例によって図書館から借りてきた本で「対話できない教師、叱れない親」という本を読んだ。
著者はカニングム久子という人で、名前からしてアメリカ人と結婚した元日本女性だろうと推察する。
長崎県出身ということだ。
本の前半は、アメリカに渡った日本人駐在員の奥様方の子育てに対するカウンセリングを通じて、躾としての教育論から問題を掘り下げている。
日本民族の教育を考えるに就いて、我々の次の世代に対する躾という意味の教育の在り方というのは、実に由々しき問題だと思う。
巷間の話題の中には、「モンスター・ペアレント」という言葉まであって、子供の教育を語る前に、その子の親の教育から問題視しなければならないところまで来ているようだ。
その根源は、言うまでもなく戦後の民主教育の所為であることは自明のことであるが、何故、戦後の日本教育がこうまで陳腐化したのかは、当然の事、日本を取り巻く諸外国の思惑が、日本の教育を骨抜きにしたということである。
日本が第2次世界大戦に嵌り込んで行った背景には、我々自身の貧乏からの脱却を願う余りの帝国主義があったことは否めない事実だと思う。
その我々自身の願望の実現に向けた我々の努力とその成果は、その当時の国際社会にとっては、まさしく驚天動地のことであって、日本を取り巻く周辺諸国にとっては目の上にタンコブ以上の鬱陶しい有り体であったに違いない。
明治維新を経た日本が、日清・日露の戦争に勝つということは、アングロサクソン系の西洋人からすれば、想定外の出来事であって、そんな力を内包したモンゴロイド、黄色人種、猿並みの思っていた野蛮人が、白人を打ち負かす、アメリカに対して互角に戦いを挑んでくるなどと言う事はあってはならないことであった。
その日本がアメリカに負けたとなれば、その負けている間に日本人の持つ本質的な牙、刺、大和魂、民族性、優秀な資質というものを全部骨抜きにしておかなければ、自分たちの存在が危ぶまれる、という判断になるのも当然のことである。
日本人を従来の日本のままにしておけば、また何時仕返しをされるか判らないので、徹底的に民族としての骨抜きをしておかなければ枕を高くして眠れない、という心境に至ったものと想像する。
で、敗戦後の日本を統治する権限を委譲された、アメリカ極東軍司令部、いわゆるGHQのマッカアサーは、敗戦後の日本に5大改革を押し付けたわけで、その中には当然のこと教育の改革も含まれていた。
戦前の日本の教育は、天皇制を賛美する傾向がことの他強かったので、外国人の視点で当時の日本人を見ると、それが日本民族の強さの根源だと勘違いした部分が多々ある。
だから、日本を負かしたアメリカのGHQ及び元連合軍としては、何としても日本という民族を骨抜き、腰ぬけの軟弱な民にしておかねばならなかったのである。
一度は戦争で負かした日本が、しばらくして再起し、従来の白人支配の世界を再び同じような戦争の渦中に引き込むような事をさせてはならない、その為には徹底的に日本人、日本民族から、民族の魂、大和魂、肝っ玉を抜き取って、軟弱で、ひ弱な衆愚、卑屈で、日和見で、利に聡い、自尊心を欠いた虫けら同様の民のままにしておかねばならない、と考えたわけである。
このアメリカの方針は、旧ソビエット連邦も、新生中華人民共和国としての共産主義者の陣営にとってもまことに利に叶った思考であったわけで、その指針が戦後の教育改革の中で、民主化と称されて日本全国で展開されたわけである。
戦後、日本が敗北した直後、日本に進駐してきたマッカアサーは、当然のこと教育改革を指令して、教育の民主化を推し進めたが、その中で教員に組合の結成を許した。
そもそも主権国家の教育の指針というのは、国家の所管事項なのではなかろうか。
主権国家の主権者は、国民の教育に深く関わって、「自分たちの子弟には、こういう教育を施して将来こういう国民に仕立て上げる」という指針を示すことは、統治者としての専管事項なのではなかろうか。
ところがアメリカという国は我々とは国の成り立ちが違っているわけで、州によってかなり大きな自治権を認められているので、「自分たちの子弟の教育は、自分たちで考えるから国家は関与するな」というものである。
