ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「大日本帝国の民主主義」

2007-02-05 11:35:04 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「大日本帝国の民主主義」という本を読んだ。
マスメデイアで大活躍の田原総一郎と、元東大教授の坂野潤治の討論をそのまま本にしたものであったが、ジャーナリストと学者の思い上がった思考が垣間見れる。
日本が明治維新以降近代化に向けてまい進した姿を、アジアへの侵略という視点で捉えているところが私のもっとも不満とするところである。
侵略などという言葉をそう軽々しく使うべきではないと思う。
キリスト教文化圏でも、中国の何代にもわたる諸国家の勃興と衰退も、アメリカの開拓の歴史も、人間のすべての歴史というものが突き詰めれば侵略に行き着くわけで、そのことは文明の発展そのものが侵略の歴史と同一であるということだ。
優勝劣敗は世の習いなわけで、国家が興隆、隆盛をほこれば、そこには必ず侵略が内包されており、犯し犯されて人間は今日まで来たのである。
そのことを踏まえて、われわれの19世紀後半から20世紀初頭の日本民族のありようをアジアへの侵略という言葉を使って意味つけることはないと思う。
この地球上にいくつの民族があるのか正確には知らないけれど、民族と民族の接しあう接点では何がしかの軋轢があるのは当然の帰結であって、その軋轢には必然的に人の殺傷ということがついて回ると思う。
その結果として、力の強いほうが弱いほうを蚕食し、抑圧するのも当然の成り行きである。
日本の学者やジャーナリストは、この現象を侵略と称して、あたかも人間のすべきことではない罪悪だ、という認識でものを語っている。
ということは人間の美しい理想郷を思い描いて、奇麗事の理念におぼれ、現実を直視することを遺棄し、さまざまな罪悪を背負った生きた人間の存在を否定するということでしかない。
彼ら、文化人という人々は、人間の存在を否定する立場でいても食っていけるのである。
なんとなれば、彼らは大学者であり、大ジャーナリストなので、自らは釘一本、米一粒、ねぎ一本作ることなくても生きていけるからである。
民族と民族の接しあうボーダーラインでは、いつ寝首をかかれるかわからないという緊張感の中で生活している人がいる一方で、彼らはそこから遠く離れた暖かい暖炉の前で、愚にもつかない議論に明け暮れて生きているわけである。
明治憲法、大日本帝国憲法が最初から民主的な憲法であることはそれを読めば一目瞭然ではないか。
天皇は、そのときから象徴天皇であることが一目瞭然と書かれているではないか。
昭和のはじめにわれわれが奈落の底に転がり落ちた最大の理由は、軍部が統帥権というものを最大限利用して、あるべき民主主義を踏みにじり、国民を押さえつけたからに他ならない。
そんなことは私のような無学なものでもわかるのに、何を今更、東大教授や田原総一郎から聞かなければならないのであろう。
彼ら、東大教授や田原総一郎のようなジャーナリストの使命は、そういう国民の側、ないしは軍部や官僚の行き過ぎを是正するところにあると思う。
常に人間としてあるべき姿を示して、政治家や軍人や官僚の行き過ぎを軌道修正するところにあるはずである。
悪名高き治安維持法は、普通選挙法と抱き合わせで大正14年1925年に成立しているが、これは毛沢東やスターリンが独裁者としての権力を振りかざして作ったものではなく、帝国議会の審議を経て成立したことを考えてみる必要がある。
つまり立派に民主的手法でできたわけで、この時点ではまだ軍部独裁にはなっていなかったはずであり、国会の審議を経てこの法律ができた背景を考えてみる必要がある。
この法律が悪法だということは散々聞かされているが、それは運用の手順が間違っていたわけで、それは統帥権の乱用と瓜二つの類似性があったにもかかわらず、その矛盾を突くことを怠り、間違った道を歩みかけたもの是正する努力を怠ったのは明らかに学者連中と当時のジャーナリストの怠慢だと思うが、そこを突いた論調はあまり見当たらないように思う。
