例よって図書館から借りてきた本で「エンロン崩壊の真実」という本を読んだ。
サブタイトルには「全米を震撼させた史上最大級の経営破綻をここに再現する」となっていた。
そもそもこのエンロンに関する発端から消滅までのストーリーは、マネーゲームの一語に尽きる。
私が問題視する視点は、そのマネーゲームを演じたプレイヤーが、一流の大学で経営学を修めた非常に知的レベルの高い人達であったということである。
我々の過去においては、江戸時代という時期に、身分制度が厳しく制定されて、士農工商というヒエラルキーが歴然と存在していた。
今更説明するまでもなく、統治を所管する士分のものが一番上にあり、商業を生業とする商人という階層のものが一番下の職業として認知されていた。
ところが現実の世界では、一番銭を持っていたのはこの一番下の商人の階層であったわけで、階層の一番上の士分のものも、銭の威力には勝てず、商人に頭を下げざるを得ない場面も多々あったようだ。
この身分制度が制度的に崩壊したのは、いわゆる明治維新以降の近代化の中で、殖産興業の為の資金の調達の必要性に迫られて、銀行の意義が再確認され、士農工商という旧来の価値観が否定され、大の大人が銭の貸し借りを扱う業務も、そうそう卑下すべきものではないということが認識されたことによる。
しかし、日本民族のメンタリティ―としては、士農工商という価値観が我々の社会の潜在意識として雲散霧消したわけではない。
日本人のメンタリティ―からすれば、商人という職業を、陽のあたる人々の羨望に価する仕事と見做すにはいくばくの心の抵抗があるように思う。
この発想はヨーロッパでも似たり寄ったりではないかと思う。
ヨーロッパでも、金貸しよりは物つくりに専念している人の方に、価値があるように見られているようで、その意味で、金貸しや宝石商にしかならないユダヤ人に侮蔑の視線が行くわけで、それが差別を助長していると思う。
金貸しや宝石商といえども、実際に質草を抵当にして金を貸しあたえ、期限が来たら利子をつけてその金を回収すると実務が行われておれば、企業の倒産などということはあり得ない。
このエンロンという会社の行ったことは、実際には真の商いをすることなく、売ったつもりで、あるいは買ったつもりで、別の場所での商いに、信用のみで売買をしていたわけで、架空の取引で売った買ったを繰り返して、架空の利益や損失を帳簿上だけで行っていたので、企業が回らなくなってしまったのである。
金、あるいは品物を実際に売買するのではなく、ただただ信用のみを、信用のみで、売ったり買ったりしていたわけで、残ったものは不信のみであったということである。
問題は、アメリカでも日本でも、大学で教えている経営学というものが、こういうマネーゲームを教えていることにあるわけで、これは良識ある知性に対する背信行為だと思う。
マネーゲームなどというものは、大学で教えるべき事の対極にある事柄であっでしかるべきで、「こういうことは決してしてはならない」という風に教えるべきだと思う。
アメリカでも日本でも大学の経営学の中には当然の事、節税に関する内容の授業もあるかと思うが、節税という発想も、民主主義とは相容れない思考だと思う。
民主主義の中の資本主義ということであれば、国家の庇護の元、国民は一生懸命生産活動に従事し、そうした勤労の結果としての報酬の中から、全国民の社会福祉に貢献すべく税を納めるわけで、主権国家の中で安定した秩序だった生活が成り立っていることに対する奉仕の精神があるとするならば、節税に頭を悩ます前に、税をより多く払うべく努力すべきだと思う。
しかし、アメリカでも日本でも、普通の市民感覚としては、税を多く払うことは自分が損をしているという感覚で捉えている。
国家に納めるべき租税は、一銭でも少なくしようと、節税対策に知恵を絞ろうとする。
民主主義国ではボトムアップで為政者を選出しているわけで、自分達の為政者が独裁者で、私利私欲に走っているわけではなく、集めた税金はそれはそれなりに国民に還元されていると見做すべきだ。
国家としても、為政者としても、何か国民の為に施策を講じようとすれば、それはそれなりに金も掛かるわけで、だからこそ税金という形でその金を徴収しているのである。