だから州の教育委員会が学校に関与しているが、我々の国はアメリカの一州にも満たないほどの矮小な国土で、アメリカの制度をそのまま日本に転化し得ないのは当然である。
だが、戦後の日本の教育界は、アメリカの制度をそのまま真似たので、国家の関与が希薄になった分、先生、組合員、いわゆる共産主義者の跋扈が甚だしくなった。
共産主義者の本質的な使命は、日本民族の内部からの弱体化であったわけで、内部から民族の魂を食い散らして形骸化した上で、革命を成功させようという狙いがあった事は言うまでもないが、それに戦後の日本の国立大学の先生が深く関わっていたことを忘れてはならない。
これはアメリカの占領政策としての日本民族の弱体化の方針と、その意図と利害得失が完全に一致していたわけで、この時に教育界に入り込んで共産主義者の教育が、今日の日本の混迷を形作っているのである。
日本が戦争に負けた時、昭和20年8月に、兵役が解除になって元の職場としての学校や、新たに学校の先生として赴任した人はかなりいたと考えられる。
そういう人は、自らの過酷な体験や、みじめな境遇を経ることによって、共産主義に共鳴した人もかなりいると思う。
そういう人は、主義主張を越えて純情で、心が清らかな人達ばかりだと思うが、だからこそ、この世の矛盾が我慢ならずに、理想の世界を追い求めていたに違いない。
こういう純情で心の清らかな人が、その理想を追い求めれば追い求めるほど、現実の乖離は深くなるわけで、それは戦前の若者が富国強兵が実現すれば豊かになれると思い違いしたのと同じように、平等社会が実現できれば人々は心豊かに生きれると思い違いしているのである。
戦前の軍国主義が否定されて、天皇陛下の為の政治が、国民の為の政治として主権在民という言葉で詠われるようになったが、国民が国民の為に政治をするのであれば、自分の祖国の国旗や国歌を心から畏敬の念を持って敬ってもバチは当たらないと思う。
民主国家で、主権在民なのだから、国民のどんな我儘も許されるというのは、論理的に整合性が成り立っていないわけで、「祖国の国旗や国歌を敬うのが嫌ならば、日本国籍を捨てて他国の国籍を得なさい」という事になる。
日本国籍を持ったままで、日本の国旗と国歌を蔑にする態度は、日本の国内では許される行為ではない。
戦後の日教組のいう「民主教育」という言葉の弊害は、人権という概念であって、人権という言葉を水戸黄門様の印ろうのように免罪符として遣う点である。
そもそも、子供に人権をあると認識して、子供も大人も同じ人権という言葉で一括りするので、論議がかみ合わないのである。
大人の格好をしていれば、すべて均一の人権があるかという話も大いに疑問があるわけで、この人権という言葉がまさしく免罪符としてあらゆる場面で権威を振りかざしているので、物事がおかしくなるのである。
つまり、生まれたばかりに赤ん坊でも、成人と同じ人権という言葉で一括りしようとするので、大きな齟齬が生じるのである。
特に、幼児期の躾の場面で、生まれたばかりの赤ん坊を一人の人格者として捉えるので、ついつい甘やかすことになり、結果として躾に失敗するという事になる。
母親の子を愛する無償の愛の対象としての赤ん坊と、その赤ん坊が後に大人の期待に応えてくれる立派で晴れがましい人間としての大人と同一視することは間違っている。
赤ん坊から大人になるまでの間に、社会人としての立ち居振る舞いを備えること、つまり躾が完備出来た人間のみに人権が備わるわけで、人間の形をしたもの全てに人権があるわけではない。
若い母親が、赤ん坊の意思を尊重すると称して、幼児期の躾をスポイルしたら、その赤ん坊は野放図な大人になり、社会的に自立できずに世間の厄介者になってしまう。
戦後、日本の教育界に君臨してきた日教組という共産主義者の集団は、彼らの基本的立ち位置が、日本民族を骨抜きにして、日本に共産革命を起こすことを最終目標としていたが故に、日本の次の世代を担う若者の教育を根本的に破壊する点にあったわけで、その目的はかなり部分成功している。
