ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「中国の旅・食もまた楽し」

2010-04-30 21:16:23 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「中国の旅・食もまた楽し」という本を読んだ。
著者は邱永漢氏であった。
そう厚くない本であったが、内容がぎっしり詰まっていて読みごたえのある本であった。
この著者、邱永漢氏については私の印象としては好ましからざるものがある。
本人が語っているとことによると、彼は「西遊記」を彼なりに解釈して、日本の雑誌に相当の年数、執筆、掲載し続けて、それが好評であったと述べている。
ところが、彼の本職というのがどのあたりにあるのかが皆目分からない点にただならぬ疑惑を持たざるを得ない。
本人が言うところによると、台湾人であるにもかかわらず、日本の教育を受けたということであるが、台湾の人間が日本で稼いでいる、という点からして私としては大いに不信感が募る。
外国人が日本で稼いではならないと言うつもりはない。
日本の高度経済成長華やかりしころ、外国から日本に出稼ぎという形で肉体労働もいとわず大挙して日本を訪れた人がいたが、ああいう形の稼ぎ方ならば大いに許されるが、邱永漢氏の場合は、日本での事業家の一員となってしまっている。
彼自身の言葉でいえば、「売文業」で名声を博したのであるから、その後もその売文一筋で稼いでいるのならば、私の個人的な感情はそれ以上に悪化はしなかったはずである。
ところが彼の場合、日本において金儲けの指南役のようなことをしている。
そういう内容の文章を雑誌に掲載し、今でいうところの経営コンサルタントをしている。
投資や投機を煽りに煽ったわけで、こういう行為に何ら良心の呵責を感じないセンスが鼻持ちらならない。
この部分に、私としては彼の身体の中に極めてシナ的な民族意識の澱が鬱積しているように見えてならない。
私は投資や投機で金を儲けるという生き方を非常に胡散臭いもの、という先入観が抜けきれない人間で、こういう行為を鼻持ちならないものと考えている。
やはり、清く、正しく、額に汗して働くことに価値を置く、極めて古典的な思考の持ち主なので、マネーゲームを助長するような人間を信用ならないと思っている。
この点については本人も充分に自覚しているように見受けられる。
彼の生き様は、完全にシナ人の典型的な例であって、中国の歴史を連綿と引き継いでいる典型的な中国人そのものに見える。
華僑そのものである。
金への執着がぬぐい切れておらず、金儲けの嗅覚は見事に研ぎ澄まされている。
日本の出版界で本が売れ、日本で作品が評価されれば、日本人作家ならば自分が自他ともに社会に認めらたことを自覚し、その道一本で生きることを心に刻むであろう。
ところが、彼の場合でも「西遊記」で人気が出た時点で作家として認められたわけだが、彼は作家だけでは飽き足らず、経営コンサルタントのようなことをしはじめ、同時に自分も事業家・投資家・投機家になってしまった。
この生き方そのもの、つまり彼の人生に対する思考そのものが極めてシナ人的であり、中国大陸の人たちの典型的な処世術であるような気がしてならない。
彼らの認識からすれば、金は上手に使うものであって、ケチケチと貯め込むものではないと言って憚らず、金を動かしている間はその人の倫理が問われることがない。
ところが、この言い分はマネーゲームに他ならないわけで、金を弄んでいるに等しく、他者への奉仕の精神は微塵も垣間見ることが出来ない。
沢山稼いで、大いに使って、自分の人生をより豊かに、より楽しく、より快適にという発想は、究極の個人主義なわけで、日本人の潜在意識にはないものである。
我々日本人の金、および金儲けに対する潜在意識は、金儲けそのものを忌避する気持ちが強く、金にかかわること自体が晴々しい気持にはなれないわけで、何となく後ろめたい気持ちを持ち続けている。
だから、日本人で功なり名を成した作家で、本業の文筆業のほかに事業を興したり、不動産業を経営したり、経営コンサルタンを兼業する人はまずいないと考えられる。
そもそも日本人の作家、文筆で生業を立てているような人は、金には全く興味を示さず、極端にだらしないか、その対極として徹底的に無関心かのどちらかで、文章を書きながら、金儲けのことを考えているような人はまずいないと思う。
やはり本業の文章で勝負、作品で正面から堂々と勝負することを人生の指針にしていると思う。
その意味で、日本人は極めて単純な民族で、輻輳的な思考が出来ない、まことに純な思考回路しか持ち合わせていないということになる。
この本の中には、標題にもあるように食に関する記述はあって当然あるが、その文脈の中で中国に対する投資、いわゆる事業に対する所感も多々記されている。
書かれた時期が2000年と、10年以上も前のことなので、今とは状況の違う部分もあろうかと思うが、私個人としては中国への投資は石橋を何度も何度も叩いて、慎重の上にも慎重を重ねてから進めるべきだと思う。
ただ人件費が安いからといって、安易に乗りだすべきものではない筈だ。
中国は人件費が安いから、その安い人件費を求めて、人件費の高い日本から脱出すると言うだけでは、バカでもチョンでも思いつく思考でしかないではないか。
しかし、経済というのは、こういう極々当たり前の考えを、大勢の人が当たり前のこととして行ってきたからこそ、大きなうねりとしてサインカーブ、コサインカーブのように変動し続けるのであろう。
邱永漢氏は台湾出身でありながら、日本で作家として認められ、その実績の上に次なる金儲けとして、経営コンサルタントとしても名を上げたのであって、こういう発想は我々日本民族の中にはありえない。
作家、文筆業というような職域の人は、相当に教養・知性を積んだ人なわけで、そういう日本人は金には実に潔白で、金儲けということを賤業と同列に思っているはずだ。
日本人の特質として、優れた官僚の存在というものがあるが、日本の官僚は自分の地位を利用して私腹を肥やすというものは極めて少ないと思う。
メデイアを賑わす官僚の汚職、収賄、談合等々、官僚の不祥事は多々報じられているが、何事にも例外というのはあるわけで、大部分の官僚は真面目に職務をこなしていると思う。
悪徳政治家の権化のように言われている東條英機でさえ、独裁者といわれていたにもかかわらず、金銭的には極めて潔癖で、公私混同するようなことは一切なかったと言われている。