ボトムアップで為政者を選出したとしても、大勢の国民の中には、その為政者が気に入らない人も当然いるわけで、だからといって「俺は税金を払いたくない」という事は通らない。
税金というのは、国民が為政者を気に入ろうが入るまいが、国民から徴収した金で、国家の全体の施策に投じられるわけで、徴収された税金は国民の全部に広範に還元されているはずである。
そういう税金であってみれば、上納すべき金をいくらかでも節約しようという発想は、自分の祖国の施策に抵抗し、反逆し、阻害し、弓を弾いている事と同じだと思う。
節税の指南というのは、額に汗して力一杯働いた人に対して、あなたのその努力を少しでも軽くするように、法律に反しない範囲で、何か方策を考えてあげますよ、というもののはずである。
この地球上の如何なる人でも、自分が汗水垂らして働いて得た所得から、お上にその上澄みを掠め取られる、つまり税として取られる金は、身を切られるよりも痛いという心境はよく理解できる。
しかし、本人が汗水垂らして苦労の末得た所得であったとしても、その過程では社会の恩恵があったからこそそれが出来たわけで、そうそう恨みつらみを並べ立てるべきではないと思う。
本人の努力は大いに認めるが、社会の恩恵というものも有形無形の形であったはずで、その事を考えれば、自分の所得から決められた金額を国家に上納することにそう腹を立てる必要もない。
問題は、大学という高等教育の場で、経営学というのが節税のノウハウを若い学生に説くということである。
大学というのは大抵どこの国でも最終的な高等教育の場であると思うが、そういう施設で、若くて将来祖国を担っていく人達に対して、節税のノウハウを説くということは、自分の祖国の足を引っ張ることを教えているようなことだと思う。
忠誠心の反対側の思考であって、自分の祖国に対して如何に非協力で、売国奴的な態度をとるか、ということを教えている事になる。
これから祖国の発展の担うであろう若い学生に、「君達は経済界で大いに仕事をして、儲けた金は率先して国家に納付しなさい、税金は率先して払いなさい、節税などというけちで卑しい根性は捨てなさい」、と説くのであれば立派な大学教育と言えるが、現実にはその逆の事をしている。
これはアメリカでも日本でも全く同じなわけで、大学の経営学で節税のノウハウを教えるということは、非国民、売国奴を養成しているようなものではないか。
健全なボトムアップで為政者を選出する主権国家であれば、国民に課せられた納税の義務というのは、国民が競い合って税金を納めるぐらいでなければならないと思う。
ボトムアップで為政者を選出したからと言って、国民の一人一人にとって、その為政者が気に入るかどうかは甚だ疑問であるが、社会のシステムとしてはそうなっているわけで、国家の施策というのは国民の納めた税金で運用されている事に間違いは無い。
為政者がその税金を猫ばばして、私腹を肥やしているわけではなく、国民の納めた税金は、施策として再び国民に還元されているので、そのことを考えれば節税というのは反社会的な行為だと思う。
脱税ともなれば明らかに犯罪行為になるわけで、刑法が適用されるのは当然であるが、節税というのはあらゆる法律の抜け穴を探し出して、合法的にその穴を潜る行為なわけで、法律の裏事情に精通していないことには達成しきれない。
だからこそ大学の経営学の教程に入れられて、これから国家の将来を担う若者に、如何に納めるべき税金を合法的に回避するかのノウハウを教えているのである。
節税が法に抵触しないからと言って、反社会的な行為であることに変わりはないと思う。
大学にまで辿りついた人間が、こういうモラルでいて良いわけないと思う。
この本が暴露しているエンロンの破綻というのも、大学を出て博士過程を経た人物が、マネーゲームに興じている姿を描写わけで、これは実に由々しき問題だと思う。
日本における経済事犯においても全く同じことが言えているが、問題は、大学という高等教育の場がモラルの向上にあまりにも無力な所にある。
金への執着心、巨万の富を得たいという願望、楽して儲けたいという欲望、贅沢がしたいという希望、この地球上のあらゆる人が金への執着は大なり小なり持っているのは当たり前である。
