ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『日本、買います』

2012-10-20 08:51:26 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、『日本、買います』という本を読んだ。
サブタイトルには「消えていく日本の国土」となっていて、著者は環境省や農林省に在籍した官僚の平野秀樹という人だ。
書かれている内容は極めて深刻なものであるが、我々のような平凡な市民には実感が伴わない。
普通の国民が危機感を持たない、気が付かないところが、この著者が最大の関心を寄せる理由になっていて、日本の国土が外国人の手に渡っている現実を直視すべきだ、と強調することがこの本の論旨である。
外国人が安易に日本の土地を買うことができる、ということは、日本の土地に対する法整備が明治維新の時からいささかも発展していない点にある、というのが大きな要因のようだ。
日本における土地に関しては、公権力の方が個人の私権よりも弱いところに問題があって、公共の福祉よりも、個人の我儘の方が優先されている。
これは自由のはき違いというか、民主主義の過信というか、無知の専横というか、戦後の民主化の結果としての国民の意識の弊害の部分である。
戦前の古い法体系に対して、戦後の民主的な人権意識を安易に覆い被せたので、ここで価値観の錯綜が起きてしまった。
公権力よりも私権の方が強いという事象は、明らかにその基底の部分に、戦後の共産主義の思考が入り込んできているが、共産主義ではそもそも個人の土地所有を否定しており、既成権力に対してはとにかく何でもかんでも徹底抗戦するという態度が引き継がれている。
そして保守VS革新という対立軸でモノを見た場合、革新陣営に身を寄せた方がなんとなく大衆受けするわけで、世の物わかりの良いと思われたい人々は、全てそちらの方向に傾いてしまった。
国家と個人が対立した時、事の論理性を考える前に、国家の側、体制の側、行政サイドのすることなすことはことごとく許し難い行為だ、という出鱈目な論理で個人の権利を優先させたのである。
かつて東京都知事であった美濃部亮吉は、「独りでも反対者がいれば工事を中止する」という論理で、都内のインフラ整備をことごとく遅延させたが、これは民主主義の全面否定と言える。
この言葉は究極のポピリズムの具現であって、世の知識階層というのはその大部分の人がこういう都知事を支援したのである。
この美濃部亮吉は本人も言っているようにマルクス経済学者であって、共産党員に限りなく近い存在である。
共産党員のこの世の存在意義は、既存の秩序の破戒なわけで、公権力よりも私権を優先させるという思考は、立派に現行秩序の破戒に貢献している。
革新勢力にとっては彼らの言う世直しの王道ということになる。
革新勢力の言う世直しと、保守勢力の言う世直しでは、その価値観が正反対なわけで、革新勢力のいう近未来の日本は、普通にいう日本民族というものがこの地球上から消え去って、その空いたところに共産主義のユートピアを建設するというのが彼等の夢であろうが、問題はそれを成す人間の資質である。
美濃部亮吉氏の羨望した共産主義の国家というのは、共産主義では継続的な国家運営はできないということを彼等自身が証明したわけで、それを夢見ていた美濃部亮吉というマルクス経済学者は、夢を喰うバクのような奇妙奇天烈な存在でしかなかったということだ。
ここで考えねばならないことは、彼を東京都知事に推した東京都都民の存在であって、その人たちの思考回路であり、彼らの潜在意識の在り様である。
美濃部氏がマルクス経済学者であったということは、秘密でもなんでもなく、彼の選挙用のセールスポイントであったに違いなかろうが、それに惹かれた都民の側は一体彼の思考のどの部分に魅力を感じていたのであろう。
今にして推測できることは、彼が、「一人でも反対すれば事業を推し進めない」という政治姿勢に共感を覚えたと考えられる。
この彼の言葉は明らかに公権力よりも、個人の権利、私権を優先させる考え方であって、これでは世の中が良くなるわけがないではないか。
少なくとも美濃部亮吉が学者の端くれであったとしたならば、こういう不合理、非合理、我儘、ごね得を説得して、9割がた出来上がった社会的インフラの完成に貢献すべきであって、個人の我儘を助長するような発言は慎むべきだと思う。
ところが彼は限りなく共産党員に近い思考の持ち主だったので、世の常識の逆を行ったのである。
この地球上の如何なる民族、主権国家でも、長い年月の間には良い時もあれば悪い時も交互に打ち寄せてくるのが常態だと思う。
未来永劫、右肩上がりの発展というのはありえないと考えられる。
だから21世紀の初頭という時期において、日本という国とその上で生きている日本民族という人間集団が、文化・文明の下降線をたどっているとしても何ら不思議ではない。
今の日本はそういう状況に陥っているに違いない。
そもそも21世以降の地球上には主権国家というものは存在していないかもしれない。
しかし、概念上の国家はなくなっても、地球の陸地の上には人間は住み続けているはずで、国家はなくとも人はその場に居残っていると考えられる。
人類の誕生から今迄の国家の使命というのは、国民の生命と安全を守るためにあったわけで、国家の枠組みが消滅するということは、大昔の自然の状態に立ち返ったと同じである。
人々は自分の国の保護に頼ることができなくなって、個々にそれぞれの危機に立ち向かわねばならないということである。
こういう状態になることを、戦後の日本の知識人たちは願っていたわけで、今それが実現しつつあることをこの本は指し示している。
私はこの本を読むまで、日本では地籍の掌握は完全に出来上がっていたと思っていた。
バブル経済華やかりし頃、「地上げ」という言葉が行き交って、それな土地の管理が完全に行き渡っていたので、土地の売買に高値が付いた、と理解していたが土地の値段とそれを誰が持つかという話では次元が違うようだ。
この本の言わんとするところは、土地の値段というものが極めて曖昧な基準によって成り立っていて、その曖昧な基準で売買されているということらしい。
曖昧な基準というのは、その面積の大きさに何通りもの見解があって、はっきりと確定しないまま、高額の値段で売り買いされているということらしい。
そういえば、毎年新聞に発表される路線価と課税評価額というのも、同じ土地に対する2重の価値を表示しているということなのであろう。
その時でも、公権力と個人の権利が衝突した場合、個人の権利が優先されて、我儘が通ってしまうというのが現状らしい。
ここで少しでも自分たちの社会を良くしようと考えて発言する人が現れれば結構なことであるが、そういう問題には誰も感知したがらないところに我が同胞の不甲斐なさがある。
更に言えば、こういう目の前の不合理には教養・知性に富んだ知識人が積極的に発言すべきであるが、こういう類の人達は、その全てが革新系であって、自分たちの政府や行政に弓を引くだけの存在であるところが日本の悲劇である。
日本の土地の売買には、外国人が絡んでくる、つまり外国人が日本の土地を買うという事を想定していなかったわけで、そういう事に対する手当てが未整備であった。それはそうだと思う。
明治時代にできた法律に何の手を加えないまま今日にまで来ているので、今の世界的なグルーバル化の波に対応できていないのも無理のない話ではある。
ところが、この外国人が日本の土地を買うということも、表面化した大きな流れではなく、彼らは巧妙にも日本の会社をダミーとして使い、直接的には外国人が土地売買に直接関与している風にはなっていないので、その実態は闇に葬られているに過ぎない。
問題は、このように表面化していない事柄に対して、先行措置をとることの是非が問われているわけで、まだ何も起きていないことに対して予防措置をとることは、我々は非常に臆病だということだ。
昨年の3月11日に東日本が大震災に見舞われて、その経験から鑑みて、多分、来るであろう東南海地震に対する地震対策も思うようには進んでいないみたいだ。
外国人が土地を買いあさる現象も、来るであろうと言われている東南海地震に対しても、その確実性が極めて曖昧なものだから、国民としては半信半疑にならざるを得ない。
地震対策にあまり乗り気になれないのと同じように、外国人が土地を買い占めているからと言って、直ちにその対応策を講じるというのも、理性ではわかるが実際の行動では、そう安易に運ぶものではないことは十分にありうる。
未来を予測してあらかじめ準備を整えておくということは理想ではあるが、そこまで見通せる人は立派な人だと思う。
しかし、素朴に、自分たちの祖国の土は外国人には触らせない、という発想はそうこ難しい事ではないともいえる。
明治時代には外国人が日本の土地を買うことが想定できなかったっとしても、現実に「ガルトネル事件」というのがあったのであれば、それは大きな教訓であったはずなのだから、その時に気が付かねばならなかったはずである。
このことは、我々日本人同胞は、所詮、井戸の中の蛙的発想から抜け切れないということであって、生き馬の目を抜く国際社会では生き抜けないという端的な証明でもある。
我々の発想は、究極の性善説で、「この世に悪人などいるわけない」という発想である。
この本の主題は、日本の国土を外国人、特に中国人が狙っているからというわけで注意を喚起しているが、この地球上の諸悪の根源は、全て中国人の存在に帰する。
彼ら中国人は、そもそも祖国、主権国家、自分の国という国家の概念を持っておらず、いわば究極のコスモポリタンと言うべきだ。
我々は自分の国、自分の祖国という概念があるからこそ、その中身を中国人に買い漁られると、祖国が空洞化するのではないかとそれを恐れているが、中国人は祖国という概念を持たないから、地球上の何処でも生きていけれるので、まさしく究極のコスモポリタンである。
我々日本人、日本民族も、かつては世界最高の経済成長率を達成して、繁栄の頂点を極めたので、後は下り坂を転げ落ちるだけであったとしても不思議ではない。
地球の過去を振り返って眺めてみても、何時までもいつまでも、未来永劫、右肩上がりを続けているところはないわけで、繁栄と衰退はサインカーブ、コサインカーブのように繰り返すものだと思う。
だから日本がこの先、衰退に向かったとしても何ら不思議ではないが、惜しむらくはその遠因のところに共産主義という外来思想に毒された、教養と知性に富んだ知識人、知識階層、大学教授、評論家の存在があったという点が心残りではある。
本来、こういう頭の良い人、頭脳明晰、学術優秀なオピニオン・リーダーたるべき人々は、無知蒙昧な大衆を、自分たちの社会が映える方向にリードすべきであるが、日本の高学歴で立派な知識人であるべき人々は、先の大戦の後遺症として、日本が再びアジアの諸国家に迷惑をかけるのではないか、ということを恐れて、祖国を骨抜きの方向にリードしてきたのである。
自分の祖国を優先的に考える前に、周辺諸国の国益を慮って、自虐的に振る舞ったわけであるが、これは我々の価値観では「謙譲の美徳」であるが、相手にすれば弱みを晒したということになる。