戦後66年を経過した日本は、まさしくアメリカの狙い通り、共産主義者の狙い通り、彼らの政策は見事に功を奏しつつある。
今の小学校の学級崩壊も、それらの子の親の世代の教育の結果であったわけで、そういう親を教えたのが戦後の第一世代の今の若者のおじいさんおばあさんの世代である。
今の80代の世代は、終戦の状況を身を以て体験しているので、この世代は戦後の民主化教育を何の抵抗もなく受け入れざるを得なかった。
この世代の子供の世代は、戦後復興の高度経済成長の中で、自分の子供の教育などに関わっておれなかったので、母親と学校に任せっ切りであった。
この世代の子供が、今の小学生であり中学生であるわけで、ここまで来るともう日本人ではなくて、異星人という感覚でしかない。
この本の後半ではアメリカでの実態も述べられているが、アメリカの高校生の婚外妊娠、出産、シングルマザーとうとうという言葉は一体どうなっているのであろう。
アメリカでの大人という定義は、恐らく州によって違っているであろうが、少なくと高校生が妊娠して子を産むという現象は、私の想像を越えた行為である。
これがアフリカのマサイ族だとかアマゾンの奥地の現住民というのならば納得できるが、アメリカという文明国の中で、高校生が子を産むなどという事は考えられない。
高校生が赤ん坊を連れて登校するなどという事は想像もつかない。
ならば、その赤ん坊を産んだ高校生は学校に何しに来ているのだろう。
そういう生徒に行政は教育を施さねばならないのだろうか。
父親は一体何処の誰なのだろうか。
高校生が学校に赤ん坊を連れて登校し、授乳の時間まで用意されているとなると、果たして高校生としての教育が成り立っているのであろう。
この現実を見せつけられると、改めて「教育とは何ぞや」という原点に立ち返らなくてはならない。
この問題と同時に、高校生の銃による殺傷事件のことも述べられているが、こういう現実を踏まえて、教育とは一体何なのであろう。
近代化した民主主義の世界では、何処の国でも、どの民族でも、基本的には高学歴志向である。
小学校よりも中学校、中学校よりも高等学校、高等学校よりも大学という風に、普通の人々は高学歴に惹かれる。これは一体何故なのであろう。
世の中には勉強の好きな子がいるのと同じように、嫌いな子も同じようにいると思うが、世間一般では勉強の好き子は話題に上がるが、勉強の嫌いな子は決して話題にもされない。
世の中で功なり名をなした人は、その大部分が勉強の好きな部類の人であったことは間違いないが、社会全般という大きな枠組みで捉えた時、決して「駕籠に乗る」人達だけで成り立っているわけではなく、学校の勉強など大嫌いだが「駕籠を担いだり、草鞋を編むことの好きな」人達の存在があって始めて社会そのものが成り立っていると思う。
人間に執って、教養・知性というのは無いよりは在った方が断然有利であるが、学校という施設は勉強の好きなものにだけ開かれるべきだと思う。
学校というのは、公立であろうと私立であろうと、ただで生徒に奉仕する機関ではないわけで、生徒にあることを教えるという行為には金が掛かっているので、赤ん坊を抱えて登校するような生徒に、それを享受する資格が備わっているであろうか。
正式に結婚して、たまたま「年が若い」という理由ならばまだ納得の余地があるが、未婚で、父親も判らないでは野良犬や野良猫と同じなわけで、これが果たして人権というにふさわしい有り体であろうか。
この本にも述べられているが、そういう人間は、その親も同じような過程を経ているので、代々父親も判らない子を産んでは、生活保護を受給する生き方しかなく、トータルとして社会の重荷になっている。
18歳の女子高生が赤ん坊を産む、当然、その高校生には生活能力がないので、親にパラサイトしなければならないが、その親も生活保護を受けているでは、社会に対してなんらプラス効果を果たしていないわけで、そんな社会は当然のこと生き残れずに衰退に向かうと思う。
この地球上に生まれた人は、普遍的な思考として高学歴を望むが、学歴を得て、それを生かして名を成し功を上げた人は教育の効果があったと言える。
