ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「先生、日本のこと教えて」

2006-07-27 20:25:44 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「先生、日本のこと教えて」という本を読んだ。
著者は1962年生まれ、当年とって44歳の若い現役の先生である。
この先生が、今日、公立の学校で行われている社会科、特に歴史、近現代史において、その偏向の度合いがあまりにもひどいので、その実情を世に問いかけるという意味で、この本を書かれたようだ。
それは、この著者の主観だからどういうふうに受けとってもいいが、問題は戦後60年間という時の経過の中で、我々の同胞がどうして自分の祖国の威厳というか、威信というか、誇りをなくしてしまったのであろうか、という自省のほうがはるかに重要だと思う。
明治維新以降、日本がアジアに進出したことを、何故悪いことをしたという認識で捉えるのであろう。
何故、旧社会党の村山富一元首相と、小泉純一郎首相の言葉が、瓜二つのように似かよったものになるのであろう。
旧社会党の面々も、自分達の同胞がアジアで悪いことをして迷惑を掛けたという認識を何処から引きずり出してくるのであろう。
それはひとえに60年前に日本を裁いた連合国側の認識からそういうものの考え方に至っていることは一目瞭然であるが、そのことは同時に自分達の先輩のしてきたことをきちんと直視せず、進駐軍を介してきた情報をそのまま受け売りしているということである。
それが為、先方の言う事は正しく、我々日本人の言う事は信用ならないということで、この東京裁判史観、極東国際軍事法廷の価値観が正しいという認識に基づいているから、我々、日本人の先輩諸兄がアジアで悪いことをしたという認識にさいなまれているものと考える。
このことは、一方の側からのものの見方のみに頼っているから、目の前の事実を、自分の目で見、自分の頭で考え、自分の頭脳で認識することが出来ず、先方の言うことを丸飲みする以外に自己認識の道がなく、自分達の父や兄弟や伯父達は、アジアで悪いことばかりしてきた、という価値観になるのである。
問題は、こういう若い先生が、現状を憂いて問題提起しなければならなかった状況である。
若い社会科か歴史科の先生が、「この授業はあまりにもひどすぎる」と思うに至る状況である。
こういう状況が戦後60年間続いてきたところに問題の根源があると思う。
私自身も中学高校のとき、昭和30年代の初頭、先生が左翼かぶれの先生で、治安維持法で引っかかったことを自慢し、中華人民共和国では蝿は一匹もいない、などと真剣に我々に向かって言い放っていた。
そういう先生に教わっても、特別に悪人に育ったわけでもなく、不良にもならずに来れたところを見ると、教育などというものは個人の人格形成に何の影響もない、と言うことかもしれない。
戦後の偏向した教育を受けたところで、その所為で共産党員が格別に増えたわけでもなく、社会党が特別に伸びたわけでもなく、こういう革新勢力が見事に衰退したということは、戦後60年にも及ぶ偏向教育といわれるものが、日本人の心の持ちようについて何の影響も与えることが出来なかったということである。
教育などというものは、人間の精神の形成に何の影響力も持ち合わせていない、ということに他ならない。
我々はともすると、学校現場で偏向した教育がなされれば、そこを巣立つ若者は、全部、革新的な志向の持ち主になるのではないかと心配しているが、決してそんなことはないと思う。
しかし、ここでよくよく教育というものを考えてみると、戦前の我々の先輩諸氏の受けた教育というのは、徹底的な軍国主義のつめこみであったわけで、学校で教えられた皇国史観というものに何の疑いも持たずに国の為に殉じた、ということをどう考えたらいいのであろう。
我々戦後世代は、偏向した左翼思想で教育されても、誰も左翼に行ったり(厳密に言えば極端な行動や思考をした人間もいるにはいたが)共産党に入党した人間はいなかったが、戦前の同世代の若者は、何ゆえにそうやすやすと国家の刷り込みに順応したのであろう。
この本の著者は、そういう教育の実態を憂いているが、私の関心は、この若い先生の前にはベテランの、年季のはいった経験豊かな、より人間性の闊達した老練な教師がいたのではないかと思う。
問題は、そういうベテランといわれるような老練な先生が、何ゆえにこういう偏向した教育を受け入れたのか、という疑問である。
当然、日教組の存在を私が知らないわけではない。
日教組というものが何ゆえに、自分達の政府の足を引っ張り、自分達の将来を担う若者に、自分達は悪人で、アジアで悪いことをした、という教育を刷り込もうとするのであろう。
日教組の人間も同じ日本人として、そんなことをして良いわけないということに気がつかなかったのであろう。
日教組が共産主義者の集まりで、自分達の政府よりも、旧ソ連や中共に近親感を抱いているとしても、自分達の同輩や同胞に、現実とはかけ離れた嘘で固めた虚構の概念を押し付ける必要はないと思う。
政治、外交、戦争というものは人がするのであるから、その中には失敗というのも当然ある。
戦争で負けるということは、その失敗なわけであるが、失敗しからといって、それは悪でもなければ善でもないわけで、まして正義でもなければ不正義でもない筈である。
しかし、極東国際軍事法廷いわゆる東京裁判というのは、そういうことに対して勝った側の論理で、こういう決着のしかたをしたわけである。
偏向した教育を子供達にしている人たちは、極東国際軍事法廷いわゆる東京裁判の価値観を正しいものとして受け入れているのである。
そして、その価値観を冷静な目で考察しないということは、戦前の皇国史観を全く疑うこともせず、真っ正直に正面から捉え、国難に殉じていった若者と同じ精神構造であるということである。
彼らは、皇国史観を国家が若者に強制したと言い募っているが、彼らのしている行為も全くそれと同じで、共産主義者が、末端の細胞に、党に殉じて死ぬことを強要しているようなものである。
学校現場で偏向した教育を行っている人々は、戦前に治安維持法が怖くて物がしゃべれず沈黙していた人と同じなわけで、党の言うことに異議を差し挟んで抵抗する勇気がないということと同じである。
それにしても学校というところで、我々の民族のありもしない事を捏造してまで、自分達の民族を貶め、悪し様にののしり、外交の国益に貢献して、嬉々としている現状は大いに考えなければならない。

