例によって図書館から借りてきた本で、「国民の教育」という本を読んだ。
著者は渡部昇一氏である。
氏はメデイアによく登場しているので、そういう意味ではよく知った人であるが、彼の思考は私と全く同じなので、何となく自分の姿を鏡で見て脂汗を流しているガマガエルという感がしないでもない。
ただ違うのは、彼には灰色の脳髄がらあふれかえるような知識が備わっているが、私の脳みそは空っぽという点だけでである。
しかし、考え方が全く同じという場合、評論の仕様もないので、これもいささか困ったことだ。
この本は口述筆記と明記してあるので、その意味では非常に読み易かったが、何せその本の分厚さには閉口したものだ。
こういう時、私は、後ろの方ないしは真ん中から読んで、そこから先に繰り上がってくる、という読み方をする。
標題で教育と名売っているので、学校教育が話題になっていることは当然であろうが、その中で大学のレベル低下を憂う文言があったが、これもある意味で人類の軌跡の歩みに沿った、自然の流れに順応しながらの傾向であって、そうそう心配することでもないと思う。
人類の文化というものが未来永劫、右肩上がりで続くという発想は、そう考えた時点で間違っている。
人類の歴史はサインカーブと同じで、頂点を過ぎれば後は下降線を辿るというのは自然の摂理だと思う。
だから日本も既にその頂点を経過したわけで、後は右肩下がりの下降線を辿る運命だ、と考えればそう悲観することもない。
十数年前の日本経済の絶頂期においてさえ、日本の優良銀行や優良証券会社が倒産した事実がある。
そのことを考えると、日本の社会の中で優良と思われていた企業が倒産したということは、結果から見てそれらの企業は何にも優良ではなかった、ということである。
我々は優良でないものを優良と思いこんでいただけのことである。
私は先の大戦、アメリカ流の言い方で太平洋戦争、日本流の言い方で大東亜戦争の敗因は、我々の同胞の大部分の者が、優良な軍人、優良な政治家、優良な戦争指導者と思っていた人達が全く優良ではなかった、戦争の本質も知らないアホだった、だから敗戦に至ったと考えている。
あの当時は当然のこと軍部があり、軍隊があり、その軍隊には高級官僚がおり、その高級官僚を養成する職業訓練校として陸軍士官学校、海軍兵学校というものがあった。
この職業訓練校として陸軍士官学校、海軍兵学校は、軍人を養成するというコンセプトであったが故に、国民の中から広く人材を探し、優秀な人材をピックアップするシステムであって、日本全国津々浦々から優秀な人材が集まったことは事実であろうが、我々、日本民族の嵌り込んだ過ちは、その優秀さの中味を吟味することに気がつかなかったということだ。
つまり、この時に、我々日本民族の嵌り込んだ優秀という概念の本質が、学校の成績において高得点を取った者を優秀な人材と誤って認識してしまった、ということだ。
言い方を変えれば、点取り虫が良い点を取ることを優秀だ、思い違いしたというわけだ。
それが在校生や卒業生のみならず、日本国民の全階層にわたって、そういう認識で満ちあふれてしまったものだから、論理的な議論の進め方が成り立たなくなってしまったということだ。
戦後の日本においても、優秀な企業というのは、有名大学から人材をドンドン注ぎ込んで、完膚無きまでに優秀な体質であった筈であったが、実態は全くそうではなかったわけで、だからこそ倒産に至ったということだ。
戦争中の日本の戦争指導者、政治指導者が優秀でなかったから日本が負けたのと同じ論理なわけで、戦争で負ける、企業が倒産するということは、トップがバカだったの一語に尽きる。
で、日本の大学の知的レベルの低下の問題に戻ると、そもそも教育を金儲けの手段にしようという発想から間違っている。
公立であろうが私立であろうが、学校を作る、学校経営をするということは、文化的な事業で、金儲けは二の次三の次というポーズを取りたがるが、この偽善的な思考が深層に横たわってかぎり、真の教育には成りえない。
これは教育界だけの問題ではなく、社会全般で考えねばならない問題であって、その行きつく先は、日本民族が今後どう生き残るかの問題として考えねばならない。
