ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「昭和という国家」

2006-12-26 10:34:27 | Weblog
司馬遼太郎氏の「昭和という国家」という本を読んだ。
氏がNHKで語ったものを本にしたものである。
氏は前々から、あの昭和という時代は日本の歴史の中でもまことに異質な時代であった、ということを言っておられたので、その論旨を踏襲する内容であった。
昭和の時代の前期の部分が、日本の歴史の中で特別に異質であったという点に異論はないが、なぜそうなったかという点に関しては日本の知識人は、その理由を掘り下げることに躊躇しているような気がしてならない。
先の渡部昇一氏の本でも、その点をあからさまに言うことを逃げている。
地位も名誉も実績もある知識人は、そのことをあからさまに言おうとすると路頭に迷う危険があるから、やはり身の保全のためにそれは言い出せないのであろう。
つまり、あの戦争の敗北の結果を軍人達の所為にしておけば、知識人の責任は転嫁されるわけで、軍部の独断専横ということで、それ以上深く掘り下げなくて済んでしまうからである。
昭和の前期の日本が異質な軌跡を歩むようになった真の原因は、我われの国民の側にその真の理由があったと私は考えている。
司馬遼太郎氏や渡部昇一氏という今日の押しも押されもせぬ評論家、警世家の人達は、あの惨禍の原因が「お前たち国民の側にあった」とは言えないのである。
そこで誰かをスケープゴートに仕立てなければならず、誰かを集中的に叩こうとしたとき、そこにあったのは軍隊という官僚システムであった。
軍隊がその時代の国民の憧れの的あったところに真の原因が潜んでいたはずである。
日露戦争が終わったときにポーツマス会議の結果に対する日比谷公園焼き討ち事件、ロンドン軍縮会議の後の統帥権干犯問題、美濃部達吉博士の天皇機関説の糾弾、これらはすべて国民の側からの働きかけであったではないか。
私も、かっての帝国軍人を擁護する気はさらさらないが、日本が異質な時代に入っていった真の原因は、国民の各層、各階級の深層心理の中に真の原因が潜んでいると思うからである。
前に「辻政信」という本を読んだときにも書いたが、その遠因は、明治維新の四民平等という施策の中にあったと思っている。
江戸時代の士農工商という身分制度の中では、人々はそれぞれ分をわきまえて生きていた。人々を統治する士分のものは全人口の10%ぐらいしかいなかったわけで、その頃の政治とはこの10%の人の動向やものの考え方の具現化に過ぎなかった。
ところが明治維新で四民平等となり、上も下も、それこそ文明開化で西洋列強に追いつけ追い越せというムードの中で、広く人材を確保するために、身分制度の枠をはずしてしまった。
富国強兵という国民的願望を如何に達成するかという合意の中で、強兵に主眼に置いて軍人養成機関にはたった一回のペーパー・チェックで将来の出世を保障する制度を作ってしまった。
そこでは身分制度の枠をはずして、誰でもペーパー・チェックさえクリアーすれば立身出世が保障されたわけで、その関門をクリアーした人達が昭和の軍隊を私物化したところに問題があるはずである。
このことは極めて民主的な制度であったことは間違いない。
ところがそこには一つの欠陥が潜んでいた。
日本の教育機関というのは、倫理やモラルを教えるところではなく、いくら高等教育であろうとも、その教育がモラルの向上、人格形成には全くつながらないという点である。
我われにとって教育というものは人格形成には何の効果も期待できないわけで、ただただ世渡りのノウハウ、立身出世のための免罪符でしかない。
高等教育を世渡りのノウハウ、立身出世のための免罪符として認知するところが、心の卑しいの発想であるが、明治以降に出来た陸軍士官学校、海軍兵学校に全国から優秀な人間が集中するという現象の裏には、このことが隠されていたのである。
そして、こういう機関で行われた教育は、ただただ軍人養成という目的だけの機関であるので、それはまるで井戸の中の蛙の状態と同じで、広く教養知性を磨くとか、人間としてのモラルを磨くとか人格形成とはかけ離れた状態であったと思う。
あの戦争の惨禍を語るとき、どうしても軍部の批判に陥りがちであるが、昭和の戦前の時期においても普通の大学を出た知識人というのは大勢いたはずである。
幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学という過程を経て要職に就いた人は、それこそ井戸の中の蛙の状態で、井戸の壁だけを見ていたであろうが、旧制高等学校、旧制?帝国大学、ナンバー・スクールを出た知識人も数多くいただろうと思う。
ところが、そういう人も軍隊に入れば少尉候補生として徴兵制で集められた人よりは有利なポストを得られたわけで、結果的に軍に迎合してしまった。
私が想像するに、幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学と進むような学校秀才は、基本的に開き盲であったに違いない。
学校秀才というのは、教えられたことを如何に記憶しているかで決まるわけで、そこでは創造性とか、洞察力とか、想像力ということはなんら評価の対象にならないわけで、自分の仲間内だけのリトル・ワールドの中に埋没しがちである。
