司馬遼太郎氏の「昭和という国家」という本を読んだ。
氏がNHKで語ったものを本にしたものである。
氏は前々から、あの昭和という時代は日本の歴史の中でもまことに異質な時代であった、ということを言っておられたので、その論旨を踏襲する内容であった。
昭和の時代の前期の部分が、日本の歴史の中で特別に異質であったという点に異論はないが、なぜそうなったかという点に関しては日本の知識人は、その理由を掘り下げることに躊躇しているような気がしてならない。
先の渡部昇一氏の本でも、その点をあからさまに言うことを逃げている。
地位も名誉も実績もある知識人は、そのことをあからさまに言おうとすると路頭に迷う危険があるから、やはり身の保全のためにそれは言い出せないのであろう。
つまり、あの戦争の敗北の結果を軍人達の所為にしておけば、知識人の責任は転嫁されるわけで、軍部の独断専横ということで、それ以上深く掘り下げなくて済んでしまうからである。
昭和の前期の日本が異質な軌跡を歩むようになった真の原因は、我われの国民の側にその真の理由があったと私は考えている。
司馬遼太郎氏や渡部昇一氏という今日の押しも押されもせぬ評論家、警世家の人達は、あの惨禍の原因が「お前たち国民の側にあった」とは言えないのである。
そこで誰かをスケープゴートに仕立てなければならず、誰かを集中的に叩こうとしたとき、そこにあったのは軍隊という官僚システムであった。
軍隊がその時代の国民の憧れの的あったところに真の原因が潜んでいたはずである。
日露戦争が終わったときにポーツマス会議の結果に対する日比谷公園焼き討ち事件、ロンドン軍縮会議の後の統帥権干犯問題、美濃部達吉博士の天皇機関説の糾弾、これらはすべて国民の側からの働きかけであったではないか。
私も、かっての帝国軍人を擁護する気はさらさらないが、日本が異質な時代に入っていった真の原因は、国民の各層、各階級の深層心理の中に真の原因が潜んでいると思うからである。
前に「辻政信」という本を読んだときにも書いたが、その遠因は、明治維新の四民平等という施策の中にあったと思っている。
江戸時代の士農工商という身分制度の中では、人々はそれぞれ分をわきまえて生きていた。人々を統治する士分のものは全人口の10%ぐらいしかいなかったわけで、その頃の政治とはこの10%の人の動向やものの考え方の具現化に過ぎなかった。
ところが明治維新で四民平等となり、上も下も、それこそ文明開化で西洋列強に追いつけ追い越せというムードの中で、広く人材を確保するために、身分制度の枠をはずしてしまった。
富国強兵という国民的願望を如何に達成するかという合意の中で、強兵に主眼に置いて軍人養成機関にはたった一回のペーパー・チェックで将来の出世を保障する制度を作ってしまった。
そこでは身分制度の枠をはずして、誰でもペーパー・チェックさえクリアーすれば立身出世が保障されたわけで、その関門をクリアーした人達が昭和の軍隊を私物化したところに問題があるはずである。
このことは極めて民主的な制度であったことは間違いない。
ところがそこには一つの欠陥が潜んでいた。
日本の教育機関というのは、倫理やモラルを教えるところではなく、いくら高等教育であろうとも、その教育がモラルの向上、人格形成には全くつながらないという点である。
我われにとって教育というものは人格形成には何の効果も期待できないわけで、ただただ世渡りのノウハウ、立身出世のための免罪符でしかない。
高等教育を世渡りのノウハウ、立身出世のための免罪符として認知するところが、心の卑しいの発想であるが、明治以降に出来た陸軍士官学校、海軍兵学校に全国から優秀な人間が集中するという現象の裏には、このことが隠されていたのである。
そして、こういう機関で行われた教育は、ただただ軍人養成という目的だけの機関であるので、それはまるで井戸の中の蛙の状態と同じで、広く教養知性を磨くとか、人間としてのモラルを磨くとか人格形成とはかけ離れた状態であったと思う。
