ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「エンロン崩壊の真実」

2011-03-16 17:14:27 | Weblog
例よって図書館から借りてきた本で「エンロン崩壊の真実」という本を読んだ。
サブタイトルには「全米を震撼させた史上最大級の経営破綻をここに再現する」となっていた。
そもそもこのエンロンに関する発端から消滅までのストーリーは、マネーゲームの一語に尽きる。
私が問題視する視点は、そのマネーゲームを演じたプレイヤーが、一流の大学で経営学を修めた非常に知的レベルの高い人達であったということである。
我々の過去においては、江戸時代という時期に、身分制度が厳しく制定されて、士農工商というヒエラルキーが歴然と存在していた。
今更説明するまでもなく、統治を所管する士分のものが一番上にあり、商業を生業とする商人という階層のものが一番下の職業として認知されていた。
ところが現実の世界では、一番銭を持っていたのはこの一番下の商人の階層であったわけで、階層の一番上の士分のものも、銭の威力には勝てず、商人に頭を下げざるを得ない場面も多々あったようだ。
この身分制度が制度的に崩壊したのは、いわゆる明治維新以降の近代化の中で、殖産興業の為の資金の調達の必要性に迫られて、銀行の意義が再確認され、士農工商という旧来の価値観が否定され、大の大人が銭の貸し借りを扱う業務も、そうそう卑下すべきものではないということが認識されたことによる。
しかし、日本民族のメンタリティ―としては、士農工商という価値観が我々の社会の潜在意識として雲散霧消したわけではない。
日本人のメンタリティ―からすれば、商人という職業を、陽のあたる人々の羨望に価する仕事と見做すにはいくばくの心の抵抗があるように思う。
この発想はヨーロッパでも似たり寄ったりではないかと思う。
ヨーロッパでも、金貸しよりは物つくりに専念している人の方に、価値があるように見られているようで、その意味で、金貸しや宝石商にしかならないユダヤ人に侮蔑の視線が行くわけで、それが差別を助長していると思う。
金貸しや宝石商といえども、実際に質草を抵当にして金を貸しあたえ、期限が来たら利子をつけてその金を回収すると実務が行われておれば、企業の倒産などということはあり得ない。
このエンロンという会社の行ったことは、実際には真の商いをすることなく、売ったつもりで、あるいは買ったつもりで、別の場所での商いに、信用のみで売買をしていたわけで、架空の取引で売った買ったを繰り返して、架空の利益や損失を帳簿上だけで行っていたので、企業が回らなくなってしまったのである。
金、あるいは品物を実際に売買するのではなく、ただただ信用のみを、信用のみで、売ったり買ったりしていたわけで、残ったものは不信のみであったということである。
問題は、アメリカでも日本でも、大学で教えている経営学というものが、こういうマネーゲームを教えていることにあるわけで、これは良識ある知性に対する背信行為だと思う。
マネーゲームなどというものは、大学で教えるべき事の対極にある事柄であっでしかるべきで、「こういうことは決してしてはならない」という風に教えるべきだと思う。
アメリカでも日本でも大学の経営学の中には当然の事、節税に関する内容の授業もあるかと思うが、節税という発想も、民主主義とは相容れない思考だと思う。
民主主義の中の資本主義ということであれば、国家の庇護の元、国民は一生懸命生産活動に従事し、そうした勤労の結果としての報酬の中から、全国民の社会福祉に貢献すべく税を納めるわけで、主権国家の中で安定した秩序だった生活が成り立っていることに対する奉仕の精神があるとするならば、節税に頭を悩ます前に、税をより多く払うべく努力すべきだと思う。
しかし、アメリカでも日本でも、普通の市民感覚としては、税を多く払うことは自分が損をしているという感覚で捉えている。
国家に納めるべき租税は、一銭でも少なくしようと、節税対策に知恵を絞ろうとする。
民主主義国ではボトムアップで為政者を選出しているわけで、自分達の為政者が独裁者で、私利私欲に走っているわけではなく、集めた税金はそれはそれなりに国民に還元されていると見做すべきだ。
国家としても、為政者としても、何か国民の為に施策を講じようとすれば、それはそれなりに金も掛かるわけで、だからこそ税金という形でその金を徴収しているのである。
ボトムアップで為政者を選出したとしても、大勢の国民の中には、その為政者が気に入らない人も当然いるわけで、だからといって「俺は税金を払いたくない」という事は通らない。
税金というのは、国民が為政者を気に入ろうが入るまいが、国民から徴収した金で、国家の全体の施策に投じられるわけで、徴収された税金は国民の全部に広範に還元されているはずである。
そういう税金であってみれば、上納すべき金をいくらかでも節約しようという発想は、自分の祖国の施策に抵抗し、反逆し、阻害し、弓を弾いている事と同じだと思う。
節税の指南というのは、額に汗して力一杯働いた人に対して、あなたのその努力を少しでも軽くするように、法律に反しない範囲で、何か方策を考えてあげますよ、というもののはずである。
この地球上の如何なる人でも、自分が汗水垂らして働いて得た所得から、お上にその上澄みを掠め取られる、つまり税として取られる金は、身を切られるよりも痛いという心境はよく理解できる。
しかし、本人が汗水垂らして苦労の末得た所得であったとしても、その過程では社会の恩恵があったからこそそれが出来たわけで、そうそう恨みつらみを並べ立てるべきではないと思う。
本人の努力は大いに認めるが、社会の恩恵というものも有形無形の形であったはずで、その事を考えれば、自分の所得から決められた金額を国家に上納することにそう腹を立てる必要もない。
問題は、大学という高等教育の場で、経営学というのが節税のノウハウを若い学生に説くということである。
大学というのは大抵どこの国でも最終的な高等教育の場であると思うが、そういう施設で、若くて将来祖国を担っていく人達に対して、節税のノウハウを説くということは、自分の祖国の足を引っ張ることを教えているようなことだと思う。
忠誠心の反対側の思考であって、自分の祖国に対して如何に非協力で、売国奴的な態度をとるか、ということを教えている事になる。
これから祖国の発展の担うであろう若い学生に、「君達は経済界で大いに仕事をして、儲けた金は率先して国家に納付しなさい、税金は率先して払いなさい、節税などというけちで卑しい根性は捨てなさい」、と説くのであれば立派な大学教育と言えるが、現実にはその逆の事をしている。
これはアメリカでも日本でも全く同じなわけで、大学の経営学で節税のノウハウを教えるということは、非国民、売国奴を養成しているようなものではないか。
健全なボトムアップで為政者を選出する主権国家であれば、国民に課せられた納税の義務というのは、国民が競い合って税金を納めるぐらいでなければならないと思う。
ボトムアップで為政者を選出したからと言って、国民の一人一人にとって、その為政者が気に入るかどうかは甚だ疑問であるが、社会のシステムとしてはそうなっているわけで、国家の施策というのは国民の納めた税金で運用されている事に間違いは無い。
為政者がその税金を猫ばばして、私腹を肥やしているわけではなく、国民の納めた税金は、施策として再び国民に還元されているので、そのことを考えれば節税というのは反社会的な行為だと思う。
脱税ともなれば明らかに犯罪行為になるわけで、刑法が適用されるのは当然であるが、節税というのはあらゆる法律の抜け穴を探し出して、合法的にその穴を潜る行為なわけで、法律の裏事情に精通していないことには達成しきれない。
だからこそ大学の経営学の教程に入れられて、これから国家の将来を担う若者に、如何に納めるべき税金を合法的に回避するかのノウハウを教えているのである。
節税が法に抵触しないからと言って、反社会的な行為であることに変わりはないと思う。
大学にまで辿りついた人間が、こういうモラルでいて良いわけないと思う。
この本が暴露しているエンロンの破綻というのも、大学を出て博士過程を経た人物が、マネーゲームに興じている姿を描写わけで、これは実に由々しき問題だと思う。
日本における経済事犯においても全く同じことが言えているが、問題は、大学という高等教育の場がモラルの向上にあまりにも無力な所にある。
金への執着心、巨万の富を得たいという願望、楽して儲けたいという欲望、贅沢がしたいという希望、この地球上のあらゆる人が金への執着は大なり小なり持っているのは当たり前である。
しかし、人間は教養知性を積めば、そういう原始人あるいは自然人にも匹敵する素朴な欲望からは達観する信条に至るのも、これまたよくある話だと思う。
その意味からすると、最初に掲示した江戸時代の士農工商というヒエラルキーは実に的を得た指摘だと思う。
士分のものが官僚主義に埋没するという弊害は免れないが、商人という生業のものが、実に志が低く、「自分さえ良ければ後は野となれ山となれ」という信条に極めて近い思考に陥っていると見做されてもいた仕方ない。
このエンロンの経営者も、日本の経済事犯の当事者も、立派な大学を出ていながらその志は極めて低く、自分さえ儲かればいいという極めて卑しい思考でしかない。
洋の東西を問わず、高等教育が人々の志の高揚には極めて微力でしかなく、モラルの向上にはいささかも力になりえていない。
大学という高等教育の場で行われる教育の本旨というのは、基本的には人類の進化というか、文化・文明の進化に貢献、あるいは資する為の教育であって、個人の至福を追うものであってはならないと思う。
大学で受けた高等教育で社会に大いに貢献して、その結果として資産が増えるというのならば、何ら問題はないが、大学での勉学が個人の至福追求の免罪符になっては教育としての意味がないと思う。
そもそも経営学というものを大学という施設で取り上げていいかどうかさえ大きな疑問がある。
経営学は経済学とは違うわけで、こういう立派な大学でマネーをゲーム感覚で取り扱うことを学問として言っていいかどうかも大いに疑問だ。
高等教育の場で、倫理観を否定しかねない教育が許されるものであろうか。
金を儲けるという行為は、我々の古くて古典的な倫理観からすれば、やはり士農工商という価値観に行きつくものである。
金、銭を追いまわす行為は、やはり志の清らかな人間には不似合いなことで、利を追いまわしたり、利に聡い人間には、やはり心の卑しさを感じずにはおれない。
封建主義から脱して近代化を進める中での産業資本という意味合いとはまた違っているわけで、マネーをゲーム感覚で取り扱うという部分が、非常に守銭奴的である。
この本の書き出しも、アメリカの子供が映画「スターウオ―ズ」のキャラクターのカードを集める話しから説き起こしているが、まさしくおもちゃのカードを扱うがごとく、お金をゲーム感覚で、しかも信用のみで動かして利ざやを得ようとしているのである。
実態のある経済ならばまだ許せるが、実際には何も実態が無く、ただ架空の話でカネを動かしているわけで、それではいずれ破綻する事は誰の目にも明らかである。
そういうことを大学で博士号をとったような人が、日夜、そういうゲームに奔走しているわけで、そんなことが長く続くわけがないではないか。
人間の欲望の中でも金銭欲と性欲は尤も根源的なもので、根源的であるが故に、人知ではコントロール不可能で、それはその人個人が生まれつき兼ね備えた性癖と見做さなければならない。
正直な人は生まれつき正直だと思う。
嘘つきは生まれつき嘘つきだと思う。
よって、この持って生まれた個人の性癖というのは、後天的な教育では修正不可能だと思う。
卑近な例で、泥棒には再犯者が多いと聞くが、それはその人個人の持って生まれた性癖なわけで、刑務所にいくら入れられても、その持て生まれた性癖は直らないということである。
同じことがここで言うような経済事犯についてもいえるわけで、いくら立派な大学で高等教育を授かったとしても、もともと持って生まれた心賤しき根性は、教育では是正できないということである。
老い先短い旧世代の我々が憂べきことは、昨今の教育事情は、こういう生まれつき心が卑しく、倫理観の乏しい人間にも、ペーパーチェックのみの選別で入学を許し、真に学問を深めようとする者を排除してしまうことである。
その前に、大学という学問の府が、教育産業という新しい産業を形成している点である。
この地球上に生まれた人間にとって、教育というものは無いよりは有った方が良いに決まっている。
しかし、それは読み書きそろばん程度、つまり初等教育までの事で、その後の教育ともなれば、その人の人生で果たしてどこまで入用であったかは甚だ不透明である。
大勢の人間の中には、教室できちんと先生の言うことを聞くことが苦痛な子もいるだろうし、勉強嫌いな子も当然いるわけで、そういう人にとっての教育はそれこそ拷問にも匹敵すると思う。
ただし、如何なる国でも、大学にまで来る人は確かに自分の意思で進学して来るわけで、だとすれば何かしら自己の目標あるいは目的を携えてくる。
その将来の国を担う若者が、どういう目標やどういう目的を持って、大学の門を潜ったかが最大の問題でなければならないが、昨今の世の中をみていると、世間一般では大学の教育というものを真に評価していないのではないかと思う。
ただただ大学のネームバリューのみを追い駆けているだけで、個々の人間がそこで何を学んだかということには何ら価値を見出そうとしていない。
ここで、社会一般と大学の関係が、卵と鶏の関係になってしまうが、社会一般が大学の教育内容に信を置いておらず、大学を幼稚園と見做しているのである。
しかし、有名大学に入学したという実績は、紛れもなくその本人のキャパシテ―の高さを表しているわけで、企業はそれだけを買っているのである。
大学生が大学で学んできた知識や教養を買うのではなく、本人が秘めているであろうキャパシテ―に期待を寄せているのである。
ある意味で、それはエルロンがありもしない架空の取引で、架空の利鞘を追い求めている図と同じなわけで、それに産業界全体が翻弄されているのである。
これも不思議なことに洋の東西を問わず、大学を卒業した事が、普通の社会人としての免罪符になっているようで、大学で受けた教育の中身については、ほとんど関心が寄せられていない。
ただ人物紹介する時には、その大学名とその修めた学科が大きな箔となることは確かで、その人物を修飾する大きなツールにはなりうる。
しかし、やはり人物の真価は、その人の志の清らかさにあると思うが、こういう発想も既に旧世代の人間の妄想に成り下がってしまったようだ。
これは20世紀から21世紀にかけてアメリカから始まった狂騒劇であったわけで、その狂騒は世界中を駆け巡ったけれど、行きついた先は資本主義体制の終末的な態様であった。