陸軍大学を卒業した連中が、参謀本部に集中するということは、軍隊という組織そのものを私物化するに等しいわけで、軍の組織、つまりピラミッド型の組織として大勢の部下の命の殺傷与奪の実権を自分が握っているということを忘れてしまっている。
参謀という職制は、企業の組織で言えば、ラインではなくスタッフに当たるわけだが、スタッフならばこそ、ラインの人間が如何に苦労し、如何に大勢死のうとも、自分とはなんら関係がないわけで、まるで他人事としてとらえ、良心の呵責にこたえないのであろう。この部分のことを私の言い方でいえば、日本人の敵が日本人であったと言う所以である。あの戦争で日本と戦った相手、つまり敵側の日本に対する評価というものが実に面白い。戦争の相手、つまり敵側として日本軍を見たとき、先方は日本軍部の下級兵士はとにかく優秀で勇敢であるが、上級幹部は実になさけないと言う評価である。
これはそのものズバリ参謀達の評価なわけで、陸軍大学を出た優秀であると思われていた高級参謀が、敵側からこういう評価を受けていたことを我われはどう考えればいいのであろう。
これは如実に学校秀才の実態を言い表しているということではなかろうか。
話し変わって、司馬遼太郎氏も渡部昇一氏も全く触れていないことに、東京帝大の平泉澄の皇国史観という思考がある。
高級参謀が井戸の壁しか見ていなかったという点は今後とも掘り下げて糾弾しなければならないが、平泉澄の皇国史観の影響ということも、もっともっと掘り下げて言及しなければならないと思う。
美濃部達吉の天皇機関説が糾弾される一方で、平泉澄の皇国史観というのは軍人の中級クラスに絶大な人気があったわけで、あの特攻隊に殉じた将兵も、この影響を大きく受けていたと思う。
美濃部達吉の論説が叩かれる一方で、平泉澄の皇国史観がもてはやされたことによって、当時の知識人は思考の迷路に迷い込んでしまったのではなかろうか。
思考の迷路にはまり込んで、出口がさっぱり判らないため、沈黙せざるを得ず、結果的に軍部の行動に関与する機会を逸してしまったのではなかろうか。
これは当時の知識人に対して非常に寛大で善意に解釈した論旨であるが、昭和初期の段階では、政治レベルで、軍政を押さえ込む機会はあったと思う。
当時の政党が大政翼賛会に集約されるまでは政党政治は生きていたわけで、その政党が集約される、またはされるまでの段階、過程が最大のポイントだと思う。
そのときに政党が小手先の党利党略を優先させるため統帥権という言葉を引っ張り出したことがその後の日本が奈落の底に転がりおちる最大の原因だったと思う。
政党が目先の党利党略で脚の引っ張り合いに現を抜かす、軍官僚がポストのエゴ、ポストの面子で、作戦を企画し、戦争を遂行する、大学の先生が学問そっちのけで地位や名誉を追いかける、これら諸々のことが全部重なり合って昭和初期の日本はまことに異質な状態になったのであろう。

「中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史」

2006-12-25 10:32:43 | Weblog
12月に入って何となく一人前に忙しくて、このブログも書く暇がなかった。
それでも仕事の合間に一冊読み上げた。
「中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史」という本である。
著者、渡部昇一氏は最近まれに見る右よりの思考の持ち主で、私の思考とは全く軌を一にするところがある。
彼の言わんとするところは私が言わんとするところと全く同じである。
特に、近年の中国・韓国からの批判に対する反駁は的を得たものと思う。
それゆえに日本人は皆善人だという思考になってしまっていて、自らの汚点を見つめるという姿勢に欠けた部分があるように見える。
日本対外国という視点に立てば、日本を擁護しなければならないが、そういう流れの中にも、我われ自身の汚点というべきか、瑕疵というべきか、自らの失敗というものも数多くあるわけで、そのことに対する言及が甘いように思われる。
あの戦争。太平洋戦争、日本読みでは大東亜戦争に対する失敗の原因というのは大いに我われの内側にもあるわけで、それだから自虐史観でいいというわけではないが、失敗の本質は感情論ではなく冷静な思考で考察することが肝要だと思う。
昭和の前期という時、日本人の敵が日本人であった、ということも冷静に見なければならないと思う。
確かに、我われは西洋列強、ヨーロッパ系の白人達から嵌められて、ああせざるを得ない状況に追い込まれたことは事実であり、日本全国で行われた空襲というホロコーストに対して、我われの側が「もう二度と過ちは繰り返しません」という言辞の不合理さに対する憤慨は尤もなことである。
同じ日本人でありながら、旧敵国に対してこういう言辞を言うこと自体、すでに日本人の敵が日本人であるれっきとした証拠である。
日中戦争が日本の侵略であったとして、日本の歴代の総理大臣がそれについて謝罪すること自体、日本人の敵が日本人であるれっきとした証拠ではないか。
渡部昇一氏の論旨は、そこまでは突っ込んで言及されていない。
あんころ餅の表皮の部分は確かに彼の論旨の通りだと思うが、その皮の一枚中側にあるアンコの部分、つまり日本民族の本質の部分には、民族の敵が潜んでいるわけで、その民族の敵がどういう精神発達過程を経たのかという点にまで思考が及んでいないように思う。と言うことは、彼は自らの同胞を悪し様に言うことを憚っているのである。