しかし、人間は教養知性を積めば、そういう原始人あるいは自然人にも匹敵する素朴な欲望からは達観する信条に至るのも、これまたよくある話だと思う。
その意味からすると、最初に掲示した江戸時代の士農工商というヒエラルキーは実に的を得た指摘だと思う。
士分のものが官僚主義に埋没するという弊害は免れないが、商人という生業のものが、実に志が低く、「自分さえ良ければ後は野となれ山となれ」という信条に極めて近い思考に陥っていると見做されてもいた仕方ない。
このエンロンの経営者も、日本の経済事犯の当事者も、立派な大学を出ていながらその志は極めて低く、自分さえ儲かればいいという極めて卑しい思考でしかない。
洋の東西を問わず、高等教育が人々の志の高揚には極めて微力でしかなく、モラルの向上にはいささかも力になりえていない。
大学という高等教育の場で行われる教育の本旨というのは、基本的には人類の進化というか、文化・文明の進化に貢献、あるいは資する為の教育であって、個人の至福を追うものであってはならないと思う。
大学で受けた高等教育で社会に大いに貢献して、その結果として資産が増えるというのならば、何ら問題はないが、大学での勉学が個人の至福追求の免罪符になっては教育としての意味がないと思う。
そもそも経営学というものを大学という施設で取り上げていいかどうかさえ大きな疑問がある。
経営学は経済学とは違うわけで、こういう立派な大学でマネーをゲーム感覚で取り扱うことを学問として言っていいかどうかも大いに疑問だ。
高等教育の場で、倫理観を否定しかねない教育が許されるものであろうか。
金を儲けるという行為は、我々の古くて古典的な倫理観からすれば、やはり士農工商という価値観に行きつくものである。
金、銭を追いまわす行為は、やはり志の清らかな人間には不似合いなことで、利を追いまわしたり、利に聡い人間には、やはり心の卑しさを感じずにはおれない。
封建主義から脱して近代化を進める中での産業資本という意味合いとはまた違っているわけで、マネーをゲーム感覚で取り扱うという部分が、非常に守銭奴的である。
この本の書き出しも、アメリカの子供が映画「スターウオ―ズ」のキャラクターのカードを集める話しから説き起こしているが、まさしくおもちゃのカードを扱うがごとく、お金をゲーム感覚で、しかも信用のみで動かして利ざやを得ようとしているのである。
実態のある経済ならばまだ許せるが、実際には何も実態が無く、ただ架空の話でカネを動かしているわけで、それではいずれ破綻する事は誰の目にも明らかである。
そういうことを大学で博士号をとったような人が、日夜、そういうゲームに奔走しているわけで、そんなことが長く続くわけがないではないか。
人間の欲望の中でも金銭欲と性欲は尤も根源的なもので、根源的であるが故に、人知ではコントロール不可能で、それはその人個人が生まれつき兼ね備えた性癖と見做さなければならない。
正直な人は生まれつき正直だと思う。
嘘つきは生まれつき嘘つきだと思う。
よって、この持って生まれた個人の性癖というのは、後天的な教育では修正不可能だと思う。
卑近な例で、泥棒には再犯者が多いと聞くが、それはその人個人の持って生まれた性癖なわけで、刑務所にいくら入れられても、その持て生まれた性癖は直らないということである。
同じことがここで言うような経済事犯についてもいえるわけで、いくら立派な大学で高等教育を授かったとしても、もともと持って生まれた心賤しき根性は、教育では是正できないということである。
老い先短い旧世代の我々が憂べきことは、昨今の教育事情は、こういう生まれつき心が卑しく、倫理観の乏しい人間にも、ペーパーチェックのみの選別で入学を許し、真に学問を深めようとする者を排除してしまうことである。
その前に、大学という学問の府が、教育産業という新しい産業を形成している点である。
この地球上に生まれた人間にとって、教育というものは無いよりは有った方が良いに決まっている。
しかし、それは読み書きそろばん程度、つまり初等教育までの事で、その後の教育ともなれば、その人の人生で果たしてどこまで入用であったかは甚だ不透明である。
