例によって図書館から借りてきた本で「トム・クランシ―の空母 上」という本を読んだ。
この本の奥付きによるとトム・クランシ―という人は著述家であって、その人が空母を取材したという形の記述である。
私はこの空母というものに特別の思いがある。
私の生まれた年が1940年で、1945年にもう戦争は終わってしまって、その時点で日本には空母・航空母艦というものはひとつも存在していなかった。
それから曲がりなりにも人生を歩んで、定年を迎え、自分への褒美としてアメリカ旅行をした時、偶然にもニューヨークの港で空母なるものの実物を見た。
その時はツアーの行程の途中であったので、立ち寄ることも出来ず、翌日の自由時間にそこに行って見た。
空母が町の岸壁に横付けされて、タラップが渡っていた。
この空母、アメリカ海軍の『イントレビット』で、対日戦にも参戦しているという話であった。
ところが日本の旅行会社では、こういうものに興味を示す旅人は一人もいないという前提で、どんな旅行ガイドにもニューヨークの町に存在するこの『イントレビット』に関する情報は載っていなかった。
私もたまたまツアーの行程で車の窓から垣間見ただけのことで、ニューヨークという大都会の真ん中に、航空母艦が博物館として鎮座しているなどとは思ってもみなかった。
そしてさらに運の悪いことに、折角のフリ―タイムに一人でたどり着いたはいいが、よりによって休館日だったとは、まさしく運につき放された感じだ。
この時に行った、スミソニアン航空博物館では、空母のモックアップがあったことはあったが、如何せんモックアップでは映画のセットを見るようなもので迫力に欠ける。
このニューヨークの港に展示してある空母『イントレビット』は、ある意味でアメリカ合衆国の戦争の勝利を記念する象徴であったに違いない。
ところが、そういうものを大事にする気持ちの中に、民族の誇り、国家への忠誠心が潜んでいるのではなかろうか。
アメリカというのは移民で成り立っている国なので、アメリカ人に民族の誇りや、国家への忠誠心が無いとみるのは浅薄な思考なのではなかろうか。
確かに、アメリカ人の中には多種多様な人々が入り混じっているが、しかし、彼らには日本人以上に、祖国に対する誇りと忠誠心が備わっているように見受けられる。
そういう意味で、我々の方は実に薄情で、あの日米戦争で我が民族が完膚無きまでに敗北すると、あの日露戦争の勝利の象徴であった戦艦『三笠』を、アメリカ兵相手のキャバレーにまでしてしまった。
その現状に憂いて、戦艦『三笠』の復元に協力したのは元敵将の二ミッツ提督である。
この考え方の落差というか、格差というか、日米の将兵の間に立ちふさがっている意識の相異は、基本的には民族の思考の相異に、そのままつながっているものと私は考える。
戦争に負けたからと言って、過去の実績まで全否定してしまって、かつて栄光の座に鎮座していた名誉ある記念品をキャバレーにまで貶めて意に介さない民族と、過去の栄光を民族の誇りとして末長く顕彰してやまない民族の相異が如実に表れていると思う。
戦艦『三笠』の栄光というのは、ただ単に日本海海戦の旗艦であったと言うだけではなく、世界史的に大きなエポックを指し示した事件であったわけで、我々日本人は、その世界史的な意義に全く気が付いていないのである。
ただ単に、数ある海戦の中の一つに勝利した、というだけの価値ではなく、それは世界史的に見て、黄色人種が白人の西洋文化に勝利した、という地球史上、人類史上、未曾有の出来ごとであったわけで、その意味が我々日本人にはわかっていないのである。
西洋の白人、ヨーロッパ系のキリスト旧文化圏の人々にとって、黄色人種の日本人、モンゴロイド系の中国人やジャワ、スマトラ、インド人と同じ色をした日本人が、近代化を成す、西洋文化を自由自在に扱うという事そのこと自体が想定外のことであったに違いない。
もともとそういう認識で見ていた日本民族が、当時の世界で最強のロシアを破ったという事は、まさしく驚天動地の出来事であったわけで、その象徴である戦艦『三笠』がキャバレーの落ちぶれていては、心ある軍人、武士道に憧れを抱く武人にとっては、元の敵味方の枠組みを超えて心が痛まないはずがない。