それもひとえに、この世にマルクス主義という似非宗教が生まれたからである。
麻原彰晃のオウム真理教の例を見るまでもなく、高学歴で優秀な人でも、どういうきっかけかわからないが実に安易にイカサマ宗教にのめり込んでしまうのだから、明治以降の日本の近代化の中で、日本の優秀な逸材が共産主義というイカサマ宗教に誘惑されるのも致し方ない面もあったかもしれない。
逆に、優秀であればこそ、その宗教のイカサマにも気が付くべきであったともいえる。
日本の土地に対する法律に大きな瑕疵があったとしても、その瑕疵を暴き、問題化して、是正措置を講ずるように活動すべきは、本来ならば現場の官僚であり、行政であったのではなかろうか。
我々は海に浮かぶ孤島の住人なので、良くも悪くも他との比較で物事を悟る習性があるが、この外国人の土地所有に関しても、余所の国の事例に疎かったので、気が付いたら日本だけが何の規制もなく青天井だったということだ。
我々、自分たちのおかれた地勢的な状況は変えることができないので、これから先も未来永劫、中国とは一衣帯水の隣国という位置関係の中で生きねばならない。
日本と中国の関係は、人類の誕生以来、連綿と交流が続いてきたと思うが、にもかかわらず我々は歴史から何も学んでいないということはどういう事なのであろう。
我々から見て中国は決して甘く見てはならない。
日中友好という文言も、決して油断してはならないし、気を抜いてはならないということを肝に銘じるべきであるが、そこに甘さが見え隠れする。
今、日本から中国に進出している企業の数は2・5万社とも3万社とも言われているが、この企業はこれから先、自分の会社を中国から撤退できないようになっているということだ。
つまり、日本
それを承知して進取した企業は、それはそれなりの考えがあってのことだろうが、普通の常識ではありえない話だと思う。
だが、我々はこういう隣国と、好むと好まざると関わらねばならないということである。
こういう事情を全部承知したうえでの、日中友好であるならば、それはそれなりに筋は通っているが、日本と中国では明らかに価値観の土俵が違っているわけで、この価値観の相違は克服のしようがない。
日本と、中国や韓国以外の外国とでは、普通の話し合い、交渉というのは成り立つ。
話し合いの中で、妥協や譲歩の接点を探り合えるが、中国と韓国とはこういう話し合いが通じないわけで、自分の主張を一方的に押し付けるのみで、話し合いということが成り立たない。
端的に言えば、「人のものは自分のもの、自分のものも自分のもの」というわけで、相手の言い分を聞くという発想が最初からないわけで、盗られる方が悪いという論法である。
日本企業の撤退が許されないということは、実に見事にこの論理を展開していることであって、それこそチャイナ・リスクそのものであるが、それを知らずに進出したとすれば、まさしく盗られた方が悪いという論理が生きているということだ。

『勝てないアメリカ』

2012-10-18 09:27:50 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、『勝てないアメリカ』という本を読んだ。
サブタイトルには「対テロ戦争の日常」となっており、著者は大治朋子という女性である。岩波新書だ。
この著者、奥付によると2006年から2010年まで毎日新聞のワシントン支局の特派員であったというのだから相当な強者と考えなければならない。
我々、日本人は1945年、あの第2次世界大戦が終了した以降、武力行使ということを一切してこなかった世界的に見て稀有な国だと思う。
しかし、世界の人々は、皆公平に同じ時間を共有しているわけで、我々日本人も、アメリカ人も、中国人も、イギリス人も、フランス人も、同じ時間を共有していることに代わりはない。
その中で、日本だけが戦後67年間、戦争という事態を体験してこなかった。
これは非常に恵まれた環境に置かれたということであるが、この状態は我々の努力のみで築き上げたものではなく、周辺諸国の理解があればこそ、継続できた状態である。
だからと言って、戦後の日本と周辺諸国が何のトラブルもなく平穏であったということではなく、トラブルはあったが武力行使に至る前に我々の側が自重したから、それに至らなかったということだ。
その日本の後ろ盾になっていたのは、言うまでもなく日米安保条約であって、日本の周辺諸国は、日本に対してトラブルを吹っ掛けてはみたものの、我々の側が泰然としていたので、それ以上のエスカレーションをしなかったというわけだ。
ところが政権交代して、民主党が政権を握ると、アメリカとの関係が希薄になるというか、アメリカとの関係を軽視する風潮が跋扈して、鳩山由紀夫などはまさしくそれを態度で示してしまった。
だから、中国も、韓国も、台湾も、ロシアもその間隙に楔を打ち込もうとして、今までにない対日アクションを採ったのである。
今の日本の政治家、民主党にしろ自民党にしろ、今の日本人の大部分の人が戦後生まれの世代だと思う。戦争というものを自らの体験として感知している人はほとんどいない。
1945年以来、戦争が終わって、兵隊として出征していた人が帰還してまず最初にしたことは子作りだったと想像するが、その時に出来た子供が今は67歳前後になっているのである。
今の日本人で、戦争というものを真に理解している人は皆無と言ってもいいと思うが、こうなると戦争について語るという行為は、盲人が像を撫ぜるようなもので、各人各様の解釈になっている。
歴史から学ぶという意味で、我々は過去の事例研究は怠りないが、今の日本では「戦争を研究する」というだけで、軍国主義者という烙印を押しかねない。
「自分の国は自分で守りましょう」と言うと「軍国主義者」という。
「自分の国を愛しましょう」と言うと「右翼」という。
「祖国のために殉じた人を敬いましょう」と言うと「近隣諸国を刺激する」という。
事の本質を掘り下げて研究し、理解しようと努めると、それを感情論に転嫁して、世論を煽り、平和念仏さえ唱えていれば安泰だ、というように世間をミスリードしている。
戦争ということは人類の業なわけで、人間がこの地球上に複数存在する限り、人と人の諍いというのは根絶できないものである。
人類の歴史は戦争の歴史であったわけで、それが無くせれればこんな有難いことはないが、この地球上に人が生まれて以来、それは今日まで連綿と続いてきたのである。
それは人間の本質であって、人が人として、人の集団で社会というものを構成している限り、戦争、あるいは武力行使というものは避けて通れない道である。
人が近代化した生活の中で学問を身に付け教養知性が豊かになると、こういう人間の本来の古典的な在り様を、野蛮な生態とみなすようになって、そういう視点で人の生存競争を眺めることになる。
それで近代化したアメリカ軍の兵装と、アフガニスタンのアルカイダやタリバンという勢力と対比してみると、アメリカはこういう野蛮人の勢力を未だに一掃し切れていない。
だから日本のジャーナリストとしては、無責任にも「アメリカは一体何をしているのか!」という論旨になるのである。
正規軍と正規軍の戦いならば一瞬にしてアメリカ側の勝利になるが、敵の存在というものが極めて不明確で、誰が敵で誰が味方かという事がさっぱりわからない状態では、近代兵器もその真価を発揮しきれない。そもそもテロとの戦いというのは戦争ではない。
戦争でない事に軍を投入しているということである。
シビリアン・コントロール下の軍隊の使用は、戦争だけではなく、災害派遣も立派な軍隊の使用であり、治安維持も立派な軍の仕事の一部であることは論を待たない。
アメリカという国、国民、アメリカ人という人種は、極めて開けっぴろげな人々で、求められれば隠すということはしない人々であって、手続きを経れば大方のものが閲覧できると思うが、これと同じことが中国、北朝鮮、ロシア、アルカイダ、タリバンという組織にあてはまるであろうか。
この本の著者も、取材できる所で取材しているわけで、そんな記事ならば誰でも書ける筈だ。
取材先でも真実ならば批判記事でもOKであったということが、先に述べた地域でも同じように通用するであろうか。
日本のジャーナリスとしてテロの根絶を願うならば、テロ集団の無差別テロの阻止、抑止、廃絶に向けて論を張るべきであって、そういう方向に努力しているアメリカに対しては、支援こそすべきであるが、後ろから弓を引く行為は厳に慎むべきだと思う。
イスラム教徒の過激派のアメリカに対するテロ行為というのは9・11事件のみならず、その前にも後にも頻繁にあるわけで、そのテロに対してアメリカは果敢と戦っている。
だから、世界の諸国家はこのアメリカを支援すべきだと思う。
ベトナム戦争の時のアメリカは、共産主義の北から南へのドミノ倒し風の浸透、侵攻に対して、それを阻止しようと南ベトナム政府を支援したが、南ベトナム政府が限りなく堕落していたので、それを支えきれずに撤退という終末に至った。
ここでもアメリカは、共産主義者の南への浸透など放置して、世界の警察官ぶらなくてもよかったということが言える。
9・11事件に対する対応は、これとは逆にアメリカ本土に於いて、アメリカの象徴でもあったWTCビルが、こともあろうに旅客機を突入させて崩壊したということから、アメリカの面子に正面から挑戦したようなもので、イスラムの過激派を放置するわけにはいかなかったと思う。
その首謀者としてオサマビンラデインが浮上したとき、アフガニスタンも、パキスタンも、イラク、イランも、オサマビンラデインの身柄をアメリカに引き渡せば事なきを得たが、イスラム原理主義者たちはそうしなかった。
ここで問題となるのが世界の知識人の知見の相違である。
特に我々日本人として、これをどういう風に見るかという踏み絵を迫られたが、日本のメデイアはこぞってアメリカの不合理のみを突く論調であった。
つまり、アメリカに対する非難、悪口、誹謗中傷はいくら大声で叫んでも人畜無害、誰も何も傷つかないが、イスラム原理主義については、そもそもその本質さえきちんと掌握していないわけで、安易な論調としてアメリカ批判のみが横行するということだと思う。
高価な装甲車を前線に投入しても、アメリカ兵の犠牲を救えないのは、アメリカのこの戦争への整合性が間違っているからだという論調で、アメリカ政府批判に繋がっているが、テロリスト達の非合理、不整合、論理矛盾には何一つ言及していない。
アフガニスタンのイスラム原理主義者もアメリカの善良な市民も、天から与えられた時間は皆平等で均一であったにもかかわらず、両者の間でこれほどの貧富の格差が生じたのは、それぞれの人々の個々の問題であった。
アメリカ人は宗教よりもプラグマチシズムを優先させ、宗教原理を無視して経済発展を目指したのであり、イスラム原理主義者たちは宗教の原理を自らの生活改善よりも優先させた結果である。
その結果に鑑みて「その格差が許せない」という論理は矛盾そのものである。
アメリカも、ヨーロッパも、日本も、中国も、今日あるのは、それぞれの民族のそれぞれの人々の努力の結果であって、「その格差が許せない」という論理は自己矛盾の最たるものでしかない。
