例によって図書館から借りてきた本で、「苛立つ中国」という本を読んだ。
北京大学に留学した若い富坂聡という人のチャイナウオッチである。
戦後世代の、しかも中国に留学した人の中国への洞察であるので、一見左翼的な視点があるかと思ったが、そうでもなくその思考は極めてニュートラルであった。
ただ、我々世代のものが世に出回っているはあまたの本から推察した中国観とはあまり大した相違はない。
やはり、我々の先輩諸氏が見た中国と本質的に同じということである。
前にも記したが、人間は生まれ落ちた場所によって、考え方も生き方も全く違うわけで、その相違が民族というものを形つくる。
アジア大陸で生まれ落ちたものと、四周を海で囲まれた小さな島に生まれ落ちた人間では、それぞれの成長の過程で考え方も生き方も違ってくるのが当然であって、このことからも「人間は皆平等だ」などという言葉が嘘八百なことが一目瞭然ではないか。
大陸で生まれ、そこの習俗の中で育ち、そこで教育を受けたものと、日本で生まれ、飽食の中で生育した我々とは考え方も生き方も、まるまる違うのは当然である。
しかし、人間は過去の経験から人生の教訓を得ることは、民族が違っても共通の思考だろうと思うが、そのこと自体が民族性の相違である。
ただ我々は、四周を海で囲まれた島国の住人で、なおかつ同胞が極めて均一的な人間の集合を成しているので、他人・他民族を疑うということに警戒感が薄い。
その点、大陸で生を受けた人たちは、東から、西から、あるいは北から、南からと、常に異邦人に襲われる危険を意識しながら生きなければならなかった。
こういう潜在意識は、それぞれの民族に刷り込まれているわけで、後天的な教育では消し去れないものである。
それぞれの個人が、いくら高等教育を受けたところで、持って生れた潜在意識を払しょくすることがないまま、その上に高等教育が接木されるのである。
だから、それぞれの地で生まれた個人が、いくら高等教育を受け、高位高官に上り詰めても、もって生まれた潜在意識というのは、そのまま残っているわけで、これがいわゆる民族性というものを形つくっている。
この本を読んでみると、中国人の普遍的な中華思想というのは、見事な民族性を指し示している。
それは同時に、我々の側にも同じものがあるわけで、それは「葦の髄から天を覗く」ような偏狭な視点である。
中国人の日本蔑視というのは、有史以来、連綿と継続しているわけで、これこそ典型的な民族性である。
彼らにとっての日本にたいする認識は、未だに、東夷・夷狄を超えるものではなく、野蛮人の域を出るものではない。
ところが心の奥底でそう思いつつ日本に来てみると、とても日本の現状には溶け込めず、そのギャップの大きさに恐愕のあまり、見事に挫折するわけで、すると本人の挫折を日本の所為に転嫁するのである。
問題は、自分の挫折を他に転嫁する口舌のテク二ックが究極の中華思想ということである。
自分が世界の中心だから、自分の挫折は周りが悪い、という論理になるのである。
これこそ究極の中華思想ではないか。
自分が世界の中心で、その自分が世界の中心に位置することが出来ないのは、すべて周りが悪いから自分の中心軸が定まらないのだというわけで、我々の側の発想ならば「何を思いあがっているのだ」という思考に落ち着く。
これでは両方で完全に価値観が食い違っているわけで、我々は中国と接するとき、この価値観の食い違いを肝に銘じて認識してかからねばならない。
我々はともすると安易に「話し合えば理解し合える」という空想を抱きがちであるが、相手は5千年前から生き馬の目を抜く世界を生き抜いてきた連中ということを忘れてはならない。
先にも述べておいたが、中国人は夫婦喧嘩も街頭に出て道行く人巻き込んで自分の正当性を強調するといわれているが、これを別の言い方をすればプロパガンダを高らかに掲げると、人々がその周りに集まってくるということでもある。
つまり、根も葉もない嘘でもデマでも、声高に何回も同じことを繰り返して叫び続ければ、それが真実になるということでもある。