我々の国ばかりではなく、世界的な傾向として、教育が個人の出世のツールに成り掛けている。
個人の出世のツールということは、少しでもよりよい生活に近ずく免罪符として高等教育があるわけで、それは学問の追求ではなくて、出世のためのカード・免罪符としての高等教育になってしまっているところが最大の問題だと思う。
時代が進むに連れて、社会のあらゆる階層で合理化が進むと、人はますます不要になり、人が余って失業者が増えてくる。
人が余りに余って失業者が多くなると、人々はますます職にありつくために、人よりも一歩でも付加価値の高いことを示さねばならず、高学歴を証明する免罪符が必要になり、それを求めて学校に集まってくる。
ところが我々の国はもう既にその段階も超越して、人口そのものが少なくなってきたわけで、学校も余ってくるようになってきた。
これは戦後の我が国の歴史の中で見られたように、産業構造の根本的、根源的な変化である。
石炭産業が淘汰されたように、繊維産業が淘汰されたように、製造業が海外にシフトしたように、人口の減少によって教育産業が淘汰される時代になってきたということである。
人口が少なくなるということは、その民族が衰退していくということであって、それは人間の力では是正し切れるものではない。
今の日本では30歳でも40歳でも親にパラサイトして生きいけるわけで、そういう人は当然子孫をつくるということもなく、負の資産しか残し得ない。
30歳の男や女が親と同居しておれば、その内に親子ともども社会福祉に依存するわけで、こういう傾向が普遍化すれば、日本全体として下降線を辿るということになるわけで、これは自然の摂理であって、人間の英知では克服できないことだと思う。
30代40代の高学歴な男女が、職も無いまま親にパラサイトしていて良い訳がないが、そういう人間がコンビニでレジを打つのも妙なもので、現実には今の日本はそうなっていると思う。
高学歴になればなるほど職はなくなると思う。
これはあくまでも産業構造の変革であって、実業の元での産業界ではこういう変遷はつきものであるが、大学といわず教育機関が、新入生の確保に血眼になるというのは、教育界が産業と化した結果であって、果たしてそれで本当に良いものであろうか。
教育というものが、金儲けの手段あるいは手法となってしまっていいものだろうか。
資本主義体制の日本の社会なのだから、何をやって金儲けをしても良い、という理屈は判らないではないが、教育を金儲けの手段にするという発想にはついて行けない。
むしろ、パチンコ屋やサラ金の経営者が金儲けと割り切って学校経営をするのならば、論理的にすっきりするが、教育を振りかざして金儲けをする偽善者又は欺瞞的な思考に対しては唾棄したくなる。
高学歴志向というのは何も日本だけの問題ではなく、地球規模で人々は高学歴に期待を寄せる傾向にあるが、大勢の人が望んでいることが正しいというわけではない。
人間の織り成す生きた社会というのは、常に進化しているわけで、物作りの手法が進化すれば、それは結果的に人余りの現象を呈するわけで、昔は10人も20人もでしていた作業を一台の機械で済んでしまうようになれば、人が余ってくるのは当然の帰結であって、その余った人間が再び職に就こうとすれば、それは限りなく狭き門になるわけで、結果として巷に失業者があふれるということになる。
有り余っている失業者の中で、何とか職に就こうとすれば、他者にはない付加価値を持たねばならず、それがいわゆる学歴となるが、そういう現状であればこそ、その学歴を売る商売、つまり教育産業が成り立つということになる。
そして教育が産業であるとするならば、当然のこと、実業界の試練をまともに受けても不思議ではないわけで、昨今の少子化という社会現象の波をモロに受ける仕儀に至っても居た仕方ない。
ヨーロッパには昔も今も立派な大学がいくつもあると思う。
アメリカにも優秀な大学が沢山あり、日本にも当然そういう立派な大学が沢山あることは言うまでもない。
しかし、この世に優秀な大学が掃いて捨てるほどあるにもかかわらず、人間の業としての戦争を、この人間社会から絶つことができないということは一体どういうことなのであろう。