戦いに敗れた日本人は、その戦艦『三笠』の世界的な認識を理解し得ずに、キャバレーにしてしまったが、心ある武人、武士道を心得た騎士は、その世界史的な意義を真から心得ていたので、それの復元に協力を惜しまなかったのである。
対日戦争に勝利したアメリカは、戦争の道具として兵器を博物館という形で各地で保存しているが、不思議なことにあの戦争に負けた我々は、敗北の象徴のみを健気に顕彰している、という現実をどう考えたらいいのであろう。
先の話ではないが、戦争に勝った象徴は状況が変わるとキャバレーにしても何の痛痒も感じていないが、広島の原爆ドームは触ってもならないという。
少しでも手を加えると、その人は「戦争好きな人間」というレッテルを張って排除しようとする。
この非常識、この非人間的な態度が、平和志向と呼ばれる不思議さに、日本人の誰もが異議を差し挟まないという事は一体どういう事なのであろう。
ニューヨークで空母『イントレビット』を見そこなったという話から変な話に行ってしまったが、最近、DVDで最新式のアメリカの空母『アイゼンハゥワー』の映像を見たし、インターネットでも動画で空母の映像を見る機会があったが、空母を運用するということは実に大変な事だと思う。
それだけに戦争の道具としては極めて有効であろうが、それが運用出来るという事は、そのこと自体が国力の象徴でもある。
今の世界では、軍艦は祖国の延長と考えられているわけで、空母・航空母艦そのものが国の続き、領土の延長、本国と同じということであって、言い方を変えれば、本国の軍事基地が地球上をあっちにったりこっちにいたりしているということである。
中東でトラブルがあれば、スーッとそっちに流れて行き、台湾海峡で風雲急を告げる雰囲気になれば、又スーッとそこに流れ着くわけで、軍事基地が丸ごと移動する。
しかも公海上の移動なので誰からも文句が出ないので、アメリカとしてはまことに都合が良いわけである。
これを運用するには現代科学の粋を結集して、テクノロジーのたゆまない精進を心がけなければ、それが運用出来ないわけで、言い換えれば国力の象徴でもある。
ところが我々日本人というのは、戦後65年以上も、そういう事を考えたことが無い。
自分の祖国の国際的なプレゼンスという認識を真に考えたことが無い。
ただただ経済的に儲かれば良い、如何なる国にも話し合いで仲良くし、相手の欲しがるものは何でも与え、金もどんどん振舞えばいいという発想であるから、外国に対して自分の存在感を示すという発想には全く至らない。
まさしく、金持ちの苛められっ子が、ガキ大将に何でもかんでも言い成りになって、苛めいから解放されようとする態度と同じである。
これでも平和といえば平和である。
しかし、他者から見れば「あの弱虫が!」という軽蔑の意味合いを含んだ価値観が定着するわけで、ならば「自分たちも少しばかり恩典に浴そう」という発想に至るのも自然の成り行きである。
今の日本人は戦後65年以上も戦争という事を考えたことが無い。
先の大戦で、心底、懲りてしまって、戦争というと、そこでもう思考が止まってしまってPTSDに陥ってしまい、正常な思考に戻れなくなってしまっている。
だから観念論で戦争というものを眺めて、リアルな視点で物を見ることができなくなってしまい、観念だけが独り歩きしている。
イラクへの自衛隊の派遣の時、「息子たちを戦場に送るな」というスローガンがあった。
もっともなことである。
日本の母親のみならず、何処の国の母親だとて、自分の息子が戦場に行くことを喜ぶ人はおらず、出来ればそうさせたくないと思っているのは当然である。
誰にとっても、戦場で殺し合いに明け暮れることを好む人はいないわけで、出来ればそういうことは避けて通りたいと願っていると思う。
しかし、その嫌な仕事も誰かがせねばならないし、誰かがしなければ、自分たちが奴隷にさせられるともなれば、誰か彼かが犠牲的精神を発揮して立ち上がらなければならないではないか。
