ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「近代日本の転機」

2008-03-22 07:48:46 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「近代日本の転機」という本を読んだ。
日本の近現代史の教科書のような内容の本であったが、昭和初期の日本人、我々の先輩諸氏は確かに精神的に異常な雰囲気の中の置かれていたように見える。
人間の持つ価値観というのは、時と場所そして時代状況で、その機軸があっちにいったりこっちにいったりと定まらないのはある面で天命というか、人為的には如何ともしえないものがあるのかもしれないが、人が人としてあるべき姿というのは、普遍性をも併せ持っているのも事実ではなかろうか。
例えば「人を殺してはならない」というのは、時、場所、時空を超えて普遍的なことだと思う。
ところが此処に人間としての感情、特に憎しみの要素が介在すると、その普遍性が崩れ、してもよいことになりかねないわけで、いわゆる価値観の機軸がぶれたことになり、その整合性を強調せんがために、ありとあらゆる言説が登場して、その整合性を語り、それが歴史として記述されることになる。
原始の人類、人間はそれぞれの部族単位で平和に暮らしていたと思う。
ところがここで天変地変が起きてその部族の中の平和の均衡が崩れると、それは確実に従来の秩序を揺るがしてしまう。
例えば、天候不順で作物が不作になって部族ごとに移動を開始したとすれば、それは他の平和的に暮らしている部族にも連鎖反応を起こすわけで、結果として人間同士の殺し合いを招くということになる。
人類、あるいは人間の歴史というのはこの連続だと思う。
部族の中では当然のこと仕事の役割分担において階層的な社会になるのも必然的なことであって、統治するものとされるもの、作物を作るものとか戦闘に駆り出されるもの等々という風に専門的な職能別の階層はごく自然にできあがるものと思う。
この延長線上に近代があると思うが、近代は原始社会と比べるとその人口は極めて多くなっている。
それは食料生産の効率化に成功した結果であって、人々は歴史の教訓として、食料生産の効率化を上手に克服したので、その余剰生産物を如何に管理するかで、貧富の差が生じてきた。
この貧富の差というのは、同じ部族同士の間だけの勝ち組と負け組の問題であったものが、ここに人間の欲望というものがそれに輪をかけたわけで、富めるものはますます富を収奪しようと考えた。
富を限りなく大きくしようとすると、それは人々を如何に管理するかという統治の問題に行き着き、最終的には政治の問題となる。
原始から近代に至る過程で、交通手段の発達と情報伝達の手段の発達が相まって、富めるものあるいは統治するものは、この両方を手中に収めることで富の拡大がますます容易になると考えられた。
ところが、これらの文化文明の進化というのは、富めるものみならず、統治する側のみならず、普通の人々もその一端に接することができるようになってくると、富の収奪願望というのは下層部分にも広範に広がった。
近代に至って、本来ならば社会の上層部しか接しれなかった情報に、下層階級のものも接することが可能になると、人々はこぞってそのチャンスに群がったわけである。
豊かになりたい、安逸な生活がしたい、楽して儲けたいというのは万人に共通する願望であるが、情報が豊富になると、人々の願望も多義にわたるようになり、単純に楽な生活を望むだけでは言い切れなくなってしまったのである。
明治維新を経た我々の先輩諸氏の心の中というのは、こういう潜在意識に満ちていたのではなかろうか。
明治維新の当初のころは、西洋の進んだ文化というのは人づてに聞いて知るのみであったが、日清、日露の戦役で日本の兵隊がアジア、特に中国に地に足を踏み入れてみると、そこには我々以下の生活があったわけで、上を見ればきりがなく下を見てもきりがないということを悟り、ここに庶民レベルのアジア蔑視の概念が醸成されたのではないかと私は考える。
ここでいう兵隊というのは、日本の民衆・大衆・庶民という風に言い換えることできるのではなかろうか。明治初期の段階で、日本から海の向こうを知るというのは極めて限られた人でしかなかったが、従軍という立場にしろ、日本の大衆が海の向こうを知ったということは、その後の日本の人のアジアを見る目に大きな影響を与えたのではなかろうか。
このことが昭和初期の段階で我々の先輩諸氏がアジア、特に中国や朝鮮や台湾を蔑視した元凶ではないかと想像する。
歴史、統治、政治という概念は、基本的に知識人の専有物で、それを語るときは政治家や、統治者や、知識人の動向に目を奪われがちであるが、世の中の動きはその伏流水として大衆、民衆、庶民の潜在意識がそういうものに反映されていると思う。
歴史を語るとき、ともすると政治家や統治者あるいは軍人の言説が大きなウエイトを占めているが、その根本のところには、大衆の潜在意識が大きく作用していると思う。
我々の昭和史をひもといてみると、昭和の初期の段階で関東軍の独断専横が諸悪の根元であったことは論を待たないが、今戦後63年を経た時点で考えてみると、なぜあの軍人の命令違反、独断専横を糾弾し、諫めることができなかったのだろう。
あれは明らかに犯罪行為に等しいことではないか。法律違反そのものであったではないか。テロ行為そのものではないか。
私は東京裁判史観を由とするものではないが、我々の同胞の犯したテロ行為に対して、我々の同胞の中からそれを糾弾する声が出てこなかったことが不思議でならない。
しかし、それを糾弾する声はあった。あったが、当人、つまり関東軍がそれを無視したので政府としてはそれを追認するほかなかったということは言えていると思う。
この状況を俯瞰的視点で眺めてみると、この当時の大日本帝国陸軍というのは完全に組織破壊していたということに他ならない。
組織のトップがモラルハザードを起こしていたということに尽きる。
軍人精神のメルトダウンが起きていたということだ。
内側に泥棒を飼っていたようなものだ。
このモラルハザードこそ日清・日露の戦役で日本の将兵、日本の大衆として将兵、徴兵制の下で日本全国からかり集められた若者、日本人がマスとしてアジアの人々を眺めた結果としてのアジア蔑視の概念であったものと推察する。
関東軍の好き勝手な行動に対して効果的な処置を講じることができなかった原因は、やはり同じ皇軍としての武力集団であって、泣く子と地頭には勝てぬというものであったろうと思うが、ここで問題になるのが関東軍の高級参謀としてのモラルハザードである。
このときのモラルハザードを判りやすい例にたとえると、日本占領中のマッカァサーがトルーマン大統領のいうことを無視して朝鮮戦争に原爆を使うようなもので、これと同じことを我々の同胞の関東軍がしたのに等しい。
トルーマン大統領はマッカァサーを解任することで彼の意図を封じ込めたが、我々はその独断専横を許し追認してしまったわけである。
この違いを我々はどう考えたらいいのであろう。
この時点ではそういう認識は軍部にも政府にも国民にも爪の垢ほども存在していなかったろうと思う。
ここで再びメディアの責任が問われる。
関東軍の行動を国民、大衆の側に立って「勝った!勝った!」といって褒めそやし、報道でもって国威掲揚につなげた責任はメディアの側にあるはずだ。
政府あるいは軍首脳、参謀本部の意向を、非戦を目指すものと決めつけ、戦争回避の努力を優柔不断と決めつけ、弱腰外交と糾弾して、それをメディアが煽りに煽って好戦的な雰囲気が増幅されたわけで、国民は上から下まで軍国主義一色の塗り替えられてしまったのである。
その意味で昭和初期の日本の民衆、大衆、庶民はそのことごとくが軍国主義者あるいは帝国主義者になってしまったわけで、その責はひとえにメデイアに帰すると思う。
昭和の我々の政治をよくよく見てみると、日本の政府は天皇も含めて常に非戦、戦争を回避する努力を重ねていたにもかかわらず、国民の方はすべからくイケイケドンドンであったわけで、その意味でも草の根の軍国主義であったわけである。
日本の軍部のある部分が暴走して、それを政府としてあるいは軍の上部の組織として止められなかったということは、それを国民がメディアにリードされてフォローした面があるにしても、基本的に明治憲法に欠陥があったわけで、その欠陥とはいうまでもなく統帥権というものであった。
これは敗戦という外圧でなければその欠陥を是正する権能がどこにもなかったわけで、そうなるべくして落ち着くところに落ち着いたということかもしれない。
しかし、その結果としての戦後の政治も、悔しいかな、マッカァサーのいう「12歳の子供の政治」の域を出るものではない。
物事を決める。あっちいくかこっちにいくか、あの道を選ぶかこの道を選ぶか、取るか取らないか、するかしないかという二者択一を迫られたとき、人が複数いれば意見がわかれるのは当然のことである。
議会制民主主義のなかで与党と野党があるのは至極当然のことであるが、その両方が同じ民族、あるいは同じ国の国民であるとするならば、求めるものは一つであるのが当然だと思う。
与党と野党の違いは、目的は同じだがその方法手段の相違でなければならないはずであるが、戦後の日本の政治状況というのは、そういう大局的な政治目標というのは存在せずに、目標がないのに綺麗事の公約のみが氾濫しているので、意見の集約ということが成り立たない。
敗戦によって打ちのめされた状況から再建を果たそう、日本が占領から脱して独立しようかというときに、「独立しなくても良い。占領のままの方が良いんだ」という、当時の日本の知識人の思考をどう考えたらいいのであろう。
戦後の同胞の知識階層は、戦勝国の占領下のままでおれば、再び血を見ることはなかろうという、奴隷根性にさいなまれた自虐的な思考に対して、民族の誇りと自主性を説くには如何なる方法があるのであろう。
この思考が生のままで政治の場に現れるわけで、これでは政治・外交の目標そのものが最初から存在していないのと同じで、政治が政治たりえていないと思う。
結果として日本の野党というのは、ただただ意味もなく与党の足を引っ張るだけに徹しきっているわけで、政治の混迷を沸き立たせているにすぎない。
これは今日の政治状況でも何ら変わることはないわけで、民主党の日銀総裁選出に対する拒否などにも、見事に現れている。
海上自衛隊のイージス艦が漁船と衝突した際、救難活動をしている最中から、防衛大臣の責任を追及し更迭を言い出すなんことは、物事が如何にわかっていないかということを如実に表している。
ただただ反対するだけの存在で、国益のことも眼中になければ、政治とは如何なるものかということも判らず、ただただ政府あるいは自民党を困らせるだけのもので、それが政治だと思い違いをしているだけのことで、ある意味で政治の私物化である。
「自民党がいきなり総裁人事を提出した」といって抵抗しているが、日銀総裁の交代など前々から判っているわけで、ならば民主党もそれに対する準備として人選をしておけばいいわけで、それをせずにおいて自民党のみを責めるというのは、得手勝手というものである。
こういう面からも「12歳の子供の政治」と言われる所以である。
この政治の体質というのは、昭和の初期においても今と大して変わっていなかったと想像する。
こういう政治体制だったからこそ、軍人に政治の場を奪還されてしまって、政治家としての発言が封じ込まれてしまったものと考える。
政治というものはバランス感覚だと思う。
大勢の人々の利害得失を如何にバランスさせるかということだと思うが、我々の政治、議会制民主政治というのは、バランス調整する前に足の引っ張り合いになってしまうので、暗礁に乗り上げてしまう。
暗礁に乗り上げたところで、結果としては落ち着くところに落ち着き、行きつくところに行き着くので、解決したような気でいるが、実際は何も解決していないのである。
解決しないまま時が流れるとそれが歴史となって定着してしまう。