「北斎 七つのナゾ」

2011-03-14 07:54:21 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「北斎 七つのナゾ」というのをラフな格好で読んでいた。
3月11日、昼下がり、半分寝ころんだような格好で読んでいたら、体が雲の上にでも乗ったように、ふわふわとした感じがして、「あれ!これは地震ではなかろうか?」と思った。
それで早速テレビをつけて見ると、東北地方の大地震であった。
最初は情報が集まっていないので、NHKの仙台放送局内の地震時の揺れの画面が出ていた。
その後、津波の映像が放映されてきたが、津波というものがあれほどリアルにカメラで写されるというのも珍しいことだと思う。
で、あまりにも地震が大きかったので、災害には何の関係もない私でも、翌日はテレビにくぎつけて、何も手にすることができなかった。
地震とは別に福島の原子力発電所の事故は直ちに報道されたが、最初の報道では、原子炉が地震で止まったので、燃料を冷やすために水を送るためのポンプを動かす補助エンジン、つまりデイーゼル発電機が起動しなくなったと報じられた。
つまり、こういう時の為の非常災害用の機器が、肝心の非常時に全く機能しなかったということだ。
これはひとえに日頃のメンテナンスの怠惰以外の何ものでもない。
非常用の機器が非常時に機能しないでは話にならないではないか。
地震が想定外の規模だった等ということは言い訳にはならない。
東京電力の怠慢以外の何ものでもない。
それはさて起き、地震の翌日と、次の日の新聞は、一面の大見出しから地震のことであるが、これはこれでいた仕方ないが、日曜日の特別版にはこれ又どういう偶然か知らないが、「浮世絵版画ができるまで」という特集を組んでいた。
この本の内容は、表題通り、浮世絵師の葛飾北斎の人物像をエッセイ風に書き連ねたものであるが、著者は浮世絵の相当な権威らしい。
しかし、私にはこの浮世絵を始めとする日本の文化があんがい西洋人の知的好奇心を刺激している点がなんとも不思議に見える。
この浮世絵が西洋の絵かきの好奇心を刺激して、ヨーロッパでジャポ二ズムという意識改革が起きた等ということは非常に面白い現象だと思う。
このヨーロッパでのジャポ二ズムを、当の我々が全く意識し切れていないというのも、実に奇っ怪なことだと思う。
私が聞き及んでいる事と言えば、江戸時代の後期になって、日本からヨーロッパに陶磁器を輸出する際、品物が破損しないように、浮世絵を描いた和紙が瀬戸物を詰める際の緩衝材あるいは梱包資材としてヨーロッパに渡ったと認識している。
そこにあった我々の側の浮世絵の認識は、文芸作品、文明としての価値はいささかも無いと思っていたわけで、まさしく紙屑そのものだと思い込んでいたのである。
この認識のずれは一体何であったのであろう。
ヨーロッパ人から見るとまさしく異文化であったが、我々の側ではそれを文化などという認識が全くなかったわけで、そんな絵は紙くずと同じで、何にも価値がないと思っていたということである。
これは我々日本人の、西洋コンプレクスであったのだろうか。
若き日の池田満寿夫は、日本ではその実績が認められず、アメリカでデビューして日本に帰ってきている。
アメリカで名を挙げると、日本の業界は下にも置かないオベンチャラを言いまくるわけで、そのことは日本の画壇では真の芸術がさっぱり分かっていないということを端的に示している。
それは絵画のみならず、音楽の世界でも全く同じことが起きているわけで、我々、日本民族というのは、真の芸術を真に理解するということはあり得ない民族だと思う。
常に、自分の価値観を西洋人の価値観と対比させて、少しでも西洋人の価値観に近いモノに価値を置くわけ、それはあくまでも究極のモノマネに尽きるということだ。
限りなく本物に近づくように精進するわけで、本物に近ければ近いほど優れた作品という評価を下すのである。
ところが西洋人の方は、日本の固有の文化に限りない好奇心を寄せるわけで、ここでは確かに文明の衝突が起きている。
今、21世紀という時代になると、情報は完全にグローバル化し、それに引きずられて社会的なインフラも限りなくグローバル化しつつある。
であるからして、今時の若者は、西洋人、アメリカ人、アジア人に対しで、旧世代の日本人のようなコンプレックスをいささかも持っていない。
外国人に対してコンピレクスもない代わりに、偏見も差別も意識していないので、その意味では極めて人類愛に満ちている。
その分、我々のような旧世代の日本人は、今の若者の文化について行けれない。
ゴーギャンやルノアールが、日本の浮世絵を見たら、さぞかし腰を抜かさんばかりに驚いたに違いない。
彼らが、陶磁器を入れた荷物の中から、こんな絵が次から次に出てきたのを見た日には、それこそ驚愕したに違いない。
私の勝手な推測であるが、それは印刷物としての浮世絵であったろうと思う。
多色刷りの印刷物としての浮世絵を見た日には、同じ絵かきとして、その斬新性には大いに感嘆して、研究したに違いない。
西洋の画法とは、その発想の段階から異なっており、それでいて見るものを引き付ける魅力に満ちているわけで、この文化の相異には大きな感嘆が寄せられたに違いない。
問題は、我々の側にその認識が全くなかったという点である。
それで13日の新聞の報じる、「浮世絵版画の出来るまで」の記事を読むと、浮世絵というのは完全なる分業で成り立っているわけで、そういう意味では日本の産業は全て分業で成り立っている。
その最たるものが西陣織ではないかと思う。
しかし、ここで言う浮世絵というのも、今でいえば出版業界と同じなわけで、この業界が複雑怪奇なシステムになっていることがよくわかる。
特にプロデューサーの存在というのが一番の問題点であって、この扇子の要に居るものが、良心的な思考の持ち主ならば、文化の興隆に極めて大きな影響力を出せれるが、この人が邪な心でいれば、文化そのものがあるぬ方向に行ってしまう。
この記事によると、江戸時代にも幕府の検閲というのはあったみたいで、為政者からすれば、下々のものが如何なることを考えているかは常に監視しなければならない事柄であったに違ない。
こういう場合でもプロデューサーの存在が大きくものをいうわけで、彼の存在は、業界全体に大きな力を発揮せしめるに違いない。
その事は、業界そのものがシステムとして機能しているということで、このシステムとしての業界のあり方が、戦後の日本の経済復興の原動力になったのではなかろうか。
作業の流れを細かく分析して、その分析した部分を特化して、その作業のみを専門的にこなすセクションを作り、それを寄せ集めて一体化するという流れは、完全に分業システムなわけで、それが江戸時代に既に日本にあったから、戦後の復興の時それが生かされたのではなかろうか。
しかし、物の考え方というのも、本来ならば時代とともに進化しなければならないが、戦後復興をなした日本はそこで驕り高ぶって、世界を見くびってしまったわけで、それが今日の経済の没落に繋がっていると思う。
我々は、少しばかり成功すると、その成功事例に酔いしれてしまって自分自身を見失い、舞い上がってしまって、周囲が見えなくなってしまうわけで、驕り高ぶって周囲を見下すという極めて軽佻浮薄な民族性がある。
これは我々の民族が、太平洋に浮かぶ4つの孤立した島の住人であるが故に、異民族との接触に極めて不慣れな所為であったが故の民俗性だと思う。
しかし、これは既に過去の事で、21世紀ともなればいわゆるグルーバル化の波を受けて、国境という垣根は限りなく低くなったので、今の若い日本人には、西洋人やその他の外国人に対するコンプレクスは微塵も存在していない。
だから、ヨーロッパにおけるジャポ二ズムのような日本文化に対する奇異な感情も最初から存在しない代わりに、国籍不明、無国籍な文化が日本でも繁栄するということになる。
最近、徒然なるがままにテレビを見ていたらTGCとういうファッション・ショウをしていた。
元々、ファッション・ショウなどに興味があるわけではないので、うつろな気持ちで見ていたが、これがいま世界を席巻しているというではないか。
ファッション・ショウと言えば、パリコレで象徴されるように花の都のパリか、流行の最先端のニューヨークのものばかりだと思っていたら、これが日本発であったわけだ。
東京ガ―ルス・コレクションというのが正式の名前らしいが、今の日本の女の子というのは、まさしく雑誌から抜け出てきたようなスタイルである。
しかし、今の若い世代が、ああいうスタイル、ああいう体形を理想と考えているとするならば、やはり西洋コンプレックスの残滓をひきずっているとも言える。
そもそも、浮世絵に描かれている女性とは、如何にも異質であって、そこに民族の共通基盤は何ら見いだせない。
しかし、文化というのは、大人が意識改革しないことには進化が無いのではなかろうか。
浮世絵を西洋の画家が称賛して、それを見聞きしたのは日本側の大人であったわけで、子供が鎖国時代の西洋人と接触することは考えられないので、そこに居た大人が改めて浮世絵の真価を悟り、それが日本の伝統のものであることに誇りを見出したという音ことあろう。
池田満寿夫の真価についても、旧世代の日本の画壇、つまり老獪な大人の絵かきは、その作品の良さを理解出来ていなかったわけで、それがアメリカで評判を得ると、自分の不明を棚に上げて彼をちやほやするという構図であったと推測する。
よって、人間の進化というのは、何時の時代においても、若者が老人の価値観を踏み倒して、前進するところから生まれるわけで、その意味からすれば老人も、自分の思考に柔軟性を富ませ、若者の活躍を後ろから応援するぐらいの器量があってしかるべきである。
ここで周囲の人々が、老獪な老人に胡麻を摺って煽てあげ、権威付けをし、権威に胡坐をかかせるように仕向けて、それを自己の利益につなげようと計るから、世の中が混沌とするのである。
芸術家の世界も実に汚らしいようで、我々のような無粋な人間には、そういう世界の水が合わない。
あの徒弟制度そのものが実に汚らしい世界である。
日本の華道、茶道における師弟関係の汚らしさと言ったら筆舌に尽くしが難い。
それと同じことが絵画の世界にも、音楽の世界にもあるわけで、日本人が若い人にものを教えるとういうことが、ある種の金儲けに繋がるということは実に由々しき問題だと思う。
茶道、華道の金儲け主義は目に余るものがあるが、日本古来の文化がそういう手法で金儲けをしているのを横目で見た、西洋画家や西洋音楽家も、それと同じ徒弟制度で以て金儲けに専念するわけで、如何にも芸術家という人たちの金への執着は見苦しいものがある。
文化を金儲けの手法に使っているわけで、人前では文化を語り合っているので、その心が守銭奴的金儲け主義に塗れているということを人は知らない。
それを良い事にして文化人の面をしているのである。
我々は、21世紀の今日においても、日本独特の発想をしている限り、日本の未来に明かりは見えない。
今回の大地震は確かに天災である。
しかし、原子力発電所の原子炉の溶融、メルトダウンは明らかに人災である。
原子力発電に携わっている人達の驕り以外の何ものでもない。
問題があまりにも大きいので、焦点がぼやけて地震と津波の方に関心が向いてしまっているが、「想定外の大地震だったので対応が出来ませんでした」では話にならない。
問題がこれだけ大きくなってしまうと、この時点で責任のなすり合いをしている暇は無く、一刻も早く鎮静化に努めなければならない事は言うまでもないが、ここにも日本人固有のものの考え方が露呈している。
もごとに対処するには5W1Hの法則というものがある。
誰が、何時、何処で、何を、どうして、どうなったというものであるが、内閣官房長官の報告の中には、何が、どうして、どうなったという部分が抜け落ちた報告で、「建屋が爆発したのに、詳細が分からない」などという報告は報告になっていないと思う。
事故が現に起きているのに、その事故の理由も原因も経過も分からない等ということがあるわけないではないか。
事故の原因究明に時間が掛かる事は往々にしてあるが、それは緊急事態を適切に処理した後でゆっくりと究明すべきであって、緊急事態を周知徹底させる際に、曖昧な状況説明では適切な処置が取れないことは論をまたない。