我々は先の戦争で完膚なきまで叩かれたので、自分で自分の身を守ることも放棄して、他者に依存して、寄生虫のように他国の安全保障の傘の下で、寄らば大樹の陰に労せずに寄りかかって、戦後65年何となく生き抜いてきたので、リアルな国益というものを考えたことが無い。
この本を読んで、空母・航空母艦の上で仕事をしている人たちの姿は、それこそアメリカ社会の縮図だと思う。
一隻の空母には約5千人ぐらいの人間が乗っていると見做していいと思うが、そうなるとそれはもう小さな町や村の規模と同じなわけで、言い換えればアメリカ社会そのものだという事になる。
ここで起居している人たちは、平均で25歳前後の人たちであるが、この世代というのは如何なる国家でも民族でも社会の中枢を成しているわけで、そういう人たちの生き様は、それこそ社会のエネルギーをそのままの姿で反映していると思う。
空母の甲板で戦闘機が目まぐるしく発艦、着艦しているなかで、ボヤーっとしていたら自分が何処かに吹き飛ばされてしまうわけで、その姿はまさしく社会の荒波を生き抜く術と同じだと思う。
我々、日本の今の若者が、あの環境に耐えて生き残れるであろうか。
一人一人の個人は、それなりの訓練を経てそれぞれの仕事をこなしているとは言うものの、日本の若者がああいう訓練に耐え、仕事をこなす心の持ちようがあるであろうか。
この空母の上で仕事をしている人々は、全て志願兵、志願してその任についている人ばかりなので、仕事に対する不満というのはないかもしれないが、その前にその事によって金を得ているという点も見逃してはならないと思う。
徴兵制の下では全てが国家の為という大義のもと、タダ働きに等しい扱いであったが、今の志願制度の下では、その意味ではある種の就職という意味合いも含まれているとは思う。
ならばこそ、人の嫌がる仕事につくということは、それこそ見上げたボランテイア精神につながるものと思う。
しかし、空母というのは、現代科学とテクノロジーの完全なる融合の上に成り立っているので、そうそうバカでは務まらないと思う。
今では空母ばかりではなく、あらゆる職域で現代科学とテクノロジーが混ざり合っているので、その意味では特別なことではないかも知れないが、世の中の進歩に素直についていけるだけの頭脳の柔軟性が求められていることは確かだと思う。
それに引き換え、日本の若者の軟弱さはどうしたらいいのであろう。
引き籠りだとか、フリーターだとか、コンピューターお宅だとか、昼間からパチンコ屋やゲーセンにたむろしている若者だとか、こういう若者と、空母の上で立ち働いてる若者を見較べると、普通の神経をしたものならば、その先に憂いの心持が湧くのが当然のことだと思う。
この空母の上で立ち働く人々も、戦闘機のパイロットも、戦争が好きだからとか、人殺しのためにだとか、そういう認識で仕事をしているわけではないと思う。
ただ単に、自分に任せられた任務を、仕事と割り切ってこなしているだけで、その先に人の命が掛かっているなどとは考えていないと思う。
日本の平和主義の人たちの言い分は、この部分に掛かっているのだと思うが、それはものの見方の視点の相異であって、「ああ言えばこう言う」式の屁理屈に過ぎないと思う。
戦争を、悪とか善で認識するとそういう理屈に行きついてしまうが、戦争はあくまでも政治の一形態であって、政治のある種の特殊な状況だと考えれば、その先に人の命がぶら下がっていても何ら不思議ではない。
戦後の我々の発想では、だからこそ我々は自衛の為の武力も放棄したわけで、我々は叩かれても叩かれても、黙って屈辱に耐えるとういう政治選択をしようとしたわけである。
こういう事を高々と叫ぶ人は、そういう事態になると、それを引き起こしたのは政治の所為で、政府の舵取りが悪かっただからそうなった、という言い分でその責任を政府におい被せようとする。
これで解るように、我々、日本民族というのは、自分たちの国を自分たちで治めようという発想ではないわけで、何か知らんが上にいる何ものかによって管理されつつ治められている、という潜在意識に嵌り込んでいるようである。