日本の知識階層は、世界の混迷をこういう視点では見ずに、「先進国の繁栄は後進個国の犠牲の上にある」という論理で迫ってくる。
如何なる先進国もかつては未熟な国であったわけで、それを国民の創意を合わせて克服したからこそ、今日があるわけで、その中には血で血を洗う抗争、つまり戦争という試練も当然含まれている。
今の日本の知識階層は、67年間も血で血を洗う抗争を目の当たりにしていないので、その概念のみで語っているため、その論拠が非常に感情的に成り下がっている。
テロとの戦争でも、アメリカを非難することは実に安易なことであって、その安易なことばかりを声高に叫んでも一歩も前進はない。
毎日新聞という日本の巨大メデイアのワシントン特派員として、アメリカ軍の施設を取材することは、先方の理解を得やすいことであろうが、その対極のテロをする側のアルカイダやタリバンの基地や、主要人物へのインタビューがありうるかと言えば、それはありえないわけで、情報はただただ高い方から低い方へ自然に流れているだけである。
仮にアルカイダやタリバンの主要人物とのインタビューが成功したとしても、テロを思い留まらせる説得はできないだろうと思う。
イラク戦争の時、日本からもサダム・フセインに対して数多くに人が説得に向かったが、彼は聞く耳を持たなかったではないか。
私個人の考えとしては、アメリカは世界の警察官の役目をもう放棄すべきだと思う。
アフガニスタンのことはもう現地の人に任せて、現地がどうなろうともアメリカはタッチせずに、放置しておくべきだと思う。
そうしておいて、そういう地域からアメリカに入ってくる人を締め出して、入国を許さない措置を採るべきだと思う。
9・11事件の前にもWTCビルは2度も爆弾テロにあっているわけで、そういう措置はやろうと思えば可能だと考えられる。
太平洋戦争の時、アメリカは在米日本人を全部収容所に入れた実績を持っているではないか。
当然、これをすれば人種差別という批判が湧きあがるであろうが、テロとの戦争において、アメリカの青年の命と経費のことを勘案すれば、その非難を敢えて蒙る整合性と説得力は力を持つと思う。
アメリカの政治も良い事ばかりではなかったわけで、同じことでも視点を変えて眺めると、まるで逆の価値観であったりするが、それでもアメリカは良い国だと思う。
前にも述べたが、人類の持つ時間は全ての人に平等なわけで、アメリカ人や日本人に多く、アフガニスタンやパキスタンの人々に少なかったわけではない。
にもかかわらず、こういう格差が生じたということは、それぞれの民族の自助努力の結果にすぎない。
それをアメリカの所為にするということは、論理的に間違っているが、それを論理的に説き、整合性を秩序立てて説明しても、彼らは聞く耳を持たないわけで、例のイスラム原理主義に惑わされて、理性的な判断をしようとしないのである。
人が生きるためには宗教も必要ではあろうが、人間の精神が架空の絵空事に埋没してしまって、人間の脳による判断を拒否するようになってしまえば、それ以上の進化はありえない。
この本の著者はアメリカ兵の死亡者、死者には敬虔な同情を寄せて、「そうならないためにはどうすればいいか」と模索しているが、相手、つまりアルカイダやタリバンの方は、アメリカ兵を一人でも多く殺して、自分が死ぬことが聖戦なわけで、それを推奨しているのであるから、「死ぬのが可哀そう」などという価値観は最初から存在していない。
人がいくら死のうと、それは敬虔なイスラムの神への奉仕なわけで、大いに崇められる行為となっているのである。
アメリカはこういう狂信的な人々と戦っているわけで、だとすればアメリカはもうこの戦いから手を引いて、彼らを自分たちの側に引き入れないことを真剣に考えたらどうだと言いたい。
誰かが言っていたが、文明の衰退は、内側の内部崩壊によってもたらされると。確かにそうだと思う。
仮に、今、アメリカが中近東の人々を入国させないという措置をとったとしたら、アメリカ内部の知識階層の人々がこぞってその措置に反対するにちがいない。
その時のお題目は、多分、人権侵害あるいは人権抑圧というスローガンを掲げての反対だろうが、そうするとアメリカ国民の選択肢は、イスラム原理主義に同調するテロリストを国内に抱えて、テロに怯えながらの生活を国民が選択せざるをえないということになる。
半世紀前は共産主義者の共産革命の恐怖におびえ、21世紀のアメリカは再びテロリストのテロに怯えながらの生活ということになるが、そういう生活から脱却しようとすると、教養知性豊かな知識人が、そういう政府の措置に反対するという構図だ。
文化の衰退は、教養人がその教養と知性でもって人間が本来持っている生存のための知恵を封殺することによって起きるに違いない。
今の地球上に生息している知識人、あるいは教養知性あふれた物わかりの良い善良な人々は、人間の命は世界中で同じ価値だと思っている。
アフガニスタンやパキスタンで、イスラム原理主義に洗脳された若者の命も、中国の奥地で農業にいそしむ若者の命も、日本の電車の中で化粧をする若者の命も、全部等価だと思っているが、現実はそうではない。
アメリカの青年の命は極めて高いので、アメリカは何千万もする装甲車を開発しているのである。
アフガニスタンやパキスタンの若者は、牛や犬の命並みに安価なので、自分の体に爆弾を巻いて自爆テロに走るのである。
極めて安価な値段で自爆テロを実行するのであって、その延長線上に道路わきに爆弾を仕掛けてアメリカ兵のみならず自国の人間も殺傷しているのである。決して人の命が等価であるわけがない。
ただこういう地域からは正確な情報が入ってこないので、何時、誰が、どぅいう風にして死んだか、何もデータがないので、統計に表れていないし、こちら側の死者の数は誰も意に介していないということだ。
我々がテレビのニュース映像で見る限り、この地域の風情というのは、砂漠か山岳地帯でとても裕福な農業地帯とも思えないが、こういう地域で生きてきた人たちが未開人であったとしても何ら不思議ではない。
しかし、こういう地域に住む人々でも、先進国の文化に接した人たちは、その文化や富の格差に大いに不満を感じるわけで、そこにイスラム原理主義が入り込むと、先進国に対するテロということになるのである。
アフガニスタンやパキスタン、はたまたイラン、イラクなどという国々は、基本的には近代的な主権国家足り得ていない。
所詮は、べドウインの集合体、もっと端的に言えば、映画の西部劇に登場するインデアンと同じであるが、21世紀の世界の知性は、そういう言い方、見方、扱い方をしておらず、一応は近代化した先進国の人間と同じように対応している。
問題は此処にあるわけ、一応は一人前の主権国家と同じ扱いをして、その地の人々を近代化した民主的な思考の持ち主とみなすから、現実との乖離が埋められないのである。
世の知識人が、野蛮人を文化的で民主的な人間と同一視することは、自己の知性と教養の奢りであって、現実を素直に直視することは、自分自身が野蛮人に成り下がったという意識にさいなまれるからである。
だからこういう地域にアメリカが鬼が島の鬼退治のように出っぱると、主権侵害ということになってしまうのであって、こういう国には主権の概念そのものが存在していないにもかかわらず、誰かが知恵を付けて、利益誘導を図ろうとするからアメリカのテロ撲滅も思うように進まないのである。

『自らの身は顧みず』

2012-10-15 16:02:30 | Weblog
久ぶりに地域の図書館に行って借りてきた本を読んだ。
正確には知らないが恐らく半年ぶりくらい間隔があいていたように思う。
その間、何故本が読めなかったかと言うと、近所の知人が「この本は良い本だから読め」と言って置いていった本があったので、それが重圧となって心の負担になっていた。
図書館でランダムに自分の手で取った本は素直にページが開けるが、人から勧められた本はどんなに良い本でも心の重荷となってしまう。
この度、それを全部読み終えたので、心の負担が払しょくされて、以前のように気楽に自分の好きな本を好きなように読める環境に戻れた。
それで早速手にとった本が、田母神俊雄氏の『自らの身は顧みず』という本であった。
この著者は、航空自衛隊幕僚長であったにもかかわらず、民間企業の懸賞論文に応募した作品が最優秀賞になって、その論文の内容が、「日本は侵略国家であったのか?」という演題で、日本民族の矜持を強調した論旨になっていた。
この部分が「政府の高官でありながら、自虐史観に協調していないのでけしからん」と言うわけで解任された経緯がある。
この解任の経緯はいささか幼児じみた政治的判断であって、本人が怒るのも致し方ない部分がある。
本人の言い分によれば、上司の職業的判断でなされた行為である以上、その分は甘んじて受けざるを得ないが、論文の趣旨を撤回する気はさらさらないというものだ。
彼のこの論文は、普通の日本人、普通に日本で生きてきた日本人ならば、当然の考え方であって、日本の政府要人の諸外国に阿った発言よりは数等ましである、と私個人は思う。
だが民間企業の企画した懸賞論文に、現職の肩書のままで応募するという神経は、正直私には解せない部分がある。
この民間企業というのが、アバグル―プと称するホテルチェーンらしく、そのトップが航空自衛隊小松基地の後援会組織のトップということでもあり、本人とこのトップの間に親密な関係であるとなれば、懸賞論文の審査も厳正に行われたかどうかも怪しくなる。
自分たちのお仲間の後援会の企画した懸賞論文に応募して、最優秀賞であったと言われても、お手盛りの茶番劇ではないかと思われても仕方がない。
しかも、公募と言いながら官職氏名を名乗っての応募であるとするならば、最初からデキレースのようなもので、仲間内のナアナアの猿芝居と思われても致し方ない。
ただし、彼のこの論文の論旨は、私の感覚からすれば正当なもので、日本人と日本民族の矜持としては極々当たり前のことを述べている。
問題は、この彼の論文の論旨をシビリアン・コントロールへの逸脱と考える世間一般の認識の方がよほど弊害が大きい。
この彼の論文を読んで、彼を危険人物と考える発想そのものが、よほど危険なわけで、こういう人ほどシビリアン・コントロールの真の意味そのものを真に理解していない。
まさしく盲人が像を撫ぜている図であって、足を触った人や、腹を触った人や、尻尾を触った人が、それぞれに自分の間違った感触から抜け切れないで、全体像を見失っている図である。
この時の防衛大臣が浜田靖一で、こういう政府の要員であっても、事の善悪、良し悪し、国を愛するという具体的な立ち居振る舞いについて確たる信念を持っていないことが如実に表れている。
実に恐ろしい事は、こういうスケープ・ゴートに仕立て上げられると、周りの人は皆足並みを揃えて水に落ちた犬を叩く側に回るという現実である。
裸の王様に対して、「王様は裸ですよ!」という真実を述べる勇気のある人が一人もいない。
戦前の美濃部達吉の『天皇機関説』の弁明も、斉藤隆夫の粛軍演説も、論理においては何ら問題はないにもかかわらず、時流に合わないという実に滑稽な理由によって排斥されている。