自らの同胞の穢い部分、汚点、マイナス点、汚れた部分にメスを入れることを回避しているのである。
戦前も戦後も、左翼陣営というのは、この点を突いたつもりでいるようであるが、そういうつもりでいるところが彼らの浅はかなところである。
彼らは共産主義という宗教に毒されているので、その視点からしか、自分達の社会を眺めれないわけで、その意味で彼らは常に現状に不満を持ち、革命をしなければという思考に至っているのである。
我われの民族の潜在意識というものは、革命や戦争ではその本質が変わるものではない。やはり民族のDNAとでもいうべきもので、それが少々の小手先の思考の変化で克服されるものではない。
明治維新以降を見ても、我われは尊皇攘夷の時代から、文明開化の時代を経、自由民権運動の時代を経て、軍国主義の時代を通過して、昨今のように自らの自己の誇りと尊厳を投げ捨てて経済立国に埋没しているではないか。
この表層的な思考の流れの奥には、潜在意識としての民族のDNAがあると思う。
俗にあらゆるものに風評というものがある。
例えば、「京女に東男」だとか、「何々人の後にはぺんぺん草も生えない」とか、そういう風評というのは案外的を得たもので、はっきりとした根拠は希薄だけれども、相対的に言い得ていると思われる。
西洋人の日本人に対する風評というのは案外好意的であるが、アジア、特に日本の近隣諸国の日本に対する風評というのは、概して厳しいものがある。
それと言うのも、アジアの過去の覇権国家というのは、あくまでも中国大陸に出来た国家なわけで、そこには中華民族・中国大陸の先住民としての潜在意識として日本蔑視が代々DNAとして刷り込まれていたからに他ならない。
中国大陸に住む民族の、民族的潜在意識というのは、まさしく風評のようなものであるが、明治維新で近代化した日本は、この風評を真正面から壊してしまった。
今までの風評の化けの皮をはがしてしまった。
化けの皮をはがして、中身の本質を世界に暴露してしまったわけである。
渡部昇一氏は、このあたりの経緯を「日本の侵略ではない」とい言っているが、政治・外交という範疇で考えればそうであろうが、現実の人間の生き様から見れば、我われの側が中国の人々に対して無意味な殺生をしたことも事実であろうと思う。
問題は、我われの「したこと」と、我われが「されたこと」のバランスをどう捉えるかと言うことだと思う。
我われの「したこと」に比重を置きすぎると、自虐史観になってしまう。
我われの「されたこと」に比重を置くと、渡部昇一氏の論旨になってしまう。
ただ昨今の日本の在り方というのは、資本主義体制の中で経済的な効果を追求しなければ生きていけないわけで、メデイアや出版界も、生きんがためには売れるもの出さなければならない。
我が身が糊塗を凌ぐ為には大衆に迎合して、大衆が喜び、受け入れてくれるテーマを提供しなければならないのである。
その為には為政者に対して抵抗するポーズを取らなければ、大衆の人気を得られないわけで、事の本質、事の真実などどうでもいいわけである。
ただただ売れさえすればそれでいいわけで、そのためには日本の政府がいくら困ろうと、危機に立たされようと、税金が無駄に使われようと、美しい理念と理想に迎合し、奇麗事を並べ立てなければならないわけである。
日本の戦後の左翼の在り方も、その前の戦前・戦中の軍国主義者の在り方と瓜二つの状況ではないか。
つまり、時の時流に迎合するという意味で、その前ならば軍国主義者でなければ人であらずという状況と同じで、戦後はそのベクトルが逆になっただけのことで、左翼でなければ人であらずという情況を呈しているではないか。
ここに日本民族の潜在意識の本質が見事に表れている。
時の時流に迎合しなければ、メデイアや出版界も生きていけれないわけで、その時流に棹差す発言は、寄ってたかって封殺しようというのが我われの民族の本質ではないのか。
異端者を排除しようという風潮が、我われの中で正義という価値観を得るところに我われの民族の秘めた矛盾があるように思う。
これは善意の正義感であろうが、この正義感が一億玉砕を正義とし、神風特攻隊を正義とし、本土決戦を正義と思い込んでいたわけで、それは我われが非常に真面目なるがゆえに、真面目に大儀に殉じようとしたからだと思う。
我われは、あまりにも真面目すぎて、大儀を疑うことを知らなかった。
この大儀こそ、時流に迎合する価値観で、時流に迎合するものである以上、時流によってその価値観のベクトルがあっち向いたりこっち向いたりするわけである。
メデイアや出版界も、それに付随してあっち向いたりこっち向いたりするわけである。
そのことによって国民は振り回される結果になる。

「日本民族の戦中・戦後」

2006-12-14 13:56:01 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「日本民族の戦中・戦後」という本を読んだ。
大筋では、この本の著者の主張に同意するものであり、その論旨は私が常々言っていることを同じである。
しかし、われわれがあの戦争を反省し、歴史の教訓として将来に生かすとすれば、もう一つの視点を考えなければならないと思う。
確かに、われわれは民族として他の民族からの覇権闘争には負けた。
ヨーロッパ系の白人種から徹底的に痛めつけられた。
アジアの黄色人種からも見事に裏切られた。
キリスト教文化圏の人々からは限りない受難をこうむった。