政府、統治者、お上等々、言葉はいろいろあるが、我々、日本民族の政治というのは、自分たちで統治のルールを作るという発想は全くないわけで、統治という概念を喪失したまま、アメ―バーの自己増殖のように無定形に、無制限に、無秩序に広がってしまっているので、民族の核を持たないまま、意思のみが広がってしまい、誰もそれを集約し、収斂し、方向つけするものがいないのである。
だから川の中の浮草のように、時流に翻弄されつつ、左に寄ったり右に寄ったりと、あっちに行ったりこっちに行ったりと、位置が定まらないのである。
ただ21世紀の地球というのは、自国だけの問題というのは極めて少なくなって、あらゆる問題が国境の柵を超えて国際的な広がりを持つようになってきているので、国益というものが微妙に揺れ動いている。
だから、自国の国益だけを高々と掲げることは、多国間の摩擦の大きな原因になりかねないので、相当に慎重に構えなければならないが、そういうことに全く無頓着な国も我々の周囲にはある。
空母に関して言えば、最近中国が空母の建造に取りかかっているということが言われているが、中国人に空母の運用は出来ないと思う。
空母を運用するという事は、極めて民主化の度合いの進んだ、開けた意識の人々でなければ、それが出来ないからである。
一人一人の人間が、仕事上では階級や身分の相異を意識しなくても済む状況でなければ、戦闘機を発艦させ、着艦させることが不可能だからである。
あの狭い飛行甲板で、並みの地方空港よりも沢山の飛行機を離発着させる芸当は、一人一人の連携が何より大事なわけで、その中で野暮な個人主義や、階級意識が残っておれば、たちまち業務に支障をきたしてしまうに違いない。
昔、今の中国の前の清王朝では、当時の日本の軍艦を凌駕する最新鋭の『定遠』と『鎮遠』という軍艦を持っていた。
それを日本の対して見せびらかしに来て、中国の国威掲揚を図ったが、その軍艦に洗濯物が干してあるのを見た当時の日本海軍の軍人たちは、その在り様を見て「清国の海軍は大したことない」と思ったが、果たしてその通りで、その軍艦は日清戦争であっけなく消滅してしまた。
ことほど左様に、兵員の士気というのは、国の安全保障に大きく関わり合っている筈で、そういう目で物を見る癖をつけておくことは極めて大事だと思う。
この本の奥付きによるとトム・クランシ―という人は著述家であって、その人が空母を取材したという形の記述である。
私はこの空母というものに特別の思いがある。
私の生まれた年が1940年で、1945年にもう戦争は終わってしまって、その時点で日本には空母・航空母艦というものはひとつも存在していなかった。
それから曲がりなりにも人生を歩んで、定年を迎え、自分への褒美としてアメリカ旅行をした時、偶然にもニューヨークの港で空母なるものの実物を見た。
その時はツアーの行程の途中であったので、立ち寄ることも出来ず、翌日の自由時間にそこに行って見た。
空母が町の岸壁に横付けされて、タラップが渡っていた。
この空母、アメリカ海軍の『イントレビット』で、対日戦にも参戦しているという話であった。
ところが日本の旅行会社では、こういうものに興味を示す旅人は一人もいないという前提で、どんな旅行ガイドにもニューヨークの町に存在するこの『イントレビット』に関する情報は載っていなかった。
私もたまたまツアーの行程で車の窓から垣間見ただけのことで、ニューヨークという大都会の真ん中に、航空母艦が博物館として鎮座しているなどとは思ってもみなかった。
そしてさらに運の悪いことに、折角のフリ―タイムに一人でたどり着いたはいいが、よりによって休館日だったとは、まさしく運につき放された感じだ。
この時に行った、スミソニアン航空博物館では、空母のモックアップがあったことはあったが、如何せんモックアップでは映画のセットを見るようなもので迫力に欠ける。
このニューヨークの港に展示してある空母『イントレビット』は、ある意味でアメリカ合衆国の戦争の勝利を記念する象徴であったに違いない。
ところが、そういうものを大事にする気持ちの中に、民族の誇り、国家への忠誠心が潜んでいるのではなかろうか。
アメリカというのは移民で成り立っている国なので、アメリカ人に民族の誇りや、国家への忠誠心が無いとみるのは浅薄な思考なのではなかろうか。
