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ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『新訂 故宮博物院物語』

2013-02-28 09:07:23 | Weblog
再び台湾を旅行するハメに至ったので予備知識にと思って図書館から借りだしてきた。
今回も故宮博物院の見学がコースに入っているので、それに関する知識にと思って借りてきたが非常に有意義な本であった。
そもそも私にとっては、中国の北京に故宮博物院があるにも関わらず何故台北に同じものがあるのかという点からして不可解なわけで、その疑問に答える本を探していたら、この本がたまたま見つかった。
事の始まりは中国の内戦であったわけで、国の中が乱れるという事は、こういう事なのであろう。
昭和の初め日本軍が中国の地で侵略にとっかかったことは歴史的事実として如何ともしがたいが、そこで彼ら中国の人々は、国共合作で対日戦に協力し合って、協働すれば故宮博物院の歴史的遺物も中国国内を無為にさ迷うこともなかったに違いない。
日本軍が華北の地に攻め入りそうなので、安全な場所に避難するということはよく理解できるが、それと合せて国内で内戦が激しくなり、中華民国の政府と共産党の軍隊が彼らの同胞同士で殺し合う状況になった。
清王朝を倒した辛亥革命とは一体何であったのだろう。
革命の父と言われている孫文は一体何を目指して革命を推し進めたのであろう。
結果から見て、彼のしたことはただ単に中国の大地に混乱を引き起こしただけで、新しい秩序は何一つ作り得なかったということが言えているのではないか。
この時、革命が成功して紫禁城の住人、宣統帝溥儀一族をしばらくの間そのまま据え置いた措置は、彼ららしからぬ優れた措置だと思う。
従来の彼の地のやり方ならば、その場での殺戮が行われても何ら不思議ではないはずで、過去の王朝の交代はそれを踏襲していたが、辛亥革命はそうならなかった。
しかし、この有難い措置を宣統帝溥儀は認識していなかったに違いない。
3歳で即位して、退位の時は7歳であったことを考えると、彼自身には統治という概念すらもなかったように思えてならない。
然しながら、彼自身はその後11年も紫禁城の中(その後の故宮博物院)に住んでいたわけで、その間に彼自身でその宝物を持ち出していたと述べられている。
人類の歴史の中で王様にモノを献上するという行為は、その事の善し悪しは別次元のこととして、どの民族でも大なり小なり息づいていた。
つまり、王様の元には黙っていても宝物が集まって来ると言う事である。
結果として、清王朝の紫禁城には中国の悠久の歴史を反映して金銀財宝が集まっていたということだ。
それで清王朝を倒した新しい政権、孫文はこの時に臨時大総統となり、国としては中華民国と名のる事となった。
この時の孫文の立場は非常に不安定で、それというのも中国全土において軍閥と称する地方勢力が群雄割拠の体を成していたので、中央政府としても非常に不安定であった。
このパワーバランスの均衡を破って台頭してきたのが袁世凱で、彼は清朝を復活させようとしたが、その前に死んでしまった。
この時期の中国はまさしく無政府状態のようなもので、地方政府と、軍閥と、共産主義者と、政府軍が入り乱れての混戦であったが、その間隙を縫って日本で軍事教育を受けた蒋介石が台頭してきて、彼が中華民国、国民党政府とそれに付随する軍を掌握してしまったのである。
辛亥革命が1912年大正元年で、蒋介石が一応彼の地を平定したのが1928年昭和3年であって、この間、日本もさまざまに関わり合いを持ち、干渉し、邦人保護の名目で兵力を差し向けたことも多々あった。
これは彼の地が不安定だからこそ、低きに水が流れるように自然の摂理であって、人としての理性で説けば許されることではないが、人間の自然の在り様、人間の原始的思考からすれば、過去に幾度も経験してきた事象である。
問題は、こういう状況下で紫禁城に集められた宝物をどうするかということで、中華民国として国家がきちんと保管することは主権国家の施策として当然であり、それを行おうとしたことは立派なものだと思う。
ただここで問題となってくるのが中国人という人間の在り様であって、中国では太古からいくつもの王朝が変わったが、いくら王朝が変わろうとも、下々の民が根絶したということは無いわけで、人々は太古から中国の地に連綿と生き続けてきたのである。
それは人間としての本質のまま生きてきたわけで、ある意味で類人猿、サルに近い生き方であったともいえる。
そういう中からリーダーが出てきて、そのリーダーに従うことによって経験を積み、その経験が文化となって集団を形成したが、その集団こそ原始の王朝であったと考えれる。
その王朝は必然的に栄華盛衰を極めるが、そこにいる下々の人間は入れ替わる事もなく、昔のままの生き方を踏襲しているのである。
清王朝の人々をその居城、紫禁城から追い出して、その宝物は新しい国家の人民のもの、というわけで保管を厳重にし、時には閲覧することを許したとしても、それを実践する人たちは革命を生き抜いてきた下々の民衆たちであって、要するに原始のままの自然人に近い人々であって、宝物を貴重な文化財という認識は毛頭持っていないということになる。
そういう状況下で、それを貴重な文化財と認識して、戦火から避けようと考えた人は立派な人だと思う。
その人は最終的には蒋介石ということになるが、彼の評価となると私個人としてはいささか微妙な思いがあって、良いものにはなり得ない。
そもそも王様の所に集まって来る宝物は、果たして国家のものか、それとも王様個人ものか、という点はどう考えたらいいのであろう。
王様の元に集まって宝物は、臣下のもののゴマすりの象徴として献上されるもので、王様が健在な時はそれはそれでいた仕方ないが、廃帝になった後では、それがどういう位置づけになるのか大いなる疑問だと思う。
女真族のヌルハチが明を滅ぼしたようなときならば、明の王朝の宝物を独り占めするということもあったであろうが、孫文の辛亥革命は君主制を廃して共和制を布いたわけで、旧王朝の宝物は共和制国家のモノはということは充分理解できる。
だから蒋介石がそれを台湾に移したということは、結果としてそうなっただけに事で、本来はあるべき場所にきちんと保管されて然るべきしものだと思う。
ここで宝物という言い方をすると如何にも安っぽいが、本当は中国の4千年とも5千年とも言われる歴史の遺物なわけで、宝物などという軽々しいモノではない。
トータルで64万点とも言われる膨大な収蔵物が、1933年昭和8年から1948年昭和23年の間、大陸の地をさまよい、日本軍からのがれ、共産主義者からのがれて、国民党政府が台湾に移ると同時にこれらも台湾についたことになる。
その間、15年間も梱包されたまま大陸の地をあっち行ったりこっちに行ったりとさまよっていたということであるが、その間に移動中の紛失が無かったというのは不思議な気がしてならない。
紫禁城に元の主たちが棲んでいた頃は、かなりのものが散逸したのに対し、移動中はそれが無かったというのも不思議な気がしてならない。
憂うべきは共産主義というモノの考え方であって、このモノの考え方に取りつかれた人たちは、普通の考え方を捨て去って、人間の作った人為的な思考に身を委ねてしまっているので、自然の摂理を理解しきれないという点である。
年上の人を敬いましょう、人のものを掠めてはなりません、人の迷惑になることは止めましょう、というのは人間が過去に生きてきた事からくる経験則を集大成した発想であって、ある意味で自然の摂理でもある。
それを老いも若きも同じノルマを課し、人は皆平等だという訳で長幼の功を無視し、階級の敵という訳で個人の欲望を抑え込んで、人々に「働け」と言っても人々はそう安易に動かないのは当然である。
中国共産党の長征、国民政府軍の北伐、これは一体何なのだ。
この本でも言っているが、紫禁城の宝物が台湾に渡って、此処で保管されたことは人類にとって非常にありがたく有意義な事だといえる。
これがそのまま北京の紫禁城、今の北京故宮博物院に留め置かれていたとするならば、文化大革命の時にどうなっていたか誰も予測できなかったに違いない。
基本的に共産主義者というのは従来の価値観を理解しきれない人々で、共産主義に洗脳された発想しか受け付けないので過去の文明はすべて否定されかねない。
彼らの発想であれば、王様の宝は人民から搾取されたものであって、階級闘争では最も忌むべきものであり、それらが人類の英知を集合した文化ということにはならないわけで、平等化した社会にとっては無用の長物でしかない、という論理に行き着く。
この本ではこの宝物が大陸を放浪した軌跡が詳しく述べられているが、その詳細は私にとっては重要ではない。
私の興味を引く部分は、もともと中国の大陸の宝物が台湾に来たという点であって、台湾に来たからこそ、それらが保護され中国の文物として世界の注目を浴びているという現実である。
本来ならば、北京のあるべき場所、昔の紫禁城の収まるべき場所にきちんと収まって、人々に観覧されるべきものではなかろうかという想いである。
この博物院の建物は1965年昭和40年にできたもので、その間、33年ものあいだ故宮博物院の宝物は、収まる場所を探してさまよっていたということになる。
この博物館は背後の山に180mトンネルが掘られて、そこでは安全に保管が出来るようになっているということである。
然し、建物の頑丈さもさることながら、本当はそれを管理する人間の質的向上の方がより一層大事な要件だと思う。
紫禁城でその主、つまり宣統帝溥儀の世話をする官吏たちは、世情の乱れに便乗して手に入るものは全て持ち出し、つまり盗んでいたわけで、こういう宮廷官吏がいるかぎり宝物の散逸は防げない。
紫禁城の宝物、いわゆる宣統帝溥儀の持っていた宝物というのは正確には誰のものなのであろう。
そもそも、その前に国家の正当性というのは一体何なのだということがある。
アジア大陸を中国共産党が席巻して中華人民共和国を作った。
その時
すると中国人以外の者からするとそのどちらが正当性を持った中国かということになる。
因みに中華人民共和国は1971年、昭和46年に国連に加盟している。
それまでは中華民国が加盟しており同時に常任理事国でもあったが、この時点で入れ替わったことになるが、この国連の措置も本当ならば筋の通らない話だと思う。
その意味では旧ソビエット連邦の崩壊後にロシアがそのまま居残るというのも筋の通らない話であるが、国連というのは言うまでもなく、「正義の騎士」ではないわけで、高遠な理想を掲げてはいるが、それを身を以て実践するとは限らない極めて俗っぽい存在ということである。
第2次世界大戦の戦勝国同盟のような国連で、その戦勝国の一つを放り出して、戦いも経験していない、ともに協力し合って血を流したこともない新興国を新たに入れるなどということは、まさしく仁義も信義も紛失したありさまといえる。
国連という組織が、正義の具現を目指すものではない、ということは想像し得るが、それであればこそ仲良しクラブであって、この仲良しクラブはそれぞれの利害得失で、くっ付いたり離れたりするのである。
であるからして、ある国の正当性などということは問題視していないということだ。
正当であろうがなかろうが、自国にとって損か得かという勘定で付き合うということだ。

