例によって図書館から借りてきた本で、「露探」という本を読んだ。
日露戦争の頃、つまり1904年、明治37年頃、日本がロシアと戦火を交えるに当たり、日本の情報をロシアに流すかあるいはその恐れのあるスパイのことを察し示しているが、実際にそういうことがあったかどうかを検証した本であった。
実際にはそういう行為をした人が居たかどうかは不明のままであるが、相手を露探と言って、誹謗中傷することによって貶めるということはあったらしい。
つまり、いじめの口実として露探という言葉が使われたらしい。
そういうことが詳しく検証されているが、それはそれとして読み物としては楽しめるが、ここで考えなければならないことは、我々同胞のいじめの構造である。
ありもしないことを、「あいつは露探ではないか?」と言うことで、相手を窮地に陥れる行為は今でも十分に生きていると思う。
今、話題になっている小中学校のいじめの問題もこれとまったく同じ構図であるし、こういうことは政策としても、あるいは立身出世にも大いに利用されていることだと思う。
人の噂も75日というが、確かに、噂そのものは75日で消えるかもしれないが、その根も葉もない噂によってこうむった被害は75日程度では回復されないと思う。
これの大掛かりなものが、中国の反日運動があって、南京大虐殺などで「30万人の大虐殺」などと声を大にして叫んでいるが、これこそ根も葉もない噂の大合唱だ。
ところが、それを何度も何度もあらゆる機会を捉えて大合唱をすると、根も葉もない噂が真実になってしまうから困るのである。
その最初の根拠は、極東国際軍事法廷で暴露されたことから始まるが、それ以降年を重ねるに従い被害者数が年々増加して、今では30万人で確定していることの不思議さを誰も指摘しない。
誰も指摘しないから30万という数字が真実味を帯びて、それが真実になってしまったではないか。
もっとも、ここまでの過程で、いくらその誤りを正そうとしても、相手がこちらの言うことを聞かず、自分たちの都合のいいことだけを声高に叫んでいるので、声の大きい方が信用されるということになっている。言葉の戦いというのは暴力を伴っていないので、奇麗事のように受け取られているが、民主主義というのは言葉の戦いだと言われつつ、嘘や方便も言葉の戦いでは武器となるわけで、言葉の戦いといっても洗練された国際感覚が最終的にはものをいうと思う。
あの第二次世界大戦でキリスト教文化圏の連合軍が何故中国を味方に引き入れ、日本と敵対したかと考えると、やはりそこには国際感覚というものが伏流水のように流れていたように思う。
蒋介石は自分の国がキリスト教文化圏の連合軍に散々食い物にされても、それでもなお彼らと手を組んで、日本に対して抗戦をしたかということは彼の天与の国際感覚であったと思う。
それに比べると我々の祖国は国際的にはまったく孤立していたわけで、その意味でまさしく国際感覚が劣っていたということに他ならない。
国際感覚が劣っていたからこそ地球規模でいじめにあったわけで、それが第二次世界大戦であり、太平洋戦争であったものと考える。
日本がいじめにあうということは、我々が他の民族と比べて突出していたからで、「出る杭は打たれる」ということである。
小中学校のいじめでも、何か人と違う印象をもったものが対象とされるわけで、人よりもアクシュンが一歩遅いとか、あるいは早すぎるとか、あるいは弱そうだとか、人より良い物を持っているとか、とにかく平均よりもどこかしら突出しているといじめの対象とされる。
そのいじめに対して反撃する、特に腕力で以って反撃すると、今度は「暴力はいけない」といわれるので、いじめはますます顕在化して、人に隠れていじめをする側は見逃されるが、そのいじめに公然と抵抗すると、抵抗した方が糾弾されるわけである。
「あいつは露探だ!」と言われて、弁解すると、「弁解するからには何か後ろめたいことがあるではないか」という論理になる。
この構図はそのまま昭和初期の我が祖国の置かれた立場と、当時の世界の認識と見事にマッチしているではないか。