そして、こういう演出が彼らは極めて上手で、それによって我々は常に被害を被っている。
この本は、中国での反日デモをつぶさに観察することによって、そのデモの本質に迫ろうとした著作であるが、それを突き詰めると、結局のところ嘘も何回も言えば真実になる、という中国人の現実に突き当たるということを指し示している。
日本でいえば、流言飛語が真実になってしまうというわけで、プロパガンダが極めて有効に機能するということでもある。
これが中国人の本質なのであろう。
反日のエネルギーの後ろに、反日教育の効果が有効に機能しているわけで、異論を唱えれない共産主義体制の中で、上から有無を言わせぬ反日教育を押し付けられ、それをいささかも疑うことなく信じ切っている人たちが、反日の大義名分が何であろうとも、ただただ反日というだけで盲信する大衆の潜在意識に火が付くわけである。
この本では、そういう中国大衆のエネルギーを、中国政府、及び中国共産党も内心恐れているということが述べられている。
当然といえば当然のことで、中国民衆のエネルギーが、反日に向かっている限りは心配することはないが、そのエネルギーが少し矛先を変えて、政府批判になることを極めて恐れているのである。
中国の民衆が、反日を掲げてデモること自体が、ある面で民衆の運動、いわば大衆運動なわけで、ある意味では民主化の具現でもあり、中国政府の立場としては、こういうことがはなはだ迷惑なわけで、そのエネルギーがあまりにも野放図になると今度は逆に抑圧にかかる。
こういう点にも、中国の政府、いわゆる為政者というのは、民衆とか大衆というものをいささかも考慮に入れていないわけで、ただただ管理すべきものという認識から一歩も出ていない。
先に、生まれ落ちた場所が違えば考え方も生き方も違って当然と述べたが、そのことに付随して、中国人は法に対する考え方も我々とは大きく異なっており、こういう違いを考慮せずに向き合えば、必ず破綻をきたすであろう。
法というのは、如何なる国でも、人間が便宜的に考えだした人為的な概念であって、自分たちがお互いにスムースに生活出来るように、という自己規制を強いる概念である。
お互いにそれを順守しなければ、自分たちに災禍が降りかかってくるので、そうならないように、お互いのミニマムのルールとして守っていきましょうというものである。
ところが中国の民は、有史以来、侵略したりされたりの連続であったわけで、そういう概念が永続するとはいささかも考えておらず、基本的には「俺がルールブックだ」ということになる。
この世で信ずるに足るのは自分一人、俺しかいない、俺が法律だ、だから俺は好きな時に好きなように勝手気ままに振舞って何が悪い、という発想に行きつくのである。
19世紀以前ならば、これでもいい。しかし、今日の世界というのは完全にグローバル化しているわけで、人、もの、かねというのは、地球規模で動き回っているので、中国だけが独善的な自己中心主義では、他との軋轢が生じるのも当然のことで、摩擦が生じてしまう。
グローバル化した社会ならば、価値観も共通でなければならず、その共通の価値観の中で、同じ認識のもとで生きなければならないわけで、その価値観にギャップがあるとするならば、その境界では軋轢が生じ、摩擦が生じるのは当然のことである。
中華人民共和国の建国当時、1949年の中国は、確かに貧しかった。
しかし、それ以降、世界的な経済成長に便乗して、中国もそれなりに豊かになった。
それまでに社会基盤整備が遅れていた分、先進国のように社会的な基盤整備の階段を一つ一つのぼる苦労を経ずして、一気に携帯電話やインターネットを駆使する社会に成り替わってしまった。
こうなると国家としては大衆の情報を一元的に管理することが不可能になってきて、上からの強権力で抑圧されるままの大衆、国民ではなくなってきた。
こういう状況下で、中国の大衆の反日デモというのは、中国民衆の草の根の潜在意識の発露だ、と見なさなければならない。
その潜在意識のもう一枚下には、中国政府による上からの強権的な反日教育があったことはいうまでもない。