『米中百年戦争』

2013-02-22 08:05:47 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『米中百年戦争』という本を読んだ。
サブタイトルには「新・冷戦構造と日本の命運」となっている。
著者は春原剛と書いて「すのはらつよし」と読むらしいが、相当に難解な名前だ。
名前が難解だからと言って、作品の評価とは何の関係もないが、この作品、実に読み憎い本であった。
活字が小さくて、センテンスの切れ目が少なく、実に重苦しい文章であった。
内容的には冷戦が終結した後でのアメリカと中国の関係が克明に記されているが、その記述が余りにも克明すぎるので、読むものがついていけれない。
米ソの冷戦が終結した以上、「次に世界制覇の舞台に登場するのは中国だ!」という意識は中国人自身が既に自覚していると思う。
旧ソビエット連邦でも中華人民共和国でも、自由主義陣営に対して強気の外交交渉に出てこれるのは、彼らには国の責任として自国民の生命財産を庇護するという概念が無いので、国家指導者の意のままに戦争をする自由があるからである。
自分の国の人々に対して、彼らの生命と財産に責任を負わなくてもいいというのであれば、国の指導者は全ての権利を預託されたようなもので、何をやっても許されるということになり、事実そうなっている。
ところが民主国家では戦争をするには国民の負託を考えねばならず、「如何なる国難でも戦争するまでのことはない」と国民が判断すれば、それ以上のことは出来ないが、旧ソ連や中共ではそういう機能は確立されていない。
昨年の中国の代表者会議で次の指導者が周近平になったと伝え聞いているが、彼は1953年生まれ、日本の年号で言えば昭和28年生まれで、60歳という年だ。
明らかにアジア大陸で日本が敗退した後になって、国民党政権と中国共産党の内戦で勝敗が決し、アジア大陸の大分部を共産主義者が席巻した後に生を受けた世代であって、中国革命の第2世代、あるいは第3世代ではないかと思う。
だとすると新しい中国の指導者は、革命前の事象については全く馴染みが無いわけで、古い価値観に対していささかの理解度は無く、有るのは新しい共産主義に順応した新しい価値観のみである。
この地球上に誕生した人類は、基本的にはみな同じ生活様式を持っていたに違いない。
穀物を栽培するか、あるいは獲物を追いかけて狩りをするかの違いはあっても、人というものは一人では生きれないという点については皆同じだと思う。
一人では生きられないので、人が寄り集まって社会が出来るのだが、社会が出来ればその中では秩序が形成される。
最初は単純な秩序だったろうと思うが、そのうちに人間の数が多くなって社会が複雑化してくると、その秩序を成文化したり、慣用化したり、躾けになったり、習慣になったり、モラルになったりしたしたわけで、それは一つの文化を形成することになる。
そういう歴史の積み重ねの結果として、世襲制に依拠した金持ちと、年がら年中貧乏暇なしで働きづめの階層が出来てきた。
そうすると「こんな人間社会はおかしいではないか」という発想が出てきて、それが共産主義というもので、言うまでもなくマルクスとエンゲルスがそれを学問的に系統立てたが、その言っていることは真に立派な事であって、何人もそれに異議を差し挟めないほど見事な論旨であった。
しかし、いくら立派な思想でも、それを司る人間が煩悩に犯されておれば、それは絵に描いた餅になってしまうわけで、理性的な思考をする人は、あまりにも立派な理想を掲げた共産主義には同調しなかった。
そういう立派な思想に身も心も投げ打って飛び込んで行った人は、基本的に心が清らかで、その上純真で、穢れを知らず、思い込んだら一直線に突き進むタイプの人たちであった。
人類誕生から19世紀までの歴史的時間の中で、人間の世俗的な世界は貧富の差が極端に大きくなってしまって、地球上には不公平感が蔓延してしまったが、丁度その時に忽然と沸いて出てきたのが共産主義という考え方で、その考えのもとに地球規模で革命で以て世直しをする機運が昂揚してきた。
こういう新しい考え方も、最初は裕福な貴族の善意で以て無知蒙昧な貧しい人々に説かれたが、その世直しの為には金持ちを殺してもいい、階級の上の者は殺してもいい、組織のトップは殺してもいい、古いモラルや規範は守らなくてもいい、と教えられた無知蒙昧は群衆は、その教えられた通りの行動を起こしたのである。
その教えを厳格に遵守したのが、無知蒙昧な烏合の衆としての民衆であり大衆であって、理性的に自分の脳で物事を考える人は、こういうバカな人々によって悉く粛清されてしまった。
そういう革命が起きたのが旧ソビエットと中国であったわけで、こういう国々が革命に成功したということは、普通にモノを考えることのできる人間よりも、無知蒙昧な群衆の方が多かったということを如実に示している。
そしてこういう愚昧な民衆や大衆が、資産家や、銀行家や、農村の長的な指導者を全部殺してしまったので、社会が正常に回らなくなってしまった。
つまりそういうレベルの人を全部殺してしまったので、ここで価値観が断絶してしまって、昔のモノの考え方が通じなくなってしまった。
だが、昔も今も人の生き様というのはそう極端に変わるものではなく、強いモノにはすり寄って、ゴマを擦りながら生きるという、生活の知恵はそう安易に変わるものではない。
革命が成功したということは、そのことによって昔の価値観が全否定されたことで、その事は人間としての普通の処世訓が意味をなさなくなったということである。
だが人々は生き続けねばならないわけで、倫理観はここで一旦断絶してしまったが、共産主義者にとっては昔の倫理観は諸悪の根源であったが、それに代わるものが見つからなかったので、世の中は支離滅裂になってしまった。
ところが共産屙主義を受け入れなかった人々は、今日に至っても、尚、人間誕生以来の精神性に重きを置いているわけで、新しい共産主義の価値観とは相いれないのである。
だから共産主義でない世界では1+1は2であり、2+2は4であるが、中国を筆頭とする共産主義の人々では1+1が3であり、2+2は5になっているのである。
我々は自由主義の世界に住んでいるので、1+1は2で、2+2は4という認識で生きているが、彼らは1+1が3で、2+2が5の世界に生きているので、同じ価値観を共有できないのである。
その上、人権意識も希薄なので、国民が死のうが生きようがその国の指導者はあまり意に介さない。
毛沢東が言ったとされているように、原爆で1億や2億が死んでも、中国にはあと10億の人間がいるという感覚である。
国民がいくら死のうが意に介さないのであれば、何時でも何処でも戦争が出来るわけで、その意味では日本もアメリカも中国が直接武力に訴えて来るような政策は何が何でも避けねばならないことは言うまでもない。
共産主義で以て我々と同じ価値観を持ち合わせていないという点と、国民が少々死んでも意に介さないという二つの面で、自由主義陣営も迂闊には相手の挑発に乗れないことは言うまでもない。
中国人の発想は、共産主義という怪物と言うべきか宗教と言うべきか、そういう彼らのモノの考え方の前にも、中国人の独特の発想にも大いに違和感があった。
それは中国人というのがネイティブ・エイジアン。アジアの先住民という部分である。
南北アメリカ大陸にはもともとネイティブな人々は住んでいて、そこにヨーロッパから移民として新しい人々が渡ってきて、そこでもともとあった文明は接木されたように、新しい環境の下ですくすくと伸びたのが今のアメリカンカルチャーである。
ところがアジアではヨーロッパ人は移民してきたわけではなく、ただ単に富の草刈り場に徹し切ってしまった。
ネイティブ・エイジアンの方もヨーロッパ文明を拒否する方向に作用して、近代化を遅れさせてしまった。
中国人というのはまさしくネイティブ・エイジアンであって、アメリカ大陸であればネイティブ・アメリカン、いわゆるインデイアンであって、その生態はまさしくそれと同じではないか。
ネイティブ・アメリカンもネイティブ・エイジアンも人類学上ではモンゴロイド系であって、親戚同士のようなものではないか。
そういう視点で中国人を眺めてみれば、十分に納得のできる部分があるように思えるではないか。
新大陸のアメリカに渡ったヨーロッパの人々は、いわゆるヨーロッパを食い潰した人たちで、もうこれ以上生きる場所が見つからないので、自ら生き延びんがために大西洋を渡ったわけで、その意味でいわば怖いもの知らずであった。
とはいうもののヨーロッパの従来の思考を全部捨て去ったわけではなく、その意味では共産主義革命とは明らかに異質な思考であったが、新天地に来たという意味で、過去のモノの考え方には捉われることなく、思ったことを思った通りに実践できる、という思考のリストラクチャーは有り得たと思う。
つまり、古いヨーロッパで人々を支配していた習慣とか、因習、仕来たり、既成概念や信仰に束縛されることは無いわけで、自分の思ったことを思った通りに実践できたに違いない。
これは言い方を変えれば下からの変革なわけで、民主主義の基底を成した思考であったが、古代からの歴史が連綿と続いた民族では、こういう発想の転換が極めて困難で、どうしても歴史というものを引きづり込んでしまう。
その意味では、我々の国も1945年昭和20年において大きなエポックを迎えて、ここで我々の歴史は一旦途切れてしまった。
この時に我々の国も共産主義の国になる条件は全部で揃っていたが、それを阻止したのはほかならぬアメリカであった。
尤もアメリカが日本の天皇性を継続したのは、日本の為という訳ではなく、アメリカの為であったことは知って置くべきであるが、結果として我々は古代からの天皇制をそのまま引き継いでいることになる。
中国というよりもアジア大陸では、日本の天皇制のようなシステムを持った国というか民族は、生まれては消え消えては生まれていたわけで、その地に生まれ出でた人々は、自分たちの君主なり領袖つまり指導者に対していささかも信がおけなかったにちがいない。
いくら協力してもいつ裏切られるかわからないわけで、それは民を治める側も同じ気持ちを持っていたに違いない。
だからこの地に住む人々は、自分自身の心しか信じるモノを持たなかったわけで、私の言い方で表現すれば究極の個人主義ということになる。
だから地球規模で以て1+1は2であり、2+2は4であるという論理を無視して、自分たちの論理を押し付けてくるのである。
こういう論理展開をしてくる相手に対して、どういう説得の方法・仕方があるというのだろう。
この発想の矛盾は台湾の存在に集約されているわけで、蒋介石の国民党軍が毛沢東の八路軍に追われて台湾に渡って、中国本土では中華人民共和国という新しい国家が誕生したのならば、台湾は旧の中華民国のままにしておいても良さそうなのに、それを許さないという発想は、いかにもシナ人らしい頑迷な思考と言える。
毛沢東という新しい皇帝の極めて個人的な覇権主義の表れであって、その中には自分たちの民族あるいは自分たちと同じ同胞という意識は全く存在せず、自分に敵対する敵という意識に過ぎない。
彼らは共産主義という思考でアジアの大部分、中国という国土を席巻したが、統治という意味では、秦の始皇帝や清朝の西太后と同じレベルの発想でしかない。
共産主義という考え方の中には、マルクスやエンゲルスが心血を注いで考え抜いた、生きる人間集団の理想の生き方が描かれている筈であるが、それを掲げて革命を成した人々は、既存の勢力を殺してしまった暁には,自分たちの立ち居振る舞いも自分たちが抹殺した人達と同じことをしていた、ということに気が付かなかったのである。
中国共産党がアジア大陸を席巻して、蒋介石の国民党政府は台湾に逃げたので、中国というのは中華人民共和国と中華民国という二つになったわけであるが、中華人民共和国は余所の国が台湾、中華民国と付き合うことを忌み嫌うわけで、この部分が中国人の独特の思考回路だ。
第2次世界大戦の前まではイギリス、フランス、オランダという国々はアジアに植民地を持っていた。
そこに日本軍が侵攻して、旧宗主国の軍事的パワーバランス粉々に打ち砕いてしまったので、戦後それらの国々は独立を確保した。
この時に、旧宗主国、イギリス、フランス、オランダが、旧植民地の独立を認めず武力で脅している構図であるが、こんなことは第2次世界大戦後の世界で通用するはずもないが、中国はそれをしているという訳だ。
世界は中国の存在に相当怯えているのではないかと思う。
国連の常任理事国には当初中国が入っていたが、この時の中国は蒋介石の中華民国であって、毛沢東の中華人民共和国ではないはずである。
ところが知らぬ間に、中華人民共和国が常任理事国になり、台湾・中華民国は除外されてしまった。
こんなバカな話もないと思うが、この時の国連というのは一体何をしていたのであろう。
この事は、国連の常任理事国の在り方を再検討すべきということを示唆していると思う。
旧ソビエット連邦が崩壊してロシアが常任理事国になるというのも筋の通らない話だと思う。
いくら立派で理想的な思考でも、それを実践するのは人間であって、人間であるからこそ、その人の持つ煩悩でその人の行動がコントロールされることになり、それがその他の大勢の人の不満を集約することにもなりかねないわけで、その際に時の権力者が如何なる行動に出るかによって、民主化の度合いを測るバロメータになりうる。
昨今の中国の勢いは計り知れないものがあって、アメリカと肩を並べるまでになってきている。
最も新しいニュースでは、中国の軍部の情報機関がアメリカのコンピュータに対してサイバー攻撃を仕掛けているということまで流されている。
十分にありうる話であるが、ここで我々は肝に銘じて知っておかねばならないことは、中国という国は自国民の生命財産にいささかの懸念も抱いておらず、それらを守るという意思がないので、国民の犠牲を極力回避するという意思を全く持っていないということである。
国民が少々殺されても、国威を前面に出すことを優先させ、国土の拡大を目指し、世界に覇権を示すことに現を抜かすということである。
相手が戦争も辞さない覚悟でいれば、まさしく怖いものは何もないということで、相手にこう開き直られると、我々としては手も足も出ないということになってしまう。
話し合いと言ったとところで、価値観が根本的に違っているもの同士でいくら話し合ってみたところで、無に無を重ねるだけで妥協点が見つけだせるわけが無い。
我々は無用な殺傷は極力回避しようと、出来るかぎりの努力を重ねようとしているが、相手は自国の犠牲を顧みることもなく、押せ押せムードで押し切って来るので、こちら側としては手の施しようもないということになる。

