指していたにもかかわらず、その抗争に敗れたが最後、お前たちは悪人だ、アジアで悪いことをした、というレッテルを張られるのは私としては納得が行かない。
そのレッテルを自分たちで張るなどもってのほかである。
あの当時、中国の近代化が進んでおれば、中国が自分でその外圧を駆逐できたかもしれないが、当時はそうではなく列強諸国の富の草刈場であったではないか。
中国ばかりでなくアジア全体が帝国主義諸国(ヨーロッパ系の諸国)の富の草刈場であったにもかかわらず、その中で日本が生きんがため西洋列強と同じことをして何故に日本だけが悪者になるのか不可解千万である。
秦氏も、当時の日本の為政者が負ける戦争をした、敗戦という結果を招いた為政者に対して、大きな腹立ちや立腹の気持ちを持っているとしたらは私も納得できる。
しかし、この本はインパクトに欠け、人のあら捜しの面が強く、後味の良くない本であった。

定年後の生き方

2006-05-19 09:52:12 | Weblog
昨日は当市の主催する熟年大学という市民講座に出席した。
この日は開校式で、式の後、西田小夜子女史の「妻と夫の定年塾」と題する講演があった。
講師は上品で、教養も体からあふれんばかりで、話もそれなりに面白く聴けたので、それはそれなりにいいのだが、その話を聞いていてふと疑問に思った。
何故、このような話題が世間で受けるのかと。
定年、停年などということはサラリーマン社会のことで、だとしたら、それは入社したときから決まっており、その日が来たからといって慌てふためくほうがおかしいのではないかと思う。
人間を60年やっていて、サラリーマン生活を30年から40年近くしながら、それがわからない人間などというのは人間資格ではなかろうか。
ついで言うと、世間には過労死というものがあるようだが、自分が過労にもかかわらず、死ぬまで働くというのも、真に解せない話だと思う。
そういう人は自己愛、自分の命ということがわかっていないのだろうか。
体調が悪ければ医者にいく、疲れたならば休憩する、家族が困っていれば家族を優先するということがわかっていないのだろうか。
会社を休めば、その処遇に影響するというのはある意味で真実であろう。
今までの処遇に影響が出るのが怖くて、自分の命や自分の家族を秤にかけて、会社のほうを取るからこういう結果を招くわけで、それは自己責任だと思う。
会社が過酷な仕事を押し付けたから金よこせ、という論理は、判官びいきで、贔屓の引き倒しだと思う。
サラリーマンならば定年の来るのは自明のことで、定年になってしまってから、さて何をしようか、何をしたらいいか悩むようでは人間として価値を喪失していると思う。
そういう人がいても何ら不思議ではないが、それはあくまでも自己責任だと思う。
自分で解決しなければならないことだと思う。
何もしないというのも自己の選択であり、そういう選択もありうることは言うまでもない。
在職中に抜かりなく定年後の計画を練る、というのは抜け目のない生き方のように見えるが、本来はこうあるべきだと思う。
少なくとも定年後はその人の第2の人生なわけで、それをばら色にするも灰色にするも本人の責任だと思う。
私自身は既にガンも経験して死線を一度は超えたので、何も怖いものはなく、付録の人生だと考え、気ままに、だらしなく、怠惰に生きようと思っている。
まさしく、二度ワラシ(赤子がえり)に徹しようと思っている。
世間の奴ラメ、ざまあ見ろ!!!と世間を敵に回して生きてみたい。
出世もできず、金持ちにもなれなかったので、そのひがみ根性を世間にばら撒いて成仏したいものだと思っている。