大勢の人間の中には、教室できちんと先生の言うことを聞くことが苦痛な子もいるだろうし、勉強嫌いな子も当然いるわけで、そういう人にとっての教育はそれこそ拷問にも匹敵すると思う。
ただし、如何なる国でも、大学にまで来る人は確かに自分の意思で進学して来るわけで、だとすれば何かしら自己の目標あるいは目的を携えてくる。
その将来の国を担う若者が、どういう目標やどういう目的を持って、大学の門を潜ったかが最大の問題でなければならないが、昨今の世の中をみていると、世間一般では大学の教育というものを真に評価していないのではないかと思う。
ただただ大学のネームバリューのみを追い駆けているだけで、個々の人間がそこで何を学んだかということには何ら価値を見出そうとしていない。
ここで、社会一般と大学の関係が、卵と鶏の関係になってしまうが、社会一般が大学の教育内容に信を置いておらず、大学を幼稚園と見做しているのである。
しかし、有名大学に入学したという実績は、紛れもなくその本人のキャパシテ―の高さを表しているわけで、企業はそれだけを買っているのである。
大学生が大学で学んできた知識や教養を買うのではなく、本人が秘めているであろうキャパシテ―に期待を寄せているのである。
ある意味で、それはエルロンがありもしない架空の取引で、架空の利鞘を追い求めている図と同じなわけで、それに産業界全体が翻弄されているのである。
これも不思議なことに洋の東西を問わず、大学を卒業した事が、普通の社会人としての免罪符になっているようで、大学で受けた教育の中身については、ほとんど関心が寄せられていない。
ただ人物紹介する時には、その大学名とその修めた学科が大きな箔となることは確かで、その人物を修飾する大きなツールにはなりうる。
しかし、やはり人物の真価は、その人の志の清らかさにあると思うが、こういう発想も既に旧世代の人間の妄想に成り下がってしまったようだ。
これは20世紀から21世紀にかけてアメリカから始まった狂騒劇であったわけで、その狂騒は世界中を駆け巡ったけれど、行きついた先は資本主義体制の終末的な態様であった。
サブタイトルには「全米を震撼させた史上最大級の経営破綻をここに再現する」となっていた。
そもそもこのエンロンに関する発端から消滅までのストーリーは、マネーゲームの一語に尽きる。
私が問題視する視点は、そのマネーゲームを演じたプレイヤーが、一流の大学で経営学を修めた非常に知的レベルの高い人達であったということである。
我々の過去においては、江戸時代という時期に、身分制度が厳しく制定されて、士農工商というヒエラルキーが歴然と存在していた。
今更説明するまでもなく、統治を所管する士分のものが一番上にあり、商業を生業とする商人という階層のものが一番下の職業として認知されていた。
ところが現実の世界では、一番銭を持っていたのはこの一番下の商人の階層であったわけで、階層の一番上の士分のものも、銭の威力には勝てず、商人に頭を下げざるを得ない場面も多々あったようだ。
この身分制度が制度的に崩壊したのは、いわゆる明治維新以降の近代化の中で、殖産興業の為の資金の調達の必要性に迫られて、銀行の意義が再確認され、士農工商という旧来の価値観が否定され、大の大人が銭の貸し借りを扱う業務も、そうそう卑下すべきものではないということが認識されたことによる。
しかし、日本民族のメンタリティ―としては、士農工商という価値観が我々の社会の潜在意識として雲散霧消したわけではない。
日本人のメンタリティ―からすれば、商人という職業を、陽のあたる人々の羨望に価する仕事と見做すにはいくばくの心の抵抗があるように思う。
この発想はヨーロッパでも似たり寄ったりではないかと思う。
ヨーロッパでも、金貸しよりは物つくりに専念している人の方に、価値があるように見られているようで、その意味で、金貸しや宝石商にしかならないユダヤ人に侮蔑の視線が行くわけで、それが差別を助長していると思う。
金貸しや宝石商といえども、実際に質草を抵当にして金を貸しあたえ、期限が来たら利子をつけてその金を回収すると実務が行われておれば、企業の倒産などということはあり得ない。