この本の中に述べられている、あの戦争中におけるアメリカ側の死者は8万人に対して、日本側は300万人という数字は、私にとっては新しい数字であった。
このようにわれわれ日本民族は西洋列強、いわゆるキリスト教文化圏の帝国主義的、植民地的略奪民族に嵌められ、叩かれ、殺され、踏みつけらて、1945年昭和20年には、文字通り「戦い敗れて山河あり」という状況に貶められた。
このときの状況は、まさしく日本全国には何もなかった。文字通り何もなかった。
食うに食なく、住むに家なく、働こうにも仕事もなかった。
民族としてここまで貶められると、もう「再建しよう」という意欲も失ってしまっていた。明らかにPTSD(心的外傷後ストレス症候群)に陥ってしまって、本来の人間の感情さえも失ってしまった。
自然の中の、自然の人間が、自然に成育したとすれば、当然、本来の人間が根源的に持っているはずの感情というものは失われずに維持し続けていると思う。
われわれはあの1945年昭和20年というときに、あまりにもひどい仕打ちに、完全に人間の持つ基本的な感情まで破壊されてしまって、精神さえも破壊されてしまった。
だから、それ以降というものは、われわれの民族は個の確立ということを意識しなくなってしまって、自らの命は他人の思し召しで生かされているのだという、受動的な思考から脱却できず、叩かれても叩かれても耐え忍ぶ、ただただ如何なる屈辱を加えられても、堅忍自重するまったく受身の生き方しかできなくなってしまったのである。
ただただ生きてさえいれば、どんな屈辱をも耐え忍ぶ、という誇りも名誉も否定し、ただただ生物的な生を維持できればそれで由と考えるようになったのである。
この本の著者は、その状況を憂いているのであるが、その論旨を展開するには、もうひとつの視点、つまり自らの同胞をよく観察するということが抜け落ちていると思う。
西洋列強、いわゆる白人たちが日本を締め上げようとしていたときに、それに対応しようとした、われわれの側のものの考え方、ものの見方、それを実行に移す思考、および手法に眼が行っていないように思える。
結果的に、われわれは彼らに嵌められて、壊滅したことは歴史が示しているが、われわれが彼らの計画に自ら嵌り込んでいった過程は、われわれ日本民族の内部の事情である。
そのわれわれの側の内部の事情を解き明かしておかないことには、歴史への教訓足り得ないはずだ。
人様々、人生いろいろ、十人十色と言われるように、人間の集団にもそれぞれ民族としての個性は自然発生的に生じると思う。
イギリス人、フランス人、インド人、中国人、朝鮮人、日本人と、それぞれの民族には大体共通した類似性が代々引き継がれているように思える。
それは遺伝と言うほどのものではないだろうが、親子が生活を共にする過程で、そういう民族としての共通性が自然と出来上がるのではないかと推察する。
親子という社会の中の一番小さな単位で、生活を共にすることで民族性が出来上がるとなれば、それは時代の推移とも連動しているわけで、明治時代のわれわれの生き様、価値観と、今日のそれが大きく異なることも当然と言わなければならない。
そう考えると、昭和初期のわれわれ同胞の生き様や価値観と、今日のそれが大きく隔たったとしてもそれはなんら不思議ではない。
そこで、あの戦争から何かを歴史の教訓として得ようとするならば、昭和初期のわれわれ同胞の有様、有体、生き様、価値観を、掘り下げて考えなければならないと思う。
その最大の争点は、何故にわれわれは軍人に政治を任せたのか、という点を突くことだと思う。
昭和の初期、軍人のテロやクーデターが頻繁に起きたとき、当時の政治家や、知識人、メデイアの人々、大学教授が、何故そういう行為を糾弾しなかったのであろう。
その背景にはテロやクーデターを起こした将校たちは、私利私欲で立ち上がったのではなく、世の腐敗を是正するという彼らの大儀に対して、国民が、つまり当時の政治家や、知識人、メデイアの人々、大学教授が、ある程度共感を覚えていたということだと思う。
彼らのした行為は悪いが、その気持ちは察して余りある、と言うような同情論が大勢を占め、秩序の破壊に対して毅然とした態度を忌避し、甘く物分りの良い処断があったがため、その流れに押し切られてしまったものと思う。
若手将校の暴走ということになれば、その監督責任も当然追及されるわけで、それを追求し続けると、組織、つまり軍部の中枢にまで累が及んでしまうため、実行犯のみに責任を転嫁し、いわゆるトカゲの尻尾切りで済ませてしまったわけである。
そういう事態に対して、組織の外からの糾弾がなかったことから、軍隊という組織が次から次へと、秩序破壊、下克上の風潮を増幅させ、非合理、不合理の屋上屋を重ねた結果、1945年昭和20年8月15日という結果になったわけである。
われわれがあの戦争から歴史への教訓を引き出すためには、われわれの民族の心の本質を探り出さなければならないと思う。
何故われわれは軍人の横暴を許したのか、何故われわれは軍人たちに安易に政権を引き渡したのか、大正デモクラシーは一体なんであったのか、を問い直さなければならないと思う。
歴史への反省という意味で、われわれがあの戦争を語るとき、個人の功績、つまり軍人の作戦の巧拙に話しが行きがちであるが、そんなことは枝葉末節のことだと思う。
我われの政治家達が何故に政党政治を葬り去り、軍部に迎合したのかを掘り起こさねばならないと思う。
