例によって図書館から借りてきた本で「老いをあざむく」という本を読んだ。
題名からは軽いエッセイのような印象を受けがちであるが、どうしてどうしてかなり本格的な内容のもので、読むのにいささか忍耐を強いられた。
サブタイトルには「《老化と性》への科学の挑戦」ともなっているように、立派な学問的希求の精神で溢れていた。
著者は外国人でロジャー・ゴスデンという人だが、人間の老化を学問的に真正面から捉えた真面目な本であった。
始めから最後まで活字がぎっしり詰まっていて読みとおすのに相当な根気と忍耐を必要とした。
私はもともと先天的なアルツハイマーのようで、本を読んだからといって、読んだことが頭の隅に残っているということがほとんどない。
活字を追っている瞬間のみ、何となく分かったような、理解し得たような、なるほどなと思いつつ、読み終えるときれいさっぱり記憶から抜け落ちてしまっている。
結果的に時間の浪費でしかない。
しかし、不思議なことに本に書かれた内容はすっかり忘れてしまっても、それが契機となってさまざまな思考が頭の中を駆け巡るという妙な現象が起きる。
それでここで再び「老い」ということについて私なりの思考を書き留めておく。
この地球上の生きとし生けるものは誕生の瞬間から死に向かって歩み始めるものと思う。
この本は動物の寿命についても詳しく述べているが、カゲロウのように誕生して数時間で生涯を終えるものがあるが、人間のように長寿を全うするものもいる。
ところが人間以外の生き物は、自分の死を忌み嫌うということはあり得ないわけで、人間のみが死を嫌って何時までも生き続けたいと願う。
カゲロウでも、セミでも、野性の動物でも、自分の死は淡々と受け入れている。
野生動物に老衰という現象が少ないのは、年を重ねて身体が思うように動かない、機能しないようになれば、老衰する前に自然淘汰、つまり死ぬ、若死にしてしまうから老衰した個体がないということだ。
単純な話、如何なる肉食動物でも体が思うように動かない、たとえば足に棘が刺さっただけでも獲物を十分に確保できないわけで、結果的に死に至るということで、ある個体が老衰するまで生き延びられないということだ。
これが基本的に自然の摂理であって、その意味からすれば人間が長生きを願うというのは、自然の摂理に対して歯向かっているということになる。
人間は他の動物に比べると頭脳がことのほか発達しているので、物事を考えるという機能を持っている。
如何なる生き物でも、必要最小限の自己保存機能、つまり如何に行動すれば自己保存に有利か、という状況を判断する機能は大なリ小なり持ち合わせていると思う。
肉食動物が獲物を狩る能力、食われる立場の動物が如何にその牙から逃れるかという判断力は、全てそれぞれの個体の脳の機能によってコントロールされているものと推察する。
その意味で、如何なる生き物でも脳で考えて行動しているといってもいいが、人間の場合は万物の霊長類と言われるだけあって、他の動物に比べると一段と脳が発達している。
だから自己保存というミニマムの思考を越えて、自己保存+アルファーの思考の能力があるところに最大の問題点が潜んでいる。
自己保存+アルファーの+アルファーの部分が俗にいう煩悩というもので、この部分が人間の生き様に様々な悲喜劇を演ずるエッセンスを秘めているのではないかと私は考える。
アマゾンの奥地の未開人が農耕生活、あるいは狩猟生活をしている限り、自己保存の原理で生きているが、その中のある人が自分の種族、あるいは集団を自分の思う通りに統率しようと考えると、これは煩悩の領域へと思考が膨張していったということになる。
アマゾンの奥地の人々の生活は、人間の基本的な生き方の極めて単純化したモデルなわけで、地球上の他の地域に生きる現代人は、それこそ個々の人がそれぞれ自分の煩悩との格闘を演じながら生きでいると考えなければならない。
不思議なことに、この人間の煩悩というのは教育でコントロールできないわけで、いくら優秀な学校で高度な教育を受けても、人の煩悩を浄化して清らかな思考に再生するということは出来ない。
言い方を変えると、人間の自己愛は教育では如何ともコントロールしきれないということで、いくら立派な教育を受けた人でも、持って生まれた生来の根性は、教育では是正できないということである。
で、人間が何時までも若いままでいたい、年を取りたくない、何時になっても死にたくないという願望は、人間の究極の自己保存の原理であって、人は太古からそれを追い求めてきた。
不老不死というのは、生きた人間の究極の自己保存であると同時に、自己愛でもあったわけだ。