このエンロンという会社の行ったことは、実際には真の商いをすることなく、売ったつもりで、あるいは買ったつもりで、別の場所での商いに、信用のみで売買をしていたわけで、架空の取引で売った買ったを繰り返して、架空の利益や損失を帳簿上だけで行っていたので、企業が回らなくなってしまったのである。
金、あるいは品物を実際に売買するのではなく、ただただ信用のみを、信用のみで、売ったり買ったりしていたわけで、残ったものは不信のみであったということである。
問題は、アメリカでも日本でも、大学で教えている経営学というものが、こういうマネーゲームを教えていることにあるわけで、これは良識ある知性に対する背信行為だと思う。
マネーゲームなどというものは、大学で教えるべき事の対極にある事柄であっでしかるべきで、「こういうことは決してしてはならない」という風に教えるべきだと思う。
アメリカでも日本でも大学の経営学の中には当然の事、節税に関する内容の授業もあるかと思うが、節税という発想も、民主主義とは相容れない思考だと思う。
民主主義の中の資本主義ということであれば、国家の庇護の元、国民は一生懸命生産活動に従事し、そうした勤労の結果としての報酬の中から、全国民の社会福祉に貢献すべく税を納めるわけで、主権国家の中で安定した秩序だった生活が成り立っていることに対する奉仕の精神があるとするならば、節税に頭を悩ます前に、税をより多く払うべく努力すべきだと思う。
しかし、アメリカでも日本でも、普通の市民感覚としては、税を多く払うことは自分が損をしているという感覚で捉えている。
国家に納めるべき租税は、一銭でも少なくしようと、節税対策に知恵を絞ろうとする。
民主主義国ではボトムアップで為政者を選出しているわけで、自分達の為政者が独裁者で、私利私欲に走っているわけではなく、集めた税金はそれはそれなりに国民に還元されていると見做すべきだ。
国家としても、為政者としても、何か国民の為に施策を講じようとすれば、それはそれなりに金も掛かるわけで、だからこそ税金という形でその金を徴収しているのである。
ボトムアップで為政者を選出したとしても、大勢の国民の中には、その為政者が気に入らない人も当然いるわけで、だからといって「俺は税金を払いたくない」という事は通らない。
税金というのは、国民が為政者を気に入ろうが入るまいが、国民から徴収した金で、国家の全体の施策に投じられるわけで、徴収された税金は国民の全部に広範に還元されているはずである。
そういう税金であってみれば、上納すべき金をいくらかでも節約しようという発想は、自分の祖国の施策に抵抗し、反逆し、阻害し、弓を弾いている事と同じだと思う。
節税の指南というのは、額に汗して力一杯働いた人に対して、あなたのその努力を少しでも軽くするように、法律に反しない範囲で、何か方策を考えてあげますよ、というもののはずである。
この地球上の如何なる人でも、自分が汗水垂らして働いて得た所得から、お上にその上澄みを掠め取られる、つまり税として取られる金は、身を切られるよりも痛いという心境はよく理解できる。
しかし、本人が汗水垂らして苦労の末得た所得であったとしても、その過程では社会の恩恵があったからこそそれが出来たわけで、そうそう恨みつらみを並べ立てるべきではないと思う。
本人の努力は大いに認めるが、社会の恩恵というものも有形無形の形であったはずで、その事を考えれば、自分の所得から決められた金額を国家に上納することにそう腹を立てる必要もない。
問題は、大学という高等教育の場で、経営学というのが節税のノウハウを若い学生に説くということである。
大学というのは大抵どこの国でも最終的な高等教育の場であると思うが、そういう施設で、若くて将来祖国を担っていく人達に対して、節税のノウハウを説くということは、自分の祖国の足を引っ張ることを教えているようなことだと思う。
忠誠心の反対側の思考であって、自分の祖国に対して如何に非協力で、売国奴的な態度をとるか、ということを教えている事になる。
これから祖国の発展の担うであろう若い学生に、「君達は経済界で大いに仕事をして、儲けた金は率先して国家に納付しなさい、税金は率先して払いなさい、節税などというけちで卑しい根性は捨てなさい」、と説くのであれば立派な大学教育と言えるが、現実にはその逆の事をしている。