「焼け跡の青春・佐々淳行」

2006-05-18 11:05:32 | Weblog
図書館から借りてきた本で、「焼け跡の青春・佐々淳行」という本を読んだ。
終戦をはさんだ自分史的な作品であり、当時の社会的な事件はいまさら驚くには当たらないが、やはり人間資質の違いというのは天命としか言いようがないとつくづく感じた。
中でも彼が東大に入ってからの全学連の記述には興味が惹かれるものがあった。
副題に「僕の昭和20年代史」となっているように、昭和20年代のことが詳細に語られているが、その中でもその当時の東大の内部のことが興味を引く部分である。
私のような凡人には、東大といえば雲の上の存在で、最初から挑戦しようなどという気も起きないが、この東大を始め、戦後の日本の左傾化というのはどう考えたらいいのであろう。
日本にもあの戦争の前に既に共産主義というものは浸透してきており、それを押さえ込むために治安維持法が制定されたことは歴史の事実として歴然としているが、それが敗戦でマッカアサーの命令で開放されたにもかかわらず、再び抑圧されるような行動に走るということは、彼ら日本共産党員というのは歴史から何も学んでないではないか。
少なくとも大学生ともなれば昔も今も共産主義が人類の理想を煽っているということが理解できないのであろうか。
理想を追うことと、現実との乖離ということが大学生にもなって理解できないのであろうか。
絵に描いた餅を食っていては人間は生きて行けないということがわからないのだろうか。
私個人としては、戦後のこういう左翼運動というのが未だに理解できない。
共産主義の目指すものがユートピアということは理解できるが、そんなユートピアが人間の世界に出来るわけがない、ということが彼らにはわからないのであろうか。
戦後の日本の学生運動の左傾化というのは結局のところ突き詰めれば、日本人の闘争精神の発露ではなかったかと思う。
つまり、彼らは口では反戦平和を唱えているが、本当は実に好戦的で、常に抗争を、戦うことを、死ぬか生きるかの刹那を、殺すか殺されるかの緊張感を追い求めているのではなかろうか。
戦中は、それを軍国主義の下で現実に敵の存在があったので、公然と言えたし、実施できたし、それが賞賛されたが、戦後はそういう行為と発想に蓋をされてしまったので、その矛先が体制側に振り向けられたのではなかろうか。
戦中ならば若い血潮に満ちた勇猛果敢な若者は、率先して予科練とか、少年戦車兵とか、幼年学校とか、戦うことを目的とした施設があり、そこに身を預けることは名誉なことと思われていた。
ところが戦後はそういうものが一切なくなってしまったので、若くて純情で純粋な攻撃精神を満たす場がなくなってしまった。
それで、そういう血気盛んな若者のよりどころが、全学連の武力闘争という形に変貌したのではないかと思う。
共産主義はそのための方便で、戦中ではそれが軍国主義であっただけのことで、若くて純情で、純真で若い血潮のたぎらせている若者は、何かに全エネルギーをぶつけていなければならなかったのではなかろうか。
若くて、純情で、純真であったからこそ、共産主義の唱える理想を追いかけ、敗戦という状況下で意気消沈している日本人の行き着く先はそういうユートピアでなければならないと思い込み、そのためには暴力も辞さないということになったのではなかろうか。
この暴力も辞さないという部分に、好戦的で、常に抗争を、戦うことを、死ぬか生きるかの刹那を、殺すか殺されるかの緊張感がくっついてしまったのではなかろうか。
そうとでも考えないことには、戦後の日本の騒乱を解きほぐせないと思う。
日本人の一部の人間、ある種の人間は、非常に好戦的で、常に騒動を起こすことを好む人間が相当数いると考えなければならない。
口では人権だとか、反戦平和だとか、非暴力と言いながら、暴力を振るう人間が掃いて捨てるほどいるということは一体どういうことなのであろう。
これが不良の喧嘩やヤクザの出入りならばそれだけの事ですんでいるが、それが日本の最高学府に籍を置く学生のすることともなれば大いに考えなければならない。