ところが、意味もなく学校に行くでは、行政の教育投資が無駄になっていると思う。
飲み屋のオーナーや、喫茶店の店主や、コンビニの店長や、スターバックスの店長に大学教育など本当は必要ないと思う。
にもかかわらず、日本でも、アメリカでも、その他の先進国でも、大学教育というのは今では義務教育の観がする程普遍化してしまって、進学しなければならない、進学すべきだ、もっともっと充実すべきだ、という論調であるが、この風潮の中には勉強の嫌いな人間のことは何一つ加味されていない。
ただ人間は成長の過程では考え方が大きく変わるのが普通で、若い時は若気の至りで「勉強など嫌いだ」と思っていたが、社会生活を重ねるにしたがって好奇心が刺激され、自分の身の回りのことをより深く知りたいという欲求に突き動かされることも往々にしてある。
そういう時に、そういう人にも門戸を開いておくことは当然であろうと考える。
高等教育というものが、本人の確たる意思で門をこじ開ける人に開かれているのならば、大いに納得であるが、進学する人が周囲の雰囲気に吊られて、あいつが行くから俺も行く、出ておけば就職に有利だ、という発想で門を叩くのであれば、大いに疑問を覚える。
世間の学歴尊重の基底には、「大学を出た人間ならば社員として使えるに違いない」という待望論があると思うが、そもそも企業が大学出に期待を掛けることからして、機会均等を犯していると思う。
最近は差別の問題から転化して、応募要項に学歴を記す欄を無くしたという企業も出てきたらしいが、出来る人間というのは、本来学歴とは関係のない話だと思う。
如何なる国でも、学校という施設に対する期待は、自分の国に貢献する若人に学識経験を付与する使命を背負っていると思う。
自分の国に貢献する若者を仕立て上げるべき施設であって、そのことを通じて自分の祖国も立派になり、それに伴って一人一人の国民も豊かになることが期待される施設だと思う。
学校で得た学識経験で以て個人が先に豊かになって、個人が豊かになることによって祖国が豊かになるという構図も大いにありうると思う。
なので、身体の立派な若者を、ただ単に遊ばせておく施設ではない筈であるが、先進国の学校教育、特に高等教育機関は何処でも大人の遊園地化しつつあるようだ。
高校生が赤ん坊を作って、その親子が社会的に大いなる貢献をして、社会の為にな何か立派な仕事をして、納税する立場を維持できればいいが、恐らくそういうことは期待できないのではないかと思う。
避妊の仕方を知らないままセックスをするような若者が、その後、社会の役に立つ立ち居振る舞いが出来るわけがないではないか。
そういう連中に何故に行政は教育を授け、生活保護を与えなければならないのかと問いたい。
ただ日本でもアメリカでも、教育に関しては非常に視点が甘く、本質的に勉強が嫌いな子供にまで何とかして授業を受けさせようとするが、それは勉強の嫌いな子供にとっては拷問にも等しい行為だという事に気が付いていない。
人間の生き方、人の社会というのは「駕籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」で成り立っているわけで、高学歴を目指すという事は「駕籠に乗る人」に成りたいからそれを目指すわけで、自分で駕籠を担いだり、その草鞋を作ることが好きな人にとっては、学歴など最初から不要なのである。
だから学校というのは本来勉強の好きな人だけが行けばいい所であるべきで、金が無かったり、勉強が嫌いだったり、先生が気に入らなければ、行く必要はさらさらないと思う。
にも関わらず、世間の人は、何が何でも良い学歴が欲しいと願っているのである。
ただ「勉強がしたい」という人には大きく門戸を開いておくべきだと思う。
そういう意味では年齢制限など最初から設けず、「来るものは拒まず、去るものは追わず」の精神でなければならないと思う。
大学というような高等教育の場も、本来ならば万人に解放されるべきで、先生方の独壇場にしてはならないと思う。
日本民族の倫理観の低下と、アメリカの婚外妊娠の蔓延などのケースを見ると、もう世も末という感じがする。
