弟からの連絡で阿川弘之の「軍艦長門の生涯」という本に叔父さんの事が書いてあるという事を知った。
早速、紀伊国屋書店で聞いてみると、「もう既に廃版になっていて置いていない」というものだから、こういう時こそ図書館だ、と思って図書館に走った。
あるにはあった。
本を検索する機械で調べると、単行本と文庫本の両方があった。
私はいつも図書館の開架式書棚から本を借りていたので、その本が何処に在るのか係員に聞いてみた。
すると、その本は地下の書庫にあるという事で、持ってきてくれた。
いつも図書館を利用している割に、図書館のシステムには不案内で、どういう本が開架式の書棚で、どういう本が閉架式になるのさっぱり分からないが、兎に角、目の前に持ってきてくれたので、それを借りて読みだした。
どうせ大きな活字の読みやすいものだろうと思ってが、どうしてどうして、小さな活字で、上下二段組みで、頁数も多く、目次もないままで、読むのに骨が折れた。
私達の叔父さんの話はあるにはあったが、ほんのささやかなエピソードの一こまでしかなかった。
しかし、阿川弘之氏は戦艦「長門」をメインテーマにしつつ、大正時代から昭和の初期、日本が戦争に敗北するまでの近現代史を綴っている。
著者自身がかっては海軍の軍人であったので、戦艦「長門」を基軸としながら海軍という組織を綿密に暴きたい、という意図が垣間見れる。
海軍の軍人の一人として、日本があの戦争に巻き込まれていく過程を見つめつつ、何故それを阻止できなかったか、という疑問点を探り出すとしているように見える。
この本は上下2巻に分かれていて、上巻は「長門」の誕生から昭和10年の2・26事件までのことが綴られているが、こういう大きな軍艦ともなると、艦長がたびたび変わるわけで、この艦長をはじめとする海軍、或いは陸軍でも同じであるが、人事異動というのは官僚システムの大きな病理だと私は思う。
軍の組織のみならず、官僚全般について、或いはこの世のあらゆる組織について言えることが、人事異動という事である。
この人事異動の弊害という事は、誰も問わないが、これは由々しき問題だと思う。
普通の人が普通に仕事をするのに、少なくとも1年、出来れば3、4年という習熟期間が必要だと思う。
如何なる官職でも、人事異動で赴任して直ちには実のある仕事はできないのが普通で、新しい仕事に慣れるまで3、4年という年月があって然るべきだと思う。
ようやく仕事に慣れた頃また転勤では実りある仕事は成しえないのが当然であって、これでは時間と経費のロス以外の何ものでもない。
官僚の世界では、転勤が多いほど出世が早いようだが、こんなことは論理的におかしなことだ。
日本海軍でも、陸軍でも、官僚でも、組織のトップにいる人達は、それ相当の篩をかいくぐって来た人達で、そんじょそこらの駆け出しの山猿ではない筈だ。
言い方を変えれば、眉目秀麗、学術優秀なエリートである筈である。
ならばこういう組織論の根源的な矛盾は重々周知の上で組織に与しているということになるが、そこを深く掘り下げて考える人がいなかったいうことであろうか。
甲論乙駁という言葉があるが、同じ一つのことでも見る位置,見る視線、視線の高低あるいは角度というものでいろいろな意見が出ることはごく当たり前のことである。
だから複数の人間が集まればいろんな意見が出て当然であるが、そういう様々な意見を一つに集約しなければ物事は前に進まないわけで、これがなかなか難しい所である。
ある限られた人間集団の中で、一つの事柄に対して様々な意見が出るという事は、その集団の知性が豊かで教養が高ければ高いほど様々な思考が噴出して、さまざな意見が出るが、その集団の知性が凡庸で、鈍感で有れば、意見の相異の幅はそれだけ小さなものになる。
ここで重要なことが、一人一人が自分の頭脳でその事柄の本質を吟味、咀嚼することだと思うが、こういう状況下で人は案外他人の意見に惑わされることがある。