この本でも言っているように、人間でも昔は介護が必要になるほど長生きする例はまれで、大部分の人間は、老衰に至る前に死んでしまっていたということだ。
地球上に誕生した人類にとって、老衰に至るまで人間が長生きするという状況は、人類が初めて直面する新たな課題なのではなかろうか。
神様は人間が老衰に至るまで長生きする事態を想定していなかったのではなかろうか。
昔でも古老の存在というのは有るにはあったわけで、全くないというわけではないが数がすくなかたので、それなりに大事に扱われたが、老人がマスとしているような状況は、神様にとっても想定外のことではなかろうか。
こういう状況が現出すると、人間の頭脳は如何なくその機能を発揮しだすが、人間の考えることはどうしても過去の事例を参考にしがちで、歴史の中からその答えを導き出そうとする。
するとどうしても過去の倫理観の中にその答えがあるように思えて、古い玩具箱をひっくり返したように、過去の様々な思考から自分たちにとって最も整合性の在りそうなものを探し出そうとする。
それが「人の命は地球よりも重い」が故に、如何なる人間も可能な限り生かさねばならず、いくら死にかけの命でも、故意にそれを絶ってはならないという、古い古い人間の価値観に帰結する。
現代の医学の進歩は、植物人間という言葉にも表れているように、動物学的な機能を失ったままでも生を維持できるところまで進化してしまったので、植物のような状態のままでも生かせることが可能になってしまった。
動物学的な機能を失った人間は、まさしく植物と同じで、自分の意思というものを失ってしまっているので、この状態のまま生かし続けて果たしていいものかどうか、大勢の医者、あるいは近親者が思い悩むところである。
ここで我々は古い価値観、あるいは倫理観との格闘を演ずることになるのだが、私個人の考えとしては、回復の見込みが全くないとなれば、安らかな死を与えた方が本人のためにも周囲の人のためにも適切な処置だと考える。
人の自然の老衰についてもこれと同じことが言えていると思う。
人の死は、それこそ万人に全く平等に押し寄せてくるわけで、問題はそれが遅いか速いかの違いでしかない。
日本では昔から人の命は約50年とみられていたわけで、人がこの年齢で死んでいけば、老衰という事態は起きなかったに違いない。
世の中をじっくりと眺めてみれば、人間の織り成す社会というのは日々進歩しているわけで、50年前には想像もつかない現象が、今は日常茶飯事に展開している中で、死に対する人間の思いのみが人類誕生の時のままであることの方が不思議だと思う。
この本の主題の「老い」という現象も、「老い」をいかに克服するかの視点で描かれているが、このテーマこそ人類誕生の時のイメージをそのまま引きずっている。
今に生きる我々は、太古の時代の人間に比べれば、昔の50年を今は1年か2年で通過しているわけで、いま50歳の人間は昔の100年ぐらいの時空間を体験しているに等しいと思う。
その中で、我々の意識のみが人類誕生の時の死生感のままでは明らかに時代に適応していないのではなかろうか。
当然21世紀に生きる人間には、その時代にマッチした死生感を具備しても何ら不思議ではないと思う。
人はこの世に誕生して以来、それぞれ各人が各様に精一杯生きてきたものと想像する。
中には自分の思う通りに行かなかった人も大勢いるに違いなかろうが、それは運命の悪戯のせいであって、努力したからといってそれが全部叶えられるというものでもないというのは自明のことであって、それを悔やんでも詮ないことである。
しかし、自分の人生もしだいにたそがれてくれば、それぞれに自分の人生にそれなりの評価をせねばならない時が来るものと推察する。
過去に成功できなかったものが、老い先短い時期になって、起死回生を図って成功を手にするということはまずは考えられないことで、そういう人もそういう人なりに自分の人生に見極めをつけなければならない時が来るものと思う。
この時、今までの人類の価値感あるいは倫理観では、自死の選択が許されない。
許されてはいないにもかかわらず、勝手にそういう道を選択する人は大勢いたが、すると周りの人が大いに非難されがちである。
自殺という行為は、人としてすべきでない行為だという認識が根底にあるので、その観念から脱却しきれない人々が憂うのである。
本人はそれなりに納得して行動に移したのだが、周囲の人は本人をそういう立場に追い込んだことに自責の念にかられて罪の意識にさいなまれるのである。
この部分が私には時代にマッチしていないように思えてならない。
私としては、老いたまま老醜をさらしながら生き続けるよりも、心身ともに健康で、判断力もきちんとしている時期に、自分の人生劇場の幕を自分で幕引きをする自由をもっともっと容認してしかるべきだと思う。