確かに、アメリカ人の中には多種多様な人々が入り混じっているが、しかし、彼らには日本人以上に、祖国に対する誇りと忠誠心が備わっているように見受けられる。
そういう意味で、我々の方は実に薄情で、あの日米戦争で我が民族が完膚無きまでに敗北すると、あの日露戦争の勝利の象徴であった戦艦『三笠』を、アメリカ兵相手のキャバレーにまでしてしまった。
その現状に憂いて、戦艦『三笠』の復元に協力したのは元敵将の二ミッツ提督である。
この考え方の落差というか、格差というか、日米の将兵の間に立ちふさがっている意識の相異は、基本的には民族の思考の相異に、そのままつながっているものと私は考える。
戦争に負けたからと言って、過去の実績まで全否定してしまって、かつて栄光の座に鎮座していた名誉ある記念品をキャバレーにまで貶めて意に介さない民族と、過去の栄光を民族の誇りとして末長く顕彰してやまない民族の相異が如実に表れていると思う。
戦艦『三笠』の栄光というのは、ただ単に日本海海戦の旗艦であったと言うだけではなく、世界史的に大きなエポックを指し示した事件であったわけで、我々日本人は、その世界史的な意義に全く気が付いていないのである。
ただ単に、数ある海戦の中の一つに勝利した、というだけの価値ではなく、それは世界史的に見て、黄色人種が白人の西洋文化に勝利した、という地球史上、人類史上、未曾有の出来ごとであったわけで、その意味が我々日本人にはわかっていないのである。
西洋の白人、ヨーロッパ系のキリスト旧文化圏の人々にとって、黄色人種の日本人、モンゴロイド系の中国人やジャワ、スマトラ、インド人と同じ色をした日本人が、近代化を成す、西洋文化を自由自在に扱うという事そのこと自体が想定外のことであったに違いない。
もともとそういう認識で見ていた日本民族が、当時の世界で最強のロシアを破ったという事は、まさしく驚天動地の出来事であったわけで、その象徴である戦艦『三笠』がキャバレーの落ちぶれていては、心ある軍人、武士道に憧れを抱く武人にとっては、元の敵味方の枠組みを超えて心が痛まないはずがない。
戦いに敗れた日本人は、その戦艦『三笠』の世界的な認識を理解し得ずに、キャバレーにしてしまったが、心ある武人、武士道を心得た騎士は、その世界史的な意義を真から心得ていたので、それの復元に協力を惜しまなかったのである。
対日戦争に勝利したアメリカは、戦争の道具として兵器を博物館という形で各地で保存しているが、不思議なことにあの戦争に負けた我々は、敗北の象徴のみを健気に顕彰している、という現実をどう考えたらいいのであろう。
先の話ではないが、戦争に勝った象徴は状況が変わるとキャバレーにしても何の痛痒も感じていないが、広島の原爆ドームは触ってもならないという。
少しでも手を加えると、その人は「戦争好きな人間」というレッテルを張って排除しようとする。
この非常識、この非人間的な態度が、平和志向と呼ばれる不思議さに、日本人の誰もが異議を差し挟まないという事は一体どういう事なのであろう。
ニューヨークで空母『イントレビット』を見そこなったという話から変な話に行ってしまったが、最近、DVDで最新式のアメリカの空母『アイゼンハゥワー』の映像を見たし、インターネットでも動画で空母の映像を見る機会があったが、空母を運用するということは実に大変な事だと思う。
それだけに戦争の道具としては極めて有効であろうが、それが運用出来るという事は、そのこと自体が国力の象徴でもある。
今の世界では、軍艦は祖国の延長と考えられているわけで、空母・航空母艦そのものが国の続き、領土の延長、本国と同じということであって、言い方を変えれば、本国の軍事基地が地球上をあっちにったりこっちにいたりしているということである。
中東でトラブルがあれば、スーッとそっちに流れて行き、台湾海峡で風雲急を告げる雰囲気になれば、又スーッとそこに流れ着くわけで、軍事基地が丸ごと移動する。
しかも公海上の移動なので誰からも文句が出ないので、アメリカとしてはまことに都合が良いわけである。
これを運用するには現代科学の粋を結集して、テクノロジーのたゆまない精進を心がけなければ、それが運用出来ないわけで、言い換えれば国力の象徴でもある。