これはアメリカでも日本でも全く同じなわけで、大学の経営学で節税のノウハウを教えるということは、非国民、売国奴を養成しているようなものではないか。
健全なボトムアップで為政者を選出する主権国家であれば、国民に課せられた納税の義務というのは、国民が競い合って税金を納めるぐらいでなければならないと思う。
ボトムアップで為政者を選出したからと言って、国民の一人一人にとって、その為政者が気に入るかどうかは甚だ疑問であるが、社会のシステムとしてはそうなっているわけで、国家の施策というのは国民の納めた税金で運用されている事に間違いは無い。
為政者がその税金を猫ばばして、私腹を肥やしているわけではなく、国民の納めた税金は、施策として再び国民に還元されているので、そのことを考えれば節税というのは反社会的な行為だと思う。
脱税ともなれば明らかに犯罪行為になるわけで、刑法が適用されるのは当然であるが、節税というのはあらゆる法律の抜け穴を探し出して、合法的にその穴を潜る行為なわけで、法律の裏事情に精通していないことには達成しきれない。
だからこそ大学の経営学の教程に入れられて、これから国家の将来を担う若者に、如何に納めるべき税金を合法的に回避するかのノウハウを教えているのである。
節税が法に抵触しないからと言って、反社会的な行為であることに変わりはないと思う。
大学にまで辿りついた人間が、こういうモラルでいて良いわけないと思う。
この本が暴露しているエンロンの破綻というのも、大学を出て博士過程を経た人物が、マネーゲームに興じている姿を描写わけで、これは実に由々しき問題だと思う。
日本における経済事犯においても全く同じことが言えているが、問題は、大学という高等教育の場がモラルの向上にあまりにも無力な所にある。
金への執着心、巨万の富を得たいという願望、楽して儲けたいという欲望、贅沢がしたいという希望、この地球上のあらゆる人が金への執着は大なり小なり持っているのは当たり前である。
しかし、人間は教養知性を積めば、そういう原始人あるいは自然人にも匹敵する素朴な欲望からは達観する信条に至るのも、これまたよくある話だと思う。
その意味からすると、最初に掲示した江戸時代の士農工商というヒエラルキーは実に的を得た指摘だと思う。
士分のものが官僚主義に埋没するという弊害は免れないが、商人という生業のものが、実に志が低く、「自分さえ良ければ後は野となれ山となれ」という信条に極めて近い思考に陥っていると見做されてもいた仕方ない。
このエンロンの経営者も、日本の経済事犯の当事者も、立派な大学を出ていながらその志は極めて低く、自分さえ儲かればいいという極めて卑しい思考でしかない。
洋の東西を問わず、高等教育が人々の志の高揚には極めて微力でしかなく、モラルの向上にはいささかも力になりえていない。
大学という高等教育の場で行われる教育の本旨というのは、基本的には人類の進化というか、文化・文明の進化に貢献、あるいは資する為の教育であって、個人の至福を追うものであってはならないと思う。
大学で受けた高等教育で社会に大いに貢献して、その結果として資産が増えるというのならば、何ら問題はないが、大学での勉学が個人の至福追求の免罪符になっては教育としての意味がないと思う。
そもそも経営学というものを大学という施設で取り上げていいかどうかさえ大きな疑問がある。
経営学は経済学とは違うわけで、こういう立派な大学でマネーをゲーム感覚で取り扱うことを学問として言っていいかどうかも大いに疑問だ。
高等教育の場で、倫理観を否定しかねない教育が許されるものであろうか。
金を儲けるという行為は、我々の古くて古典的な倫理観からすれば、やはり士農工商という価値観に行きつくものである。
金、銭を追いまわす行為は、やはり志の清らかな人間には不似合いなことで、利を追いまわしたり、利に聡い人間には、やはり心の卑しさを感じずにはおれない。
封建主義から脱して近代化を進める中での産業資本という意味合いとはまた違っているわけで、マネーをゲーム感覚で取り扱うという部分が、非常に守銭奴的である。