別の言葉で言い換えれば、意見が合ってしまうという事で、別々の人が別々に考えて結果として同意見になるというのならば問題はないが、他の思惑を秘めながら相手に合わせてしまうという場合は由々しき問題と言わねばならない。
人間の集団はどうしても、意識するしないに関わらず、気の合うもの同士が集まってしまう傾向がある。
俗な言い方をすれば、派閥の形成ということになるが、この派閥というものが出来ると、自分の考えが主体性を失い、大勢の仲間の意見に迎合しやすくなってしまう。
自分一人があくまでも自己の意見に固執して反対し続けていると、仲間との輪を壊してしまいかねないので、不承不承とは言え、自己の考えを妥協させてしまって、大勢に従ってしまうという事が往々にしてある。
歴史上ではこの大勢が必ずしも正しい選択をするとは限らないが、民主主義の原理というのは、大勢の意見を敷衍することであって、結果として国家が奈落の底に転がり落ちるということもあるわけだ。
組織のリーダーが大勢の意見を押しのけて、自分の信念で以て自己の政策を推し進めると、大勢の側としてはそういうリーダーを独裁者と言って糾弾する。
政治というものは実に不思議なもので、民主主義でも国家が立ち行かなくなることもあるが、独裁者の国でも独裁者がその国を滅亡の淵に導くこともあるわけで、完全なる統治というのは果たしてどういうものなのか、人類はいまだに答えを見出していないのではなかろうか。
人の集団が気の合うもの同士でグループを作るのは人間の業のようなもので、理性や知性でコントロールできない不可侵なものだとすると、大きな組織になればなるほど、人事異動というのは必須になるのもやむを得ないとは思う。
しかし、現実に仕事を推し進めるという観点から見ると、丁度、仕事を覚えた頃にまた転勤では、経費と労力の無駄以外の何ものでもない。
海軍ばかりではなく陸軍でもおなじ、文官としての官僚でも同じなわけで、民間の企業でも同じだと思う。
海軍でも陸軍でも官僚でも、組織のトップにいる人はボンクラではないわけで、ならば当然その辺りの非効率は判っていそうだし、判っておればそれを改善するのがトップのトップとしての存在意義であったのではなかろうか。
組織の中側にいると案外気が付かないかもしれないが、海軍でも陸軍でも、その他の官僚でも、トップに立つ人は基本的に学校時代の成績順にその座が廻って来るわけで、お互いに仕事が判った頃、再び転勤するわけで、結果として何もわからないまま出世だけするということになる。
その上、学校秀才というのは記憶力の優秀なものがなるわけで、創造力や思考力という能力は、評価の対象にはなっていない。
タコがタコつぼの中で天下国家を論じているようなものである。
この本の中には5・15事件と、2・26事件も話題になっているが、こういう一連の事件を引き起こした青年将校に対する評価が案外甘く、彼らに同情する組織のトップの心情が吐露されているが、組織のトップが青年将校の下克上の雰囲気を容認するような思考そのものが基本的に売国奴的である。
ワシントン軍縮会議の結論に対する国民の不満というのは、基本的には諸般の事情を知らない一般国民の無知が原因ではあるが、それに便乗しようとする組織のトップの在り様は、まさしく亡国的な立ち居振る舞いであったといわねばらない。
ここで、国民へ何を知らせて何を隠すかという事が大きな問題になるが、そこで活躍すべきが本来ならば知識階層としてのメデイアでなければならない。
メデイアというのも、社会の構成員として食って行かねばならないので、人々に売れる記事、大衆の喜ぶ記事を書いて、大いに売り上げを伸ばして稼がねばならない。
だから人々・大衆の喜ぶ記事を書き、喜ぶように報道するわけで、或る時は戦争を煽り、軍国美談を捏造し、悲劇を美談したてにもするわけで、極めて無責任な振る舞いを演じているのである。