「歴史としての戦後日本」

2008-03-19 20:31:20 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「歴史としての戦後日本」という本を読んだ。
アメリカの経済学者の論文を集めた本で、非常に難しかった。
日本の戦後という時期も、半世紀以上を経過して63年目に入っているわけで、この日本の復興というものは見る人が見るとまさしく驚異と写るのも無理からぬ事だと思う。
日本以外の地域、あるいは日本以外の民族から、日本というものを見ると不可解な国家、あるいは不可思議な民族と写るのも当然のことだろうと思う。
明治維新以降の日本および日本民族の発展を、今の我々の同胞は、アジアに対する負の遺産という感覚で受け取りがちであるが、こういう自虐史観というのはある意味で奢りの裏向きの現象ではないかと思う。
功なり名を挙げた人間が奢り高ぶって傲慢な態度を取るというのは、名実ともに浅はかさの象徴に見えるが、自分を限りなく悪人に見立てて卑下し、その対局として相手を誉めそやすというのも手の込んだ奢りであって、心の内ではその言葉と裏腹に相手をあざ笑っているということではなかろうか。
身の程知らずの奢りも人間の品格としては見下げたものであるが、自分を限りなく卑下して相手を誉めそやすという態度も、人間の尊厳をあざ笑う、品格に欠けた行為だと思う。
今、品格という言葉を入れた題名の本が巷には広範に出回っているが、人間にはそれぞれの個人にその人に応じた品格というものがついていると思う。
それは同時に国家の存立にも、個々の人間と同じように品格というものがついていると思う。
例えば、スイスなどという国は小さな国だけれども、永世中立を国是にした以上、如何なる周囲の状況に照らしてもそれを守リ通すということは、品格の備わった国だと認めざるを得ない。
戦後の我々もスイスを見習おうということで不戦の決意を新たにしたが、我々の理念とは裏腹に外圧によって自己の存立の軸足をあちらに寄ったりこちらに寄ったりと自信を持って確立しなかった。
スイスとは置かれた状況が違うというのは、後知恵としての言い訳にすぎず、要は我々の側にそれだけの勇気と信念がなかったという事に尽きる。
戦後のある時期において、日米安保論争華やかりしころ、東洋のスイスたることを目指そうという時期があったが、その時点では我々の側にスイスが如何に自衛、つまり自分の国を外敵から守ることに努力しているかということを知らなかった。
それが判ると、東洋のスイス足らんとすれば自衛の武力、自衛力を持ち、祖国を守るためには血を流すこともいとわない、という国民的な合意を持たなければならないということになり、言葉のうえでの綺麗事の理念とは矛盾してしまうわけで、東洋のスイスという概念も尻すぼみになってしまった。
この本はアメリカの経済学者が日本の戦後の復興について詳しく論じたものであるが、アメリカのみならず世界から日本を見るとどういう風に写っているのであろう。
我々の国は、昔も今も余所からは胡散臭い目で見られ続けているということを肝に銘じておかねばならない。
マルコ・ポーロの黄金の国というのも、この時点では伝聞にすぎなかったが、それ以降の西洋人の日本来航は伝聞の確認でもあったわけで、キリスト教の布教という命題が彼らの本命ではあったとはいえ、そういう人々によって日本の存在というものは西洋に広がったと見なしていいと思う。
日本の情報は細々と彼らによって伝わったが、この情報に接することができる人はきわめて限られたごく少数の人間でしかなかったというのも歴然とした事実であろうと思う。
結局、日本という国あるいは民族の存在というのは、彼らにしてみれば未知の存在で、西洋でも大勢の人々は日本について何も知らないというのが本当のところだと思う。
我々は自分の知らないところに行けば、大なり小なり旅行記、紀行文、見聞録というようなものを書く。そして他の人々がその書かれたものを読む。そのことによって未知のことが広範な人々に知れ渡っていく。
民族全体として未知のこと、体験したこと、見たこと聞いたことを書く、そしてその書かれたことを読むという行為は、その民族の文化のレベルを大きく向上させるものと考える。
我々の民族は自ら意識していないが、そのことが普遍化している民族であって、そういう民族はこの地球上ではきわめて限られた人々だろうと思う。
この地球上の人間の生き様というのは、ごく限られた選民、あるいは高等教育を受けたエリート、あるいは専制君主として権力を握った少数の人間が無知蒙昧な大衆を統治するというのが普遍的な姿であると思う。ところが我々の場合、大衆は無知蒙昧ではないわけで、誰でもが安易に統治者になりうる能力と知識を持っており、その意味で一億總政治家でもあるわけだ。
それだからこそ一度統治者の椅子に座っても、権力に固執するわけでもなく、私腹を肥やすわけでもなく、ほんとに些細な舌禍で権力の座を降りてしまうのである。
聖徳太子の遺訓ではないが、「和をもって尊し」としているわけで、ある意味で民族的な合議制で政治が回っていると思わなければならない。
ところが、我々の民族性に富んだ政治手法も良い面ばかりではなく、他民族との折衝の場では内側だけの論理では事が収まらないわけで、ここに我々の島国の住人としての民族性が露呈して、「葦の随から天覗く」という思考に陥ってしまう。
20世紀初頭から日本が軍国主義にはまりこんでいったのは、明治維新以降の西洋列強に追いつき追い越せの国民的な願望の延長線上のことで、そのための最短コースが軍事的な力の誇示だと思い違いをしたところにあると思う。
ここで思い違いをすること自体が、国家の品格の欠如だと思う。
昔の俚諺で「武士は食わねど高楊枝」という戯れ言葉があるが、あれは武士たるものの矜持を示した言葉だと私は思う。
武士というのは人々を統治する立場だから、いくら貧乏をしても、賄賂や公金などには手を出さず、襟を正してさも十分に食っている振りをするものだ、という風に解釈したいところであるが、現実には私腹を肥やす才覚のない者を揶揄する意味でとられている。
ここに人間の品格が現れていると思う。
個々の人間の品格というのは、本来ならばそれぞれの個人が成育の過程で習得して得るものだと思うが、この成育の過程というのが案外大問題のはずだ。
武士というのは、生まれ落ちたときから武士という家庭環境の中で生育するわけで、その過程を経ることによって武士としての矜持を身につけるものと想像する。
ところが明治維新の四民平等で身分制度が否定され、明治政府は広く人材を求めることが急務で、官吏登用に大きく門戸を開き、たった一回のペーパーチェックで官吏としての登用をするようになった。
そこに武士以外の諸々の階層から、その時点では優秀といわれた人材が集合したが、これらの人たちはその成育の過程で品格を身につけるチャンスに恵まれていなかった。
農工商の身分のものが官吏に登用されると、官吏としての立身出世を至上のものと思い違いをするのも無理ない話で、それは当然のこと「武士は食わねど高楊枝」という官吏の矜持とはほど遠い存在で、官吏の品格も同時に喪失するということになったわけである。
此処でいう官吏の中には当然陸海軍の軍人も入っているわけで、今でいえば公務員が公僕に徹するという官吏としての基本を見失ってしまったということである。
明治維新の四民平等という政策は、今の価値観でいえばきわめて民主的な制度改革だとされているが、確かに言葉はきれいだが玉石混淆という面も併せ持っているわけで、そのよって立つ精神が玉石混淆なるが故に品格もなくしてしまったということである。
国家のことを思う矜持を持たない者が、ただただ立身出世の免罪符として学歴というものに固執し、高等教育に群がってしまったので、高等教育の場でモラルの向上というものが期待できなくなってしまった。
教育の向上ということは、地球規模で見てこれを否定することはできないわけで、如何なる国家、如何なる民族においても教育を高めるということは「善」として認められている。
未開の後進国が近代化をなそうとすれば、まず最初に教育の向上をはかって人材の育成があるわけで、教育を向上させて底辺の底上げをし、それを経て近代化に向かうというのが普遍的なコースだと思う。
教育が向上すれば、当然、自我に目覚める人も多くなるわけで、それは必然的に私利私欲を満たそうという願望にすり替わる。
極端な話、金儲けがなぜ悪い、豊かさを求めてなぜ悪い、競争社会ならば格差は当然ではないか、という思考が容認されるようになる。
此処で問題は、自我と全体とのバランスである。
個人の欲望の充実と、自らの属する社会に対して如何に貢献するか、というバランスの問題が浮上してくる。我々、日本人というのは極めて真面目だと思う。
その真面目さゆえに、自らの属する社会への貢献と、自我をオーバーラップさせてしまって、自分のしている行為は全体のためにもなっていると思いこんでいるが、この部分が我々の奢りだと思う。
つまり自己中心主義で、相手のことが眼中に入らないまま、相手の思惑を無視したまま、自分は全体のために、あるいは祖国のために良いことをしていると思いこんでいる。
本来の教養知性というのは、こういう思いこみを自省する方向に作用しなければならないと思うが、我々の場合はそういう方向に高等教育の効果が現れていない。
無理もない話で、我々の場合、高等教育というのは自我の欲望追求の免罪符なわけで、そこには人のため、人類のため、地球のためという思考は最初から欠落しており、この部分が日本人以外の視点で見るとどう写るかが大きな問題だと思う。
この本はそういう視点で書かれた論文であるが、外国人が我々のことをどう見ているか、と気にするところが極めて日本的だと思う。
19世紀から20世紀を経て21世紀になると、この地球上では主権国家の主権そのものが、すでに意味をなさなくなってきていると思う。
好むと好まざると今の世界というのはグローバル化されているわけで、人、物、金は国境を越えて行き来しており、国境という垣根は極めて低くなっているので、その中で一国だけをピックアップして論ずることは意味をなさなくなってきていると思う。
アメリカの経済学者が1945年以降の日本をことさら論点に晒そうとしても、それは地球規模の動きと連動しているわけで、鎖国状態の日本を論ずるわけにはいかないと思う。
アメリカがくしゃみをすると日本が風邪を引くと言われて久しいが、まさしくそれが21世紀の地球なわけで、アメリカの影響力というのは地球規模で浸透しているが、これからはヨーロッパがEUとして一枚岩になるとアメリカのパワーにも少なからず影響が出てくると思う。
その中で日本は如何に振る舞うかというのは我々に課せられた大きな課題だろうと思うが、我々の過去の歴史を見れば我々は世界の動きに極めて素直に順応してきているが、ただただ第2次世界大戦のみはその順応に失敗した例である。
戦後の日本はその失敗をも63年を費やして結局は克服したと言える。
この失敗の克服から、日本はアジアでのリーダーシップが期待されているが、これは安易におだてに乗ってはならないと私は考える。
同胞の自虐史観の人々が言うように、アジアには日本に対する嫌悪感というのが有史以来続いているわけで、それを無視するわけにはいかない。
日本以外の人は、そういう事情を斟酌することなく、普通の人の普通の思考として、有能な者がその立場を全うすればいいと考えるかもしれないが、人は理性や知性のみで動くのではなく、大きく感情に左右されるので、この感情を斟酌すれば我々はアジアでリーダーシップを発揮すべきではなく、その部分では白人をたてるべきである。
そういう場面で白人をたてなければうまく回らない点がアジアの後進性そのもので、アジアの人々は紅毛碧眼の白人には無条件で従うが、黄色人種同士では我が優先するように思える。
恐らくこういう深層心理はアメリカ人やヨーロッパ人には理解不可能ではないかと思う。