「戦後日本の設計者」

2006-07-22 06:55:13 | Weblog
「戦後日本の設計者」という本を読んだ。
著者、ヒュー・ボ-トン氏は、もともとが学者で、あまりに真面目すぎて読んでいてもさほど面白くなかった。
日本の占領期のことならば、実際に占領軍として我々の上に君臨したGHQの人間の書いたものの方が面白かろうと思う。
学者の自叙伝というのはあまり真面目すぎて面白みに欠ける。
それに日本占領というのは、我々の前ではマッカーサーが立役者にみえたものだが、実際はアメリカ国務省が彼の後ろで牛耳っていたわけで、国務省とマッカーサーの駆け引きの部分が非常に面白く興味ある部分のはずなのだが、彼はあまりにも真面目すぎて、その部分の魅力に乏しい。
出先の軍司令官のマッカーサーが、大統領に対しては非常に謙虚であるということは究極のシビリアン・コントロールであったわけで、それに引き換え、我々の先輩のように、政府が不拡大方針であるにもかかわらず、それを無視した我々の軍隊の司令官は、昭和天皇ならずとも靖国神社などに祭りたくないと思うのも当然の事だと思う。
7月20日(平成18年)には、「富田メモ」というものが暴露されて、天皇の靖国神社参詣の問題に火がついた形になっているが、あの戦争をはさんで、日本とアメリカの対応の仕方というのは随分と違っていると思う。
この違いは一体なんであろう。
政治形態の違いという事であろうか。
民主主義の成熟度の違いというものであろうか。
この著者は、戦争の始まる前から日本研究者として、日本を研究の対象として眺めていたわけで、その経歴を買われて国務省に籍を置く官僚となったわけだが、戦争に対するこういうアプローチというのが我々には極めて不得意な部分だと思う。
先日読み、先に記述した「マッカーサーが探した男」には、これに似た部分が少なからずあったが、敵国を深く静かに研究するという発想は、我々にはなじまないことのようだ。
そういう研究をしたとしても、その結果、それから導かれた結論を全く考慮することもなく、尊重もせずに、自分の意思というよりも時のムードを優先させてしまいがちである。
あの戦争、日米戦の際にも、我々の側においてアメリカの発想と同じように敵情査察というのは行われた。
海軍の軍人が商社マンに変装して、アメリカの国情を探るということが一応は行われたが、その結論としては「勝ち目はない」ということであった。
ところがそういうデータがありながら「勝ち目がないからこれは止めておきましょう」ということには成らなかった。
これを今我々はどう考えたらいいのであろう。
科学的かつ合理的な調査をして、それを真摯に分析して、その結果として、「勝ち目はないから止めた方がいい」という結論を導き出したにもかかわらず、それを無視して奈落の底に転がり落ちたことを我々はどう考えたらいいのであろう。
私は民主主義というものは衆愚政治だと思う。
昭和初期の日本の政治というのは、一応は、民主主義の体制であったものが、軍人、軍部に引っ掻き回されて、民主主義の体を成していなかった。それはあたかも軍政であったではないか。
その反動として、戦後、我々は民主主義というのは良い物だと思い込んできたが、あの昭和初期の我が国の国情も、基本的には民主主義であったわけで、だからこそ当時の日本国民の総意ではなかったかと思う。
つまり、あの当時といえども民主主義という形は整っていたので、当時の世相というのは、国民の総意を具現化していたと思う。
軍人の独走、軍部の独断専横といわれているが、その軍部とか、軍人というのは何処をどう切っても日本人であり、日本民族であり、我々庶民の父や兄や伯父さんであり兄弟であったわけで、日本の学校で教育を受けた我々庶民と同じ同胞であったわけで、ほかの星から来たエイリアンではない。
昭和の初期の頃、日本の軍人が威張り散らしたということは、我々がそういう状況を提供し、許していたわけで、我々がそういう状況を容認し、そういう人たちに寛大な視線を向けていたということであり、社会そのものがそういう状況を作り上げていたと思う。
当時の我々は愚民、烏合の衆であったということだ。
知識階級は一体何をしていたのだ。
頬被りをして隠れて、見て見ぬ振りをしていたに違いない。
治安維持法があってものがしゃべれなかった、というのは後からの言い訳に過ぎず、それを打開するのが知識人の知性であり、理性であり、教養ではないのか。
言葉を変えれば民主主義の醜悪な場面が露呈した姿であった。
あの時代においても普通選挙が実施されていたわけで、国会は極めて正常に機能していた。
こういう状況から抜きでるには、一部のエリートの存在がないことには、民主主義という衆愚政治から抜け出る道はないわけで、それは大衆の求めることに対して正面から反論し、大衆の求めることを全否定するということからはじめなければならない。
富田メモによって、昭和天皇がA級戦犯を靖国神社に合祀することに対して不快感を示されていた、ということが判明したが、これは昭和天皇の心を踏み躙った臣下・高級官僚・軍官僚までもが、他の英霊と同じように靖国神社に祭られることに対する不満だったと思う。
昭和天皇の胸中を察すれば、当時の政府が軍の中国進出に対して不拡大方針であったにもかかわらず、その政府に逆らってまで軍を中国に進めた司令官などは自ら成敗したい気持ちであったのではないかと想像する。
そんな軍人までもが、英霊として靖国神社に祭ることには内心面白くないと思っていた、ということだと思う。
軍人が政府の言う事を無視する、無視して通る、というところが明治憲法の不備であった。
いわゆる統帥権のことである。
天皇も政府と同様、中国に対する進出について終始不拡大方針であった、ということは軍部の中、ないしは為政者の中でどのあたりまで理解していたのであろう。
この時の日本の国民、日本の大衆、日本の庶民の気持ちとしては、一般論として「イケイケドンドン」、「チャンコロ何するものぞ」という雰囲気であったと思う。
国民の全部が中国への進出を容認し、肯定し、それにブレーキをかける弱腰の政府を非難していたものと思う。
昭和初期の時代、戦前、戦中のこの状況の根源は、言うまでもなく明治憲法にあったわけで、この本の著者は的確にその要点を抑えているところは見事なものだ。
戦争中にこういう敵国の状況を学術的に研究させるアメリカという国の懐の深さには大いに敬服せざるを得ない。
とは言うものの一方ではマッカーシズムのような変な風潮が吹き渡るのもアメリカ的な風土なのであろう。
これも民主主義ならばこその現象で、旧ソ連や中国の体制では、こういう事態はすべて芽が出た時点で摘み取られ、抹殺されてしまうので、変な風潮そのものが存在しない。