「NHK、鉄の沈黙はだれのために」

2011-03-11 12:54:38 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「NHK、鉄の沈黙はだれのために」という本を読んだ。
非常に興味深い内容であったが、如何せん、あまりにも凝りすぎて、写真だか図案だか分からない意味不明のページがあったりして、本の体裁としてはあまり良い感じのものではない。
表紙の図柄を見ても何が何だか分からない印象を受ける。
中味の内容は、サブタイトルにあるように、「番組改変事件10年目の告白」となっている通りである。
事の起こりは2001年の1月30日に放映されたNHKのETV2001という番組で「戦争をどう裁くか」という内容の放送がなされた。
その番組には、その前年の2000年12月に東京千代田区九段会館で女性戦犯国際法廷が開かれて、その内容が「戦争をどう裁くか」というシリーズの中で使われたので、時の政治家、中川昭一と安部晋三がNHKの幹部に圧力を掛けた掛けなかったという騒動についての弁解である。
そもそもNHKともあろうものが、女性戦犯国際法廷なるものをまともに扱うことからして偏向というか、こういうゴタゴタに巻き込まれる大きな理由の一つであり、それは自明のことであった。
そもそも、この女性戦犯国際法廷なるものが、戦時中に慰安婦として軍と行動を共にした売春婦が、彼女らの受けた屈辱と悲惨な状況に鑑みて、その償いとして金を出せということを狙った運動である。
元売春婦が自らこういう運動を起こすことはあり得ないわけで、誰かが知恵を付けて元売春婦であったことを理由に、それを人権問題に転化して金ツルに替えることを考えついたに違いない。
表向きのポーズは、売春婦の人権を慮る運動として、さも人権擁護の気高い志で、時の為政者を諌める思いで立ち上がったのかもしれないが、所詮は、政府から金を引き出させようという魂胆が見え見えの茶番劇である。
単純に金を引き出す、金の問題に焦点が定まっておれば、事は単純化して考えられるが、これらの運動の影武者の狡猾なところは、金のことは一言も言わずに、人権の問題にすり替えて声高に叫んでいるの、単純な思考のものはそこで騙されてしまう。
普通に常識のあるものならば、売春婦の振舞いとわかれば、まともに取り合わないのが正常だと思う。
これは明らかに偏見であり、差別であるが、しかし普通に健全な社会ならば、そういう偏見や差別のある社会こそ健全な社会だと思う。
良い事ではないが、悪い事だからと言って無理やり根絶する事も出来ないわけで、普通の社会ならば両方を清濁併せ飲むという形で推移して行くのが健康な社会だと思う。
売春という商売は、人類最古の商売とも言われており、地球上の全ての地域、民族、国家の中で存在し続けたものである。
普通に常識のある国では、その商売は表向きは非合法になっているし、倫理的にも勧められる行為ではないので、非合法のまま社会に侵潤しているのが普通の実態だと想像する。
この女性戦犯国際法廷なるものを推し進めたのがバゥネット・ジャパンという組織で、これが戦時中に日本が進出した先の売春婦をかき集めてきて、訴訟に持ち込ませる機関であったわけで、売春婦という立場のものが気の毒だという認識は皆が共通に持つ感情であろうが、だからと言って売春婦をかき集めてきて先の戦争の謝罪を求めるなどということは、明らかに整合性が合っていない。
戦争に負けたからと言って、何故に政府が売春婦に謝罪せねばならないのだ。
こういう論理の組み立て方は明らかに常軌を逸しているが、その常軌を逸したアブノーマルな言辞が、何故に大声で叫ばれ、NHKが放送するのだということに繋がる。
この本の中では売春婦という言葉は一切出ていないが、そもそもそこからしておかしいではないか。
売春婦を慰安婦と言い換えることで、あたかまもパンパンが看護婦さんにでもなったような印象を聞く者に与えるではないか。
従軍慰安婦というものは旧日本軍には実在していなかったにもかかわらず、NHKも朝日新聞もこのありもしない、実態のない従軍慰安婦という言葉を未だに使っているではないか。
軍隊の進出した地域、兵隊が駐屯した所に、売春婦がついてきたことは確かにあったに違いない。
兵隊が女郎屋に行って性病を移されては、戦争の時に使いものにならないので、それを予防するために女郎の管理も必要最小限のことはしたに違いない。
だからといって旧日本軍が軍の仕事として、軍務として女郎の管理や女郎屋の采配を振るったというのは明らかに事実の歪曲以外の何ものでもない。
しかし、不思議なことに私の使っているシャープの電子辞書には、この「従軍慰安婦」という言葉がきちんと載っており、しかもご丁寧に「強制連行された朝鮮の女性」と記されているが、同じ広辞苑でも書物の方の第4版の机上版にはこの言葉は無い。
むしろ「従軍看護婦」や「従軍記者」という語彙はあるが、「従軍慰安婦」という言葉は見当たらない。
従軍看護婦や従軍記者というのは確かに軍隊とともに行動していたので、従軍という枕詞も不思議ではないが、そういうイメージで従軍慰安婦というモノの存在も捉えられているのかもしれない。
軍隊とともに行動したというよりも、軍隊の行くところについて行って商売をした売春婦・女郎の存在ということは確かであったであろう。
だからそこで働いていた女郎、売春婦が日本の軍隊から抑圧されて、不条理で屈辱的な扱いを受けたから「日本政府は彼女らに謝罪して金を出せ」という論理は飛躍しすぎだと思う。
そもそもNHKたるものが売春婦をネタにして、公共の電波に乗せてメデイアとして立派な仕事をしています、という顔をしようと考えること自体が不純で邪な発想である。
しかも、教育テレビで放映しようというのだから、それを企画立案する人間の知的教養の底が知れるというものである。
その前の段階に「戦争をどう裁くか」という大前提の立て方からして不遜で傲慢な発想である。
如何なる主権国家でも、伊達や酔狂で戦争を始める為政者はいない筈で、戦争という政治手法を講じるには、それ相応の理由と状況があるわけで、それをあたかも自分が裁判官にでもなったよう気で罪を掘り起こしても意味を成さない。
戦争ということは、主権国家の生存権を賭けた究極の選択なわけで、お互いに生き残らんがために生死を賭した戦いである。
ただただ軍国主義者が、人殺しが趣味で、無意味な殺生をしているのとはわけが違う。
今の若者が意味もなく人殺し、殺人をするのとはわけが違う。
主権国家が国家の存亡を賭けて、自らの国民の生存権を賭けて、窮余の策として踏み切るわけで、何も好き好んでするわけではない。
それを安易に「裁く」ということはあまりにも軽々しい発想ではなかろうか。
人類は第1次世界大戦を経験して「もうああいう凄惨で無意味な戦争はやめましょう」という気にはなったが、やはり人間の欲というものは何人もコントロールしきれないわけで、再び同じ轍を踏むに至ってしまった。
このバゥネット・ジャパンの面々も、女性国際戦犯法廷の人々も、この人間の欲望の存在ということを無視して、その欲望の具現化の結果としての戦争を、戦争の部分のみを抽出して俎上に乗せて議論している。
ところが、戦争という生存権の一部分のみを抜き出して議論して見ても、それはためにする議論というだけで意味をなさない。
人が生きる、主権国家の国民や市民や大衆が生きる全過程から、戦争の部分のみを抜き出し、その抜き出したところからまたまた将兵の性欲のはけ口の部分にのみ焦点を当てて、「そこで犠牲になった売春婦が可哀想だから金を払え」という論理は、結局のところ今の民主党政権のしている良い所どり、良い子ぶり、性善説の具現、可哀想な人に理由の如何を問わず金をバラまく、という極めて無責任は態度だと言える。
戦後日本では売春防止法ができたが、売春という行為を国家が法律で以て止めさせるというのも、あまりにも清廉潔白な理想主義に嵌り込んだ生き様ではなかろうか。
この売春防止法の真の狙いは、売春婦たちを管理する女衒を取り締まるのが本旨ではなかったかと思う。
つまり、売春をさせている側の管理者、つまり置屋の搾取や抑圧を取り締まるのが真の目的であったのではないかと思う。
この法案の政策立案者のあまりにも清らかな心根、純情可憐な思考、絵にかいたような理想主義、自分は良い事をしているという思い込み、あまりにも深窓の令嬢のような可憐な、子供っぽい正義感から、哀れな売春婦を救済しなければという思考に至ったものと考える。
「戦争を裁く」などということがそう軽軽に出来るものではないではないか。
あの東京裁判を検証するというのならば、まだ整合性が見出されるが、「戦争をどう裁くか」などという問題は、あまりも荷が重すぎる。
そこにこれまた茶番劇のような、女性国際戦犯法廷なるいい加減な裁判劇のようなものを混ぜこぜにして番組を作るというのであれば、政治家の関与を自ずと招く性質のものだと思う。
政治家から一言いわれたから、番組を組みかえるというのも、メディアの態度としては情けない話だと思う。
確かにNHKの経営には政治が関与することにはなっているが、私に言わしめれば、NHKが政治的に不偏不党、厳正中立の立場でいるという方がおかしなことだと思う。
NHKには国税は投入されておらず、NHKは受信料で運営がまかなわれている限り、政治的に中立などと言う必要はないと思う。
むしろ国益を阻害するような政党に対しては、もっともっと本音で意見を言ってしかるべきだと思う。
NHKが政治的に不偏不党を今後も堅持するならば、むしろ受信料を廃止して国税を投入して経営すべきだと思う。
メディアとして情報を発信し続けているNHKにすれば、視聴者からの苦情やクレームは当然山のように来るであろうが、そういう苦情の一つとして政治家からの苦言があったとしても、それは日常業務の中の一つのケースであって、だからと言ってNHKの組織の上から下までが大騒ぎする事もないと思う。
この本の著者が言いたかったのは、あの事件でNHKの内部で大騒ぎをすることなく、握り潰したことへの告発である。
NHKの幹部が、朝日新聞の記者からの取材を受けて、その幹部の言うことが、口を開くたびに違っているということが大問題になったのである。
こういうことは往々にしてあることだと思う。
自分自身の経験に照らし合わせて考えても、勘違い、思い違い、物忘れということはしばしばあるわけで、そうそう人を責められるものではない。
私自身は自分史を書いているのでよくわかるが、自分では確かにこうであったと思って記しても、それを他人が読むと「此処が違う、こうではなかった」と、間違ったまま記憶しているということはよくあるので、そうそう安易に「あの人が嘘を言った」ということは言い切れない。
この著者にとっては、自分の職場で、自分が係わった番組で、NHKの幹部が政治家から一言いわれて、番組の内容を変えさせられた、ということは大きな問題であろうが、その番組はメディアが取り上げるには余りにも荷が重すぎた所に問題がある。
その内容の重さに思慮がついて行けなかったところが最大の問題で、戦争を裁くというのも、従軍慰安婦の愚痴をまともに取り上げるという点にもテーマに対する甘さがあると思う。
バゥネット・ジャパンの面々も、女性国際戦犯法廷の関係者も、従軍慰安婦、売春婦、女郎という類の人達に対してあまりにも肩入れしすぎて、そういう人たちは哀れな人達だから何としても救済しなければならないと、少女じみた可憐な正義感に酔いしれてしまっているのである。
そういう可哀そうな人を救済するということは、誰もが反対できない立派な整合性があるので、決して人から後ろ指を差されるようなものではない。
だからますます大声を張り上げるということになるわけで、その勢いは留まるところを知らない。
しかし、これは夢を食うと言われている獏が、理想という夢を追いかけている図であって、我々は日々の生活の中では「将来に夢を持ち、希望を掲げて理想に立ち向かえ」と次世代を担う若者に説いているが、それは若者向けのリップサービスであって、人が人生を生き抜くということは、そんなに甘く綺麗ごとでは収まりきれない。
この本の主題である、番組改変のそもそもの発生源は、売春婦の愚痴を教育番組で取り上げた点にあるわけで、売春婦の言い分を真に受けて、それを報道する事によって、可哀想な売春婦に金をバラ撒こうとする魂胆にあった。
それに青臭い正義感で立ちはだかっては見たものの、泰山鳴動してネズミ一匹ということで終わったということだ。
結論として、NHKの職員であった著者が、自分の番組制作に関して組織の軋轢に翻弄されたということに過ぎない。
煎じ詰めれば組織論に行きつくわけで、組織としてあるプロジェクトに取り掛かっては見たものの、そのプロジェクトが自分の意思とは何ら係わりのないところで、少しばかり修正を余儀なくさせられた、ということに対する愚痴でしかない。
この本を読んでいると、放送局の中で番組がどのように作り上げられるかということが自ずとわかるが、それによると一つの番組に大勢の人が係わり合っているわけで、にもかかわらず今日のテレビ番組で大人が安心して見れる健全な番組が全くないというのは一体どういうことなのであろう。
テレビの番組制作に係わっている人達は、我々と同じ日本人ではないのだろうか。
中国や韓国から入り込んだスパイが、日本民族を愚民化するために一番影響力のあるテレビでくだらない番組のオン・パレードを展開しているのであろうか。
この本の中にも出てくるように、「放送の全責任は会長にある」ということになっているが、それはそうだと思う。
ならば日本の全民間テレビ局の垂れ流す見るに堪えない粗悪な番組の制作責任も、全てテレビ局のトップにあるということになる。
その事実から推し量ると、テレビの堕落はすべてテレビ局のトップの責任ということになるが、こういう人が真に中共や韓国の廻し者で、日本民族、日本国民を真から愚民化する意思で凝り固まっているのであろうか。
私は、そこまで極端な売国奴的な思考は無いと思うが、ただ極めて守銭奴的な金儲け主義、金銭欲の強い欲張りな人間だということは間違いないと思う。
金がすべてという意味では、この本で話題になっている従軍慰安婦、売春婦、女郎と同じレベルの思考だと思う。
バゥネット・ジャパンを立ち上げた人達の思考からすれば、職業に貴賎は無いわけで、売春婦とテレビ局の経営トップが同じ思考であったとしてもとやかく言う筋合いはない。
ただいつの世になっても下ネタというのは愛嬌があって、真から憎めない存在ではある。
こういう精神構造は極めて高度なユーモアを内包する思考回路で、心に相当なゆとりがないことにはありえないわけで、世の中にはこういう機微を察する感性に欠けた人間があまりに多く、春をひさぐ行為を頭から罪悪視する野暮天がいるものである。