「真相」

2008-03-16 20:35:35 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「真相」という本を読んだ。
分厚くて重厚な体裁の本で、読み通すのが難しそうに見えたけれど、読み始めたら吸い込まれるようにのめり込んでしまった。
元リトアニアの領事館員としてユダヤ人約6千名の命を救ったといわれている杉原千畝の伝記である。
この杉原千畝という人は戦後しばらくは無名の人であったように記憶している。
私自身が杉原千畝なる人物を最初に認知したのが何時だったかは定かに記憶にないが、ユダヤ人の難民、約6千名の命を救ったという事実は由とするも、それが本省の命令違反であって、出先機関の独断専行であったことにいささかの疑念を抱いていたことは事実である。
命令違反という部分に、あの戦争中に独断専行した陸軍の若手将校の行為と同じものを感じ、理由に整合性があれば上の命令を無視しても許されるのか、結果さえよければ命令違反をしても許されるのか、という危惧を持っていたことは確かだ。
人の世の価値観というのは、時代と共に変化するから、なにが真の善か?という問題はきわめて難しい。
時代と、場所と、状況によって、価値観がめまぐるしく変わってしまうわけで、杉原千畝がユダヤ人を救済しようと本省の訓令を無視してビザを発行し続けたことに対して、外務省の本省としては快く思っていないことは無理からぬことだと思う。
自分たちが「駄目だ!」と言ったことを無視しておいて、戦後は「好いことをした」といって評価を高めたとすれば、外務省本省としてはおもしろく思うはずがない。
外務省にすれば当時のドイツとの関係もあって、そうそう人道的という綺麗事を振りかざすわけにも行かなかった事実も勘案しなければならない。
にもかかわらず、それを戦後の価値観で、彼の行為を人道的見地から褒め称えるというのも、価値観の変化の顕著な例であって、これもよくよく深く考えなければならないことだと思う。
結果が良ければすべてオーライ、ということがあり得るのも確かだ。
とはいうものの、自分のしたことが50年後になって始めて「結果、オーライ」になるということは実に素晴らしいことだと思う。
人たるものは、すべてこのような行為をしておかなければならないと思う。
目先のことよりも50年後100年後に評価される足跡を残せるように自分の行いを律しなければならないと思う。
杉原千畝の行為はそれを見事に実証しているわけで、彼が人道的にと思って執った処置が50年後、戦後という時期になって始めて評価されたわけで、そういう意味でも彼の行いは実に見上げたものだといわなければない。
それに引き替え、その都度その都度、本省、あるいは上層部の指示の通りに動くということは、こういう実績には通じないわけで、ならば「組織とは一体なんぞや」という原点に降りかかってきてしまう。
戦争責任を語るとき、上司の指示の通り行動した挙げ句、戦犯に問われた人が洋の東西を問わずあまりにも多くいたではないか。
日本があの戦争にはまりこんでいった根本的な理由は、陸軍の若手将校たちが軍の上層部、あるいは政府の意向を無視して、どんどん戦線を拡大していったことがその理由として挙げられているが、これは結果が敗戦・敗北であったが故に、その若い人々の独断専行を止められなかった指導者層に糾弾の声が集中している。
その反対に明治維新の時は、若い人の独断専行が功を奏して、結果として全てがオーライであったので、そのすべての過程において、論理的に整合性が成り立たったということになっている。
あの時期、戦時中という時期においては、我々の同胞の全部が全部、軍国主義一色であったにもかかわらず、結果が敗戦・敗北であったので、我々のした行為は全てが悪で、侵略行為であったということになってしまったではないか。
世間というのは実に無責任な存在だとつくづく思う。
戦前・戦中を通して、我々の同胞の大部分が大なり小なり軍国主義差者であったにもかかわらず、戦後になるとそのことをきれいさっぱり忘れて、我々はアジアに対する侵略者であって、大いなる迷惑をかけたと言って憚らない同胞に対して、我々はどう考えればいいのだろう。
特に、我々のように「葦の随から天覗く」ような了見の狭い人々の間では、人の話を聞く時にはよほど注意が肝要である。
この無責任を膨張させるのが図らずもメディアで、人の本質、あるいは事の善悪を、時代や、場所や、状況によって、価値観をあっちに寄せたりこっちに引き寄せたりするのがメディアであるということを我々は肝に銘じて知っておかねばならない。
人の話に左右されたり、メディアに踊らされることのないように、自分の信念をふらつかせない覚悟が我々には必要だということである。
その意味で彼、杉原千畝は本人自身の博愛精神、人道主義的な見地として揺るぎないものを持っていたからこそ、自らの信念を貫き通すことができたのであろう。
それが戦後という価値観が逆転した時代に改めて評価されたと見るべきである。
彼の伝記を読んでいて、きわめて興味深い点は、彼が徹底的な軍人嫌いであったというくだりである。
彼は旧満州国の官僚に出向中に、旧ソビエット連邦と東清鉄道の売買交渉に携わったが、それが終了するとあわてて本省に帰ってきてしまっている。
その理由は定かに判らないが、恐らく満州における日本陸軍の軍人たちの立ち居振る舞いが鼻持ちならないと考えていた節があるし、同時にこのころ彼の奥さんがロシア人であったが故に、防諜という点からして軍部との軋轢が鬱陶しく感じていたとも考えられる。
官僚として満州に派遣されるということならば、普通のものならばそこで勇躍するに違いなかろうと思う。奥さんのことで満州に居づらくなるというのも、何とも人間くさくておもしろい部分だ。
彼はこの時代においてすでにロシア、つまり旧ソビエット連邦に関するエキスパートであったにもかかわらず、そういう場面では登用されなかったという点で、外務省としての組織の腐敗が如実に表れていたということであろう。
これは外務省ばかりではなく、いわゆる日本の官僚というのは実績を上げるとその実績がその本人にとってマイナスに作用するという点に組織疲労の元があるようだ。
このことは旧の日本の軍隊の中でも見事に貫かれているわけで、個人が組織の中で大きな実績を上げると、その実績がマイナスに作用して、周りから足を引っ張られる方向に作用するようだ。
結局、組織の中では目立った実績を上げないように振る舞い、大きな実績を残さず、居るか居ないかわからないような陰の薄い存在であれば、いづれ年功序列でお鉢が回ってくるというシステムのようだ。
組織の中で積極果敢に事に当たって実績を上げると、今度はその実績が足かせとなってしまうということだ。
それを一言でいえば、同僚の妬みということになるわけで、功績を挙げた人物を皆でよってたかって褒め称えるのではなく、その功績がねたましく思えて、結果として足を引っ張る方向に作用するものと考えざる意を得ない。
これはある意味で生きた人間として当然の心理だと思うが、問題は、その感情を国益よりも優先させてしまうところに人間の弱さ、つまり官僚としての堕落が表れていると思う。
個人の感情と国益を秤にかけると、国益をさしおいて個人の感情が優先されて、そんなことは生のままでは口にできないので、そのために様々な口実が入用になり、その口実が政治とか、外交とか、交渉の理由付けにされてしまうから、問題の本質がぼやけてしまうのである。
彼、杉原千畝も、自分の管理しているリトアニアの領事館の建物の前に押し寄せてきた大勢の避難民、難民の姿を見てさぞかし驚いたであろう。
さぞかし困ったことだと思ったであろう。
当然、自分の置かれた立場から本省に問い合わせることもしたであろうが、したところで帰ってくる答えは決まっていたに違いない。
そこで、最後は自分の決断しかなかったものと思う。
ここで、妻の意見を聞いてみると「助けましょう」という言葉が彼の背中を前に押したに違いない。
この場面で彼の博愛精神と人道主義が輝いたわけだが、その輝きは約半世紀の間、我々同胞からは無視され続けたわけである。
我々の歴史の中では、個人と組織の問題は、解くのにきわめて困難な主題だと思う。
彼本人も言っているように、「外務省の人間としては違反行為であったかもしれないが、個人としては看過できなかった」という彼の言葉は彼の本音そのものだと思う。
このころの日本は地球規模で戦争をしていたが、本土から遠く離れた離島で敵と戦った様々な部隊で、それぞれに個人と組織の葛藤があったのではないかと思う。
全く勝ち目のないことが歴然としている戦闘において、最後まで戦うべきかそれとも降伏すべきかの選択で、司令官あるいは指揮者たるものは、それぞれにこの選択に悩み抜いたに違いない。
片一方には戦陣訓があり、もう一方には人の命が秤にかかっているわけで、そのどちらを選択するかで決断を迫られたものは大いに悩み抜いたものと思う。
ここで玉砕という選択をすれば、銃後の我々としては、「よく戦った」と賞賛を与えるかもしれないが、敵に降伏した場合、その評価は逆転したに違いない。
そういう場面で決断を迫られた司令官、あるいは指揮者は、恐らくそういうことが頭の中を走馬燈のように駆けめぐって、敵に降伏したとなれば家族や近所の人がどういう反応を示すかまで考え抜いたものと思う。
その結果として、玉砕の道を選択したものが多かったのではなかろうかと私は考える。
問題は、こういう場面で、玉砕したものを賛美し、降伏したものたちを糾弾する我が同胞の心理である。
戦陣訓の教えを将兵に強要した銃後の人々の心理である。
戦陣訓は東条英機が出したのだから、玉砕の責任をすべて東条英機に被せるのは、戦後の我が同胞のある種の責任転嫁に通じるものだと思う。
真の戦争の反省が上滑りなものになっている証拠だと思う。
戦争末期の沖縄戦でも、自決を望む地元住民に対して、若い指揮官が自決を思いとどまるように説得する場面があったにもかかわらず、戦後の進歩的知識人の中には軍人が強制的に自決を強いたように喧伝する輩がいるわけで、そういう知識人のさもしさを、あるいは売名行為をどう考えたらいいのであろう。
この本に語られている杉原千畝にしても、沖縄戦で地元民の自決を思い止まるように説得した若い指揮官にしても、自分の置かれた立場を弁解しないところが実にすがすがしく、男らしく思う。
世間が判ってくれるまでじっと耐えて待っている姿が実に男らしく思われる。
彼らに対する評価は、こういう人たちが助けた相手側から顕彰されて始めて、我々の知るところとなるわけで、我々の内側からは我が同胞が国際的に評価されているということすら認知しようとしない。
これは一体どういう事なのであろう。
杉原千畝の場合も、助けた相手がユダヤ人であり、ユダヤ人の国イスラエルが、日本政府に対して何らかのアクションを起こしたところで、我々にとってイスラエルという国はあまり縁のない国で、比重の置き方は実に軽いということだろうと思う。
これが中国やアメリカからのアクションならば直ちに行動を起こし、すべてに遺漏のないように振る舞うが、何しろ日本にとってはあまりにも縁遠い国なので、その扱いも疎遠になるのであろう。
そういう意味でも我々の国際感覚というのは相当に鈍いもののような気がしてならない。
我々とユダヤ人の関係というのは日露戦争の時からあるわけだが、こういう目に見えない部分には、我々は全く無頓着である。
目に見えるところ、日の当たる場所には過剰に反応するにもかかわらず、目の届かないところ、影響力の乏しそうなところには全く注意を払おうとしない。
これもメディアの責任であるが、日本のメディアはそのことにさえも自ら気がついておらず、ニュースバリューのあるところには洪水のように群がるが、自らニュースバリューを掘り起こそうという気はさらさら無い。
外交という面で、あまりにも国益重視というのも、えげつなさが浮きだってしまうが、人の付き合いとおなじで、見え透いた依怙贔屓というのは見苦しいものだと思う。
国と国の付き合いという点では、政府対政府という関係ばかりではなく、個人レベルの付き合い、国際交流というのも無視できないものがあるように思う。

