例によって図書館から借りてきた本で「通信技師の歩いた近代」という本を読んだ。
ズバリ、他人が書いた自分史である。
本人の覚え書をもとに他人がそのヒューマン・ヒストリーを記したものである。
1860年に土佐で生まれた山崎養麿氏の一生を描いているが、彼の誕生が明治維新の前のことでもあり、その後の明治という近代国家日本の胎動の苦悩の中で、時流に翻弄された名もない一市井の生涯を書き綴ったものである。
それは明治維新という大革命の中で、旧体制から放り出された人々が如何に新政府に順応していったかという軌跡でもある。
日本の近代といわれるこの時代に、明治新政府発足の前から没年の昭和6年まで、官吏として生きた一人の人間の姿を垣間見ることが出来る。
それから憶測すると、この時代の官吏には結構リストラという大鉈が振るわれているように見受けられる。
技術革新はあらゆるものに日進月歩の勢いで進んでいるわけで、その技術革新で現状に合わなくなった人間は、意図も簡単にリストラされているようだ。
この主人公が習得した通信技術は、あくまでも電信技術であったわけで、それが電話というものが普及してくるとあっさりリストラされている。
これは今流の言い方で言えば、当時は官僚機能が正常に機能していたということだと思う。昨今の国家公務員、いわゆる官僚たちは、こういう場面でも天下りと称して保身を図るのが当たり前となっているが、この当時は用のないもの、いわゆる時代の要請に合わないものは、さっさとその場でリストラして経費節減を図っている。
これは資本主義体制であれば当然のことで、官民を問わず、不要のものをただただ可愛そうだからというだけで、国民の税金で徒食させること回避しているということだと思う。黎明期の日本のサラリーマン社会は、こういうリスクを背負っていたわけで、この現実こそ、真の資本主義社会であろうと思う。
業務に不要な人間を路頭に迷わすのは忍びない、という温情主義はある意味では心温まる措置かもしれないが、それでは苦しい中から納税した納税者としては納得できないのも無理はない。
一度公僕として録を食んでも、その時代時代の希求に順応できるように自己研鑽を積んでいれば、リストラということはなかろうか、古い技術にいつまでも固執していては、当然の帰結であろうと思う。
ところが昨今の官僚の有り体は、官僚自らが次に自分の入る住処を作っておいて、そこに天下るわけで、これは国民の納めた税金をただただ蚕食している図でしかない。
官吏としての仕事、ないしは業務が、国民のためではなく、自分達と同じ官僚のために機能しているわけで、国民は蚊帳の外というわけである。
この本を読んでいて少々気になることは、著者は1958年昭和33年生まれ、押しも押されもせぬ戦後世代であるが、こういう人に掛かると、過去の日本の発展というものが、アジアの人々の犠牲の上に成り立っている、という思考に陥っている。
台湾統治、朝鮮支配というものが、日本の侵した悪行という感覚で語られている。
戦争をするということは、ただただ単純な人殺しにすぎず、いかなる理由があろうとも、避けるべき悪行という認識である。
台湾総督府が誰々のときは統治が悪かったとか良かったという評価はありえるが、それと侵略したとか、抑圧したとか、蔑視したという言い方は、同じ国民の末裔として、身内の側からは言うべきことではないと思う。
明治維新というのは大革命であったわけで、我々の仲間内、つまり同胞同士でも攘夷だとか左幕だとか言いながら殺し合ったし、先方は先方で、やはり我々と同じように同胞同士で殺し合いをしていたわけで、この当時はそれが世界の常態であった。
それを鑑みることなく、絵に描いたような奇麗事の平和思考を唱えても無意味なわけで、いわゆる自虐史観が何の抵抗もなくごく普通の認識として行間に感じられる。
それをことさら強調して述べた部分はないが、行間の言葉の端々にそれが伺える。
つまり、そのことはこの世代の共通認識となっているのではないかということである。
問題は、こういう極めつけの平和思考で戦争ということを考えると、またまた我われは過誤に陥る可能性を生むということである。
先の大戦中は、日本国民の誰一人日本が負けるなどということは信じていなかった。