『法廷の内と外で考える』

2013-02-18 09:43:14 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、『法廷の内と外で考える』という本を読んだ。
サブタイトルには「犯罪者たちとの10年」となっていた。
著者は佐木隆三という人だが私の知った人ではなかった。
内容的には1992年から1996年までの時評をエッセイ風に綴ったものであったが、その発表の舞台が『問題小説』という雑誌だったので私の知るところではなかった。
著者は1937年生まれということなので、私とほぼ同時代の人ということだが、私と比べると政治的には極めて早熟な人であったに違いない。
八幡製鉄、その後の新日鉄で組合活動して、共産党にも入党していたというのだから相当に早熟であったことは否めないと思うが、こういう思想遍歴があると言う事は極めて人間的だともいえる。
共産主義というものが若い青年の純真な心をとらえるのは極めて自然なことだと思う。
共産主義そのものは、人間の思考としては極めて純なモノを内包していると思うが、問題はそれを如何に政治に反映させるかという点に尽きる。
ところが、この部分で人間の煩悩が頭をもたげるから行き詰ってしまうのである。
人間の集まりである社会には、自ずから富めるものとそうでないものが自然に発生してくるわけで、その根本のところには個人の生き方が大きく関わっている。
それは個々の人間のそれぞれの我欲によって支配される。
自分が生きれるだけで十分だと考える人と、それだけでは我慢できず、自分で囲った2号さんにも3号さんにも十分食わせたい、と思う人間では最初から生きる方策が違っているわけで、若くて純な若者は前者にあこがれを抱き、老練な年長者は後者を選択しがちである。
こういう例を引き出すまでもなく、一人の若者が夢多き青春時代から老齢に至るまで、自分の考えが変わらないという方が逆に不自然なわけで、日本共産党はこういう人間の精神の深化を認めなかったのである。
若い時の考えが年を経るとともに変わるのが人間の精神の真の進化ではないかと思うが、それを認めないということは既にその部分に思考の奢りがあるわけで、ある意味で狂信的な思考回路に陥っているということになる。
それで、私を含めてこの世代の人々は、1960年代の全共闘世代の狂乱の時代を経て今日に至っているが、あの時代の反政府、反体制の世相というのは一体何であったのだろう。
世相の混乱を演じるのは何時の時代でも若者であることは歴史の必然であろうが、その若者をリードすべきが本来ならば老練な大人の世代でなければならないはずである。
戦前の歴史をひも解いても、血気盛んな青年将校の反乱を諌める方向に指導しなければならなかったのは、分別を持った大人でなければならなかったのに、組織内のそういう立場の者がそれを煽るような言辞を弄したから我々は奈落の底に転がり落ちてしまったのである。
人間の社会には、生まれたての赤ん坊から棺桶に足を突っ込んだ年寄りまで万遍なくいるが、時代をリードするのは勢いの良い若者が中心になるのが自然の流れだと思う。
しかし、若者というのは、若者であるが故に、あらゆることに未経験で、思慮は浅く、思い込だけが強く、性急な発想に陥りやすいので、そこをコントロールすべきが老練な壮年の世代でなければならない。
この世代が若者に迎合すると、世の中が乱れるわけで、この分別をわきまえた壮年の人たちが、自分だけ良い恰好シイで、物わかりの良いポーズをとろうとして、若者に迎合することを厳に戒めなければならない。
ここで考えねばならないことが、知識階層の役割というか社会的な使命であって、こういう人たちから政治とか外交、あるいは国策というような大局的な課題を見る目は、どうしても現行政府に対する批判的な評価になってしまう。
他者の為すことの欠陥ばかりが目について、ついつい批判的な言辞になりがちで、だからと言ってそれに迎合すれば、提灯持ちとして揶揄されてしまう。
政治を考えるとき、現実的には統治するものとされるもの。という2極対立の構図に必然的になってしまうが、この相関図は知識階級であればこそ周知の事実であって、こういう人から政治家という人種を見れば唾棄したくなる気持ちは十分理解できる。
そうあってはならないという訳で、思ったことを思った通りに素直に口にして良いかと言うと、そこでは大人の対応が求められるわけで、こんなことは知識人であれば自明のことである。
1960年代、戦後の復興が一段落したころ、日本の世相は大混乱を呈していた、
安保闘争から学園紛争、それに成田闘争から沖縄返還の問題等々、世の中は混乱の極みであったが、それは戦後の第2世代の仕業だといえる。
1945年昭和20年の8月に戦争が終わって、それ以降しばらくの間は、戦地に散っていた若者が復員してきた時期で、当然のこと、しばらくの間はそれらの若者が子作りに励んだことは言うまでもない。
その時生まれた赤ん坊が若者になるのがちょうど60年代以降にあたるわけで、問題はその時の親の存在とその親の精神状態であった。
1960年代の若者の親というのが、終戦の時に戦地から復員してきた当時の若者たちで、彼らは1945年昭和20年の8月の終戦という大きなエポック、価値観の大転換、神も仏も天皇陛下も信じられないという大変革を経てきたわけで、その時点で如何に生きるかという人生の指針を失ってしまった。
あるのは生物の本能としての生への固執のみで、生きんが為には魂までも悪魔に売り渡してしまったわけで、従来の価値観を全部捨て去ってしまった。
そこで、新たに生まれてきた我が子に対する教育、躾け、身の処し方を説くことを放棄してしまったのである。
結果として、民主主義と個人の我儘を混同してしまって、個人の自由を尊重するという綺麗ごとの言い分を聞き入れて、放任主義の子育てをするということになってしまったのである。
実際にはその前に伏線があって、戦時中に共産主義者とそのシンパは治安維持法で抑圧されて社会から葬られていたが、戦後、日本に進駐してきた占領軍によって解放された。
この人たちが戦後それぞれの持ち場、特に大学の教壇に復帰してきて、自分たちを抑え込んだ旧体制に復讐を仕掛けた。
彼らは、共産主義に賛同しているからには当然のこと天皇制を敵視していたわけで、その部分では占領軍の施策と利害が一致していたが、やはり日本人同胞として旧軍人と同じ思考回路であったが故に、同じように墓穴を掘ってしまったわけだ。
問題は、治安維持法で抑圧されていた知識人が、戦後に至ってもその知識を復興に差し向けることをせず自分たちの勢力拡大にのみに傾注していたという事実の重みである。
これは軍隊の内部における覇権争い、政権内の力関係、組織内の派閥抗争と同じレベルの事態であって、そこでは本来人間の行動を理性的に律すべき精神の葛藤がいささかも機能しておらず、ただただ動物的な自然の摂理に支配されているだけで、後天的な教育によって醸成された理性や、知性や、知恵というものがいささかも見られない。
こういう人たちが、戦後、復帰した大学で教壇に立って、反政府、反体制、反米親ソを説いて良いものだろうか。
現に、共産主義国のソビエット連邦は1989年に約70年の歴史を閉じてしまったが、戦後の日本の大学で共産主義を若い世代に説いてきたオールド・コミニストは、どういう感慨を持つに至ったのであろう。
戦後の日本の大学内のコミニストで、ソ連の崩壊を予測できた人は一人も居ないが、それは戦前の軍部がアメリカの戦力を見くびって、日本を敗北に導いた構図と瓜二つで、戦前の軍人も戦後の大学教授も、その思考回路は全く同じだということに尽きる。
この本の著者も、若い時にはこういう共産主義者の掌の上で踊り耽ったことを自白して、それを小説に仕立て上げるに至った心境というのは一体何であったのだろう。
私の個人的な考え方としては、犯罪者と名が付けば、生かしておく必要はないと思っている。
殺人を犯したものは、動機の如何を問わず、被害者と同じ処遇に処すべきだと思う。
何故、世間の人は悪人に寛大なのであろう。
窃盗事件程度で、ものを盗られた程度の犯罪ならば、盗んだ人を鞭で叩いて、後は放免する程度の処罰は致し方ないが、人を殺したような犯罪は、死を以て被害者に報いて当然ではなかろうか。
「軽微な犯罪ならば、刑を受忍して悔い改めれば社会復帰も可能だ」という論理は、一見整合性があるやに見えるが、犯罪というのは物を盗った盗られたという前にルールを無視した、倫理を解せない、という部分が大事なわけで、世間の人はその部分を問題視していない。
盗られたものの価値の大小で刑罰が科せられるわけで、ルールに反した、倫理から逸脱した、法律に抵触したという点には全く無頓着である。
この地球上にある国には、死刑のある国とない国があるが、我々の同胞の中にも死刑に関しては賛否両論があることは周知の事実である。
しかし私に言わしめれば、死刑に反対する人の真意がわからない。
死刑が求刑されるということは、相当な悪であるからこそ死刑が求刑されるわけで、無作為に選んだ何の罪も侵してない人を死刑にするわけではない。
そういう悪人を何故に血税で生かしておかねばならないか、という素朴な疑問が残る。
我々、平凡で、真面目に、律儀に納税をしている善良な市民が、人殺しを、何故に遊ばせて、生かせて置かなければならないのか不思議でならない。
死刑に反対する人は、自分自身の功名心で以てそういうポーズをとって、良い子ぶって世に自己PRを計っているとしか思えない。
人の命を救うという行為は、たとえ相手が死刑囚であったとしても、ある程度のインパクトを世間に与える効果はあるので、功名心を刺激することは間違いない。
死刑制度に反対する人は、人権派として世間では一目置かれた存在になるが、それもメデイアが騒ぎ立てなければ意味が無いわけで、如何なるメデイアもその活動を無視したとすれば、PR効果は存在しないことになる。
その意味で1960年代の騒乱の数々も、メデイアによって煽られたという部分が相当にある。
ああいう事件の全てを我々はテレビを通じて見知っているわけで、昨今の世相ではメデイアが第4の権力とまで言われているが、こんな事は正常な感覚ではないと思う。
特に喚起を要するのは、メデイア側の良識であって、何でもかんでも報じればいいというものではない。
特に政治と外交の場面では、安全保障の問題が絡んできた場合、秘密の厳守ということが大事な場面を制する状況が往々にしてあることを考えねばならない。
少なくとも政治や外交の当時者にはそういう認識があったとしても、メデイアの側がそういう認識を欠いて、何でもかんでもスクープとして報じるとなれば、当事者は非常な苦境に立たされることになる。
この本で述べられていエッセイの大部分は、1992年以降96年までのことであるが、その中には当然のこと、テレビ朝日の椿発言に関する評論もあってもいいと思うが、それについては一言もない。
私に言わしめれば、あの事件はメデイアの人たちの余りにも奢り高ぶった態度で「昔陸軍今総評」と言う世評と同じ軌跡であったと思う。
テレビ朝日の重役が「非自民政権が出来るように報道せよ」などと檄を飛ばすこと自体、昔の青年将校のクーデターにおける思い上がりと同じレベルの発想であって、ジャーナリスト以前の与太者の発想ではないか。
しかし、現実にはメデイア、つまりテレビの報道というのは政権を左右する陰の力を持っているわけで、民主党が政権を取ったのも、それがポシャって、自民党が息を吹き返したのも、すべてメデイアの力ということは十分に言えている。
こういう状況でバランス感覚を指し示すべきが本来ならば教養知性豊かな知識人であらねばならないが、昨今ではこの知識人と言われる人々の絶対評価が下がってしまった。
先に述べた椿貞良などは、れっきとした大学出で、テレビ朝日で取締役にまでなっている人物であるからして、どこからどう見ても知識人である筈なのに、そういう人物でさえメデイアの中の人間として自分がどういう風に立ち居振る舞いをすればいいのか亡失していたということだ。
こういう人は、順々に時間を掛けて物事の真理を諭していけば、根が頭脳明晰な人であるから理解しきれると思うが、それをする場が本来ならば大学というものではないか思う。
日本の大学は戦前・戦後を通じて、そういう事をしてきたであろうか。
大学の先生が法律に抵触するような言説を若い学生に説いてもらっては納税者としては甚だ困るわけで、治安維持法が悪法であるとするならば、大学の先生たるもの、そういう法律を廃案にする運動をしてしかるべきである。
戦後の政治状況においては、そういう発想で以て為政者の押し進める施策に大反対をしてきたが、結果として政治家の施策が功を奏して、知識人、教養人、大学教授の言っていたことが全て見当違いであったということが暴露されたではないか。
戦時中の大本営発表と同じで、戦後の知識人、教養人、大学教授の言っていたことは全部ウソであったということになるではないか。
ここで僻み根性の私は大いなる疑問を呈することになる。
ならば大学という高等教育の場で行われている教育とは一体何なのか、ということである。
数あるサクセス・ストーリーを読んでみると、大学時代にはアルバイトに明け暮れたり、麻雀に明け暮れてろくに勉強したことが無かった、という著名人の記述を多く見かけるが、成功した人なのだから自虐的に言っているのであろうか。
ろくに勉強もしていない学生を卒業させる大学というのも、本当は困った存在と言うべきではなかろうか。
大学出にふさわしくない卒業生を世の中に放り出す、という行為は反社会的な犯罪行為ではなかろうか。
自動車学校が、金を積まれて、ろくに運転もできない生徒に免許を交付して社会に放り出すのと何等変わるものではないではないか。
こういう大学の先生に物事を教わってきた若者が、次世代をキチンと導くことが出来なくとも当然のことで、政治家を誹謗中傷することは極めて安易なことであるが、我々はそれよりもメデイアや大学を真摯な目で見て、そういう場でノブレス・オブリージを掘り起こすべく注視しなければならないと思う。
2011年の東日本大震災で東京電力の原子力発電所で事故を起こすと、日本全国一斉に原子力発電禁止の風潮になってしまったが、こんな安易な発想の転換があって良い訳ないではないか。
日本全体が、原子力発電を止めて化石燃料で電気を作る、という大合唱になったものだから、石油の供給先は日本の足元を見透かして一斉に値上げをしたではないか。
日本の行動を見ておれば、相手はそういう対応をするのは当然のことである。
こういう事の判らないメデイアであったり、知識人、教養人、大学教授であってもらっては、我々国民は甚だ困るのである。
まさしく戦前の日本で旧軍人が後先のことを何も考えずに兵力を全世界にばら撒いて敗北に至った構図と同じではないか。
自分たちの思い込みだけ物事を判断して、自分たちの立ち居振る舞いで相手がどう動くかということにまで思いが至っていないわけで、その度ごとに対処療法でその場を切り抜けねばならないということになる。