5・15事件や2・26事件を引き起こした青年将校たちも、そういうメデイアの報道を真に受けて、政治の混沌は政治家と財界のトップに有る、と早とちりというよりも、政治の内情に全く疎かったわけで、短編急に事を急ぎ過ぎたという事だ。
これは反乱を起こした首謀者達が余りにも無知で、偏った教育というか、思い込みと言うか、何とも言いようがない。
青年将校と言われている人達も、そんじょそこらの凡庸ではない筈であるが、何人も世界の全てを知るという事はできないわけで、彼らを無知というのは少々酷であるが、テロ行為をしてしまった以上無知と言われてもいた仕方ない。
問題とすべきはそういう青年将校に同情を寄せた人々の存在こそが日本が奈落の底に転がり落ちた最大の原因といわなければならない。
世情の乱れが政府高官に有るという発想は、あまりにも単純な思考であって、それに同情を寄せる陸軍のトップも、世間の一般大衆も精神的にどこか異常であったというべきである。
この時代のことを司馬遼太郎氏は「奇態の時代」と表現していたが、言い得て妙だと思う。
世情の混沌の遠因を政府高官と財閥の癒着に結び付ける思考は、典型的な共産主義の思考と軌を一にしているわけで、完全に共産主義のドグマに陥った物の考え方である。
それはこの当時の世界に蔓延していた風潮そのものであった。
日本だけの特異なムードではなく、世界的に不況が蔓延していたわけで、その暗雲から逃れようと各国が苦悩していたということだ。
こういう状況下でもアメリカとイギリスは極めて豊かな国で、極端な見え見えの富国強兵策を弄しなくとも、何とか景気を維持できたが、ドイツ、フランス、イタリア、そして我々の日本にはそういうゆとりがなかったので、不景気打開の為に戦争が必要であったという事だ。
ところが「景気回復のために戦争する」という事は人類の理念に反しているので口に出来ないが故に、いろいろは欺瞞策を講じなければならなかった。
それがポロポロと露見したのが様々なテロ行為であったと考えなければならない。
「景気回復のために戦争する」という事は普通の常識のある人は口に出来ない言葉なので、そういう言い方は誰もしていないが、旧日本陸軍・関東軍の中国における行動は、当人たちが意識するしないにかかわらずそれを見事に体現しているではないか。
アメリカの対日戦参戦の遠因は言うまでもなく中国大陸におけるアメリカの国益の擁護であったわけで、そこに日本が勝手に国益の進展を計ろうとしたので、それを阻止しようと経済制裁を発動したのである。
日本が中国に手を伸ばしたのは言うまでもなく景気浮上の為に戦争を仕掛けたわけで、その結果として満州国の建国があったのだが、こういう姑息な手法は世界の協賛が得られず結果として墓穴を掘ったということになる。
ここで考えねばならないことは、我々生きた人間は物事のプリンシプルを尊重し、倫理に沿った生業を維持しなければならないという事だと思う。
法や秩序を厳守して、正邪を法に照らして判断すべきで、同情とか憐憫というような感情で物事を判断してはならないということだと思う。
この本は軍艦「長門」について語ることが本旨で、余り陸軍のことについては深入りしていないが、陸軍がかってに中国大陸で戦争をし掛けて、満州国を建国するなどという行為は、普通の常識では考えられないことであって、その一つ一つの事件に、整合性のある法に則った処理をしておれば、ああいう事態にはならなかったと思う。
2・26事件では天皇陛下が毅然たる意思を示されたからああいう形で終始したが、日中戦争では一応勝ち戦なるが故に、ずるずると事後承認という形で事態収拾が先延ばしされてしまったので、対米戦になり国が滅ぶところまで行ってしまったという事だ。
それで戦後66年来、ずっと反省はしているが、決定的な原因というのは結局は判らずじまいで、我々日本民族による総括もしたようなしないような曖昧なままである。
反省はしているが、その反省から教訓を引き出すという事はしていない。