変な言い方であるが、軍人が政治を牛耳っていたとしても、政治に携わる以上、彼らとて、国民の声なき声、世論の空気、一般庶民の生活の向上、五族協和、世界や地域の平和というものを願っていたと思う。
国民の側にもそういうものの実現を望むひそかな願望というか、夢というか、期待というか、そういう精神の背景があればこそ、軍人の専横を容認していたと考えられる。
そして生身の人間としての軍人、兵隊、将校というのは、すべてそういう階層の中からの出身者であったわけで、軍の独走は国民の夢の実現の一番具体的な目に見える形の行動に映ったものと思う。
問題は、そういうものの実現に戦争を手段としたことにある、と考えなければならない。そして、それをリードしたのが軍人養成機関を優秀な成績で卒業した集団であった、という点に注目しなければならない。
「軍人養成機関を優秀な成績で卒業した人」に対しては、当時の日本国民は等しく羨望の眼差しを向けていたわけで、そういう人が施行するあらゆる施策は決して間違っていない、という錯覚に陥っていたといわなければならない。
反省すべきはその錯覚である。
その錯覚がどうして起き、それが出てくる原因は何であったのか、それを究明しないことには、歴史への教訓を導き出せないと思う。
それを一言でいえば、民主化の度合いの未熟さだったと思う。
今の視点からすれば、我われの民主主義というものが極めて未熟だった、ということであるが、これは歴史の過程では致し方ないことで、こういう教訓を経てわれわれは次第に成熟するのであろう。

「昭和っ子」

2006-12-12 09:21:57 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「昭和っ子」という本を読んだ。
副題にあるとおり、セピア色の思い出は私と共通するものがあった。
1932年生まれの著者は、私とは8歳も上なので、その記憶は鮮明であったようだ。
年取った人の方の記憶が鮮明ということは、同時代のことでも感受性がより成熟していたということで、5歳の子供の感じたことと、13歳の子の感じた感想というものは自ずと違っているということであろう。
この中の百味箪笥という項で、薬草のことが述べられているが、これは非常に興味を引くところであった。
著者の生家が薬屋さんで、漢方薬の材料を保管する箪笥・引き出しのことらしいが、ここで語られている薬草に関する記述を読むと、われわれの身の回りにあるごくありふれた木々や雑草もすべて薬草のようだ。
こういう知識は非常に面白い。
そして詳しくは語られていないが、著者も学生時代には学生運動に身を投じたらしい。
私は生きた人間に興味を持っているので、こういう学生運動にも非常に関心を持っているが、いつの世でも、どこの国でも、世の中の変革を推し進めるのは若い世代の人々であるということは納得できる。
しかし、戦後のわれわれの国で、学生運動は本当にわれわれの生き方を変革したであろうか。
60年代の安保闘争。それに引き続く学園紛争等々、あの時代はさながら革命前夜の情況を呈していたが、それがその後の日本の方向付けに成功したであろうか。
この激動の革命前夜のような時代の後に、われわれは高度経済成長を経験したことになるが、あの学生運動は後の高度経済成長に何らかの影響を及ぼしたのであろうか。
私が考察するに、あの学生運動の時期にはすでに日本の企業は高度経済成長する基盤を社内に構築していたと思う。
そのエネルギーは、敗戦という苦境から何が何でも生き返らなければならないという、生きんがための執念であったものと思う。
その中で、彼ら学生運動に現を抜かしている青年の親たちは、死に物狂いで稼ぎまわっていた結果として、その子弟たちは学生運動ができたのであろう。
学生運動そのものは高度経済成長にはなんら貢献するものではなかったと思う。
言い換えれば、親たちが死に物狂いで稼ぎまわっていたので、自分の子供たちに昔の倫理観を教え切れなかったところに若者の暴走があったものと思う。
そして、この時期は、ちょうど中国では文化大革命の時期とも符合しているわけで、当時中国の情報はほとんど一般の庶民にまで届いていなかったが、それでもあの学生運動の先導者はひそかに中国と気脈を通じていたわけで、それがため造反有利などとあちらのスローガンがそのまま日本で流布したものと思う。
あの戦争で世界を敵に回した日本に対して、「日本を再びあのような国にしてはならない」、というのは世界共通の認識であったに違いない。
日本が占領直後のように、「戦い敗れて山河あり」の状態のままにしておきたい、というのは世界共通の認識であったに違いない。
イデオロギーを超えて、ソビエットも、共産中国も、アメリカもその思いは同じだったと思う。
あの時代の学生運動が、精神の向上、モラルの潔癖さを競うものであったとすれば、今日の社会的な不合理な問題はありえないと思う。
この本でセピア色の思い出をつづっている著者も、深層心理の中では立派な左翼思想の持ち主で、平和愛好の裏側に現行政治体制の否定の気持ちを潜めているわけで、それは往年の学生運動の残滓を引きずっているようなものである。
誰でも平和に暮らせることを願っているが、その願いと裏腹に、われわれの生活は競争に明け暮れている。
昔は道路で子供が遊べたが今はそれができない、なぜならば交通戦争になっているからである。
昔は誰も彼もが進学しなかったので受験戦争もなかったが、今はどうであろう。
誰も競争とか戦争などということは避けて通りたいのは山々だと思う。