『飛行機の事情』

2013-02-16 07:51:25 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、『飛行機の事情』という本を読んだ。
この表題の前後に「ずっと知りたかった」「お天気とのビミョ-な関係」というフレーズがついていた。
内容的には素人向けの飛行機の本であって、飛行機の運航に如何に天気が影響するか、というお話であった。
素人には判り易く解説されているが、私には物足りなかった。
この世の中には判らないことがいっぱいあって、それを一つ一つ理解していくということは、非常に興味深い事である。
大型旅客機の中で、いかにも楽しそうに旅行をしている人の何人が、飛行機の飛ぶ原理を知っているのか不思議でならない。
理屈では、曲面に沿って流れる流体に吸い寄せられて浮く、ということを理解しているが、そういう理屈がわかっていても、なおもあの巨大な機体が宙に浮く、ということが信じられない。
信じられないが、現に人々が空の旅を楽しんでいる現実を見て、自分を納得させて、「落ちることはないに違いない」と無理やり納得しているのが真実である。
こういう風に、身の回りのことを突き詰めていくと不可解な事ばかりが気になって仕方がない。
新幹線の運用も、銀行のATMの運用も、鉄道の切符の自動改札も、信じられないことばかりである。
私の子供の頃は、銀行では一円の誤差も許されず、行員は一円の誤差を正すために、そろばん片手で徹夜してまで探したと言われていたものが、今では機械がお金の出納をしていて、人間はお金に触ることもなく現金の出し入れができている。
鉄道の改札口でも、駅員がはさみをパチパチさせて切符を確認していたものが、いまでは人を煩わすことなく改札が通過出来るわけで、私の子供の頃には想像だにできなかったことである。
こういう技術革新が飛行機の分野にも及んできたわけで、その意味で技術革新そのものに驚くことはないのかもしれないが、その裏には何か大きな瑕疵が潜んでいるような気がしてならない。
旅客機が大きくなれば一度に大勢のお客を運ぶので、お客一人あたりの単価は小さくなるが、航空会社としては、それに見合うだけの大量のお客を集めなければならなくなる。
巨大な旅客機を購入するということは、大きな投資をすることで、資金を投入した以上、それがペイするビジネスをしなければならず、需要を自分たちで作りだしても集客に努力しなければならない。
巨大な旅客機でも、新幹線でも、モノを作る側には、常に今よりも良いモノ、現在を超える新しい未知のモノに挑戦しよう、という動機は存在し続けると思う。
より速く、より安全に、より快適にという願望を満たすモノを作りたいという欲求は、モノ作りの現場では必然的なものではないかと思う。
モノを作る側にはそういう根源的な動機づけがあるが、それを運用する側には、そういう文明の利器を使って金儲けをしてやろう、という2次的な動機が生まれるのも自然の流れであろう。
ところが今の資本主義社会、特に日本という国の人々は、「金儲け」という露骨な表現を忌み嫌うわけで、社会生活を円滑にするとか、ビジネスチャンスを広げるとか、持って回ったような言い方に言い換える。
文明の利器を使って金儲けをしようとするからには、コストを抑えて、リターンを最大にしなければならないことは言うまでもない。
その為には合理化に徹する他なく、モノ作りの理念と合理化は相いれない論理的矛盾ではないかと思う。
旅客機の巨大化はメーカーとしてのテクノロジー的な挑戦であろうが、それを購入して運用する航空会社は、その飛行機の利用者を掘り起こさねばならない。
つまり、海外旅行などに縁もゆかりもない地方の農協をまわって、田舎の爺婆を海外にまで引っ張り出す工夫を凝らさねばならないということである。
また逆に、中国の景気が良いとなれば、中国人を日本の観光地や、秋葉原のような家電の街につれてきて、金を使わせるように仕向けなければならない。
世の中がそういう方向に進むことは、その基底の部分に技術革新というか、テクノロジーの確たる担保がいるわけで、その結果として今の我々の社会が成り立っているということなのであろう。
だがそれも天気という自然の現象には太刀打ちできないわけで、人間は自然の脅威の前では実にか弱い存在でしかない。
天気という自然現象の前では、人間はそれに挑戦することをせず、あくまでも回避する以外に道はないということだ。

『コンドリーザ・ライス自伝』

2013-02-11 08:42:07 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『コンドリーザ・ライス自伝』という本を読んだ。
言うまでもなく元のアメリカ国務長官を務めたその人の自伝である。
サブタイトルは「すばらしいありふれた家族の物語」となっている。
彼女は1954年生まれである。日本の年号で言えば昭和29年生まれということで、彼女の生育過程における世間のさまざまな出来事は、私の世代のモノならばリアルタイムで知っている。
彼女の生まれたアラバマ州バーミングハムという地域は、まさしくデイープ・サウスと言われる地域で、人種差別の特に顕著な地域であった。
私自身は特にアメリカを研究したものではないが、映画好きでアメリカ映画を見ているうちに、アメリカの事情にも多少は見る目が肥えてきたように自分でも思っている。
そして、日本の戦後復興と共に我々の間にもテレビジョンが普及してきて、世界の状況をテレビの画面を通じて知ることが可能となった。
私がアメリカの人種差別を意識したのは、テレビニュースで報じられたリトルロック事件で、黒人の高校生を護るために軍隊が彼らを護りながら通学させたという事件である。
インターネットのウキぺデイアの報ずるところによると、この時の州知事オービル・フォーバスは州兵を使って黒人の高校生の登校を阻止しようとし、それに対して連邦側が軍を出動させてその黒人を護るという構図であったという。
アメリカの州と連邦が黒人の入学を巡って戦争になりかけたということだ。
当時の大統領、ドナルド・アイゼンハウワーの指示を州知事が拒否する、大統領の言う事を聞かない州知事の存在ということに大いに驚いたものだ。
結果としては州知事が折れて流血には至らなかったが、だからと言ってアメリカ南部の白人が一斉に人種差別主義に決別したわけではない。
法的には差別が禁止されたことになっているが、それがために差別はより目に見えない部分で、より陰湿になったと考えるべきだと思う。
黒人と白人、あれだけ肌の意色が違えば「偏見を持つな」と言ってもそれはありえないことだと思う。
映画、『風と共に去りぬ』をみていても、オハラ家の黒人は家政婦であり、農夫であっても、分をわきまえている限り双方の棲み分けは成り立っているわけで、この棲み分けを否定しようとするから、混乱の渦が巻き起こるのである。
アメリカにおける公民権運動の切っ掛けは、やはりアラバマ州のモンゴメリーという町で、一人の黒人の主婦がバスの中で白人に席を譲らなかったことが原因で、全米を揺るがす大きなムーブメントになったが、こういう事が世の中の変革ということなのであろう。
白人も黒人も、従来のルールの中で、素直に順応しておれば何も変わらないが、その既存の状況の中に一条の光が差し込むと、従来の暗部が白日のもとに晒されてしまうということなのであろう。
私の個人的な思考としては、人種によってそれぞれの生き方に能力の差はありえないと考えている。
白人も、黒人も、黄色人種も、肌の色によってその能力に差は有り得ないと考えている。
同じ時期に生まれた赤ん坊が、同じ環境で、同じ教育で、同じように育てれば、同じ能力を示すはずで、そこには人種によって差異は生じないが、個人の個性は本人についてまっわる要素だと考える。
それは同時に、そういう状況で育ったとしても、それぞれの偏見は同時に同じように育まれて、好き、嫌いという感情の偏差は避けようもなく生じると思う。
男と女の間の恋愛関係、「好き嫌い」という感情も、偏見のある種の形なわけで、これは人類というものが心を持った生き物である限り、心の揺らぎを偏見として受け止める他ない。
しかし、公共の場で、肌の色によってその人の立ち位置を制限する、ということは明らかに人間の尊厳を無視する行為であって、偏見の問題とは異質の課題である。
公共の乗り物に、白人用と黒人用に席を分けるなどということは、自由と平等に抵触する発想であって、許されることではない。
日本人としての我々がこの事件で注視すべきは、地域住民は人種隔離政策を支持したという事実である。
人種差別主義を支持した、つまり公共の場でも白人と黒人の席を分ける従来のルールに同調していた、という事実である。
この時期、1960年代においても、この南部の人々、特に白人の側に、差別主義を擁護する主張があったということを我々はどう考えたらいいのであろう。
すべての公共施設を白人用と黒人用に分けて、人々がそれに素直に従っておればトラブルは起きなであろうが、これは偏見を通り越して醜悪な思考と言わねばならない。
この時、連邦政府の指示を地方政府、つまり州知事が拒否するということは、統治の過程でどこの国でも有り得ることであって、その事の是非は大いしたことではないが、人種差別を是認する発想というのは、我々には理解しがたいことである。
その意味で、当時、アメリカ南部の諸州に棲んでいた白人の考え方というのは一体どういう物であったのであろう。
アメリカ映画を注意して見ると、こういうシーンがたびたび出てくる。
『風と共に去りぬ』でもそうであるが、レイ・チャールスの生涯を描いた『レイ』という映画でも、レイが黒人であるが故の差別が映画の中で描かれている。
「差別解消を我々は容認しない」という人々の声も、ある意味では個人の意思でもあるわけで、思想信条の自由を謳うのであれば、こういう思考も認めざるを得ないという論法も成り立つ。
だから公民権運動というのは、個人の意思まで束縛するものではないが、法的には「肌による差別をしてはなりませんよ」と言うのが本旨ではないかと思う。
この時のオービル・フォービス氏は、その後13年間も州知事の椅子に座っていたというのだから驚きである。
つまり、この地域の人々は、人種差別を従来通り支持していたという表れでもあったということだ。
こういう政治状況を我々日本人の感性でもって眺めると非常に奇異な感じを受ける。
「人種差別のような悪弊を何故もっと安易に排除しないのか」という思考になりがちであるが、このように短兵急に結論を出して、一斉に同一方向に雪崩を打って走り込む性癖が、我々の民族の根源的な形態であって、それは民族として背負い込んだ大いなる欠陥ではないかと思う。
人の群れとしての社会には、多様な思考があって、人の進むべき道はたった一つではない、ということに思いが至らないわけで、大勢から外れた選択肢を取ると、仲間はずれにする考え方は非常に狭量な思考である。
アメリカ南部、デイープ・サウスの歴史的状況から考えて、この地域に人種差別が根付いたことにはそれなりの理由がきっとあったに違いない。
白人の営むプランテーションにはアフリカから連れてこられた黒人奴隷が数の上では驚異的な差として居たに違いなく、そういう中で我が身を守るには銃が必要であり、人種的な隔離もお互いの生存のためには必要であったに違いない。
そういう状況も時代の経緯と共に変化して、20世紀ともなれば、時代遅れの思考となったけれども、その時代の変化に頭の切り替え、思考の変革に追従できない人々が大勢いたということなのであろう。
この本に描かれている第2次世界大戦後のアメリカ社会で、この公民権騒動の時でも、アメリカ市民は自分の身を護るために銃を肌身離さず身の回りの備えていたという記述があるが、これも我々の発想からすると奇異な感じがする。
だが、これも真のアメリカン・デモクラシーの具現なのであろう。
我々日本人は農耕民族なので、武器の使用ということには極めて無頓着で、秀吉の刀狩でも分かるように、「武器を出せ」と言われると何の抵抗もなく差し出してしまうが、それは「農民には武器は必要ない」という先入観があるからだと思う。
だから武器という殺傷の道具、いわゆる飛び道具には非常な畏怖というか、警戒心というか、自分とは何のかかわりのないモノというポーズをとる。
暴力団が、相対する事務所のガラス戸に一発銃弾を撃ち込んで逃げるだけで、メデイアは大騒ぎを演じているではないか。
銃刀法がある中で、暴力団が銃を持っていることは違法行為であるが、そういう意味の違法ということであれば、スピード違反と同じレベルの違法であって、それを日本のメデイアはことさら大騒ぎを演じる。
それに引き換えアメリカの市民は、自分たちの大統領が何人も銃の犠牲になり、学校内で銃の乱射事件が何度起きても、自分たちの銃を持つ権利を市民の側が規制しようとしない。
銃を野放しにする権利と、銃を規制する権利が拮抗しているが、市民の方がむしろ銃を持つ権利を擁護して、国家権力の方が銃を規制しようとしている。
これは1960年代のアメリカ南部諸州の公民権運動と同じ軌跡を歩んでいるわけで、あの時代においても人種差別を容認する思考が厳然と存在していたということである。
しかし、この人種差別というのは明らかに人類の大きな過誤であって、肌の色で人間の能力に差があるなどという論理は、根本的に間違っている。
前にも記したように、肌の色が違っても同じ環境で、同じ教育を施せば、個性の差は生じても肌の色による優劣は生じないに決まっている。
ただこれまでの人間の生存には、肌の色によって生まれ落ちた場所も、環境も、社会のシステムも違っていたので、人種によって優劣があるように見えたけれども、それは明らかに後天的なものであって、肌の色による相違ではない。
それは同時に「肌の色の違う人と同じ席には座りたくない」という感情とは別の次元の問題であって、こういう感情は、人間の理性で以てしても如何ともし難いモノである。
男と女の好き嫌いの問題と同じであって、嫌いなモノを「好きになれ」と傍から強制してもそうならないのと同じで、心の奥底では許していないが、表面的な社交の場では、そんな素振りを見せず、偽善者ぶるのが大人の振る舞いとして無難な生き方であることは間違いない。
こういう生き方を、我々は「表裏がある」とか、「二枚舌」とか、「日和見」とか、という言い方でマイナスのイメージで捉えがちであるが、それは我々が極めて単一民族に近いという思い込みによる無知の表れであって、生き馬の目を抜く熾烈な社会を生き抜く才覚が足らないということでもある。
この本の著者、コンドリーザ・ライス女史も、それを肌で感じ取っているので、デイープ・サウスのあからさまな差別は我慢できるが、欺瞞に満ちた善意こそ気に障ると述べている。
アメリカの政治状況の中で、彼女の奮闘もさることながら、コリン・パウエル氏も黒人でありながら政府の要職を務めるということは、大きな試練に立ち向かわざるを得なかったろうと想像するが、この状況は1960年代の公民権運動の時代には想像もできなかったに違いない。 
彼女はスタンフォード大学の助教授という形で、国家安全保障委員会のメンバーとなってパパ・ブッシュの元で世界中を飛び回ったが、その途中で一度大学の教職に戻ったと書かれている。
この時は、ただ単に教授として戻ったのではなく、学監として大学の経営にも大きく関わらねばならないことになり、その時の言葉でアファーマテイブ・アクションという用語が頻繁に出てきた。
この言葉は、要するにマイノリティーを救済するために、そういう人を優先的に採用しなければならない、ということだ。
それを遂行するために、成績が規定値以下の学生でも本人がマイノリティーというだけで、そういう人に優先権を与えよという制度に対して、その不合理を突いているのである。
彼女自身も黒人というハンデイーを背負ってはいるが、そういう優遇措置に対しては自尊心が許さず、公明正大な競争を望む、という考え方であったようだ。 
マイノリテイーと言うだけで、条件が緩和されれば公正な競争にはなり得ないわけで、ノーマルな状態からすれば逆差別になるので、この考え方そのものが不合理であるという論旨だ。
私も個人的にそう思う。
アングロサクソンと、黒人と、ヒスパニックと、ネィテイブアメリカンと、アジア系という人種の間に学力の差が出るのはその人たちの育った環境の差であって、だからと言って学問的な能力に欠けた人間を受け入れたとして、学際的なレベルが向上するとは考えられず、結果としてその学問が進化することは有り得ない。
学問の世界、端的には大学に蝟集する人々には、結果の平等が補償されているわけではなく、真に学究的な前進が求められているのであって、それを満たすためには入る時点で、その結果を出せる人間を選別しなければならない。
マイノリテイーであろうがなかろうが結果の出せる人に期待がかかっているわけで、その為には基準値を下げて枠を広げても、無からは何も生まれないことも自明のことである。
人種の間に学問的な能力に差が生じるのは、明らかに教育の格差の影響であろうが、それを克服するのはそれぞれの民族の課題であって、能力もないのに、それを無視した扱いをせよと言われても、受け入れる側が困惑するのは当然である。
アメリカにおいてアファーマテイブ・アクションという概念があること自体は、素晴らしい事だと思うが、それに甘えて、それを声高に叫んで自己の正当性を強調しようとするさもしい人間が居たようで、そういう者とは敢然と戦いを挑んだと書かれている。
これは1960年代の公民権運動の裏返しの概念であって、社会の既存のシステムの中で、能力に欠けたマイノリテイーを優先的に雇い入れれば、社会全体が機能不全になりかねないわけで、余りにも理想主義的でありすぎる。
こういう思考が社会に芽生えてくると、それを真正直に正面からとらえてやみくもに追いかける人があらわれるが、これも困った現象である。
この本は彼女の自伝なわけで、多分に我田引水の部分もあるのではないかと思うが、それにしても有能な人は他人が放っては置かないようだ。
いきなり民間企業の経営者からオファーが来て重役になったり、政府の要人のポストが転がり込んだりと、凡人には考えられないことであるが、現実にあった話なのであろう。
この本はあくまでも彼女の自伝なわけで、アメリカの政府部内の内幕ものではないので、そういう意味の緊張感には欠ける。
彼女は若い時は音楽とスケートに現を抜かす可憐な少女だったが、それが国際政治に興味を持ち、ソビエット連邦の研究に深入りして、結果としてソ連の専門家になったことが彼女の可能性を開かせたことになったようだ。
結果から見ると彼女のソ連研究が彼女を政府の要職に導いたということなのであろう。
あの時代においても、若い女性がソ連の専門家として、論文を出せば注目度は抜群であったろうし、それが黒人となれば、その注目度になお一層輪をかけることになった筈だ。
アメリカという国は極めてフランクな国情なので、情報は極めてオープンになっているが、それと比べても旧ソ連や中国の現状というのは未だにベールに包まれた部分が多く、そのベールをたくし上げて中を覗く行為は興味が尽きない。