「飛行機に乗るときに読む本」

2008-03-15 09:25:10 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「飛行機に乗るときに読む本」というのを読んだ。
題名に惹かれて手にとっては見たものの、これも途中で読むのが嫌になってしまった。
要するに、世の中には飛行機恐怖症という人がいるらしい。
そういう人に対しての精神療法なわけで、きわめてメンタルな部分の記述が多く、心理カウンセリング的な内容で、精神の健常なものからすればおかしくもおもしろくもない。
ある種の精神病に対する対処療法であって、読んでいるとばかばかしくなってしまった。
で、途中で放り投げてしまった。
この世の中には飛行機に乗るときに異常に緊張する人がいることは承知している。
そういう人は、確かに、飛行機に対する脅迫観念が抜けきれないということは事実であろうが、それはその人の病気であって、病気でないものがその対処療法を読んだところで意味をなさない。
私自身は飛行機恐怖症ではないが、あの巨大な旅客機が空を飛ぶということが不思議でならない思いを抱いていることは確かである。
いくら翼に生じる揚力で浮き上がるといわれても、どうにも納得できない。
空気を前から押し込んで圧縮し、燃焼させて推力を得るといわれても、どうにも納得しかねる。
ならばなぜ不安を抱かずに飛行機に乗れるのだと自問してみると、周りのものが普通に振る舞っている以上、自分だけが危険にさらされることはなかろう、というきわめて他力本願的な思考で落ち着いているにすぎない。
まさしく「人の振り見て我が身を正す」ようなもので、人を信じていれば自分だけが危険にさらされることもなかろうという程度の思考でしかない。
なまじ、若いときに多少航空機のことを勉強したが故に、飛行機というものがどういう風にして飛んでいるかを知っているので、不安がないとも言える。
しかし、最近の旅客機の上昇する角度というのは、まるでジェットコースターが勢いよく坂を上るような感じで、本当に失速が心配になるぐらいのものである。
これにはつくづく驚かされる。
しかし、現代の科学はそれを可能にしているわけで、科学を信ずれば、何も恐れることはない。
飛行機嫌いの人、あるいは飛行機恐怖症の人は、その部分で現代の科学を信じ切れないということなのであろう。
世の中の大勢の人の中には当然そういう人がいても不思議ではないが、この本はそういう人を対象に書かれているので、読む人にとってはつまらないのもこれ又当然のことである。
私の知人の中にもこういう人がいて、搭乗前に通過する金属探知器を潜るだけでひ汗がでて機械が反応してしまうという人がいた。
通常の生活ではごくごく普通の人だが、やはり飛行機に乗るとなると、この本でいうところの異常心理に陥るのであろう、できれば飛行機の旅は敬遠するという類の人だ。
この本はそういう人のためのカウンセリングに近いものだから、そうでない人にとっては読み物としておもしろくない。

「ロシアの鉄道」

2008-03-12 09:11:59 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「ロシアの鉄道」という本を読もうとした。
ところがこれが実に読むに値しない代物で、途中で放棄してしまった。
あとがきや著者略歴を見ると、戦後国鉄に長いこと奉職していたらしいことは判るが、読み物の体をなしていない。
題名に惹かれて手にとって見たが、表と数字ばかりで、完全なる専門書の類で、一般向けの読み物ではあり得ない。
中学生の自由研究の域を出るものではない。
それでも私が強烈に興味を持った部分があった。
1917年のロシア革命の時、スイスに亡命していたレーニンが、封印列車でペテログラードに戻ったという部分である。
この封印列車というのが今まで意味不明であった。
ところがこの本を読んでなるほどなと思えることは、このときドイツとロシアは交戦国同士であったので、捕虜交換という意味で列車そのものを治外法権としてあつかったということがわかった。
ドイツのもくろみとしては、共産主義の指導者としてレーニンをロシアのペテログラードに送り込んで、ロシアを内部から崩壊させようという魂胆であったに違いない。
事実、それは功を奏してロシア帝国は内部から革命という内部崩壊を誘発して帝国としては消滅した。
この本の欠陥は、そういう歴史的事実にたいして、個人、つまり作者の主観が全く入っていないので、書き手が何をどう考え、どういう風の思っていたのかという部分がないので、面白味に欠けるのである。
事実を事実として何の虚飾も付加せずに羅列したところで読む側としては好奇心が刺激されない。
それにしてもレーニンの封印列車は歴史的には非常に興味ある出来事だと見なしていいし、それが捕虜交換であったとしたら、当然ロシア側からドイツに返された人たちもいたはずで、そういう部分を物語に仕立てたらきっとおもしろい話ができあがるに違いないと思うが、どうも聞いたことがない。
この本によると、スイスを出たレーニンはドイツを南から北に抜け、スエーデンからフインランドを通ってペテログラードに向かったようだが、この一番肝心な部分の説明が抜け落ちている。
封印列車というのはドイツ領内のみのことか、それともペテログラードにつくまで完全に封印されていたのか、という部分がきわめて説明不足だと思う。
それと、この本の図版が不思議なことに向こうの切手で表されている。
これは一体どういうことなのであろう。
生の写真が撮れないということなのであろうか。
写真機で、機関車や列車の写真を撮ると、そぐさまラーゲリに送られるということなのであろうか。
切手の収集家が、切手で自分の思いを表現するというのならばある程度は納得できるが、一般読者の立場としては、生の写真で巨大な機関車や壮大な列車の勇姿をみたいではないか。
著者にしてみれば、自分で本を出そうと考えた時点で、読む側のことも当然考えているものと思うが、それをしていないということは生の写真が撮れない、あるいは使えないという制約があったものと推察せざるを得ない。
だから写真を使いたくても使えず、公開された切手の図版でその役を果たそうとしているのであろうか。
共産主義国では機関車や列車の写真も国家機密になるわけで、そういう国に夢と希望を託した我が同胞の知識人、教養人の存在を今どう考えたらいいのであろう。
機関車や列車の写真も国家機密になるということは、ただただ人を収容所に送り込むための理由付けであって、収容所に人を送り込むためにはどんな理由でも構わないわけで、そういう不合理がまかり通っていたから期せずして崩壊したということであろう。
この著者の略歴を見ると、東京外語のロシア語課を卒業して国鉄に入社しているが、これが満鉄の入ったというならばまだ納得できるが、国鉄に入社したということは、国鉄内部から組織を崩壊に導いたのではないかとさえ勘ぐりたくなる。
なんだか胡散臭いものを感じないわけにはいかない。