著者はカニングム久子という人で、名前からしてアメリカ人と結婚した元日本女性だろうと推察する。
長崎県出身ということだ。
本の前半は、アメリカに渡った日本人駐在員の奥様方の子育てに対するカウンセリングを通じて、躾としての教育論から問題を掘り下げている。
日本民族の教育を考えるに就いて、我々の次の世代に対する躾という意味の教育の在り方というのは、実に由々しき問題だと思う。
巷間の話題の中には、「モンスター・ペアレント」という言葉まであって、子供の教育を語る前に、その子の親の教育から問題視しなければならないところまで来ているようだ。
その根源は、言うまでもなく戦後の民主教育の所為であることは自明のことであるが、何故、戦後の日本教育がこうまで陳腐化したのかは、当然の事、日本を取り巻く諸外国の思惑が、日本の教育を骨抜きにしたということである。
日本が第2次世界大戦に嵌り込んで行った背景には、我々自身の貧乏からの脱却を願う余りの帝国主義があったことは否めない事実だと思う。
その我々自身の願望の実現に向けた我々の努力とその成果は、その当時の国際社会にとっては、まさしく驚天動地のことであって、日本を取り巻く周辺諸国にとっては目の上にタンコブ以上の鬱陶しい有り体であったに違いない。
明治維新を経た日本が、日清・日露の戦争に勝つということは、アングロサクソン系の西洋人からすれば、想定外の出来事であって、そんな力を内包したモンゴロイド、黄色人種、猿並みの思っていた野蛮人が、白人を打ち負かす、アメリカに対して互角に戦いを挑んでくるなどと言う事はあってはならないことであった。
その日本がアメリカに負けたとなれば、その負けている間に日本人の持つ本質的な牙、刺、大和魂、民族性、優秀な資質というものを全部骨抜きにしておかなければ、自分たちの存在が危ぶまれる、という判断になるのも当然のことである。
日本人を従来の日本のままにしておけば、また何時仕返しをされるか判らないので、徹底的に民族としての骨抜きをしておかなければ枕を高くして眠れない、という心境に至ったものと想像する。
で、敗戦後の日本を統治する権限を委譲された、アメリカ極東軍司令部、いわゆるGHQのマッカアサーは、敗戦後の日本に5大改革を押し付けたわけで、その中には当然のこと教育の改革も含まれていた。
戦前の日本の教育は、天皇制を賛美する傾向がことの他強かったので、外国人の視点で当時の日本人を見ると、それが日本民族の強さの根源だと勘違いした部分が多々ある。
だから、日本を負かしたアメリカのGHQ及び元連合軍としては、何としても日本という民族を骨抜き、腰ぬけの軟弱な民にしておかねばならなかったのである。
一度は戦争で負かした日本が、しばらくして再起し、従来の白人支配の世界を再び同じような戦争の渦中に引き込むような事をさせてはならない、その為には徹底的に日本人、日本民族から、民族の魂、大和魂、肝っ玉を抜き取って、軟弱で、ひ弱な衆愚、卑屈で、日和見で、利に聡い、自尊心を欠いた虫けら同様の民のままにしておかねばならない、と考えたわけである。
このアメリカの方針は、旧ソビエット連邦も、新生中華人民共和国としての共産主義者の陣営にとってもまことに利に叶った思考であったわけで、その指針が戦後の教育改革の中で、民主化と称されて日本全国で展開されたわけである。
戦後、日本が敗北した直後、日本に進駐してきたマッカアサーは、当然のこと教育改革を指令して、教育の民主化を推し進めたが、その中で教員に組合の結成を許した。
そもそも主権国家の教育の指針というのは、国家の所管事項なのではなかろうか。
主権国家の主権者は、国民の教育に深く関わって、「自分たちの子弟には、こういう教育を施して将来こういう国民に仕立て上げる」という指針を示すことは、統治者としての専管事項なのではなかろうか。
ところがアメリカという国は我々とは国の成り立ちが違っているわけで、州によってかなり大きな自治権を認められているので、「自分たちの子弟の教育は、自分たちで考えるから国家は関与するな」というものである。