ところが我々日本人というのは、戦後65年以上も、そういう事を考えたことが無い。
自分の祖国の国際的なプレゼンスという認識を真に考えたことが無い。
ただただ経済的に儲かれば良い、如何なる国にも話し合いで仲良くし、相手の欲しがるものは何でも与え、金もどんどん振舞えばいいという発想であるから、外国に対して自分の存在感を示すという発想には全く至らない。
まさしく、金持ちの苛められっ子が、ガキ大将に何でもかんでも言い成りになって、苛めいから解放されようとする態度と同じである。
これでも平和といえば平和である。
しかし、他者から見れば「あの弱虫が!」という軽蔑の意味合いを含んだ価値観が定着するわけで、ならば「自分たちも少しばかり恩典に浴そう」という発想に至るのも自然の成り行きである。
今の日本人は戦後65年以上も戦争という事を考えたことが無い。
先の大戦で、心底、懲りてしまって、戦争というと、そこでもう思考が止まってしまってPTSDに陥ってしまい、正常な思考に戻れなくなってしまっている。
だから観念論で戦争というものを眺めて、リアルな視点で物を見ることができなくなってしまい、観念だけが独り歩きしている。
イラクへの自衛隊の派遣の時、「息子たちを戦場に送るな」というスローガンがあった。
もっともなことである。
日本の母親のみならず、何処の国の母親だとて、自分の息子が戦場に行くことを喜ぶ人はおらず、出来ればそうさせたくないと思っているのは当然である。
誰にとっても、戦場で殺し合いに明け暮れることを好む人はいないわけで、出来ればそういうことは避けて通りたいと願っていると思う。
しかし、その嫌な仕事も誰かがせねばならないし、誰かがしなければ、自分たちが奴隷にさせられるともなれば、誰か彼かが犠牲的精神を発揮して立ち上がらなければならないではないか。
我々は先の戦争で完膚なきまで叩かれたので、自分で自分の身を守ることも放棄して、他者に依存して、寄生虫のように他国の安全保障の傘の下で、寄らば大樹の陰に労せずに寄りかかって、戦後65年何となく生き抜いてきたので、リアルな国益というものを考えたことが無い。
この本を読んで、空母・航空母艦の上で仕事をしている人たちの姿は、それこそアメリカ社会の縮図だと思う。
一隻の空母には約5千人ぐらいの人間が乗っていると見做していいと思うが、そうなるとそれはもう小さな町や村の規模と同じなわけで、言い換えればアメリカ社会そのものだという事になる。
ここで起居している人たちは、平均で25歳前後の人たちであるが、この世代というのは如何なる国家でも民族でも社会の中枢を成しているわけで、そういう人たちの生き様は、それこそ社会のエネルギーをそのままの姿で反映していると思う。
空母の甲板で戦闘機が目まぐるしく発艦、着艦しているなかで、ボヤーっとしていたら自分が何処かに吹き飛ばされてしまうわけで、その姿はまさしく社会の荒波を生き抜く術と同じだと思う。
我々、日本の今の若者が、あの環境に耐えて生き残れるであろうか。
一人一人の個人は、それなりの訓練を経てそれぞれの仕事をこなしているとは言うものの、日本の若者がああいう訓練に耐え、仕事をこなす心の持ちようがあるであろうか。
この空母の上で仕事をしている人々は、全て志願兵、志願してその任についている人ばかりなので、仕事に対する不満というのはないかもしれないが、その前にその事によって金を得ているという点も見逃してはならないと思う。
徴兵制の下では全てが国家の為という大義のもと、タダ働きに等しい扱いであったが、今の志願制度の下では、その意味ではある種の就職という意味合いも含まれているとは思う。
ならばこそ、人の嫌がる仕事につくということは、それこそ見上げたボランテイア精神につながるものと思う。
しかし、空母というのは、現代科学とテクノロジーの完全なる融合の上に成り立っているので、そうそうバカでは務まらないと思う。
今では空母ばかりではなく、あらゆる職域で現代科学とテクノロジーが混ざり合っているので、その意味では特別なことではないかも知れないが、世の中の進歩に素直についていけるだけの頭脳の柔軟性が求められていることは確かだと思う。