あの戦争の惨禍を語るとき、どうしても軍部の批判に陥りがちであるが、昭和の戦前の時期においても普通の大学を出た知識人というのは大勢いたはずである。
幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学という過程を経て要職に就いた人は、それこそ井戸の中の蛙の状態で、井戸の壁だけを見ていたであろうが、旧制高等学校、旧制?帝国大学、ナンバー・スクールを出た知識人も数多くいただろうと思う。
ところが、そういう人も軍隊に入れば少尉候補生として徴兵制で集められた人よりは有利なポストを得られたわけで、結果的に軍に迎合してしまった。
私が想像するに、幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学と進むような学校秀才は、基本的に開き盲であったに違いない。
学校秀才というのは、教えられたことを如何に記憶しているかで決まるわけで、そこでは創造性とか、洞察力とか、想像力ということはなんら評価の対象にならないわけで、自分の仲間内だけのリトル・ワールドの中に埋没しがちである。
陸軍大学を卒業した連中が、参謀本部に集中するということは、軍隊という組織そのものを私物化するに等しいわけで、軍の組織、つまりピラミッド型の組織として大勢の部下の命の殺傷与奪の実権を自分が握っているということを忘れてしまっている。
参謀という職制は、企業の組織で言えば、ラインではなくスタッフに当たるわけだが、スタッフならばこそ、ラインの人間が如何に苦労し、如何に大勢死のうとも、自分とはなんら関係がないわけで、まるで他人事としてとらえ、良心の呵責にこたえないのであろう。この部分のことを私の言い方でいえば、日本人の敵が日本人であったと言う所以である。あの戦争で日本と戦った相手、つまり敵側の日本に対する評価というものが実に面白い。戦争の相手、つまり敵側として日本軍を見たとき、先方は日本軍部の下級兵士はとにかく優秀で勇敢であるが、上級幹部は実になさけないと言う評価である。
これはそのものズバリ参謀達の評価なわけで、陸軍大学を出た優秀であると思われていた高級参謀が、敵側からこういう評価を受けていたことを我われはどう考えればいいのであろう。
これは如実に学校秀才の実態を言い表しているということではなかろうか。
話し変わって、司馬遼太郎氏も渡部昇一氏も全く触れていないことに、東京帝大の平泉澄の皇国史観という思考がある。
高級参謀が井戸の壁しか見ていなかったという点は今後とも掘り下げて糾弾しなければならないが、平泉澄の皇国史観の影響ということも、もっともっと掘り下げて言及しなければならないと思う。
美濃部達吉の天皇機関説が糾弾される一方で、平泉澄の皇国史観というのは軍人の中級クラスに絶大な人気があったわけで、あの特攻隊に殉じた将兵も、この影響を大きく受けていたと思う。
美濃部達吉の論説が叩かれる一方で、平泉澄の皇国史観がもてはやされたことによって、当時の知識人は思考の迷路に迷い込んでしまったのではなかろうか。
思考の迷路にはまり込んで、出口がさっぱり判らないため、沈黙せざるを得ず、結果的に軍部の行動に関与する機会を逸してしまったのではなかろうか。
これは当時の知識人に対して非常に寛大で善意に解釈した論旨であるが、昭和初期の段階では、政治レベルで、軍政を押さえ込む機会はあったと思う。
当時の政党が大政翼賛会に集約されるまでは政党政治は生きていたわけで、その政党が集約される、またはされるまでの段階、過程が最大のポイントだと思う。
そのときに政党が小手先の党利党略を優先させるため統帥権という言葉を引っ張り出したことがその後の日本が奈落の底に転がりおちる最大の原因だったと思う。
政党が目先の党利党略で脚の引っ張り合いに現を抜かす、軍官僚がポストのエゴ、ポストの面子で、作戦を企画し、戦争を遂行する、大学の先生が学問そっちのけで地位や名誉を追いかける、これら諸々のことが全部重なり合って昭和初期の日本はまことに異質な状態になったのであろう。