『葬送行進曲が聞こえる』

2013-02-08 07:55:38 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、『葬送行進曲が聞こえる』という本を読んだ。
著者はベンジャミン・フルフォードという若い外国人・カナダ人である。
サブタイトルには「金満破産、待ったなし」となっていた。
本人の言うところによると、彼の出自はカナダの外交官の息子として生を受け、若い時には世界中を放浪し、その後大学に進学し、その過程で日本の上智大学に留学という経緯を経て、ジャーナリストになったということらしい。
彼は若い時の放浪の結果として日本という国がこの上なく好きになったと述べている。
上智大学での留学中にアルバイトで居酒屋で働いたので、日本語も難なくマスターしたと述べているが、言語をマスターできれば、その国の文化に深く広く接することが可能であることは言うまでもない。
それだからこそ、日本の国家財政についても我々以上に危惧することになるのであろうが、我々の同胞の中にも、彼と同じ思考の人は掃いて捨てるほどいるに違いない。
この人も含めて、世間の人は、日本は対米追従を改めて独立自尊の道を歩めと説くが、日本がそういう行動をとった具体的な例が、先の大戦争であったわけで、そういう歴史の経緯を無視して、机上の空論のみをを声高に叫んでも意味をなさない。
日本という我々の国土に住んでいる人々は、世界から賞賛されているが、だからと言って、我々が異民族の統治に長けているなどとは到底考えられない。
外から大和民族の中に入ってみると、極めて居心地が良いが、その事が統治に長けていると考えると、思わぬ落とし穴に嵌るわけで、その事を我々は十分に自覚しなければならない。
この本の表題の『葬送行進曲が聞こえる』というフレーズは、日本が国債の累積で首が回らなくなって、ハイパーインフレになるのではないか、という危惧からこういう表題になっているが、経済のことは結局のところ誰にもわからないわけで、為替の変動で大赤字が一夜にして黒字になることもあることを考えると、所詮こういう未来予測も、オオカミの遠吠えぐらいの価値しかない。
日本の国債の累積が天文学的な数字であったとしても、それを購入しているのは日本人なのだから、日本が国家破綻することはない、という論旨は随分前からあるようで、その意味では、この本の著者の言う警鐘もオオカミ少年の言葉程度の信ぴょう性しかないということなのであろう。
この著者の場合、こういう未来予測よりも、彼自身が身を以て体験した放浪の旅から醸し出される比較文明論の方がより興味を引く。
日本を心から賞賛する外国人は極めてたくさん存在する。
日本に来た外国人は須らく日本そのものを賞賛してやまない。
そういう人々は、日本の国籍を得ることを無上の喜びにしているように見えるが、我々、内側に住む日本人には、どうもその辺りの機微がいまいちよくわからない。
我々の身の回りで起きているすべての事象は、世界中どこに行ってもこんなもんだと思っている。
我々は「日本の常識は世界の非常識で、世界の非常識は日本の常識」という言葉の真意を量りかねている。
カナダの外交官の息子が、世界各地を転々としながら成人に達し、成人に達した後も世界を放浪して、最後に日本を舞台とするジャーナリストになった経緯から勘案すれば、彼の対日比較文明論こそが彼の深層心理を映す鏡なわけで、それこそが彼の本音を表明するものではないかと思う。
その意味からしても、日本政府の国債発行には彼自身、心から心配しているのかもしれないが、そういう意味の危機は我々は何度も掻い潜って来たのである。
オイルショックから、日米貿易摩擦等々の障害を、我々はその都度乗り越えて今日に至っているわけで、その意味から斟酌すると、この著者は日本の危機感を煽りに煽っている風にも見える。
この本の表題の在り方を見ると、今にも日本が沈没するかのような表題ではないか。
そこには本の出版社の作為が潜んでいて、「この本を如何に売るか」という戦略であったと思われる。
この本の著者は、日本がアメリカに従属している姿を、我々以上に憂いているが、この発想の元には、現代という現実が見えていないように思えてならない。
世界中を見て歩いた割には、目の前の現実、自分の足元には見落とした部分があって、日本がアメリカの頸城を離れて、独立自尊の道を歩むということは、これほど世界にとって危険なことはない、ということに気が付いていない。
現に先の大戦はそれが原因で起きたではないか。
第2次世界大戦は、日本が起こしたわけではないが、日本がそれに絡んだが故に、文字通り世界大戦になって地球規模の戦いになったではないか。
我々の日本民族は、アジア大陸から離れた絶海の孤島の住民であって、単一民族と言われているが歴史的には大陸からの流民を受け入れて純粋に単一民族ではない。
だが、絶海の孤島の住民であることに代わりはないわけで、ある意味で人種のガラパゴス化が起きたことは確かだと思う。
陸地から離れた孤島で、ガラパゴス島の動植物のように独自の進化をしたという意味で、我々は世界でも特異な思考回路を持つようになったに違いない。
その意味では、大陸から細々と入ってきた中国の文化を、我々は独自の思考回路で以て斟酌し、独自の判断で取捨選択して来たに違いない。
この部分が、今、世界で日本民族が賞賛される理由であろうかと思うが、これは2千年以上も前の時代だからガラパゴス化が有り得たが、21世紀における完全なる情報化の世の中で、我々の独自の発想で以て屹立と立ち尽くすことはあり得ない。
先の大戦で、日本がアメリカと戦うについて、日本国家としての意思は、アジアにおける経済圏、大東亜共栄圏の確立にあったわけで、戦後のASEAN乃至はTPP交渉と同じようなものであったが、世界はこの日本の考え方を拒否したということだ。
この本の著者の言う「真の日本の独立自尊の姿」というのは、こういう姿であるが、我々が真にその道を歩もうとすれば、世界は再び日本封じ込めの方向に動く違いない。
この本の著者はカナダ人でありながら、アメリカを批判して止まないが、アメリカを批判することは、誰でも何時でも何処でもできるわけで、いくらアメリカの批判をしても、命を危険に晒すことはあり得ない。
弱い犬の遠吠えがそのまま遠吠えとして反響するのみで、実にむなしい行為でしかない。
そういう私は、アメリカの肩を持つわけではないが、いくらアメリカの批判をしても、それは「糠に釘」程度のことで、いまの現実を直視する他ないと思う。
今の我々のアメリカに対する対応は、まさしく飼い犬のポチ的な対応でしかないが、我々が愛犬ポチを脱して、ドーベルマンか、セパードに変身したら一番困るのは世界だと思う。
我々は上目づかいにアメリカの顔色を伺いながら、せっせとモノ作りに励み、言われるだけ金を出し、血も汗も出すことから逃げ、リスク回避に励み、ノーパンしゃぶしゃぶに現を抜かすほかないわけで、我々が自分で自分をコントロールするなどという恐ろしい事を考えるべきではない。
我々は戦後68年間も戦争というものを忌み嫌ってきたわけで、どっぷりと首までぬるま湯につかって、馬齢だけを重ねてきたので、今更、裸一貫で立ち上がる勇気を持ち合わせていなし、そういう思考回路そのものが存在していない。
企業の経営は、最小の努力で最高の利益を引き出すことだと思うが、これはそのまま戦争遂行につながるわけで、それを言葉を変えて表現すれば、究極の合理主義の追求ということになるはずである。
それはそのまま国家の経営、運営、施策、行政、統治に繋がってくるわけで、その中で究極の合理主義ということを考えると、戦術と戦略という考え方がなりたつ。
2011年平成22年の3月には東日本大震災を経験し、それに付随して東京電力の福島原子力発電所の事故も経験したが、その復興は未だ道ならずである。
神戸の震災にしても、東北の震災にしても、こういう大事故の復旧作業というのは完全に戦争と捉えてしかるべきだと思う。
そう考えれば、その復興作業は究極の合理主義で貫かねばならないことは自明のことで、そこで腹が座れば後は戦術的にすべきことをしていけば復興は早期に達成される筈であった。
こういう状況下で戦後我々は68年間も戦争ということをイメージしたことが無かったので、こういう物の考え方を思いつかない。
戦後の我々は太平洋に浮かぶ4つの島の中で、ガラパゴス島の生き物のように、大陸との接触を避けてじっとしておれば平穏無事でおれると思っている節があるが、21世紀の今日ではそんなことはあり得ないわけで、好むと好まざると、他との関係性の中でしか生きられない。
その関係性には究極の合理主義が求められているが我々にはそれをフォローする思考ができていない。と言うのは、我々は極めて均一性の高い民族なのでお互いに以心伝心が効くわけで、その為に情緒に押し流されやすいからだと思う。
我々の生き方上手の中には「見て見ぬふりをする」というのがあり、又「人の振り見て我が振り直す」というのがあるが、これは自分が見た他人の間違いを「あなたは間違っている」と正面から言わないことで、後者の方は、人が間違いをしているのを見て、自分はそうあってはならないと自省を促す格言なわけで、こういう事は理詰めの論理で行われものではなく、我々の生来の感情で以てコントロールされているものである。災害復興を戦争にたとえて取り組めば、自ずとその経緯は大きな違いが出てくるのではないかと思う。
今ではあくまでも行政の一環としての取り組みで、いくら復興庁を創設して大臣を据えたところで、縦割り行政が解消されるべくもなく、それに携わっている官僚も、何処まで行っても金太郎飴と同じで、官僚の枠を出るものではない。
もぐら叩きと同じで、あちらを是正すればこちらに欠陥が出、こちらの欠陥を正せばあちらに新しい穴があくようなもので、この状況を日本びいきの外人が眺めれば、「日本よ、しっかりせよ」と本気で思い込むことも十分に考えられる。
21世紀の今日、我々はアメリカのポチであるからこそ、世界は枕を高くして眠れるわけで、日本がアメリカの頸城を捨て去り、日本人自身の独立自尊の精神を持ったならば、世界は恐怖の嵐に晒されるに違いない。
我々は先の大戦で完膚なきまでの敗北を期したが、どうしてあれほどの敗北になったのか未だに答えが出ていないのではなかろうか。
あの当時の戦争のプロフェッショナル、海軍兵学校のOB、陸軍士官学校のOB、こういう人たちが雲霞の如く居たにも関わらず、彼らの思考が功をなさず敗北に至ったということはどう考えても納得がいかない。
こういう人達のトップレベルの人たちは、その大部分の人が対米戦の不合理な事と、日本の進むべき道が危うい橋を渡るに等しい事を十分に承知しておりながら、それを阻止できなかった理由というのが今一つはっきりしない。
その上、こういうレベルの人が、1945年、昭和20年8月15日に日に至っても尚徹底抗戦を信じるということが、まさしく不可解千万である。
あの時点で、日本にはいささかも交戦能力が無かったにもかかわらず、尚も降伏する気に至らなかった精神的な背景というのが、全く理解しがたい事に思える。
オイルショックでも日米貿易摩擦でも、我々は積極果敢にそれに立ち向かったわけではない。
何を成すべきか右往左往している間に、周囲の状況の方が変化して、対抗措置を取ったか取らないか訳の分からないうちに事態が収拾されてしまったわけで、気が付いた時には日本の省エネ技術は世界で群を抜く有様になっていたのである。
我々の民族がモノ作りに長けていることは確かだろうと思う。
ところが政治的には実に愚昧で、我々の生存がガラパゴス的な状況であったが故に、異民族との共存共栄ということには経験と知恵の蓄積が足らないということだと思う。
端的な例を示すと、我々は台湾でも、朝鮮でも、満州でも、日本統治の象徴としてすこぶる立派な総督府の建物を作った。
まさしく日本の国威を四方八歩に示すにふさわしい象徴的な建物であるが、台湾人、朝鮮人、満州人からあれを見れば、自分たちの国辱モノに映っていたに違いない。
我々は、そういうところの機微に疎く、相手の心の在り様を斟酌する配慮に欠けているわけで、「自分が良いと思うことは相手もそう思っている」と早とちりする傾向がある。
歴史認識の問題も、従軍慰安婦の問題も、自分達では済んだと思っていても、相手はそれを外交のカードとして切ってくるわけで、そうであればこそ、それに対しては根拠を示して、真正面から反論すべきであるが、此処で変に気をまわして自分の方が妥協してしまうから収取が付かなくなってしまうのである。
この政治的稚拙さは、先の戦争で日本を奈落の底に突き落とした軍部の思考と全く同じであって、軍人とシビリアンの違いはあっても、脳の中身は全く同じ思考回路であったということだ。
それは「自分が良いと思ったことは相手もそう思っているに違いない」という思い込みによる早とちりである。
こういう場面で早とちりするのは、我々が極めて均一性に富んで、以心伝心の感情論で物事を判断しがちなので、相手の思いを斟酌するあまり、自己主張を控えてしまうからである。
日本人以外の民族では、きちんとした自己主張を、きちんとしたタイミングで行わない限り、他者に尻の毛まで抜かれ兼ねないので、論理的に整合性が有ろうが無かろうが、ダメもとの精神で言いたい放題のことを声高に叫ぶ。
これをやられると、気の弱い我々日本人は、その相手の勢いに気圧されて、安易に妥協してしまう。
ただ我々の側にも真の教養人や真の知識人というのはそう沢山いるわけではなく、知識人と一括りにされている人達も、正確に言えば『知識人モドキ』であって、その真の姿は欲望に苛まれた、極めて人間味のある人たちである。
人間味のある人たちであるからこそ、知識人も、教養人も、官僚も、軍人も、政治家も、国民のことを忘れて、自分たちの地位の保全に汲々としているのである。
結果として軍人は軍人の為に仕事を作り、つまり言い方を変えれば戦争をし、官僚は官僚の為に仕事を作り、これも別の言い方をすれば行政改革と称して自分たちの仕事を作っているのであって、国民の存在は彼らの脳裏から消えてしまっているのである。
こういう人達は、自分たちが国民の血税で、国民に対してサービスを提供する立場だということを失念して、自分で自分の仕事を作って、それを一生懸命こなすことで国家の為、国民の為と思っているのである。
国家の為に何を成すべきか、国民の為に何を成すべきか、ということに思いが至らないので、努力が空回りしているのである。