反省だけなら猿でもする。
早速、紀伊国屋書店で聞いてみると、「もう既に廃版になっていて置いていない」というものだから、こういう時こそ図書館だ、と思って図書館に走った。
あるにはあった。
本を検索する機械で調べると、単行本と文庫本の両方があった。
私はいつも図書館の開架式書棚から本を借りていたので、その本が何処に在るのか係員に聞いてみた。
すると、その本は地下の書庫にあるという事で、持ってきてくれた。
いつも図書館を利用している割に、図書館のシステムには不案内で、どういう本が開架式の書棚で、どういう本が閉架式になるのさっぱり分からないが、兎に角、目の前に持ってきてくれたので、それを借りて読みだした。
どうせ大きな活字の読みやすいものだろうと思ってが、どうしてどうして、小さな活字で、上下二段組みで、頁数も多く、目次もないままで、読むのに骨が折れた。
私達の叔父さんの話はあるにはあったが、ほんのささやかなエピソードの一こまでしかなかった。
しかし、阿川弘之氏は戦艦「長門」をメインテーマにしつつ、大正時代から昭和の初期、日本が戦争に敗北するまでの近現代史を綴っている。
著者自身がかっては海軍の軍人であったので、戦艦「長門」を基軸としながら海軍という組織を綿密に暴きたい、という意図が垣間見れる。
海軍の軍人の一人として、日本があの戦争に巻き込まれていく過程を見つめつつ、何故それを阻止できなかったか、という疑問点を探り出すとしているように見える。
この本は上下2巻に分かれていて、上巻は「長門」の誕生から昭和10年の2・26事件までのことが綴られているが、こういう大きな軍艦ともなると、艦長がたびたび変わるわけで、この艦長をはじめとする海軍、或いは陸軍でも同じであるが、人事異動というのは官僚システムの大きな病理だと私は思う。
軍の組織のみならず、官僚全般について、或いはこの世のあらゆる組織について言えることが、人事異動という事である。
この人事異動の弊害という事は、誰も問わないが、これは由々しき問題だと思う。
普通の人が普通に仕事をするのに、少なくとも1年、出来れば3、4年という習熟期間が必要だと思う。
如何なる官職でも、人事異動で赴任して直ちには実のある仕事はできないのが普通で、新しい仕事に慣れるまで3、4年という年月があって然るべきだと思う。
ようやく仕事に慣れた頃また転勤では実りある仕事は成しえないのが当然であって、これでは時間と経費のロス以外の何ものでもない。
官僚の世界では、転勤が多いほど出世が早いようだが、こんなことは論理的におかしなことだ。
日本海軍でも、陸軍でも、官僚でも、組織のトップにいる人達は、それ相当の篩をかいくぐって来た人達で、そんじょそこらの駆け出しの山猿ではない筈だ。
言い方を変えれば、眉目秀麗、学術優秀なエリートである筈である。
ならばこういう組織論の根源的な矛盾は重々周知の上で組織に与しているということになるが、そこを深く掘り下げて考える人がいなかったいうことであろうか。
甲論乙駁という言葉があるが、同じ一つのことでも見る位置,見る視線、視線の高低あるいは角度というものでいろいろな意見が出ることはごく当たり前のことである。
だから複数の人間が集まればいろんな意見が出て当然であるが、そういう様々な意見を一つに集約しなければ物事は前に進まないわけで、これがなかなか難しい所である。
ある限られた人間集団の中で、一つの事柄に対して様々な意見が出るという事は、その集団の知性が豊かで教養が高ければ高いほど様々な思考が噴出して、さまざな意見が出るが、その集団の知性が凡庸で、鈍感で有れば、意見の相異の幅はそれだけ小さなものになる。
ここで重要なことが、一人一人が自分の頭脳でその事柄の本質を吟味、咀嚼することだと思うが、こういう状況下で人は案外他人の意見に惑わされることがある。