富田メモ

2006-07-21 07:46:23 | Weblog
昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に対して非常に不快感を持っておられたとする20日付けのニュースはこれからも日本社会に大きな波紋を残すであろう。
このことは昭和天皇も、連合軍が認定した戦前、戦中の日本の政治指導者、戦争指導者が悪玉、悪党であったという価値観を容認すると言うことである。
あの戦争を遂行した人に対する思いで、昭和天皇の考えも、連合軍の考えと一致していたということである。
敗戦、終戦の時点で、昭和天皇も、連合軍いわゆるマッカアサーと同じ価値観を共有していたということである。
つまり、A級戦犯と称せられる人たちは、連合軍から見ても、昭和天皇の側から見ても、明らかに敵であったということに他ならない。
このメモの中に語られている「松岡も、白鳥までもが・・・」という言葉には、あの戦争に駆り立てた人々に対する恨みつらみが込められているものと察する。
連合軍がA級戦犯と認定した人たちのすべてが妥当な選択でなかったことは言うまでもないが、明らかに妥当だと思われる人々が、他の英霊と同じように靖国神社に祭られることには納得できないという気持ちがあったに違いない。
A級戦犯という言葉は、便宜上、連合軍が使った言葉ではあるが、昭和天皇の立場からも、君の思いを踏み躙って無意味、無謀な戦争に駆り立てた悪人、悪党と思われても仕方がないような臣下が政治の中枢を握っていたわけで、そういう臣下にたいしては、殺してやりたいほど恨みを持ったとしても何ら不思議ではない。
天皇は常に平和思考であったにもかかわらず、ずるずると開戦の方向に国政を傾けていった臣下に対しては、陛下といえども恨み骨髄に思っていたものと考えなければならない。
ただ天皇という立場上、それが口に出来なかった悔しさは察して余りある。
「松岡も、白鳥までもが・・・」という言葉の中には、そういう人たちに対する嫌悪感が含まれていると思う。

「マッカーサーが捜した男」

2006-07-19 16:29:14 | Weblog
「マッカーサーが捜した男」という本を読んだ。
例によって図書館から借りた本であるが、題名から、マッカーサーが対日占領政策を遂行するために、彼・浜本正勝の知恵を借りようと探していた、という風に思って読み進んでみると、真相は全く逆で、彼をとっちめるためにマッカーサーが探していたということだ。
で、その内容というのは、浜本正勝氏の自叙伝というものに近い。
しかし、本人が書いた自分史ではないわけで、著者が本人にインタビューをして、それと本人から家族宛に出された手紙等をかき集めて、その人となりを作り上げた作品である。
彼、浜本正勝氏の生涯が波乱に富んだ人生であったので、普通の読み物としても非常に面白いものではあるが、凡人のありきたりの人生では、こういう読み物にはなりえないであろう。
彼、浜本正勝氏はハワイで育ち、ハーバードを卒業して、戦前に日本進出したGMという自動車会社に就職し、こういう外資系の会社が戦争という不可避的な運命に翻弄され、当然、立ち行かなくなった後、自分を軍部に売り込んで、軍という組織の中でも無位無官を通し、無位無官なるがゆえに高位高官から親しまれ、寵愛を受け、それが又本人の身を助けるという、実に万丈波乱に富んだ人生を過ごした人のようだ。
彼の人生に一貫して貫かれていることは、彼がハーバードを出た、という特異な学歴である。
彼はハワイで受けた中等教育で、アメリカ国籍ではないという屈辱から、アメリカで一番難しい大学に挑戦することでアメリカ人を見返すつもりであったらしいが、それが出来る天与の資質も本人が併せ持っていたから、それが可能であったに違いない。
彼は、基本的にはビジネスマンであったが、戦時中はビジネスの手腕を発揮する場が見当たらなかったので、軍に寄生して、フイリッピンで日本軍と協力しつつ、フイリッピン政府の便宜をも図りつつあったようだ。
ここで、ストーリーの端々に出てくる我が同胞のモラルの低さ、というものを今我々はどう考えたらいいのであろう。
我々同胞が、外国人と接する場合、紅毛碧眼の白人に対してはそうでもないが、アジア系の人間に対するときは、何ゆえにああも傲慢、不遜、威張り散らすのであろう。
この本の中にも、ちらりと出ていたが、外国人が書いた日本人論というのは、あまりにも持ち上げすぎだと思う。
我々、日本人の一般大衆というのは、一部の外国人が言うように、そうそう立派な人ばかりではない。
これは、どの民族を取っても、その民族の全部が立派な人ばかりということはありえないが、我々の同胞も、外国の地で、同胞だけになると、何ゆえに現地の人を卑下し、ああも威張りたがるのであろう。
人が威張るとか傲慢な態度をとるということは、その人の抑圧された気持ちの裏返しの心理ではないかと思う。
常に上から押さえつけられている人が、その抑圧から解放されたとき、その緊張感が周囲に向かって一気に爆発するわけで、ある種のコンプレックスの発露ではなかろうか。
だから自分一人のときは、自制心が働いて、猫を被っているが、仲間が多くいたり、集団となると急に気が大きくなって、自制心の歯止めが効かなくなってしまうのではなかろうか。
彼は、日本軍の占領下のフイリッピン・マニラで、そういうものを沢山目にしてきたに違いない。
彼の場合、英語という武器で、フイリッピンの為政者と日本軍との橋渡しのような役をしていたわけで、そういう立場からも、彼は同胞の汚い部分をそうとう目の当たりにしてきたに違いない。
フイリッピンの為政者を、日本の圧力から救ったという面も多々あろうが、戦争中という立場からすれば、アメリカからすれば、彼が英語を話せるだけに、アメリカに敵対する人間として、アメリカの国益を損なう立場として写っていたとしても何ら不思議ではない。だからこそマッカーサーは彼を追い求めていたに違いない。
戦時中の話でよく出てくる、憲兵というのは日本の兵制の中で、どういう位置づけにあったものであろう。
憲兵隊に引っ張られて拷問を受けたということをよく聞くが、これは当時の日本の兵制の中でどういう根拠でこういうことが罷り通っていたのであろう。
あの当時、軍人が同胞に対しても威張っていたと言うことはよくきくが、普通の軍人が一般人に対して威張る根拠はいったい何処にあったのであろう。
立会演説会などでも、軍人が「弁士、黙れ!!」といって、それが通るということは一体どういうことなのであろう。
憲兵というのは私の認識では軍人の警察であって、一般人にまでは管轄権がないように思えるが、何故、管轄権のないところまで彼らがシャシャリ出ることが出来たのであろう。法的根拠は何もなかたのではなかろうか。
ということは、軍服を着て大声で高飛車に出れば、それが通ってしまったということではなかろうか。
日本の社会は縦割り社会で、その縦割りなるがゆえに、それが諸悪の根源かのように言われているが、戦前、戦中においても陸軍は陸軍省、海軍は海軍省、警察は内務省と、立派に縦割りであったはずなのに、何故に特高警察や憲兵がごちゃごちゃになって不穏分子の抑圧に成ったのであろう。
こういう形で問題提起をすると、それは当時の為政者が劣悪であった、という言い方になりがちであるが、その劣悪な為政者を盛り立てたのは、ほかならぬ国民の側だと思う。
戦前の日本人の中にも、アメリカと戦争して勝てる見込みはありえない、という思考の人間は沢山いたに違いないと思う。
アジアで我々が威張り散らしていては、いづれ反感を買うことがわかっていた同胞も沢山いたと思う。
けれども、そういう人達も、同胞の為政者にそれを説く人がいなかったということは、為政者のみが悪いのではなく、そういう為政者を支持した同胞も同じように罪深いものがあると思う。
そういう反省は、本来、我々同胞の識者の中から出てこなければおかしいと思うが、戦後、我々は、あの戦争の反省として、そのすべてを戦勝国が裁いた当時の我が同胞の為政者に押し付けて。それで禊が済んだかのように振舞っている。
いままで「撃ちてし止まん」といっていたものが、一夜明ければ、「一億総懺悔」で元軍人も、元教師も、元新聞記者も、元国粋主義者も、元右翼も、戦争責任をすべてA級戦犯に押し付けて、自分は口を拭っているわけである。
A級戦犯として刑場の露と消えた人々に本当に責任があったとしたならば、朝日新聞も、毎日新聞もNHKも一度は企業を解体しなければならなかったと思う。
アメリカ占領軍は、自分達で軍政を敷くよりも、当時曲がりなりも機能していた旧官僚システムと利用したほうがコスト削減が図れると考えて、間接統治をしたのであろうが、戦前の日本で、日本国民に戦争を煽り続けたのは、これらのメデイアであったわけで、そのことを考えれば占領軍はこういうメデイアを一度は根絶しておかなければならなかったと思う。
彼らがそこを見落したのは、こういうメディアが民間企業であったからだと思う。
民間の新聞社が国と一体となって戦意高揚の記事を書き、国民を戦争にと駆り立て、「軍国の母」などと戦争被害者を奉り続けたことを我々は真摯に直視しなければならない。
この本の主旨は、そういうことを告発するものではないが、彼の生き様を間接的に見ると、当時の世相の欠陥が垣間見えてくるわけで、その世相の欠陥というのはメデイアのよって増幅もされれば修正もされるものと考える。
「国家の品格」、「民族の品格」というのはメデイアのよって培養され、啓発され、普及され、定着するものだと思う。
戦前の日本人がアジアで威張り散らし、現地の人々を侮蔑し、戦後の日本人が世界で札びらを切って売買春に明け暮れ、傲慢な態度をするということは、世界的視野で見て褒められるべき行為ではないはずであるが、それもこれもメデイアに踊らされている、煽り立てられている、我が同胞の真の姿なわけで、我が同胞というのはこの程度の人間だと思わなければならない。
我が国の高等教育が、モラルを教える場ではなかった、という点が返す返すも残念でならない。
世の識者といわれる人はこの点をどう考えているのであろう。