この本の書き出しも、アメリカの子供が映画「スターウオ―ズ」のキャラクターのカードを集める話しから説き起こしているが、まさしくおもちゃのカードを扱うがごとく、お金をゲーム感覚で、しかも信用のみで動かして利ざやを得ようとしているのである。
実態のある経済ならばまだ許せるが、実際には何も実態が無く、ただ架空の話でカネを動かしているわけで、それではいずれ破綻する事は誰の目にも明らかである。
そういうことを大学で博士号をとったような人が、日夜、そういうゲームに奔走しているわけで、そんなことが長く続くわけがないではないか。
人間の欲望の中でも金銭欲と性欲は尤も根源的なもので、根源的であるが故に、人知ではコントロール不可能で、それはその人個人が生まれつき兼ね備えた性癖と見做さなければならない。
正直な人は生まれつき正直だと思う。
嘘つきは生まれつき嘘つきだと思う。
よって、この持って生まれた個人の性癖というのは、後天的な教育では修正不可能だと思う。
卑近な例で、泥棒には再犯者が多いと聞くが、それはその人個人の持って生まれた性癖なわけで、刑務所にいくら入れられても、その持て生まれた性癖は直らないということである。
同じことがここで言うような経済事犯についてもいえるわけで、いくら立派な大学で高等教育を授かったとしても、もともと持って生まれた心賤しき根性は、教育では是正できないということである。
老い先短い旧世代の我々が憂べきことは、昨今の教育事情は、こういう生まれつき心が卑しく、倫理観の乏しい人間にも、ペーパーチェックのみの選別で入学を許し、真に学問を深めようとする者を排除してしまうことである。
その前に、大学という学問の府が、教育産業という新しい産業を形成している点である。
この地球上に生まれた人間にとって、教育というものは無いよりは有った方が良いに決まっている。
しかし、それは読み書きそろばん程度、つまり初等教育までの事で、その後の教育ともなれば、その人の人生で果たしてどこまで入用であったかは甚だ不透明である。
大勢の人間の中には、教室できちんと先生の言うことを聞くことが苦痛な子もいるだろうし、勉強嫌いな子も当然いるわけで、そういう人にとっての教育はそれこそ拷問にも匹敵すると思う。
ただし、如何なる国でも、大学にまで来る人は確かに自分の意思で進学して来るわけで、だとすれば何かしら自己の目標あるいは目的を携えてくる。
その将来の国を担う若者が、どういう目標やどういう目的を持って、大学の門を潜ったかが最大の問題でなければならないが、昨今の世の中をみていると、世間一般では大学の教育というものを真に評価していないのではないかと思う。
ただただ大学のネームバリューのみを追い駆けているだけで、個々の人間がそこで何を学んだかということには何ら価値を見出そうとしていない。
ここで、社会一般と大学の関係が、卵と鶏の関係になってしまうが、社会一般が大学の教育内容に信を置いておらず、大学を幼稚園と見做しているのである。
しかし、有名大学に入学したという実績は、紛れもなくその本人のキャパシテ―の高さを表しているわけで、企業はそれだけを買っているのである。
大学生が大学で学んできた知識や教養を買うのではなく、本人が秘めているであろうキャパシテ―に期待を寄せているのである。
ある意味で、それはエルロンがありもしない架空の取引で、架空の利鞘を追い求めている図と同じなわけで、それに産業界全体が翻弄されているのである。
これも不思議なことに洋の東西を問わず、大学を卒業した事が、普通の社会人としての免罪符になっているようで、大学で受けた教育の中身については、ほとんど関心が寄せられていない。
ただ人物紹介する時には、その大学名とその修めた学科が大きな箔となることは確かで、その人物を修飾する大きなツールにはなりうる。
しかし、やはり人物の真価は、その人の志の清らかさにあると思うが、こういう発想も既に旧世代の人間の妄想に成り下がってしまったようだ。
これは20世紀から21世紀にかけてアメリカから始まった狂騒劇であったわけで、その狂騒は世界中を駆け巡ったけれど、行きついた先は資本主義体制の終末的な態様であった。