そして、その排斥の論旨も、そもそも元の論文に瑕疵がないのだから、非常にあいまいな理由付けでしかなく、ただただその場に居合わせた人の保身でしかない。
昨今の中学生のいじめ問題では、傍観者の存在が問題となっているが、まさしく美濃部達吉や斉藤隆夫の排斥というのは、政治家のいじめそのものでしかない。
この田母神俊雄氏の幕僚長解任の問題も、この手の事例であろうが、実に由々しき問題だと思う。
主権国家のトップともなれば、基本的には軍事知識の豊富な人の方が国民としては安心できるはずである。
しかし、我々日本人というのは、戦後67年間も戦争ということを真摯に考えて来ていない。
我々は自らの憲法で戦争を放棄しているので、日本の周辺の国々が日本に対して武力行使をすることはありえないと思い込んでいるが、こういう一方的な独善的な思い込みほど危険なものはありえない。
日米戦を始める前の我々のアメリカ人に対する認識は、「人前で平気でキスをするような軟弱な奴らは、大和魂の一撃で瞬時にして戦意を失うに違いない」というものであったが、この我々の側の思い込みは当たっていたであろうか。
あの戦争を振り返ってみると、昭和初期の時代は、軍人が威張り散らして、政治家は小さくなって保身ばかりに汲々していたと考えらえているが、軍人が威張った背景には、政治家の腐敗、堕落、不甲斐なさがあったのではなかろうか。
政友会と憲政会の2大政党の議会政治の運用があまりにも稚拙であったので、それに我慢ならない軍人が直接それを司どることを画策しようとしたのが、軍事、軍部の独断専横ということにつながったのではなかろうか。
この政党政治の腐敗堕落は今も立派に生きているわけで、その理由として考えられることは、真に国のことを考えている政治家がいないということである。
戦後67年間、連合軍、特にアメリカのウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムに首までどっぷりと遣って、民族の誇りも、名誉も、矜持も何一つ持ち合わせていない戦後の日本人である限り、日本再生はありえない。
田母神航空幕僚長が民間企業の懸賞論文に、業務あるいは職責に関係のない一般論としての文章を応募すること自体は、シビリアン・コントロールとは何の関係もない事であって、それが理由で解任ということであれば完全に間違っている。
問題は、その部分の違和感を感じ取れない世間の側の政治感覚である。
太平洋を挟んで日本とアメリカは対極にあるのだが、アメリカにとっての日本は、常に頭を押さえつけておくべき存在であって、日本の隆盛に関んしては如何なるイシューも許せないという価値観で固まっている。
これは言い方を変えて表現すれば、人種差別であって、黄色人種の日本人に自分たちの上を行かれてなるものか、という深層心理である。
だから昭和初期の時期において、中国で日本が覇権を示せば、中国を支援してそれがフライング・タイガーということになるのである。
アメリカ側から見て、なぜ日本人でなくて中国人をフォローするのかと言えば、中国人ならばアメリカを凌駕する可能性は全くないが、日本人ならばその可能性を充分もっているので、中国人は助け日本人は叩いたのである。
このアメリカの抱いた危惧は、あの太平洋戦争で如何なく見せつけられたので、戦後はその反省に立って日本に対してウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムであったのである。
これを一言で言えば、日本人の魂を抜く政策であって、日本が再びアメリカに立ち向かう、楯突く、挑戦してくることのないように、日本人の精神性を極めて内向的に、自虐的に、贖罪意識を植え付けるように仕向ける施策であったのである。
ところが、主権国家の存在というのは、絶海の孤島のよう大自然の中で屹立するということはありえないわけで、周囲の環境の変化に対応して、好むと好まざると変革しなければならない。
戦争に勝ったアメリカは、日本をアジアの最貧国にしようとしたが、朝鮮半島で共産主義者が大挙して押し寄せてくるという事態に直面して、その計画を捨てざるを得なくなった。
第2次世界大戦後の共産主義者の跋扈は実に由々しき問題であったが、占領初期のアメリカは共産主義に対する認識が極めて甘かった。
結果としてアメリカが後押しをした中華民国は、共産主義者に国土を乗っ取られて、その勢いが余って、朝鮮半島の北半分も共産主義者に席巻されてしまい、その赤化の波は日本にも押し寄せてきた。
こういう状況になってみると、アメリカの対日占領政策も方向転換せざるを得ず、日本を戦争放棄させたままの丸裸では置いておけなくなって、アメリカの国益を踏まえて、日本の再軍備をしなければならなくなってしまった。
ところが日本の再軍備がアメリカの国益に資するものである以上、戦後アメリカの民主化の方針で解放された日本共産党員をはじめとする左翼陣営が、素直に言う事を聞かなくなってしまったのである。
無理もない話で、日本の左翼というのは、限りなく共産党員に近い思考の持ち主で、日本の為政者には徹底的に抵抗することを本旨とし、日本の為政者が保守回帰を目指そうとすると、それに抵抗する思考が作用する。
ところが、このことはとりもなおさず、アメリカの占領政策のウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムを踏襲するということになるのである。
日本の保守勢力の理念は、戦争に負けたとはいえ、日本民族の誇りを持って世界に貢献しようという発想であるが、アメリカの進めようとするウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムは、この日本の保守勢力の理念のカウンター・パワーとして機能しているのである。
要は、アメリカは日本民族を徹底的に骨抜きにしようとしたのだが、共産主義者の思考する理念も、これと同じ軌跡を歩んでいるのである。
当然といえば当然で、共産主義革命を目指そうとすれば、その前段階として、既存の秩序や、規範や、法体系をご破算にしなければならないわけで、その過程が須らくウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムと同じなのである。
我々日本人というのはどうしてこうも政治下手で外交下手なのであろう。
先の大戦だって、昭和初期の政治家がだらしなかったので、軍人の跋扈を許してしまったわけで、政治家がきちんとシビリアン・コントロールを認識しておれば、軍人の跋扈ということは防げたと思う。
戦前の国会議員、つまり政治家の中でさえ、美濃部達吉や斉藤隆夫を自分たちで苛め抜いて、政界から放り出してしまったわけで、政治がこういう体たらくであれば、純真な軍人、真面目な青年将校が、世直しの旗幟を掲げてテロに走ることも充分にありうる。
だから歴史はその通りの軌跡を歩んだわけで、その遠因は政治と外交の稚拙さの相乗効果で、我々は奈落の底に転がり落ちたのであろう。
この政治家の不甲斐なさは今も立派に生きているわけで、これは一体どういう事なのであろう。
田母神俊雄氏の提灯持ちをする気はないが、彼の解任騒動も政治の稚拙さ、不甲斐なさを見事に露呈しているのであって、美濃部達吉氏や斉藤隆夫氏を糾弾した構図と全く同じではないか。
彼の上司いわゆる防衛省のトップは、シビリアン・コントロールの本質を真に理解していないと思われる。
それはある意味で無理もないところもあって、政治家というのは選挙で選出されるので、極端な話、田中角栄のように大学を出ていなくともなれるが、統合幕僚長ともなると軍事という専門分野ではあるが、組織内の最高学府で研鑽をつんできている。
大学出がすべて偉いというわけではないが、政治家が官僚よりもモノを知らないということは当然だと思う。
官僚は国家公務員試験を受けて官僚になっているが、政治家はそういう関門を一切潜ることなく、選挙という人気投票で選出されているわけで、トータルの知識量としては官僚を超えることができないはずだ。
こういうモノを知らない政治家が、各省庁のトップになるので、政治や外交が混迷の極みに至るのである。
政治家が大臣の椅子に座って、官僚から多少レクチャーを受けたところで、それはあくまでもつけ刃であって、こういう人材が国のかじ取りをしている限り、國そのものがダッチ・ロールになってしまうのである。
昭和の初期の段階でも、政治家がしっかりと信念を持って事に当たれば、軍人が跋扈することはなかったと思う。
確かに軍には統帥権というものがあって、そこには踏み込めなかったことは一面では真実であろうが、政治家ともなれば赤を黒と言いくるめ、白を青と言いくるめるぐらいの芸当がなければ、政治家足り得ない。
美濃部達吉や斉藤隆夫の論旨が問題化したとき、国会議員たるもの全員で彼らをフォローすべきであって、ここで彼らを見捨てて軍国主義者や、右翼に迎合したから、軍人が跋扈するようになったのである。
民主政治というのは突き詰めれば限りなく衆愚政治に近いということであって、田母神俊雄氏をあの状況で解任したということは、解任する側がつまり浜田靖一大臣が大衆に阿ったということである。
彼の発言というより、彼の論旨をそのままにしておくと、中国や韓国の反発を招く恐れがあるから彼を解任するというのであれば、あまりにも腰の引けた対応であり、物事の本質に無知というそしりを受けても仕方がない。
あの状況下で、ああいう措置になったということは、明らかにその危惧を考慮しての対応であったわけで、大臣たるものの資質が真に問われた事例だと言える。
あの状況下で大臣の責任が問われるということは、当然のこと、国民からの突き上げ恐ろしく、火の粉が我が身に降りかかってくることを恐れてのことであるが、こうなると国民の方がシビリアン・コントルールの本質がさっぱり理解していないということに突き当たる。
事実、今の日本の国民で、真にシビリアン・コントロールの意義を理解している人は少ないだろうと思う。
軍、軍部、軍隊というのは、基本的には政治や外交のツールであるべきで、主権国家が地球規模で生存競争を生き抜くためには、このツールを上手に使いこなさなければならない。
だが、戦前の日本では、このツールが統治の主体になってしまったが、戦後の日本では、逆にツールそのものを放棄してしまって、触らないように触らないようにしている。
軍の存在が統治のツールである限り、シビリアン・コントロールは生きているわけで、その意味では北朝鮮も中国もシビリアン・コントロールの国ということが言える。
ただ統治者がそのツールをどういう風に使うかが心配なわけで、その事から考えても、戦前の日本は実に不可解な存在であった。
この本の中で、著者自身が嘆いているが、「日本は良い国だ」といって解任されたが、この席に留まるためには「日本は悪い国だ」と言わなければならないのか、という疑問は切実な問題だと思う。
典型的で究極の自虐史観であるが、どうして我々はこうも自虐的な思考に陥ってしまったのであろう。

『ドッグファイトの科学』

2012-10-13 15:00:04 | Weblog
家内の買い物のエスコートで近くのスーパーに行った時、そこの本屋さんを覗いたら、この本が目に止まって、ついつい衝動買いしてしまった。