国家が上から押し付ける体制維持を目的とした教育というのは、我々も十二分に経験しているわけで、戦前戦中の「鬼畜米英」というスローガンの下での軍国教育に如実に表れている。
中国政府の反日教育というのも、それと軌を一にしているわけで、そういう教育の結果として反日、排日という機運が盛り上がったに違いない。
ただし、中国政府としては、民衆が反日をスローガンとしつつも、国家の抑圧の手のとどかない場所で、自主的に民衆の総意としての行動を起こされることに並々ならぬ危機感を感じているのである。
この反日の矛先が何時如何なるきっかけで反政府、反体制になるかもしれないという危惧を感じており、その為に民衆の自発的な行為そのものにあまり信をおいておらず、常に抑圧する準備を怠らない。
現在の中国の共産主義という体制の中では、何事によらず、民衆、大衆の自主的な行動というのは。為政者にとっては痛しかゆしの存在なのである。
この本の中で述べられている反日活動家というのは、いづれも日本に滞在した経験がある連中で、その経験からおして、日本嫌いになった節が伺える。
その最大の特徴は、日本に来てみると、彼らの思い描いた状況ではなかった、という点に尽きるが、そんなことは異国に渡れば誰でも同じことを経験するわけで、それを「日本だから」と限定するところに、彼らの不遜な奢りがあり、自己中心主義でもあるわけで、そこに中華思想が潜在意識として横たわっている最大の特徴だと思う。
アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、日本人、中国人と、それぞれに持って生れた考え方生き方というのは違っているわけで、他国に行って自分の生き方を通そうとしても相当な困難を伴うのは当然のことだ。
「相手が自分を受け入れないのは相手が悪い」という論法は、極めて中国人的ではないか。
如何なる国の人でも、日本に来て日本で生活をしようとすれば、日本になじむ努力しなければならず、その努力の過程で挫折して、自分の国に帰る人も当然いるわけで、それを相手の所為にするところは極めて自己中心的な思考である。
この本には、中国に進出した日本企業のことが書かれているが、西洋の企業では管理職にも中国人を起用しているが、日本企業はそれをしないから嫌われていると述べている。
ここにも三者三様の物の考え方が表れている。
西洋の企業は、中国進出を完全に金儲けのチャンスと割り切っているので、「ネズミを捕るネコは黒い猫でも白い猫でも構わない」という論理である。
これは完全に帝国主義的植民地主義の姿を変えた形である。
根底に流れている思考は、究極の資本主義で、如何に効率よく儲けるかという姿である。
ところが、日本企業というのはそこまで徹底した資本主義に踏み切れずに、あくまでも自分もパートナーも共に共存共栄を図ろうとする慈悲の心が事業経営の一枚下の奥底に眠っているものだから、究極の資本主義には成り切れない。
これも戦前の日本がアジアを支配しようとした発想にそのまま通じるわけで、西洋列強はアジアからの搾取を第一義に考えていたが、我々は同じ黄色人種として、ともに共存共栄を目指し、ともにボトムアップを図ろうとした思考の延長線上にある。
徹底的な搾取には徹し切れないのである。
姿形が同じ黄色人種として、相手から搾取するという思考には徹しきれず、ともに協力して、ともに豊かになりましょう、その為には私が主導権を握りますのでよろしく、というのが当時の日本の良心であったが、その過程で、あこぎな我が同胞が現地の人々を抑圧したケースもままあったことは否めない。
そういう我々の側の潜在意識を理解していない中国人は、目先の金が欲しわけで、10年も20年も先のことなどどうでもいいわけである。
中国大陸に生を受けた人間として、10年も20年も先のことに思い巡らす精神の余裕はないわけで、今金を握っておかなければ、明日にでも天下がひっくり返るかもしれない、という危惧を抱いて日々生きているのものと想像する。