『スローな未来へ』

2013-02-04 09:03:39 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『スローな未来へ』という本を読んだ。
サブタイトルには「『小さな町づくり』が暮らしを変える」となっている。
著者は島村菜津という人だが私の知っている人ではない。
最近、とみに「スロー」という言葉が出回っているようだが、スローと言えば私の乏しい知識では「ゆっくりと」という意味として認識している。
これは毎日毎日時間に追われてあくせくと働く事への戒めという意味で、使われているようであるが、人々があくせく働く事の真の意味は「豊かになりたい」ということの表れであって、「スローな生き方」というのはそれを真っ向から否定するものだと思う。
つまり、今の生き方を否定する、今の社会を否定する、今の未来志向を全否定するということであって、後ろ向きの発展、物質文明の後退をめざす思考に他ならない。
3年前、民主党政権が誕生したとき、「コンクリートから人へ」というスローガンを掲げて不要不急の公共投資を削減して、それを生活保護とか子供の教育にむけるべく指向した。
八ン場ダムの建設を巡って、それを白紙に戻したり、沖縄の普天間の基地移転を白紙に戻したりと、それこそ社会のインフラ整備に竿さす施策を練ったが、これは「税金の無駄使いを是正する」という大義の元にそういうスローガンが独り歩きした図である。
しかし、八ン場ダムにしろ、普天間の移転にしろ、地域住民の意向を充分に聞き、メリット・デメリットを長い時間を掛けて充分に検討し、そういう手続きを経てそこへの立地が決まったわけで、その前の自民党政権において安直な思い付きで計画が出来上がっていたわけではない。
様々なプロセスを経て、ぞの時点では最良の方策であろう、という認識のもとに計画が実行されようとしていたに違いない。
それを民主党政権は、自らのマニフェストを前面に掲げて、自民党政権の仕掛けていたことを何ら斟酌することなく全否定してしまったので暗礁に乗り上げてしまったのである。
そこに東日本大震災で福島で原子力発電所が事故を誘発すると、民主党政権は一気に日本の原子力発電所をゼロにすると言いだした。
原子力発電所の事故は誰においても看過できない危険なものではあるが、だからと言って今まであるものを直ちに全否定するという発想も、実に安直な思考で極めて安易な綺麗ごとの人気取りの口舌に過ぎない。
我々日本民族は、明治維新以降、近代化を追い求め、その追い求める『坂の上の雲』の向こう側には、豊かな社会を思い描いていたものと思う。
追い求める目標としての豊かな社会とは、資本主義を基調とした人間の至福を追い求める個人の自由が保障された自由主義社会であった。
問題は、この自由というキーワードにあるわけで、戦後の日本でアメリカ主導の民主主義のシャワーを浴びた世代が、個人の自由とは我儘を放任することだと思い違いをしたことにある。
それは戦時中の軍国主義の締め付けの反動でもあろうが、民主主義社会の中の自由というのは、何をやっても許されることだと勘違いしたのである。
ところが、為政者の側は人々が勝手なことを勝手気ままに行っては収拾がつかなくなるのでどうしても取り締まるという行為に出ざるをえない。
問題は此処に我々の根源的な欠陥があるわけで、統治するものとされるものという構図がある中で、統治する側の施策は、統治される側の思いを無視した施策になりがちで、統治する側が「奴らも困ったことをするな」と思った時、何とかこれを抑えねばと思うにちがいない。
秀吉の刀狩でも、秀吉としては「農民が刀を持って一揆でも起こされたらかなわない」という発想があったから行われたと思う。
アメリカでは、銃による犯罪が後を絶たないので、統治者としてはそれを阻止するために銃の規制をしたいと思っていても、アメリカ市民がそれを許さない。
銃による無益な殺傷が多発しても、それはアメリカ市民の自己責任であるが故に、国家権力はそれに介入するな、という趣旨のようだ。
我々の発想ではこうならないわけで、我が同胞の発想ならば、「市民の安全は国家が補償すべきで、無法者の無益な殺傷は断固取り締まれ」ということになって、刀狩りに近い銃規制になる。
我々は本来自治ということには慣れている筈なのに、自分で自分を律するということが極めて不得意に見える。
我々の民族の生業は基本的には農業で、農作業に勤しむ民族なので、集落ごとの共同作業には習熟している筈である。
その事は同時に、「人の振り見て我が振り直す」ということが習い性となって、他者との関係性に非常に気を使うわけで、その上封建制の元では長男のみが家族の代表として認められるだけで、二男、三男はそれこれこそ飼い殺しの状態に近かったので、どうしても家を出ざるを得ない。
明治維新を経て近代化に向かう過程では、この封建制度のシステムと近代化のシステムが相乗効果をきたして、農村の優秀な若者は家を離れて都会に集中してきた。
これらの若者も無意識のうちに資本主義と自由主義を満喫していたわけで、自己の欲望追求に一生懸命になったのだが、この場合、自己の欲望というのが時代状況によって変化することを見落としてはならない。
時代状況によって個人の欲望が変わる、という点に注意して我々の辿って来た道を眺めてみると、若人の目指す方向が大きく変わっていることが判る。
戦前の若者は、軍人になることが祖国に殉じる一番の道だと思い込んで、軍人養成機関の学校に雪崩を打って蝟集したではないか。
こういうところ、つまり時代の潮流を先読みした最先端の職域に集まる若人は、頭脳明晰、学術優秀な優れた若人であろうが、それだけに世の中の良い所取りにも長けているわけで、世渡りにも抜かりがない。
このように、一事が万事に抜かりかない人たちが、自己の利益を最大限に得ようと画策することを容認し、許容する社会が戦後の日本の社会であったわけで、日本の戦後復興は、そういう人たちの尽力でなされたことは言うまでもない。
この本の本旨は、過疎化した僻地でなんとか町おこし、村おこしに汗をかいている人たちにエールを送るものであるが、それは一つの生き方の選択の参考にはなる。
日本の村々が過疎になるということは、明治維新以降の我々の思考の遍歴でもあるわけで、21世に生きる我々の生き方の問題に繋がっていると思う。
都会の団地の主婦が、虫の食った野菜を買わない、という文化にどこまで切迫出来るかという問題だと思う。
白い発泡スチロールに包まれた食材以外信用しない、という文化をどうやって打破できるというのだろう。
明治維新以前は農村の若者は行く場が無かった。それが維新後は一気に若者の活躍する場が解放されたわけで、その解放された場に身を置いて、立身出世を目指そうと思うと、どうしても学歴というものが免罪符としてその人物を保証するツールとして必要になってきた。
それで国策として高等教育に力を入れたが、人々が教育によって高等教育を身につけると、どうしても現行の為政者に対する批判精神が芽生えてくるわけで、それが民主化の名のもとに、整合性を持つようになってくるのは歴史の必然であろうと思う。
産業立国としてテクノロジーの教育だけに留めておけば、為政者に対する批判というのも、それに応じて穏やかであったかもしれないが、西洋並みの哲学や、経済学や、文学にまで高等教育としての範疇に入れたので、曲学阿世の輩が学士様として大手を振って歩くようになったのである。
問題は、こういう曲学阿世の輩が人倫を無学文盲の輩に説けば、まだこの世における存在価値があるが、こういう連中が世論を煽りに煽ったから、我々は奈落の底に転がり落ちたのである。
戦前の日本で、軍部が独断専横した事実は認めざるを得ないが、それを許した背景には、教養人、知識人、言論人、大学教授と称する曲学阿世の輩が、軍人のサーベルの音に怯えて沈黙したところに、高等教育を受けた階層の無責任さがあった。
戦前の日本の高等教育が真の高等教育であったならば、「井戸の中の蛙」的な思考の単細胞の軍人の自己陶酔を目覚めさせるべくあらゆる手段手法を講ずるべきであった。
その努力をしなかったからこそ、大学人が曲学阿世と言われ続けるのである。
「それをすれば殺されるかもしれない」という言い訳は当然出てくるが、前線の兵士は常に殺されるかもしれないという恐怖に怯えながら戦っているのである。
民主党政権の晩年において、田中真紀子が文部大臣の時、新しい大学の申請を不認可にしようとした際、一斉に大臣の行動を批判する言論が跋扈して、結局は大臣が折れて認可されたようだが、この時に大臣を批判した勢力は、一体大学教育を何と考えているのだろう。
大学教育を幼稚園や保育園の延長とでも思っているのだろうか。
大の大人が余りにも情けない現状認識ではなかろうか。
この情けない大人の背景にある深層心理は、金儲けの手段を封じ込められた、という想いだったろうと思う。
つまり、昨今においては大学の経営はパチンコ屋やゲームセンターの経営と同じ感覚なわけで、若者の遊び場としてのホールにすぎないが、それに教育、しかも大学という高等教育という冠が付くと、何人も「そんなもの今更必要ない」と正面から言い切れないのである。
しかし、本当の教養人なり、知識人なり、言論人であるとするならば、本当のことを正面から大声で言うべきであって、偽善や慈悲に惑わされて本音が言えないというのであれば、戦前に軍人のサーベルの音で沈黙した知識人と同じレベルでしかないではないか。
明治維新以降の近代化の過程では、日本の農村の二男三男が雲霞の如くチャンスを求めて都会に集まった。
終戦後の日本の復興において、何もない日本に復員してきた元兵士たちにとって、故郷、田舎、地方、農村にいても自分たちは厄介者として、コクゾウムシとして自責の念に堪えかねて、再び何もない都会に出、大きな夢を追い求めながら都会に居ついたわけである。
こういう行動を起こす人は基本的に才覚に優れ、努力を厭わない人で、結果的に成功を収めたので、その延長線上においては再び故郷には帰らず、自分の故郷には何の未練もない人たちであった。
私の周囲を見回しても、優秀な人ほど都会の立派な大学に進学して、都会で職を得て立身出世をして、成功を手にしたら一切故郷のことは気にもせず、都会人になり切ってしまった人ばかりである。
優秀であるからこそ、一旦都会に出たら、再び故郷に帰って故郷の発展のために手を尽くすかと思いきや、そういう人に限って、故郷の土地家屋を売り払って、未練を断ち切ろうとする。
町おこし、村おこしの運動も、21世紀の日本の新しい生き方の選択肢の一つなわけで、何もかもが合理化一点張りの世の中で、それこそスローな生き方を模索するのも新しい生き方ではあろうかと思う。
それにはまず最初に、自分自身の価値観の転換をする必要がある。
高度経済成長期の人々の願望は、より速く、より広く、より高くであって、「隣の車が小さく見えるよう」な生き方を望んでいたが、そういう価値観はもう時代遅れになったことを改めて認識しなければならない。
価値観の転換というのはそう安易にできることではないので、相当大きなショック療法が必要かと思う。
先の東日本大震災における東京電力の原発事故が契機となって、日本国中原発反対運動が湧きあがったが、ああいう風に大きなきっかけがありさえすれば、世間の風向きは一夜にして180度の方向転換も可能である。
ところが、あれはあれで大きな問題を内部に抱え込んでいる。
戦後から今迄、営々と築き上げてきた原子力発電というものを、一夜にして全否定することは余りにも我々の節操のなさを披歴しているではないか。
原発の事故が大きな被害をもたらしたことは確かであるが、だからと言ってそれでPTSDに陥ってしまって、過去の実績を全否定して、逃げの態度では人間の英知として情けないと思う。
確かに、原発をゼロにしてしまえば、同じような事故は起きないのでその意味では安心であるが、それでは試練を克服するという人の生きる意味も損なわれて、ただたんに「飯食って糞して寝るだけ」の人間になってしまうではないか。
原発が今のままで危険ならば、危険でないように方策を考えて、その困難な事業に挑戦する勇気を持って、21世紀を生き抜く気概を持たねばならないと思う。
東京電力の福島原子力発電所の事故は、地震のための安全装置は、最初の初動としてはきちんと作動して安全装置の機能を果たし、燃料棒の注入は停まったが、関連する補器やその他のインフラが津波によって破壊されたので、現場の収拾がつかなくなり大惨事に至ったと理解している。
そういう状況を全く加味することもなく、「原発は危険だからゼロにせよ」という論法は、余りにも無鉄砲すぎるし、綺麗ごとの人気取りの言辞でしかない。
こういう論旨に対して、学識経験者と言われるような人たちは、そういう浮ついた日和見な無責任な意見に対して、きちんとした説得をして、論理的に説いて聞かせなければならない。
そういう立場の人が、有象無象の無責任な綺麗ごとの意見に対して反論しないものだから、そういう論に整合性が出来てしまうのである。
福島の原発事故を目の当たりにした後で、「原子力発電は有った方が良いか無き方が良いか」と問えば、「無い方が良い」という答え以外に答えが無いではないか。
原発に頼らなくても必要なエネルギーが確保できれば、危険な原発など無い方が良いに決まっているが、日本はそういうわけにはいかないので、万膳の対策を講じながら原発を利用せざるを得ないのである。
普通に冷静に考えればどんなことでも理解しあえると思うが、そういう状態の中で余りにも純真に理想を追い求めると、現実との乖離が大きくなってしまって、「現実を是正しなければならない」と思い込むようになってしまう。
真面目であればあるほど深みに嵌り込んで現実を嫌悪するようになりがちであるが、そういう人々の潜在意識を喚起する力は教育にはないようだ。