それに比べると昨今の天下り官僚のモラルハザードは目に余るものがある。
これはひとえに官僚の質が落ちたということであろう。
昔の官僚は天皇陛下の臣下であったが、戦後の官僚は日本式科挙の試験に合格した秀才であるので、自己保存の知恵は良く回り、費用対効果の理屈もよく理解しているが、それを己の利益のためにだけ使っている。
金儲けを生業とする人は、それはそれでまた別の才能として、それに優れたものが別人種として存在し、財界という仲間意識というか、クラブのようなものまであることは事実であるが、作家とか小説家、評論家というように文筆業の人が、金儲けに関心を寄せることは、我々のセンスとしては奇異な感じがすることは言うまでもない。
我々、日本民族の潜在意識の中にはやはり今でも士農工商という価値観がきちんと生きている。
問題は、その価値感を今の時代、誰がもっとも確信を持って担っているかという点であるが、そこにはやはりその人の受けた教養・知性というものが大きく影響している関係上、教養人としての知識人、いわゆる作家とか、小説家、評論家になると思う。
こういう人たちが、机に向かって構想を練る片手間に、金儲けのことを考えているとはとても思えない。
「武士は食わねど高楊枝」というのは金のない文化人を揶揄した表現であるが、日本の知識人というのはこういうやせ我慢に粋を感じるわけで、金に執着する人間を野暮と見做しているはずだ。
著者の悪口が長くなってしまったが、内容的には非常の面白い。
食にまつわる話は、当然のこと非常に興味深いものがあるが、この本の中身の記述においても我々日本人の感性、というよりは私自身の感性を逆撫でする部分がかなりあった。
というのは、彼の場合、経営コンサルタントとしての実績が中国でもかなり知れ渡っているとみえて、行く先々で中国側の行政機関の招待を受けることになるが、そのことが事細かに書き連ねてある。
こういう部分に、個人の品性が現れていると思うが、ひところの日本では品格という言葉が氾濫気味であったが、この品格とか品性とか品位という概念は日本人以外の者にも通用するものだろうか。
数日前、中曽根康弘がテレビのインタビューに応えているのを見たが、彼がアメリカのレーガン大統領夫妻を日本の茶室に招き、日本文化の極意を説いたと言っていたが、我々の言う品格とか品性とか品位という概念は、他の民族とも分かりあえるものなのであろうか。
そういう観点からこの作品を見ると、私の観点からすれば、甚だ品位に欠ける部分が目に付くと言わざるを得ない。
文中に、自分が如何に相手側から歓待を受けたか、ということをこと細かに述べる感覚は、我々の常識からすれば品位の問題に行き着くことになる。
我々日本人が、心の奥底でなんとはなしに、無意識のうちに持ち続けている概念に、この品というものがあるように思う。
だからこそ「日本人の品格」という本が売れ、品位、品格、品性という概念があるものと思うが、これは日本人だからこそ分かりあえる特別なものだろうか。
邱永漢は台湾人作家だからこそ経営コンサルタントという二足草鞋をはいているが、日本人で、作家として名を成した人で、文筆業のほかに他の職種を兼業している人はあまり聞いたことがない。
司馬遼太郎が焼き肉チェーン店を経営していたとか、加藤周一が不動産業をしていたとか、井上ひさし氏がレストランを経営していたなどという話は聞いたことがない。
やはり、日本人の作家は、自分の生業・文筆業に生真面目に精魂を注いでいたわけで、思索の合間に金儲けのことを考えていたわけではないと思う。
ひところ、清貧という言葉が流行った時期もあったが、我々は清貧という生き方に何となく心のすがすがしさを覚える。
清貧という言葉は、金儲けの対極にあるものだと想像するが、我々は心の奥底で、「金儲けは卑しい生業」ということを無意識のうちに刷り込まれていると思う。
我々はサクセス・ストーリーの主人公を何となく「偉い人」という感覚で見がちであるが、サクセスというのは何処にでも転がっているわけで、ただただ自分がそういう良い目に合っていないから悲嘆しているだけである。
成功する人と失敗する人は同じ量だけいるものと思う。
何事も挑戦しなければ失敗は有り得ないわけで、それは同時に成功もありえないことである。
人は挑戦するからこそ失敗があり、その対極に成功があるわけで、成功した人は決して偉いわけではないが、自分が挑戦したことを成功に導く頭の良さと、本人の努力と、運の良さが三拍子そろったということであろう。
自分のことでいえば、私は決して裕福ではないが、だからといって「金持ちになってやろう」という挑戦を試みる気はさらさらない。
しかし、この世に生を受けて、「金持ちになってやろう」という野心を持って生き続ければ、案外その夢は成就出来るのではなかろうか。
私自身について再度いえば、「何が何でも金持ちになりたい」という夢は持っていないが、「あれもしたい、これもしたい」というささやかな夢はある。
ところが「何が何でも」という切迫感がないので、ある意味で極めて曖昧で、のんびりした夢なので、成就しようとしまいと一向に気に架けるものではない。
だからこそ、何時までたっても貧乏からの脱出が出来ないのであろう。
話が飛躍して申し訳ないが、中国のことを知ろうとすると、どうしても漢字との係わり抜きにはありえない。が、この漢字というのが、この年になっても相当な重荷になっている。
字・漢字も、ある意味で記号なわけで、知っている記号ならばなんなく読めるが、この記号の数は果たしていくつあるのであろう。
そして、その組み合わせとなるとそれこそ無限にあるわけで、当然のこと、私の老朽化した、いや老朽する前にキャパシテ―不足のマニュアルコンピュ―タ―では覚えきれない。
結局、一言で言い表せば、読めないということになる。
中国に関しては、日本と同じ漢字文化圏というわけで、中国の地名も漢字表現でなされているが、これが私のような無学のものには甚だ困る。
アメリカや他の国のように、カタカナ表記ならば分かりやすいことは請け合いだが、漢字の文化圏どうしで、カタカナ表記というのもなんだか腑に落ちない部分は拭い去れない。
この本の著者・邱永漢氏が台湾人であろうが無かろうが、漢字文化圏に生を受けた人であることは間違いないわけで、漢字に関しては我々以上に造詣が深いので、古い漢字を自由自在に使いきっているが、今の中国は漢字を見直して新しい字にしてしまったので、中国人でも若い世代は古い字を知らない人も多いのではないかと思う。