「『ヨーロッパ合衆国』の正体」

2008-03-10 11:41:10 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「『ヨーロッパ合衆国』の正体」という本を読んだ。
アメリカ、ワシントン・ポスト紙のロンドン支局長という著者がアメリカ人の立場でEUを眺めた感想というか考察を記述したものであるが、実に読みでのある重厚な内容であった。
ヨーロッパ合衆国というのは言葉のアヤで、実際にはEUのことであるが、EUの理念としてはあくまでもヨーロッパ合衆国にあるものと想像する。
まだまだ合衆国になるまでには数多くのハードルを越えなければならないであろうが、EUの理念としてはあくまでもそこ、つまり合衆国にあるように見受けられる。
ヨーロッパの歴史というのも、煎じ詰めれば殺戮の歴史であったわけで、殺戮の理由に宗教があったり、領土問題があったり、富の収奪があったりと、理由はさまざまであるが、殺し殺される歴史というのは連綿と続いていたわけである。
それはある意味で人類の歴史でもあるわけで、地球上に生まれた人類、人間という生き物の間では、普遍的なことではなかったかと思う。
ヨーロッパのみならず地球上の至るところで普通に行われてきたことだと思う。
問題は、死というものを忌み嫌う感情がいつ頃派生したかということだ。
生きた人間を死に至らしめることが罪深い行為だ、と認識するようになったのは何時の頃だろう。
こういう認識が芽生えたからこそ、人殺しよりも平和を大事にしなければならない、という思考が芽生えたのではなかろうか。
この平和を願う思考も太古からあったものと思うが、戦争と平和の比重の違い、価値観の相違ではなかったかと想像する。
それまでの人間にとって、死はあくまでも自然現象であって、忌み嫌ったり、延命したり、回避を願う対象ではなかったのではなかろうか。
ヨーロッパの人々が人間の死を悼み、哀れみ、避けねば、と思うようになったのは、度重なる戦争を経験したからであろうと想像する。
時代が進むにつれて、その殺し合いの現場の状況が銃後の人々にも伝わるようになり、また殺し合いに出た人が負傷して帰ってくるという状況になると、人々は戦争のむなしさを大いに感じ取るようになったに違いない。
そして悟ったものと想像する。
もうこういう意味のない殺し合いはしてはならない。
そのためにはどうしたらいいのだろうか?と考えたに違いない。
その意味で、ヨーロッパがそれに自ら気がついたという点ではやはり先進国であった。
第2次世界大戦後の日本も、あの戦争の反省として不戦の誓いは十分にしているが、それはある意味でお釈迦様の手のひらで騒ぎまくっている孫悟空のような存在で、他への影響力というのは無に等しい。
その前の時代に航海術を開拓し、それによって帝国主義的な植民地経営をすればそれぞれの国が豊かになる、黄色人種を足蹴にして、アジアを富の草刈り場にすればヨーロッパは豊かな生活ができる、と気がついたのもやはりヨーロッパの先進的な思考の結果であった。
アジアの人々は、第2次世界大戦後、民族の独立は勝ち得ても、お互いに協調しあって、国境の壁を低くしようという発想には至っていない。
むしろ民族独立という壁を作ることによって、自分たちの自尊自衛を誇っているうちはヨーロッパに半世紀以上遅れているということでもある。
で、ヨーロッパでは第2次世界大戦で勝者も敗者も共に完全に打ちのめされ、実質廃墟と化してしまったわけで、そこにはそれまでの歴史でいうところの殺し合いの成果としての勝者と敗者という立場の違いは存在していなかった。
そういう状況に対して、一人勝ちのアメリカは勝者にも敗者にも惜しみなく援助をしたが、アメリカが困窮した国に惜しみなく援助をするというのは、共産主義の浸透を防ぎたいという下心が見え隠れしないでもない。
ところが、如何なる下心があろうとも、困窮した国としてはまずは生きねばならないわけで、アメリカの援助を受けざるをえない。
EUの萌芽としては1951年の欧州石炭鉄鋼共同体というものの設立だろうと思う。
これは第2次世界大戦を敵味方と別れて戦ったドイツとフランスが、石炭と鉄鋼の取引の障碍を取り払らおうというもので、戦後復興の要の部分で合意に至ったということである。
仇敵同士が、戦後復興という同一目的のために、恩讐を乗り越えて始めて手を携えたということで歴史的なことだと思う。
石炭と鉄鋼という産業の基幹部分で、お互いの仇敵同士が過去の怨念を払いのけて同意に至るということは、先進国が先進国といわれる大きな理由だと思う。その心が素晴らしい。
過去の怨念を将来の発展のために放棄するということは、その精神の気高さ、心の寛容さを余すところなく表していると思う。
日本の周りでこういうことが考えられるであろうか。
日本は数限りなく謝罪しているのに、それでもなお難癖をつける後進性をどう考えたらいいのであろう。
それでヨーロッパでは石炭と鉄鋼で協調体制がとられると、それが双方にとってきわめて便利かつ有用であったので、その後経済のあらゆる場面で同じような協調体制を望むようになり、それが1957年の欧州経済共同体EECとなってヨーロッパ連合の元となったわけである。
ヨーロッパの実情を考えれば、こうなることは必然的な流れでもあったろうと思う。
18世紀、19世までのように人の移動が馬車や帆船に頼っている時代ならば、国境での煩わしい手続きもさほど苦にはならなかったろうが、現代の発達した交通手段を利用するとすれば、国境の検問というのは煩わしさの極限で、そんなものをとり払いたいという願望も当然出てくるに違いない。
そういう人々の願望を、素直に、あるいはストレートに受け取るということは我々アジア人からみてきわめて先進的だと思う。
人々の共通の利益ならば、仇敵同士という古い感情を投げ捨ててまで前に進むという、あるいはお互いに楽をしようという思考がきわめて先進的な考え方だと思う。
我々の場合でも、古きを捨てて新しいことに挑戦するということはあるが、ここで我々の民族の得意とする「和をもって尊しとする」の精神が浮上して、新しいことへの挑戦に棹さしてしまう。
我々の場合、新しいことをしようとすれば、民意を得てからではできないわけで、民意を無視して開発独裁でなければ成り立たないという後進性がある。
新しいこと、新しいプロジェクトには賛否両論がつき回ることは洋の東西を問わないので、反対意見を如何に説得するかが民主主義のバロメーターであろうが、我々の場合ここで説得ということが成り立たない。
旧社会党の土井たか子女史の言い分ではないが、「駄目なものは駄目」では議論を放棄したに等しく、議論をする気さえ見いだせないではないか。
EUが誕生するまでにはヨーロッパの中でも様々な意見が飛び交ったに違いない。
だからこそその設立までに50年という年月が費やされたわけで、一朝一夕でできたものではないが、一つの理念を実現するために、半世紀の年月を費やしてもそれを実現させるということは、やはりヨーロッパが先進国ということの見事な証明だろうと思う。
ヨーロッパの様々な民族が、国境の検問もなく、同一通貨で、どこに行くのも自由で、国境を意識することなく生きるということは、長年の夢ではなかったかと思う。
その夢を実現させたという意味では確かに先進国たるゆえんだろうと思う。
アジアでもヨーロッパでもその他の地域でも、太古から人々は殺し合って生きてきたという過去は似たり寄ったりだろうと思うが、その同じような経験を通して、アジアや他の地域よりも一歩先んじて域内の平和を確立するということは彼らの英知というほかないと思う。
この彼らの英知がどこに起因しているのか、何に起因しているのかと考えると、それはやはり民主主義の浸透ではないかと思う。
つまり下からのボトムアップの民主主義ではないかと思う。
ヨーロッパでは福祉の向上がめざましいと言われているが、福祉というのは上から下に授け与えるものだと思う。
ということは、彼らの政府そのものが、下からのボトムアップで、下々のものの利益を代弁するものが彼らの政府であって、民意を代弁する政府が上から下に福祉をばらまくというのが彼らの信奉する民主主義ではないかと思う。
下からのボトムアップの民主主義というのは、彼らが長年にわたって殺し合いを重ねることで、そのむなしさを悟った結果として、上から下のものを統治する政府を嫌って、下からのボトムアップで、下のものの利益を代弁する政府を作ったということではないかと思う。
だから、自分たちの選出した政府のすることならば、個人的な損得勘定の気持ちを抑えても妥協すべきところが妥協しなければならない、という思考に落ち着くのではなかろうか。
ところが我々を含めてアジア人の思考では、下からのボトムアップの政府でも、政府のトップになってしまうと自分がボトムアップで政権を任されているんだということを忘れがちで、国民の方も自分たちが選出したということを忘れてしまって、仇敵が政府を乗っ取ってしまったかのような言い分になる。
自分たちが選出した自分たちの政府を敵と見なしている。
日本の野党には特にこういう傾向がある。
双方共に民主主義の本質が判っていないわけで、政治を個人の利益に直結させてしまう。
好き嫌いという個人的な感情で推し量ろうとするし、私利私欲が公共の福祉の前に埋没してしまって、自分さえよければという思考になってしまっている。
福祉に関していえば、我々の国民感情としては福祉制度を徹底的に利用しなければ損だ、という気持ちになりがちで、病院が無料になれば、たいした病気でもないのに病院に行き、山ほど薬をもらって喜ぶというように、できうる限り政府の授けてくれる恩典に浴そうと考える。
これは制度の欠陥でもあり、同時に医者も患者もモラルが低下しているわけで、それを全部ひっくるめて民主化の度合いが低いということになる。
福祉の制度をできるだけ独占しようと画策し、自分さえよければ他の人はどうでも好い、と言わんばかりのことをし、福祉を食い物にするが、福祉はただではないわけで、それを行うには原資がいるが、そちらの方は一銭でも節約しようと思考を巡らす。
密度の濃い福祉をしようとすれば、原資の確保も大事なことで、負担する方は極力節約に心がけ、得る方は最大限得ようとするわけで、国民の一人一人がこういう考え方では先ゆき破綻することは当然ではないか。
結局、天に向かってつばを吐くようなものであるが、そのつばが自分に降りかかってくると、他者に責任を押しつけるのである。
「福祉制度を維持するために一生懸命納税をしましょう、保険料を払いましょう」という声はどこからも出てこないではないか。
それでいて取りたいものは目一杯獲得したいわけで、これで民主的な人々といえるであろうか。
如何なる政党、あるいは国民も、減税には大賛成であるが、増税には大反対なわけで、これは現代に生きる社会人ならば当然のことであるが、当然が当然であれば高度な福祉ができないのも当然なわけで、高度な福祉を望むならば、当然なことをどこかで断ち切って、皆が公平に負担を背負わなければならないはずである。こんな当たり前のことは皆が判っているに違いないが、それでも自分だけはこの当たり前のことから免れたいという心理が、これも皆に同じように浸透しているのである。
当たり前のことを、自分だけ免れたいと思っているから、民主主義が民主主義たり得ていないわけで、他人には民主主義を説くが自分は個人主義のままでいたいのである。
この部分にアジアの後進性がある。