氏がNHKで語ったものを本にしたものである。
氏は前々から、あの昭和という時代は日本の歴史の中でもまことに異質な時代であった、ということを言っておられたので、その論旨を踏襲する内容であった。
昭和の時代の前期の部分が、日本の歴史の中で特別に異質であったという点に異論はないが、なぜそうなったかという点に関しては日本の知識人は、その理由を掘り下げることに躊躇しているような気がしてならない。
先の渡部昇一氏の本でも、その点をあからさまに言うことを逃げている。
地位も名誉も実績もある知識人は、そのことをあからさまに言おうとすると路頭に迷う危険があるから、やはり身の保全のためにそれは言い出せないのであろう。
つまり、あの戦争の敗北の結果を軍人達の所為にしておけば、知識人の責任は転嫁されるわけで、軍部の独断専横ということで、それ以上深く掘り下げなくて済んでしまうからである。
昭和の前期の日本が異質な軌跡を歩むようになった真の原因は、我われの国民の側にその真の理由があったと私は考えている。
司馬遼太郎氏や渡部昇一氏という今日の押しも押されもせぬ評論家、警世家の人達は、あの惨禍の原因が「お前たち国民の側にあった」とは言えないのである。
そこで誰かをスケープゴートに仕立てなければならず、誰かを集中的に叩こうとしたとき、そこにあったのは軍隊という官僚システムであった。
軍隊がその時代の国民の憧れの的あったところに真の原因が潜んでいたはずである。
日露戦争が終わったときにポーツマス会議の結果に対する日比谷公園焼き討ち事件、ロンドン軍縮会議の後の統帥権干犯問題、美濃部達吉博士の天皇機関説の糾弾、これらはすべて国民の側からの働きかけであったではないか。
私も、かっての帝国軍人を擁護する気はさらさらないが、日本が異質な時代に入っていった真の原因は、国民の各層、各階級の深層心理の中に真の原因が潜んでいると思うからである。
前に「辻政信」という本を読んだときにも書いたが、その遠因は、明治維新の四民平等という施策の中にあったと思っている。
江戸時代の士農工商という身分制度の中では、人々はそれぞれ分をわきまえて生きていた。人々を統治する士分のものは全人口の10%ぐらいしかいなかったわけで、その頃の政治とはこの10%の人の動向やものの考え方の具現化に過ぎなかった。
ところが明治維新で四民平等となり、上も下も、それこそ文明開化で西洋列強に追いつけ追い越せというムードの中で、広く人材を確保するために、身分制度の枠をはずしてしまった。
富国強兵という国民的願望を如何に達成するかという合意の中で、強兵に主眼に置いて軍人養成機関にはたった一回のペーパー・チェックで将来の出世を保障する制度を作ってしまった。
そこでは身分制度の枠をはずして、誰でもペーパー・チェックさえクリアーすれば立身出世が保障されたわけで、その関門をクリアーした人達が昭和の軍隊を私物化したところに問題があるはずである。
このことは極めて民主的な制度であったことは間違いない。
ところがそこには一つの欠陥が潜んでいた。
日本の教育機関というのは、倫理やモラルを教えるところではなく、いくら高等教育であろうとも、その教育がモラルの向上、人格形成には全くつながらないという点である。
我われにとって教育というものは人格形成には何の効果も期待できないわけで、ただただ世渡りのノウハウ、立身出世のための免罪符でしかない。
高等教育を世渡りのノウハウ、立身出世のための免罪符として認知するところが、心の卑しいの発想であるが、明治以降に出来た陸軍士官学校、海軍兵学校に全国から優秀な人間が集中するという現象の裏には、このことが隠されていたのである。
そして、こういう機関で行われた教育は、ただただ軍人養成という目的だけの機関であるので、それはまるで井戸の中の蛙の状態と同じで、広く教養知性を磨くとか、人間としてのモラルを磨くとか人格形成とはかけ離れた状態であったと思う。