「国家の品格」

2006-07-18 06:50:35 | Weblog
平成18年7月16日、日曜日、この日朝のNHK BSの「今週の本」という番組で、藤原正彦氏の「国家の品格」が遡上に乗せられて、著者がテレビに出演してコメントしていた。
それを見ていて、この著者はなかなか立派なこと言うなと家内と話していた。
で、その日、家内は友人との待ち合わせのため外出したが、無為に留守番をしている私のために、土産としてこの本を買ってきた。
「国家の品格」などと、題名ははなはだ立派というか、大業に見えるが、言っていることは極めて当たりまえのことを当たりまえのこととして述べているに過ぎない。
この当たりまえのことが当たりまえとして通るか通らないかが今の問題であって、当たりまえのことに様々な理由をこじ付けで、さも特異なことのように言うから世の中がおかしくなるのである。
彼の言い分によると、戦後の我々はアメリカの日本人愚民化政策の元、論理優先の思考を強いられてきたが、この論理優先ということに大いなる欠陥があったわけで、我々は古来から持っている日本独特の美意識を再認識しなさいというものである。
彼のこの発想は、大いに彼の海外生活が影響していると思う。
日本を離れ、外国の地から祖国、日本というものを眺めてみると、我々の先祖はなかなか良い物を持っていたのだなあ、という感想に至ったものであろう。
外国の地で、外国人に混じって生きている中で、ふと故郷の日本を思ったとき、こういう感情になるのは人間として当然であろうが、この当然と思われる感情が基本的には大事なことである。
彼の論理で行くと、今の世の中の乱れは、論理による理詰めの発想が矛盾に突き当たっているからであって、こういうときには、人間の感情を優先させ、情緒に頼らざるを得ないというわけである。
その為には一見意味もないと思われる型や形式にすがるほかない、という発想に行き着いている。
本人の言葉と、本の中に現れている言葉に、「惻隠の情」というものがあるが、これは実に奥ゆかしき言葉だと思う。
我々には「謙譲の美徳」というものがあることは前々からあることは知っていたが、「惻隠」という言葉は私にとって大いなる発見であった。
この本の題名、「国家の品格」という言葉から連想するのは、アジアにおける諸国家の品格というものを連想しがちであるが、その意味からすると、日本が国際社会の中で生き抜くためには国家の品格などかなぐり捨てて、生き馬の目を抜く狡すからい発想に立脚しなければならないと思う。
私のこういう発言は非常に暴言のように聞こえるかもしれないが、国際社会、国際舞台では「惻隠の情」とか「謙譲の美徳」などと言う日本的なものは通用しないわけで、虎視眈々と相手の隙をうかがい、相手の盲点を突き、国益を推し量らねばならないわけで、それが世界の標準であり、それが普通の主権国家である。
彼の言い分では、それ故にこそ、日本は普通の国家に成ってはならない、という言い分であるが、それは普通の国家というものをきちんと認識した上で、更に道徳的に一歩その上を行かなければ駄目だと発想である。
そういう認識の元で、普通の国家に満足していては駄目だ、ということである。
彼の言わんとするところは、私の思考と全く同じなわけで、特別に奇異な発想ではない。
最近の身の回りで起きていることを、正直に自分の視点で、自分の思考で、自身の経験に照らして、眺めているのであって、そこには、こうあれかしと言う希望的観測もなければ、その遠因を他に転嫁する意図もないわけで、正直に現実を直視したものと考える。
現実を素直に直視して、素直に感想を述べれば、彼の言い分にそのまま繋がると思う。
彼が言う、「国民は本当は馬鹿だ!」という論理は、まことに以って至言だ。
主権在民ということは民主主義の権現のように思われているが、これが究極の愚民化政策だというのは本当に言い得て妙だと思う。
国民の総意が戦争を推し進めるのだという思考はもっともなことだと思う。
これこそ物事を真正面から直視した発想であり、思考だと思う。
戦後の識者といわれる人々は、あの世界大戦において日本の国民は為政者に騙されていやいやながら協力させられた、という被害者意識で当時の為政者を我々の同胞と切り離して語りつごうとしているが、それは真っ赤な大嘘である、という指摘は大いに賞賛に値すると思う。
あの時代においても、国民の声なき声を具現化したのが当時の為政者であった、という指摘はわたしを十分に共感させる発想である。
こういう点で私の心の琴線と触れ合うところである。
国民はメデイアに踊らされ、煽られ、国家の行き先を左右しかねない大きなうねりを作り上げるので、国家の行為というものはメデイアによって牛耳られるという意味で、21世紀の国民国家というのは、メデイアによってコントロールされた国家という発想に私は大いに共感するものである。
又、先進国は堕落するという真理も大いに納得できる言葉である。
確かに、先進国というのはどの国も共通の悩みで満たされていると思うが、日本だけがモラルの低下に悩んでいるわけではない。
先進国といわれる諸国家は、皆、同じ悩みを共有しているわけで、物質文明の行き着く先というのは破滅しかないようだ。
17日の時点で、日本の小泉首相はモスクワでG8のサミットに出席しており、この仲間は自分達は皆先進国だと思っているかもしれないが、それは同時に右肩下がりの坂を転がり落ちる仲間でもある。
21世紀の先進国というのは、もうこれ以上望むべきものがない、と言うところまできていると思う。
G8の国々は、あらゆる面で完全に満ち足りているわけで、もうここまで来れば、後は人間の倫理が人々を支配し、お互いに無益な殺生はしない、という方向に進まなければならない。
この本の著者は、それを世界に普遍化させることが出来るのが日本であると唱えている。
なぜそうかということになると、日本には、「惻隠の情」というものがあり、「謙譲の美徳」が有り、「武士道」があるから、他の先進国よりも一歩も二歩も抜きん出ているという論理である。
ところが、昔の日本人が持っていた「惻隠の情」とか、「謙譲の美徳」とか、「武士道」というものが21世紀の日本人から失われてしまっているので、これからの日本は他のG8の諸国と同じような道を歩むであろうと、そこのところを憂いているのである。