だから州の教育委員会が学校に関与しているが、我々の国はアメリカの一州にも満たないほどの矮小な国土で、アメリカの制度をそのまま日本に転化し得ないのは当然である。
だが、戦後の日本の教育界は、アメリカの制度をそのまま真似たので、国家の関与が希薄になった分、先生、組合員、いわゆる共産主義者の跋扈が甚だしくなった。
共産主義者の本質的な使命は、日本民族の内部からの弱体化であったわけで、内部から民族の魂を食い散らして形骸化した上で、革命を成功させようという狙いがあった事は言うまでもないが、それに戦後の日本の国立大学の先生が深く関わっていたことを忘れてはならない。
これはアメリカの占領政策としての日本民族の弱体化の方針と、その意図と利害得失が完全に一致していたわけで、この時に教育界に入り込んで共産主義者の教育が、今日の日本の混迷を形作っているのである。
日本が戦争に負けた時、昭和20年8月に、兵役が解除になって元の職場としての学校や、新たに学校の先生として赴任した人はかなりいたと考えられる。
そういう人は、自らの過酷な体験や、みじめな境遇を経ることによって、共産主義に共鳴した人もかなりいると思う。
そういう人は、主義主張を越えて純情で、心が清らかな人達ばかりだと思うが、だからこそ、この世の矛盾が我慢ならずに、理想の世界を追い求めていたに違いない。
こういう純情で心の清らかな人が、その理想を追い求めれば追い求めるほど、現実の乖離は深くなるわけで、それは戦前の若者が富国強兵が実現すれば豊かになれると思い違いしたのと同じように、平等社会が実現できれば人々は心豊かに生きれると思い違いしているのである。
戦前の軍国主義が否定されて、天皇陛下の為の政治が、国民の為の政治として主権在民という言葉で詠われるようになったが、国民が国民の為に政治をするのであれば、自分の祖国の国旗や国歌を心から畏敬の念を持って敬ってもバチは当たらないと思う。
民主国家で、主権在民なのだから、国民のどんな我儘も許されるというのは、論理的に整合性が成り立っていないわけで、「祖国の国旗や国歌を敬うのが嫌ならば、日本国籍を捨てて他国の国籍を得なさい」という事になる。
日本国籍を持ったままで、日本の国旗と国歌を蔑にする態度は、日本の国内では許される行為ではない。
戦後の日教組のいう「民主教育」という言葉の弊害は、人権という概念であって、人権という言葉を水戸黄門様の印ろうのように免罪符として遣う点である。
そもそも、子供に人権をあると認識して、子供も大人も同じ人権という言葉で一括りするので、論議がかみ合わないのである。
大人の格好をしていれば、すべて均一の人権があるかという話も大いに疑問があるわけで、この人権という言葉がまさしく免罪符としてあらゆる場面で権威を振りかざしているので、物事がおかしくなるのである。
つまり、生まれたばかりに赤ん坊でも、成人と同じ人権という言葉で一括りしようとするので、大きな齟齬が生じるのである。
特に、幼児期の躾の場面で、生まれたばかりの赤ん坊を一人の人格者として捉えるので、ついつい甘やかすことになり、結果として躾に失敗するという事になる。
母親の子を愛する無償の愛の対象としての赤ん坊と、その赤ん坊が後に大人の期待に応えてくれる立派で晴れがましい人間としての大人と同一視することは間違っている。
赤ん坊から大人になるまでの間に、社会人としての立ち居振る舞いを備えること、つまり躾が完備出来た人間のみに人権が備わるわけで、人間の形をしたもの全てに人権があるわけではない。
若い母親が、赤ん坊の意思を尊重すると称して、幼児期の躾をスポイルしたら、その赤ん坊は野放図な大人になり、社会的に自立できずに世間の厄介者になってしまう。
戦後、日本の教育界に君臨してきた日教組という共産主義者の集団は、彼らの基本的立ち位置が、日本民族を骨抜きにして、日本に共産革命を起こすことを最終目標としていたが故に、日本の次の世代を担う若者の教育を根本的に破壊する点にあったわけで、その目的はかなり部分成功している。