この地球上に生きる人間の中に戦争を肯定する人はいないと思う。
戦争が好きで好きで、人と人が殺し合う光景がたまらなく好きだ、という人がこの世にいる筈はないが、それにもかかわらず人類が戦争を繰り返すということは、学問というものが人の欲望をコントロールするには何の役も立っていないということだと思う。
戦争ということは、主権者の欲望の葛藤なわけで、自分の思う通りに操縦できない他者に対して、武力で以て言うことを効かせるという行為だと思う。
この場合、戦う双方に人間がいるわけで、その人間の中から賢明な人が出てきて、双方の欲求の妥協点を見つけ出す知恵者が居そうなものだが、双方とも興奮し切っていると、そういう知恵者の出現を察知し得ないまま、血で血を洗う抗争に発展してしまう。
この時に、学問とか教養というものが何の役にも立っていないわけで、ヨーロッパの古い大学、アメリカの立派な大学、日本の旧帝大というような学問の府は一体どういう機能を果たしたのであろう。
人間の福祉に貢献しない学問など何の値打も無いではないか。
ここで私の言う福祉という言葉は、死に掛けた老人の介護というような狭義の福祉ではなく、戦争のない社会、武力行使のない世の中という意味で、親にパラサイトしている若者に生活保護を与えよというものではない。
ところがこういう状況下でも、学問あるいは最高の知性というのは、国家に殉じてしまうわけで、自分の属する国家が最高の利益を得るように機能してしまって、相手に対しては容赦ない妥協を強いるわけで、ぶっちゃけてざっくばらんに言い表せば、弱肉強食、強い者勝ち、適者生存という自然の論理から一歩も出るものではない。
知性、理性、教養というものは、戦争を回避する趣向に対しては何の価値も見出せず、何の力も示し得ないというわけで、所詮は自然の流れに身を委ねる他何ら価値ある行為はし得ないということだ。
ところが主権国家の中の一国民という立場からすれば、個々の知性、理性、教養は、国家に準じなければならないわけで、その事は自分の祖国に対して最高の利益の還元が求められるように、出処進退を律しなければならないということである。
つまり、個人の持てる能力の全部を、祖国に対して奉じるということであって、国益の追求に対して全知全能を傾けよということである。
主権国家であるならば、為政者・統治者は、国民に対して自国の繁栄と隆盛を実現させるべく、協力を強いることは当然の欲求であって、その目的実現に向かって、教育で以て国民をその方向に善導することは、主権国家の主権国家たる所以だと思う。
主権国家たるもの、自国の目指す理想や理念に向かって自国民に教育を施すことは当然のことであって、その教育内容に関して他国の干渉を受けるようでは、主権国家の自主権は一体何なのかということになる。
だから日本は我々の目指す理念と理想に向かって、その実現を目指して自分たちの子孫に教育するわけで、それは韓国でも中国でも同じである。
しかし、教育の場で明らかな差別意識、反日、嫌日、侮日の思想を、若い世代に摺り込んで果たしてそれが将来のお互いの関係に良い効果を示し得るであろうか。
事実は事実として若い世代に語り継がねばならないが、だからと言って、未来永劫、怨恨を引きずったままでは、両者の和解は成り立たないわけで、それが判らない知識人であっては甚だ困る。
歴史というのは、人間の生き様のある断面を示すものであって、「良いとか悪い」、「正義と不正」、「善悪」という価値感では計れないわけで、被害者と加害者という対立軸では語れない部分がある。
大きな世の中のウネリの中で、そのウネリとか流れに抗しきれないものがあって、それを勧善懲悪的な価値観では説明のし切れないものがある。
戦後の韓国にも、自立した中華人民共和国の中にも、ヨーロッパやアメリカの進んだ教育を受けた人が大勢いると思うが、そういう人たちは率先して狭義なナショナリズムの勃興をコントロールし、若い世代がお互いにいがみ合うことのないように、教育を考えるべきだと思う。
一衣帯水の隣国同士で、何時までもいがみ合っている場合ではないと思うが、どうしたらお互いに手を取り合うことが可能になるのであろう。
