ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「日本の常識は世界の非常識」

2007-02-15 07:20:48 | Weblog
例によって図書館の本で「日本の常識は世界の非常識」という本を読んだ。
言うまでもなく竹村健一氏のものであるが、彼ほどにもなれば言うことはその全てがもっともなことばかりだ。
この本の中に書かれていることで、日本人は金の使い方が下手だという指摘は私もそう思う。
今までの日本人は、戦後の復興から立ち上がるという経緯の中で、働くことは苦にしないが、働いて得た金を使うということに関しては実に下手だと思う。
私の所属するサークルでは毎月一回喫茶店に集まって会議をしているが、これなども実におかしなことだと思う。
今日本の住宅事情というのは過剰気味ではないかと思うが、その割には個人の家に招かれることは極めて少ない。
我が家では、私が突然人を招き入れても家内は適当に対応してくれるが、ありきたりの家庭ではそうはいかず、その家の主婦とよほど気心のあう人間でないと、家に招き入れることは御法度のようである。
一般論としてその理由は、今はまだ掃除が済んでいないとか、化粧をしているとか、片ついていないとか、さまざまな理由があるが、来るほうの人はそんなこと意に介していないのではないかと思う。
招いた人が、あの家は内の中が散らかっていてどうしようもない、などと他人の言いふらすとも思われない。
けれども迎える側はそれを異状に気にする。
大方の人がそれぞれに家を持ちながら、客を招き入れることが出来ないということは、それこそ寝るだけの家ということになるわけで、それでは生活を楽しむということにつながらないと思う。
客といっても、いつもいつも遠来の客だけが客ではないわけで、日常生活の中で知り合った人でも、近所の気の会う仲間でもいいわけで、そういう人と玄関での立ち話で終わらせてしまうということでは、人生を楽しむ境地とは程遠いし、家を持った意味がないではないと思う。
しかし、私の身の回りの人間は、大部分がこういう人たちで、だからこそこういう人たちは喫茶店にいってそこで話をしているのである。
それはそれで悪いことではないが、大きな家を構えていながら、客をもてなせないと言うのも、しみったれで狭量な哀れな話ではなかろうか。
寝てテレビを見るだけの家ならば、1千万も2千万もかけることないわけで、プレハブ住宅でもいいわけだが、人を家に呼ぶことは嫌いだが、大きな家で重厚な応接間に空気だけ入れて、人は入れない空間が欲しいということらしい。
これこそ金の使い方を知らないというか、人生の楽しみ方を知らないというか、馬鹿な生き方ではなかろうか。
大体、われわれは家を作るというとき、南向きの一番いい場所を客用の応接間とか座敷にすると思うが、その一番いい場所の部屋を全く使わずに済ませてしまう。
一番いい部屋に客を呼んで、そこで談笑すればそれこそ人生も有意義になると思うが、誰もそうしない。
竹村健一氏ともなると広範な知識で世相を一刀両断しているが、その中にマスコミ批判というのも当然ある。
彼の言い分は、日本のメデイアは表層的なことを洪水のように垂れ流すという点に不満を募らせているが全くそのとおりである。
外国では知識人用とそうでない大衆紙と階層化されているが、日本では知識人も大衆も皆同じメデイアに頼っているといっている。
これはわれわれが平等という概念で生きている証拠なわけで、階層化と差別を混同しているということである。
人間の住む世の中というのは、いかなる体制でも、いかなるイデオロギーの元でも不合理、非合理ということはついて回ると思う。
全員が納得する世の中などというものはこれから先人類がいくら生きようと実現するものではない。
その中で、われわれは安易に政治家のリーダーシップということを口にするが、これも極めて安直な思考だと思う。
政治、行政の舵取りは政治家の役目であろうが、人々の生きる指針を示すべきは知識人の使命だと思う。
つまり、竹村健一氏のようなオピニオンリーダーといわれるような人々が、大衆を啓蒙し、啓蒙された新思考が政治の場に回ってくるというのでなければならない。
問題は、日本のこういうオピニオンリーダーと言われるような人々が往々にして反日的な思考、反体制的な思考、自己の同胞を貶めそうな思考に傾いているということである。
こういう人たち、つまり日本のオピニオンリーダーといわれるような人たちから、同胞の政治家、同胞の官僚というものを見ると、彼らが馬鹿に見えるのは当然だと思う。
国会中継などを見ていても、実にくだらない議論をしている、とわれわれレベルの大衆でも思えてくる。
ましてや知識人の目から国会中継を見れば、まるで漫才か落語の世界に写るのもあながち分からないではない。
しかし、そういう状況の中でわれわれ、日本人の将来の展望を示しうるのは、やはりこういう知識人であり、オピニオンリーダーと呼ばれる人たちでなければならない。
われわれがあの戦争、大東亜戦争にはまり込んでいった経緯を見ると、軍部の横暴は誰の目にも明らかであったが、その前に知識人の沈黙があったことにわれわれは眼をふさいでいるのではなかろうか。
治安維持法があったからものが言えなかったというのは後知恵の詭弁に過ぎない、という認識と反省が足りないと思う。