別の言葉で言い換えれば、意見が合ってしまうという事で、別々の人が別々に考えて結果として同意見になるというのならば問題はないが、他の思惑を秘めながら相手に合わせてしまうという場合は由々しき問題と言わねばならない。
人間の集団はどうしても、意識するしないに関わらず、気の合うもの同士が集まってしまう傾向がある。
俗な言い方をすれば、派閥の形成ということになるが、この派閥というものが出来ると、自分の考えが主体性を失い、大勢の仲間の意見に迎合しやすくなってしまう。
自分一人があくまでも自己の意見に固執して反対し続けていると、仲間との輪を壊してしまいかねないので、不承不承とは言え、自己の考えを妥協させてしまって、大勢に従ってしまうという事が往々にしてある。
歴史上ではこの大勢が必ずしも正しい選択をするとは限らないが、民主主義の原理というのは、大勢の意見を敷衍することであって、結果として国家が奈落の底に転がり落ちるということもあるわけだ。
組織のリーダーが大勢の意見を押しのけて、自分の信念で以て自己の政策を推し進めると、大勢の側としてはそういうリーダーを独裁者と言って糾弾する。
政治というものは実に不思議なもので、民主主義でも国家が立ち行かなくなることもあるが、独裁者の国でも独裁者がその国を滅亡の淵に導くこともあるわけで、完全なる統治というのは果たしてどういうものなのか、人類はいまだに答えを見出していないのではなかろうか。
人の集団が気の合うもの同士でグループを作るのは人間の業のようなもので、理性や知性でコントロールできない不可侵なものだとすると、大きな組織になればなるほど、人事異動というのは必須になるのもやむを得ないとは思う。
しかし、現実に仕事を推し進めるという観点から見ると、丁度、仕事を覚えた頃にまた転勤では、経費と労力の無駄以外の何ものでもない。
海軍ばかりではなく陸軍でもおなじ、文官としての官僚でも同じなわけで、民間の企業でも同じだと思う。
海軍でも陸軍でも官僚でも、組織のトップにいる人はボンクラではないわけで、ならば当然その辺りの非効率は判っていそうだし、判っておればそれを改善するのがトップのトップとしての存在意義であったのではなかろうか。
組織の中側にいると案外気が付かないかもしれないが、海軍でも陸軍でも、その他の官僚でも、トップに立つ人は基本的に学校時代の成績順にその座が廻って来るわけで、お互いに仕事が判った頃、再び転勤するわけで、結果として何もわからないまま出世だけするということになる。
その上、学校秀才というのは記憶力の優秀なものがなるわけで、創造力や思考力という能力は、評価の対象にはなっていない。
タコがタコつぼの中で天下国家を論じているようなものである。
この本の中には5・15事件と、2・26事件も話題になっているが、こういう一連の事件を引き起こした青年将校に対する評価が案外甘く、彼らに同情する組織のトップの心情が吐露されているが、組織のトップが青年将校の下克上の雰囲気を容認するような思考そのものが基本的に売国奴的である。
ワシントン軍縮会議の結論に対する国民の不満というのは、基本的には諸般の事情を知らない一般国民の無知が原因ではあるが、それに便乗しようとする組織のトップの在り様は、まさしく亡国的な立ち居振る舞いであったといわねばらない。
ここで、国民へ何を知らせて何を隠すかという事が大きな問題になるが、そこで活躍すべきが本来ならば知識階層としてのメデイアでなければならない。
メデイアというのも、社会の構成員として食って行かねばならないので、人々に売れる記事、大衆の喜ぶ記事を書いて、大いに売り上げを伸ばして稼がねばならない。
だから人々・大衆の喜ぶ記事を書き、喜ぶように報道するわけで、或る時は戦争を煽り、軍国美談を捏造し、悲劇を美談したてにもするわけで、極めて無責任な振る舞いを演じているのである。