そういうことを考えると、漢字の文化というのも根本から考え直さねばならないように思う。
同じ漢字文化圏でも、朝鮮半島では既に漢字を使わないし、本家本元の中国では漢字を大幅に替えてしまったし、台湾は古い漢字を未だに使っているし、日本は漢字の変革をしたのかしなかったのか極めて曖昧なままの状態にある。
こう見てみると、漢字文化圏では漢字という共通因子が消滅しつつあるように思えるが、だとすれば、その次に来る各個の意思疎通を図る共通因子は英語ということになりかねない。

「楼蘭への旅」

2010-04-27 19:49:02 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「楼蘭への旅」、サブ・タイトルとして「ロプ・ノ―ル旧湖床南北縦断記」という本を読んだ。
著者は金子民雄氏。
相当に分厚い部類に入る本であったが読み易かったので一気に読み終えた。
この著者が本文中に言っていたが、このロブ・ノ―ルやローランというのは日本人には特に人気のある地域らしい。
私もその例に漏れず一度は行って見たいと思う土地の一つである。
私がシルクロードに惹かれる最大の理由は、やはり様々な探検記の存在であろう。
古の昔には当然のこと「西遊記」が有るが、私はこの本を未だかって通して読んだ記憶がない。
昔からこの本はあまりにも有名であるが故に漫画にまでなっているので、そういうものを拾い読みしている内にきちんとしたものを読む気が失われてしまって、未だに真面目な書物としては読んでいない。
しかし、マルコ・ポーロの「東方見聞録」となると、若き日に文庫本で読んだ記憶がある。
もっとも、その内容はすっかり忘れてしまっているが、このローランとかロプノ―ルともなると発見されたのが大分後世になってからで、それも西洋人によってはじめて世間に知らされたという意味で、興味ががぜん身近なものに感じられた。
戦後もしばらくして、日本が高度経済成長の端緒に着いたころ、トヨタ自動車がヨーロッパからシルクロードを通ってアジア大陸を横断するという企画をしたことがある。
その時使われた車がトヨタ・クラウンで、例のドアが観音開きになるものであった。
正確な日時は忘れてしまったが、その時、アジア大陸にはシルクロードという太古からの道が有るということを新たに認識したものである。
その延長線上に、ヨーロッパの探検家がローランとかロプノ―ルを発見したが、中国ではその後の革命騒ぎで、その情報が閉されて、未知の世界になってしまったので、好奇心のみが異常に増殖したというわけだ。
そういう思いの日本人は、私一人ではなかったようで、この本の著者は「日本人には非常に人気が有る」と説いている。
シルクロードの中でも何故にこのローランとかロプノ―ルに我々の関心が集まるのだろう。
これらの場所は、全て廃墟になっているわけで、廃墟だからこそ関心が集まるのだろうか。
ロブノ―ルなど塩水の湖なわけで、有ったとしても魚も住めない池でしかなく、ローランなども完全に廃墟で、人の影さえないという部分に我々の想像を超越した郷愁を感じるのだろうか。
我々にはイメージさえ湧かないので、だからこそ「一度は自分の目で見てみたい」という欲求に駆られるのだろうか。
前に読んだ中国の蒸気機関車の本でも、中国の悪口を大いに書いたが、この本でも再びそれを繰り返さなければならなくなる。
というのは、日本人がこの地域、いわゆるローランとかロプノ―ルのあるシルクロードに観光旅行、あるいは研究旅行で入ろうとすると、入所料を法外に吹っ掛けるという彼らの仕儀である。
この著者は研究者として、先方からの招待という形なので、彼自身はそういう憂き目にあっていないが、その場の観察としてそれに言及している。
日本でいえば、京都や奈良のお寺を見学するのに、中国人に限ってべらぼうに高い拝観料、入場料を吹っ掛けるのと同じことで、日本人に限ってそういう支出を科すと言うことは、そこを管轄している行政の長の恣意的な行為だと言わざるを得ない。
中国人では俗に50以上の民族が混在していると言われているので、いちがいに中国人という大雑把な括り方は出来ないことは十分に承知しているが、彼の地の住む人々は、日本人と言うと頭からバカにする傾向が有るのではないかと思う。
もっとも、我々の側にも相手にそう思わせる要因が有ることも知るべきである。
というのは、我々は中国人から何かを言われると、それに対して効果的な反論をしない、言わない、沈黙をする、譲歩をする、論理的に説明が出来ない、理論整然と論駁しないという面が有り、そこに付け込まれてしまうのである。
中国に関する限り、我々の側は、日本文化の川上の存在、日本文化の源流という意識から抜けきれないが、先方の意識からすれば、日本の存在など中国の50いくつか目の民族の中の一つぐらいの意識しかないのだろうと思う。
こういう意識の格差というのは有って当然だと思う。
考えても見よ。彼の地では国家が教育を完全にコントロールしているわけで、彼の地の歴史教育を見れば、反日、抗日、侮日の列挙であって、それを国家が推し進めていることから考えれば、日本人に接したこともない内陸部の人々が、日本人を鬼子と思い込んでいるのも当然のことである。
教育をコントロールしているだけではなく、中国国内の情報は固く封印し、入ってくる情報には厳しく検閲を掛けているわけで、彼の地に住む人々は、外国の事情というものがさっぱり分かっていないので、自分たちの行為が如何に国際信義にもとるか、ということまで気が回っていない筈だ。
学術調査、あるいは観光旅行でも、人が見たいと思うところ、あるいは行きたいと願えば、こちらの欲求が直ちに先方の金儲けのチャンスになるわけで、「ならば金を置いていけ」という論法になるわけである。
昔の関所と同じだし、ヤクザの寺銭とおなじ発想であるが、そのこと自体が時代錯誤であるにもかかわらず、その地の住民の立場からすれば、そういう方法しか現金収入の道がないということでもある。
地球規模で見てみれば、観光地で入場料を徴収するところは数多くある。
アメリカの国立公園では、その入り口では入場料を払わなければ中に入れないので、そのこと自体は太古からある人間の普遍的な行為であるが、それは一律に公平なシステムであって、人の顔を見て値段を決めるという不明朗なものではない。
