ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「わが上司、後藤田正晴」

2007-02-21 08:04:31 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「わが上司、後藤田正晴」という本を読んだ。
彼の部下だった佐々淳行氏が、上司であった後藤田さんを書いたものであるが、正直言っておもしろい本であった。
然し、私は個人的には後藤田正晴という人物を評価していない。
それは何故かといえば、彼は先の大戦中のことがトラウマとなって非常に内向的になっていて、それが日本民族の誇りを蔑ろの方向に仕向けているからである。
後藤田正晴と中曽根康弘に関する私の所見はすでにHP上にアップしているが、この二人は日本人には非常に好感度の高い政治家であったが、私は彼らを評価できない。
その根拠は、彼らが憲法改正に非常に消極的なスタンスをとっているからである。
私の言わんとするところは、「今すぐにでも憲法改正せよ」という気はさらさら無いが、彼らには改正する気がないからである。
憲法改正問題というのは自民党の中でもずいぶん前から話題になっていた筈だが、彼らも最初のうちは積極的であったが、自分の立場が上がってくるに従い、そのトーンが下がってしまった。
責任が軽いときには積極的に憲法改正を唱えながら、自分が総理になり、内閣官房長官という立場になると、そのトーンは急に低くなってしまって、自分は「火中のクリを拾いたくない」という感じになってきたところが私は気に入らない。
佐々淳行氏の活躍した時代および事件は、我々世代のものにとってはリアルタイムに見聞きしているわけで、その過程で後藤田氏は佐々氏に、「忍」というキーワードを押しつけたと記されている。
東大安田講堂攻防戦、あさま山荘事件、成田闘争事件等々で、トップが部下に「忍」ということを押しつけるということ、つまりこのことは「警官は殺されても犯人は殺すな」ということで、私には納得できない。
現に警察官が何人も死んでいるにもかかわらず、「犯人を殺さずにことを解決せよ」、という要求は、旧陸軍の参謀が、後ろの方にいて前線の将兵に「玉砕せよ」と言って号令をかけている図と同じではないか。
戦争と治安闘争は違うという言辞は通らないと思う。
戦争で前線にかり出された兵士は、自分に敵対している相手の兵隊が悪人かどうかということとは関係なしに命のやりとりをするが、国内の争乱事件というのは、明らかに警察の敵は極悪人ということが歴然としているではないか。
法律に反しているから警察に取り締まられるわけで、法律に反したことをする人は、どこからどう見ても悪人ではないか。
そういう悪人を捕らえるのに、何故警官が殺されてまで悪人を生かして捕捉しなければならないのか。
東大安田講堂攻防戦、あさま山荘事件、成田闘争事件でも、機動隊の前で犯人達のしていることは明らかに法律違反の現行犯なわけで、どこからどう見ても悪人の行為の筈なのに、何故現行犯逮捕の延長線上の射殺ができないのか不思議でならない。
ここに戦後の日本の世論と称する大儀が人命尊重という旗を振り回すことになるわけで、それがあるため後藤田氏も中曽根氏も腰が引けてしまうわけである。
戦後の日本人は人命尊重という大儀を振りかざすものだから、法律違反に対する感性が鈍ってしまって、極悪犯人の人権ばかりが大手を振ってまかり通るというおかしなことになってしまうのである。
こういう事件を起こしたテロリストの行為は誰が何処からどういう風に見ても反社会的な行為なわけで、こういう犯人を弁護する余地は全くないではないか。
ところが進歩的知識人や大学教授という穀潰し達は、犯人の前にある法律の方が悪い、というわけで、その悪い法律を押しつける当局側の非をあげつらって彼らを庇うから、犯人達が増長するのである。
人の意見は様々あるので、口で言っている分にはいかなる荒唐無稽な議論でも警察が取り締まるということは慎まなければならない。
ところが現実に警官の目の前で反社会的なテロが行われて、それを制するのに取り締まる側が「忍」を強要され、犯人側を思う存分暴れさせるなどということは論理的におかしいと思う。
それはトップが、つまり後藤田氏や中曽根氏が、事後に過剰防衛、人権無視、人命軽視とマスメデイァや世論の矢面に立たされるのが恐ろしくて、前線の指揮官にそう命じたにすぎない、いわば自分は銃後にいて、何かことが起きた場合は前線の指揮官に責任を負い被せる口実にすぎない。
日本は治安が良いといわれているが、決してそんなことはないと思う。
戦前戦後を通じて我々はテロというものをいくつも経験しているわけで、こういうテロに対して我々の同胞は実に寛大な同情を寄せがちである。
戦前のテロ、その代表的なものは2・26事件であり、5・15事件であったが、これらのテロの首謀者こそ死刑になったが、国民の側では、「至誠の情には打たれるものがある」などと、行為は憎むがその信条には深い理解を示すわけで、誰も頭から犯人達を断罪せよとは言わない。
そのことは裏を返して考えれば、もし当局側が犯人達に対して「反社会的な行為だから問答無用」と断罪してしまったとしたら、国民の側はきっと当局側の行為を、行き過ぎと糾弾するであろう。
すなわち我々日本の国民というのは、法を犯す、法律違反、法の網をかいくぐる、ということに対して非常に寛大なわけで、法よりも感情が優先するわけであり、真の法治国家になりきっていないと言うことである。