ところがそれを周囲の状況が許さないという現実がある。
国防でもこれと同じことなわけで、理念や理想で「戦争は嫌だ」といったところで、周囲の状況がそれを許さない現実がある。
そのときにどう対応するかが愛国心につながるものと思う。
愛国心というのは直ぐに「武力行使に訴えよ」という意味ではないはずで、そういう場合にいかなる対応が最もベターな選択か考えることだと思う。
政府、ないしは当局が、いかなる対応をしても、それに対する賛否両論は当然出て来るはずであるが、そのときに整然と論理的に物事を考えることが必要なわけで、ただただ感情論で、「俺の言うことを聞かないから政権から引きおろせ、かつそれは正論で間違いないから実力でも推し進めよ」という発想は暴論というものである。
この本の述べるセピア色の思い出の中には、政治問題に関することはほとんど登場してないが、著者が青春時代を送ったころの風俗は私も懐かしく思い出される。
学生がデモをしているころ、同世代の私は汗水たらして働いていたわけで、「あの思い上がりの共産主義者メ」などと、やっかみ半分で彼らを見つめていた。
彼らが東大安田講堂を占拠して、大学の施設という公共のものを破壊して英雄ぶっている姿を見て、この先日本はどうなるのだろうと畏怖の念を抱いていたものだ。
エリートたるものが、公共の施設を破壊して意に介さない状況をなんと考えたらいいのであろう。これこそモラルの崩壊ではないか。
本来ならば、選ばれたエリートたちが公共のものを破壊したら、その弁償はどうなるのだろうと、われながら貧乏人の発想に憤ったものだ。
今現在、このときに活躍した闘士たちが社会の中間層以上を占めているのではなかろうか。
問題は、こういう闘士たちが民間企業にだけ進出してわけではないということである。
彼らは、官庁にも、司法の場にも、検察や警察というような場にも、教育の場にも大勢入り込んで、その彼らが今では組織の管理者になっているはずで、その彼らが昔の共産主義のイデオロギーを表ざたにならないようにそっと日々の業務の中に忍ばせているとしたら、恐ろしいことといわなければならない。
仮に、裁判官に昔の共産主義者がなっていたとしたら、その判決はわれわれの倫理を否定するようなものになるのも当然である。
そして、その結果には共産主義者の隠された意図があるということは決して表面化しないわけで、新しい価値観がそこで生まれるということになってしまう。
昨今の社会の病弊は、戦後の学生運動の影響がボツボツ露呈してきたということではなかろうか。

「辻政信」

2006-12-11 07:30:39 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「辻政信」という本を読んだ。
たった一冊の本で全人格を論ずるのは無謀ではあるが、大体は私の思っていたとおりであった。
私は日本が先の戦争にはまり込んで、大敗した理由は、軍隊組織の中の下克上に原因があったと思っていたが、大雑把に見て間違いなさそうである。
その下克上の典型的な例が彼であると思う。
石川県の片田舎の貧乏な子供が、たった一回のペーパーチェックをクリアーすることによって出世街道をまっしぐらに上り詰めたわけで、典型的な下克上の構図をトレースしている。
彼の場合、幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学と、それぞれのエリート・コースを歩んでいるので、その時々に関門、いわゆるペーパーチェックを何度もクリアーしているので、その意味では「たった一回」ということにはならないが、最初の幼年学校に入るということがなければ、あとの関門をくぐるチャンスはないわけで、その意味で彼の軍人生活は最初の一回のペーパーチェックをクリアーすることで大きく開けたわけである。
明治維新の四民平等、広く会議を起こし万機公論に決すべし、という明治政府の民主化の花が、その後の日本の軍隊の中では徒花となったわけである。
わずか14、5歳の人間が、幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学と、こういうコースを進めば、その中で得た知識、教養というものの幅は当然、深い井戸のようなもので、井戸の中の蛙的な思考にならざるを得ないではないか。
そして彼の人生は見事にそれをトレースしているわけで、その結果として下克上を呈し、法や、手順や、秩序や、常識を無視した行動となって現れたではないか。
巨大な軍隊という組織の中に、こういう人間が紛れ込むことはある程は致し方ない。
問題は、組織の中で、こういう事態に陥ったときに、如何に自浄作用が働くかということだと思う。
組織の中の個々の人間は時々過ちを犯す。
それは本人が意識して行うものもあれば、善意で以って結果的に間違うこともあろうと思うが、そのときの組織全体として、個人の過ちを如何に是正するかということだと思う。昨今の各県の行政機関でも、汚職や、官製談合や、公金横領や、裏金つくりなどということが頻繁に起こっているが、組織にはそういうことはついて回ると思う。
人間の作っている社会、組織なるがゆえに、ひと本来の欲望に負けて、私利私欲に走る人間がいることは致し方ない。
問題は、そういう場合に、組織全体として如何にそれに対応するかということだと思う。あの戦争中の日本の軍隊の中では、いわゆる軍政が、学校の成績で左右されていたという点に、過去の歴史を反面教師として学ぶべきものがある。