戦後66年を経過した日本は、まさしくアメリカの狙い通り、共産主義者の狙い通り、彼らの政策は見事に功を奏しつつある。
今の小学校の学級崩壊も、それらの子の親の世代の教育の結果であったわけで、そういう親を教えたのが戦後の第一世代の今の若者のおじいさんおばあさんの世代である。
今の80代の世代は、終戦の状況を身を以て体験しているので、この世代は戦後の民主化教育を何の抵抗もなく受け入れざるを得なかった。
この世代の子供の世代は、戦後復興の高度経済成長の中で、自分の子供の教育などに関わっておれなかったので、母親と学校に任せっ切りであった。
この世代の子供が、今の小学生であり中学生であるわけで、ここまで来るともう日本人ではなくて、異星人という感覚でしかない。
この本の後半ではアメリカでの実態も述べられているが、アメリカの高校生の婚外妊娠、出産、シングルマザーとうとうという言葉は一体どうなっているのであろう。
アメリカでの大人という定義は、恐らく州によって違っているであろうが、少なくと高校生が妊娠して子を産むという現象は、私の想像を越えた行為である。
これがアフリカのマサイ族だとかアマゾンの奥地の現住民というのならば納得できるが、アメリカという文明国の中で、高校生が子を産むなどという事は考えられない。
高校生が赤ん坊を連れて登校するなどという事は想像もつかない。
ならば、その赤ん坊を産んだ高校生は学校に何しに来ているのだろう。
そういう生徒に行政は教育を施さねばならないのだろうか。
父親は一体何処の誰なのだろうか。
高校生が学校に赤ん坊を連れて登校し、授乳の時間まで用意されているとなると、果たして高校生としての教育が成り立っているのであろう。
この現実を見せつけられると、改めて「教育とは何ぞや」という原点に立ち返らなくてはならない。
この問題と同時に、高校生の銃による殺傷事件のことも述べられているが、こういう現実を踏まえて、教育とは一体何なのであろう。
近代化した民主主義の世界では、何処の国でも、どの民族でも、基本的には高学歴志向である。
小学校よりも中学校、中学校よりも高等学校、高等学校よりも大学という風に、普通の人々は高学歴に惹かれる。これは一体何故なのであろう。
世の中には勉強の好きな子がいるのと同じように、嫌いな子も同じようにいると思うが、世間一般では勉強の好き子は話題に上がるが、勉強の嫌いな子は決して話題にもされない。
世の中で功なり名をなした人は、その大部分が勉強の好きな部類の人であったことは間違いないが、社会全般という大きな枠組みで捉えた時、決して「駕籠に乗る」人達だけで成り立っているわけではなく、学校の勉強など大嫌いだが「駕籠を担いだり、草鞋を編むことの好きな」人達の存在があって始めて社会そのものが成り立っていると思う。
人間に執って、教養・知性というのは無いよりは在った方が断然有利であるが、学校という施設は勉強の好きなものにだけ開かれるべきだと思う。
学校というのは、公立であろうと私立であろうと、ただで生徒に奉仕する機関ではないわけで、生徒にあることを教えるという行為には金が掛かっているので、赤ん坊を抱えて登校するような生徒に、それを享受する資格が備わっているであろうか。
正式に結婚して、たまたま「年が若い」という理由ならばまだ納得の余地があるが、未婚で、父親も判らないでは野良犬や野良猫と同じなわけで、これが果たして人権というにふさわしい有り体であろうか。
この本にも述べられているが、そういう人間は、その親も同じような過程を経ているので、代々父親も判らない子を産んでは、生活保護を受給する生き方しかなく、トータルとして社会の重荷になっている。
18歳の女子高生が赤ん坊を産む、当然、その高校生には生活能力がないので、親にパラサイトしなければならないが、その親も生活保護を受けているでは、社会に対してなんらプラス効果を果たしていないわけで、そんな社会は当然のこと生き残れずに衰退に向かうと思う。
この地球上に生まれた人は、普遍的な思考として高学歴を望むが、学歴を得て、それを生かして名を成し功を上げた人は教育の効果があったと言える。