これは誰も言わないことであるが、中国人には基本的に紅毛碧眼の西洋人には卑屈な態度で接する弱いところがあるように思う。
ところが、姿形の同じ黄色人種には居丈高に振舞うところがあるのではなかろうか。
それはともかく21世紀は、良かれ悪しかれ中国の世紀だと思う。
それは中国がアメリカをしのぐ経済発展をするという意味ではなく、世界は中国に振り回されると言うことだ。
現に、昨今、日本に来る食糧品の中の残留農薬の件なども、未だに真偽のほどは定かでないが、中国に起因している可能性が大であるわけで、中国が世界の工場となっている今、欠陥商品の震源地は中国ということにならざるをえない。
2、3年前アメリカでは輸入された玩具の塗料に有害物質が含まれていたという話から、ドッグフードに有害物質が混入していた例、知的財産の権利保障など、中国の一挙手一投足がそれぞれに世界に影響を与えているわけで、そういう意味から21世紀は中国の世紀だと言わざるを得ない。
今、中国は世界の工場となって、物作りの総本山になっているが、こういう場面で、人々が法を守る意識が低かったり、契約や約束を守らなかったり、ルールを無視するということが頻繁に起これば、世界からブーイングが起きる。
そのブーイングに対して、「自分たちは悪くない、お前たちが悪いのだ」という開き直りの態度を示せば、収拾がつかなくなってしまう。
というのも、彼らの自己弁護の論理が極めて異質なわけで、その意味で従来の先進国の認識やコンセンサスを無視して、自己中心的な思考で論駁されると、我々は話し合いのチャンスさえないということになる。話し合うということは、同じテーブルに着くということであって、それは共通の土俵に登るということでもあるが、価値観が同じでなければ話し合いそのものが成り立たない。
民族が違えばこの価値観も当然違うわけで、それを共通の認識の場に導くのは、教養と知性と理性でしかない。
ところが、我々のいう教養と知性と理性という概念と、中国人のいう教養と知性と理性とが別物であるとするならば、相互理解は成り立たないのである。
北京大学に留学した若い富坂聡という人のチャイナウオッチである。
戦後世代の、しかも中国に留学した人の中国への洞察であるので、一見左翼的な視点があるかと思ったが、そうでもなくその思考は極めてニュートラルであった。
ただ、我々世代のものが世に出回っているはあまたの本から推察した中国観とはあまり大した相違はない。
やはり、我々の先輩諸氏が見た中国と本質的に同じということである。
前にも記したが、人間は生まれ落ちた場所によって、考え方も生き方も全く違うわけで、その相違が民族というものを形つくる。
アジア大陸で生まれ落ちたものと、四周を海で囲まれた小さな島に生まれ落ちた人間では、それぞれの成長の過程で考え方も生き方も違ってくるのが当然であって、このことからも「人間は皆平等だ」などという言葉が嘘八百なことが一目瞭然ではないか。
大陸で生まれ、そこの習俗の中で育ち、そこで教育を受けたものと、日本で生まれ、飽食の中で生育した我々とは考え方も生き方も、まるまる違うのは当然である。
しかし、人間は過去の経験から人生の教訓を得ることは、民族が違っても共通の思考だろうと思うが、そのこと自体が民族性の相違である。
ただ我々は、四周を海で囲まれた島国の住人で、なおかつ同胞が極めて均一的な人間の集合を成しているので、他人・他民族を疑うということに警戒感が薄い。
その点、大陸で生を受けた人たちは、東から、西から、あるいは北から、南からと、常に異邦人に襲われる危険を意識しながら生きなければならなかった。
こういう潜在意識は、それぞれの民族に刷り込まれているわけで、後天的な教育では消し去れないものである。
それぞれの個人が、いくら高等教育を受けたところで、持って生れた潜在意識を払しょくすることがないまま、その上に高等教育が接木されるのである。
だから、それぞれの地で生まれた個人が、いくら高等教育を受け、高位高官に上り詰めても、もって生まれた潜在意識というのは、そのまま残っているわけで、これがいわゆる民族性というものを形つくっている。