こういう状況下で生き抜くためには国際感覚こそもっとも肝要だと思うが、悲しいかな我々にはその国際感覚というものが十分に醸成されていなかった。
相手の毒に対して、毒を以って制ずるという発想を、武士道に反する汚い行為だと認識しているが、これこそ究極の国際感覚の欠如だと思う。
四周を海に囲まれているので、どうしても「井戸の中の蛙」的思考になってしまって、「葦の髄から天覗く」ということになってしまう。
唯我独尊的に、我々が「良い」と思っていることは地球規模で、あるいは全人類にとって良い事に違いない。その良い事を推し進めるのに何が悪いという思考になりがちである。
1932年、昭和7年に日本は満州国を建国した。それに関連してリットン調査団が柳条湖事件調査のため来日したが、その対応と事後の処置が極めて不味かった。
この部分に、自分たちが良い事だと思っていることは世界が認めるに違いない、という安易な思い込みが見られる。
我々の考えていることと、世界の考えていることには位相のずれがあるということに気が付かず、その部分に国際感覚の未熟さがあった。
我々は「西洋列強のしていることと同じことをして何が悪い」という思考であるが、西洋列強、キリスト教文化圏の人々からすれば「白人のすることはいいが黄色人種のジャップがすることは罷り成らぬ」という意識があったわけで、我々はそれを測りかねたわけである。
西洋人、キリスト教文化圏の人々の深層心理を慮ることをしなかったわけで、その部分に国際感覚の未熟さが潜んでいたことになる。
これが同じ黄色人種でもジャップではなく、中国人や朝鮮人ならば、彼らも鷹揚に構えて目くじらを立てずにおれたけれども、何しろ相手は日本人、ジャップだったから彼らの癇に障ったわけである。
日本人でない中国人であったから、蒋介石は連合軍側に引き入れられたわけで、彼は体よく利用されただけであるが、利用されること自体が彼ら中国にとっては国益であったわけである。
そういう支援があったにもかかわらず蒋介石は中国を統一できず、共産主義者に国そのものを乗っ取られてしまったではないか。
アメリカも中国を支援しておきながら、その見返りは何もなく、アメリカの若い兵士の血を染めてようやく我々を屈服させたが、結果から見るとアメリカの中国支援は何であったかといいたい。
アメリカに対しては、我々は完璧に敗北し、国土は灰燼に帰すまで打ちのめされたが、中国戦線では我々は本当に敗北したのだろうか。
1945年、昭和20年8月の時点で、中国の各地に展開していた日本軍は敗北したのであろうか。
天皇陛下の終戦の詔勅で、日本軍の将兵は一方的に武器を置いたわけだが、これは戦闘を停止しただけのことで、戦争の敗北とは次元が違うことではなかろうか。
ということは、我々は中国に対しては敗戦国ではなく、降伏したことにもならないのではなかろうか。
その辺りになんとなく不思議さを感じる。
国の最高司令官(昭和天皇)が敗北を認めたのだから、「敗北だ」と言われるとなんとなく「そうかな」とも思うが、ならば中国の地における現実の実効支配は一体何なんだということになる。
この日まで日本軍は国民党軍あるいは八路軍(共産党軍)と銃火を交えていたにもかかわらず、一夜にして相手の、敵側の実効支配に移るというのも全く腑に落ちない話だと思う。
その上、その後の流れとして、敵側の人間が「あいつが戦争犯罪者だ」と言えば、指名された人間は逃げも隠れもせず、獄につながれ刑に服すなどということがあっていいものだろうか。
この本の述べようとする本旨からずれてしまったが、ようは根も葉もない噂を流して、人を糾弾するということはメデイアの知性、理性、理知にかかわっているわけで、報ずる側にそれがないから犠牲者、被害者が出るわけだ。
報ずる側に無責任体勢がある限り、いつの世になってもこういうことは後を絶たない。