当然、そこで徴収された金は公園の施設の維持管理やパトロールの経費に使われるわけで、それは来園する人たちに公平に科せられる。
こういう状況に置かれた時、我々の対応の仕方が実に不味いわけで、「そんな金を払うくらいなら帰る」と開き直ることが出来ない。
我々の感情としては「折角ここまで来たのだから、払える範囲ならば払ってでも見る」という態度になるから、相手に付け込まれるのである。
入場料だか人所料だか知らないが、理屈に合わない金でも、自分の欲望を優先させたいがため、相手の言うことに屈してしまうから、カモにされるのである。
これは一人一人の旅行者の問題を超越して、国の方針として「理屈に合わない金を取るところには行くな」と、国家の責務として自国民に言うべきである。
ところが、我々の国自体が毅然たる国家主権の意義、意味さえ確たる信念を持っていないので、中国に対しては腫れものに触るような気の使いようをしているため、相手は何処までも突け挙がってくるのである。
ロプノ―ル、ローランの存在というのも、中国の民にとっては何の価値もなかったわけで、約100年前、西洋人の探検家によって発見されて、世間にその存在が知れ渡り、学術的な価値が認識されてはじめて自分たちが金の卵を抱え込んでいることに気づいて、来訪者から金をせしめることを思いついたわけだ。
来訪者から金をむしり取っておきながら、「写真は撮るな!」とは全く馬鹿げた話だが、我々の同胞はそれにも素直に従っている。
現地で、現地の係官と押し問答したところで、来訪者にしてみれば何の得にもならないので、結果として泣き寝入りで終わるわけである。
私がこの本を読んで問題とすべき点は、中国の人々が自分たちの祖先の功績に対して全く無頓着だということである。
この遺跡が西洋人によって発見され、それが中国の人々によって破壊されつつある現状に何の憂いも感じていないということである。
それは同時に、この地域を観光資源として活用するアイデアにも何一つ貢献しようとしていないということでもある。
この地域は、日本人に人気が有って、日本人は喜んで来たがるので、その日本人からは高額の金をむしり取ることには何ら疾しさを感じていないが、それを観光資源として世界から人を集める、という発想には至っていない。
前の本でも述べたが、中国における内陸部と沿海部の格差というのは、有史以来あるわけで、内陸部においては社会的な基盤整備も有って無いがごとしであって、当然のこと教育にも格差が有るわけで、こういう現状から鑑みて、内陸部の人たちにとっては歴史的遺産の価値などというものは、端から理解しがたいことであったものと想像する。
紀元前に人間が作った文物だと言ったところで、この地に連綿と生き続けた現地の人からすれば、「それがどうした!」という感覚だと思う。
目の前にあるものの価値など、自分にとってい利用価値が有るか無いかでしかないわけで、世の学者先生が如何に「貴重な歴史遺産だ!」と言ったところで、地元住民にすれば、そんなことは預かり知らぬことで、それを取り壊して自分の家の土台にしようとも何の痛痒も感じないわけである。
私は、こういう歴史遺産を目の当たりにすると不思議な思いがする。
イタリアのポンペイにはまだ行ったことがないし、兵馬俑もまだ自分の目で見たことはないが、人間が昔生活していたところが地中に埋もれるというのがどうにも理解しがたいことに思われる。
イタリアのポンペイでは人間が生活したまま火山灰に埋もれたということもにわかに信じられないが、そういう意味で、かつてみたことのあるローマのコロッセオなども実に信じがたい思いがする。
この本の主題となっているロプノ―ルという湖、ローランという町が地中に埋もれてしまっていた、ということも私の理解を超越したことに思える。
ロブノ―ルの消滅もローランの消滅も、水の欠乏と同時に風の影響も大いにあるようだが、風の力で人間の生命力が淘汰されてしまう、というのも俄かに信じがたいことように思われる。
この本でも述べられているが、風の力で湖が干上がり、町が砂に埋没するというのも、基本的には人間が木を伐採してしまった結果のように思える。
当時の人にしてみれば、彼ら自身が生き延びるために周囲の木々を伐採して、自らもこの地で生き延びようとしたのであろうが、結果的にはそのことが人間の生存そのものを拒否することになってしまったわけだ。
私が思うに、彼の地には過去に人間が住んでいた形跡が残っていたということであるが、その事実の発見が何故に外国人、すなわち西洋人によってなされ、中国人によってそれがなされなかったかのか、という疑問である。
これらの地は中国の沿海部の人から見れば、それこそ「化外の地」であって、流刑地と同じ認識であったに違いない。
その意味では台湾と同じで、台湾も漢民族の認識からすれば「化外の地」以外の何ものでもなかったわけで、科挙の試験に通った者の中でも一番赴任したくない土地であったことは間違いないと思う。
そういう土地に、自ら行きたいと願う人間はいないわけで、そのことからこういう歴史的遺産の発見が西洋人に委ねらられてしまったのであろう。
この辺りに住む人々にとってみれば、遺跡の歴史的価値などというものは、屁のツッパリにもならないわけで、ただ学者先生が「ああでもないこうでもない」と日がな口角泡を飛ばして議論するネタにすぎず、そういう人たちから如何に金を巻き上げるかが最大の関心事であったに違いない。
何度も言うように、私に言わしめれば、アジアの内陸部、つまり中国の内陸部とアメリカの内陸部は不毛の大地という意味で、非常に酷似した地勢的な条件だと思う。
アメリカ大陸の内陸部も、ヨーロッパ系の白人が入植するまでは、この地と何ら変わるところはなく、不毛の大地という点では同じ条件下にあったと思う。
しかし、今日、21世紀という歴史の最先端においては、その差は大きなものになっているわけで、その原因を突き留めなければならないと思う。
私に言わしめれば、この大きな格差の根源は、価値観の相違だと思う。
アメリカ大陸の内陸部に入植したヨーロッパ系の白人の価値観と、漢民族の価値観の相違がこういう大きな格差を生じせしめたものと考える。
価値観の相違の根源は、額に汗して働くことの認識の違いだと思う。
アメリカに入植したヨーロッパ系の白人たちは、キリスト教文化圏を構成していた人たちであって、彼らは額に汗して働くことに非常に大きな価値を置いていたが、儒教思想に凝り固まっていたアジアの人々は、人が額に汗して働くことを蔑視しており、そういうことは下等な階級の者の仕事だと認識し、無意味で冗長な議論にあけくれることこそ人のあるべき姿だと勘違いしていたのである。