「死にたくない」という人に無理に要求するのではなく、自分の人生に満足して、充分に納得した人に、その人の最後の願いを心置きなく振舞ってもらうことであって、嫌がる人に無理やり押し付けるわけではない。
私自身も齢70になっていよいよ自分の老いに直面する時期に達したが、私個人としては、自分の体を他人に触らせてまで介護を受けて生きていたくはない。
下の世話を他人にさせるぐらいならば、さっさと安楽死を選択したいと考えている。
ところが今の段階では、この安楽死がなかなか容易ではなく、それこそ植物人間にでもならなければ、安楽死させてもらえないところが大いに不満である。
我が身から敷衍して世間を眺めてみれば、私と同じように「介護を受けてまで長生きしたくない」と考えている人は私のほかにも大勢いるのではなかろうか。
本人が「自分はもう十分に生きたのだから、ここらで幕引きをしたい」という願いは、何故世間から白眼視されるのであろう。
「そういう人は勝手に死ねばいい」というのは、他者に対してあまりにも無責任であり、無慈悲なのではなかろうか。
科学でも、医学でも、宗教でも、生きている人にもっと生きよ、もっと生きよ、死んではならない、植物人間でも生せるべきだという風に、生への執着は極めて強力であるが、燃えつき症候群の人々に対しては、経極めて冷淡で、その考え方を否定的に捉えがちである。
こういう人たちは、あまりにも綺麗ごとにすがりすぎて、理念上の大昔からの倫理観から脱却しきれずに、観念のシーラカンスに陥っているのではなかろうか。
その心の奥底には、他人の介護を受けてでも生き続けたいという思いが内側に潜んでいるのであろうか。
私にとっては、他人、仮に家族・肉親であったとしても、他者から下の世話をされるということは、自分の尊厳を根底から引きはがされるように思えて、とても我慢できるものではない。
想像するだけでも卒倒しそうな光景で、私の自尊心が許さない。
私の理想とする高齢化社会は、人生の幕引き申請書のようなものを行政機関、あるいは医療機関に申請すると、丸薬を2粒か3粒戴いて、それを服用すると、翌日までにベッドの中で安らかに眠れるという形である。
生への執着については、人類誕生の時から人類は様々に思考を巡らしてきたが、死への執着、如何に美しく死ぬか、ということは全く考えてこなかったのではなかろうか。
病気で死ぬというのは、運命の悪戯なわけで、本人にとってはまことに不本意なことに違いないが、人生の幕引き死というのは21世紀の人類にとって新しい価値観ではなかろうか。
自分で自分の人生の幕引きが出来るということは極めて慶賀なことではなかろうか。
第一その時まで心身ともに健康でなければそれは成り立たないわけで、そんなに健康であればまだまだ活躍できるではないか、と思われるかもしれないが、今までの人間はそう思いつつ介護を受けざるを得ない状況に追い込まれたのではなかろうか。
心身ともに健康で、かといって世間で自分の能力を発揮するにはいささか能力不足を自認するようになると、結果として何もすることがなく、無為な老後を過ごすということになり、それが他の病気を誘発することになり、健康が損なわれ、最後には介護を受けざるを得ないことにつながると思う。
「老い」ということには、大きなばらつきがあり、同じ年齢でも年より若く見える人がいる半面、大いに老けて見える人もいるわけで、この本がその違いを学術的あるいは医学的にそこにメスを入れようとしているが、私の素人考えではそれは心の持ちようが大きく作用していると思う。
何事も受け身に考える人と、積極的にアグレッシブに考える人では、その差は大きなものがあるように思う。
「病は気から」という言葉があるように、「老い」も本人の気の持ちようが大きく左右しているものと考える。
気の持ちようというのは精神的なことであるが、肉体の加齢というのはどうにも避けようがないわけで、いくら気が若くても、肉体の衰えというのは避けられない。
この本は、その肉体の衰えを開明しようと試みているが、人間の肉体が生きた細胞で成り立っている以上、その細胞の延命からしなければならないわけで、その意味では、この地球上の生き物には全て寿命というものが設定されているように思う。
それがいわゆる天命というもので、生きものはすべからく天から授けられた寿命の範囲内でしか生を維持出来ないものと思う。
この生き物の寿命というのは、それこそ天のみぞ知るものであって、我々はその受容範囲内でしか生きられないのではなかろうか。
その中で人間の寿命が徐々に伸びているということは、天への冒涜で、自然の摂理に反するものではなかろうか。