いつもは衝動買いなどめったにしないが、表紙の写真に妙に引き込まれて買ってしまった。
表題の『ドッグファイトの科学』というフレーズは、私の血を騒がせるに十分なインパクトをもっている。
というのも、私自身の自分史を書くについて、航空自衛隊にいた時のことを書くさいに、どうしてものこのフレーズが必要で、ドッグファイトに関して一文を認めたので、そういう点からもこの本を読んでみたくなった。
改めて読んでみると、基本的な部分では自分の知っていることもあったが、実際に飛行機、特に戦闘機で飛ぶということになると、それ専門の知識が必要になるわけで、その部分では大いに勉強になった。
この本の著者は、奥付けによると、実際にF15のパィロットであったということで、その内容が十分に専門的なこともうなずける。
ところが私のような古い世代からすると、部分的に知識の遍在があるように思えてならない。
というのは、この著者は1966年生まれで、この年ぐらいからマクダネル・ダグラス製のF4戦闘機が登場してきて、すぐにベトナム戦争に投入されたが、この時代のアタックについては一言も言及していない。
ジェット戦闘機の歴史としての経緯は簡単に述べられているが、F4以前のアタックに関しては一言も触れていないということは、既に彼の活躍した時代には、それが話題にも上っていなかったということだと思う。
兵装、アーマメントについては、この時のものが未だに生きているので、多少言及されているが、戦法に関しては形のあるものではないので、時代遅れになるのも早く、一旦破棄されたら再び日の目を見ることがなくなったということかもしれない。
兵器としての戦闘機は、押しも押されもしないハード・ウエア―であるが、戦法というのは目に見えないソフト・ウエア―なわけで、目に見えないだけに忘れ去れられるのも早いのかもしれない。
1966年生まれのイーグルライダーからすれば、F104やF86の戦法は既に完全に時代遅れということであったに違いない。
しかし、ドッグファイトに関して言えば、それこそ古典的な戦法なわけで、私のような航空戦のシーラカンスからすれば、F15がこの戦法を取ることの方が不思議でさえある。
F104やF86がビームアタックを採用していたということは、その当時はレーダーの性能が今よりも劣っていたからに他ならず、当時としては最先端の戦法であったに違いない。
地上のレーダーサイトの支援を受けて、会敵点までレーダーで誘導されて、最後は機上のレーダーで仕留めるという戦法であった。
86よりも後発の104で、機上レーダーの性能は有効距離がおおよそ60マイルぐらいであったと記憶しているが、当時はそれも秘扱いで公表が憚られた時代である。
それがF4以降は格段とレーダーの性能が向上して、機上のレーダーの性能が良くなれば、わざわざ地上のサイトからの誘導は不必要なわけで、その意味からしても会敵へのアプローチは変化して当然である。
この技術革新は、その基底に電子機器の発達があればこそ達成されているわけで、そういう意味からしても、20世紀後半の戦闘機の発達というのは計り知れないものがある。
我々がサイトにいたころ、旧ソビエット側も執拗に偵察機を飛ばしてきたが、ソ連の航空機の発達というのも、実に不思議な気がしてならない。
あの頃も今も、旧ソ連、今のロシアの社会的インフラは聞くに忍びないほど立ち遅れていたにもかかわらず、軍事技術に関してはアメリカと互角以上に並んで、アメリカ側も大いに脅威と感じていたわけで、その事が不思議でならない。
東西冷戦が立派に生きていて、東側陣営は何もかもが秘密のベールに包まれて、西側としては壁の向こう側を知る術も持っていなかったが、壁の隙間から漏れ聞く情報は、生活必需品が不足して庶民の生活は困窮を極めているというものであった。
その根底のところには、共産主義による統制経済がうまく機能していなかったので、党員とそれ以外の者の間に大きな格差があるからだと言われていた。
にもかかわらず、ソ連の軍用機はアメリカと互角に渡り合える性能を備えているわけで、これを一体どう解釈したらいいのであろう。
1976年、昭和51年にソ連のミグ25戦闘機が函館空港に着陸して、ベレンコ中尉というのがアメリカに亡命した事件があったが、この時、ソ連のミグ25戦闘機を日米で徹底的に調べたが、どうも驚異的は変革を促すような技術はなかったみたいだ。
この時代既に西側では電子機器に半導体を使っていたが、ソ連ではこの時点でまだ真空管であったという程度のものだったようだ。
素材的にもあまり目を見張るようような先端的なものはなかったみたいだが、アメリカと互角の性能を独自に開発するということは、並々ならぬ技術の進化だと考え得る。
人工衛星やミサイルの技術も、アメリカと互角かそれ以上のものがあるわけで、それでいて庶民の生活が窮々していることが何とも不可解に思えたものだ。
私は若い時に航空自衛隊にいて、空の安全が如何に維持されているかを身をもって理解いるが、航空の業界というのは極めて奥行の深い興味尽きない職域であって、知れば知るほど好奇心の蟻地獄に嵌りこんで抜け切れなくなってしまう。
目下、日本の安全保障に関連してアメリカ海兵隊のオズプレイの配備問題で沖縄を中心としててんやわんやの大騒ぎであるが、戦後の我が同胞は、国の安全ということを、盲人が像を撫ぜている風にしか理解していない。
「オズプレイは2回落ちたから安全でない、だから沖縄に配備するな」という論旨は、「風が吹くと桶屋が儲かる」式の唐突な議論であって、補償金を吊り上げるための見え透いたごね得の論理でしかない。
「沖縄には米軍基地の75%が集中しているからそれを日本全国各地に分散配置せよ」という論理は、一見整合性があるやに見えるが、先の戦争では沖縄を護り、死守しようとして、内地の人間が約9万人、沖縄住民も約9万に犠牲になっている。
だが、特に沖縄の犠牲者だけが悲惨であったわけではなく、東京空襲、その他の都市の空襲、広島・長崎の原爆のことを考えれば、悲惨の度合いは沖縄だけが特別であったわけではない。
沖縄だけが内地の不合理を全島で負っているなどという気負いは、そもそも可笑しいわけで、普天間の基地が危険ならば一刻も早く辺野古に移転すべきであって、民主党政権になって手のひらを返すように、ごね出すのは補償金の値上がりを狙ってのごね得ということが見え見えではないか。
祖国の安全を担保にして、私利私欲を肥やす手合いではないか。
主権国家には、その国を形つくる国民という人間の集団があって、その集団が起居する国土という土地があって、人と土地が揃って、それらを合わせて主権という概念が派生するが、その中に住む人間にしてみれば、主権というのは目に見えるものではないので実感が伴わない。
東京に暮らす人にとって、尖閣諸島の存在など日常生活には何ら関係ない筈で、そこで領海に「入った入らない」など言う事は茶番に過ぎない。
それと同じことが沖縄の人々にも言えるわけで、普天間の基地が真に危険ならば、一刻も早く辺野古に移す方策を自分達で考えるべきであって、それを鳩山由紀夫の「少なくとも県外」という頓珍漢な発言の言質を盗り、難題を吹っ掛けて補償金の吊上げに使っているのである。
アメリカ海兵隊のオズプレイが普天間に配備されることは、沖縄の人の生活にはどうでもいい事であって、ただただそのことを盾にして、政府に楯突き、ごね通し、補償金を吊上げればいいという話だ。
普天間のアメリカ海兵隊の存在が東シナ海の抑止力になっていようがいまいが、国から補償金さえ取ればそれでいいということである。
こういう事は誰も正直に口にできないわけで、私が無名の市井の人だから無遠慮にこういう事が言えるのである。
普通の一般大衆は、国家の安全保障という大事でも、盲人が像を撫ぜるように、自分の手で触ったところだけが現実の姿なわけで、そこだけを見てそれが自分にとって有利に機能するように、時流に迎合するようにモノを言っているだけで、自分の感覚に合うプロパガンダに煽られているのである。
「オスプレイの配備反対」を称えて、毎日デモをしている人たちは、真にオズプレイの何たるかを知っているであろうか、普天間基地の存在意義を真に理解しているであろうか、国家の主権ということを真に理解しているであろうか、67年前日本がアメリカに負けたということを知っているであろうか、沖縄が返還されたときアメリカに対して自立の運動が起きたであろうか。
1から10まですべてが日本政府・彼らの言葉でヤマトンチュの施策によって、生かされ、保護され、守られているではないか。
沖縄の施政権がアメリカから日本に返還された直後、この地に住む革新系の人々は、沖縄に配備されてきた自衛隊員の子弟を義務教育の場から排除しようとさえしたではないか。
本題に戻ると、日本国民の大部分は航空自衛隊が何をしているのかさっぱり理解していないと思う。
航空自衛隊の基地ではおそらくほとんどの基地で航空祭というのをしていると思うが、そこでは戦闘機が並べられて触ることさえもできる。
ところが、それ以上の思考は多分深まらないと思う。
「格好良い」という言葉だけで終わってしまうと思うが、それは表層的なほんの一部ということを知らないまま終わってしまうと思う。
実態を知ろうとすればやはり組織の中に入って体験するほかないわけで、そうして理解を深めるのが一番だと思う。

『戦後史の正体』

2012-10-11 08:16:30 | Weblog
妻の買い物のお供で入ったスーパーの本屋さんで、『戦後史の正体』という本を見つけたら無性に読みたくなった。
根が貧乏性なので、いくら好きな本と言えども、衝動買いすることはまずないが、この時ばかりはそれをしてしまった。
読み始めてみると、興味が尽きない記述が次から次へと出てきたが、冒頭に「今迄の戦後史とはいささか趣を異にする」と高らかに謳い上げている部分がいささか傲慢にも見える。
本を著すということであれば、人と違う意見の開陳であってこそ行為の意味付けがあるわけで、それをわざわざ勿体ぶって宣言されると、逆に興ざめの心境になる。
著者は1943年生まれで、私と同世代であるが、防衛大学の教授を務めただけあって、資料の分析はそつなくまとめているが、ものの考え方の基底は、私とはずいぶん異なる視点を持っている。
私が思い浮かべる人の在り様とは、自然の摂理に極めて忠実に従って生きることだと考える。
というのは、人間は自らの煩悩を超えて人のために尽くすということはありえないと考えているからである。
人が煩悩の内側で生きるということは、極めて自然に近い生き方と言えるが、人が物事を考えて、理性や知性を備えるようになると、この煩悩を克服とする衝動に駆られ、知的生活、知的な立ち居振る舞いというのは自然から極力遠ざかろうとする思考である。
人は基本的に身近な人間を愛し、助け、慈しみ、保護し、無償の愛を差し伸べるにやぶさかではないが、自分と敵対する相手には、これと反対のことをするのも生きとし生きる人間として、当然の振る舞いである。
人が生きるということは、生まれ落ちた場所での人間集団の中で生育し、その生育の過程では、自分の身の回りの集団の影響を大いに受けて生育するわけで、そこに固有の思考能力が醸成されるのも、極々自然の成り行きでしかない。