だから、我々の認識では、文武両道ということが人間の理想として好ましいという見識であったが、この地の人たちの常識では、文官が武官よりも上位に位置するわけで、今流の言葉でいえばシビリアン・コントロールこそが人のあるべき姿だと考えていたわけである。
しかし、人類の歴史というのは、ある意味で戦争の歴史でもあったわけで、現実の統治では文官が武官を抑えきれなくなって、シビリアン・コントロールが成り立たなくなることが往々にしてあったわけである。
中国大陸の王朝の変遷というのは、それを如実に表しているわけで、陸続きのそれぞれの国家は、軍備抜きでは生存そのものが成り立たなかった。
こういう状況下であってみれば、シビリアン・コントロールでは国家の存続そのものがありえないことであったにもかかわらず、文官が武官の上で采配を振ったことの瑕疵として、国家、あるいは民族の衰退を助長する結果を招いたのである。
儒教思想の中では、人が額に汗して働くことを下等な行為という認識が連綿と生き続けていたので、自分の命を的に戦う戦士が、口舌の徒の下に置かれており、それこそシビリアン・コントロールの具現であったが、それでは弱肉強食の現実の世界を泳ぎ切れず、近代化に乗り遅れるという結果を招いたわけだ。
地球上の人類にとって、時間というものは見事に平等に付与されており、アメリカ人には沢山付与されて、中国人には少ししか付与されていないということはない。
人類であるかぎり、地球上の人にとって時間は完全に平等である。
アメリカ人も中国人も、時間というのは全く公平に天から賦与されているわけで、にもかかわらず近代化、民主化、意識改革にこれだけの差が出来たということは、それぞれの民族に潜んでいた潜在意識の所為だと言ってしかるべきだと思う。
何時も言うように、儒教思想では親を敬い、年長者を立て、年功序列を遵守し、人の言うことを素直に聞き入れることが大事だと諭されるが、若者がこの教えに従順であるならば、決して意識改革、近代化への前向きの思考、民主化への脱皮ということはあり得ない。
若者がこういう長年の呪縛から脱する決心をしたからこそ、近代化や民主化が達成されるのであって、儒教思想というのは、こういう若者の考え方を抑え込む方向に作用しているのである。

「中国・蒸気機関車の旅」

2010-04-26 18:12:23 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「中国・蒸気機関車の旅」という本を読んだ。
標題の通り、中国の蒸気機関車を写真に収めた本であったが、蒸気機関車を写真に撮るためだけの旅行というのも豪勢なことだと思う。
最近、鉄道写真を撮る趣味の人が多くなったとは言うけれど、本来は、そういうことは趣味の範疇であるべきだと思う。
この本の著者は、そういうマニア向けにこういう取材をし、そういう趣味の人を煽る狙いで、こういうことをしているとしか言いようがない。
資本主義の自由主義体制の中で、如何なる手段を用いて金儲けをしても、とやかく言う筋合いのものではないが、こういうことこそ時流に便乗する行為というものなのであろう。
私も個人的には汽車の写真とか列車の写真は好きで、自分でも撮影旅行をしたいとは思っているが、そのためだけに旅行というのはいまいち勇気が出ない。
普通の観光旅行の間に、運が良ければそういうチャンスに巡り合えるかどうかという程度のものでしかない。
世界のすう勢を見てみると、蒸気機関車が活躍しているシーンは、ある意味で未開発の地域の部類に入るように思われる。
文明が進化すれば、公共交通機関としての蒸気機関車は大きく後退するのではないかと思う。
鉄道そのものは、省資源の見地から、今再び脚光を浴びつつあるが、その中でも蒸気機関車というのは、出番が少なくなりつつある。
石炭を燃やして、水を沸騰させ、その湯気の力を動力に変換してエネルギーを引き出すというのは、やはり過去の産業構造なわけで、中国といえども徐々にエネルギーの効率化ということが真剣に考えられるようになってきたということであろう。
この本を見ながら、私はその主題とする蒸気機関車よりも、その背景に写っている大地の方に関心が向いた。
今、地球上の人間の数は60数億人と言われて、人口爆発が危惧されているが、私は地球はまだまだ包容力を持っているような気がしてならない。
人口が密集しているのはいずれも都市のみで、都市以外の地域には広大な土地が余っているような気がしてならない。
今、全ての都市が人口密集地になりつつあるので、日本の識者の中には環境問題を憂うことが流行りとなって、老いも若きも環境問題を心配している振りをしているが、これも一種の流行り以外の何ものでもなく、ある種の「バスに乗り遅れるな」式の意識だと考えている。
外国を普通に観光旅行してみると、この地球上には利用可能な土地は一杯余っているように見受けられる。
ただ、人間の居住している地域には、文化や文明の格差が歴然と横たわっているわけで、人は住むに便利な場所に集中的に群がるものだ。
この地球上に生まれ出た人間にとって、物を作ることは如何なる物を作るにしても苦難を伴うが、人の作ったものを商いする分には、肉体労働からは免れるわけで、そのことを簡単に表現すれば、物つくりよりもそれを商う方が楽して儲けれるということである。
よって、田舎、人口密度のまばらな地域で農作物を作るよりも、その地域でとれた作物を売って歩く方が身入りが良い事になる。
だから人は田舎を捨てて都会に集まり、商売に精を出すというパターンになる。
よって人間の幸福の度合いは、人のまばらな田舎で如何に効率よく物を生産するかにかかっている。
ところが、こういうことを考える人は、必然的に学識経験豊富な学者や官僚ということになるが、彼らは彼らで田舎の現実に疎いわけで、机上の論理で計画を立て、それを実践しようとするから現実との乖離が避けられない。
田舎の現実を知らないものが、机上の論理だけで計画を立て、それを実践しようとするから、その大部分は失敗につながってしまう。
田舎の住人は、彼らは彼らで教育を受ける機会が少なく、学問がないので、過去の因習や風習や宗教の戒律に縛られて、現実から飛躍し、現状を打破し、生活の向上を目指すという意識を欠く。