題名からは軽いエッセイのような印象を受けがちであるが、どうしてどうしてかなり本格的な内容のもので、読むのにいささか忍耐を強いられた。
サブタイトルには「《老化と性》への科学の挑戦」ともなっているように、立派な学問的希求の精神で溢れていた。
著者は外国人でロジャー・ゴスデンという人だが、人間の老化を学問的に真正面から捉えた真面目な本であった。
始めから最後まで活字がぎっしり詰まっていて読みとおすのに相当な根気と忍耐を必要とした。
私はもともと先天的なアルツハイマーのようで、本を読んだからといって、読んだことが頭の隅に残っているということがほとんどない。
活字を追っている瞬間のみ、何となく分かったような、理解し得たような、なるほどなと思いつつ、読み終えるときれいさっぱり記憶から抜け落ちてしまっている。
結果的に時間の浪費でしかない。
しかし、不思議なことに本に書かれた内容はすっかり忘れてしまっても、それが契機となってさまざまな思考が頭の中を駆け巡るという妙な現象が起きる。
それでここで再び「老い」ということについて私なりの思考を書き留めておく。
この地球上の生きとし生けるものは誕生の瞬間から死に向かって歩み始めるものと思う。
この本は動物の寿命についても詳しく述べているが、カゲロウのように誕生して数時間で生涯を終えるものがあるが、人間のように長寿を全うするものもいる。
ところが人間以外の生き物は、自分の死を忌み嫌うということはあり得ないわけで、人間のみが死を嫌って何時までも生き続けたいと願う。
カゲロウでも、セミでも、野性の動物でも、自分の死は淡々と受け入れている。
野生動物に老衰という現象が少ないのは、年を重ねて身体が思うように動かない、機能しないようになれば、老衰する前に自然淘汰、つまり死ぬ、若死にしてしまうから老衰した個体がないということだ。
単純な話、如何なる肉食動物でも体が思うように動かない、たとえば足に棘が刺さっただけでも獲物を十分に確保できないわけで、結果的に死に至るということで、ある個体が老衰するまで生き延びられないということだ。
これが基本的に自然の摂理であって、その意味からすれば人間が長生きを願うというのは、自然の摂理に対して歯向かっているということになる。
人間は他の動物に比べると頭脳がことのほか発達しているので、物事を考えるという機能を持っている。
如何なる生き物でも、必要最小限の自己保存機能、つまり如何に行動すれば自己保存に有利か、という状況を判断する機能は大なリ小なり持ち合わせていると思う。
肉食動物が獲物を狩る能力、食われる立場の動物が如何にその牙から逃れるかという判断力は、全てそれぞれの個体の脳の機能によってコントロールされているものと推察する。
その意味で、如何なる生き物でも脳で考えて行動しているといってもいいが、人間の場合は万物の霊長類と言われるだけあって、他の動物に比べると一段と脳が発達している。
だから自己保存というミニマムの思考を越えて、自己保存+アルファーの思考の能力があるところに最大の問題点が潜んでいる。
自己保存+アルファーの+アルファーの部分が俗にいう煩悩というもので、この部分が人間の生き様に様々な悲喜劇を演ずるエッセンスを秘めているのではないかと私は考える。
アマゾンの奥地の未開人が農耕生活、あるいは狩猟生活をしている限り、自己保存の原理で生きているが、その中のある人が自分の種族、あるいは集団を自分の思う通りに統率しようと考えると、これは煩悩の領域へと思考が膨張していったということになる。
アマゾンの奥地の人々の生活は、人間の基本的な生き方の極めて単純化したモデルなわけで、地球上の他の地域に生きる現代人は、それこそ個々の人がそれぞれ自分の煩悩との格闘を演じながら生きでいると考えなければならない。
不思議なことに、この人間の煩悩というのは教育でコントロールできないわけで、いくら優秀な学校で高度な教育を受けても、人の煩悩を浄化して清らかな思考に再生するということは出来ない。
言い方を変えると、人間の自己愛は教育では如何ともコントロールしきれないということで、いくら立派な教育を受けた人でも、持って生まれた生来の根性は、教育では是正できないということである。
で、人間が何時までも若いままでいたい、年を取りたくない、何時になっても死にたくないという願望は、人間の究極の自己保存の原理であって、人は太古からそれを追い求めてきた。
不老不死というのは、生きた人間の究極の自己保存であると同時に、自己愛でもあったわけだ。
この本でも言っているように、人間でも昔は介護が必要になるほど長生きする例はまれで、大部分の人間は、老衰に至る前に死んでしまっていたということだ。