「命がけの夢に生きた日本人」

2008-03-07 13:00:34 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「命がけの夢に生きた日本人」という本を読んだ。
著者は黄文雄氏である。台湾の人のようだ。
この人、日本人以上に大和魂を持った人で、日本の過去の功績を日本人以上に褒め称えてくれるので、この人の著作を読むと、尻がムズムズとこそばゆくなるぐらい快感を覚える。
ある種の誉め殺しではないか、と思えるほど日本人を持ち上げてくれる。
我々戦後の日本人は、あの戦争でアジアに迷惑をかけた、侵略戦争でアジアの人々に多大な迷惑をかけた、と思いこんで意気消沈している我々に大きな勇気を与えてくれる。
台湾の人々は我が同胞の後ろ向きの思考を否定し、決してそういう風には考えず、我々を大いに応援してくれている。
無理もない話で、1945年、昭和20年の日本の敗北で、台湾も日本の統治から中国、正確には戦勝国の一員としての中華民国の支配下に移ったが、そのときの中国の支配があまりにも愚劣だったが故に、逆に日本統治の有難味が彼らの実感として浮上したものと想像する。
このときの中国の支配というのが、本土で中国共産党の内戦で追われた蒋介石が引き連れてきた国民党軍の統治で、それがあまりにも杜撰というか、稚拙であったので、逆に日本の統治が光彩を放ったに違いない。
蒋介石、あるいは国民党の統治そのものが中国の政治の歴史的伝統を引き継いでいたわけで、それをその時代に体験した台湾の人々は、その両者の相違を比較検討することができた。
結論として、日本の統治はよかったが、中国人の支配はどうにも困ったものだ、ということに達したわけだ。
黄文雄氏と同じ論旨を展開する人に金美麗女史がいるが、この人たちは台湾人という立場から日本統治と中国の統治を目の当たりに見ているわけで、いわばその両方を冷静な視点で見た結果として、日本のしたことが優れており、中国のすることは我慢ならないと結論つけているのである。
そのことは、複眼としての視点で日中の政治を比べると、中国人の政治は稚拙で、日本の統治が如何に合理的で、なおかつ台湾人のために益するところが多かったかだったか、ということを身をもって体験したわけである。
同時に、台湾にきた蒋介石の国民党の治世を通して、中国本土の統治手法をつぶさに観察することで、中国本土の政治を推し量る裁量にもつながったのである。
日本の台湾支配は約50年、朝鮮支配は彼らのいう日帝36年である。
台湾の方が日本統治の期間が長かったにもかかわらず、台湾では日本統治を糾弾する風潮が少なく、朝鮮の方が期間が短かったにもかかわらず、その短い方が反日になるということの本質は、民族のアイデンテイテイーの相違と見なすほかない。
つまり朝鮮の人々は政治的にきわめて自堕落で、独立自尊の精神が乏しく、事大主義に陥りやすく、常に他からの庇護の元でなければ生きておれないということである。
現に今に至っても統一ができていないではないか。
独立自尊の精神がない、民族自決の気持ちがない、ということの歴然とした証拠で、彼らの有史以来の姿ではないか。
彼らの生き様は日暮れ腹減りで、日銭さえ入れば後は野となれ山となれで、同胞同士で団結して人類のために何かで貢献しようという発想は根本から抜けて落ちていると言うことだ。
日本の敗戦後の台湾には、中国から押しかけてきた人々が大勢いるものだから、そういう体制の手前、表だっては敗戦国としての日本を擁護することができないが、内心では日本に対する感謝の気持ちを内包しているということである。
いわば、第2次世界大戦後の台湾は中国に占領されたようなもので、言葉を換えれば中国の侵略にあっているということに他ならない。
黄文雄に言われるまでもなく、あの戦争、我々の側の言葉でいえば大東亜戦争、戦後の民主教育では太平洋戦争、世界的な言葉でいえば第2次世界大戦は、明らかにアジアの解放戦争であった。
それは我々の側の戦争目的でもあったわけで、戦争そのものは確かに我々の側の敗北で終わったが、その結果としては立派に我々の側の戦争目的を実現したことになる。
あの戦争を肯定するわけではないが、もしあの戦争がなければ、今日においてもアジアは西洋列強、つまり白人による植民地支配の状況が継続していたかもしれない。
アジアの人々は、中国、朝鮮をのぞけば日本のアジア解放の功績を素直に認めているわけで、中国人と朝鮮人のみがそれを否定し続けているにすぎない。
そのことを黄文雄や金美麗が素直な気持ちで言い表しているが、日本人の知識階層がそれに棹さすような認識でいるものだから実に困ったことだ。
中国人や朝鮮人の言い分というのは、きわめて政治的な要因を内包しているわけで、彼らは自国民に向かって、国論を自分に有利な方向に向かわせるためにスケープゴートとして日本を糾弾するポーズをとっているのである。
例えば、韓国の統治者が韓国民に向かって「日本と仲良くしましょう」と言えば、再び日本の下に自分たちを位置づける印象を与えてしまうので、反日、排日、嫌日のポーズをとらざるを得ないのである。
日本が彼らよりも一馬身前に出て、彼らの国はその後を追っかけている、という現実を認めるということになり、だからこそ、よけいに日本と仲良くするという言質は与えられないのである。
中国でも全く同じなわけで、日中友好のポーズでは中国国民を一枚岩にまとめきれないので、日本を悪玉に仕立てて、それに憎悪を向かわせなることによって中国国民のガス抜きをしているのである。
そうしなければ、自分たちの足下を掬われるから、声を大にして侮日、反日、嫌日のポーズをし続けなければならないのである。
問題は、それを真に受ける我々の同胞の側にある。
我が方の同胞は、日本がアジアで悪いことをしてきたので、相手様に対して申し訳ないという贖罪の気持ちに満ちているので、相手のいうことは正しくけっして間違ってはいないし、過ちを認めることは勇気ある行為だいう浪花節的な義侠心で我が方の非をあげつらっているのである。
ということは、こういう我々の同胞は、自分たちの歴史も知らなければ、相手に対してもきわめて不勉強で、結局のところ盲人が像を撫でて、尻尾に触ったものがその感触で相手の全体像をイメージしているようなものである。
相手のことを知らずに、また自分自身の歴史も知らずに、相手のいうことを真に受けるという行為は、絵に描いた様な愚昧なことなわけで、まさしく正真正銘の思いこみにすぎない。
相手の言ったことをまともに検証もせずに、自分たちが悪いことをした、悪いことをした以上謙虚に謝罪しなければならない、というきわめてきれい事でことをなそうとする浅薄な思考である。
相手を知り己を知るという外交の基本を放り出して、自分たちの思いこみで善隣外交を夢見ているわけで、こういう無知こそ再び日本を奈落の底に落とす危険がある。
あの戦争に関する限り、アジアの解放という意味では、負けたとはいえそれなりの成果はあったが、我々の側の犠牲の大きさを考えればそうとも言っておれないわけで、ならばそういう犠牲を払わずに、つまり日本人の将兵あるいは銃後の人々の犠牲を生むことなくアジアの開放が叶ったかといえば、それもあり得ない話だろうと思う。
あの戦争は今考えるとキリスト教文化圏と日本に代表されるアジア系文化圏の決闘であったに違いない。
西洋列強の白人と、日本という黄色人種の中の一族との雌雄を決する一大闘争であったに違いない。
アジアの開放という大命題を中国が認識しておれば、中国は連合軍に与することなく、連盟の側に身を寄せるべきであったが、中国の人民にはそういう世界に貢献するという意識は爪の垢ほどもなかったと言うことである。
あの戦争の日本側の目的はアジアの開放であったが、戦争を遂行した当事者の中には、日本の国益を旗印にして戦った同胞、日本軍の将兵のいたことも明らかなる事実である。
大儀の本質を見失って、私利私欲とまではいわなくとも、目先の利益を優先するという狭量なケースもあったことは素直に反省しなければならない。
ただ日本を取り巻くあらゆる外交問題の根元は中国問題である。
戦前、戦中、戦後と日本の歴史の中では中国、支邦の問題が大きなアキレス腱となっていることはいつの時代にも、あるいはこれからの未来、将来にも大きな関わりを持ち続けるに違いない。
なんといっても一衣帯水の関係にあるわけで、日本がおかれている地球上の地勢的な位置から考えても、日本と中国は切っても切れない関係が今後も続くと考えなければならない。
その中国に朝鮮というものがコブのようにくっついているわけで、朝鮮にしてみれば、常に中国の意向を伺い見なければ、自らの生存が危ぶまれるわけで、それが過去の歴史でありこれからもそうであろう。
その一方、我々の祖国日本というのは、こういうものから海を隔てた位置にある分、行動の自由があるわけで、「葦の随から天を覗く」ような無知も、無知のまま通ってきたということがある。
我々は、文明開化で近代化に成功してみると、己の無知に大いに覚醒したわけであるが、その近代化の過程で、西洋列強の先進的な文物の導入には積極的であったが、西洋列強の精神、つまりキリスト教徒的な精神文化のみは導入しなかった。
この頃までの西洋列強のキリスト教的な精神文化というのは、帝国主義的な植民地支配というもので、これだけは我々は真似をしなかった。
我々には元々「和」の精神があったわけで、特にアジアにおいては同じ黄色人種ということでもって、彼らを搾取するという発想はもっていなかった。
アジアが帝国主義諸国の富の草刈り場などという思考は持っていなかった。
アジアに進出してきた西洋人、イギリス人、フランス人、オランダ人、アメリカ人等々の人々は、黄色人種を最初から人間と見なしていなかったわけで、それに引き替え我々はあくまでもアジア人の解放、黄色人種の福祉向上、民族の自主独立を思い描いていたわけであるが、我々の同胞の中にはそれを真に理解せず、欲に走った人間も少なからず居たことも事実として認めなければならない。
西洋列強の中で、植民地の非圧迫民族に対して福利厚生をしたところはないわけで、日本だけが実行支配した非圧迫民族に対して社会的な基盤整備をしたのである。
このことは我々がアジアの人々から富を収奪するのではなく、あくまでも人間同士として同じレベルに生活水準を引き上げることを目指した証拠だと思う。
戦後、日本の支配した地域に対する損得勘定をしたら、日本の持ち出し部分が多かったという話があるが、ただでさえ乏しい当時の日本が、台湾や朝鮮に莫大な投資をしたことをどう考えるたらいいのであろ。
日本内地よりも先に台湾と朝鮮に帝国大学を作った事実をもってしても、それは裏つけられていると思う。
しかるに、中国と朝鮮は、何故にそういう事実を無視して日本を糾弾し続けるのか、ということになるが、それは彼らの国内向けのポーズだということは先に述べたが、それになぜ我が同胞の知識階層が同調するのかということである。
戦後の日本の知識階層は、その知識でもって相手の論旨を撃破、あるいは論破する方向に作用すれば、普通の主権国家の国民として当然のことであるが、それが相手の言い分に日本国内で同調するということは一体どういうことなのであろう。
確かに知識階層から政治家というものを眺めれば、政治家の幼さ、幼稚さ、愚昧な発言、行為に愛想を尽かしたくなるというのは本音であり、鼻持ちならないことではあろうが、戦後の日本の政治家というのは、国民から選ばれた立場にあるわけで、その意味では知識階層よりもよほど責任が重いはずである。
国民から政治を依嘱された野党の政治家が、何故に同胞の先輩諸氏を誹謗中傷する相手側の言い分に耳を貸そうとするのであろう。
今は死語になっているが、昔は売国奴という言葉があって、まさしくその言葉がもっともその実情を表現しているのではなかろうか。
国を売ってもそのことで直ちに牢屋に放り込まれることもなく、言論の自由が保障されているので、口で言っている分には何を言っても許されるわけだから、相手の国益に貢献することも白昼堂々と行えるわけである。
それでも生きておれる我々の国はまさしくユートピアそのものだと思う。