「活字たんけん隊」

2011-03-09 08:45:47 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「活字たんけん隊」という本を読んだ。
著者は椎名誠氏である。
サブタイトルには「めざせ、面白本の大海」となっている。岩波新書版であった。
椎名誠の名はよく聞いたが、彼の本を真剣に読んだ記憶は無い。
週刊誌などで彼の文章や写真を見た程度の知識しかないが、彼自身の言葉から察するところ、世界をまたにかけて、あちらこちら旅行以上探検未満の旅をしている風に見える。
羨ましい限りである。
文筆家として、好きなところに好きな時に自由気ままに行ける人生などというのは、そうそうざらに在るものではない。
私はこの本の表題を見て、もっともっと日本語を深く考察する内容かと早とちりしてしまった。
「面白本の大海」というので、本そのものの考察であって、日本語の考察ではなかった。
彼のいう面白本というのは、当然のこと、読む人の好奇心を思う存分に刺激する要素を含んだ本と言う意味で、そういう本ならば誰が読んでもそれなりに面白いに違いない。
要するに本の話であって、日本語そのものの話ではなかったということだ。
私などは根がおっちょこちょいなものだから、「活字たんけん」と聞くとストレートに日本語のことだと早合点してしまったのである。
言葉の乱れということは、恐らく如何なる民族にも普遍的にあることではないかと思う。
世代が次から次へと新陳代謝する過程で、言葉も微細に変化して行くのが自然界の摂理ではないかと思う。
確か川端康成だったと思うが、ノーベル賞を受賞した時の演説で、曖昧な日本語という意味の演説をしたと記憶しているが、私に言わしめれば日本語は曖昧などというものではなく非常に厳密な表現を内包した言語だと思う。
一つの事柄を表現するのに沢山の語彙があるということは、非常に表現のキャパシテ―が豊かということで、とても曖昧などと言えるものではないと思う。
よく言われることに、日本語には 「私」という一人称を現す言葉が数えきれないほどあるわけで、その言葉の多さたるや、とても曖昧などと言える状況ではないと思う。
昨今言われる言葉の乱れというのは、いわゆるボキャブラリー不足で、表現能力が極めて劣っているということだと思う。
普通にテレビで使われているボキャブラリ―に頼り切って、少ない語彙を何度も同じシチュエーションで繰り返して使うので、極めて軽薄に見えるわけで、それはその人のイマジネーションが乏しいからそういう状況を呈してしまうのである。
基本的に一言でいえば、知識も語彙も想像力も乏しいので、貧弱な言い回しを多用するため、その人間が軽薄に見えるのである。
そういう状況から抜け出そうとすれば、この本の著者が言う、活字探検をする以外、いわゆる本を読む以外、方法は無いと思う。
昨今の日本のメデイアは、テレビという媒体が一番隆盛を誇っているが、問題は、このテレビで情報を発信し続けている人たちの思考である。
彼らの知的センスである。彼らの倫理観である。彼らの美意識である。
テレビのメデイアでは、NHKのみが視聴者からの受信料で運営されているので、受信料をとっている手前、公正無私、厳正中立でなければならないが、後は全てが民間資本の民放なわけで、ある意味でカネさえ出せばどう言う放送でもしてくれるという立場である。
これはこれでメデイアとしての立派な立場であり、凛とした社会的存在で、それに徹し切れば立派だと思うが、実情は八方美人的なポーズで良い子ぶって、公正中立と言いながら偏向しているから鼻持ちならないのである。
そこが一番問題だと思う。
民放テレビ局の経営者や経営トップには、それなりに立派な高等教育を受けた教養人が多かろうと思うのに、そういう知性や教養が民間のテレビ局の放映する作品に一向に現出しないということは一体どういうことなのであろう。
そもそも、この狭い日本にあれほど民間テレビ局が要るものだろうか。
放送時間も丸々一日24時間も要るものであろうか。
民間テレビ局の経営者も経営トップも、こういうことを考えたことがあるであろうか。
ある意味で、完全なる過当競争であるが、資本主義体制の中の競争はお互いに切磋琢磨して品質を向上させる効果があるとされてきたが、現実にはお互いに談合して低値安定を計って、放送作品レベル低下に拍車を掛けているにすぎない。
こういうことは経営者や経営トップには充分分かっていると思うが、だからと言って自分だけ、つまり自社だけ仲間から抜けることができないわけで、ある意味で護送船団方式を仲間内で作って、その中で安寧と進化の波を回避しているのである。
私自身もテレビ大好き人間で、同世代の中ではよくテレビを見る部類の人間だと思うが、今のテレビ番組は実につまらない。
見るに堪えない。で、見るのはNHKのニュースと、他に民放の警察モノというか、刑事モノというかそんなドラマのみで、一日の視聴は多くて3時間ぐらいのものである。
年金生活者の年寄りだからこの程度であるが、これが中学生や高校生ならばテレビを見る時間など皆無ではないかと思う。
にも関わらず日本の民放各社は一日24時間近く電波を出し続けているのである。
こんなバカな話があっていいものだろうか。
その点、同じメデイアでも活字メデイアは保存がきくので、その分影響力は持続性が保たれる。
買ったからと言ってすぐ読まなければならないということは無いし、好きな時に好きなだけ読み進めばいわけで、その点大いに自由裁量の幅がある。
しかし、人間が文字を綴るという行為にも時代の推移があるわけで、ここでも若者が古い世代を乗り越えていく姿がみられる。
モノを書くという行為は、言葉を文字で綴るわけで、話し言葉の違いはあっても、やはり言葉の乱れというのは表面に露われてしまう。
私も本の好きな人間の一人として、よく大型書店は覗くが、元々が貧乏人なので、自分で気に入った本をその場で買うということはそうたびたび出来るものではない。
よって図書館を利用するということになるが、人生もかなりたそがれてくると、本をいくら読んでもその人の教養や知性に読書が貢献することは無いと悟った。
所詮は時間の浪費に過ぎない。
やはり「バカは死ななきゃ直らない」ということを人生の終わり近くになって始めて悟った。
私の人生バカだった。