「菊と刀」

2006-05-17 10:52:20 | Weblog
久しぶりに古い本を読み返してみた。ルース・ベネジェクト女史の「菊と刀」である。
この本、実に素晴らしい本だと思う。我々の考えても見なかった日本人論だと思う。
日本人の深層心理をこれほど克明に表面化した著述は他にないのではないかと思う。
我々はどうしても同胞の中に埋没して生きているので、自分たちのことはさっぱり見えてこないが、異邦人として他の視点から我々を見ると、我々の思ってもみない視点というか、性癖というか、民族としての特徴が露に彫り起こされている。
そしてそれらが戦争という極限の状態で如何に我々の行動様式につながっているのかが見事に露呈されている。
今までにも、外国人が旅行者としての視点で見た日本観察記というようなものはたくさんあったが、ただ観察するだけではなく、日本人を民族としてその潜在意識を分析するという観点から掘り下げたものは極めて少ないし、我々自身もそういう試みが今までなかったのではないかと思う。
忠、考、義理、人情、名誉、恥、罰の文化と罪の文化の違いのなどという概念は、我々は全く意識せずにつかっている。
まるで空気のように、そういう概念を意識することなく極自然に振舞っているが、そういうものの積み重ねを解きほぐすことが彼女の研究対象となっている。
私が思うに、この本は日本人の特性を浮き彫りにすると同時に、アメリカがこういう研究を彼女にさせたという事実を重視しなければならないと思う。
極端な言い方をすると、彼女はアメリカの国策、つまりアメリカの軍事作戦の一環として、日本人の研究を人類学者として命じられたわけで、彼女は作戦の一環としてこの作品を著したことになり、アメリカ政府に対してこういう研究をすることで協力したということである。
すなわち彼女にとっては戦争の続きであったということを認識しなければならないと思う。
だから作品の価値が下がるというものではなく、にもかかわらず秀逸した作品だと認めなければならない。
仮に立場を変えて、日本側として戦争中の敵国の民情をこれほど研究させるという発想が我々は持ち得るであろうか。
我々の側は敵性語という言い方で英語の使用も禁止した経緯を鑑みると、とてもそういうことにはならないと思う。
今、この本を読み返してみると、彼女が研究した日本人、戦中に不幸にも捕虜となってしまった日本人と、今の我々を比べて見ると、隔世の感があるのではなかろうか。
65年前の我が同胞は確かに忠、考、義理、人情、恥などという概念を持った日本人であったろうが、今の我々はその当時の我々と同じ民族であろうか。
戦後の民主教育というものがそれをすっかり様代わりさせてしまったのではなかろうか。

ゴミ戦争

2006-05-16 17:10:11 | Weblog
画像は我が家の金色モクレンです。本文と関係なし。
近年ゴミ戦争といわれて久しいが、全く困ったことだ。
我が家は田舎の田んぼに囲まれた家なので、作物の枯れたものや植木を剪定した屑を今まで家の隅で燃やしていた。
ところがこれを止める様に家内がやかましく言う。
「法律や条例で禁止されているからやめよ」というわけであるが、ここは街中ではないので、と多寡を括って今まで続けてきたが、どうも年貢の納め時のようだ。
こんな馬鹿な話もないと思う。
自分の家の植木の剪定屑を自分の家で燃やしてはいけないなど言うことがあって良いものであろうか。
大都会の真ん中のことではない。
市指定の袋の入れておけば処理してくれることは承知しているが、この方が本当は金が掛かるし、手間も掛かるのだけれど、近年はそうしなければならないということだ。
本当に近頃はゴミ戦争の感があって、ゴミの出し方が悪いとか、行楽地のゴミは持ち帰れとか、高速道路に家庭ごみを持ち込むとか、様々な苦情があるようだが、これもすべからく国民のモラルの問題であろう。

鳩の死

2006-05-14 10:07:38 | Weblog
我が家の入り口の門の脇にカラタネオガタマの木というのがある。
その下に数日前、鳩の羽が落ちていた。
その時は、きっと烏にも襲われたのだろうと思って気にもしなかった。
ところが今朝新聞を取りにいって、ふと気が付くと、その木に鳩の死がいが乗っかっていた。
あれからだいぶ日にちがたって、その間に雨もあったりして姿かたちも変形してしまっているが、見たからにはそのままにしておくわけにもいかず、どこかに埋葬してやらねばならない。
しかし、何時からそんなところにあったのかさっぱり見当も付かない。
自然死したものか、本当に烏に襲われたものか、誰か人間がそこに放り投げたものなのか、皆目判らない。
カラタネオガタマの木というのも、開花がまじかに迫っているのに災難だろう。
この木の名前というのも実に不思議だ。
この家を作って、その後すぐ庭を作ったとき、庭師が植えてくれたものだが、最初はどうしてもこの木の名前が覚えれなかった。
字で書いて、目で見ればそうでもなかろうが、耳で聞いただけではどうしても聞き取れず、何度聞き返しても覚え切れなかった。