「中島知久平」

2006-07-17 06:15:12 | Weblog
例によって図書館の本で「中島知久平」という本を読んだ。
言うまでもなく、中島航空機の創設者の話であるが、愛知県の人間として航空機ということになると、どうしても三菱航空機になってしまうので、今まであまり関心はなかった。
特に、三菱の録を30年にもわたって食んできた人間にしてみれば、飛行機に対する思い入れがどうしても我田引水になるのも致し方ない。
それで、今まであまり中島航空機については関心を深めるには至らなかったが、今回、改めて中島知久平という人の話を読んで、大いに感ずるところがあった。
この人は本来、旧日本海軍の機関学校を出た軍人であって、海軍というのは今も昔も、ある意味のテクノクラートであることには変わりがない。
その意味で偉大なる技術者であったということは頷ける。
船のエンジンと飛行機のエンジンでは、それこそ月とスッポン程の違いがあることは否めないが、科学技術の粋を集めたという意味では相共通するものがあるように思う。
中島航空機というものが退役した海軍軍人が起こした企業という点でも興味尽きないものがある。
「天は二物を与えず」という言葉があるが、彼の場合も、まさしくその言葉が当てはまると思う。
彼にとって海軍機関学校への進学が本人の第一希望ではなく、窮余の一策として進んだ道が、図らずも彼の人生に大きく影響したという点では実に面白い。
しかし、彼はここで科学技術というものに対して何かしら得るものがあったに違いないと思う。
その後、その啓示に従った彼の行為が、彼の人生を支配したのではないかと思う。
彼は海軍にそのまま残っていたとしても、それなりの仕事と地位と得たであろうが、にもかかわらず、そこを退役して、飛行機の製作という新しい事業に打ち込んだ、ということは彼が持って生まれた才覚によるものであろう。
そして、その後、政界に出るという行為も、ある意味で天与のものだと思う。
この本の著者は、彼が他の財閥系の航空機メーカーと違って、財閥というバックを持っていないことを強調していたが、企業を起こすものにとっては、財閥の後ろ盾があろうがなかろうが、本当は関係ないことだと思う。
そのことに思いが至るということは、大いに第3者的な先入観がなさしめるものと思う。
明治から大正、昭和の時期において、航空機メーカーを立ち上げるということは、私利私欲の獲得という個人的な欲望の追求ではないと思う。
昨今の、ホリエモンや村上世彰のように、ただただ金さえ儲ければ良い、という守銭奴的なレベルの低い時限のことではなかったと思う。
当時の日本の国策であるところの、富国強兵に如何に応えるか、という高尚な時限の発想ではなかったかと思う。
この時代の日本の国策を、戦後の風潮としては、「間違いであった」と評価が定まっているが、その時点では、全国民がそれを願い、願望し、その達成に協力を惜しまなかったわけで、当時の日本国民のモラルとしては、最高度に褒め称えられるべき事柄であったはずである。
彼の場合でも、売名行為でそういうことをしたわけではなく、真の愛国心から、大艦巨砲の建艦競争から脱して、航空機による戦略に転換すべきだ、という信念からこういうことになったのではないかと想像する。
そういう風潮が日本全域に広がっていたからこそ、財閥系の企業も、それぞれに飛行機の製作に乗り出したわけで、財閥系といえども私利私欲で儲かるから飛行機を作り出したというものではないと思う。
戦前、戦中といえども、我々の国はあくまでも資本主義で機能していたわけで、利潤の追求ということは否定されていたわけではない。
戦後、進歩的と称する学者が、この時代の財閥というものを、そういう見方で見るというのは、彼らの思考からすれば当然のことであるが、それでは真実を直視するということに繋ながらない。
自の脳みそがイデオロギーに汚染されてしまって、見る目そのものが偏向という色眼鏡になってしまっているということである。
戦後という時代は、国家のプロジェクトとしての戦争ということが否定されてしまったので、戦後の企業家は、すべからく民需品の生産で国の経済力を底上げする方向に機能した。
武力の行使の否定ということは、人類の平和共存にとってはまことに結構なことであるが、人類の歴史の過程においては、我々は高価な犠牲を払ったことになるが、それは主権国家の国民がそのときどきの時代状況において国策に貢献することを否定するものではないと思う。
戦前、戦中、戦後という時代の中で、それぞれの時代において、国家が国民に希求するものは、それぞれ違っているわけで、そのときのどきの国家の希求するものに、その都度、それぞれに応えるということは決して悪いことではないと思う。
国家が国民に求めるものが自分の意に沿わないからといって、国民が協力しないでは、国家そのものを否定することになる。
国家が国民に求めるものというのは、突き詰めれば、国民自身が願望し、希求していることではなかろうか。
国家というのは、姿なき国民の総意を、そして目には見えない民意を具現化しているわけで、決して独裁者が自分の私利私欲で国民を抑圧し、搾取し、苦しめるために存在しているわけではないと思う。
我々の祖国というのは、かって独裁者というものを輩出したことはないわけで、悪名高き東条英機だって、決して独裁者であったわけではないが、政策を誤ったという点では衆議が一致するものと思う。
この本で語られている中島航空機の創設者としての中島知久平という人物も、戦後の人物に例えれば、松下幸之助や、本田宗一郎に匹敵する経営者であろうが、もともとが技術畑の人間であるので、その技術は戦後も生き続け、今日まで立派な製品を派出している。
ただここで我々凡人が考えなければならないことは、一流の経営者が政界に出ることの是非だと思う。
一流の経営者が政界に出るということは、そこにどうしても利権との絡みを連想せずにはおれないわけで、あらぬ疑いをもたれるのは当然のことだと思う。
そういう意味で、戦後の優れた経営者は、政界とは綺麗に一線を画していたわけで、これを民主政治の中でどう評価するかということは、まだ答えが出ていないのではないかと思う。
企業の経営と、政界を泳ぐということは、発想の時点から相容れないものではないかと思う。