そこに貨幣経済のみが遠慮なしに入ってくるので、口減らしを兼ねて出稼ぎに頼る、という構図が出来上がる。
それをトータルとして眺めると、沿海部と内陸部の経済格差が広がるということになってしまう。
こういうことは大陸国家ではごくありきたりのことで、アメリカでもロシアでも中国と同じようなな状況ではないかと想像する。
アメリカが世界でナンバー1の経済大国の地位を維持し続けている背景には、社会的なインフラが整備されているので、沿海部と内陸部の文化や文明の格差が極めて微小であるからだと私は考えている。
私は、中国の内陸部に住む人々のことを考えると、彼らはアメリカ大陸の先住民としてのネイテイブ・アメリカンと同じではないかと思う。
ネイテイブ・アメリカンの人たちは、自分たちの土地を移住者としてのヨーロッパ系の白人に取られてしまって、自分たちは居留地に押し込められでしまった。
その居留地で生きている限りにおいては、彼らは自分たちの伝統と風習や風俗を引き継ぐことが可能であるが、居留地から一歩出ればヨーロッパ系の白人の文化文明に埋没せざるを得ない状況に追い込まれてしまっている。
中国の人々には、外来のヨーロッパ系の白人の抑圧というものはないが、同じ民族の中で沿海部の開けた地域に住む同胞に抑圧されているように見える。
これは何も20世紀や21世紀になってはじめて表面化したわけではなく、中国においては有史以来続いていることであって、今になってはじめて現出したことではない。
日本をはじめ、世界の識者は、「貧富の格差の是正」ということを、さも有意義な社会の創設のために必要不可かのように言いふらしているが、そんなことは人類の生存中に達成できるわけがないではないか。
貧富の格差のない社会となれば、共産主義社会しかないが、これは旧ソビエット連邦の約75年間の実験によって、実現不可能ということが実証されたではないか。
にもかかわらず、世間で識者と言われる人たちが、「貧富の格差の是正」などという絵空事を声高に叫んでいるのである。
人類に出来ることは、地球上のあちらこちらに残っている広大な荒れ地を、如何に開墾するかということであって、これならば人類が英知を集めれば実現可能なことである。
春先に吹き荒れる黄砂などというものは、中国の地に木を植えれば克服可能なわけで、経済格差の是正を声高に叫ぶ前に、中国の地に木を植えるべきことを先に説くべきだと思う。
中国で植林が思うように進まないのは、彼らの民意の所為である。
彼の地に住む人達にとっては、公共の福祉という概念そのものが根付いていないからである。
自分にとって一文にもならないことには、舌を出すことさえ嫌がるという彼らの民族性によると思う。
黄土高原のはげ山に植林をしたところで、その木が成長して、黄砂を抑える効果を現すまでは何十年という年月がかるわけで、その前に焚き木として伐採してしまうのが関の山で、そういう発想こそが彼らの民族性そのものを現していると思う。
木を植えれば黄砂を抑えられるということを、頭で理解しても、現実の生活がそれを許さないに違いない。
中国の地に住む人々は、有史以来それを繰り返してきたわけで、結果として黄砂が海を越えたよその国まで飛来するということになったわけである。
もうすぐ上海で万国博覧会が行われるが、あの上海の現実というのは、既に中国の現状を超越しているわけで、あそこにだけ視点を向ければ、中国はもう先進国と何ら変わるところがない。
ところが現実には今日に至っても、中国人は日本から何かを学ぼうとしているわけで、彼らは日本に来る機会を、鵜の目鷹の目で模索している。
この現実を、穿った見方で眺めれば、彼らにとって日本は未だに黄金卿として映っているということに他ならない。
この万博の各施設のデザインにも盗作ということが疑われ、主題歌でさえも盗作の疑惑がまとわりついているところを見ると、彼らには独創性というものが欠けているのではないかとさえ思えてくる。
これも深く掘り下げて考えると、彼らの民族性と言えないこともない。
というのは、彼らには社会体制が如何様に変化しようとも、彼らの潜在意識から儒教思想が抜けきれないので、儒教思想に凝り固まっている限り、過去を乗り越える発想は生まれてこない。
過去の延長線上にしか発想が生まれないわけで、それの意味するところは、独創的な思考は儒教思想に押しつぶされてしまうということになる。
この本の蒸気機関車の後ろに広がっている荒野は、人が手を加えればきっと立派な耕地になると思うが、彼らにはそうするアイデアが全く乏しいということだ。
アメリカに入植したヨーロッパ系の白人たちは、アメリカ大陸の荒れ地を作物のとれる耕地に作り変えてきたからこそ世界で一番の経済大国になりえたのである。
中国の地に住む人々と、アメリカに入植した白人の違いは、農業、つまり額に汗して働く労働に対する価値観の相違だったと私は考える。
万博の行われる上海が活況を呈し、内陸部では太古と同じ生活が共存するという社会は、やはりいびつな存在だと言わなければならない。
「貧富の格差」などというものではなく、まるで国家そのものが違っているようなものではないか。
沿海部と内陸部ではまるで他国のような状況ではないか。
共産主義の掲げる理想というのは、万人が認めるユートピアではあるが、それが建国の精神であるとするならば、同じ国の中にこういう格差が有ってはならないと思う。
共産主義の理想が砂上の楼閣であったことは旧ソビエット連邦の崩壊がそれを立派に証明しているわけで、中国はそれを「他山の石」としての教訓とし、改革解放政策をとり、資本主義により近い政策を実践しているが、その結果としてますます格差が大きくなってしまったようだ。
所詮、中国の政治というのは歴代の王朝の政治と何ら変わるものではないということに他ならない。
共産主義、ソビエットという言葉があまりにもむなしく聞こえるではないか。
「ソビエット」という言葉は、労働者と農民を指し示す言葉であったはずだが、結局のところ、共産主義体制は労働者と農民を食い物にしただけにことで、得をしたのは肩で風切る共産党員のみである。
封建制度の下では貴族や金持ちが労働者や農民の上に君臨していたが、共産主義体制のもとでは、貴族や金持ちに代わって、共産党員が大衆の上に君臨したに過ぎない。

「環境問題のウソ」

2010-04-02 07:29:00 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「環境問題のウソ」という本を読んだ。