地球上に誕生した人類にとって、老衰に至るまで人間が長生きするという状況は、人類が初めて直面する新たな課題なのではなかろうか。
神様は人間が老衰に至るまで長生きする事態を想定していなかったのではなかろうか。
昔でも古老の存在というのは有るにはあったわけで、全くないというわけではないが数がすくなかたので、それなりに大事に扱われたが、老人がマスとしているような状況は、神様にとっても想定外のことではなかろうか。
こういう状況が現出すると、人間の頭脳は如何なくその機能を発揮しだすが、人間の考えることはどうしても過去の事例を参考にしがちで、歴史の中からその答えを導き出そうとする。
するとどうしても過去の倫理観の中にその答えがあるように思えて、古い玩具箱をひっくり返したように、過去の様々な思考から自分たちにとって最も整合性の在りそうなものを探し出そうとする。
それが「人の命は地球よりも重い」が故に、如何なる人間も可能な限り生かさねばならず、いくら死にかけの命でも、故意にそれを絶ってはならないという、古い古い人間の価値観に帰結する。
現代の医学の進歩は、植物人間という言葉にも表れているように、動物学的な機能を失ったままでも生を維持できるところまで進化してしまったので、植物のような状態のままでも生かせることが可能になってしまった。
動物学的な機能を失った人間は、まさしく植物と同じで、自分の意思というものを失ってしまっているので、この状態のまま生かし続けて果たしていいものかどうか、大勢の医者、あるいは近親者が思い悩むところである。
ここで我々は古い価値観、あるいは倫理観との格闘を演ずることになるのだが、私個人の考えとしては、回復の見込みが全くないとなれば、安らかな死を与えた方が本人のためにも周囲の人のためにも適切な処置だと考える。
人の自然の老衰についてもこれと同じことが言えていると思う。
人の死は、それこそ万人に全く平等に押し寄せてくるわけで、問題はそれが遅いか速いかの違いでしかない。
日本では昔から人の命は約50年とみられていたわけで、人がこの年齢で死んでいけば、老衰という事態は起きなかったに違いない。
世の中をじっくりと眺めてみれば、人間の織り成す社会というのは日々進歩しているわけで、50年前には想像もつかない現象が、今は日常茶飯事に展開している中で、死に対する人間の思いのみが人類誕生の時のままであることの方が不思議だと思う。
この本の主題の「老い」という現象も、「老い」をいかに克服するかの視点で描かれているが、このテーマこそ人類誕生の時のイメージをそのまま引きずっている。
今に生きる我々は、太古の時代の人間に比べれば、昔の50年を今は1年か2年で通過しているわけで、いま50歳の人間は昔の100年ぐらいの時空間を体験しているに等しいと思う。
その中で、我々の意識のみが人類誕生の時の死生感のままでは明らかに時代に適応していないのではなかろうか。
当然21世紀に生きる人間には、その時代にマッチした死生感を具備しても何ら不思議ではないと思う。
人はこの世に誕生して以来、それぞれ各人が各様に精一杯生きてきたものと想像する。
中には自分の思う通りに行かなかった人も大勢いるに違いなかろうが、それは運命の悪戯のせいであって、努力したからといってそれが全部叶えられるというものでもないというのは自明のことであって、それを悔やんでも詮ないことである。
しかし、自分の人生もしだいにたそがれてくれば、それぞれに自分の人生にそれなりの評価をせねばならない時が来るものと推察する。
過去に成功できなかったものが、老い先短い時期になって、起死回生を図って成功を手にするということはまずは考えられないことで、そういう人もそういう人なりに自分の人生に見極めをつけなければならない時が来るものと思う。
この時、今までの人類の価値感あるいは倫理観では、自死の選択が許されない。
許されてはいないにもかかわらず、勝手にそういう道を選択する人は大勢いたが、すると周りの人が大いに非難されがちである。
自殺という行為は、人としてすべきでない行為だという認識が根底にあるので、その観念から脱却しきれない人々が憂うのである。
本人はそれなりに納得して行動に移したのだが、周囲の人は本人をそういう立場に追い込んだことに自責の念にかられて罪の意識にさいなまれるのである。
この部分が私には時代にマッチしていないように思えてならない。
私としては、老いたまま老醜をさらしながら生き続けるよりも、心身ともに健康で、判断力もきちんとしている時期に、自分の人生劇場の幕を自分で幕引きをする自由をもっともっと容認してしかるべきだと思う。