『ステンカ・ラージン』

2013-02-01 10:01:17 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『ステンカ・ラージン』という本を読んだ。
ロシア民謡にもなっているステンカ・ラージンの話であるが、彼は実在の人物で、ある意味でロシアの義賊という位置づけて語られている。
時は、日本で言えば、関ヶ原の戦いの後の江戸時代初期のことであるが、ここでステンカ・ラージンを語るということは、とりもなおさずこの時期のロシアの現状を語るということに繋がる。
ロシアには封建思想が根付かなかったという指摘もあるが、あまりにも国土が広すぎて、集約的な農耕が成り立たなかった、ということではないかと思う。
ロシアを語る場合、しばしば言われているように、何処まで行っても同じ光景が変わらない、という表現の裏には、余りにも広大な国土の存在があるわけで、そこでは人は固まって生きることをせず、自分の気に入った場所で好きなように生きていたという証ではないかと思う。
日本のような狭い場所に生まれ落ちた人間は、当然のこと最初は両親の庇護のもとで生育するが、しばらくするとそれは自分の属する集落の成人の輪の中で生育して、その時に自分の属する集落の価値観やモラルや仕来たりを学ぶわけで、それを習得してはじめて自分の属する社会の一員として認められるということになる。
ところがロシアの場合、国土が広いためこういう普通の社会を形成する集落もある一方で、もう少し規模の小さい集落があちらにもこちらにも点在していたわけで、それを統合する機能が不完全であったに違いない。
とは言うものの、その小さい集落の中にもパワーの大小強弱は必然的に生じるので、それを統合しようという衝動は当然起きるが、それも合掌連合をくりかえし、輪廻転生を経るわけで、その意味では他の国ぐにの歴史といささかも変わるものではないが、ロシアの場合そこで文明の発祥ということが無かった。
ギリシャ、ローマという文明は、紀元前に既に花開いてフランス、ドイツ、イギリスに広がって行ったにも関わらず、その文化文明はロシアの大地には来るのが極めて遅かった。
これはその地に住む人々が文化文明に関心をもっていなかったということではないかと思う。
ギリシャやローマで文化が爛熟したとき、フランス、ドイツ、イギリスはやはり未開の地であって、先進地域の視点からすれば野蛮人であったので、遠征の途中でその野蛮人が先進国の文化文明を自分たちの側に受け入れた面も多々あろうと思う。
ところが、それを受け入れようという意思がない事には、文化文明の進化ということはありえないので、その意味で、この地域の人々は賢明であり、勤勉であり、開明的であったということが言える。
だがロシアにおいても、こういう先進国の文化文明も散発的にはその広大な大地に入って来ていたと思う。
旅行者、冒険家、商人というひとたちが、草をかき分け個々の集落を訪れて、ある時は商取引をし、ある時は略奪行為をしていたものと推察する。
人の集団が広い大地に分散して、それぞれに思い思いに集落をつくって、それを統合するシステムが出来ていない以上、人々は平和的に話し合いで商取引するか、問答無用の略奪しかないわけで、それが人が生きんが為の自然の摂理であったということだ。
統治ということは、政治と同意語であり、同義語でもあるわけで、統治するものとされる者の間には、当然のことギブ・アンド・テイクの関係が成り立つ。
統治する側は、人々の平和と安全を確保維持する責務があり、統治される側は、それに応えて納税や兵役の義務を負う。
昔の君主制の元では、王様が個人的に人々を自分のモノと思い込んで、自分の思い通りに動かそうとして人々の不満を買うケースが多かったが、民主制の元では統治する人を選挙で選んだ人に託すようになった。
選ばれた人の統治が不都合であれば、それを選挙で変えるということが可能になったわけで、その意味では人々の不満のガス抜きが可能になったので、血なまぐさい権力闘争は少なくなったが、問題は、それ以前の君主制の元でのロシアの現状である。
イワン4世の時代のロシアは、「タタールのくびき」から脱して世の中は平穏になるかと思いきや、強力な統治権力が不在の中で、いわゆるそれぞれの集落の群雄割拠の時代を迎えた。
その中でコサックという集団が形成された。
このコサックというものの定義も、確たるものがあるようにも思えないが、要するにわかりやすく言ってしまえば盗賊集団ということなのであろう。
原始社会で、お互いが生きんがためには、「法律やルールを無視してはなりませんよ」などという綺麗ごとを言ってはおれないわけで、食うか食われるかの生存競争が目の前で展開していたのである。
そういう個々の集落や集団を取りまとめる要素は、法律や倫理観ではなく、あくまでもパワーそのモノであったわけで、そこには正義とか順法精神などというやわな思考の入り込むすきもなかったということだ。
国家の正当性、統治の整合性などというものは.そこには存在していないわけで、ただ頼りになるのは自分自身の運と力・パワーでしかない。 
モンゴルの脅威から免れても、文化から隔絶された人々にとって、この世の春ははるか遠いモノであって、国家の正当性など曖昧なままであるが故に、強者に依る弱者の収奪は日常茶飯事に行われていた。
そこで弱いものが寄り添って団結したのがコサックという集団であった。
いわば人間の織り成す営みの赤裸々な自然の在り様であったわけで、力のない個々の人間が徒党を組んで、自己の生存権を得るというか、自らの生存を賭けるというか、一段と他者への収奪に精を出す社会の典型的なものであって、早い話が泥棒の集まりということである。
原始社会においても大部分の人々は農業や漁業に精を出して、それを生業としているが、地勢的な条件でそれが成り立たない地域もあるわけで、そういう地域に住む人々は泥棒でしか生きる手段がないというケースもままあったということだ。
日本の倭寇というのも一種の海賊であって、西洋ではバイキングがそれに類する海賊であったが、その海賊を封建領主が支援し、フォローするなどということも有ったに違いなく、それが中世の人々の生きる道でもあったということだ。
この海賊の陸地版がいわゆるコザックという集団とみなしていいと思う。
この本の中では、そういう集団に領主や君主の元で隷属させられていた農奴が脱走して、コサックの群れに紛れ込んだものが多いと述べられているが、確かにそういうケースも多々あったに違いない。
人の群れも、捨て犬やオオカミの群れと同じで、強い個体に盲従する習性のようなものがあって、そうすることで群れ全体が生き延びるということだろうと思う。
だから、そういう集団はどうしても既定の秩序というか、秩序を持った集団の枠外に位置するので、これを今の言葉で表現すれば、反体制とかアウトローという言い方になる。
こういう表現は、戦後の民主主義の中では非常に開明的な思考と捉えがちで、体制に屈することなく反抗するポーズとして受け入れやすい。
統治するものとされる者の関係性において、統治される側は常に統治する側を批判的な視点で見るのは、野生動物の基本的な生きんが為の手法であって、群れの中における自己の位置を確認し、そのことによって自己の立ち居振る舞いを律して、自己に災禍が降りかからないように自己防衛に気を配っているということだ。
野良犬やオオカミの集団で、一匹の強いリーダーに他の個体が盲従するのと同じで、既存の体制の中で、反旗を翻すという行為は、有象無象の大衆の目から見ると非常に強いリーダーの出現に映るわけで、それに追従することは自分にとっても道が開けると勘違いするということだ。
民主的社会ではこの葛藤が言論によって行われているが、この時代のロシアでは、これが力、武力によって行われていたわけで、人の集団としては何時も何処かで血で血を洗う抗争が絶えなかったということだ。
自分が生きるためには相手を殺さねばならない時代であったわけで、人類の歴史というのは、その連続であったということだ。
日本の反体制の英雄と言うと、天草四郎や大塩平八郎がそれにあたるかと思うが、我々の場合でも、既成の秩序に反抗した人は英雄として人々に敬愛されているが、そこにはやはり体制に敢然と立ち向かう個の勇ましさを見出しているに違い合い。
自分ではいろいろな不利益を被るリスクを勘案すると、それを受け入れる勇気を持たず、体制に順応せざるを得ないが、それを振り捨てて敢然と立ち上がる強いリーダーとして、人々はこういう個体を崇めるということだろうと思う。
我々が政治を語るとき、どうしても統治する側とされる側という峻別は避けて通れないが、西洋でもアジアでも、統治者・為政者というのは富の収奪の大御所というイメージが付きまとう。
この本の時代のイワン雷帝やその後のロマノフ王朝という場合、全て、絢爛豪華な宮殿というのがついて回るが、我々の場合、いくら総理大臣を長いことしたと言っても、私利私欲を肥やすということはないわけで、天皇家においても絢爛豪華な住まいとは程遠い住まいに起居している。
その意味で我々の場合は、君主と富の収奪がイコールで結ばれていない。
戦後の世界でも、共和制の国家で、大統領を務めるとその任期中に私利私欲を肥やすことが平然と行われるところもあるわけで、その意味では我々の政治感覚というのは極めて公平なものだと思う。
フランスのベルサイユ宮殿でも、サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館でも、こういう貴族や王様の住まいを見ると、余りにも庶民との格差が大きいと思う。
だとすれば当然、革命という考え方も必然的に湧いてくるわけで、その革命をリードする方策は、野良犬やオオカミのリーダー的な素養を持ったものであったに違いない。
それは言葉の選び方であると同時に、政治的パフォーマンスでもあるわけで、その中には政敵を倒すという行為も当然含まれている。
敵の殺し方そのものが一種の政治的パフォーマンスであったと思う。
ステンカ・ラージンがペルシャの姫君を海に投げ入れて殺す行為から、マリー・アントネットを断頭台で殺す、ニコライ2世一家を秘密裏に殺すという行為も、すべて政治的なパフォーマンスであった。
その意味では第2次世界大戦後の連合軍側の勝者による敗者の裁きも、完全な政治的パフォーマンスでしかなかった。  