「柳田国男を歩く」

2006-07-16 07:13:48 | Weblog
表題の本を読んだ。例によって図書館の本であるが、柳田国男が日本の偉大な民俗学者ということは知識としては知っていたが、それ以上のことは今まで全く無関心であった。
ところが、そういう著名な人の生い立ちを見てみても、その人の周囲には我々と同じ庶民レベルの低俗な生活ぶりが展開されていることにある種の驚きさえ感じる。
というのは、嫁と姑の確執というテーマが彼の兄の問題として提起されているが、この問題は何時の時代でも、最大の課題ではないかと思う。
この本の中では、国男の兄さんの嫁が、母親とうまく行かずに二人も不幸な目に遭うという形で嫁姑の問題が提起されている。
ところがこの問題はこの本のテーマではないので軽く受け流されている。
民俗学者ならばこういう問題を掘り下げて語るべきではなかろうか。
それで大民俗学者でも言及しなかったことを私が論ずるわけであるが、嫁姑の問題は、我々、日本人の生き様をモロに提示している事象だと思う。
これこそ人間の煩悩と煩悩の衝突だと思う。
我々の民族が、古来から農業を主体として生きてきたことは歴然たる事実であるが、この農業を主体とする封建思想の中では、「個の自立」ということは全く価値がなかったわけで、逆に皆の足を引っ張るというマイナスのイメージが出来上がっていた。
にもかかわらず、社会全体では、一応、家父長制で、一家の主人が一族の決定権を大きく握るというポーズが出来ていたが、この一見強固に見える家父長制が内部崩壊して、有名無実の存在になっていたに違いない。
家長としての一家の主の権威は、実質、妻が牛耳っていたに違いない。
家長としての舅が、彼の妻、つまり姑の行いを完全に掌握して、彼女が彼に徹底的に従順ならば、彼の妻の嫁いびりは家長の言葉で制止できるはずであるが、現実にはそうなっていない。
逆に、家長といえども、家長の妻の言質には従わざるを得ず、家の中の権力は、実質、家長の妻が握っていたわけで、だから嫁として新たに一族に加わった新参者の立ち居振る舞いが気に食わないからといって、苛めの対象にするというのも家長の妻の特権であったわけである。
大家族の中で、姑と新しい嫁が、長男を取り合うという図が必然的に浮き上がるわけである。
ここで男性陣がしっかりしておればいい。例えば舅や婿としての長男。
この特権が、農業を主体とした封建制の中で醸成され、生活の中で常態となってしまったわけである。
農村の、封建制度を主体とする家父長制度の中で、一家の主が毅然と妻を押さえ込んでおれば、妻が新参者の嫁をいびるということも防げたであろうが、一族の長い生活の中で、如何に家長としての男が実権を振りまわしたところで、内助の功というものを無視して家長の権威もないのだから、裏事情まで妻に握られている以上、発言権も低下するわけで、妻は新参者としての嫁を苛めつくすという構図に成るものと考える。
この本に述べられていることは、国男がまだ民俗学者になる前の、幼少の頃の記述で、わたしは嫁いびりというのは大昔からあったのだと妙に感心した。
苛める姑も、かってはそれと同じことをされていたわけで、自分のされたことを次の世代に引き継ぐという形であるが、こういう場合、男つまり婿さんが自分の母親に対して正面から嫁の立場を擁護してやらなければ、新しい新参者の嫁の立場はそれこそ浮かばれないと思う。
そこで、日本には、その勇気を持った男が果たしていたのかどうかという問題だと思う。
封建的な家父長制度の中で、良い息子であろうとすれば、母親に従順に従わなければ成らず、それは嫁を擁護することとは相反するわけで、自分の母親から可愛い嫁をかばいぬく、という勇気を持つ日本男児というのはいなかったのではないかと思う。
ここに体制としての個の埋没があり、家という体制のために、個人の意思というものが押さえ込まれているわけで、母親にたてついてまで自分の嫁をかばう勇気ある息子、つまり男というのはありえなかったものと考える。
封建的な家父長制の時代ということは、同時に男尊女卑の時代で、この時代の普通に常識ある人間ならば、特に若い男性ともなれば、母親に従順ということは親孝行という意味で非常に評価が高いが、自分の嫁を可愛がるなどということは、男の風上にも置けないという風潮であったに違いなく、そういう時代の風潮を加味して、民俗学者柳田国男の幼少時における、兄嫁に対する見方も味も素っ気もない扱いとなっている。
嫁姑の問題というのは、人間の煩悩に近いものではないかと思う。
洋の東西を問わず如何なる民族にも大なり小なり類似の問題は内在しているのではないかと思う。
今まである既存の家庭、父親と母親と息子娘という基本的な家庭の中に、息子が成長して嫁を迎えるというとき、大きな家ならば何ら問題はないが、小さな家の中ならば、生まれも育ちも違う赤の他人が一人入り込めば、今までの秩序と手順に多少に違和感が生じるのは致し方ないわけで、それを如何に回避するかということは、それぞれの家庭の問題として残り続ける。
ここで新しい夫婦が自立すれば何ら問題はないが、日本の従来の社会では、この自立という概念が非常に不完全なわけで、それは個人の意思の問題もあるが、社会問題の部分でもあり、そこにこそ悲劇の根源がある。
息子や娘が成人したならば、親とは別の道を自分達の力で歩きなさい、という発想は我々の民族には極めて乏しいわけで、親も子も何とか身内の絆の中で束縛しあって生きましょうということになりがちである。
一族を同じ絆で纏めようとする意識が働くから、家長の妻、つまり姑は、新参者の嫁にあることないこと干渉するわけで、その干渉そのものが苛めになってしまうわけである。
ここで親の側も子の側も、完全に親離れ子離れが出来れば、こういう問題の出る余地もないが、ここが不完全なものだから、新しい嫁にその全部のしわ寄せが行くわけである。
この本の主旨は、柳田国男の伝記を述べるものではなく、彼の歩いた足跡をたどるという点に主題があるわけで、そういう意味でこういう問題の掘り下げ方が十分でないことは致し方ないが、民俗学というからには、日本の嫁と姑の問題というのは興味深いテーマではないかと思う。