それに引き換え、日本の若者の軟弱さはどうしたらいいのであろう。
引き籠りだとか、フリーターだとか、コンピューターお宅だとか、昼間からパチンコ屋やゲーセンにたむろしている若者だとか、こういう若者と、空母の上で立ち働いてる若者を見較べると、普通の神経をしたものならば、その先に憂いの心持が湧くのが当然のことだと思う。
この空母の上で立ち働く人々も、戦闘機のパイロットも、戦争が好きだからとか、人殺しのためにだとか、そういう認識で仕事をしているわけではないと思う。
ただ単に、自分に任せられた任務を、仕事と割り切ってこなしているだけで、その先に人の命が掛かっているなどとは考えていないと思う。
日本の平和主義の人たちの言い分は、この部分に掛かっているのだと思うが、それはものの見方の視点の相異であって、「ああ言えばこう言う」式の屁理屈に過ぎないと思う。
戦争を、悪とか善で認識するとそういう理屈に行きついてしまうが、戦争はあくまでも政治の一形態であって、政治のある種の特殊な状況だと考えれば、その先に人の命がぶら下がっていても何ら不思議ではない。
戦後の我々の発想では、だからこそ我々は自衛の為の武力も放棄したわけで、我々は叩かれても叩かれても、黙って屈辱に耐えるとういう政治選択をしようとしたわけである。
こういう事を高々と叫ぶ人は、そういう事態になると、それを引き起こしたのは政治の所為で、政府の舵取りが悪かっただからそうなった、という言い分でその責任を政府におい被せようとする。
これで解るように、我々、日本民族というのは、自分たちの国を自分たちで治めようという発想ではないわけで、何か知らんが上にいる何ものかによって管理されつつ治められている、という潜在意識に嵌り込んでいるようである。
政府、統治者、お上等々、言葉はいろいろあるが、我々、日本民族の政治というのは、自分たちで統治のルールを作るという発想は全くないわけで、統治という概念を喪失したまま、アメ―バーの自己増殖のように無定形に、無制限に、無秩序に広がってしまっているので、民族の核を持たないまま、意思のみが広がってしまい、誰もそれを集約し、収斂し、方向つけするものがいないのである。
だから川の中の浮草のように、時流に翻弄されつつ、左に寄ったり右に寄ったりと、あっちに行ったりこっちに行ったりと、位置が定まらないのである。
ただ21世紀の地球というのは、自国だけの問題というのは極めて少なくなって、あらゆる問題が国境の柵を超えて国際的な広がりを持つようになってきているので、国益というものが微妙に揺れ動いている。
だから、自国の国益だけを高々と掲げることは、多国間の摩擦の大きな原因になりかねないので、相当に慎重に構えなければならないが、そういうことに全く無頓着な国も我々の周囲にはある。
空母に関して言えば、最近中国が空母の建造に取りかかっているということが言われているが、中国人に空母の運用は出来ないと思う。
空母を運用するという事は、極めて民主化の度合いの進んだ、開けた意識の人々でなければ、それが出来ないからである。
一人一人の人間が、仕事上では階級や身分の相異を意識しなくても済む状況でなければ、戦闘機を発艦させ、着艦させることが不可能だからである。
あの狭い飛行甲板で、並みの地方空港よりも沢山の飛行機を離発着させる芸当は、一人一人の連携が何より大事なわけで、その中で野暮な個人主義や、階級意識が残っておれば、たちまち業務に支障をきたしてしまうに違いない。
昔、今の中国の前の清王朝では、当時の日本の軍艦を凌駕する最新鋭の『定遠』と『鎮遠』という軍艦を持っていた。
それを日本の対して見せびらかしに来て、中国の国威掲揚を図ったが、その軍艦に洗濯物が干してあるのを見た当時の日本海軍の軍人たちは、その在り様を見て「清国の海軍は大したことない」と思ったが、果たしてその通りで、その軍艦は日清戦争であっけなく消滅してしまた。
ことほど左様に、兵員の士気というのは、国の安全保障に大きく関わり合っている筈で、そういう目で物を見る癖をつけておくことは極めて大事だと思う。