「アメリカン・デモクラシーの逆説」

2011-03-07 09:16:10 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「アメリカン・デモクラシーの逆説」という本を読んだ。
岩波新書だ。著者は1967年生まれの渡辺靖という人で、私の息子と同世代の人である。
自分の息子と同世代の人が著した本というのも、なんとなく寄り付きがたい恐怖を覚える。
その恐怖は、恐らく「価値観がマッチしないであろう」という危惧であるが、戦後の退廃を身をもって体験した者と、日本の戦後復興が完全に満たされた時代に生を受けた若者のアメリカ感が合致する事はありえないことだと思う。
だから「悪い」とか「信用ならない」というものではいが、物を見る視点が違うということは充分にありえる。
約20年以上のタイムラグがあるわけで、このタイムラグの重要さというものを抜きに、日本とアメリカの精神史を語ることは極めてナンセンスなことだと思う。
私の個人的な体験としては、敗戦直後のアメリカ進駐軍の中で育ったようなもので、アメリカ文化と日本文化の軋轢を身をもって体験してきた世代である。
この著者が成人に達して普通にものを考えるようになった時代は、日本の高度経済成長まっただ中のことで、今にも日本がアメリカを凌駕するのではないかと言われていた時代である。
我々のような旧世代の人間は、どうしてもあの戦争、アメリカ流にいえば太平洋戦争、日本流にいえば大東亜戦争であるが、を抜きにして文化論が始まらない。
物事の根本に、何故、日本はあの戦争に負けたか、を考察することからしか、文化論や人類学が始まらない。
この本の標題も「アメリカン・デモクラシー」となっているが、これを日本流に言えば、「アメリカ民主主義」と訳されているわけで、こういう訳語を考えた人は実に素晴らしい着想をしていたと思う。
民主主義という概念は、この本でもしばしば登場しているように、「人民の、人民による、人民のための政治」というフレーズが至言であって、まさしくその通りである。
ところが、これは何もアメリカの突出した思考であったわけではない。
我々の日本民族の中にも、生活の智恵として農村社会では連綿と生きていた。
我々の農村というのは言わずもがな水稲栽培を生業としていたので、水の管理は集落の個々の人間の勝手気ままな行動は許されず、合議で決められていたが、この合議を経る段階で、議長が回り持ちであって、特定の人に固定するということはなかった。
今流の言い方をすれば、小さなコミニュテイ―のリ―ダ―を年ごとに回り持ちで決めたので、一人だけが自分勝手に利権を占有したり、我を押し通すことはできなかった。
ところがこの形態は末端のまことに小さなコミュニテ―のみであって、それが集まって組織化されると、それこそ封建的な統治手法が普遍化してしまったのである。
しかし、江戸時代には約300近い藩があったと言われているが、そのおのおのの藩の中ではかなり自由裁量が許され、封建主義にも大きな格差というか幅があったようだ。
今の言葉に直せば、地方自治が認められていたという言い方になるのであろう。
ところが、これが近代国家として脱皮した時に、我々の考え方が「近代の思考」に乗り遅れてしまったということだ。
明治維新を経て近代国家を目指そうとした時、手っとり早い方法として我々は西洋列強に教えを請うべく、様々な思考を輸入してみたが、我々日本民族というのは、政治というか、統治というか、外交というか、自己の生存のための葛藤を克服するという概念に全く疎く、今の政治下手を見事に露呈させてしまって、一旦は国土を灰燼と化すまでに至ったのである。
戦後の復興で我々はアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国にまでなったと自負しているが、これは我々のもの作りが長けていただけのことで、我々の本質である政治や外交下手が克服されたわけではない。
アメリカと日本を対比して眺めた場合、やはりあの戦争の仕方に大きな差異が感じ取れるが、我々はそもそもこういうものの見方、捉え方をしない。
政治を学問と捉えて、学問という立場から考察を深めようとしているが、政治や統治が真の意味で学究的な学問である筈がないではないか。
最近は漫画を研究する大学があるというが、漫画を研究して漫画学というようなもので、こんなバカな話があってたまるかと言いたい。
政治とか統治というのは、人の生き様を規定する概念であって、究極のプラグマチズム以外の何ものでもない。
その意味で、政治家も統治者も常に失敗する立場にいるわけで、我々が大東亜戦争で敗北したのも、そういう見方で捉えるべきであって、それを「正義」だとか「善悪」だとか、「侵略しかたかどうか」という価値判断で論ずべきではない。
アメリカ合衆国も誕生以来国策の失敗というのは数限りなくしていると思う。
だが彼らのすぐれた所は、その失敗を教訓に転嫁する発想である。
失敗から学ぶということは、民族や国家を越えて普遍的なことであるが、我々は往々にして自らの失敗には蓋をして、失敗から何か教訓を引き出すという思考に至らない。
失敗は無かったものとして、その失敗を隠して、成功事例を参考にして新たなプロジェクトを考え出そうとするから、計画が場当たり的になってしまうのである。
戦争に対する考え方は、自らの生き方そのものが問われていると思う。
アメリカにとって太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタン戦争などなど、第2次世界大戦後も様々な戦争を引き起こしているが、この中で対日戦ほどアメリカという国が挙国一致で真剣に戦争遂行したケースは他にないと思う。
ベトナム戦争などアメリカは本気で戦争しているようには見えなかった。
ベトナムのジャングルの中で、アメリカ人の同胞が血みどろの戦いをしている一方で、アメリカ本土では反戦平和を掲げてデモが起きているわけで、これは一体何なんだという感想は免れない。
この本の表題は、「アメリカン・デモクラシーの逆説」となっているが、その意味からするとベトナムのジャングルで戦っている若者が居る一方で、アメリカ本土にはヒッピーとかフラワー・ムーブメントと称する軟な平和主義が罷り通っていたわけで、この現実こそがアメリカン・デモクラシーの逆説そのものを具現化している。
この寛容さというものがアメリカのデモクラシ―の懐の深さとも言える。
共産主義国を引き合いに出すまでもなく、アメリカ以外の普通の国ならば、片一方で戦争しながら、もう一方では平和運動に寛大な措置をするということはありえないと思う。
旧ソ連や、中国、北朝鮮で、こういう状況が考えられるであろうか。
これをアメリカの懐の深さとも見れるが、私に言わしめれば「もっと真面目に戦争せよ」という言いたくなる。「そんな不真面目な戦争ならば、ただちに撤退せよ」と言いたくなる。
これは何処からどう見てもアメリカの政治・外交の失敗そのものであって、だからと言って余所の国がアメリカの国策にとやかく嘴を差し挟むこともできないわけで、アメリカの行動をただただ見守る他ない。
アメリカに、ベトナム戦争を始めとする独善的な戦争を止めさせるべく、アメリカに開戦する事、すなわち武力行使をするわけにもいかず、基本的には「泣く子と地頭には勝てぬ」ということになってしまい、ただただ傍観者でいる他ない。
「逆説」という意味では、戦争中にも関わらず、国内で反戦平和運動が何の制約も受けずにできる、ということはそれこそアメリカン・デモクラシイーそのものだと思う。
国家が成そうとすることに、国民あるいは市民が反対の意思表示が許されている、ということは極めて重要なことだと思う。
この認識は、我々日本人にはきっと理解できない概念だと思う。
こういう点で、我々とアメリカ人では発想の原点から差異があるわけで、それは恐らく国民国家の成り立ちが大きく影響しているように思う。
つまり、我々は太平洋の片隅の小さな島に、比較的長い間、他民族と混交する機会もないまま、肩を寄せ合って生きてきた民族である。
ところが、アメリカ人は言うまでもなく人種のるつぼと称せられるぐらい様々な人達が入り混じっているわけで、この両者の間では当然のこと、ものの考え方に差異があっても不思議ではない。
それは善し悪しの問題ではなく、それぞれの個性であり、それぞれの価値観の相異ではあるが、この両者がお互いに共存して行く上では、その違いをよく認識し合い、相互に理解し合い、双方の国益とのバランスを考えて対処すべきことは当然である。
ただ世の中のことはアメリカと日本だけの関係ではなく、アメリカも日本も、それぞれに世界と大きく関わり合っているわけで、その中での両国の利害得失は極めて流動的に浮遊し、動き回っているのである。
アメリカから見たヨーロッパや中国との関わり合いと、日本のヨーロッパや中国との関わり方では、大きく利害得失が異なっているので、そういうもろもろの因子の平衡が、世界的な平和につながり、同時に戦争にもつながるわけで、こういう視点で世界を眺めなければならないと思う。
確かに、理屈で攻めればこういう議論になるが、我々、日本民族というのはこういう理詰めの議論が下手で、どうしても感情論に走りやすい。
○か×か、正義か偽善か、善し悪し、善悪、嘘か真か、という二者択一の議論になりがちであるが、そういう物の考え方は、極めて偏狭な思考で、アメリカ人はこういう発想には至らない。
そういう意味で、我々とアメリカ人ではものの考え方が発想の段階から違っているわけで、我々はともするとその部分に思いが至らず、世界の人は皆同じ発想をすると思い込んでいる節がある。
だからアメリカン・デモクラシーはそのままでは日本になじまないので、日本流のデモクラシ―になるのはいた仕方ない面がある。
よって、我々が、自由・平等を声高に叫ぶと、それは我儘の奨励、我儘賛歌になってしまうわけで、デモクラシーとは異質のものになってしまうのである。
自由を無秩序と勘違いし、平等を競争の排除と見做してしまうのである。
要するに、自分を中心にして自分の思う通りにならないと、為政者の側が悪く、統治される側の瑕疵は棚上げしてしまうのである。
例えば、不幸にして体の不自由な子供がいる。
そういう子供にも国民の権利として義務教育を授けようとして、特殊学級、あるいは養護学級というものを行政側がが用意する。
するとその措置を「差別の助長」と曲解するわけで、体の不自由な子供をわざわざ「普通学級に入れよ」とゴネルわけで、体の不自由な子供に特別枠で教育を施そうとすると、それを「差別だから駄目だ」というのである。
これは自由と平等を完全に履き違えた思考であって、我儘を言うことを自由と思い込み、平等であることのデメリットを無視する行為である。
体の不自由な児童を、健康な児童と同じように扱えば、本人も周りのものも何かと学業に支障をきたすことは歴然としているわけで、だからこそ特別枠を施しているのに、その真意を理解しないということである。
こういう事例は、我々、日本民族が限りなく純粋培養に近い均一的な特質をもっているので、他者との接触が極めて少ないため、自分が我儘を言っているという感覚が希薄だということだと思う。
アメリカのように色々な人種が入り混じった社会の中におれば、自分の言っていることが如何に我儘かということを思い知らされるが、我々は極めて同質性の高い社会なので、そこに甘えが出てくるのである。
そこで、有識者とか学識経験者というような人が、「あなたの言っていることは我儘だよ」と言えばいいが、そういう人はそういう人で、如何にも物分かりの良いポーズをとり、弱者の味方というような顔で、その我儘に理解を示すからデモクラシーがいびつなものになってしまうのである。
デンクラシ―というのは基本的には話し合いの制度だと思うが、我々はともするとこの話し合いということが事の他下手なように思う。
日常生活の中でも様々な話し合いの場、仕事上の会議とか、プロジェクトの立ち上げの時とか、意見を集約する時とか、様々な話し合いの場があると思うが、どうもこういう時に自分の意見を言う、自分の考えを披露するというテクニックが下手だと思う。
究極の話し合いの場というのは、当然の事、国政の場における演説であり、国会における意見の交換、政策の検討会議でなければならないが、我々はどうもこれが下手で、実のりある討論にはなっていない。
発言する側も答弁する側も、相手を説得するという態度ではなく、ただただ相手の瑕疵を挙げつらって、揚げ足とりに終始して、与野党とも真に国民の為であれば、双方に妥協点を見出す努力をするのが当然であって、それがすべてall or nothingであってはならないと思う。
こういうところが我々のデモクラシ―の未完成の部分だと思う。
我々日本民族というのは極めて均一性に富んでいるので、以心伝心、言葉で言わなくても通じあえるという特質をもっているし、リ―ダ―の権威にあまり信を置いていないので、すぐにでも椅子を放り出しで下野する潔癖さに価値を認めている。
リーダーという椅子、立場にいささかも未練がましさを持たないことが潔い気風とみなされている。

