ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『飛行機の事情』

2013-02-16 07:51:25 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、『飛行機の事情』という本を読んだ。
この表題の前後に「ずっと知りたかった」「お天気とのビミョ-な関係」というフレーズがついていた。
内容的には素人向けの飛行機の本であって、飛行機の運航に如何に天気が影響するか、というお話であった。
素人には判り易く解説されているが、私には物足りなかった。
この世の中には判らないことがいっぱいあって、それを一つ一つ理解していくということは、非常に興味深い事である。
大型旅客機の中で、いかにも楽しそうに旅行をしている人の何人が、飛行機の飛ぶ原理を知っているのか不思議でならない。
理屈では、曲面に沿って流れる流体に吸い寄せられて浮く、ということを理解しているが、そういう理屈がわかっていても、なおもあの巨大な機体が宙に浮く、ということが信じられない。
信じられないが、現に人々が空の旅を楽しんでいる現実を見て、自分を納得させて、「落ちることはないに違いない」と無理やり納得しているのが真実である。
こういう風に、身の回りのことを突き詰めていくと不可解な事ばかりが気になって仕方がない。
新幹線の運用も、銀行のATMの運用も、鉄道の切符の自動改札も、信じられないことばかりである。
私の子供の頃は、銀行では一円の誤差も許されず、行員は一円の誤差を正すために、そろばん片手で徹夜してまで探したと言われていたものが、今では機械がお金の出納をしていて、人間はお金に触ることもなく現金の出し入れができている。
鉄道の改札口でも、駅員がはさみをパチパチさせて切符を確認していたものが、いまでは人を煩わすことなく改札が通過出来るわけで、私の子供の頃には想像だにできなかったことである。
こういう技術革新が飛行機の分野にも及んできたわけで、その意味で技術革新そのものに驚くことはないのかもしれないが、その裏には何か大きな瑕疵が潜んでいるような気がしてならない。
旅客機が大きくなれば一度に大勢のお客を運ぶので、お客一人あたりの単価は小さくなるが、航空会社としては、それに見合うだけの大量のお客を集めなければならなくなる。
巨大な旅客機を購入するということは、大きな投資をすることで、資金を投入した以上、それがペイするビジネスをしなければならず、需要を自分たちで作りだしても集客に努力しなければならない。
巨大な旅客機でも、新幹線でも、モノを作る側には、常に今よりも良いモノ、現在を超える新しい未知のモノに挑戦しよう、という動機は存在し続けると思う。
より速く、より安全に、より快適にという願望を満たすモノを作りたいという欲求は、モノ作りの現場では必然的なものではないかと思う。
モノを作る側にはそういう根源的な動機づけがあるが、それを運用する側には、そういう文明の利器を使って金儲けをしてやろう、という2次的な動機が生まれるのも自然の流れであろう。
ところが今の資本主義社会、特に日本という国の人々は、「金儲け」という露骨な表現を忌み嫌うわけで、社会生活を円滑にするとか、ビジネスチャンスを広げるとか、持って回ったような言い方に言い換える。
文明の利器を使って金儲けをしようとするからには、コストを抑えて、リターンを最大にしなければならないことは言うまでもない。
その為には合理化に徹する他なく、モノ作りの理念と合理化は相いれない論理的矛盾ではないかと思う。
旅客機の巨大化はメーカーとしてのテクノロジー的な挑戦であろうが、それを購入して運用する航空会社は、その飛行機の利用者を掘り起こさねばならない。
つまり、海外旅行などに縁もゆかりもない地方の農協をまわって、田舎の爺婆を海外にまで引っ張り出す工夫を凝らさねばならないということである。
また逆に、中国の景気が良いとなれば、中国人を日本の観光地や、秋葉原のような家電の街につれてきて、金を使わせるように仕向けなければならない。
世の中がそういう方向に進むことは、その基底の部分に技術革新というか、テクノロジーの確たる担保がいるわけで、その結果として今の我々の社会が成り立っているということなのであろう。
だがそれも天気という自然の現象には太刀打ちできないわけで、人間は自然の脅威の前では実にか弱い存在でしかない。
天気という自然現象の前では、人間はそれに挑戦することをせず、あくまでも回避する以外に道はないということだ。


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