けれども蓋を開ければ日本は負けたわけで、それを我々は「軍部に騙されていた」といって責任を軍部に負い被せているが、極めつけの平和主義というのも、戦争の本質を知ろうともせず、上辺の奇麗事に惑わされていると、これと同じパターンを踏襲する危険があるということだ。
この本の主目的は、一人の通信技師の生涯を描くことなので、社会的な動きというのは副次的な要因でしかないが、社会の流れ、つまりその国の歴史というのは、正邪、善悪、良し悪しという価値観で測りきれないはずである。
官吏があっさりリストラにあうということは、正邪、善悪、良し悪しという価値観で測りきれないわけで、それは突き詰めれば国家の要請ということになる。
ところが昨今では国家にそういう要請があったとしても、公務員の側が、その要請を認めず、私利私欲を優先させ、自己の保身のために国家の要請そのものを歪曲してしまう。
行政改革がなかなか進まないということは、国家の要請に対して公務員、いわゆる官僚が抵抗しているからで、いまどき公務員をリストラするなどということはありえないのではないかと思う。
そのことは同時に国税の浪費にモロにつながってくるが、国税をいくら浪費しようとも、国家公務員は意に介することなく、首切りはまかりならぬということだ。
この時代は富国強兵や殖産興業が国是であったわけで、そのためにも国税の節約、有効利用ということ最優先課題だったことは否めない。
そのために、官僚が簡単に非官になってしまうということは、当人にとっては極めて遺憾な、ひどい仕打ちであったろうけれど、国全体から見れば、健全な雇用関係ないしは国税の使い方をしていたということだ。
こういうことのないように労働3法というものができたのだろうけれど、普通の社会の雇用関係というのは、これが正常な有り体だと思う。
それでは使われる側の労働者が可愛そうだ、という論議が当然出てくるが、可愛そうだからという人情論や感情論で、国税を湯水のように使うということも許されることではない。
使用者側の意に沿わない、使い道のない人間をいつまでも雇用しつづけた場合、その出費は誰がどう負担するのか、という問いにどう答えるかということだ。
昨今の官僚は、自分の食んでいる録が、国民の納めた税金などと思っていないのではなかろうか。
ズバリ、他人が書いた自分史である。
本人の覚え書をもとに他人がそのヒューマン・ヒストリーを記したものである。
1860年に土佐で生まれた山崎養麿氏の一生を描いているが、彼の誕生が明治維新の前のことでもあり、その後の明治という近代国家日本の胎動の苦悩の中で、時流に翻弄された名もない一市井の生涯を書き綴ったものである。
それは明治維新という大革命の中で、旧体制から放り出された人々が如何に新政府に順応していったかという軌跡でもある。
日本の近代といわれるこの時代に、明治新政府発足の前から没年の昭和6年まで、官吏として生きた一人の人間の姿を垣間見ることが出来る。
それから憶測すると、この時代の官吏には結構リストラという大鉈が振るわれているように見受けられる。
技術革新はあらゆるものに日進月歩の勢いで進んでいるわけで、その技術革新で現状に合わなくなった人間は、意図も簡単にリストラされているようだ。
この主人公が習得した通信技術は、あくまでも電信技術であったわけで、それが電話というものが普及してくるとあっさりリストラされている。
これは今流の言い方で言えば、当時は官僚機能が正常に機能していたということだと思う。昨今の国家公務員、いわゆる官僚たちは、こういう場面でも天下りと称して保身を図るのが当たり前となっているが、この当時は用のないもの、いわゆる時代の要請に合わないものは、さっさとその場でリストラして経費節減を図っている。
これは資本主義体制であれば当然のことで、官民を問わず、不要のものをただただ可愛そうだからというだけで、国民の税金で徒食させること回避しているということだと思う。黎明期の日本のサラリーマン社会は、こういうリスクを背負っていたわけで、この現実こそ、真の資本主義社会であろうと思う。
業務に不要な人間を路頭に迷わすのは忍びない、という温情主義はある意味では心温まる措置かもしれないが、それでは苦しい中から納税した納税者としては納得できないのも無理はない。
一度公僕として録を食んでも、その時代時代の希求に順応できるように自己研鑽を積んでいれば、リストラということはなかろうか、古い技術にいつまでも固執していては、当然の帰結であろうと思う。