著者は池田清彦氏。私とは全然面識のない人だ。
この本は、著者の思った事、考えた事がそのまま論旨となっているが、この世の大方の書物がそういうものであろうとも、その思考の行き着いた先はメディア批判となってしまっている。
またしてもメディアに対する批判になった。
メディアに対する批判というのは、言うなれば「メディアは嘘ばかり言っている」ということである。
これは一体どういうことなのであろう。
この本は冒頭に炭酸ガスによる地球温暖化の問題を取り上げているが、それにつづいてダイオキシン、外来種の駆除、自然保護の矛盾という風に、目下最大の話題になっていることを正面から糾弾している。
このいずれの一つをとっても、目下のところ地球規模で大問題となっているわけで、それは虚像に過ぎないと正面から否定している。
大騒ぎするほどのことではない、と正面から批判しているわけで、それは明らかにメディアとの戦争だ捉えてもいいと思う。
私は、これらの個々の問題は、それぞれに物質文明の功罪であり、陽のあたる面とその影の問題だと思っているが、私が憂うべき事と思うことは、誰かが正論をもっともらしく高々と掲げると、それを検証することも無く、ただただ一方的にその論理を鵜呑みにして、大騒ぎを演じるメディアの特質である。
私はメディアにかかわる人間をインテリ―ヤクザだと認識し、卑下しているが、世間ではメディアを白馬に跨った正義の味方だ、と一方的に思い込んでいる大勢の人間の存在である。
メディアに騙される人々も実に愚昧だが、本来ならば騙す側を厳しく取り締まらねばならない。
だ、とすると、「表現の自由を侵す」だとか、「信教の自由を損なう」などと言う屁理屈で、取り締まる側に対抗して来る。
ここで考えねばならないことは、「表現の自由」あるいは「言論の自由」を規制する、規制しなければならない状況というものを考えてみる必要がある。
表現者、執筆者が自己の信条を発信するのに、それが従来の公序良俗のモラルの範囲内に収まっておれば、規制ということはあり得ないが、それを超えるから無秩序なモラルの崩壊を阻止し、従来の規範を維持しなければ、という反動的な機運が醸成されるのであろう。
基本的に、メディアの報ずることが丸まる嘘であったとしても、それで直接人命が損なわれるわけでもなく、公序良俗が損なわれたとしても目に見える被害は何もないわけで、そういう嘘の報道に金を払う消費者がバカを見るだけである。
後でそれが嘘とわかっても、メディアは決して反省をすることもなく、謝罪することもなく、あたかもそんなことを言った覚えはない、と素知らぬ態度をするところが鼻持ちならない。
俗に「オオカミ少年の話」というのがある。
「オオカミが来る、オオカミが来る」とウソの警告ばかりを発していたので、本当の危機が来た時には誰も信用しなかったという話であるが、メディアというのはこのオオカミ少年の存在と同じで、常日頃言っていることは全部ウソなので、いざ真実の危機が迫って来た時には何の足しにもならなかったということになる。
それをもう一歩掘り下げて考えてみると、俗に真実と言われていることが、本当に真実かどうかも定かにはわからないということである。
テレビの刑事ドラマではないが、目撃者の証言として、目撃者の語ったことが本当に真実かどうかは定かではないわけで、メディアの取材記者が一生懸命取材して、当事者から聞いてきた話は、話としては真実であろうが、それが本当に真実かどうかはわからないまま報道しているということである。
「炭酸ガスが地球温暖化に影響を及ぼしている」とある学者が言い、それを取材した記者がそのまま報道すれば、これも確かに真実の一部ではあるが、本当の真実とは言い切れない部分がある。
科学者が言ったという面では確かに真実であるが、その内容が真実かどうかは定かでないわけで、メディアは「学者が言ったのだから真実だ」というスタンスで報道しがちである。
メディアとすれば報道した内容が間違っていても、それは学者が間違っていたのであってメディアの責任ではないと言い逃れするのである。
ダイオキシンの駆除を例にとれば、ダイオキシンが人間の身体に悪いことは当然であるので、ダイオキシンを身の回りから駆除せよというのは確かに正論である。
しかし、その正論のためにいくらコストがかかってもそれを推し進めるだけの価値がある事かどうかと問うと、そうでもないというわけで、この場合は正論とコストの兼ね合いの問題になる。
ところがダイオキシンが身体に悪いという報道がなされると、その報道を受け取る側は、それが正真正銘の真実と思い込んでしまうわけで、そんなに体に悪いものならばいくらコストがかかろうとも排除しなければならない、という論理になってしまうのである。
しかし、実際にはダイオキシンで人が死に至るまでの年月は100年近くもあるわけで、これで果たして人体に害があると本当に言えるのかということである。
ダイオキシンが致死量に至るまでに100年かかるとすれば、それが本当に人体に害があると言えるかどうかの問題である。
それでも人体に害があることは事実なので、いくらコストがかかろうとも駆除すべきだ、という論理になるとコストとの兼ね合いを勘案しなければならないことになる。
メディアはそこまで掘り下げて報道することなく、「ダイオキシンは人体に害がある」という部分だけを取り出して報道するので、結果的に真実を言っていないということになるのである。
この本は、そういうことが炭酸ガスが地球温暖化に影響を及ぼしているという論議にも言えるし、外来種の駆除から、自然保護に至るまで、メディアの報ずる内容は極めて嘘に近い一方的な見解を言っているのだから「それを鵜呑みにするな」と警告を発しているのである。
だから環境問題も、メディアの報道の仕方の問題に帰結してくるので、そこで何時も言うようにメディアに携わる人の良心とか良識に責任が覆いかぶさってくるのである。
メディアの本質は、基本的にはオオカミ少年のように何時も大衆や民衆に対して警告を発する立場でいいが、日本のテレビ局、日本の新聞社、日本の出版界が、全部同じテーマを同じスタンスで報じるという部分に護送船団方式が見受けられるのである。
あるいは、ある一定のテーマを洪水のように一方的に報道して、異端の意見や、別の視点の論調というものを全然顧ないという点が極めて情緒的というか、付和雷同的に映るのである。