この本を読んでみると、中国人の普遍的な中華思想というのは、見事な民族性を指し示している。
それは同時に、我々の側にも同じものがあるわけで、それは「葦の髄から天を覗く」ような偏狭な視点である。
中国人の日本蔑視というのは、有史以来、連綿と継続しているわけで、これこそ典型的な民族性である。
彼らにとっての日本にたいする認識は、未だに、東夷・夷狄を超えるものではなく、野蛮人の域を出るものではない。
ところが心の奥底でそう思いつつ日本に来てみると、とても日本の現状には溶け込めず、そのギャップの大きさに恐愕のあまり、見事に挫折するわけで、すると本人の挫折を日本の所為に転嫁するのである。
問題は、自分の挫折を他に転嫁する口舌のテク二ックが究極の中華思想ということである。
自分が世界の中心だから、自分の挫折は周りが悪い、という論理になるのである。
これこそ究極の中華思想ではないか。
自分が世界の中心で、その自分が世界の中心に位置することが出来ないのは、すべて周りが悪いから自分の中心軸が定まらないのだというわけで、我々の側の発想ならば「何を思いあがっているのだ」という思考に落ち着く。
これでは両方で完全に価値観が食い違っているわけで、我々は中国と接するとき、この価値観の食い違いを肝に銘じて認識してかからねばならない。
我々はともすると安易に「話し合えば理解し合える」という空想を抱きがちであるが、相手は5千年前から生き馬の目を抜く世界を生き抜いてきた連中ということを忘れてはならない。
先にも述べておいたが、中国人は夫婦喧嘩も街頭に出て道行く人巻き込んで自分の正当性を強調するといわれているが、これを別の言い方をすればプロパガンダを高らかに掲げると、人々がその周りに集まってくるということでもある。
つまり、根も葉もない嘘でもデマでも、声高に何回も同じことを繰り返して叫び続ければ、それが真実になるということでもある。
そして、こういう演出が彼らは極めて上手で、それによって我々は常に被害を被っている。
この本は、中国での反日デモをつぶさに観察することによって、そのデモの本質に迫ろうとした著作であるが、それを突き詰めると、結局のところ嘘も何回も言えば真実になる、という中国人の現実に突き当たるということを指し示している。
日本でいえば、流言飛語が真実になってしまうというわけで、プロパガンダが極めて有効に機能するということでもある。
これが中国人の本質なのであろう。
反日のエネルギーの後ろに、反日教育の効果が有効に機能しているわけで、異論を唱えれない共産主義体制の中で、上から有無を言わせぬ反日教育を押し付けられ、それをいささかも疑うことなく信じ切っている人たちが、反日の大義名分が何であろうとも、ただただ反日というだけで盲信する大衆の潜在意識に火が付くわけである。
この本では、そういう中国大衆のエネルギーを、中国政府、及び中国共産党も内心恐れているということが述べられている。
当然といえば当然のことで、中国民衆のエネルギーが、反日に向かっている限りは心配することはないが、そのエネルギーが少し矛先を変えて、政府批判になることを極めて恐れているのである。
中国の民衆が、反日を掲げてデモること自体が、ある面で民衆の運動、いわば大衆運動なわけで、ある意味では民主化の具現でもあり、中国政府の立場としては、こういうことがはなはだ迷惑なわけで、そのエネルギーがあまりにも野放図になると今度は逆に抑圧にかかる。
こういう点にも、中国の政府、いわゆる為政者というのは、民衆とか大衆というものをいささかも考慮に入れていないわけで、ただただ管理すべきものという認識から一歩も出ていない。
先に、生まれ落ちた場所が違えば考え方も生き方も違って当然と述べたが、そのことに付随して、中国人は法に対する考え方も我々とは大きく異なっており、こういう違いを考慮せずに向き合えば、必ず破綻をきたすであろう。
法というのは、如何なる国でも、人間が便宜的に考えだした人為的な概念であって、自分たちがお互いにスムースに生活出来るように、という自己規制を強いる概念である。