「ヘボン博士の愛した日本」

2006-07-15 06:43:38 | Weblog
「ヘボン博士の愛した日本」という本を読んだ。
昔からヘボン式のローマ字という言葉は良く知っているが、このヘボンというのがヘップバーンと同じだったということはまったく知らなかった。
オードリー・ヘップバーンやキャサリン・ヘップバーンと同じということは全く思ってもみなかった。
その彼が日本に来て、耳で聞いた日本語を、書き留めるために考案したのがヘボン式のローマ字というものらしい。
それはそれでいいのだが、問題は、その行動力というかバイタリテイーというか、異国に行って、その地で骨を埋めるほどの熱意というものには大いに感動せざるを得ない。
厳密には、彼の場合、骨を埋めるまでには至っていないが、それと同じ熱意で以って日本のために尽くしたということでは、日本に骨を埋めたに等しいぐらいだと思う。
我々は、日本人として、外国から日本に来て、日本のために尽くしてくれた人たちの話しを今こうして見聞きできるが、これと同じことが中国や韓国にもあるのであろうか。
ヨーロッパ系の白人で、宗教がらみであろうとなかろうと、その国のために、その国に骨を埋めるほど尽くしきったヨーロッパの白人というのがいたのであろうか。
昨今、中国や韓国から、日本に対する誹謗中傷の言質が姦しいが、西洋からアジアを見た場合、中国、朝鮮と日本では一種の差別があったのではなかろうか。
アジアの近現代史にはそれが如実に現れているように見える。
例えば、日本が日清戦争で勝利したあとの3国干渉などというのは、西洋列強の視点から見て、中国のためにしたわけではなく、日本に対する抑圧であったわけで、又、日本の朝鮮併合というのも、朝鮮という地域が西洋列強にとって何の価値もないから、日本の管理に意義を差し挟まなかっただけで、これらの行為はすべて西洋の利害得失で動いているのであって、けしって中国や韓国のために西洋人がしたわけではない。
ということは、中国や韓国のことを心の中で思い描いて、その地の人々のことなど考えていた西洋人が一人もいなかったということである。
ところが日本には、日本の為を思う西洋人が大勢来ているわけで、そういう人たちが、それぞれに実績を残しているように見える。
アジアの近現代史の中で、特に、中国の共産化の中で、エドガー・スノーという人物は、中国共産党に大いに入れあげて、日本を叩く側に身を置いていた。
ところが、彼の視点はジャーナリストとして、報道という篩の網の目を通して、第3者の視点から中国共産党というものを見ていたわけで、その中国共産党も全能の神ではなく、その部分を如何に表現するかに尽きるが、彼自身は中国共産党に身も心も投げ出したわけではなく、ジャーナリストとして取材が終わり「中国の赤い星」という作品を残したあとは中国に深入りすることを避けたように見える。
彼は自分の作品の付加価値を高めるために中国を賛美し、そのことはある意味で読者を欺くことでもあり、彼自身は自分が人を欺いているなどとは思ってもいなかったであろう。
メデイアの報ずるものが真実ではない、ということは当然のことで、それを信じるものは馬鹿だ。
彼は自分の作品が優れたルポルタージュとしての評価を得さえすればそれでいいわけで、彼がどれほど共産中国に魂を奪われているかどうかは、彼にとって何ら問題ではないはずである。
西洋人の中にも、中国や韓国に骨を埋めた人が大勢いるかもしれないが、我々はそのことについては全く知らされていない。
それはそれで致し方ないことではあるが、私が驚くのは、西洋人にはこういう勇気のある人があまりに多いということである。
我が国は、江戸時代には鎖国をしていたので、そういう気風が生まれなかった、と一般には言われているが、法があるから皆がそれに従っていた、ということとは次元が違うのではなかろうか。
法があるから遠くに行かなかった、ということは帰ってくる気があるから出て行けなかった、ということで、最初から戻ってくる気がなければ、法があろうがなかろうが関係ないわけで、西洋人がアジアに伝道に行くということは、最初から生きて帰ることを期待しているわけではないと思う。
そう考えると、我々の民族は非常に肝っ玉が小さい民族だと思う。
肝っ玉が小さいので、個々の問題として、個人ではそういう無謀なことをする勇気を持たないが、これが集団と成ると逆に群集心理と成って過剰反応してしまう。
肝っ玉の小ささの裏返しの現象として、仲間の数が多くなると、それこそ「バスに乗り遅れるな」という群集心理に繋がってしまう。
近現代史においてメデイアの発達と共に、この群集心理が様々なところに様々な形として現出するわけで、メデイアというのは、基本的にはこの群集心理というものをコントロールする立場でなければならないものの、逆に、煽りに煽って群集心理に火をつけて世の中を騒然たる方向に仕向けるように作用するから困ったものである。
これを抑制しようとすると「報道の自由」を旗印にして、偽善をなし、世の中が混乱すると、その責任を政府に転嫁し、自らが馬鹿な大衆を煽ったことについては口を噤むのである。
メデイアというのは、常に自分を局外に置き、さも自分には責任がない風を装うが、世の中の騒擾はすべてメデイアにあるということを我々は真摯に受けとめなければならないと思う。

ユリ

2006-07-14 07:10:00 | Weblog
梅雨明け宣言があったかどうか知らないが、昨日は全国的に猛烈な暑さであった。PCの前に座っているだけでも汗が吹き出てくる。
こういうときだからこそ咲くのでしょうか、我が家のユリが見事に咲いた。
家内の話だと「カサブランカ」というものらしいが、真偽の程は知らない。
しかし、立派な花だ。
自分で自分のことをほめることを、自画自賛というが、人からなんといわれようと立派なものは立派だと思う。