これが解決できない学問などというのは一体何ンなんだろう。
著者は渡部昇一氏である。
氏はメデイアによく登場しているので、そういう意味ではよく知った人であるが、彼の思考は私と全く同じなので、何となく自分の姿を鏡で見て脂汗を流しているガマガエルという感がしないでもない。
ただ違うのは、彼には灰色の脳髄がらあふれかえるような知識が備わっているが、私の脳みそは空っぽという点だけでである。
しかし、考え方が全く同じという場合、評論の仕様もないので、これもいささか困ったことだ。
この本は口述筆記と明記してあるので、その意味では非常に読み易かったが、何せその本の分厚さには閉口したものだ。
こういう時、私は、後ろの方ないしは真ん中から読んで、そこから先に繰り上がってくる、という読み方をする。
標題で教育と名売っているので、学校教育が話題になっていることは当然であろうが、その中で大学のレベル低下を憂う文言があったが、これもある意味で人類の軌跡の歩みに沿った、自然の流れに順応しながらの傾向であって、そうそう心配することでもないと思う。
人類の文化というものが未来永劫、右肩上がりで続くという発想は、そう考えた時点で間違っている。
人類の歴史はサインカーブと同じで、頂点を過ぎれば後は下降線を辿るというのは自然の摂理だと思う。
だから日本も既にその頂点を経過したわけで、後は右肩下がりの下降線を辿る運命だ、と考えればそう悲観することもない。
十数年前の日本経済の絶頂期においてさえ、日本の優良銀行や優良証券会社が倒産した事実がある。
そのことを考えると、日本の社会の中で優良と思われていた企業が倒産したということは、結果から見てそれらの企業は何にも優良ではなかった、ということである。
我々は優良でないものを優良と思いこんでいただけのことである。
私は先の大戦、アメリカ流の言い方で太平洋戦争、日本流の言い方で大東亜戦争の敗因は、我々の同胞の大部分の者が、優良な軍人、優良な政治家、優良な戦争指導者と思っていた人達が全く優良ではなかった、戦争の本質も知らないアホだった、だから敗戦に至ったと考えている。
あの当時は当然のこと軍部があり、軍隊があり、その軍隊には高級官僚がおり、その高級官僚を養成する職業訓練校として陸軍士官学校、海軍兵学校というものがあった。
この職業訓練校として陸軍士官学校、海軍兵学校は、軍人を養成するというコンセプトであったが故に、国民の中から広く人材を探し、優秀な人材をピックアップするシステムであって、日本全国津々浦々から優秀な人材が集まったことは事実であろうが、我々、日本民族の嵌り込んだ過ちは、その優秀さの中味を吟味することに気がつかなかったということだ。
つまり、この時に、我々日本民族の嵌り込んだ優秀という概念の本質が、学校の成績において高得点を取った者を優秀な人材と誤って認識してしまった、ということだ。
言い方を変えれば、点取り虫が良い点を取ることを優秀だ、思い違いしたというわけだ。
それが在校生や卒業生のみならず、日本国民の全階層にわたって、そういう認識で満ちあふれてしまったものだから、論理的な議論の進め方が成り立たなくなってしまったということだ。
戦後の日本においても、優秀な企業というのは、有名大学から人材をドンドン注ぎ込んで、完膚無きまでに優秀な体質であった筈であったが、実態は全くそうではなかったわけで、だからこそ倒産に至ったということだ。
戦争中の日本の戦争指導者、政治指導者が優秀でなかったから日本が負けたのと同じ論理なわけで、戦争で負ける、企業が倒産するということは、トップがバカだったの一語に尽きる。
で、日本の大学の知的レベルの低下の問題に戻ると、そもそも教育を金儲けの手段にしようという発想から間違っている。
公立であろうが私立であろうが、学校を作る、学校経営をするということは、文化的な事業で、金儲けは二の次三の次というポーズを取りたがるが、この偽善的な思考が深層に横たわってかぎり、真の教育には成りえない。
これは教育界だけの問題ではなく、社会全般で考えねばならない問題であって、その行きつく先は、日本民族が今後どう生き残るかの問題として考えねばならない。