犯罪者、テロリストにとっては非常にありがたい国と言うことだ。
治安上の争乱事件に対して、当局の対処が非常に甘いということは、反体制側の増長を呼び起こすということで、個々のテロ行為に対して、当局側が問答無用で、片っ端から犯人達を射殺してしまえば、反体制側の増長ということはあり得ないと思う。
取り締まる側が甘いものだから、反体制勢力というのが何処までも増長し、つけ上がってくるわけで、何をやっても殺されることがないということになれば、相手の要求は際限なくふくれあがるのである。
人命尊重はいうまでもないが、反社会的な人間、極悪非情な犯人、民衆に迷惑をかけるような人間は、人権を認めないというぐらいの断固たる措置が必要だと思う。
こそ泥や、窃盗や、空き巣などとは犯罪の質が違うわけで、テロリストに人権など認める必要はないと思う。
そういう観点から後藤田氏や中曽根氏を見ると、彼らは人権問題に対して非常に腰が引けているわけで、自分の部下の命は、同じ体制側にいる人間同士という意味で、相応の弔意を示せば免罪となりやすく、受け入れやすいので、さほど気にならないが、犯人を射殺してしまえば、人命軽視とマスコミや世論に真正面から叩かれるので、それが怖くて及び腰にならざるを得ないのである。
それはともかくとして、この本の著者は、生涯を官僚として生きてこられたので、官僚の裏話的なものもふんだんに垣間見れる。
その中でも、私が特に関心を惹かれたのは東芝ココム違反事件である。
事件そのものは新聞等により起きた当初から知ってはいたが、国益に直結する事件にも関わらず、戦後の日本人には国益という概念が全く備わっていないところに大いなる心配がある。
何処の国にも、祖国の秘密をよその国に売って個人的な利益を得ようとする売国奴というのは存在する。
故意に、意識的に、個人の利益のために国を売る人間とは別に、自分のしている行為が相手国の利益に貢献し、祖国を貶めていることに全く気がつかずにしている人がいるとすれば、これほど恐ろしいことはない。
そこで売買されるものは情報なわけで、目に見える形での命のやりとりではないので、往々に見逃されがちであるが、戦後の日本の知識人というのは、戦争や国益というものを感情的なとらえ方をするので、水面下で祖国をむしばむような行為には全く無関心である。
日本の東芝機械の輸出した装置が、旧ソビエット連邦の国防、それは同時に相手側の攻撃手段でもあるが、の性能向上に貢献しているなんてことは全く空恐ろしいことである。
ところが我々の側には全くそういう認識はないわけで、ただただ単純な法律違反という認識だとすると、小さな蟻の穴が城を崩すということになりかねない。
我々は戦後60年間、外国に対して武力行使ということはしてこなかったが、これは我々の側に平和憲法があるからなどと、ノー天気なことで語れるものではないはずで、周辺諸国の力のバランスでかろうじて平和が維持されてきたということを強く認識しなければならない。
我々が平和に生活できるのも、人々の見えないところで、日夜たゆまず力のバランスを支えている人々がいるからであり、このバランスを支えている人たちは、国民の目に晒されないところで努力しているが、そういう努力は白日の下に公表できないのである。
公表すれば、そのバランスを支える柱が朽ちてしまい、均衡が崩れてしまうわけで、東芝ココム事件の裏事情とは、こういう問題を内包していたわけである。
こういう公表されない部分の活動がうまく機能すれば、戦争という最悪の選択をしなくてもすむわけで、戦争というのは口先の平和論議では抑止することができないのである。
戦争は主権国家としての最悪の選択なわけだが、その最悪の選択も、時と場合にはしなければならないこともあるはずである。
世界の普通の主権国家は、時と場合によってはそういう選択をする心の準備を怠っていないが、我々は、その選択そのものを選択肢の中に入れていない。
だから日本と交渉しようとする相手側は、日本は時と場合によっては武力行使をする気遣いが全くない、つまりどんなことを言ってもしても武力行使はしないことがわかっているから、頭ごなしに高飛車な要求を突きつけてくるわけである。
いわゆるこちらの腹が見透かされているということであり、我々は自分で自分の手足を縛っているということだ。
国家として武力行使をする気が最初から存在していないので、全ての事件を金でもって解決しようとするわけである。
理不尽な要求には実力行使も辞さない、というのは一種の民族の誇りだと思う。
戦後の我々は、暴力は絶対悪だと認識しているので、個人レベルでも「されたら仕返す」、「意地悪されたらそれに対して反抗する」、「殴られたら殴りかえす」、「とられたら取り返す」という人間の基本的人権すら、暴力がともなうと駄目だという認識に立っている。
やられてもやり返すな、やられた方は運が悪い、敵討ちなどとんでもない、暴力はいかなる場合でも御法度、悪事をする側の人権は大事だがされる側の人権は致し方ない、という論理だ。
こういう考え方が後藤田正晴氏や中曽根康弘氏には流れているので、私はこの二人を評価しないのである。
それでは被害者が可哀想だというわけで、ここで又金が浮上してくるのである。
ところが人間の命というのは金では計れないわけで、結局のところそれが天文学的な数字となるわけである。