ところが昨今の官僚の有り体は、官僚自らが次に自分の入る住処を作っておいて、そこに天下るわけで、これは国民の納めた税金をただただ蚕食している図でしかない。
官吏としての仕事、ないしは業務が、国民のためではなく、自分達と同じ官僚のために機能しているわけで、国民は蚊帳の外というわけである。
この本を読んでいて少々気になることは、著者は1958年昭和33年生まれ、押しも押されもせぬ戦後世代であるが、こういう人に掛かると、過去の日本の発展というものが、アジアの人々の犠牲の上に成り立っている、という思考に陥っている。
台湾統治、朝鮮支配というものが、日本の侵した悪行という感覚で語られている。
戦争をするということは、ただただ単純な人殺しにすぎず、いかなる理由があろうとも、避けるべき悪行という認識である。
台湾総督府が誰々のときは統治が悪かったとか良かったという評価はありえるが、それと侵略したとか、抑圧したとか、蔑視したという言い方は、同じ国民の末裔として、身内の側からは言うべきことではないと思う。
明治維新というのは大革命であったわけで、我々の仲間内、つまり同胞同士でも攘夷だとか左幕だとか言いながら殺し合ったし、先方は先方で、やはり我々と同じように同胞同士で殺し合いをしていたわけで、この当時はそれが世界の常態であった。
それを鑑みることなく、絵に描いたような奇麗事の平和思考を唱えても無意味なわけで、いわゆる自虐史観が何の抵抗もなくごく普通の認識として行間に感じられる。
それをことさら強調して述べた部分はないが、行間の言葉の端々にそれが伺える。
つまり、そのことはこの世代の共通認識となっているのではないかということである。
問題は、こういう極めつけの平和思考で戦争ということを考えると、またまた我われは過誤に陥る可能性を生むということである。
先の大戦中は、日本国民の誰一人日本が負けるなどということは信じていなかった。
けれども蓋を開ければ日本は負けたわけで、それを我々は「軍部に騙されていた」といって責任を軍部に負い被せているが、極めつけの平和主義というのも、戦争の本質を知ろうともせず、上辺の奇麗事に惑わされていると、これと同じパターンを踏襲する危険があるということだ。
この本の主目的は、一人の通信技師の生涯を描くことなので、社会的な動きというのは副次的な要因でしかないが、社会の流れ、つまりその国の歴史というのは、正邪、善悪、良し悪しという価値観で測りきれないはずである。
官吏があっさりリストラにあうということは、正邪、善悪、良し悪しという価値観で測りきれないわけで、それは突き詰めれば国家の要請ということになる。
ところが昨今では国家にそういう要請があったとしても、公務員の側が、その要請を認めず、私利私欲を優先させ、自己の保身のために国家の要請そのものを歪曲してしまう。
行政改革がなかなか進まないということは、国家の要請に対して公務員、いわゆる官僚が抵抗しているからで、いまどき公務員をリストラするなどということはありえないのではないかと思う。
そのことは同時に国税の浪費にモロにつながってくるが、国税をいくら浪費しようとも、国家公務員は意に介することなく、首切りはまかりならぬということだ。
この時代は富国強兵や殖産興業が国是であったわけで、そのためにも国税の節約、有効利用ということ最優先課題だったことは否めない。
そのために、官僚が簡単に非官になってしまうということは、当人にとっては極めて遺憾な、ひどい仕打ちであったろうけれど、国全体から見れば、健全な雇用関係ないしは国税の使い方をしていたということだ。
こういうことのないように労働3法というものができたのだろうけれど、普通の社会の雇用関係というのは、これが正常な有り体だと思う。
それでは使われる側の労働者が可愛そうだ、という論議が当然出てくるが、可愛そうだからという人情論や感情論で、国税を湯水のように使うということも許されることではない。
使用者側の意に沿わない、使い道のない人間をいつまでも雇用しつづけた場合、その出費は誰がどう負担するのか、という問いにどう答えるかということだ。
昨今の官僚は、自分の食んでいる録が、国民の納めた税金などと思っていないのではなかろうか。