その問題に関連して、この法案が提出され、審議されているとき、東京帝国大学、京都帝国大学の学者たちはいったい何をしていたのか、新聞雑誌のジャーナリストたちはいったい何をしていたのかという疑問は当然無学な私には起きてくる。
われわれは政治家のリーダーシップということをよく口にするが、これは間違った認識だと思う。
国民をリードすべきリーダーシップは、基本的に学者が負わなければならないと思う。
それでなければ帝国大学、ないしは国立大学の学者先生方の存在意義がないではないか。
政治家というのはあくまでもコーデイネーターに徹するべきで、政治家がリーダーシップを持ってはいけないと思う。
人が寄り集まって作り上げている社会で、自分たちの行く末を考えるのは、やはり学者であってしかるべきで、学者が政治家に進むべき道を掲示するのが社会としての正道ではないかと思う。
その過程で、学者が共産主義にかぶれて、その思い込みで政治家にレクチャーしようとして失敗したのが、日本の独立をめぐるときに開陳された平和問題談話会の面々の論議である。
これで象牙の塔の学者たちの現状認識が如何に出鱈目かということが完全に露呈してしまった。
この本の中でも美濃部達吉の「天皇機関説」が俎上に上がっていたが、「天皇機関説」はけっして間違った論議ではなかったはずなのに、当時の衆議院議員、貴族院議員、各大学の教授たちの面々はなぜ彼をボイコットしてしまったのであろう。
ここでも大学教授の出鱈目さが見事に露呈しているわけで、学究的真理を放棄して保身のために沈黙を守ったわけである。
斉藤隆夫の粛軍演説(厳密にいうと粛軍というほどのものではなく予算の使い方を問いただしただけ)をフォローしなかったのであろう。
これらの責任はすべて国民の側、厳密に言えば当時の国会議員、学者諸氏、新聞雑誌のジャーナリストの責任に帰すると思う。
ところがこの本はそこまでは突っ込んでいない。
「天皇機関説」が良いか悪いかの議論に終始しているが、天皇自身が「それでよい」といっていることに対して、何をいまさら屋上屋を積んでいるのかということだ。
こういう論議は、今、平成19年2月5日の時点で、柳沢厚労大臣が「女性は産む機械だ」と失言したことに対する野党の攻撃とまったく同じなわけで、典型的な的外れの議論である。
一大臣の失言と、国会における審議拒否とは完全に別の次元の問題にもかかわらず、ある種の言葉狩りで与党に揺さぶりをかけるということは政治の邪道だと思う。
ここで本来ならば知性の金字塔としての学者たちが、国会議員、特に野党の国会議員に対して「あなた方のしていることは間違っているよ」と忠告をしなければならないはずである。
失言は失言として本人も認めているわけで、「だったら大臣を辞任せよ」というのは明らかに言葉狩りそのもので、ただ単なるいじめの構造に過ぎない。
こういう間違った政道を正して、「本来の政治とはそうではありませんよ」というべき使命を負っているのが学問の府としての大学であり、木鐸としてのジャーナリズムでなければならない。
私は自民党から金をもらっているわけではないが、普通の常識で普通に考えれば、こういう結論にならざるを得ないのではなかろうか。
柳沢大臣の発言は確かに不穏当ではあるけれど、それを人に強制したわけでもなく、自分でも失言だと認識しているわけで、だから「大臣にふさわしくないから辞めよ」というのは、風が吹けば桶やが儲かる式の唐突な議論で、子供のけんかの類である。
言うだけならばまだいい。しかし、だからといって審議拒否するということは、明らかに争点のすり替えであり、国民から負託された参政権の不行使だと思う。
日本の政治というのはこういうことの連続であったわけで、昭和5年のロンドン海軍軍縮会議で全権大使が決めてきたことを、「統帥権の干犯だ」といって糾弾したのも、ただただ与党を政権の座から引きずり落とすための詭弁であったわけで、この詭弁が大手を振って罷り通ったから、われわれは奈落の底に転がり落ちたではないか。
そのことを、われわれは歴史の教訓とすべきであるが、それから未だに何も学んでいないではないか。