「教育とはなんだ」

2011-03-05 07:47:03 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「教育とはなんだ」という本を読んだ。
サブタイトルには「学校の見方が変わる18のヒント」と称して、著者が様々な教育関係者に会って、それぞれの視点から今日の日本の教育を眺めたドキュメンタリーであった。
教育というものはやはり主権国家の根幹をなすものだと思う。
「今の!」というよりも、戦後の日本教育は「民主教育」という言葉が一人歩きしているが、この言葉の定義そのものが極めて曖昧で、「何を以て民主教育か」ということが定まっていないように思う。
そもそも人間が集まって社会というものを構成し、その社会では当然の事、統治者が自然発生的に生まれるわけで、自分たちの社会をリードする人、あるいは象徴となるべき人、あるいは集団の自己の利益を優先的に考える人などと、一人の統治者でも時代状況と、その場その時の周囲との関係で、立ち居振る舞いは往々にして変化するのが普通である。
しかし、如何なる統治者であっても、自分たちの集団の未来を担う若者が如何にあるべきか、という確たる信念と理念でもって、次世代の若者の教育を考えていると思う。
これは政治体制の如何に関わりなく、自分達の集団、つまり社会をひきつれているものにとっては、普遍的な課題だと思う。
よって、次世代を担う若者の教育には、時の為政者の理念や理想が反映されることは理の当然であって、その中で日本の戦後の民主教育という言葉は、一体、如何なる価値観をもたらしたというのであろう。
我々の例を見ても、江戸時代においては武士は武士なりに、商人は商人なりに、それぞれに次世代を担う若者を鍛えていたが、明治維新になって近代的な統一国家が形成されると、その時とその状況に最もふさわしいと思われる富国強兵という理念に沿った教育が優先された。
その行き着いた先が、国土の焦土化、焼け野原化であったわけで、その後の新生日本がとってきた教育の指針がいわゆる民主教育というものである。
明治維新から太平洋戦争の終結までの間の教育は、富国強兵を理念とした軍国主義教育であったわけで、その結果として、日本は奈落の底に落ちてしまったので、この時に我々の中の知的に優れた人達は、そのことごとくが自分に対して自信を失い、自らで自らを貶め、悔悟の念にさいなまれ、極めて自然な思考に回帰してしまった。
そのことは言葉を変えて言えば、限りなく自然人の思考に戻って、高等教育による精神の昇華を否定し、動物としての原始の思考に先祖返りしてしまって、自己の欲望に極めて忠実に生きる選択をしたのである。
人類の歴史をつらつら考えると、学問の発展というのは、古代の富裕層の暇つぶしの思考、いわゆる頭の中の遊戯の延長として「ああでもないこうでもない」と日がな言い合うことによって、真理が追究され、物の本質が語られ、それを実務で実証することによってテクノロジーが発達してきたものと思う。
だから学問というのは古の富裕層、別の言葉でいえば貴族、あるいは大地主、大商人の暇つぶしの、極つぶしの延長であったわけで、貧乏人の関与すべきものではなかったのである。
しかし、学問というのは為政者が民衆を統治する際には非常に参考になるわけで、社会の上の方に居る人達にとっては、必要不可欠の概念になってしまった。
ところが時代が進んで、社会が様々に変革して国民国家が形成されるようになると、今までは下々の立場として学問に縁のなかったクラスでも、学問を治めれば自分も富裕層の仲間に入れるのではないか、と思うようになった。
ならばそういう知識を教えて、人々の知的水準の底上げを計れば、国全体をしてもっともっと国力を向上させることが可能ではないか、と考えるようになったのであろう。
最初はごく少数の富裕層の中で行われていた学究的思考が、テクノロジーに応用され、それが富を生むようになると、大勢の心賤しき人達がそれに群がるようになり、学問を自己の欲望追求の手段とみなすようになってしまった。
学問を治めることによって、それを自己の立身出世の道具と見做して、自己の欲望達成にとって一番有利と思われる学問を選択をするようになった。
これを生きる側の人間の視点で見れば、現実に生きる人間からすれば、当然の選択であって、自己の幸福を追い求める姿は何らやましいものではない。
大自然の中のごくごく自然な生き方そのものであるが、ここで万物の霊長としての人間ということを考えると、人が野生動物と同じ思考のまま、自然の欲求に素直に追従していていいものであろうか。
弱肉強食、優勝劣敗が自然の法則であるが、この自然の法則のままに人が生きていていいものであろうか。
自分達の次世代を担う若者の教育に国家が関与する、為政者の恣意的な施策がその国の若者の教育に反映されるということは、人間の集団としての国家が存続する限り必然的なことだと思う。
こういう状況の中で、民主教育という言葉は、どういう教育のことを言うのかイメージが湧かないが、恐らく戦前の軍国主義教育に対する対の言葉として、そういう言葉が生まれたのであろう。
戦前の軍国主義教育の反省から、こういう言葉になったものと推察している。
しかし、戦前の我々日本人の在り方というのは、ニワトリと卵の関係ではいが、先に教育があったから軍国主義になったのか、それとも、その前に日本を取り巻く周囲の状況から、日本が生き残るための突破口としての挙国一致を目指した施策をフォローするために、軍国主義教育が必要であったのか、甚だ判断が難しい場面である。
あの当時、昭和初期の時代において、国際的に孤立化した立場を打開せんが為の軍国主義による国威掲揚であったとすれば、こんなことは国民国家ならば当然のことで、そのこと自体は何ら咎められるべきことではない。
ところが、そのことによって我々はアメリカ合衆国に多大な迷惑と困惑をもたらしてしまったので、戦いが敗北となった暁には、アメリカからその報復を受けたことになる。
それがアメリカによる日本の教育界改革であったわけである。
日本がアメリカと戦を交えるまで、アメリカ人から日本人を見れば、まさしくイエロー・モンキーそのもので、だからこそ日本人排斥運動が起きたわけだが、その見くびっていた日本人が、真珠湾を攻撃して、太平洋の島々でアメリカ軍に多大な抵抗を示し、アメリカ軍の思い通りの行動はさせず、アメリカ軍に苦戦を強いたので、彼らにしてみれば恨み骨髄にまで達していたに違いない。
だから戦争に勝利したアメリカは、日本が再び武器をとってアメリカに対抗する力を持たせないように、徹底的な日本民族愚民化政策を講じたわけだ。
このアメリカの潜在的な被害者意識は、日本を取り巻く周辺諸国、中国、ソ連、朝鮮にとっても、アメリカと共通する利益だったわけで、利害が全く一致していた。
つまり、日本が太平洋戦争、日本流でいえば大東亜戦争に立ち上がったということは、世界中、連合国全部にとって極めて驚異的なことであったわけで、そのことは同時に今まで西洋列強に抑圧されていた国にとっては大喝采であったわけである。
結果として我々は敗北したので、勝利者としてアメリカは、日本民族を徹底的に愚民化する施策を講じたのである。
我々が、かつては軍国教育で国威掲揚を計って、アメリカと戦ったのと同じ構図で、アメリカは日本民主化教育と称する施策を打ち出して、日本の教育の改革に乗り出したのである。
アメリカは、日本人の精神を軟弱にすべく知恵を絞って施策を講じてきたが、このアメリカの指針は、当時、日本で勢いをもちだした日本共産党の指針と酷似していたわけで、日本共産党はこれまたソ連共産党の利益代表のようなもので、日本民族を愚民化するという大命題については、米ソの利益得失が合致していたわけである。
米ソの思惑は当然だと思う。
「日本人に武力を持たせると何をしでかすか分からん」という恐怖感は、共通認識になっているものと思う。
しかし、こういうことは我々を取り巻く外側の状況であって、我々の内側においては、実に日本的な対応の仕方できたわけで、それは一言でいえば何もしない、時の流れに身を任せて何もしない、という選択である。
確かに、個々の人は、思い思いに、言いたいことを言い募っているが、唯たんに声高に騒いでいるだけで、施策としては何一つ機能していない。
主権国家の国民教育には国家の意思が反映されて当然である。
自分たちは将来こういう国民を育て上げるのだ、という目的が明確にあって当たり前だと思う。
明治維新以降の我々の国では、それが富国強兵であったわけで、その目標に向かって初等教育から高等教育まで、一環してその理念が貫かれていたように思う。
それが敗戦によって全否定されたわけで、アメリカ軍に国土が占領されると、その国土に生き残った我々の同胞は、ただただ生きんがため、食わんがため、理念や理想をかなぐり捨てて、「先生デモするか、先生シカできない」、という世代を輩出したのである。
そういう混乱の場に、アメ―バーの自己増殖のように蔓延してきたのが共産主義であって、先生という職場が共産主義者に占領されてしまった。
前にも述べたように、共産主義のいう理念と、アメリカの占領政策としての日本民族愚民化政策は完全に利害得失が一致していたので、戦後の日本の教育界は共産主義者に占拠されてしまった。
例えば、平等を強調するあまり徒競争の順位まで否定して競争を否定し、順位を否定し、皆一緒に全員で揃ってゴールしましょうという論理である。
例えば、先生と生徒の立場を否定して、皆同じ人間として平等であるとなれば、物事を教えるという行為は成り立たなくなってしまう。
私が世の中のことで非常に不可解だと思うことは、戦前の軍国教育でも、戦後の民主教育でも、極めて整合性を欠いた論理でその施策が押し進められているが、その矛盾に時の知識階層が何ら反駁、反論、意義申し立てをせず、汲々とお上の言うことに追従していることである。
戦後は確かに文部省の言うことに、日教組が反駁して大騒動になっているが、この場合、日教組の言い分の方に瑕疵があるようの思うのだが、時の知識人はそれを言わない。
戦前は官の側にすり寄っておきながら、戦後は労働組合の側に身を寄せているわけで、この節操に欠けた日本の知識階層の存在をどう考えたらいいのであろう。
文部省、今の文科省が善人で、日教祖が悪者だと単純には言い切れないことは十分承知しているが、文部省、文科省が官僚主義に埋没しているということは現実の問題として看過できないと思う。
我々は小学校や中学校にあまりに多くを期待しすぎているように思う。
私は自分の子供の親という立場でしか学校を見たことがないが、学校の先生はあまりにも忙しすぎるように思う。何故あれほどまでも雑用があるのであろう。
子供が家で事故に遭う、学校以外の場所でトラブルに巻き込まれる、すると担任や校長がメディアの前で謝罪する光景がテレビに映されるが、生徒の個人的なトラブルまで学校の所為にするのは明らかにおかしいではないか。
そのおかしさに誰一人異議を差し差し挟まないというのは一体どういうことなのであろう。
昨今は、モンスターと称する輩がいるらしく、些細な瑕疵に因縁をつけて先生や学校サイド、はたまた行政サイドを糾弾する父兄がいるらしいが、どうして学校の先生たるもの、こういう父兄に正面から立ち向かわないのであろう。
小中学校のイジメの問題も、イジメなどというものは地球上のどの国でもどんな民族にもあるわけで、いちいちそれに屈していたら、いくら体があっても立ち行かない。
イジメがあれば、その時その場で直ちに反撃するという心構えを否定して、「イジメはいけません」と口で言っているだけなので、ますます陰湿化するのである。
モンスターと称する話のわからない父兄の存在も、根底に、「相手の言うことに盾突いてはいけない」という自虐的な正義感があるので、相手に言い込められてしまうのである。
お互いに人間として生き切るということは、生存競争を具現化しているわけで、モンスターの言い分も言葉の戦いとみなし、言葉で戦いを挑まれたならば、こちらも全知全能を傾けて言葉で応酬すべきである。
ここで相手は失うものが何もないので、裁判闘争に持ち込もうとするが、そう口火を切られるとこちらは裁判に勝てるかどうか、風評被害がどうか、従来の威信や名誉が失墜するのではないか、という不安に駆られて腰が引けてしまう。
戦後の民主教育では、平等を金科玉条とするあまり、人と争うということを極端に嫌悪するので、あらゆるものを優劣という価値基準で見ることを極端に戒めている。
先生と生徒の立場は平等であってはならないのである。
男と女の性差は同じではないわけで、その相異を素直に認めて、それに適切に対応することが男女共同参画の理念でなければならないはずである。
教育現場で、父兄の中にこういうモンスターと称せられる父兄が存在したならば、それは学校という組織全体で対処すべきであって、こういう事態に対する危機管理が現場の先生方には欠けているのではなかろうか。
個人的なことではあるが、私も人の子の親として、子供を近くの公立学校に通わせたが、学校サイドの子供に対するもろもろもの規制には、ついて行けれないほどの矛盾というか馬鹿馬鹿しさを感じた。
子供にも家内にも、「中学校の間だけの3年間だけは、我慢して目をつぶって学校の言う通りにしておけ」と諭したし、学校が父兄に対して付けてきたクレームは、一切無視した。
まさしく学校の先生の言うことには、生徒のみならず父兄でさえも承服しかねるほどのナンセンスなことがあまりにも多かった。
モンスターと言われる父兄も、それを引き起こす学校サイドも、どちらもどっちである。
徒競争の順位を否定して、皆が一斉に横並びでゴールして何が教育だと言いたい。
先生と生徒が平等ならば物を教えるということが成り立たないではないか。
教える立場と、教えれられる立場という、自らの立ち位置をはっきりと峻別させておかないと、教えるという行為が成り立たないではないか。
学校教育は幼稚園の遊戯ではないのだから、そういうけじめはあって当然だと思うし、そうでなければならないと思う。
戦後の日本人がナマコのように筋の通った背骨を失ってしまったのは、戦後の民主教育の所為ということは紛れもない事実であろうが、私に言わしめれば、あの戦争に生き残った同胞がPTSDに嵌ってからだと思う。
PTSDというのは、心的外傷後ストレス障害という病気で、いわゆる強力な外的要因で精神に異常をきたし、その症状から何時まで経っても脱出しきれないという現象である。
今まで自分の周囲では「日本が勝つ勝つ」と言われ続けてきたものが、一夜にして敗北となり、アメリカ軍は上陸してくる、ソ連軍は不法占拠するはで、日本国中未曾有の大混乱で、この時、生き残った人々、戦場に行きそびれた人たち、壮年で兵役に付けなかった人たち、婦女子で戦地に行けなかたった人たちは、すべてがこのPTSDに陥っていたものと私は考える。
そこに衣食住満たされていた牢屋から解放された筋金入りの共産主義者達が、アメリカ占領軍と足並みそろえて改革を推し進めたので、あの戦争で真面目に戦った人は、その価値観の大逆転に迎合出来ないでいたのも無理からぬことである。
だからこういう人たちは戦後沈黙してしまった。
自分たちのしてきたことに蓋をしてしまって、一切語らなくなってしまったので、敗戦で断絶した文化の断層がそのまま残ってしまったのであろう。