あの戦争の惨禍を語るとき、どうしても軍部の批判に陥りがちであるが、昭和の戦前の時期においても普通の大学を出た知識人というのは大勢いたはずである。
幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学という過程を経て要職に就いた人は、それこそ井戸の中の蛙の状態で、井戸の壁だけを見ていたであろうが、旧制高等学校、旧制?帝国大学、ナンバー・スクールを出た知識人も数多くいただろうと思う。
ところが、そういう人も軍隊に入れば少尉候補生として徴兵制で集められた人よりは有利なポストを得られたわけで、結果的に軍に迎合してしまった。
私が想像するに、幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学と進むような学校秀才は、基本的に開き盲であったに違いない。
学校秀才というのは、教えられたことを如何に記憶しているかで決まるわけで、そこでは創造性とか、洞察力とか、想像力ということはなんら評価の対象にならないわけで、自分の仲間内だけのリトル・ワールドの中に埋没しがちである。
陸軍大学を卒業した連中が、参謀本部に集中するということは、軍隊という組織そのものを私物化するに等しいわけで、軍の組織、つまりピラミッド型の組織として大勢の部下の命の殺傷与奪の実権を自分が握っているということを忘れてしまっている。
参謀という職制は、企業の組織で言えば、ラインではなくスタッフに当たるわけだが、スタッフならばこそ、ラインの人間が如何に苦労し、如何に大勢死のうとも、自分とはなんら関係がないわけで、まるで他人事としてとらえ、良心の呵責にこたえないのであろう。この部分のことを私の言い方でいえば、日本人の敵が日本人であったと言う所以である。あの戦争で日本と戦った相手、つまり敵側の日本に対する評価というものが実に面白い。戦争の相手、つまり敵側として日本軍を見たとき、先方は日本軍部の下級兵士はとにかく優秀で勇敢であるが、上級幹部は実になさけないと言う評価である。
これはそのものズバリ参謀達の評価なわけで、陸軍大学を出た優秀であると思われていた高級参謀が、敵側からこういう評価を受けていたことを我われはどう考えればいいのであろう。
これは如実に学校秀才の実態を言い表しているということではなかろうか。
話し変わって、司馬遼太郎氏も渡部昇一氏も全く触れていないことに、東京帝大の平泉澄の皇国史観という思考がある。
高級参謀が井戸の壁しか見ていなかったという点は今後とも掘り下げて糾弾しなければならないが、平泉澄の皇国史観の影響ということも、もっともっと掘り下げて言及しなければならないと思う。
美濃部達吉の天皇機関説が糾弾される一方で、平泉澄の皇国史観というのは軍人の中級クラスに絶大な人気があったわけで、あの特攻隊に殉じた将兵も、この影響を大きく受けていたと思う。
美濃部達吉の論説が叩かれる一方で、平泉澄の皇国史観がもてはやされたことによって、当時の知識人は思考の迷路に迷い込んでしまったのではなかろうか。
思考の迷路にはまり込んで、出口がさっぱり判らないため、沈黙せざるを得ず、結果的に軍部の行動に関与する機会を逸してしまったのではなかろうか。
これは当時の知識人に対して非常に寛大で善意に解釈した論旨であるが、昭和初期の段階では、政治レベルで、軍政を押さえ込む機会はあったと思う。
当時の政党が大政翼賛会に集約されるまでは政党政治は生きていたわけで、その政党が集約される、またはされるまでの段階、過程が最大のポイントだと思う。
そのときに政党が小手先の党利党略を優先させるため統帥権という言葉を引っ張り出したことがその後の日本が奈落の底に転がりおちる最大の原因だったと思う。
政党が目先の党利党略で脚の引っ張り合いに現を抜かす、軍官僚がポストのエゴ、ポストの面子で、作戦を企画し、戦争を遂行する、大学の先生が学問そっちのけで地位や名誉を追いかける、これら諸々のことが全部重なり合って昭和初期の日本はまことに異質な状態になったのであろう。