「情報国家のすすめ」

2008-03-05 08:58:40 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「情報国家のすすめ」という本を読んだ。
一言で言えば、日本は他国の情報収集にきわめて稚拙だから根本的に考え直せという趣旨のものである。
我々にとって情報という概念はきわめて価値が低いと思う。
戦後の一時期、日本人に工場を見せるとすぐ真似されてしまうから、注意しなければならないと言うことが海外でよく言われたと聞く。
こういう問題は、今、知的財産という形で俎上に上り、その矛先は中国に向けられている。
工業製品ですぐ真似をされる、真似をするということは確かに知的財産の分野であろうが、これも大きな情報ということを内在していると思う。
好いものならば誰が作っても好いし、しかもそれをやすく提供できればなお好いことだ、というのが我々の認識であるが、そこにはオリジナルを作り出す人の視点が抜け落ちているわけで、それがそのまま情報という分野にも当てはまる。
国家の存立には国民に知られてはまずいことも多々あると思う。
関係者は、自分の知った情報を墓場まで持っていかなければならない状況や場面も多々あると思う。
メデイアは、そういう情報を鵜の目鷹の目で探し回っているが、メデイアというのは国益とは別の視点に立っているわけで、国益など考えて報道する了見など最初からないものと考えなければならない。
ただただニュースバリュウがあればあるほど彼らの業界の中では名誉になるわけで、それは国益とは何ら関係のないことである。
問題は此処にある。
そういうメデイアの記者魂が外国の内情を探る方向に向けばありがたいことであるが、日本人のメデイア関係者は、自国を相手側に売りつける方向に機能するから困ったものである。
情報収集というのはなにもメデイアの関係者だけのことではないわけで、外国との接点にいる者は、その持ち場たち場である種の情報に関わり合っている筈である。
我々の同胞には、そういう認識が根本から抜け落ちている。
日本という国から一歩外に出れば、日本国民たる者そのすべてが情報戦の中に放り込まれた状況になっているが、我々は誰一人そういう認識を持っていない。
今、日本に数多くの外国人がきているが、それらの人を丁寧に観察するだけでも立派な情報になる。
それは同時に日本人が外国に行った時も、相手側からすればそれと同じことが言えているに違いない。
我々は太古から島国に生まれ育った人間として、人間はどこに行っても自分たちと同じようなモノの考え方、立ち居振る舞いをすると勝手に思いこんでいるが、そもそもそこが情報に無頓着な最大の原因であろう。
主権国家の国民というのはどこをどう切っても金太郎アメのような断面だと勝手に思いこんで、自分の尺度で相手を見るものだから、「葦の随から天覗く」という状況を呈してしまうのである。
昔、大日本帝国海軍が華やかりし頃、横須賀線の中では海軍将校が海軍内部の情報を電車の中や芸者置屋で平気で語り合っていたという話が伝わっている。
その事実は海軍軍人の奢りと同時に、情報管理に如何にも疎いというれっきとした証拠なわけで、事ほど左様に我々は情報というものに無関心で、価値を認めていなかったわけである。
その裏返しの現象として、官庁でも民間企業でも、たいしたことでないにもかかわらず、何でもかんでも秘扱いにして、丸秘の判をめったやたら押印し、秘文書を扱っていることの優越感に浸る傾向があった。
これらの現象は、我々日本民族にとって、秘密とか情報というものの認識が根本から成り立っていないということである。
右を見ても左を見てもすべて日本人ばかりなのだから、話し合えば判る、というのが基本的な潜在意識になっているわけで、その中で敵情の収集などということは、汚くて卑怯な行為で、男子としては関わってはならないという認識が醸成されていたに違いない。
大日本帝国の陸軍海軍でも、情報収集などという職種は優秀な人材の行くべきところではないわけで、体に欠陥があってエリートコースに乗れないものが渋々行かされたセクションだったに違いない。
それが戦後になると、憲法で戦争放棄した以上、国民に対しても外国に対しても、隠すべき秘密などあってはならないし、あるはずもないという思考になったものと思う。
平和憲法の下では国益さえも不要と考えている節がある。
だとすると、そういう認識の人間には国益さえ判っていないということになり、国益の概念もないとなると、その中の人間の人権さえも知覚されないということになりかねない。
主権国家の中に住む人間には、その一人一人に基本的人権があって、そのすべての人が他国との関わりを考えた場合、国民一人一人の基本的人権を担保しているのが国益というものであるが、その国益という概念が失墜しているということは、その時点でその人が敵であり、非日本人であり、日本国あるいは日本民族を敵に売り渡す行為をしているということになる。
国益という言葉は、主権国家の存立あるいは自分の祖国という概念を容認するかどうかの言葉だと思う。
戦後の日本人は戦争を嫌悪し、遺棄し、嫌い、平和思考がきわめて強く、何がなんでも戦争をしてはならないという考え方になっているが、それが言葉だけの表層的な思考だったとしたら、これほど危険なこともない。
平和を希求するならば、その行き着く先は戦争を補リ下げて考えることになるはずで、ホットな戦争を掘り下げていけば、そこには情報というマグマが横たわっていることに気がつくはずだ。
この戦争と平和には、それにまとわりつく情報があり、その情報こそが戦争と平和を支配し、情報こそが国益と直結していることを知らなければならない。
今どきホットな戦争に訴えて国益を維持ないしは確保しようとうする統治者は知的に阿呆だと思う。
ホットな戦争ほど下劣で、卑劣で、最低の選択はないわけで、統治者として数々ある統治の選択肢の中でも最低、最悪の選択だと思う。
だから国家の首脳、あるいは統治者というのは、それを最後の最後の手段として最後までとっておくわけであるが、その前の段階で重要なことはいわゆる情報戦である。
ヒットラーが独ソ戦を仕掛けたのは独ソ不可侵条約の後であり、ルーズベルト大統領が日本を戦争に引き込んだのは対日交渉であったし、ソ連が日本に攻め込んだのも日ソ不可侵条約の有効期間中のことである。
事ほど左様に、情報というのはホットな戦争の帰趨を握る重要な概念でなければならないが、未だに我々はそれに対する認識が甘い。
国の存立、国家の有り体にとって、何が大事で何が不要かという峻別のないまま、ただただ川の中の浮き草のようにあっちの岸辺に寄ったりこっちの岸辺にさまよっているだけである。
たとえば、北朝鮮による日本人拉致の被害者が正確に何人かということが未だに確定していないということは、日本の情報収集能力が如何に稚拙かということだと思う。
そして、その事実、日本人が日本領土内から北朝鮮によって拉致されている、を当時の日本社会党が全く知らずにいたということは、主権国家の公党として実に情けないことであるが、我々にはそういう認識がさらさら無いではないか。
仮に、当時、政府が日本社会党にその事実を説明したとしたら、社会党はすんなりそれを受け入れるであろうか。
政府が、北朝鮮による日本人拉致の実態を正確につかんで、その情報を日本社会党に開陳したとしたら、日本社会党は北朝鮮の労働党と友党関係にあるのだから何らかのアクションをとってくれるであろうか。
恐らくそういうことは期待できないであろう。
問題はこの点にあって、政府がつかんだ情報を社会党に提供しても、社会党はそれを信用もせず、党利党略的な見地から逆に政府を非難しかねないわけで、国益ということを頭から否定している点にある。
だとすれば、期待できないことに、政府としても情報を漏らすことはないわけで、その情報は永久に眠ったままということになるであろう。
情報に対する認識不足というのは、何も政党に限ったことではなく、日本の社会そのものなかに情報というものに対する認識がないと思う。

「地球を斬る」

2008-03-04 07:56:11 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「地球を斬る」という本を読んだ。
著者は元外務省の職員で、鈴木宗男代議士の事件に関連して逮捕され、目下抗争中の佐藤憂という人物だ。彼は近年様々な本を次から次へと出版して世間の耳目を集めている。
この本はある意味で非常に優れている。
というのは、本論の後に自らそれを検証して補足を加え、ついでにキーワードの解説もしてあるから理解しやすく編まれている。
その論旨も極めて真面目で、十分に頷けるものであるが、意地悪な言い方をすればボヤキ節の感がしないでもない。
ボヤキという意味では私自身も同じ事をしているわけで、彼のみを責めるわけにはいかないが、彼自身が外務省の人間として旧ソビエットやロシア、あるいは中国という方面に非常に造詣が深いので教えられる部分が多い。
然し、いくら彼が外務省の人間であったとしても、今の情報化の時代では全く知らなかったことが突然現れるというような場面は少ない。
正確な人名や土地の名前はうろ覚えながら、事件そのもの、出来事そのものは何らかの形で知っていることが多い。
特別な関心がない限り、この本でいくら正確な人名や地名が記されていても、私自身が一介の市民である限り、この本を読んだところで、読み終わったら最後綺麗さっぱり記憶から脱落することは言を待たない。
彼の場合、外務省出身という関係上、外交に目が注がれることは致し方ないが、外交とか国防という問題は、極めて重要な問題だと思う。
主権国家の主権にモロにかかわっているわけで、今の日本のメデイアはそういう認識が薄れていると思う。今回、海上自衛隊の護衛艦、しかもイージス艦という最新鋭の軍艦が漁船と衝突して大問題となっているが、海上自衛隊の内部の情報操作に不手際のあったことは万人が認めざるを得ないが、その前に大型船の前を横切る漁船の非を、誰も口にしないことは実に不可解なことだといわなければならない。
小さな漁船の親子が死んで可愛そうだ、という同情論は致し方ないとしても、そういう同情論、つまり感情論で事の本質を見誤ってはならないことはいうまでもない。
ここで国防などという大義を振りかざす気はないが、大きい方にのみ監視義務を問い、小さい方には同情論でその非を問わないというのは明らかに事の本質をスポイルする行為だと思う。
事件が起きてその結果から、弱者のみを救済しようという思考は、明らかにものの本質を見誤る元だ。
その上、野党が直ちに石破防衛大臣の辞任を迫るなどということは、政治の態をなしていない。
こう言う事が、大人の政治家の思考の中にあるということ自体が、既に政治的に「12歳の子供」と言うほかない。
重大事件がおきたならば、当該の所管官庁は当然原因究明を真っ先にして、その事後策を確立し、再発防止まできちんと確立した後で責任を取るというのならば普通のことであるが、「事故が起きたから直ちに辞めよ」という思考が何処から出てくるのであろう。
大の大人が本気でこんなことを考えているのであろうか。
政治的なプロパガンダだとしたらあまりにも稚拙ではなかろうか。
外交の場面でもこういうケースが多々あるものと思うが、それを元内部の人間が見れば、切歯扼腕する状況が手に取るようにわかる。
私自身の事例からみても、組織の内部にいて日々仕事をしているのと、組織の外に出てそれを批判するのはかなり違いのあることは十分に実感している。
組織の外から自分の身を置いた組織を批判することは実に安易だが、自分が組織の中にあって、組織を改革することはほとんど不可能に近い話だと思う。
自分が組織のトップならばそれも可能であろうが、そうでもなく組織の中間で浮き沈みしている身分では、自分の属する組織を改革するなどということはほとんど不可能だと思う。
小泉純一郎が総理の時、郵政改革一本できたが、あれでも内部からの改革というのはあり得ないわけで、どうしても組織の外側からの強力な外圧で押さないことには、組織の改革などということはあり得ない。
国鉄の民営化でも、組織の内部からでは決してあり得ない話で、外部からの圧力があったればこそ成就できたわけある。
しかし、元外務官僚として、憂うべきことは外務省だけの問題ではなく、国益に直結した話なのだから、我々はもっと真摯に彼の話を受け取らなければならないと思う。
とはいうものの、彼が刑事事件の被告で、今なお抗争中であるという立場から考えると、彼の話といえどもどこまで信じていいのかわからないという点はある。
国益という言葉を出すと、いきなり帝国主義的な思考に陥りがちであるが、そのこと自体がすでに国益たるものが如何なるものか知らないということにつながっている。
国益というのは損得勘定ばかりではないはずで、ゲスな表現で言い表せば、狐と狸の化かし合いそのもので、そこには義理人情の通用する世界ではない、ということを肝に銘じなければならないはずである。
好意や善意や同情心の入り込む隙など微塵もないわけで、徹頭徹尾、合理主義で貫かれていることを知るべきである。
自衛隊の船が民間の漁船とぶつかったというニュースを見聞きした世界のインテリジェンスは、それに対して日本の政府が如何なる対応をするのか、あるいは日本の国民が如何なる反応を示すのか、鵜の目鷹の目で見ているのである。
日本のメデイアが一方的に自衛隊側の非をあげつらう、野党は一斉に大臣の更迭を騒ぎ立てる、こういう現象を見て、日本政府というのは国民に対してきわめて軟弱だという知見を得るのである。
そのことは、日本の国民を味方に引き入れれば、日本政府はどこまでも妥協をするに違いない、と外国のインテリジェンスは悟るのである。
それが証拠に、数年前の教科書問題でも、靖国神社参詣の問題でも、日本の内部に外国の主張を容認する非日本人が大勢いたから、あちら側からボールが投げ入れられたわけである。
我々は、戦後の憲法で武力の行使を否定しているわけで、ならばこそインテリジェンスには細心の注意を払ってメデイアも報道しなければならないはずであるべきところであるが、そういうことを考えてもいない。我々は戦争放棄しているから、日本を貶めようとする他国などあるはずがない、という思考に凝り固まっているが、これほどの無知蒙昧も他にないわけで、こういう無知が先の大戦に日本を引きずり込んだものと考えざるを得ない。
相手を知り己を知ることが如何に大事かいうことが我々にはわかっていない。
日本の知識人は、西洋のもの、あるいは外国のものを読んで、書物から得た知識が教養として最高のものだという認識から脱しきれていないが、それはあくまでも外皮としての表層面のことで、その下には何が隠されているのかまで考察する能力に欠けている。
像の一部分のみを撫で回して、それで全体像を想像で作り上げ、判ったような気でいるところがある。
その意味で、外務省というのはインテリジェンスの最前線にいるわけで、外国の事象の表層の面を撫でる能力には長けているが、表層の下には何が隠されているかというところまで知恵が回っていない。
これを指摘するのは、本来ならば知識人と称する大学教授や評論家というべき人々のはずであるが、このクラスの人々は、そのことごとくが反政府のポーズをとっているので、真の国益という観点でものを見ない。きれいな言葉や、きれいな理念、あるいは耳さわりのいい美辞麗句で、八方美人的に誰をも傷つけないような言辞を弄するので、世論そのものがいびつになってしまう。
世の中、特に外国との関わりでは、きれい事や、美辞麗句や、人道的見地とか、善意、あるいは好意、あるいは同情などという倫理は通用しないが、我々の側はどこまでもその非情さに気がつこうとしない。
自分が倫理観に基づく行為・行動をすれば相手はきっと理解してくれるに違いない、という思いこみに浸っている。
相手は、利用できるものは何でもとことん利用して国益につなげようと虎視眈々とその機会を狙っているのに、我々の側はそういう相手に協力すれば、相手はそれに答えてくれると心から信じ切っている。
このことは、敵を知り己を知ることと正反対の行為で、両方とも知らずにただただ自分の思いこみから抜け出ていないということでしかない。
佐藤憂の言わんとするところは、そこにあるのだろうけれど、何しろ刑事事件の抗争中の人物の言ともなると、我々の側として一歩引いた見た方をしなければならない。
頭から信じるべきかどうか、眉につばをつけて考えなければならない。
これは明らかに一種の偏見であり、形を変えた差別意識であろうが、この偏見あるいは差別意識というのは、個々の人間の内側からの衝動でもあるわけで、それを駄目だと糾弾することは、逆に個人の思考信条の自由に反することにもなると思う。
生きた人間ならば、個人の好き嫌い、あるいは信ずる信じないという心の内面を主張しても当然許されるべきことだと思う。