テレビのニュース画面を見ていて、首相や外国から来た要人の記者会見の情景を目にすると、記者が黒山のように取材対象に群がっている光景がみられるが、ああいう情景から勘案すれば、各社のニュースが全部金太郎飴のように皆同じになることはしごく当然なことである。
私は前々から思っているが、この狭い日本にはテレビ局も、新聞社も、雑誌社もあまりにも数が多すぎると思う。
資本主義社会の中の自由主義体制なのだから儲かりそうな事業ならば何社でも競争し合って、適者生存で自然の淘汰に任せればいいとはいうものの、お互いに淘汰されたくないので結果として相互に助け合って共存の道を探るわけで、要するに巧妙な談合に至るのである。
メディア各社は同業社同士でスクープ合戦をいくら演じようとも、視聴者はスクープというものをそう重視しているわけではない。
メディア各社がスクープ合戦を演じているからこそ、そのスクープの材料がない時には、同じ記事のオンパレードになるのかもしれない。
メディア各社が同じ記事、同じニュースを報ずると、視聴者の方はその問題が今世間ではもっとも重要な話題に違いない、と思い込むのも無理ない話だと思う。
メディアというのはテレビでも新聞でも大衆に送り届ける媒体には枠があるわけで、テレビならば時間という枠があり、新聞ならば紙面という枠があるわけで、その枠は特ダネがあろうとなかろうと、その枠だけは満たさなければならない。
テレビが「今日はニュースがないから5分に短縮」、新聞が「今日はニュースがないから裏表2面で済ます」というわけにはいかない。
ニュースがあろうとなかろうと、テレビでも新聞でも決められた枠だけは埋めねばならないわけで、その部分に世間に対してオピニオンらしきものを発信せざるを得ない。
以前、安全保障の本を読んだとき、21世紀になっても軍縮がはかどらないのは、軍需産業をつぶすわけにはいかないからだという論旨があったが、環境問題で大騒ぎする趣旨も、環境で飯を食う連中の雇用を確保し、そういう企業のリストラを回避し、引いてはそういう企業の利得を促すために大騒ぎを作り上げているのかも知れない。
焼却炉のメーカーが自社製品の販売促進のために、知識人に「ダイオキシンは身体に悪い」と、誇大に吹聴してもらい、あるいはそういう問題で騒いでもらうように金を渡しているのかもしれない。
炭酸ガスは地球温暖化の元凶だから削減せよ、ダイオキシンは体に悪いから排除せよ、こういう問題はいくら論理的にその不合理、非合理を説いても、一旦思い込んだ信念は覆されない。
そしてそれは正論であり、正義となってしまう。
我々が考えるべきことは、この世間一般にいわれている正義とか正論というものが本当に人間の生存にとって正しい道なのかどうかということを検証することだと思う。
ダイオキシンが身体に悪いというからには、それをゼロにしなければならないのかどうかということである。
環境問題、自然保護の問題、これは厳密にいえば人間の存在そのものが既にこの問題に抵触しているわけで、人々が農業を営む、人々が牧畜を営む、人々が工業を営む、そのこと自体がすでに地球の環境を汚染し、自然を破壊しているではないか。
自己の生存は、地球の環境を促進し、自然を再生していると思い込んで、他者の生存を否定するような論理に整合性があるわけないではないか。
人々が大地を耕し、自らの生存を維持するために麦、コメ、牧草を栽培すること自体、人為的な行為であり、そのこと自体が自然を傷つけ、植生の秩序を壊し、自然淘汰に異変を起こしているわけで、そういうことに目をつぶったままで他者を批判中傷する論理は知識の驕りだと思う。
今起きている災害は突き詰めると人為的な理由によるものが多いと思う。
地震などというものは人為的な要素の入り込む隙はないが、春先に日本に襲いかかる黄砂というのは明らかに人為的なもので、人間の営為の結果である。
炭酸ガスが地球温暖化を促進し、人間の営為が自然破壊を招いているというのは紛れもない事実であるが、ここでそれを止めるということは生きた人間に対して「死ね」というに等しいわけで、そこに思いを致さない知識人の存在が不可解千万である。
問題は、この世の知識人も要するに未開人・野蛮人と同じで、究極の自己愛から逃れられず、そのためには他者を踏みつけてでも自己の生存を優先させねばならないと言うことである。
自己が生き続けるための手法というのは様々あって、ある人は水田で稲を作り、ある人は牧場で牛を飼い、ある人は鞴を吹いて鉄を加工し、ある人は教鞭をとって子供を教え、ある人は嘘をさも真実かのように言いふらして回り、その合間に金を取って商品の宣伝をして生き続けている。
ところがこのオオカミ少年の存在というのは、まことに困ったことに善良な人々をあらぬ方向に洗脳してしまうことである。
なにしろ彼らは大きな耳と、大きな口を持っているいので、遠くの情報をいち早く知り、その情報を自分の好みに合わせて加工し、自分の好みの方向に人々を誘導する機会をうかがっているのである。
環境問題についても、彼らは情報としてその問題を捉えているので、学究的な要因は二の次三の次で、ただただ世間に対して警告を発したポーズさえ取れればそれでいいわけだ。
情報の中身など、オオカミ少年のあずかり知らぬことで、皆がそれに驚いてくれれば、彼らの存在意義はあるとみなしているのである。
無理もない話だと思う。
メディアに携わっている人たちは、それぞれに立派な大学を出ているわけで、そういう人がその後も内部で研鑚を積んで、学識経験を積めば、普通の社会で起きている現象などまさしく馬鹿らしく思えるのも当然だと思う。
何となれば、彼らは決して当事者になることはないわけで、どこまで行っても傍観者であり、第3者であり、観察者であって、自らは何一つタッチしていないとなれば、全ての事に口先だけの評価、評論、批判、非難が出来るわけである。
自分では言いたい放題したい放題のことをしているので、記者と乞食は三日やったら止められない、というのもあながち嘘ではなさそうだ。
メディアの本質がオオカミ少年だとすれば、ここで一般大衆の側が彼らに対する認識を改めなければならない。
未だにテレビに顔が映ることを喜び、新聞記事になることを喜んでいる人がいるが、こういう人は実に胡乱な人で、自分がメデイアに利用されていることに気が付いていない。
心ある人ならば、メデイアのインタビューなどにはかるがるしく出ないことだ。
テレビカメラの前では必要最小限の言葉しか発しないことだ。