そういう視点からこの地球上に生きる人々を眺めると、この地球上に住むそれぞれの民族には、それぞれに固有の文化があり、固有の生活習慣があり、固有の思考回路が存在するわけで、それをひっくるめて民族性という言葉で言いあらわされる。
それぞれの民族がそれぞれに固有の考え方をするのも、その民族の過去の歴史がそうなさしめているわけで、個々の人間の意識的な作為でないことは十分考えられる。
当然のこと、人間の集合体には、自然発生的にリーダーができるわけで、このリーダーの存在は、集合体、つまり群れの利益を代弁する部分もあるが、リーダー個人の欲求の場合も充分にありうる。
この地球上で、それぞれの民族がそれぞれに生きるということは、究極の生存競争ということになる。
生存競争を生き抜くということは、自然の摂理に素直に順応して生きるということに他ならず、そこでは他を侵食、侵略、制圧することの是非は問われていないし、問えれない問題である。
やらなければやられてしまう世界である。食うか食われるかの世界である。
他を犯すことが良いか悪いかなど考えている暇などないわけで、考える前に敵を倒さねば、自分が倒されてしまうのである。
こういう中を生き抜いてきたそれぞれの民族は、それぞれに生き抜く術を心得ているわけで、それが民族性というもので、それぞれの民族の固有の思考方法であり、思考回路である。
この本の記述は、日本の敗戦から説き始めているが、戦後の混乱期を統治してきた吉田茂首相に対して、非常に厳しい観察眼を差し向けている。
今年の秋口に入ってから、NHKテレビでは『負けて勝つ』と題する吉田茂を主題としたドラマが放映されたが、このドラマでは吉田茂は甘い評価で描かれている。
ところがこの本では、吉田茂を対米追従者のグループに入れているが、その点私としては大いに疑問を感じる。
そもそも戦後の占領下の日本政治において、時の為政者を対米自主外交組と対米追従組という分け方はありえないはずだ。
あの1945年、昭和20年の9月から1951年の講和条約までの間に、日本にとってアメリカに変わりうる外国、連合軍側の国がありえたであろうか。
アメリカに変わって、ソビエット連邦がアメリカの代わりに成りうるであろうか。
中華民国がアメリカに代わりうるか。
中華人民共和国はまだ誕生もしていないではないか。
アメリカの占領政策が日本人のため、日本民族のためでないことは当然のことで、その為にアメリカは対日戦をしたのであって、アメリカの対日占領政策がアメリカの国益のためであったことは当然のことである。
アメリカが日本人のために占領政策を実施していると思うほど陳腐な思考もまたとないではないか。
1945年、昭和20年の日本という国家の在り様を、真に自分の目で見た人にとって、民族の誇りも名誉も自尊心もありうるはずもなく、我々は完膚なきまでに完全に敗北したのである。
私が不思議でならないのは、あの現状を目の当たりにしても、尚、徹底抗戦を称えた同胞の存在である。
戦の専門家、軍人の中の高官が、あの時点でもなお徹底抗戦を称える心境というのは実に不可解千万なことだが、誰もその不可解さに言及していない。
そういう人をも「国に殉じた人」と唱えてやまないが、冗談ではない、あの時点で戦争を止めなければそれこそ民族の殲滅に至ってしまうにもかかわらず、それを理解しきれていない同胞がいたことが不思議でならない。
戦後史の中で、日米安保条約を巡って国論を二分する大闘争が展開されたことは周知の事実であるが、この時の反体制側の闘争の趣旨は、時の為政者、岸信介がいけないという論旨であって、日米安保条約の中身を読んで、その内容に反対していたわけではない。
総理大臣が岸信介だからいけないという内容であったが、こんなバカな話があって良いものだろうか。
旧安保と新安保を読み比べてみれば、明らかに新安保の方が日本の国益にかなっているのに、そういう論点を見ずして、為政者が気に入らないので、条約そのものに反対だという論理が、大人の考えることであろうか。
結局、あの安保闘争というのは、物事の本質をいささかも真剣に考察することなく、ただただ反対派のプロパガンダに踊らされて、日本中が北から南まで大騒動に巻き込まれただけの事象にすぎない。
こういう中味の無い事を、一部の扇動者に煽られて、から騒ぎする風潮は、我々の民族の軽重浮薄な性癖であって、日露戦争の後のポーツマス条約への不信感や、関東大震災の後の朝鮮人襲撃のデマなど、数えれば切がないくらい我々の歴史の中には存在する。
話を戻して、1945年、昭和20年の東京の現状を目の当たりにして、なおも徹底抗戦を主張する戦争のプロフェッショナルの精神構造は一体どうなっていたのであろう。
普通の大人ならば、軍人でなくとも、あの焼け野原の東京の姿を一目見れば、もう我々の側に交戦能力が微塵も存在していないことは一目瞭然と理解できるはずである。
そして、いよいよ占領軍・勝者の軍隊の上陸・進駐が避けられないという現実を自覚すると、当時の行政の要職にあった人々は、真っ先にセックスのことを思い浮かべて、その対策に追われて特殊慰安施設の建設に邁進した事実を我々は今どう考えたらいいのであろう。
あの焼け野原の東京の中で、軍隊イコール慰安婦と連想をする我が同胞の精神構造をどういう風に理解したらいいのであろう。
この時の当局の言い分も、「日本女性の貞操を野蛮なアメリカ兵から守る」というもので、言葉だけは実に立派だが、そういう発想しか思い浮かばない日本当局の思考をどう考えたらいいのであろう。
昭和16年、日本がABCD包囲網に囲まれて、その結果としてハワイの真珠湾に先制攻撃をし、その奇襲攻撃成功の第一報をラジオで聞いた日本人は、その大部分の人が大喝采を送って、著名人、有名人の多くも「胸の中のもやもやが一瞬に消えて、清々した気持ちを味わった」と述べている。
日本海軍の真珠湾攻撃の成功は、これほど国民の支持を得た大事業であったが、戦争が終わってみると、あの大成功も上辺だけの表層的なものでしかなく、戦争の進化はそれから3年半の長期戦に移って、結果的には我々の側の敗北になってしまった。
戦争の責任という話になると、昭和天皇の戦争責任に話が一気に行ってしまうが、真珠湾奇襲攻撃の成功に浮かれた我が同胞の立ち居振る舞いも決して忘れてはならない。
昭和初期の日本人の中でも、その時点でアメリカの実態を知っている人は大勢いたと思う。
特に海軍兵学校や陸軍士官学校を出た若手の将校連中は、研修とか主張という名目で、アメリカを実際に見た人も大勢いたと思う。
当時は飛行機があまり一般化していなかったので、当然、船での渡航ということになろうが、港に一歩足を踏み入れた時に、カルチャーショックを受けないような人間であったとしたならば、わざわざ渡航するまでもない人物と考えなければならない。
感受性の優れた人ならば、港で船から一歩足を踏み出した時、今ならば飛行機のタラップを降りた時点で、カルチャーショックを受けないような人ならば、外国にまで来る意味がない。
我々日本人と西洋人では、特にアメリカ人では、それぞれの一挙手一投足にカルチャーギャップがあるはずで、それを肌で感知しない、あるいは感知できない人ならば、外国人と交わることはしてはならない。
私は戦後、進駐軍に占領されていた小牧基地の傍で育って、パンパンとGIと10輪トラックの中で成人に達したが、年に一度のフレンドシップデイには基地の中の入ることができた。
ゲートを入るや否や、大きなカルチャーギャップを味わった。
それは発想の段階から大きな違いがあって、具体的にはアメリカ軍のジープを見れば一目瞭然で、ジープという車は、完全に機能一辺倒で余分なものは一切備えていないが、我々の発想ではそういう事は想定さえしえないに違いない。
屋根もドアも布(キャンパス地)で出来ていて、戦闘の時にはそれを取っ払ってしまう、という発想は我々には思い浮かばない思考だと思う。
この本の著者は、日本とアメリカはお互いに主権を尊重し合う対等の関係を夢見ているが、今迄もこれからも、日本とアメリカは対等の関係にはなりえない。
アメリカは自国の国益のために日本を使うし、日本もアメリカと同盟を組ながら、アメリカの国益のおこぼれを追いかけるということになる。
我々日本人は、国際社会の中を上手に泳ぎまわって、自分たちの国益を増殖させるという発想がもともとないわけで、額に汗して黙々と働けばきっと何時かは周りも認めてくれるだろう、という他力本願な思考であって、アメリカの後をくっついていくほかない。
中国には中国の歴史始まって以来連綿と中華思想というのがある。
アメリカには、建国以来連綿と人種差別という潜在意識から抜けきれていない。
我々日本人は、有史以来、モノ作りには長けているが政治的には大人に成り切れていない。
第2次世界大戦が終わった時点で、世界中が共産主義の猛威に晒された。
日本でも占領軍の指導で、思想信条の自由が保障されて、日本共産党も合法的に活動できるようになったが、共産主義者の使命というのは、共産主義革命を成すことにあるわけで、その前段階として既成の秩序や規範、価値観の破壊ということがある。
これを普通の社会生活の中で実施されると、社会は大混乱に陥るが、共産党からすれば、それが目的なのだから収拾がつかなくなるのは当然の帰結である。
だけれども、戦後67年間という長いスパンで日本の初等教育の現場を共産党員が占拠して、日本の古来からの美徳をことごとく誹謗中傷したので、次世代においては昔の価値観が通用しなくなって、日本人のモラルは極限にまで低下してしまった。
最近、電車やバスに乗るとハンデイーのある人専用のシートが確保されている。
如何にも「障碍者を大事にしていますよ」と言わんばかりであるが、そういう措置をしなければならないほど、人々の心が荒んでいることを示しているわけで、人々の心に真の優しさがあれば、わざわざ優先席など設けなくとも自然に席を譲る行為ができるはずだ。
人々の心に真の優しさが芽生えていないので、いくら優先席を設けても、心ない若者が我が物顔にそれを使うということになるのである。
戦後の初等教育の現場を日教組という共産主義者が席巻したことによって、我々の古い価値観は木端微塵に粉砕されてしまい、それ以降の我が同胞の若い世代が、律儀な若者になる訳がないではないか。
日本の今のこの現実は、対日戦に勝ったアメリカの基本路線でもあったわけで、アメリカは日本をこういうだらしない国にすることが、対日占領政策の終局の目的であった。
アメリカの最も恐れているシナリオは、日本が再び民族の力を結集して、アメリカに歯向かってくる恐れであって、そうあってはならじと、深慮遠謀の策として日教組の活動を野放しにしてきたのである。
アメリカにとって日本ほど恐ろしい民族は他にありえない筈である。
アメリカは戦争の好きな国で、対日戦以降も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争と、絶え間なく戦争をしているが、対日戦ほど真剣に戦争をしたことはない。
そういう意味からしても、アメリカは日本に対していささかも油断してはいない。