お互いにそれを順守しなければ、自分たちに災禍が降りかかってくるので、そうならないように、お互いのミニマムのルールとして守っていきましょうというものである。
ところが中国の民は、有史以来、侵略したりされたりの連続であったわけで、そういう概念が永続するとはいささかも考えておらず、基本的には「俺がルールブックだ」ということになる。
この世で信ずるに足るのは自分一人、俺しかいない、俺が法律だ、だから俺は好きな時に好きなように勝手気ままに振舞って何が悪い、という発想に行きつくのである。
19世紀以前ならば、これでもいい。しかし、今日の世界というのは完全にグローバル化しているわけで、人、もの、かねというのは、地球規模で動き回っているので、中国だけが独善的な自己中心主義では、他との軋轢が生じるのも当然のことで、摩擦が生じてしまう。
グローバル化した社会ならば、価値観も共通でなければならず、その共通の価値観の中で、同じ認識のもとで生きなければならないわけで、その価値観にギャップがあるとするならば、その境界では軋轢が生じ、摩擦が生じるのは当然のことである。
中華人民共和国の建国当時、1949年の中国は、確かに貧しかった。
しかし、それ以降、世界的な経済成長に便乗して、中国もそれなりに豊かになった。
それまでに社会基盤整備が遅れていた分、先進国のように社会的な基盤整備の階段を一つ一つのぼる苦労を経ずして、一気に携帯電話やインターネットを駆使する社会に成り替わってしまった。
こうなると国家としては大衆の情報を一元的に管理することが不可能になってきて、上からの強権力で抑圧されるままの大衆、国民ではなくなってきた。
こういう状況下で、中国の大衆の反日デモというのは、中国民衆の草の根の潜在意識の発露だ、と見なさなければならない。
その潜在意識のもう一枚下には、中国政府による上からの強権的な反日教育があったことはいうまでもない。
国家が上から押し付ける体制維持を目的とした教育というのは、我々も十二分に経験しているわけで、戦前戦中の「鬼畜米英」というスローガンの下での軍国教育に如実に表れている。
中国政府の反日教育というのも、それと軌を一にしているわけで、そういう教育の結果として反日、排日という機運が盛り上がったに違いない。
ただし、中国政府としては、民衆が反日をスローガンとしつつも、国家の抑圧の手のとどかない場所で、自主的に民衆の総意としての行動を起こされることに並々ならぬ危機感を感じているのである。
この反日の矛先が何時如何なるきっかけで反政府、反体制になるかもしれないという危惧を感じており、その為に民衆の自発的な行為そのものにあまり信をおいておらず、常に抑圧する準備を怠らない。
現在の中国の共産主義という体制の中では、何事によらず、民衆、大衆の自主的な行動というのは。為政者にとっては痛しかゆしの存在なのである。
この本の中で述べられている反日活動家というのは、いづれも日本に滞在した経験がある連中で、その経験からおして、日本嫌いになった節が伺える。
その最大の特徴は、日本に来てみると、彼らの思い描いた状況ではなかった、という点に尽きるが、そんなことは異国に渡れば誰でも同じことを経験するわけで、それを「日本だから」と限定するところに、彼らの不遜な奢りがあり、自己中心主義でもあるわけで、そこに中華思想が潜在意識として横たわっている最大の特徴だと思う。
アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、日本人、中国人と、それぞれに持って生れた考え方生き方というのは違っているわけで、他国に行って自分の生き方を通そうとしても相当な困難を伴うのは当然のことだ。
「相手が自分を受け入れないのは相手が悪い」という論法は、極めて中国人的ではないか。
如何なる国の人でも、日本に来て日本で生活をしようとすれば、日本になじむ努力しなければならず、その努力の過程で挫折して、自分の国に帰る人も当然いるわけで、それを相手の所為にするところは極めて自己中心的な思考である。