昨今は虚偽の報道ということがやかましく言われているが、そういうことのないようにメデイアの組織内部で自浄作用が多少とも利くようになったが、それでもなお昨今報じられてるように、NHK内部でインサイダー取引が現実にあるわけで、メデイアの自浄作用も「百年河清を待つ」という感じでしかない。
メデイアの一線で活躍する人は、昔はインテリーヤクザといって、まともな人は彼らを蔑視していた。
彼らは蔑視されても致し方ない存在であった。
NHKの事例でも分かるように、情報に一番最初に接しれる立場を利用して、自分だけ得をしようと画策するわけで、していることはヤクザ、あるいは暴力団と全く同じではないか。
新聞ゴロという言葉もある。
自分の得た情報で相手を恫喝して金品をむしり取るというのもヤクザと同じ手口だし、それの延長線上に「露探」といって、相手の政治生命や社会的地位を貶める行為があるわけである。
この本の著者は、最後に「露探」と「軍神」を同列に掲げて、双方ともメデイアの作り上げる虚像だと断じているが妥当な見解だと思う。
その意味で、メデイアも自らが食わんがために、虚像だろうと実像であろうと、あることないこと記事として国民にばら撒かないことにはならないわけで、その中身を斟酌するのは国民の側の責任なのかもしれない。報道されたことを鵜呑みにするのではなく、自分で中身をよく吟味して、真実かどうかを推し量らねばならないのかもしれない。
だとしたらメデイアの受け取り手というのは阿呆のようなものだ。
虚偽の報道に金を払うことになるわけで、こんな馬鹿な話はないと思う。
伊勢の赤福餅の行政処分は、病人や怪我人や死者を出したわけではないが、趣味機嫌をごまかし、期限切れのものを有効利用したかどで処分を食らったわけだが、嘘の報道を掴まされて、それに金を投じている我々は、一体誰に苦情を持っていけばいいのだろう。
報道の中に虚偽があったということは、赤福餅の賞味期限のごまかしに匹敵する詐欺行為ではないのか。
我々は報道されていることは全部が真実だと思って金を投じているのである。
それが嘘だった、虚偽だった、根も葉もないことであったでは、金返せとなるのも当然である。
日露戦争の頃、つまり1904年、明治37年頃、日本がロシアと戦火を交えるに当たり、日本の情報をロシアに流すかあるいはその恐れのあるスパイのことを察し示しているが、実際にそういうことがあったかどうかを検証した本であった。
実際にはそういう行為をした人が居たかどうかは不明のままであるが、相手を露探と言って、誹謗中傷することによって貶めるということはあったらしい。
つまり、いじめの口実として露探という言葉が使われたらしい。
そういうことが詳しく検証されているが、それはそれとして読み物としては楽しめるが、ここで考えなければならないことは、我々同胞のいじめの構造である。
ありもしないことを、「あいつは露探ではないか?」と言うことで、相手を窮地に陥れる行為は今でも十分に生きていると思う。
今、話題になっている小中学校のいじめの問題もこれとまったく同じ構図であるし、こういうことは政策としても、あるいは立身出世にも大いに利用されていることだと思う。
人の噂も75日というが、確かに、噂そのものは75日で消えるかもしれないが、その根も葉もない噂によってこうむった被害は75日程度では回復されないと思う。
これの大掛かりなものが、中国の反日運動があって、南京大虐殺などで「30万人の大虐殺」などと声を大にして叫んでいるが、これこそ根も葉もない噂の大合唱だ。
ところが、それを何度も何度もあらゆる機会を捉えて大合唱をすると、根も葉もない噂が真実になってしまうから困るのである。
その最初の根拠は、極東国際軍事法廷で暴露されたことから始まるが、それ以降年を重ねるに従い被害者数が年々増加して、今では30万人で確定していることの不思議さを誰も指摘しない。
誰も指摘しないから30万という数字が真実味を帯びて、それが真実になってしまったではないか。