その上、彼らには日本人に対する蔑視の感情が見え隠れしており、それを我々は見落としてはならない。
ところが我々の側の政治的感覚は全く稚拙なので、アメリカの本音がどこにあるかさっぱり探り切れていない。
アメリカの本音のみならず、日本を取り巻くあらゆる諸国家の本音も、本来ならば慎重に探って、用意万端整えるべきところが、我々の側にはそういう感覚が全く未発達である。
ここで大事なことはメデイアに対する対応であるが、我々はこれが真に下手で、メデイアを使い切ることがことのほか稚拙である。
メデイアの言うことが真実でないことを十分に心得ておきながら、情報を小出しにして、世情の動向を探りながら、コントロールするという芸当ができない。
日中戦争においても、中華民国の蒋介石は、自分の奥さん宋美鈴の世界的人脈を利用して、アメリカを自分の味方に引き入れたわけで、その点日本は自分の独善的な思い込みで行動を起こすので、世界の誤解を招いてしまうのである。
要は、メデイアを如何に使うかという話であって、メデイアの使い方としては、情報を得るという一方的な使い方と合わせて、如何に偽情報を発信するかという使い方もあるのだが、我々はそういう使い分けが何とも稚拙である。
政府の要人や官僚のトップともなれば、メデイアをインテリヤクザという視点で見るぐらいの度量がいるのだが、何時もいつも、自分の足元をすくわれるのではないかいう恐怖心におびえている風に見える。
メデイアに対する対応は、何も喋らないことで、メデイア側に喋らせるように仕向けるべきである。

『ローマ人の物語 Ⅴ』

2012-10-09 11:36:04 | Weblog
例によって人から善意の押し押し売り的に置いていかれた本で、塩野七生の『ローマ人の物語 Ⅴ』を読み終えた。
実に読みでのあった本で、読み通すのに苦労したというか、難儀をしたことは事実であるが、ついつい好奇心に惹かれて最後まで読み通してしまった。
この本では著者はユリウス・カエサルと称しているが、私にすればシーザーの方が言い易くなじみ深いので私はシーザーで通すことにする。
私も様々な本を乱読するたちなので、「ルビコン川を渡る」というフレーズはよく見きしているが、その真意はこの本を読むまで知らなかった。
このフレーズのニュアンスから、何か特別の意味を含んでいそうだとは思っていたが、その本当の意味は今日まで知らなかった。
また「ブルータス、お前もか!」というフレーズも、言葉そのものは聞き知っていたが、それにどういう意味が含まれていたかということまでは知らなかった。
また以前、『クレオパトラ』という映画があって、クレオパトラをエリザベス・テーラーが演じていたが、この映画を見たときも、クレオパトラが敷物に巻かれてシーザーの前に抛り出されるシーンがあって、あのクレオパトラの登場の仕方は完全なるフイックションだと思っていたが、この本を読んでみるとそうでもなさそうなところが不思議でならない。
この本を読みながらいろいろ考察してみて、まず最初の「ルビコン川を渡る」というフレーズであるが、これはガリア遠征において本国、祖国に帰るについてはルビコン川まで来た時に、そこで軍隊を解散してからローマに帰還しなければならなかったが、シーザーはそれをせずに来てしまったということで、国法に背く反逆者とされてしまい、元老院、つまり既存の体制側との確執を生じさせたというというのがこの言葉の真意であったらしい。
しかし、紀元前50年かそこらの時代に、外国に遠征した軍をそのままの編成では本国に入れてならないというルールは、実に見上げた措置だと思う。
海洋国家の日本に、これと同じルールがあれば、日本の歴史、アジアの歴史も大いに異なっていたに違いない。
この本を読んでいるとローマ人というのは実に進んだ人達だと思う。
というのも法の概念が実にしっかりしていて、法というものをお互いに守り合わねば、社会が円滑に廻らないということが人々の隅々にまで浸透していることは実に驚くべきことだと思う。
この時代、中国はまだ前漢の時代で、朝鮮は高句麗の時代で、日本はまだ弥生時代で、古墳の時代である。
こういう時代にイタリアのローマでは民主主義が芽生え、シビリアン・コントロールが既に生きていたわけで、まさしく西洋先進国という文言がそのままで生きているように思えてならない。
しかし、この本の著者、塩野七生女史といえども、当時の記録を直接読み解くということはさすがにできないので、先人の著述を参考にし、古典を読み解くことによってストーリーを組み立てたとしているが、シーザーもキケロも、この時代に既に文字で自らの思考を書き残したことは事実であろうと思う。
パピルスから作った紙が存在していたとはいうが、今の様に安易に文字を書いて、安易に保存できたものだろうか。
羊の皮の紙もあったとは言うが、そうそう安易に使える代物であったろうか。
物事を記録に残すということは、紙があるだけでは成り立たないわけで、話し言葉を文字として記録する媒体がないことには記録ということはありえない。
この古代ローマには、それが既に備わっていたということは実に驚くべきことだと思う。
そしてこの時代、既にローマの人々は、共和制という政治システムを具現化していたわけで、この事実は実に驚くべきことだと思う。
日本であれば、奈良地方をはじめとする日本各地で、登呂遺跡のような状況で人々は生きていた時代に、都市の基盤整備をして、自分たちの生き方の歴史を残し、外敵に対してはシビリアン・コントロールで軍務と政治を分離させていた、ということは実に驚くべきことだと思う。
我々日本民族の先輩諸氏も、明治維新というリボルーションで、西洋の近代化というものを目の当たりにしたが、それは自分の目で見た部分だけの追従でしかなかったということになる。
鉄道を目の当たりにし、自動車を目の当たりにし、商売のシステムを目の当たりにはしたが、その基底に流れている西洋人の深層心理までは思いが行き届いていなかった。
無理もない話で、異文化に接触したとき、まず誰もが自分の目で見た事象に驚くのが当然で、「何故そぅなのか?」という、その裏側の心理にまで考えが及ばないのも当然である。
福沢諭吉をはじめとする明治の元勲たちがアメリカやヨーロッパに出向いた時、彼らの受けたカルチャーギャップは相当なものだったと思う。
しかし、こういうカルチャーショックは自分の目で見た範囲でしか起きないわけで、目に見えている実態の裏側にまで考察を巡らすということは極めて難しい事で、誰でも安易にできるということではない。
文化文明も、水の流れと同じで、高い方から低い方に流れるが、この時代のヨーロッパ、ローマを中心とする地中海沿岸では、ほぼ同時進行的に文化が隆盛していたようだが、その中でも今のフランスやイギリスあたりはガリア地方と称して野蛮人のエリアだったというのだからくおかしい。
察するところ、ヨーロッパではローマを中心に同心円のように文化が周辺の諸民族に広がったとみなしていいと思う。
ところが我々の住むアジアでは、つまり日本では、文化そのものが川の流れのように、川上の中国から川下の日本まで一筋の流れとして伝わってきた。
これには地勢的な要因も大いに関与しているであろうが、この時代の人々は、ローマを除いて大部分の部族や人の集落は、古典的な統治の手法、つまり王政あるいは君主制であったか思う。
ローマのように元老院や市民集会の了解事項などという民主的な手法の所は特殊な存在ではなかったかと思う。
古代ローマが極めて民主的な統治システムを使っていたというと、今日的な価値観からすれば極めて喜ばしい事のように思いがちであるが、そうそうもろ手を挙げて喜んでいるわけにもいかない筈だ。
というのは、この時代には奴隷制度というのが普遍化していて、ローマ市民ならば奴隷を持つことが当たり前であって、この奴隷という言葉も、我々はアメリカ・南北戦争の奴隷解放というイメージが払しょくし切れないが、この時代の奴隷というのはどうもそれとは違ったイメージで描かれている。
それと私が不思議でならないのは、いわゆる男と女の関係で、人間の社会のみならず、生きとし生きるものはすべてセックスがついて回ることは自然の摂理であるが、この時代の政略結婚というのは何となく理解できるが、いまの我々の結婚観とは大いに異なっている。
政略的に「あの娘を嫁にすれば相手は自分に歯向かうことはないだろう」という意味の政略結婚は日本でもあったが、そういう意味からすれば、女性が積極的に結婚を考えると、すべてが政略的ということになってしまうに違いない。
クレオパトラの身の処し方を見ていると、そのまま20世紀にも通じるものが垣間見れる。
シーザーに身を委ねたに拘わらず、アントニウスを籠絡して、栄華をほしいままにする生き方は、女性の生き方としては究極の在り方に違いなかろうと思う。
これと同じような道を踏襲したのがケネデイー大統領夫人のジャックリーヌ夫人であり、イギリス王妃のダイアナ妃などであるが、こういう女性はどういう神経をしているのか私には理解不能である。
キリスト教の誕生はクレオパトラの時代よりも後であったが、キリストはこういうクレオパトラの自由奔放なセックスを戒めるために、「姦淫することなかれ」と教訓を垂れたのであろうか。
キリストが誕生したころは、人々はこのように自由奔放にセックスを楽しんでいたので、性病がはやり、父親の判らない子が増え、健康な若者が快楽に溺れたので、キリストもそういうセックスを戒めなければならないと考えたに違いない。
また逆に、古代に生きねばならなかった人にすれば、人々は常に自然の脅威にさらされて、何時死ぬかもわからない恐怖と隣り合わせに生きていたので、自分たちの子孫を少しでも多く残すために、今の価値観からすればずいぶん自由なセックスをしていたのかもしれない。
道徳とか倫理というのは、人間が本来かね備えている自然の摂理を意識的にコントロールする口実に過ぎないように思う。
人間が、自分の自然の欲求にストレートに順応しているとすれば、それは限りなく野蛮な行為ということになる。
その意味で、クレオパトラもジャックリーヌ夫人も、イギリス王妃のダイアナ妃も、女性としての自然の摂理に素直に従ったということは、普通の女性よりも野蛮人に近く、野性的な生き方を選択したということになる。
この地球上に数ある人々の集団の中でも、精神の深化の進んだ人々は、自分を自然の欲求から限りなく遠い位置において、自分の心の内面を自分で考察し、道徳や倫理に依拠する生活を心がけているが、自由人は自然の欲求に素直に順応する生き方に価値を置いている。
自然の欲求に素直に順応するということは、法や秩序を軽視するということにつながり、社会の混迷の下になる考え方であるが、人間の知識が潤沢になって思考の幅が拡大すると、人びとはこういう方向性にあこがれを抱くようになってきた。
道徳とか倫理、あるいは法とか規則というのは、人間の持つ基本的な欲求、あるいは自然の摂理を押さえつけるように作用するわけで、当たり前の人間からすれば、そういうものは無い方が望ましい。
これを今の日本に敷衍してみると、我々の中の教養知性に富んだ知識人と称される人々は、人々から愛される存在でなければならないので、民衆や大衆に向かって嫌なことを言う勇気を持ち合わせていない。