「『平穏死』のすすめ」

2011-03-02 17:11:09 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「『平穏死』のすすめ」という本を読んだ。
サブのタイトルには「口から食べられなくなったらどうしますか」となっている。
一言でいえば老人の死についての考察であるが、平成11年に90歳で天寿を全うした我が父親のことを思い描きながら読んだが、どういうものか泣けて泣けて仕方がなかった。
自分の父親が死んだ時も涙が出るということは全くなかった。
冷静な思考の元で事後処理というか、葬儀の段取りを執り行い、つつがなく世間並みの振る舞いをしたと考えている。
自分の肉親の死では一滴の涙も出なかったが、こういう何でもない本を読んで、さめざめと泣けるというのは一体どういうことなのであろう。
本ばかりではなく、映画を見てもテレビを見てもすぐに感情移入が起きて、ところ構わず涙が出て来るというのはまことに困ったことだ。
肉親の死別では一滴も涙が出ないのに、映画の中や、テレビの中、はたまた本の中の見ず知らずの人の立ち居振る舞いによって、脳の中の何処かが強烈に刺激を受け、涙腺が緩んでしまうと言う事は、どこか精神に異常があるのであろうか。
しかし、この本の言っていることは、その全てが最も至極のことである。
老衰で何時死んでもおかしくない人に、救命医療を際限なく施すというのは、明らかに過剰医療で、個人の尊厳を頭から冒涜する行為だ、という論旨は全面的に賛成である。
人間を、ただただ生命の尊厳を無視して、生物学的に死ではない状態のままで生かし続けるtことは、現代の医療では技術的に可能なことはよく理解できる。
つまり、植物人間として生かし続けることは医学的には可能であろうが、それでは個人の尊厳がどうなっているのか、という点が最大の問題で、この個人の尊厳、個人の意思という観点に立つと、現代の延命措置が如何なる価値を示しうるか、という点に思考が集約されている。
その前に問題とすべきは、世間一般の老衰に対する認識であり、老衰による死に対する価値観の転換であると思う。
普通に世間一般の認識では、人の命たるもの未来永劫、生き続けさせることこそが最良の医療措置で、その理念に反する行為は、殺人に等しい行為だという認識である。
特別養護施設に家族を預けておきながら、あるいは病院に家族を入院させながら、自分で自分の肉親の介護を丸投げ、人任せにしておきながら、そこで何か事故が起きると、施設側の責任を執拗に追及して、施設側を困らせる感覚というのは許し難い行為である。
ところが、世間一般では、どうしてもこういう家族の訴えに整合性を見出し、施設側に不利な判定をしがちである。
こういう施設あるいは病院に入っている人は、最初から普通の日常生活が維持できないから入っているわけで、元々事故に遭う確率は極めて高いわけで、それを一方的に施設側の責任に転嫁せるのは、甚だ無責任は思考だと思う。
施設や病院も、人が人を介して業務が遂行されている以上、人為的なミスというのは皆無、完璧に無事故ではありえない。
こういう場合、事故が起きると家族が被害を法廷の場に持ち出し、裁判官の裁定で施設側の不備が指摘され、施設側は膨大な賠償金を払うという、過程を経るわけであるが、ここで問題となるのが裁判官の裁定である。
裁判官も一人の人間として、人間として良い子でいたい、という潜在意識があるわけで、施設側と個人という対立の場では、個人の方が弱者に見えるわけで、その弱者の立場を擁護すべきが正義だ思い違いに嵌っているのである。
老衰で死にかけた老人を前にして、医師として「放っておいてもどうせ死ぬのだから医療は必要ない」という事は極めて言い難い立場だと思う。
しかし現実はそうである。
この本で言わんとしていることは、老衰は医療措置で克服することは不可能で、それは自然の摂理に従った自然現象なので、無理な延命阻止は本人を苦しませるだけだ、ということを強調している。
にもかかわらず、家族は一分一秒でも生かしたいと考えるわけで、家族の意に沿わない医師は、殺人として告発するという事になる。
こういう状況を目の前に掲示された裁判官は、どうしても従来の価値観に引きづられて、医療を拒んだ医師に酷な判定をせざるを得ない。
老衰した老人を、胃瘻や経鼻胃管で生命維持を計ったとしても、本人にとってみれば何の有難味もないわけで、ただただ苦痛の上塗り以外の何ものでもない。
ただ本人の苦痛が解らない周囲の者は、本人のためにベスト尽くした気でいるが、それは本人にとって見れば苦痛でしかないのである。
今の時代に生きる我々が、親の命を一分一秒たりとも長生きさせなければ、という観念は明らかに時代遅れの発想であって、それが自分の身内の努力で出来るうちはともかく、施設や病院に入れておいて、そういう場が万全の体制でないから、親が死んだ、ついては金寄こせという言い分は、まともに耳を貸すに値しない行為だと思う。
裁判所もそういうことをはっきりと言わないわけで、何となく「何もしないというのは悪しきこと」という認識から抜け切れていない。
長生き願望、長寿願望というのは人類誕生の時からあると思うが、それは人類の永遠の夢であることに変わりはないわけで、21世紀ともなれば人は人類の歴史というものを深く掘り下げて考えるべきだと思う。
今、世間では理不尽な理屈をこねて人を困らせる輩をモンスターと称しているが、このモンスターをのさばらせているのは案外世間一般の無責任な発言に原因があるように思う。
「私の親をあの施設がぞんざいに扱った」と言うと、それを聞いた世間一般の人は、言った本人を責める前に、その施設がケシカラン存在だという印象を受けがちで、言った本人は善人になり、言われた施設が悪人に見立てられてしまう。
これはメデイアにも大きな責任がるわけで、施設なり病院というのは入所者をお客様然と扱うのが使命であり、そこで理不尽な扱いがあればそれは立派なニュー・スソースになりうる。
こういう施設が普通に機能している間は何らニュースとしての価値は無いが、そこで事故が起きれば大きな顔をして、正義を振りかざして施設や病院を糾弾することができる。
それを見聞きするがめつい、あるいは強欲な、貪欲な人は、あるいは邪な心根のものは、こういう施設や病院のミスを突けば金になるということを学習してしまう。
施設と個人という立場からすると、どうしても普通の人は判官贔屓になりがちで、組織としての施設側は分の悪い立場に立たされてしまう。
こういうトラブルが裁判の場に持ち出されると、裁判官の印象も、個人には甘く施設側には厳しくあたるわけで、結果として個人が莫大な補償金をせしめることになり、次から次へと二匹目のドジョウを狙って新たな訴訟が提訴されることになる。
私の父がいよいよ駄目になりかけた頃、認知症ではないがそれに近い耄碌した思考に陥って、幼児じみた我儘を言うようになった。
私は、傍におれる時はいたので、そういう我儘にも応えれる時は出来るだけ応えてやったが、父の姿は明らかに老醜というものであって、完全に人間としての人格が破壊されてしまっていた。
暴れたり、徘徊したり、人に迷惑を掛けることはなかったが、老人の醜い姿であることに変わりはない。
こういう自分の父の姿を見ていると、自分自身、実に情けない気持ちになる。
老衰で、これが大自然の自然の流れだとは頭の中では解っていても、自分の父の哀れな老醜を見るには忍びない気持ちになった。
やはり、自分の父親の姿を見ながら、こうまでして生きたくはない、自分の息子や、娘や、孫に、自分の老醜の姿は見せたくないと、心から思った。
だから私は安楽死の容認ということを、社会全体で真剣に考えるべきだと思っている。
死にたくないと思っている人に「お前は耄碌したから死ね」という訳ではない。
体も健康で、意識もしかりしでいるうちに、自己の自由意思で、自死の申告をするのであって「私は自分の人生を十二分に生きさせてもらったから、もう思い残すことはありません。ついては老醜を曝す前に三途の川を渡りたいので、御許可願います」という念書を書くという考え方である。
五体満足で何不自由なく生活できている間に遺書を書いておくようなもので、なにもわからなくなってから無理やり死に追いやるというものではない。
希望を失ったわけでもなく、自分の人生に自分で納得したわけで、決して逃避ではないはずである。
我々、今、生きている人は、自分が70、80、90まで生きるなどという事は想定していなかったと思う。
自分の人生はせいぜい50年ぐらいと思っていたわけで、後の20、30、40年というのはおまけの人生のようなもので、ある意味で拾いものである。
最近、どこの町でも老人の孤独死というのが社会問題になっているが、一人暮らしの老人が自分の家で死ねるなどという事は非常に恵まれた死に方なわけで、問題視するほどのことではないと思う。
年老いた老夫婦が、配偶者を先に見送り、自分一人になった以上、一人で死んで行くのは生物の自然の姿なわけで、可哀想でも悲劇でもなんでもないと思う。
大自然の自然の成り行きであって、それでこそ尊厳死だと思う。
交通事故や病院で死ぬことの方がどれだけ、非人間的で残酷であるか冷静に考えるべきで、自宅で自分一人で死ねるなどという事は、これほど本人にとって目出度い話もないと思う。
人が死ぬ時は、家族や親せき縁者に囲まれて、皆に看取られて死ぬことが、人の死に方としては最良のものであることは、素直に認めざるを得ないが、それが可能なのは極限られた幸せな人であって、大部分の人には、そういう幸運は巡ってこない。
この世の生きた人の全部が全部に、同じような幸せを分かち合わねば、という発想はあまりにも驕った考え方であって、おてんとうさまに対して不遜な思考である。
住み慣れた自分の家で生涯を終える、というこんな幸運は稀なことなわけで、後に残るものに看取られて死ねことが最良の死だ、と思い込むのは勝手な思い込みに過ぎない。
現実にはそうはいかないわけで、それをあくまで望むというのは、ある種の驕りである。
この地球上の生物で、そういう死に方をするのは、傲慢な人間以外に他にはないわけで、自然界の生きものは一人で生まれ、一人で死んで行くのである。
人間だけが大勢の他者に看取られて、大騒ぎして死ぬわけで、こんなことは自然の摂理から乖離した思考に過ぎない。
人間の驕り以外の何ものでもない。
この世の宗教家は、そういう人間の驕りを諭して、人は生まれる時も一人ならば死ぬ時も一人で行くべきだ、と大衆に説くことこそ重要だと思う。
こういう間違った認識を抱え込んでいるので、世間の人は、老人がたった一人で死んだと言って大騒ぎするが、その騒ぐこと自体が認識はずれである。
人は老齢になれば、健康な時と同じ状態ではないわけで、老いというのはいくら金を掛けて、万全の医療を施しても、元には戻れない。
そういう自然の摂理がわかっている以上、無駄な抵抗はしない方が得策である。
ここで自然の摂理に逆らって、無駄な抵抗をしても、本人が苦痛に苦しむだけで、老衰の境地にまで肉体の退化が進んだならば、たとえ一刻一秒たりとも延命措置をしてみたところで、本人の苦しみは周囲の者には解らないままで、無意味な抵抗だと思う。
こういう場面で、家族も、医師も、その患者の延命措置に対してベストを尽くしたかどうかで、自責の念に捉われて、人から後ろ指を差されることを恐れて、『最善を』という自己満足に揺り動かされ、無駄な抵抗を余儀なく強いられることになるのであろう。
先に述べた、俗にいうモンスターと称せられるわからず屋は、自分は患者を施設に預けているお客様という認識に立って、施設や病院に無理難題を吹っ掛けてくるのだと思うが、その心は施設側の手落ちを自分の金儲けの手段にすり替えようと言う極めて悪質な拝金主義に陥っておると考えられれる。
自分では出来もしない親の介護を、施設や病院に丸投げしておいて、ほんのささやかな瑕疵を見つけると、それを根拠に金をせびるという魂胆である。
普通に話し合っていては、論理的に論破できないので、弁護士を頼んで、裁判にまで持ち込み闘争を煽ることで、自らの正当性を鼓舞する手に出るのであるが、ここで裁判官が正常なコモンセンスに依拠した適正な判断を下せば、ごね得という事はあり得ないが、こういう場面で往々にして裁判官が弱者の味方たという論理で施設や病院サイドに不利な判決を下す。
俗にモンスターと言われる人は、そこをよく心得ているわけで、施設や病院の弱点を心得ているから、施設や病院側はそこを突かれないように防御の態勢を敷くことになり、こうなるとその被害や弊害は、他の利用者にも覆いかぶさって来る。
医療事故や介護中の事故というのは、数あるケースの中で避けられないことで、こういうところに入所している人達は、ただでさえすぐにでも壊れてしまう人なので、そういう些細な事例をいちいち裁判闘争にまで持っていくのならば、施設はそういう人を最初から排除するという手段を講じなければならなくなる。
私自身は、自分で介護できない年老いた老人を施設に持ってくること自体、責任転嫁あるいは責任放棄だと思う。
そういう人に限って、施設が充分な介護を蔑にしたとか、病院の処置が悪かったとクレームをつけるのである。
こういうクレームには、世間とか世論がそういうクレームの不合理、不整合性を説くべきであって、クレームを容認するような態度は、決してしてはならないと思う。
老衰している人に病院が何も手当てをしないというのも、世間体という点からすると、明らかに不親切に見えるわけで、病院の立場からすれば、運ばれてきた老人に対して何らかの医療行為をすれば、その分病院の収入にはなるので、何らかの手当てはした方が本当は得であろう。
しかし、患者本人にすれば、これから自然に枯れていく体に、何らかの手当てをしたところで、延命の意味がないということになる。
人が死のうが生きようが、苦しもうが苦しまなかろうが、病院には直接関係はないわけで、そういう人に医療行為することは、収入にはつながるし家族からは喜ばれるし、敢えて処置をしないでおくことはない。
しかし、敢えて何もしないというのは病院の良心とも言える。