「時勢への証言」

2006-07-13 07:24:46 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「時勢への証言」という本を読んだ。
長谷川慶太郎、谷沢永一、共に今飛ぶ鳥も落とすような勢いの評論家の対談というところでしょうか。
言っていることは皆もっともなことばかりである。
戦前、戦中の事柄についても、又戦後の政治の状況についても、その言っていることは私などの視点から見てももっともなことばかりであるが、対談というからには話題のキーワードの掘り下げ方が甘いように思える。
相手と面と向かって話をするという状況下では、そうそう露骨に人の悪口も言えないのであろう、評価の詰めが甘いように思えてならない。
私のように、全く無責任に、言いたい放題のことを言い放つということも出来ないようだ。
この対談の中では、そう深く掘り下げてはいないが、戦後の日本の反体制派の動きについても触れている。
本人の告白によると、両名とも戦後一時期、共産党に籍をおいたと述べているが、戦後の日本の復興の過程で、日本の共産主義者の果たした影響というのは計り知れないものがあるように思う。
戦前、戦中には共産党に対する締め付けのが厳しかったので、その揺り戻しという状況はわからなくはないが、やられたからやり返す、というのは人間の基本的な動物的思考、自己防衛としての自然の摂理であって、人間の基本的、根源的な思考能力ではないかと思う。
だから私は、このシチュエーションを主権国家の安全保障を説くときに使うのであるが、日本共産党員の弾圧と、それからの開放の場面での揺り戻しというのは、人間として、理性ある人間として、思慮分別のある人間として、あまりにも稚拙ではなかったかと思う。
治安維持法によって捕縛され、官憲によって拷問をせまられ、ひどい虐待を受けた共産党員というのは、戦後、時代が変わると、そのことが勲章となったわけで、そのことによって転向したり、党員を止めた者は、日本共産党員の中では意志薄弱な裏切り者として評価が下がったことは理解できる。
だがしかし、そのことは党内の問題として、何処の組織でも多少は類似の現象としてあるだろうとは想像がつく。
とはいうものの、それはあくまでも日本共産党内の問題であって、そのことをとやかく言うつもりはないが、問題は日本共産党員やそのシンパたちが、その考え方と行為でもって日本の社会全体に及ぼした影響のことである。
安保闘争から学園紛争、成田闘争から浅間山荘事件にいたるような大事件に及ぼした共産主義というものの影響力の大きさである。
これらの事件には、日本共産党が正面からか関わりあっているようなことはおそらくないと思うが、これらの大事件に共産主義というものが底流として流れていることに対しては、一般市民としてどう考えたらいいのであろう。
戦前、戦中において、共産主義に寛大な見方をして抑圧された大学教授たちが、戦後は自分達を追い出した教授を逆に追い出すなどということは、大学教授足るべきものの行為であろうか。
仲間を追い出すということは、如何なる理由によろうとも、大学教授たるもののすべきことではないと思う。
最初に追い出すという行為をしたものがいたので、時代が変わったら、早速、しっぺ返しに遭うという構図であるが、こういう構図そのものが教養人のすべきことではないはずである。
最初に追い出したからそのしっぺ返しをする、ということは人間として極自然の当然の行為であるが、それは人間の基本的な自然の摂理であるからこそ、当然とも言えるわけで、そのことは大学の先生といえども全くの自然人と同じことをしていることであり、象牙の塔の中で身につけた筈の教養とは一体なんであったかということだと思う。
知性も理性も備わっていない自然人と、大学教授が同じ人間だからといって、同じ行為、同じ振る舞い、同じ考え方をして良いわけがないではないか。
それではヤクザの三下の行為と何も変わらないではないか。
帝国大学教授としての教養、知性、理性は一体何処にいってしまったのか、ということになる。
それはさておき、安保改定問題では、日本はまるで革命前夜のような状況を呈していた。
大学生を始めとするデモ隊が国会周辺を包囲したり、大統領特使として来日したハガチー師の車を阻止したりして、今にも共産主義革命が起きるかとさえ思ったものだが、今、あの時デモに参加した人間の言い分を聞いてみると、誰も真剣に革命など考えていなかったということだ。
ならば、あのデモ騒ぎは一体なんであったのか?と、我々は大いに怒らなければならないと思う。
お前達は遊びだったのか???
お前たちは面白半分にデモごっこで遊んでいたのか???
一般の社会人にどれだけ迷惑を掛けたか考えたことがあるか???と、怒らなければならないと思う。
そして、こういう若者を後ろから煽りに煽った大学教授や知識人という人にも責任の矛先を向けなければいけない。
人間の営為としての社会にとって、言葉というのはまことに便利なもので、こう言えばああ言う、ああ言えばこう言う、赤を黒とも言いくるめ、黒を赤とも言いくるめるわけで、一つの事実に対しても、その解釈、見方というのは何通りもあり、どういうふうにも言い逃れるわけである。
こういうことは倫理の点からすれば、最も忌み嫌うべきことで、本来ならば教養の高い大学教授などという人種には縁のない話のはずであるが、教養の高さ低さとモラルの高潔さとは何の関係も成り立たないわけで、大学教授だからといってモラルの高潔さを期待することは最初から無理な話のようだ。
こういう大学教授から授業を受ける若者が将来の日本を良くするわけがないではないか。
だから今それが現実の問題として今日の日本があるではないか。
戦後の日本社会というのは、あまりにも大学を作りすぎたと思う。
明治以来の西洋列強に追いつき追い越せというムードの中で、学問を身につけることが立身出世の一番の近道であったというのはすでに明治時代に終わりを告げている。
にもかかわらず、一般国民、大衆というのは馬鹿だから、大学さえ出れば皆が皆、立身出世できると思い込んで、名もない、実績もない、大学に群がっているが、大学ができれば先生もいるわけで、その先生すら粗製濫造で出来上がっているのが現状だと思う。
大学というのは今や大人の幼稚園、半大人の遊園地のようなもので、社会人に成りきらない、成りきれない、成る意思のない、成る自信のない若者の退避場所に過ぎない。
今の大学は幼稚園の経営感覚で運営されている。
「大学卒」という餌で馬鹿な若者を食い物にする集金マシンーンで、自分で子育ての出来ない親が鴨にされている図である。学生は金の卵である。
大学の先生は先生で、大学の授業だけでは食っていけれないというよりも、経済的な余裕が持ちたいがゆえに、様々なアルバイトをするわけで、そのアルバイトの中でも無責任な放言で金になる論評を書くということが一番効率がいいし、無責任であればあるほど世の注目を浴びるわけで、それがそのまま実入りのアップに繋がるという次第であろう。
こういう大学の学生と先生にモラルの向上を期待するほうが最初から間違っている。
世の大衆というのは実に馬鹿で、大学の先生というのは偉いものだと思い違いをしている。
世の中には学者馬鹿という言葉もあるのに、大学の先生、大学教授という言葉を聞くと、普通の人は金縛りにあったように「偉い人だ」という観念に押さえ込まれてしまうようだ。