もっとも、ここまでの過程で、いくらその誤りを正そうとしても、相手がこちらの言うことを聞かず、自分たちの都合のいいことだけを声高に叫んでいるので、声の大きい方が信用されるということになっている。言葉の戦いというのは暴力を伴っていないので、奇麗事のように受け取られているが、民主主義というのは言葉の戦いだと言われつつ、嘘や方便も言葉の戦いでは武器となるわけで、言葉の戦いといっても洗練された国際感覚が最終的にはものをいうと思う。
あの第二次世界大戦でキリスト教文化圏の連合軍が何故中国を味方に引き入れ、日本と敵対したかと考えると、やはりそこには国際感覚というものが伏流水のように流れていたように思う。
蒋介石は自分の国がキリスト教文化圏の連合軍に散々食い物にされても、それでもなお彼らと手を組んで、日本に対して抗戦をしたかということは彼の天与の国際感覚であったと思う。
それに比べると我々の祖国は国際的にはまったく孤立していたわけで、その意味でまさしく国際感覚が劣っていたということに他ならない。
国際感覚が劣っていたからこそ地球規模でいじめにあったわけで、それが第二次世界大戦であり、太平洋戦争であったものと考える。
日本がいじめにあうということは、我々が他の民族と比べて突出していたからで、「出る杭は打たれる」ということである。
小中学校のいじめでも、何か人と違う印象をもったものが対象とされるわけで、人よりもアクシュンが一歩遅いとか、あるいは早すぎるとか、あるいは弱そうだとか、人より良い物を持っているとか、とにかく平均よりもどこかしら突出しているといじめの対象とされる。
そのいじめに対して反撃する、特に腕力で以って反撃すると、今度は「暴力はいけない」といわれるので、いじめはますます顕在化して、人に隠れていじめをする側は見逃されるが、そのいじめに公然と抵抗すると、抵抗した方が糾弾されるわけである。
「あいつは露探だ!」と言われて、弁解すると、「弁解するからには何か後ろめたいことがあるではないか」という論理になる。
この構図はそのまま昭和初期の我が祖国の置かれた立場と、当時の世界の認識と見事にマッチしているではないか。
こういう状況下で生き抜くためには国際感覚こそもっとも肝要だと思うが、悲しいかな我々にはその国際感覚というものが十分に醸成されていなかった。
相手の毒に対して、毒を以って制ずるという発想を、武士道に反する汚い行為だと認識しているが、これこそ究極の国際感覚の欠如だと思う。
四周を海に囲まれているので、どうしても「井戸の中の蛙」的思考になってしまって、「葦の髄から天覗く」ということになってしまう。
唯我独尊的に、我々が「良い」と思っていることは地球規模で、あるいは全人類にとって良い事に違いない。その良い事を推し進めるのに何が悪いという思考になりがちである。
1932年、昭和7年に日本は満州国を建国した。それに関連してリットン調査団が柳条湖事件調査のため来日したが、その対応と事後の処置が極めて不味かった。
この部分に、自分たちが良い事だと思っていることは世界が認めるに違いない、という安易な思い込みが見られる。
我々の考えていることと、世界の考えていることには位相のずれがあるということに気が付かず、その部分に国際感覚の未熟さがあった。
我々は「西洋列強のしていることと同じことをして何が悪い」という思考であるが、西洋列強、キリスト教文化圏の人々からすれば「白人のすることはいいが黄色人種のジャップがすることは罷り成らぬ」という意識があったわけで、我々はそれを測りかねたわけである。
西洋人、キリスト教文化圏の人々の深層心理を慮ることをしなかったわけで、その部分に国際感覚の未熟さが潜んでいたことになる。
これが同じ黄色人種でもジャップではなく、中国人や朝鮮人ならば、彼らも鷹揚に構えて目くじらを立てずにおれたけれども、何しろ相手は日本人、ジャップだったから彼らの癇に障ったわけである。
日本人でない中国人であったから、蒋介石は連合軍側に引き入れられたわけで、彼は体よく利用されただけであるが、利用されること自体が彼ら中国にとっては国益であったわけである。