「21世紀中国はどう変貌するか」

2011-03-01 08:41:15 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「21世紀中国はどう変貌するか」という本を読んだ。
NHK「中国」プロジェクトが「NHKスペシャル」として放映した時の取材に基づいて記されている。
我々は第2次世界大戦後というもの、アジア大陸の大部分を占める中国という国を、あくまでも中国という国という認識で語っている。
その中国には50以上の民族がいるわけで、中国を一つの国という概念では括れないのではなかろうか。
確かに世界地図を眺めれば、中国を取り巻く国として左回りに北朝鮮からロシア、モンゴルからチベット、ミャンマー、ラオス、べトナム等々、中国を囲む国は数々あるわけで、その意味では国という概念も立派に成り立つ。
しかし、50の民族を抱え、人口13憶という数字は、我々の考えうる国の概念を越えた存在ではないかと思う。
アジア大陸の中心部分が皆中国の領域に入ってしまうわけで、こういう状況から鑑みて、中国というのは一つのキーワードでは解き明かせない複雑な物を内包していると思う。
中国というか、漢民族というか、このアジアの地を支配してきた過去の民族には、伝統的に儒教なり、朱子学なり、道教なり、宗教の要因を含んだ古典的な倫理観があったのではないかと思う。
当然、それらはそれぞれの民族とそれぞれの地域によって千差万別であったろうと想像する。
しかし、如何なる地域に、それぞれに隔離された状態で生きてきたにしろ、人間の根本的な欲求というのはそう大きく変わるものではないと思う。
「衣食足りて礼節を知る」というように、暖かい食事と快適な住まいがあれば、人々はそうむやみやたらと殺し合いに明け暮れるものではないと思う。
その一方で、人間の集団の中にはどうしても威張りたい奴とか、権威を傘にする奴とか、楽して儲けたい奴とか、意地悪な奴とかいるわけで、こういう個性を持った人達が集団として社会を作って生きていくには、ミニマムのルールというのは必要不可欠であったに違いない。
それがいわゆる倫理というもので、この倫理の輪郭が曖昧になって来るとか、あるいはその解釈が非常に寛容になってきて示しがつかなくなると、法律で以てルールを強制的に定め、罰則規定まで作らねばならないようになる。
それを下々のものに周知徹底させ、ルールの完全実施を押し付けるのは、その時々に天下を平定した統治者の最大の責務である。
そういう人間の根源的な営みの上に、人類というのは農業を主体とする封建制度を確立し、ここに治めるものと治められるもの格差が生じ、その格差が非常に大きな社会的不平等を作り出してしまった。
封建主義というのは、最初は農業から始まったが、それが段々と時代が進むにつれて、家庭内工業から重化学工場の発展に繋がり、それがいわゆる富裕層と貧困層の幅を限りなく拡大してしまったので、その格差を平均化して、人としての不平等を解消しようという思考が出てきた。
これがマルクス・エンゲルスの称えた『共産党宣言』であったわけで、不平等を解消しようという思考は、大部分の貧者からすれば大歓迎であった。
19世紀の初頭においては、資本家と労働者の乖離というのは筆舌に尽くさない程のものがあったわけで、世の中の大部分の人々は、ことごとく貧者の側に身を置いていた。
金持ちも貧乏人も皆同じように、同一労働同一賃金というスローガンは、大部分の貧乏人からは大歓迎なわけで、少しばかり理性的で、人の良いお坊ちゃん的な心情の持主、あるいは自分をもの分かりの良い人間に見せたい良家の子女達は、そういう思考の後押しをおしみなく行った。
『共産党宣言』の言うスローガンは、基本的には理性的な人に強烈なアピールをしたわけで、当時も今も、立派な大学で高等教育を受けたような氏素性のしっかりした、由緒正しき良家の子女を始めとするインテリー達は、この共産主義の理念と理想に限りない情念を燃やしたのである。
そして、その情念と熱意はロシアで結実し、1917年のロシア革命をなしたが、この当時、共産主義の真意を本当に理解していた人達は、ほんの一握りのインテリゲンチャのみであった。
ところが、革命を成功させるには無頼の労働者や農民を自分達の陣営、つまり共産主義のグループに引き込んでおかねばならず、革命の成功、革命の成就という大義の元に、無学文盲の労働者や農民にまでに巨大な権力を移譲してしまったので、革命の行き着く先は混迷をきたしたのである。
この旧ソ連邦の歩んだ道と同じ轍を中国も踏襲したわけで、革命の意義を真に理解している人間は、ほんのわずかであるが、後は革命の進行中に日和見な大衆が、現状に不満を持っていたが故に、すり寄ってきた有象無象の大衆であった。
資本家にしろ、地主にしろ、彼れらは前の時代には、それはそれなりに人間を統治、あるいは管理する術を知っていたが、もともと無学文盲であった共産党の地方幹部は、そういう事も完全に欠いた状態なので、ただただ感情論で、あるいは観念論で、あるいは概念のみで、身の回りを処すことに汲々していた。
中国の場合、党の幹部は現場を知らない、現場を知っている地方の幹部は、元々が無頼な労働者や無学文盲の百姓であったわけで、中国全体としてはこの時点で中国四千年とも五千年とも言う歴史が断絶してしまったのである。
共産主義が政治の根幹になって60年も経つと、完全に世代交代を果たしたことになり、今の中国の若者は、昔の中国人とは全く違った人達だと思う。
共産主義のたががゆるんで、新世代の台頭と言うと如何にも素晴らしい言葉の響きがあるが、今の中国の若い世代は、極めて原始人に近い思考の持ち主だと思う。
彼らには、儒教も、道教も、朱子学も、古い価値観に基づく倫理観は、何一つ期待できないわけで、超プラグマチズムでしかものを考えれないはずである。
この本に奇しくも描かれているが、今、中国ではヘッドハンテイングで、留学経験者が厚遇で寄せ集められているということである。
ところが、これも実に中国人的な生き様で、金に吊られて義理も人情も欠いたまま、「あっちの水は甘いぞ」と言われるとホイホイそっちに流れるという現象は、如何にも中国的な処世術である。
海外留学生を厚遇で自分達の側に引き寄せる、という発想も言い方を変えれば、頭脳のパクリであって、ブランド品の偽物や模造品と同じなわけで、自分たちで本物を作るという思考が欠けていることだと思う。
その場の状況に合わせて、一番効果的で効率的な人材を金太鼓でかき集め、その場限りの刹那的な儲け仕事をさせ、ブームが終われば紙屑のように捨てるという思考である。
自分たちで本物を作るという事は極めて大変なことであるが、先進国の企業はすべて自力でそれをしているわけで、中国人だけが本物が作れず、模造品しかできないといことは、何処かに発想の欠陥があるということである。
我々日本人も、かっては模造品で外貨を稼いた時期もあったが、戦後復興が軌道に乗って来ると、本物以上の製品を作るようになったわけで、そこが我々の特質でもあったということである。
我々、日本人の生き方というのは、全てが金次第という割り切り方ではありえないわけで、金は無いよりは有った方が良いが、金がすべてではないわけで、達成感とか、世話になった恩とか、義理とか、金以外の価値観に対しで忠誠を誓っているように見受けられる。
だから今の中国の人達というのは、中国の悠久の歴史の中で突然変異を起こしたようなもので、彼らには21世紀にマッチした倫理観や理念や理想というものが存在していない。
とにかく自分中心で、自分を育んでくれた祖国、自分を教育してくれた母校、世話になった企業に対する恩恵に報いるという思考は全くないわけで、自分と自分の家族だけが生き延びれるように、万全の態勢を整えておくという感じである。
自分を犠牲にして、全体に貢献するという発想は微塵もないわけで、その最大の理由は、彼らは共産主義革命で彼らの悠久の歴史を全否定したところに起因する。
ただ彼らにも、民族の本質というものは、革命などに屈することなく生き残っているわけで、それは政治の優先である。
祭り事に最大の価値を置き、物つくりを低く見る傾向で、その背景には政治こそが最優先課題で、政治こそがすべてである、という認識である。
日本は高度経済成長の中で物つくりを人件費の安い中国にシフトしてしまったが、中国人そのものは、物つくりの価値を未だに認めていないと思う。
ただこれまでの中国は、日本からの注文を受けることによって身銭が入るので、銭の為にしぶしぶ物つくりに手を貸していたが、もの作りの価値を最初から認めていないので、言われたことだけをこなすという、極めて消極的なものでしかなかった。
言われたことを言われたとおりにしているだけでは、何の進歩もないわけで、折角ものを作るのであれば、如何に早くするにはどうするか、如何に安くするにはどうするか、如何に効率を上げるにはどうするか、という視点を持たないことには物つくりの進化はあり得ない。
こういう考え方は、資本主義体制ならば当然の発想であるが、中国が日本の下請け工場として実績を挙げてくれば、自ずとこういう発想が芽吹いてくるものと考える。
しかし、現場ではこういう新しいものの考え方が湧き出ているが、政治の局面になると、俄然、無頼な労働者の思考と見まごうばかりの思考が横行しているようで、この部分に中国の悠久の歴史の残滓が垣間見れる。
政治というのは、ある意味でトランプのポーカーのようなもので、お互いに国益を賭けてポーカーをするようなものである。
日本と中国の外交の場面を見ればそれは一目瞭然と理解できるが、我々の側は、こういうポーカ―ゲームに不慣れで、何時も何時も真正面からブラフを真に受けて、真面目に対応しようとするから、日本の内部には鬱積した気持ちが高まってくるのである。
整合性を欠いた事柄を唐突に出して来て、それに国益を絡ませ、労せずして利を得ようという魂胆は見え見えであるが、我々はその傲慢さ、厚顔無恥な態度に、ただただあきれるばかりである。
しかし、我が方の政府要人にもだらしない人間が多く、中国のブラフにいとも安易に屈服し、そのことによって日本の国益を維持したと思い込んでいるノー天気な役人が居ることも、れっきとした事実ではある。
この本のよると、今の中国は素晴らしい躍進の時を迎えているということである。
NHK流の媚中認識の延長のようなものであるが、メデイアの取材というのも、自己の認識を越えた取材というのはりえないわけで、どこまでいっても「盲人が像を撫でる」現象を越えることは不可能だと思う。
たまたま目で見、カメラに収めた事象は報道されるが、そうでない場面では何が起きているのかさっぱり分からないということだ。
大学では若い人が真剣に学門に取り組み、留学の機会を鵜の目鷹の目で狙っている、ということであるが、それは我々日本の50年前の光景であって、我々はそういう時期を経て今低迷期を迎えているのである。
日本の低迷期が中国の躍進の時期であったとしても何ら不思議ではないが、日本は高度経済成長を遂げて今下降線を辿っているが、中国の経済がピークを越えて下降線を他り始めた時、どういうアクションに出るかが最大の心配事だと思う。
我々の場合、1945年昭和20年の敗戦ということを経験し、あの戦争の惨禍を再び繰り返したくない、という事で憲法で戦争に関する縛りを掛けているが、中国にはそういう縛りは無いわけで、アメリカが日本から手を引いた時、中国が隠岐の島なり、沖縄周辺の島に上陸して、海洋資源の囲い込みに出るかもしれない。
中国人は、基本的に自ら汗を出して働くということが嫌いなわけで、人が汗を出すという事は、それだけで卑しい振る舞いと映っている。
スポーツで汗を流すことでさえ、そういう認識で見ているので、スポーツの真の意義を知らないままでいる。よって、こういう現場の力を知らないし、バカにする傾向がある。
東洋、アジアの人々、モンゴロイド系の人々の発想の中には、知的作業のみが気高い仕事で、人を管理したり、監督したり、統治したりと、人を顎で使うことこそ、尊い仕事と思い込んでいる節がある。
これが近代化を遅らせた最大の理由であろう。
日本の高度経済成長の時、日本のメーカーの経営者は、労働者と一緒になって食堂で食事を共にすることが世界から驚異の目で見られていたが、当事者は決して気負った気持ちでいた訳ではなく、何の違和感もなく、そういう振る舞いをしていたに違いない。
日本の経営者にしてみれば、自分が今日あるのは、そういう肉体労働者、現場の人々、額に汗して働く人々がいたから、という感謝の念があるわけで、ただただ単純に労働者を搾取の対象という視点で見る気など毛頭ないのである。
日本の民間企業の経営者がこういう気持ちでいる一方で、日本でも官僚という人種は、極めてアジアのモンゴロイドに近い発想の人達で、現場を知らず、口先で威張り散らして、額に汗して働くことを遺棄する人種が多い。
それは考えて見れば当然のことで、官僚という人種は、採用の際にたった一度国家公務員試験にパスすれば、後は定年まで完全に身分と給与が保障されているわけで、組織の中で身を削る様な試練を一度も経験することなく、ぬるま湯に浸かったような人生が送れるのである。
こんな中で、新しい過酷な試練に挑戦する気を起こすのは明らかに損な選択で、誰もしないのは当然のことである。
中国の共産党の幹部にも、日本の官僚と同じ思考の人間が大勢いると思う。
そもそも共産主義体制というのは、国民の大部分が無学文盲の国で、そういう無学文盲の民を束ねて一か所に集めて、家畜並みに働かせるのが目的であったわけで、今まで食うや食わずの人達に、「うまい飯を食わせる」と言って革命を引き起こし、既存の有識者を一人残らず絶滅させて、少数のインテリーがもともと無頼漢であった労働者や百姓を地域の管理者に仕立て上げて統治したわけだ。
革命によって淘汰されるべきものも当然あったが、残すべきものと淘汰すべきものの峻別もせず、皆一様に壊してしまったので、歴史や伝統が断絶してしまった。
今、中国に居る人間は、その全てが原始社会の人間と同じ思考である。
つまり、人間の原始的な欲望に限りなく忠実であるという点で、それは言葉を変えればアンチモラルに近いということであり、倫理的に極めて原始的だということである。
普通に人間が豊かになれば、「衣食足りて礼節を知る」となって、これが中国の悠久の歴史の中には連綿と生きてきたはずなのに、今の新生中華人民共和国には、この中国の伝統的な倫理観としての「衣食足りて礼節を知る」という思考はあり得ない。
原始の人間そのままに、人間の欲望をそのままストレートに指し示しているではないか。
今の中国の政府要人も、そのことごとくが戦後生まれの世代で、生まれおちて以来、共産主義で育てられてきた世代であってみれば、骨の髄まで共産主義で凝り固まっているわけで、古い中国の価値観などまったく知らないのも当然で、原始の人間そのままである。
そういう人間集団が、21世紀の世界に躍り出てくるという事は末恐ろしいことで、地球は中国人によって滅ぼされかねない。
自然界は食物連鎖で均衡が保たれている。
野生動物の世界は、喰いつ喰われつの世界であるが、そこには無意味な殺傷は無いので、究極的にはバランスが取れているが、中国人の行動には、このセルフ・コントロールという事が効かないので、限りなく破壊に突き進んでしまう。
こういう事を公言すると、人種差別に繋がるので、知恵ある人は誰も言わないが、21世紀末の地球は、中国人に破壊され尽くされているものと思う。
彼らには「衣食足りて礼節を知る」という価値観が通用しないわけで、彼らの欲望には際限がないし、他者の為に何ができるか、何をすべきかという発想が決定的に欠けてけているわけで、その行き着くところは地球の破壊という事になってしまう。
これから春先になると、黄砂の時期になるが、あれも中国人の振る舞いが原因なわけで、彼らが木を切り倒さなければ起きなかった筈である。
ならば「今からでも木を植えるか」、という事になると誰一人協力しないわけで、これも無理からぬことである。
彼らにしてみれば、砂漠にいくら木を植えたところで一銭にもならないわけで、誰も手を出さないが、その被害は我々が被っている。
ただただ我々日本人にしてみると、中国というのは我々の文化のふるさとであるわけで、どうしても一抹の郷愁を捨てがたく、どんなに苛められて、何度水に叩き落とされても、何となく崇め奉りたい衝動に狩られる。
それは一種の潜在意識であって、我々はそれからが抜けきれないようだ。
中国の悠久の価値観は廃れたが、彼らの持つ華夷秩序というのは、廃れることなく立派に生き残っている。