我々の国ばかりではなく、世界的な傾向として、教育が個人の出世のツールに成り掛けている。
個人の出世のツールということは、少しでもよりよい生活に近ずく免罪符として高等教育があるわけで、それは学問の追求ではなくて、出世のためのカード・免罪符としての高等教育になってしまっているところが最大の問題だと思う。
時代が進むに連れて、社会のあらゆる階層で合理化が進むと、人はますます不要になり、人が余って失業者が増えてくる。
人が余りに余って失業者が多くなると、人々はますます職にありつくために、人よりも一歩でも付加価値の高いことを示さねばならず、高学歴を証明する免罪符が必要になり、それを求めて学校に集まってくる。
ところが我々の国はもう既にその段階も超越して、人口そのものが少なくなってきたわけで、学校も余ってくるようになってきた。
これは戦後の我が国の歴史の中で見られたように、産業構造の根本的、根源的な変化である。
石炭産業が淘汰されたように、繊維産業が淘汰されたように、製造業が海外にシフトしたように、人口の減少によって教育産業が淘汰される時代になってきたということである。
人口が少なくなるということは、その民族が衰退していくということであって、それは人間の力では是正し切れるものではない。
今の日本では30歳でも40歳でも親にパラサイトして生きいけるわけで、そういう人は当然子孫をつくるということもなく、負の資産しか残し得ない。
30歳の男や女が親と同居しておれば、その内に親子ともども社会福祉に依存するわけで、こういう傾向が普遍化すれば、日本全体として下降線を辿るということになるわけで、これは自然の摂理であって、人間の英知では克服できないことだと思う。
30代40代の高学歴な男女が、職も無いまま親にパラサイトしていて良い訳がないが、そういう人間がコンビニでレジを打つのも妙なもので、現実には今の日本はそうなっていると思う。
高学歴になればなるほど職はなくなると思う。
これはあくまでも産業構造の変革であって、実業の元での産業界ではこういう変遷はつきものであるが、大学といわず教育機関が、新入生の確保に血眼になるというのは、教育界が産業と化した結果であって、果たしてそれで本当に良いものであろうか。
教育というものが、金儲けの手段あるいは手法となってしまっていいものだろうか。
資本主義体制の日本の社会なのだから、何をやって金儲けをしても良い、という理屈は判らないではないが、教育を金儲けの手段にするという発想にはついて行けない。
むしろ、パチンコ屋やサラ金の経営者が金儲けと割り切って学校経営をするのならば、論理的にすっきりするが、教育を振りかざして金儲けをする偽善者又は欺瞞的な思考に対しては唾棄したくなる。
高学歴志向というのは何も日本だけの問題ではなく、地球規模で人々は高学歴に期待を寄せる傾向にあるが、大勢の人が望んでいることが正しいというわけではない。
人間の織り成す生きた社会というのは、常に進化しているわけで、物作りの手法が進化すれば、それは結果的に人余りの現象を呈するわけで、昔は10人も20人もでしていた作業を一台の機械で済んでしまうようになれば、人が余ってくるのは当然の帰結であって、その余った人間が再び職に就こうとすれば、それは限りなく狭き門になるわけで、結果として巷に失業者があふれるということになる。
有り余っている失業者の中で、何とか職に就こうとすれば、他者にはない付加価値を持たねばならず、それがいわゆる学歴となるが、そういう現状であればこそ、その学歴を売る商売、つまり教育産業が成り立つということになる。
そして教育が産業であるとするならば、当然のこと、実業界の試練をまともに受けても不思議ではないわけで、昨今の少子化という社会現象の波をモロに受ける仕儀に至っても居た仕方ない。
ヨーロッパには昔も今も立派な大学がいくつもあると思う。
アメリカにも優秀な大学が沢山あり、日本にも当然そういう立派な大学が沢山あることは言うまでもない。
しかし、この世に優秀な大学が掃いて捨てるほどあるにもかかわらず、人間の業としての戦争を、この人間社会から絶つことができないということは一体どういうことなのであろう。
この地球上に生きる人間の中に戦争を肯定する人はいないと思う。