5・15事件や2・26事件を引き起こした青年将校たちも、そういうメデイアの報道を真に受けて、政治の混沌は政治家と財界のトップに有る、と早とちりというよりも、政治の内情に全く疎かったわけで、短編急に事を急ぎ過ぎたという事だ。
これは反乱を起こした首謀者達が余りにも無知で、偏った教育というか、思い込みと言うか、何とも言いようがない。
青年将校と言われている人達も、そんじょそこらの凡庸ではない筈であるが、何人も世界の全てを知るという事はできないわけで、彼らを無知というのは少々酷であるが、テロ行為をしてしまった以上無知と言われてもいた仕方ない。
問題とすべきはそういう青年将校に同情を寄せた人々の存在こそが日本が奈落の底に転がり落ちた最大の原因といわなければならない。
世情の乱れが政府高官に有るという発想は、あまりにも単純な思考であって、それに同情を寄せる陸軍のトップも、世間の一般大衆も精神的にどこか異常であったというべきである。
この時代のことを司馬遼太郎氏は「奇態の時代」と表現していたが、言い得て妙だと思う。
世情の混沌の遠因を政府高官と財閥の癒着に結び付ける思考は、典型的な共産主義の思考と軌を一にしているわけで、完全に共産主義のドグマに陥った物の考え方である。
それはこの当時の世界に蔓延していた風潮そのものであった。
日本だけの特異なムードではなく、世界的に不況が蔓延していたわけで、その暗雲から逃れようと各国が苦悩していたということだ。
こういう状況下でもアメリカとイギリスは極めて豊かな国で、極端な見え見えの富国強兵策を弄しなくとも、何とか景気を維持できたが、ドイツ、フランス、イタリア、そして我々の日本にはそういうゆとりがなかったので、不景気打開の為に戦争が必要であったという事だ。
ところが「景気回復のために戦争する」という事は人類の理念に反しているので口に出来ないが故に、いろいろは欺瞞策を講じなければならなかった。
それがポロポロと露見したのが様々なテロ行為であったと考えなければならない。
「景気回復のために戦争する」という事は普通の常識のある人は口に出来ない言葉なので、そういう言い方は誰もしていないが、旧日本陸軍・関東軍の中国における行動は、当人たちが意識するしないにかかわらずそれを見事に体現しているではないか。
アメリカの対日戦参戦の遠因は言うまでもなく中国大陸におけるアメリカの国益の擁護であったわけで、そこに日本が勝手に国益の進展を計ろうとしたので、それを阻止しようと経済制裁を発動したのである。
日本が中国に手を伸ばしたのは言うまでもなく景気浮上の為に戦争を仕掛けたわけで、その結果として満州国の建国があったのだが、こういう姑息な手法は世界の協賛が得られず結果として墓穴を掘ったということになる。
ここで考えねばならないことは、我々生きた人間は物事のプリンシプルを尊重し、倫理に沿った生業を維持しなければならないという事だと思う。
法や秩序を厳守して、正邪を法に照らして判断すべきで、同情とか憐憫というような感情で物事を判断してはならないということだと思う。
この本は軍艦「長門」について語ることが本旨で、余り陸軍のことについては深入りしていないが、陸軍がかってに中国大陸で戦争をし掛けて、満州国を建国するなどという行為は、普通の常識では考えられないことであって、その一つ一つの事件に、整合性のある法に則った処理をしておれば、ああいう事態にはならなかったと思う。
2・26事件では天皇陛下が毅然たる意思を示されたからああいう形で終始したが、日中戦争では一応勝ち戦なるが故に、ずるずると事後承認という形で事態収拾が先延ばしされてしまったので、対米戦になり国が滅ぶところまで行ってしまったという事だ。
それで戦後66年来、ずっと反省はしているが、決定的な原因というのは結局は判らずじまいで、我々日本民族による総括もしたようなしないような曖昧なままである。
反省はしているが、その反省から教訓を引き出すという事はしていない。
反省だけなら猿でもする。