今の日本人ならば大なり小なり学校生活というものを経験しているが、学校という集団では、成績が一番ものを言うわけだ。
ところが、学校の成績と一般社会の中の実績とは必ずしも一致しないはずである。
にもかかわらず、日本の旧軍隊の中では、学校の成績が良ければ一般業務においても間違いはないであろう、成績の良いものならばいい結果を出すであろう、という妄想から抜け切れていなかった。
軍隊が完全に消滅するまで、われわれの軍人たちはその呪縛から解き放たれていなかった。辻政信は相当に早い段階から、一匹狼的な奇異な行動に出ていたと記されているが、ならば誰かがそれを諌めなければならなかった。
結果が良ければすべてよし、の内ならばまだ許せる。
ところが結果が悪かったときでも、その懲罰が見事に甘い。
懲罰の意味で形式的に左遷されても、すぐに現職復帰をさせているわけで、これはひとえにお互いの庇い合いをしていたということである。
この官僚体質は、あの時代の日本の軍隊の中かならば必然的にそういう結果になるであろう。そんなことは考えるまでもない。
陸軍でも海軍でも、組織のトップはお互いに同窓生なわけで、海軍ならば海軍大学、陸軍ならば陸軍大学の同窓生が、その組織のトップを占めているわけで、あいつが失敗したから直ちにクビにする、などということは友情が許さないと思う。
同じ釜の飯を食った仲で、それほどまでに冷徹、冷酷になりきれないと思う。
この状態を俗っぽい言い方で表現すれば組織疲労というか、組織崩壊というか、組織のメルトダウンとでも言うほかない。
完全な組織の私物化だと思う。
幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学というまったくの井戸の中で生育した人間が、組織のトップになったとすれば、その人の視野がどういうものになるかは自ずから判る。
そして、それは見事に歴史が証明しているではないか。
陸軍でも海軍でも、軍人養成機関というのは基本的に軍人を養成するところであるので、それはそれで致し方ないが、問題はシビリアン・コントロールがきちんと機能していれば、それはそれで整合性がある。
ところが、このシビリアン・コントロールが機能しなくなってしまったから、こういう馬鹿げた現象が起きてきたわけである。
シビリアン・コントロールを死滅させた責任は、当時の政治家や、言論界や、教養人の責任に帰すると思う。
軍人の専横が顕著になってきた時期に、こういう類の人間が軍に迎合してしまったところに、われわれの過誤があったと私は考える。
一言で言えば、政党政治の堕落。
政党が狭い了見の党利党略に走って、幻の権勢に擦り寄った所為だと考えざるを得ない。その元凶は1930年、昭和5年のロンドン軍縮会議に関連して、政友会の鳩山一郎がそれを統帥権干犯として糾弾したことによる。
このことは、ある意味で天皇(統帥権)を政治的に利用して、党利党略を図った面もあるが、その後の歴史では軍があまりにも前面に出すぎてしまったので、政党の姑息な点数稼ぎの発言が霞んでしまった。
政友会の鳩山一郎が目前の党利党略のためにパンドラの蓋を空けてしまったのである。
それを機会に軍の専横があまりにも甚だしくなったので、当時の政党はそれを抑えることができず、軍の前では沈黙せざるを得ないようになってしまったのである。
その前の治安維持法の成立も、そのあとの美濃部達吉氏の天皇機関説の排斥も、明らかに政治の問題なはずなのに、軍があまりにも派手に動き、テロ、クーデターと、とっぴな行動をしたものだから、世間の目がすべてそちらに向いてしまった。
このあたりの経緯は、明らかに政治家や、言論界や、教養人の責任に帰すると思う。
戦後、朝鮮戦争が始まったとき、日本を占領していたマッカアサー元帥は原爆を使うといってトルーマン大統領からその職を剥奪された。
これは見事なシビリアン・コントロールであった。
それに引き換え、われわれが日中戦争に嵌まり込んでいった経緯を見ると、政府の不拡大方針はことごとく出先の軍隊に無視され、政府の意向と反対の行動をとっていたが、実質それは日本軍が中国の地に足場を作ったことになり、版図が広がったことを国民は支持していたではないか。
ここで本来ならば当時の政治家や、言論界や、教養人は、軍の行動を諌め、糾弾し、政府の方針に従うように世論を喚起すべきではなかったのか。
軍が勝手に秩序を無視し、手順を踏まずに行動しても、日本の版図が少しでも広くなれば、それを目出度いこととして容認してきたのは、当時の政治家や、言論界や、教養人や、メデイアではなかったのか。
マッカアサーをクビにしたトルーマンも偉いが、それに従ったマッカアサーも偉い。
そしてこれこそシビリアン・コントールであるが、辻政信にこういう素養があったであろうか。
所詮は田舎ものの世間知らず、井戸の中の蛙の大将でなかったろうか。

「堺屋太一の見方」

2006-12-06 17:27:20 | Weblog
例によって図書館から借りてきた「堺屋太一の見方」という本を読んだ。
彼の過去の著書の中から重要なフレーズを抽出したものだ。
その一言一言には非常に考えさせられる内容を含んでいた。
未来予測は的確であろうと思われる。
未来予測を的確にするためには過去の実績を深く考察することが必要だと思うが、その意味からして、昭和初期の日本を深く考察しなければならないことは言うまでもない。