人々から嫌われないように、綺麗ごとの大衆受けのする無責任な発言をするので、それを聞いた大衆は道徳や倫理、法や秩序を蔑にしても、それに対する贖罪観を意識すらしていないのである。
人間の集団は好むと好まざると、統治する側とされる側の峻別は避けられない。
ところが、統治される側というのは、常に統治する側から道徳や倫理、法や秩序を押し付けられているわけで、何時の世でも不満は内在している。
統治する側としては、その不満をできるかぎり最小化するように努めているが、そうそう万人の満足する統治はありえない。
最大多数の最大幸福が民主主義の根源的な希求であるが、これは全員の最大幸福を求めるものではないことは自明のことである。
ところが、日本の進歩的な人々は、これを全員の最大幸福と勝手に拡大解釈するから、話が暗礁に乗り上げてしまうのである。
冷静に落ち着いて話し合えば、全員の最大幸福などあり得ないことは自明であるが、統治される側の立場としては、この自明なことに理解を示すことは統治される側の沽券に係わるわけで、自分の言っていることが非論理的なことを十分知っていながらの反対というわけだ。
ただ古代ローマ人が法を順守する人々であった、ということは随分驚きである。
今の中国は、21世紀の今日においても情実主義で、表向きは共産主義の仮面を被ってはいるが、中味は完全に情実主義で、自分の家族の安泰が最優先の課題であって、その実現のために共産主義を適宜応用しているに過ぎない。
共産党員の高級幹部は、自分の一族郎党の利益の為に共産主義をもてあそんでいるわけで、その精神の背景は、古代ローマ以前の自然人の立ち居振る舞いそのものである。
彼らには、昔も今も、祖国という概念、自分の祖国という認識は最初から存在していない。
有るのは自分の家族としての一族でしかないわけで、一族の繁栄はあっても、国家の繁栄もなければ、地域の繁栄もなく、まして祖国の繁栄という概念そのものが不在ということが言える。
この『ローマ人の物語』を1巻から5巻まで読み通すことは実に大変なことであった。
書いた人の苦労は察して余りある。
それにつけても自分で手に取った本ではなく、人から「これを読め!」と言われて、つまり受動的な動機で読むということは、いくら面白い本でも、心に苦痛を感じる。
読み始めればけっこう面白く、勧めてくれた人の善意をありがたく思わなければならないが、自分がアグレッシブに挑戦したものではない、という引け目は何とも不愉快な印象として残る。

『ローマ人の物語 Ⅳ』

2012-10-02 11:31:41 | Weblog
知人が善意の押し売り的においていった本で、『ローマ人の物語 Ⅳ』を読み終えた。
今回はシーザ-が今のヨーロッパ全域を制覇する物語であって、『ガリア戦記』そのものの忠実なトレースとみなしていいと思う。
『ガリア戦記』はシーザー自身が自分の陣中日記を認めたとみなしていいと思う。
ところが今こうして難なく物語としてそれを読むことができるが、これも考えてみると実に大変なことだと思う。
何せ2千年以上も前のことで、その時代のことを記録にとどめておくということは実に大変なことだと思う。
当然、本物は消失していて、人づての話が伝わっているに違いないと思うが、それでも大いしたものだと思う。
日本でもこの時期の話は神話と混同されてしまって、真偽のほどは藪の中というケースが多いが、21世紀の我が同胞の中には、「神話はフイックションだから罷りならぬ」といきまいている人がいるが実に子供じみた思考だと思う。
自分たちのルーツを子供に教えるのに、神話と事実を混同して教えるのも馬鹿げたことで、神話は神話として、歴史的事実は事実として分けて教えるべきで、それを無理やり天皇制の話とくっつけようとするからこういう陳腐なことになるのである。
日本という国の始まりを、神話や天皇制とくっつける思考は、明らかにイデオロギーに浸食された思考であって、そんなことに大の大人が振り回されること自体が陳腐なことだ。
この、『ローマ人の物語』の中には元老院という言葉が頻繁に出てくるが、これは私の解釈では今の世界各国の国会・議会のようなものと考えていいと思う。
シーザーがガリアで、いわゆる今日のフランスの地で、戦闘に明け暮れている姿というのは、完全なシビリアン・コントロールが実践されていたということである。
数ある本を乱読してみると「ルビコン川を渡る」というフレーズに行き当たるが、私は恥ずかしながら今までその意味を十分に理解していなかった。
それはまさしく「後に引けない一線を越える」という意味で、シビリアン・コントロールを終わらせて帝政に持っていくという意思の表れだった、ということを今回はじめて知った。
人を統治する手法としては、大勢の知恵を習合して最大公約数を引き出すか、それともたった一人の英雄にすべてを任せてついていくかの二通りしかないと思う。
それぞれに一長一短があるわけで、民主的手法が最良ともいえないと思うが、今の日本の人々にとっては、それ以外の政治的選択はありえないように思う。
シーザーの著した『ガリア戦記』の中に登場する諸民族は、それぞれにヨーロッパの各地に跋扈していた野蛮な部族であって、この時代は地球規模でそういう状態であったに違いない。
文明というのはギリシャとローマにしかなかったわけで、そのローマ人からすれば、ヨーロッパの黒い森の中の住人は野蛮人そのものであったに違いない。
こういう人間の集団を率いるには、聡明なリーダーによる独裁政治の方が効率は良いに違いない。
なんとなれば、意思決定が短絡的で素早い決定ができるので、緊急事態への対応が的確に可能になるが、民主的な政治手法では、その部分に遅れが生じる可能性がある。
この本は、その大部分をシーザー一人の記述で成り立っているが、今から2千年以上前において、たった一人のジュリアス・シーザーについてこれほど克明に書き記すということは実に驚くべきことだと思う。
その彼がヨーロッパ全域を制覇するということは、ある意味でローマの文化を伝搬したということでもあるわけで、今流の言い方をすれば近代化に貢献したということになるであろうが、人間の営みというのは、所詮こういう行為の積み重ねで成り立っているのではないかと思う。
昨今、日本の周辺諸国は、日本に対してさまざまな外交的ジャブ、チョッカイを出して、日本を紛争の渦の中にひき入れようと画策している。
しかし、主権国家がそういう行動をするという背景には、当然のことながら、こちらの対応を予測して行動を起こしているわけで、ただたんに思い付きでしているわけではない。
相手の行動を細心の注意を払って観測して、十分に勝算が望めるという目途がついたときに行動を起こしているのである。
日本周辺の諸国が、日本に対して外交的なジャブを繰り出してきたのは、言うまでもなく民主党政権になって、鳩山由紀夫がアメリカの存在を無視するかのような発言をしたことによって、アメリカと日本の関係がぎくしゃくして、そこにくさびを打ち込んで、双方がお互いに離反するように画策しているのである。
鳩山由紀夫の一時的な人気取りの施策としての「良い恰好シイ」のパフォーマンスと見たロシア、韓国、中国という国々は、鳩山由紀夫が政権の座にいる間に、日米同盟を無効にしようと考えたわけで、金持ちのボンボンの幼稚で、無知で、世間知らずの思考見透かされていたということに他ならない。
この本の中ではジュリアス・スシーザーはまだローマの共和制の下でのシビリアン・コントロール下での活躍であったが、いよいよルビコン川を渡ることによって、帝政ローマに移っていくことになる。
この本が今までの過程で縷々述べている中にも、共和制、いわゆる元老院の決定にも判断の間違いが数多くなることを示しているが、共和制というか、民主的というか、数多くの意見を聞いたうえで事を決するというシステムには大きな欠陥がある。
時間と金が掛かることは言うまでもないが、もう一つ責任の所在が不明確で、失敗の責任をだれに負わすかという問題がある。
結果オーライで事が成功したときは、英雄に祭り上げられるが、失敗したときの責任を明確にすることは甚だ難しい。
これが帝政下の独裁政治であれば、ことは簡単であるが、民主政治で皆が寄ってたかって決めたことが失敗となった場合、責任の所在は極めて曖昧にならざるを得ない。
ローマ人が野蛮なガリア諸民族を次々に平定して、それに成功したシーザーが祖国に凱旋しようとした時、それをローマの人々はあまり歓迎しなかったわけで、そこでシーザーはルビコン川を渡るか渡るまいか迷った挙句、渡ってしまったので、その後のローマは帝政になったということである。
ところが、この時、なに故にローマの人々は素直にシーザーの功績を称えなかったのか、ということである。
浅薄な私が推察するに、やはりこういう場合、成功者に対するやっかみの心理が作用するのではないかと思う。
我々の身近な例にたとえれば、湾岸戦争の戦後処理でイラクに派遣した自衛隊が、立派な実績を上げて引き揚げてくるのに、日本の議会が冷ややかな目で眺めている図だと思う。
現地の苦労を考えたこともない銃後の人々が、軽薄な理想主義を金科玉条として、その画餅のような理想に反するからと、血と汗を流した人々を冷遇した構図ではないかと思う。
この時のローマ市民は、ローマ市民であるが故に兵役を担い、税を負担しなければならなかったが、この負担を担わなくてもいい階層もいたわけで、その分発言権もなかったようだ。
しかし、統治するものとされる側の確執は、いつの世もついて回るわけで、その中で大勢の人の意見を汲み取る施策は、良い事の代表のように思われているが、この思い込みが往々にして道を誤るもととなっている。
大衆、民衆の求めるものは、自分たちが得することのみで、自分たちの負担になることは極力回避しようと願っているものである。
人間の心理として当然すぎるほど当然のことである。
しかし、為政者、統治側としては、配下の全員、国民の全部、市民の大部分の期待に応えねばならないが、そう好都合なことばかりではないわけで、時には負担を強いることも出てくるが、統治される側としては、それは我慢らないわけで、不信任ということになる。
これは2千年前も今日もいささかも変わらず、民主党政権の、特に、鳩山由紀夫には、その部分が理解不可能であったが故に、周辺諸国から外交的なボデイー・ブローを見舞われたのである。
「普天間基地を少なくとも県外に移設する」などという茶番がありうるわけがないが、それが判らないということこそが、如何に本人がダメ人間かということを端的に表している。
そういう発言をすることで、彼は国民の人気を得ようと、出来もしない美辞麗句を並べてはみたものの、彼のパフォーマンスは誰の目にも人寄せパンダ以下の評価でしかなかったということだ。
そもそも大衆に受けようとする魂胆が、いやらしく、卑屈で、足元を見透かされているにもかかわらず、本人のみがそれに気が付いていない図である。
彼は金持ちのボンボンであるが故に、大衆の深層心理を真から理解することなく、表層的な流れに翻弄された構図であろうが、高等教育を受けた身で、政治家でありながら、それに気が付かないということは、人間として致命的な欠陥である。