『図説・ロシアの歴史』

2013-01-29 09:25:54 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、『図説・ロシアの歴史』という本を読んだ。
題名の通り、ロシア史のダイジェスト版であったが、歴史というものはいずれの国や民族のものでも、神代の時代の物語は曖昧なものにすぎない。
当然といえば当然で、その時代のものは正確な記録が無いので、後世の者には知る術がないわけで、その意味では普遍的なことに違いない。
ロシアという地域も、ヨーロッパとアジアの境目に位置していたが故に、ヨーロッパともアジアとも異なった発展の仕方をしたようだ。
ヨーロッパはやはりギリシャやイタリアが、文明の発祥の地として他の民族を一歩も二歩もリードしていたようで、その意味ではイギリスもドイツも後進国であった。
ロシアという地域は、このイタリアやギリシャとも離れていたわけで、その意味で文字通り辺境であった。
しかし、ギリシャやイタリアの先進国の立場から見れば、今のフランスの地域や北アフリカのモロッコあたりでも辺境に代わりは無かったが、この周辺には遠征に出掛けていることを考えると、それなりの理由があったということではないかと想像する。
こういう古代の文明国からしても、ヨーロッパの東側というのは遠征する値打もなかった、ということだったに違いと思う。
ギリシャやイタリアという土地は、やはり気候温暖で人が住むには快適な土地であったに違いない。
それに引き換えロシアの大地は寒くて暗くて荒れた沼地ばかりで人が住むには極めて住みにくい地域であったと思う。
それでも、そこで生まれ落ちた人々は、その地で生き続けねばならず、生き続けるについては、それぞれに創意工夫を凝らして、生き易く生きねばならないわけで、それが一つの民族性を形つくるのはある意味で歴史の必然であったろうと思う。
その意味で神代の時代については真偽の程は定かではないことは世界共通であろうが、歴史として興味を引く部分は、記録として残された部分である。
それに輪をかけて我々日本人にとって不可解なことは、今のヨーロッパには君主制の国は少ないが、ヨーロッパの過去の王様は、そのほとんどが血縁関係でつながっているということである。
お互いの国の王様が血縁関係でありながら、お互いに血で血を洗う抗争、つまり戦争をしていたわけで、この部分がどうしても私のような単細胞の者にとっては理解不可能な部分である。
私のような戦後教育を受けたものは、東欧諸国、例えばポーランド、ハンガリー、オーストリア、ブルガリア等々という国々は、完全な自主権を備えた独立国という認識でいたが、実態は時の情勢に合わせて東に行ったり西に行ったりと、国境線が常に移動していたようで、この概念は島国の我々には素直に呑み込めない。
この地球上に、人種とか民族が果たしていくつあるのか正確には知らない。
生きた人間を人種という言い方で表現していいかどうかも判らないが、日本列島に住む人と、朝鮮半島に住んでいる人では外形はよく似ているが、精神性とかモノの考え方とか立ち居振る舞いは明らかに異なっている。
狭い日本列島の中でも、県が違うだけで明らかのモノの考え方に差異があるように思われる。
これは「良いか悪いか」という価値判断とは全く違う次元の事で、そういう認識で捉えるものではないが、事実としてそういう差異は認めざるを得ないと思う。
人は生まれ落ちた場所で、周囲の人々に育まれて生育するわけで、その意味では世界の人々は同じ過程を歩んでいると思う。
イギリス人も、アメリカ人も、日本人も、朝鮮人も、アマゾンの奥地の原始人も、アポリジニも、マサイ族も、ナバホ族も、人の生育としてはほぼ同じ過程を経て成人に達するわけで、それを大まかに一括りすれば、そこにそれぞれの民族性というものが形作られる、という考え方に成るのも自然の摂理である。
この民族性は、当然のこととして、自分たちの住んでいる環境に支配されるわけで、自分たちの環境に如何に順応すべきか、という生活の知恵が集大成されたものと考えられる。
ロシアの発展の過程では、一番最初のロシアの街はモスクワであったが、サンクトぺテルブルグは湖沼地帯を埋め立てて、そこに街を作ったと言われている。
湖沼地帯であるからには、傍を川が流れており、その川をネヴァ川と称して、内陸への交易の重要な要衝であった。
湖沼地帯に街を作るということは、並大抵のことではなかったかと思うが、その意味ではエジプトのピラミッとの建設と同じような態様であったろうと想像する。
何千何万という人間が関わったのであろうが、エルミタージュ美術館に関しては元宮殿であったわけで、その宮殿が今日世界の3大美術館の一つにまでなっている、ということは素晴らしい事だと思う。
この本はロシアの歴史を主題にしているわけで、エルミタージュ美術館について記したものではない。
ロシアの歴史と言えば、どうしても近現代史ということで、ロシア革命以降が私の興味を引く部分である。その意味では、今更新しい歴史解釈が出てくるわけもなく、広く世間に知られた一般論にすぎない。
どこまで行ってもダイジュスト版であってお浚いに過ぎなかった。


、『現代ロシアを読み解く』

2013-01-25 17:46:21 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本でという本を読んだ。
著者は袴田茂樹という人だが、「袴田」という名前を聞くと、私どもの世代は日本共産党のことが頭をよぎる。
確か日本共産党にこういう名前の人がいたと思って、インターネットを検索してみたら、やはりこの著者の身内であった。
この事例を見ても、やはり「蛙の子は蛙」「子は親の背中を見て育つ」「血は争えない」という古人の戒めがきちんと立証されている感がする。
ロシアと言えば、当然のこと共産主義の国ということになって、ソビエット連邦が崩壊してその後どうなったか、ということは何人にとっても興味あるものではないかと思う。
結果的に見て、それは約75年間の壮大なる実験で終わったということであるが、我々の同胞の中にも、その実験に同調しようとした人々がいたという事実は、大きな重みがある。
戦前の我々同胞の軍国主義者は、昭和20年の敗戦で日本の国土から見事に排除されてしまったが、共産主義者というのは戦前は非合法で、地下に潜るか牢屋に入れられていたが、戦後はそれらが解放されてまさしく『パンドラの箱の蓋』をあけたような様相を呈した。
その時に活躍したのが、この本の著者の叔父にあたる袴田里美という人物であった。
私がこの本の著者の立場であったならば、決して実名で本を出版するなどということは無かった。
身内に共産主義者がいたということは、先祖代々の御霊に対して、まことに申し訳ない思いで、同じ墓に入ることが憚られる思いに至る。
普通の市民として「共産主義というものはどういう物だろう」と思って、ひも解くことは許されるが、その後でそれに帰依することは売国奴であり、非国民として誹謗中傷されてもいた仕方ない。
治安維持法が出来たのは大正14年であって、その頃の我々の同胞の大部分の潜在意識としては、私のこの思いとほぼ同じような国民感情であったのではないかと想像する。
だからこそ、「そういう思想は取り締まるべきだ」という想いに至って、法律が可決したのではないかと思う。
この法律は、独裁者が勝手に作ったモノではなく、選挙民(この時の選挙民は必ずしも今でいう有権者とは違っていたが)、によって選出された国会議員が、審議を経たうえで可決成立したわけで、この時点ではまだ軍国主義者の専横ということは表面化していなかった。
共産主義の掲げる理念は実に立派なものだと思う。
「働かざる者食うべからず」。この理念に対して反駁の論理が有り得るであろうか。
問題は、その理念を実現するに、如何なる手法で為すかであって、この部分において「暴力で以て金持ちは全部殺せ」という論理が通るわけが無いではないか。
戦前という時代に、治安維持法に抵触して牢屋に入れられた人達は、この理念をそのまま口にしたわけではなかろうが、この理念の下で行動していたので、その部分で当局の施策と摩擦を生じさせたのであろう。
何人もそういう理念を口で言っている分には人畜無害であるが、その理念の実現に実質的な行動をとろうとすると、既成の秩序を一旦は壊さなければならないので、その部分に暴力の介在が避けて通れないことになる。
こういう考え方の人物が身内の中に居れば、共産主義とその宗主国のロシアに興味を抱くのは自然の流れで、それはそれで致し方ないが、問題はその事実を隠そうとしない度胸の良さである。
私ならばこういうケースに直面すれば、ペンネームを使うが、それをしていないということは、非常に勇気あることだと思う。
ロシアという国は我々の隣国であるが、普通に好奇心のある者にとっては、興味深い存在だと思う。
第2次世界大戦後の在り様からすれば、その軍事力はアメリカと互角以上に張り合う存在でありながら、国民の生活はアメリカの足元にも及ばない、ということは不可解千万である。
軍事力としての科学技術が、市民生活の技術革新にフィードバックされていない、ということは一体どういう事なのであろう。
日本でもアメリカでも、自由主義陣営においては、軍事技術は既存のテクノロジーの最先端を突っ走っているが、しばらくするとその技術は民生部門にも開放されて、市民生活の技術にフィードバックされてくる。
インターネットでもGPSでも、最初は軍事技術であったものが、民生部門に解放されたもので、我々はその恩典に浴しているということだ。
旧ソビエット連邦ではこういう事が起きなかったわけで、軍事力のみは世界でも突出していたのに、それが人々の生活にはいささかも還元されていなかったということだ。
この著者の説く所によると、ロシアでは封建制度、封建主義の時代を経験していないので、人々に自立という概念が生まれていないことによると説いている。
的を得た正論だと思う。
私は特別にロシアについて研究したわけではないので、素人の無責任な推測にすぎないが、ロシアでは農奴と領主の間を取り持つ中間管理者の階層が無かったので、農奴の考えていることを上に伝えて、双方の折衷案を探るという統治の手法が無かったということではないかと思う。
日本の江戸時代ならば、農村の集落には村の長(おさ)のような存在があり、長老もいたであろうし、名主もいたであろうし、庄屋どんもいたであろう。
統治するものとされる者の間には幾層もの階層があったわけで、統治は上から下に為されるもの中においても、それを受け止めて自分たちの都合に合わせて生き抜くというボトムアップの知恵があった。
この下の者が寄り集まって知恵を出し合うということがすなわち、言葉を変えて言えば自治であり、それは住民自治であったり地方自治として今日でも息づいているのである。
この本の著者は、ロシア人を車に乗せて日本の高速道路を走った時のエピソードを紹介していた。
渋滞で本線上の車は動かないが、路側帯は車が通れるのに、そこを誰も通らないマナーの良さにロシア人が驚いていたという話である。
ロシアならば、空いたスペースに我先にと突っ込んできて、にっちもさっちもいかなくなるが、日本ではそうならないことに驚愕していたということである。
こういう傾向は中国人にも普通に見られる光景で、その基底にある心理としては、「自分さえよければ後のことは知ったことではない」というものだと想像する。
この著者は、こういう我々の順法精神、マナーの良さを表して、「生き方の美学」という言葉を使っていたが実に良い言葉だと思う。
誰も見ていなくとも決められたルールは守るという行為は、まさしく「生き方の美学」そのものだと思う。
しかし、この「生き方の美学」に粋がって固執していると、異民族との関わりでは、それを悪用されかねず、我々は尻の毛まで抜き盗られかねない。
昭和20年、日本の敗北が濃厚になって、我々は日ソ中立条約に藁にでもすがる気持ちで期待したが、逆に足元を見られて、それこそケツの毛まで抜かれてしまったではないか。
こういう場合、相手の非を責める感情よりも、我々の側の愚昧さを自嘲する自虐的思考の方が鮮明に記憶に焼き付いてしまう。
にもかかわらず、戦後の日本ではそういう立ち居振る舞いをしたソ連、ソビエット連邦、共産主義国に媚を売る同胞が大勢いたわけで、そういう人達が無学文盲の衆愚というレベルの人たちならばまだ納得がいくが、そういう人達は戦前の治安維持法で牢屋に入れられていたインテリ―達であった。
そういう人たちは戦後アメリカ軍の指令で解放されたにもかかわらず、共産主義に愁眉を送ったものだから、またまた弾圧されることになった。
人間の生き様というのは、体制の如何を問わず、生きた人間の意思とは無関係に事が運ばれているようだ。
日本がアメリカと一戦を交えるについても、日本側ではあれを積極的にフォローした要人は一人も居なかったにもかかわらず、結果としては雪崩のように開戦に突き進んでしまった。
ロシアはロシアで、ドイツを刺激すれば領内に攻め込まれると思って自重をしていたら、その隙に攻め込まれてしまった。
この様相こそが国際政治の真の姿であって、生き馬の目を抜く現実であるが、これに我々の「生き方の美学」は通用しないわけで、現実を直視したリアリズムでしか対応できない。
いかなる国の為政者も、自分の私利私欲で事を推し進めているわけではなさそうなのに、終わってみると国民に多大な犠牲を強いる結果になっているわけで、これは一体どういう事なのであろう。
ロシアが1917年に革命を起こしたというのも、その前のロマノフ王朝の統治では下々の人々が救われないから、新しい共産主義の理念の元で新国家を築こうというものだったと思う。
ところがそれにはやはり民衆を統治するという作為が無ければ社会のシステムが機能しないわけで、如何なる世の中になろうとも統治するものとされるものという峻別は免れなかったというわけだ。
統治するシステムとしては、どうしてもピラミッド型の組織が必要なわけで、それは統治システムと言うよりも、人間の社会のシステムとしてどうしてもそういう形態が必要ということだ。
革命以前のシステムは、ニコライ皇帝と農奴の間には農奴を管理する貴族の存在があったが、このレベルで貴族と農奴という2極対立になってしまっていて、中間層が存在していなかった。
ところが革命前夜の頃になると、近代化に伴い都市には工場労働者という階層が誕生して、ロシア革命はこの工場労働者と農民、農奴を称えることによって新しい社会システムを構築しようとした。
ロシアにはもともと字の読める階層が少なく、識字率が極めて悪かったので、共産党が大衆や民衆をリードしなければならなかった。
この共産党の指針が、「既存の貴族や金持ちを殺して、その財産を貧しい民衆に公平に分配せよ」というものだから、それを担った階層がこれまた字も読めない低レベルの党員が、党員不足に便乗して急きょ管理者に仕立て上げられたので、社会がうまく機能しないのも当然の成り行きであった。
それはひとえにロシアの人々には、下からのボトムアップで自分たちのルールを作るという発想が無いからである。
ルールや規則によってきちんと管理するという概念が無いので、極めて自然の摂理に忠実に行動しているが、やはり人間が生きていく為には、お互いに余分なトラブルは避けるように知恵が働くのである。
「上に政策が有れば、下には対策がある」というわけだが、それでもロシアに生きる人々が目先のことばかりを追いかけている限り、我々と同じレベルの近代化はおぼつかないであろう。
しかし、宇宙開発の技術がありながら、それがどうして民生品の方に応用されることなく、死蔵されたままなのであろう。
北方4島の問題でも、日本の約50倍もの国土をもちながら、あの小さな島が返せないという根底には一体何があるのであろう。
そもそも昭和20年1945年のソ連の対日戦参戦の経緯は、我々のモラルから言えば非常に不誠実な振る舞いであって、我々の「生き方の美学」からすれば一番汚い振る舞いでしかない。
国際条約にも明らかに抵触しているが、だからと言って日本が力で取り返せるわけもなく、ただただ指を咥えて眺めているほかない。