この本には、中国に進出した日本企業のことが書かれているが、西洋の企業では管理職にも中国人を起用しているが、日本企業はそれをしないから嫌われていると述べている。
ここにも三者三様の物の考え方が表れている。
西洋の企業は、中国進出を完全に金儲けのチャンスと割り切っているので、「ネズミを捕るネコは黒い猫でも白い猫でも構わない」という論理である。
これは完全に帝国主義的植民地主義の姿を変えた形である。
根底に流れている思考は、究極の資本主義で、如何に効率よく儲けるかという姿である。
ところが、日本企業というのはそこまで徹底した資本主義に踏み切れずに、あくまでも自分もパートナーも共に共存共栄を図ろうとする慈悲の心が事業経営の一枚下の奥底に眠っているものだから、究極の資本主義には成り切れない。
これも戦前の日本がアジアを支配しようとした発想にそのまま通じるわけで、西洋列強はアジアからの搾取を第一義に考えていたが、我々は同じ黄色人種として、ともに共存共栄を目指し、ともにボトムアップを図ろうとした思考の延長線上にある。
徹底的な搾取には徹し切れないのである。
姿形が同じ黄色人種として、相手から搾取するという思考には徹しきれず、ともに協力して、ともに豊かになりましょう、その為には私が主導権を握りますのでよろしく、というのが当時の日本の良心であったが、その過程で、あこぎな我が同胞が現地の人々を抑圧したケースもままあったことは否めない。
そういう我々の側の潜在意識を理解していない中国人は、目先の金が欲しわけで、10年も20年も先のことなどどうでもいいわけである。
中国大陸に生を受けた人間として、10年も20年も先のことに思い巡らす精神の余裕はないわけで、今金を握っておかなければ、明日にでも天下がひっくり返るかもしれない、という危惧を抱いて日々生きているのものと想像する。
これは誰も言わないことであるが、中国人には基本的に紅毛碧眼の西洋人には卑屈な態度で接する弱いところがあるように思う。
ところが、姿形の同じ黄色人種には居丈高に振舞うところがあるのではなかろうか。
それはともかく21世紀は、良かれ悪しかれ中国の世紀だと思う。
それは中国がアメリカをしのぐ経済発展をするという意味ではなく、世界は中国に振り回されると言うことだ。
現に、昨今、日本に来る食糧品の中の残留農薬の件なども、未だに真偽のほどは定かでないが、中国に起因している可能性が大であるわけで、中国が世界の工場となっている今、欠陥商品の震源地は中国ということにならざるをえない。
2、3年前アメリカでは輸入された玩具の塗料に有害物質が含まれていたという話から、ドッグフードに有害物質が混入していた例、知的財産の権利保障など、中国の一挙手一投足がそれぞれに世界に影響を与えているわけで、そういう意味から21世紀は中国の世紀だと言わざるを得ない。
今、中国は世界の工場となって、物作りの総本山になっているが、こういう場面で、人々が法を守る意識が低かったり、契約や約束を守らなかったり、ルールを無視するということが頻繁に起これば、世界からブーイングが起きる。
そのブーイングに対して、「自分たちは悪くない、お前たちが悪いのだ」という開き直りの態度を示せば、収拾がつかなくなってしまう。
というのも、彼らの自己弁護の論理が極めて異質なわけで、その意味で従来の先進国の認識やコンセンサスを無視して、自己中心的な思考で論駁されると、我々は話し合いのチャンスさえないということになる。話し合うということは、同じテーブルに着くということであって、それは共通の土俵に登るということでもあるが、価値観が同じでなければ話し合いそのものが成り立たない。
民族が違えばこの価値観も当然違うわけで、それを共通の認識の場に導くのは、教養と知性と理性でしかない。
ところが、我々のいう教養と知性と理性という概念と、中国人のいう教養と知性と理性とが別物であるとするならば、相互理解は成り立たないのである。