戦争が好きで好きで、人と人が殺し合う光景がたまらなく好きだ、という人がこの世にいる筈はないが、それにもかかわらず人類が戦争を繰り返すということは、学問というものが人の欲望をコントロールするには何の役も立っていないということだと思う。
戦争ということは、主権者の欲望の葛藤なわけで、自分の思う通りに操縦できない他者に対して、武力で以て言うことを効かせるという行為だと思う。
この場合、戦う双方に人間がいるわけで、その人間の中から賢明な人が出てきて、双方の欲求の妥協点を見つけ出す知恵者が居そうなものだが、双方とも興奮し切っていると、そういう知恵者の出現を察知し得ないまま、血で血を洗う抗争に発展してしまう。
この時に、学問とか教養というものが何の役にも立っていないわけで、ヨーロッパの古い大学、アメリカの立派な大学、日本の旧帝大というような学問の府は一体どういう機能を果たしたのであろう。
人間の福祉に貢献しない学問など何の値打も無いではないか。
ここで私の言う福祉という言葉は、死に掛けた老人の介護というような狭義の福祉ではなく、戦争のない社会、武力行使のない世の中という意味で、親にパラサイトしている若者に生活保護を与えよというものではない。
ところがこういう状況下でも、学問あるいは最高の知性というのは、国家に殉じてしまうわけで、自分の属する国家が最高の利益を得るように機能してしまって、相手に対しては容赦ない妥協を強いるわけで、ぶっちゃけてざっくばらんに言い表せば、弱肉強食、強い者勝ち、適者生存という自然の論理から一歩も出るものではない。
知性、理性、教養というものは、戦争を回避する趣向に対しては何の価値も見出せず、何の力も示し得ないというわけで、所詮は自然の流れに身を委ねる他何ら価値ある行為はし得ないということだ。
ところが主権国家の中の一国民という立場からすれば、個々の知性、理性、教養は、国家に準じなければならないわけで、その事は自分の祖国に対して最高の利益の還元が求められるように、出処進退を律しなければならないということである。
つまり、個人の持てる能力の全部を、祖国に対して奉じるということであって、国益の追求に対して全知全能を傾けよということである。
主権国家であるならば、為政者・統治者は、国民に対して自国の繁栄と隆盛を実現させるべく、協力を強いることは当然の欲求であって、その目的実現に向かって、教育で以て国民をその方向に善導することは、主権国家の主権国家たる所以だと思う。
主権国家たるもの、自国の目指す理想や理念に向かって自国民に教育を施すことは当然のことであって、その教育内容に関して他国の干渉を受けるようでは、主権国家の自主権は一体何なのかということになる。
だから日本は我々の目指す理念と理想に向かって、その実現を目指して自分たちの子孫に教育するわけで、それは韓国でも中国でも同じである。
しかし、教育の場で明らかな差別意識、反日、嫌日、侮日の思想を、若い世代に摺り込んで果たしてそれが将来のお互いの関係に良い効果を示し得るであろうか。
事実は事実として若い世代に語り継がねばならないが、だからと言って、未来永劫、怨恨を引きずったままでは、両者の和解は成り立たないわけで、それが判らない知識人であっては甚だ困る。
歴史というのは、人間の生き様のある断面を示すものであって、「良いとか悪い」、「正義と不正」、「善悪」という価値感では計れないわけで、被害者と加害者という対立軸では語れない部分がある。
大きな世の中のウネリの中で、そのウネリとか流れに抗しきれないものがあって、それを勧善懲悪的な価値観では説明のし切れないものがある。
戦後の韓国にも、自立した中華人民共和国の中にも、ヨーロッパやアメリカの進んだ教育を受けた人が大勢いると思うが、そういう人たちは率先して狭義なナショナリズムの勃興をコントロールし、若い世代がお互いにいがみ合うことのないように、教育を考えるべきだと思う。
一衣帯水の隣国同士で、何時までもいがみ合っている場合ではないと思うが、どうしたらお互いに手を取り合うことが可能になるのであろう。
これが解決できない学問などというのは一体何ンなんだろう。