その意味で、日本そのものを掘り下げている。
私は定年後、国内を旅をする機会には、あの戦争の戦跡を巡ることにしている。
それで数日前にも沖縄に行って、沖縄南部にある沖縄平和祈念公園に行き、摩文仁の丘を訪問し、慰霊の旅をしてきたが、それにつけても日本人の戦い方に大いに疑問を持った。
沖縄の犠牲者が23万人とも言われているが、あのアメリカ軍の物量を前にして、なぜそれほどの犠牲をこうむるまで戦い抜いたのか不思議でならない。
俗な言い方では、日本には戦陣訓というものがあって、降伏が許されなかった、といわれているが、自分の命を捨ててまで大儀に殉ずる必要があったかどうか、まことに不思議に思う。
ここ沖縄に限って言えば、非戦闘員までが必然的に戦闘に巻き込まれたわけで、中学生や女生徒まで、この戦陣訓が、その精神を呪縛していたことがどうしても納得がいかない。
日本人の本質を語ろうとすると、どうしても過去の思考の繰り返しになってしまうが、われわれは農耕民族として隣人との連携を非常に大事にしてきた民族だと思う。
自分の意思や考え方よりも、隣の人が自分をどう見るか、自分の意思の前に、隣人の自分を見る目が気になって、周囲の思考に自分の行動を合わせる部分があると思う。
農耕民族として、田植えの時期、稲刈りの時期、籾の選択、品種の選択というものを自分の意思ではなく、周囲の人、つまり同じの中の、他の人々の行動に自分を併せる習性ができあがっていたと思う。
これはわれわれ日本民族の民族的な習性なわけで、われわれはマスとして、人間の固まりとして、こういう傾向を持っていると思う。
戦後の高度経済成長のときも、これが見事に露呈しているわけで、あの事業が儲かりそうだと思うと、雲霞のごとくそれに群がる、というのがその顕著な例だと思う。
あの会社が中国に進出すれば、わが社も負けず劣らずそれに追従するという傾向が、それを見事にあらわしていると思う。
儲かりそうだと思うと、雲霞のようにその業界に参入して、結果的に過当競争になり、コストダウンを強いられ、そこで新たな選別が起きるわけであるが、このときその選別の段階で、その競争に敗れたものを国家が救済すべきだ、という議論が出てくる。
今の日本で、政治家も、大学教授も、知識人も、マスコミも、教育を論ずるときに、モラルということを一言も説かないということは大きな問題だと思う。
目下、教育基本法の改正が当面の政治課題として問題視されているが、その中の大きなテーマは愛国心の植え付けである。
そもそも愛国心などというものを教育で教えなければならない状況そのものが国家の体をなしていないということだ。
沖縄戦で、中学生や女学生までが、あの不利な状況の中で死ぬまで戦ったということは、われわれ同胞の目から見れば可哀想に、という感情論の域を出るものではないが、世界的な視野から見れば、日本人の愛国心の顕著な例なわけで、日本人とは実に勇猛果敢な民族で、身を挺してまで祖国に殉ずる非常に気高い人々だ、ということを世界的に知らしめた筈だ。
今回の戦争には敗北したとはいえ、決してあだや疎かに扱えない民族だ、ということを世界に知らしめたものと思う。
それが60年たった今はどうであろうか。
愛国心を教育の場で教えなければならない状況というのは、一体どう考えたらいいのであろう。
戦前・戦中の軍国主義も、堺屋太一の言葉を借りると「雰囲気」といっているが、今の愛国心の喪失も、明らかに戦後の民主教育の雰囲気のひとつであろう。
われわれはあの戦争に敗北したことによって明らかにPTSD(心的外傷後ストレス症候群)に陥ってしまって、元の正常な精神構造を取り返せなくなってしまった。
戦争は悲惨で、若い命を無駄に浪費するだけだからやめましょう、というのは敗戦を経験したわれわれだけのものと思い込んでいる節があるが、これこそ無知というものである。
世界中の人が、どこの国でも、老若男女が、こぞって戦争を忌み嫌っているということがわかっていない。
戦争は嫌いだが時と場合にはそれも辞さない、というのが世界の常識であるが、PTSDに罹ったわれわれは、その時と場合には辞さないという部分に尻込みをするわけである。
これらはすべて感情論で、感情で日本の状況、世界の状況を見るので、日本の常識は世界の非常識となり、世界の常識は日本の非常識になるのである。
世界の常識が日本の非常識となっているので、愛国心などというものが教育の場に持ち出されるのである。
愛国心などとことさら強調するから、その反発も大きくなるが、国を愛するということは、普通の市民が、普通にまじめに生きてさえおれば、それがそのまま愛国につながるわけである。
八百屋さんが毎日一生懸命家業にいそしみ、大工さんがまじめに働き、銀行員がまじめに業務を続け、市役所の人が普通に市民のことを考えておれば、そのことがそのまま愛国につながる。
普通の国民が法律に触れるようなことをせずに、警察の世話になるようなことをせず、普通に生活さえしていれば、それがそのまま愛国につながるわけである。
知事や官僚、または大企業の幹部が、汚職や、談合や、公金横領、不正融資、脱税というような法に触れるようなことをすれば、そのことこそ、愛国心の対極にある非国民だと思う。
国を愛することを教育の場で教えるなどということこそ、主権国家として情けないこともないと思う。
われわれは雰囲気という空気に流されてはならず、地に足をつけて感情論でなく、理性と知性で物事を見なければならないと思う。