ところが、意味もなく学校に行くでは、行政の教育投資が無駄になっていると思う。
飲み屋のオーナーや、喫茶店の店主や、コンビニの店長や、スターバックスの店長に大学教育など本当は必要ないと思う。
にもかかわらず、日本でも、アメリカでも、その他の先進国でも、大学教育というのは今では義務教育の観がする程普遍化してしまって、進学しなければならない、進学すべきだ、もっともっと充実すべきだ、という論調であるが、この風潮の中には勉強の嫌いな人間のことは何一つ加味されていない。
ただ人間は成長の過程では考え方が大きく変わるのが普通で、若い時は若気の至りで「勉強など嫌いだ」と思っていたが、社会生活を重ねるにしたがって好奇心が刺激され、自分の身の回りのことをより深く知りたいという欲求に突き動かされることも往々にしてある。
そういう時に、そういう人にも門戸を開いておくことは当然であろうと考える。
高等教育というものが、本人の確たる意思で門をこじ開ける人に開かれているのならば、大いに納得であるが、進学する人が周囲の雰囲気に吊られて、あいつが行くから俺も行く、出ておけば就職に有利だ、という発想で門を叩くのであれば、大いに疑問を覚える。
世間の学歴尊重の基底には、「大学を出た人間ならば社員として使えるに違いない」という待望論があると思うが、そもそも企業が大学出に期待を掛けることからして、機会均等を犯していると思う。
最近は差別の問題から転化して、応募要項に学歴を記す欄を無くしたという企業も出てきたらしいが、出来る人間というのは、本来学歴とは関係のない話だと思う。
如何なる国でも、学校という施設に対する期待は、自分の国に貢献する若人に学識経験を付与する使命を背負っていると思う。
自分の国に貢献する若者を仕立て上げるべき施設であって、そのことを通じて自分の祖国も立派になり、それに伴って一人一人の国民も豊かになることが期待される施設だと思う。
学校で得た学識経験で以て個人が先に豊かになって、個人が豊かになることによって祖国が豊かになるという構図も大いにありうると思う。
なので、身体の立派な若者を、ただ単に遊ばせておく施設ではない筈であるが、先進国の学校教育、特に高等教育機関は何処でも大人の遊園地化しつつあるようだ。
高校生が赤ん坊を作って、その親子が社会的に大いなる貢献をして、社会の為にな何か立派な仕事をして、納税する立場を維持できればいいが、恐らくそういうことは期待できないのではないかと思う。
避妊の仕方を知らないままセックスをするような若者が、その後、社会の役に立つ立ち居振る舞いが出来るわけがないではないか。
そういう連中に何故に行政は教育を授け、生活保護を与えなければならないのかと問いたい。
ただ日本でもアメリカでも、教育に関しては非常に視点が甘く、本質的に勉強が嫌いな子供にまで何とかして授業を受けさせようとするが、それは勉強の嫌いな子供にとっては拷問にも等しい行為だという事に気が付いていない。
人間の生き方、人の社会というのは「駕籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」で成り立っているわけで、高学歴を目指すという事は「駕籠に乗る人」に成りたいからそれを目指すわけで、自分で駕籠を担いだり、その草鞋を作ることが好きな人にとっては、学歴など最初から不要なのである。
だから学校というのは本来勉強の好きな人だけが行けばいい所であるべきで、金が無かったり、勉強が嫌いだったり、先生が気に入らなければ、行く必要はさらさらないと思う。
にも関わらず、世間の人は、何が何でも良い学歴が欲しいと願っているのである。
ただ「勉強がしたい」という人には大きく門戸を開いておくべきだと思う。
そういう意味では年齢制限など最初から設けず、「来るものは拒まず、去るものは追わず」の精神でなければならないと思う。
大学というような高等教育の場も、本来ならば万人に解放されるべきで、先生方の独壇場にしてはならないと思う。
日本民族の倫理観の低下と、アメリカの婚外妊娠の蔓延などのケースを見ると、もう世も末という感じがする。