そういう支援があったにもかかわらず蒋介石は中国を統一できず、共産主義者に国そのものを乗っ取られてしまったではないか。
アメリカも中国を支援しておきながら、その見返りは何もなく、アメリカの若い兵士の血を染めてようやく我々を屈服させたが、結果から見るとアメリカの中国支援は何であったかといいたい。
アメリカに対しては、我々は完璧に敗北し、国土は灰燼に帰すまで打ちのめされたが、中国戦線では我々は本当に敗北したのだろうか。
1945年、昭和20年8月の時点で、中国の各地に展開していた日本軍は敗北したのであろうか。
天皇陛下の終戦の詔勅で、日本軍の将兵は一方的に武器を置いたわけだが、これは戦闘を停止しただけのことで、戦争の敗北とは次元が違うことではなかろうか。
ということは、我々は中国に対しては敗戦国ではなく、降伏したことにもならないのではなかろうか。
その辺りになんとなく不思議さを感じる。
国の最高司令官(昭和天皇)が敗北を認めたのだから、「敗北だ」と言われるとなんとなく「そうかな」とも思うが、ならば中国の地における現実の実効支配は一体何なんだということになる。
この日まで日本軍は国民党軍あるいは八路軍(共産党軍)と銃火を交えていたにもかかわらず、一夜にして相手の、敵側の実効支配に移るというのも全く腑に落ちない話だと思う。
その上、その後の流れとして、敵側の人間が「あいつが戦争犯罪者だ」と言えば、指名された人間は逃げも隠れもせず、獄につながれ刑に服すなどということがあっていいものだろうか。
この本の述べようとする本旨からずれてしまったが、ようは根も葉もない噂を流して、人を糾弾するということはメデイアの知性、理性、理知にかかわっているわけで、報ずる側にそれがないから犠牲者、被害者が出るわけだ。
報ずる側に無責任体勢がある限り、いつの世になってもこういうことは後を絶たない。
昨今は虚偽の報道ということがやかましく言われているが、そういうことのないようにメデイアの組織内部で自浄作用が多少とも利くようになったが、それでもなお昨今報じられてるように、NHK内部でインサイダー取引が現実にあるわけで、メデイアの自浄作用も「百年河清を待つ」という感じでしかない。
メデイアの一線で活躍する人は、昔はインテリーヤクザといって、まともな人は彼らを蔑視していた。
彼らは蔑視されても致し方ない存在であった。
NHKの事例でも分かるように、情報に一番最初に接しれる立場を利用して、自分だけ得をしようと画策するわけで、していることはヤクザ、あるいは暴力団と全く同じではないか。
新聞ゴロという言葉もある。
自分の得た情報で相手を恫喝して金品をむしり取るというのもヤクザと同じ手口だし、それの延長線上に「露探」といって、相手の政治生命や社会的地位を貶める行為があるわけである。
この本の著者は、最後に「露探」と「軍神」を同列に掲げて、双方ともメデイアの作り上げる虚像だと断じているが妥当な見解だと思う。
その意味で、メデイアも自らが食わんがために、虚像だろうと実像であろうと、あることないこと記事として国民にばら撒かないことにはならないわけで、その中身を斟酌するのは国民の側の責任なのかもしれない。報道されたことを鵜呑みにするのではなく、自分で中身をよく吟味して、真実かどうかを推し量らねばならないのかもしれない。
だとしたらメデイアの受け取り手というのは阿呆のようなものだ。
虚偽の報道に金を払うことになるわけで、こんな馬鹿な話はないと思う。
伊勢の赤福餅の行政処分は、病人や怪我人や死者を出したわけではないが、趣味機嫌をごまかし、期限切れのものを有効利用したかどで処分を食らったわけだが、嘘の報道を掴まされて、それに金を投じている我々は、一体誰に苦情を持っていけばいいのだろう。
報道の中に虚偽があったということは、赤福餅の賞味期限のごまかしに匹敵する詐欺行為ではないのか。
我々は報道されていることは全部が真実だと思って金を投じているのである。
それが嘘だった、虚偽だった、根も葉もないことであったでは、金返せとなるのも当然である。