「死にたくない」という人に無理に要求するのではなく、自分の人生に満足して、充分に納得した人に、その人の最後の願いを心置きなく振舞ってもらうことであって、嫌がる人に無理やり押し付けるわけではない。
私自身も齢70になっていよいよ自分の老いに直面する時期に達したが、私個人としては、自分の体を他人に触らせてまで介護を受けて生きていたくはない。
下の世話を他人にさせるぐらいならば、さっさと安楽死を選択したいと考えている。
ところが今の段階では、この安楽死がなかなか容易ではなく、それこそ植物人間にでもならなければ、安楽死させてもらえないところが大いに不満である。
我が身から敷衍して世間を眺めてみれば、私と同じように「介護を受けてまで長生きしたくない」と考えている人は私のほかにも大勢いるのではなかろうか。
本人が「自分はもう十分に生きたのだから、ここらで幕引きをしたい」という願いは、何故世間から白眼視されるのであろう。
「そういう人は勝手に死ねばいい」というのは、他者に対してあまりにも無責任であり、無慈悲なのではなかろうか。
科学でも、医学でも、宗教でも、生きている人にもっと生きよ、もっと生きよ、死んではならない、植物人間でも生せるべきだという風に、生への執着は極めて強力であるが、燃えつき症候群の人々に対しては、経極めて冷淡で、その考え方を否定的に捉えがちである。
こういう人たちは、あまりにも綺麗ごとにすがりすぎて、理念上の大昔からの倫理観から脱却しきれずに、観念のシーラカンスに陥っているのではなかろうか。
その心の奥底には、他人の介護を受けてでも生き続けたいという思いが内側に潜んでいるのであろうか。
私にとっては、他人、仮に家族・肉親であったとしても、他者から下の世話をされるということは、自分の尊厳を根底から引きはがされるように思えて、とても我慢できるものではない。
想像するだけでも卒倒しそうな光景で、私の自尊心が許さない。
私の理想とする高齢化社会は、人生の幕引き申請書のようなものを行政機関、あるいは医療機関に申請すると、丸薬を2粒か3粒戴いて、それを服用すると、翌日までにベッドの中で安らかに眠れるという形である。
生への執着については、人類誕生の時から人類は様々に思考を巡らしてきたが、死への執着、如何に美しく死ぬか、ということは全く考えてこなかったのではなかろうか。
病気で死ぬというのは、運命の悪戯なわけで、本人にとってはまことに不本意なことに違いないが、人生の幕引き死というのは21世紀の人類にとって新しい価値観ではなかろうか。
自分で自分の人生の幕引きが出来るということは極めて慶賀なことではなかろうか。
第一その時まで心身ともに健康でなければそれは成り立たないわけで、そんなに健康であればまだまだ活躍できるではないか、と思われるかもしれないが、今までの人間はそう思いつつ介護を受けざるを得ない状況に追い込まれたのではなかろうか。
心身ともに健康で、かといって世間で自分の能力を発揮するにはいささか能力不足を自認するようになると、結果として何もすることがなく、無為な老後を過ごすということになり、それが他の病気を誘発することになり、健康が損なわれ、最後には介護を受けざるを得ないことにつながると思う。
「老い」ということには、大きなばらつきがあり、同じ年齢でも年より若く見える人がいる半面、大いに老けて見える人もいるわけで、この本がその違いを学術的あるいは医学的にそこにメスを入れようとしているが、私の素人考えではそれは心の持ちようが大きく作用していると思う。
何事も受け身に考える人と、積極的にアグレッシブに考える人では、その差は大きなものがあるように思う。
「病は気から」という言葉があるように、「老い」も本人の気の持ちようが大きく左右しているものと考える。
気の持ちようというのは精神的なことであるが、肉体の加齢というのはどうにも避けようがないわけで、いくら気が若くても、肉体の衰えというのは避けられない。
この本は、その肉体の衰えを開明しようと試みているが、人間の肉体が生きた細胞で成り立っている以上、その細胞の延命からしなければならないわけで、その意味では、この地球上の生き物には全て寿命というものが設定されているように思う。
それがいわゆる天命というもので、生きものはすべからく天から授けられた寿命の範囲内でしか生を維持出来ないものと思う。
この生き物の寿命というのは、それこそ天のみぞ知るものであって、我々はその受容範囲内でしか生きられないのではなかろうか。
その中で人間の寿命が徐々に伸びているということは、天への冒涜で、自然の摂理に反するものではなかろうか。