「ナツコ」

2008-03-03 18:05:55 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「ナツコ」という本を読んだ。
サブタイトルでは「沖縄密貿易の女王」となっているが、そんなにおどおどしい物語ではなかった。
終戦直後の沖縄を生き抜いた金城夏子(旧姓、宮城)という女性の自叙伝という類の物語である。
この女性が戦後の混乱、これは沖縄だけの問題ではないが、を生きんがために法の網を掻い潜らざるを得ず、その苦難は筆舌に尽くしがたい、ということが強調されているが、それは私に言わしめれば沖縄だけの問題ではなかったと思う。
戦後の混乱というのは日本内地でも沖縄となんら変わるものではなく、ただ沖縄というのは海の国であって、海が主体という意味で船に頼らざるを得ず、その意味から密貿易という表現になるのも致し方ない。
沖縄の地勢的な位置というのは太古から変わらないわけで、如何なる時代においても主権国家の辺境という位置は変わりようがない。
中国に属しても、台湾に属しても、日本に属しても、如何なる国に属しても辺境であることに変わりはなく、今日、極東の要石としてアメリカ軍の基地が広大な土地を占めているとしても、その置かれた地勢的な条件からの宿命だと思う。
沖縄を語るとき必ず出てくるキーワードが「鉄の暴風」という言葉であるが、この言葉を出すことによって沖縄は特別に悲劇的な場所だという印象を強調するが、それは沖縄人の思い上がり以外の何物でもない。
内地の東京大空襲をはじめとする各都市の空襲や、広島、長崎の原爆のことを思えば、沖縄だけが特別に悲劇的であったなどとはいえないはずだ。
その意味からしても、戦後という時代は日本の全土が廃墟であったわけで、その中で生き抜く、生き残るということはまさしく原始人並の生き様であった。
経済の原則などというものは存在し得ず、身の回りのものを物々交換で生きなければならなかった。
法を遵守していればまさしく餓死あるのみで、現実にその通りのことが起きているわけで、その意味でその時代の生き様を密貿易と表現することは酷な言い方ではないかと思う。
内地でも買い出し、あるいはかつぎ屋、ブローカーなどという表現は日常的に使われていたわけで、それを違法なことだから糾弾するなどというイメージはほとんど認識されていなかったはずだ。
そういう行為が違法という認識は持っていただろうが、それをしなければ生きておれなかったわけで、背に腹は変えられず、心の隅で罪の意識にさいなまれつつしていたに違いない。
戦後のある時期、乗り物という乗り物にはあらゆる場面でかつぎ屋という風情の人たちが乗っていた。
年の頃は50代から60代の田舎のオバサンという風情で、背中に大きな篭を背負い、おそらく重さは50キロ以上あったのではなかろうか。
そういうものを持ち込んでは列車に乗っていた。
沖縄ではこれと同じことが船でなされていたわけで、海が介在しているので海に依拠する限り、国境というのもあるようでないも同然なことは言うまでもない。
ただただ官憲にさえ捕まらなければ何処までいっても自由が保障されていたわけである。
ただし命の保証はないわけで、そのリスクを問わなければ後は勇気だけが後ろ盾だったに違いない。
そういう意味で、日本内地ではかつぎ屋と言われたことと同じことが船によってなされたわけである。
このかつぎ屋はある意味で実働部隊であるが、当然そういうものが暗躍すれば、それを束ねる組織、あるいは采配する組織が必然的に生まれるわけで、その元締めとして手腕を振るったのが宮城夏子、結婚後は金城夏子ということであった。
戦後の混乱の時期にこういう商売で資金を得、それをその後の発展につなげた事業家は大勢いると思う。
今の大企業も元をたどればこういう闇商売に行き着くケースも多いと思う。
戦後立ち上がった企業で、今成功している企業は、その大部分がこうしたことに手を染めていたに違いない。闇商売、ブローカーというものに対して我々はあまり好感を持って口にすべきことではないと思われているが、ビジネスというものはもともとこういうことだと思う。
世界史で習う大航海時代というのは、一言でいえば国家主体のブローカー時代であったわけで、それこそがビジネスの本質であるものと考える。
問題は、そういう行為で資金を得ながら、それが途中で頓挫して、それ以上の発展が止まってしまって、しばらくすると零落してしまったという現実である。
この本の場合は、ナツコ自身がわづか38歳という若さで死んでしまったので、必然的にそれが適わなかったということも言えるが、企業というのは個人の持ち物ではないはずで、創業者が死んだとしても、企業そのものは生き残ってしかるべきものだと思う。
理屈はそうであろうとも、そうならないのが人の世の常で、今、大企業といわれる会社はそこを上手に生き残ったということであろう。
後継者の養成に成功したということであろう。
私自身は事業の才覚がからっきし無いことを自分でも自覚しているから、今までにおいて金儲けをしようなどと考えたことは一度もない。
然し、日々の生活の中で私の周囲の中小企業の事業者を見ていると、明らかに「あれでは事業が伸びない」と思われるケースがあまりにも多い。
儲かったときは大判振る舞いをして、そうでないときはすぐさま借金に駆け回るでは、事業そのものが最初から綱渡りしているわけで、まるで競輪・競馬をしているのとなんら変わるものではない。
この本の主人公も、ある意味で自叙伝という体をなしているので、本人に好意的に描かれており、人にむやみやたらと資金援助し、政治家にも入れあげているが、この辺りにナツコ自身の善意と理念が垣間見れると言えば表現はやわらかいが、ビジネスが善意や好意で左右されてはビジネス足りえないと思う。
その意味で私の周りの中小企業の面々と大して変わるものではない。
沖縄でトップのブローカーに上り詰めても、事業を継続できなかったという点では、栄華盛衰を地で行ったようなものであるが、それは人を見る目が無かったということに尽きると思う。
それと自分の実績の上に胡坐をかいた独りよがりの思考であったのではないかと思う。
戦後の混乱も落ち着いて正業に事業転換をしようとしたときに、子飼いの人間をトップに据えず、外部から人を引っ張ってきた点に内紛を誘発する要因があったと思うが、これは事業者としてはなはだ難しい問題であろうと思う。
事業が発展的に規模拡大するときに、子飼いの部下の中からそれに対応するだけの能力があるかないかの見極めは、事業者、経営者としては極めて難しい選択眼を要求される。
このナツコは昭和29年に38歳で没しているが、私の母もこの2年前、昭和27年に没している。
母の生まれた年が大正元年だからこのナツコとほぼ同世代を生き、重ねた年もほぼ同じだったが、やはり母の死因は結核であった。
ナツコの場合は皮膚がんということであるが、この時代の病気は死に直結していたことに変わりはない。
今、私の年でこの時代を考えてみると、実に大変な時代であったと思う。
その意味では沖縄でも内地でも全く変わりはないと思う。
内地だから恵まれていたなどということはなかったと思う。
こういう原始時代に等しいような環境を生き抜くには、人間の知恵だけが頼りだったのではなかろうか。
沖縄でも内地でも明らかに無の状態であったわけで、原始時代となんら変わることがなく、そこで生き抜くためには人間の知恵以外に頼るものがなかったものと想像する。
生きんがために体以外に資本はなく、そういう状況下で病に倒れるということは、即、死に直結していたわけだ。
この中で、ナツコがペニシリンやストレプトマイシンを闇で流していたという記述を読んで、結核で母をなくした私としては複雑な気持ちにならざるを得ない。
然し、人が病で死ぬということは、ある意味で天命でもあったわけで、そのときに死ぬべき運命であったものと思う。
あまりにも達観しすぎだろうか。
ナツコにしろ、私の母にしろ、死んだ年が38歳と40歳という短い人生であった。
本人たちはもっともっと生きたかったろうとその無念さは十分にわかる。
子供たちの成長を見届けてから逝きたかったのではなかろうかと、その無念さを思うとなんとも言葉に言い表せないものを感じる。